2018年1月30日火曜日

秋津とは? 〔160〕

秋津とは?


さて、前記で古事記最終章に到達したことを書いたのだが、伊邪那岐・伊邪那美に習ってやはりグルグル回りそうである。古事記新釈などと荷の重い作業なのであるが、これも一応神代から最終章まで通して記述した。ところが最も手を焼いたのが神代の神名なのである。現在一部解き初め順調に進んでいるとはいえ、まだまだ公開するには至っていない。

次回あたりからボチボチと載せるつもりなのだが、少々時間が掛かりそうでもある…と、まぁ言い訳も込めて少し閑話休題でアラカルトに話題提供してみようかと思う。あっちこっち飛んだ話になるのだがお付き合い頂けたら、である。

で、何を選んだかというと首記の「秋津」である。伊邪那岐・伊邪那美の国生み及び神生みで登場する「大倭豊秋津嶋」と「速秋津日子神・速秋津比賣神」に含まれた文字である。古事記の記述は国生みが先にあって後に神生みされるのであるが、文脈は先に「秋津」があって国生みによって登場するのが「豊(日別の)秋津」であると思われる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ水戸神に固有な名前を明かし、古事記の主舞台である「大倭豊秋津嶋」の名前に用いるのだから重要な地名と思われる。がしかし、この謎は全く手掛かりなしである。通説はこの島を本州に比定するのだから何をか言わんやで、秋津の意味などどこ吹く風の秋の空って感じであろう。参考にもならないので根本から見直す羽目に・・・。

「大倭豊秋津嶋」が何処であったかは既に幾度か記述したように神武天皇の東行ルート、畝火山の比定(香春岳)、雄略天皇が吉野で叫んだ蜻蛉島など申し分無しで比定できる。福岡県東北部の貫山~大坂山山塊と福智山山塊を中心とした地域である。詳細はこちら

速秋津日子神・速秋津比賣神

雄略天皇のトンボの話は別にして何故「秋津」と表現されるのか全く不明であった。上記の「速秋津」が解ければ何かのヒントが得られるのではなかろうか?…と思いつつ見直してみよう。海神:大綿津見神に続いて生まれる水戸神である。「水戸」も「港」と解釈してしまっては伝わらない。

「水戸」=「内海と外海との境」と解釈する。古代は縄文海進により多くの内海、汽水湖が形成されていたと推測される。またそれらの地点は交通の要所でもあり、海と川の混じり合う豊かな水辺でもあったと思われる。

その神に具体的な名前が付けられている。それは何処を指し示しているのであろうか?…神生みの時期に当て嵌まる地があるのか…「天」に次ぐ古事記の重要な地点であろう。下図を参照願う。





「秋津」の「秋」=「禾+火」と分解し、略等間隔で海に突き出る三つの岬を「火」の頭の部分に模したと推測される。後に登場する「畝火山」の表現に類似するものであろう。「稲穂の茂る火」の解釈もあり得るかもしれない。上図(含拡大図)から判るように現在の標高で推定して草崎に連なる山稜線の両脇は大きな汽水湖を形成していたと推測される。


津=氵(さんずい)+聿(ふで:毛の束=穂)

が原義である。「水が集まる(められた)」様を表現するのに用いられていると思われる。「海と川とが入り交じるところ」と解釈される。

この地は邇邇芸命が降臨した竺紫日向に隣接し、後に神倭伊波禮毘古が訪れた国「阿岐(アキ)国」と呼ばれたと読み解いた。現地名は宗像市の赤間である。赤間は元は「秋郷」と呼ばれたところととある史書が伝える。「秋」の名前が全てに繋がっていることが伺える。

文字列の最初に付く「速」は何を意味しているのであろうか?…海流が速いので付けた…ではなかろう。「秋」と同じく「速」→「辶+束」=「道+束ねる」と解釈する。これが「速い」の原義である。


速秋津=速(束にした)|秋(火の)|津(海と川が入り交じる)

…「火の字の三つの頭の部分を束ねた津」と紐解け、「火の津」の日子(男)神・比賣(女)神と読み下せる。上図に示されるように現在は長い浜で繋がれていることが判る。

いずれにしても「速」「秋」「津」の文字が持つ意味を紐解いて初めて浮かび上がり、それらが全体として矛盾のない解釈になっていることが判る。既に幾度か述べたが古事記は文字の原義、というかそれが作られた時の意味を用いて表現しているのである。漢字の原点を知る上に置いても実に興味深い書物である。


大倭豊秋津嶋


いよいよこの島の名前を紐解いてみよう。「速」はなし。「豊(日別の)秋津」上記の二つの山塊に「火」はあるのか?…下図を参照願う。


そういう目で眺めてみると…

①「火」の頭の部分
②「禾」の頭の部分
③「禾」の真直ぐ延びた「木」の部分
④「火」の中央から下部

…を示しているように見える。「秋」の字を入れてみると…、

<大倭豊秋津嶋>
山稜を文字で表すことは既に幾度か遭遇した。神大根王(八瓜入日子王)神櫛王那爾波能佐岐などがあったが「秋」=「禾+火」への分解がなかなか気付き難かったということであろう。

纏めてみると…「大倭」=「偉大な倭」として…、

豊秋津嶋=豊の方にある秋津(火の津)の島

…と紐解ける。現在の宗像市の「秋津」から生まれた「豊秋津」の表現と結論付けられる。上記でも少し触れたが、「秋津」の由来が語られた例は極めて少ないようである。上田恣さんが稲作伝播の地としての宗像(秋)と豊秋津嶋を関連付けられている例がある(サイトはこちら)。

「大倭豐秋津嶋」の別名を「天御虛空豐秋津根別」と記述する。国生みのところで紐解いたが…、


天御虛空豐秋津根別=天が御す、今は何もない豊秋津の中心の地

…の解釈が実感として受け止められる。仁徳天皇紀になって「蘇良美都=天の下(世界)が満つ」と表現するのである。実によくできた筋書きである。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

2018年1月25日木曜日

宗賀の天皇:古事記最終章 〔159〕


宗賀の天皇:古事記最終章


建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰から始まる宗賀の地、凄まじい発展を遂げた。造化三神の名前に刻まれた「巢」の地形を見事に具現化した例なのであろう。繰り返しになるが「巢=州」である。人が寄り集まり住まう場所を意味する。古事記が語る世界はこの「州」に寄り集まった人々の物語なのである。

本ブログは宗賀の地を現在の福岡県京都郡苅田町、そこに流れる白川流域と比定した。今も見事に整地され治水された広大な水田を伺い知ることができる。水晶山から流れ出る豊かな清流(白川=石河)はカルスト台地平尾台から流れ出る清流(小波瀬川=吉野河)と合流し、難波津(当時)に注ぐ。

谷間の川を活用した「茨田(松田)」=棚田から下流へと水田の開拓が進み、中流域へと進展していったことを伝えている。縄文海進の後退及び沖積の進行を待たなければそれ以上の開拓は、重機のない時代には到底叶えられることではなかったと推測される。古事記の記録は、まだまだ中流域の未開な部分を残しつつも、必然的に終わりを告げる時が近付いて来たのであろう。

宗賀の天皇とは橘豐日命(用明天皇)、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)である。一部紐解いたところもあるが、修正も含めて彼らの宮、稜墓の場所を纏めて述べてみよう。


Ⅰ. 橘豐日命(用明天皇)


古事記原文…

弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。

宗賀の西側、青龍窟と呼ばれる鍾乳洞がある山から流れ出る複数の川が作る「橘」が所縁の「
橘豐日命」と紐解いた。僅かな期間であったが「池邊宮」に座したと記される。前記したように上宮之厩戸豐聰耳命(後に聖徳太子と言われる)の父親である。また當麻之倉首比呂の比賣を娶り二人の子が誕生している。これも既に述べた。

「池邊宮」は何処にあったのか?…考察してみよう。何の修飾も無く宮の名前が記される。倭国の中心、香春岳の周辺にあったと思われる。池が現在まで残っているかどうか確証はないが、下記の地図に記載されるところに推定できそうである。現地名は田川郡香春町香春の中組である(二つ目の下図も併せて参照願う)。



天照大神と須佐之男命の宇気比で誕生した天津日子根命が祖となった「倭田中直の場所を現在の田川郡香春町香春の中組と比定した経緯があった。それ以後古事記に登場することなく来たが、香春一ノ岳の南西麓のこの地は静かな佇まいを保っていたのであろう。また「許呂母」と表現され、大中津日子命(景行天皇の弟)が祖となったところでもある。

余談ぽくなるが、この二人の命の名前、活躍度の類似性には少々驚かされる。「◯◯◯津日子」の語幹にはそんな意味が込められているのかもしれない。思い出せば邇邇芸命にも付いて…「天津日子番能邇邇藝命」…いた。

さて、上宮之厩戸豐聰耳命については詳細を既に述べたが、その兄弟については簡略に結果だけに止めていた。補足して比定の根拠を列挙する。下図を参照願う。



<間人穴太部王と御子>

兄弟は三名「久米王、次植栗王、次茨田王」である。母親の間人穴太部王は石上穴穂宮近隣に居たと推定したことから上宮之厩戸豐聰耳命と同様のその近辺に住まっていたと思われる。


久米王・植栗王・茨田王

「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米の産地の名残ではなかろうか。「植栗王」は「栗」の象形とそれを植える「鋤」の象形が組み合わさった地形が見つかる。穴穂宮の近隣(田川市夏吉)である。「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の棚田の象形である。現地名福智町伊方の長浦が該当するのではなかろうか。

葛城の近隣の地であるがこれまでには登場しなかったところである。田川郡福智町と田川市夏吉との境に位置する。古代の統治領域の境が今に残ることを示しているのではなかろうか。丸邇と春日の境に類似して興味深い。あらためて地形が時を経て残存する確率の高さも示している。変形してしまわない内により精度の高い比定が行われることを願うばかりである・・・。

陵墓は前記の通りである。宮も御陵(当初の)も倭の中心地、香春一ノ岳の近隣である。天皇家が内向きの行動を取るようになっていたのではなかろうか、決して領土の拡張指向とは思われないのである。「石寸掖上」については前記を参照願う。


Ⅱ. 長谷部若雀天皇(崇峻天皇)


兄弟の日嗣になる。がしかしこの天皇の治世も短いものとなったようである。

弟、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)、坐倉椅柴垣宮、治天下肆歲。壬子年十一月十三日崩也。御陵在倉椅岡上也。

座したところは倉椅柴垣宮とある。「倉椅」は既出で香春一ノ岳の西麓、牛斬山に至る谷間を示すと思われ、「石寸掖上」(五徳川沿い)に当たる。反正天皇の「柴垣」宮、「並び守る」と解釈した。先人の墓所の近隣で並び守るという意味が込められている思われる。特定するには情報が少ないが、下図のような配置になるのではなかろうか。



石寸掖上稜と香春岳山稜を背にして並んでいる位置である。またその間に小さく山稜が延びていて「垣」を作っている。実に反正天皇の柴垣宮に類似した様相である。この紐解きによって「柴垣」の意味が明確になり、この得意な地形を満足する場所の特定の決め手になろう。

ならば既に比定した「難波高津宮」の場所を確信することができる。やや調子乗って…難波宮の地図を再掲する。



陵墓は「倉椅岡上」とのことである。特定は困難であるが、上図の五徳と書かれたところの近隣ではなかろうか。そして最後の天皇の記述になる。


Ⅲ. 豐御食炊屋比賣命(推古天皇)


妹、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)、坐小治田宮、治天下參拾漆歲。戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。

「小治田」は宗賀にある。地図を参照願う。下図の「小治田王」が坐したところに重なると思われる。三十年以上も君臨したのであるが、古事記は語ることを辞めた、ということであろう。



陵墓は初め「大野岡上」とある。おそらく香春町高野の岡の上と思われる。移して科長大陵」にあると言う。上図の行橋市入覚であろう。



三十七年もの長い期間治世に携わったと伝える。その間に様々な出来事があったのだろうが、全く語られない。倭国の大変曲点、だが、決して途切れたわけではない。その繋がりは残念ながら今のところは闇の中である。


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

2018年1月23日火曜日

寸=尊? 〔158〕

寸=尊?


用明天皇は僅か三年ばかり天下を治められて崩御される。皇位継承が変則になるが葛城一族の持ち回りの感じで古事記はその役割を終える。

古事記原文…

丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。

後に移った「科長中陵」は前記の敏達天皇紀に出てきた「川內科長」の近隣と思われる。「中陵」とあるからには西側の山腹中程に近付いたところであろう。下図を参照願う。墓所がこの近辺に集中してきたようである。



当初の墓所石寸掖上」は何処を示すのであろうか?…「掖上」は「葛城掖上宮」「掖上博多山上」で登場した。福智山山塊の深い谷筋を「掖=脇」と見做したと紐解いた。となると「石寸」は「石」が絡む高山を意味すると判る。「寸」に「山」の意味があるのか?…通常ではあり得ない。

仁徳天皇紀に寸河」の記述があり、その中に「寸」の文字が出現した。「キ」読むとのことであった。一本の高い木があって、その影が朝は淡道嶋に届き、夕には高安山を越えるという神話的記述とされている段である。勿論、通説の大阪難波~淡路島間の紀伊水道を跨ぐ舞台が揺るぎないものならば、そうであろう。古事記原文…

此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。

この説話は現在の北九州市門司区大里~下関市彦島間の関門海峡を跨ぐ舞台として紐解いた。全く有り得ない話ではないようである。因みに最短距離幅で紀伊水道は約10km、関門海峡は約1kmである。

一高樹」の位置は作図上求めることができ「免寸河」は現在の「戸上川」と推定される。=斗=戸」としてその斗にある川と解釈できる。がしかし「寸」の意味は明瞭ではなかった。「寸」が「山」の意味を持つならば「寸河」の解釈も極めて合理的になる。「斗の山」とできれば、「寸河」は「斗(戸)の山」から流れ出る川として紐解ける。

状況証拠的にはほぼ満足いくことになりそうなのであるが、やはり「寸」は一体何を表しているのか?・・・、


寸=尊

…即ち、「尊」の略字と紐解く。「神=人知を越えた尊い存在」これらを合わせれば…


寸=尊=神=上

と表現していることが判る。これで全てが繋がったのである。


石寸=石上
免寸=斗上=戸上

…「免寸」は「鳥髪」に繋がる。須佐之男命が降臨した地である。伊邪那岐・伊邪那美が国生みの後に神生みを行い、そこに「大戸日別神」が誕生する。「斗=戸」の表現が既に行われていたのである。自在な文字使い、だがそこに横たわるルールは不変である。地図を参照願う。「石寸掖上」は…、


…五徳川の谷間を示す。おそらく中央(真行寺)辺りかと思われる。

自由だが、そこにルールがある。再確認の古事記であった…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。














2018年1月22日月曜日

當麻の地、その全容 〔157〕

當麻の地、その全容


Ⅰ. 當麻勾・當摩之咩斐


當麻(摩)の文字が古事記に初めて現れるのは開化天皇の御子、日子坐王が山代の苅幡戸辨を娶って誕生した小股王が祖となったという以下の…

「日子坐王、娶山代之荏名津比賣・亦名苅幡戸辨生子、大俣王、次小俣王、次志夫美宿禰王」・・・「小俣王者、當麻勾君之祖」

…記述である。既に記述したところも含めてこの地の全容を纏めてみる。この紐解きのポイントは「麻」が略字になっていることにあった。

「麻」=「魔」とすると…、


當麻=當(向き合う)|麻(魔:人を迷わすもの)

…「修験場」を意味する地名と紐解ける。「勾」=勾(の字に曲がった地形)」を加えると…、


修験場の傍らにある勹の字の地

…と解釈することができた。現地名:直方市上境にある水町池を囲む山稜である。英彦山系修験場があり、多くの修験行者が居たと伝わる福智山・鷹取山の裾野に当たる。現在の奈良県葛城市にある當麻寺も役行者が絡むと言う。<が中心地;図中右上方向に福智山・鷹取山> 現在は三つの行政区分の境となっている。



次に天之日矛の子孫である「淸日子」が當摩之咩斐」を娶る記述に現れる。人名であるが地名でもあると考えて紐解いた。「咩」=「メエー:羊の鳴き声」と辞書にあるが、咩」=「口+羊」と分解し、羊の口の形の象形であるとすると…、

咩斐=咩(羊の口)|斐(挟まれた隙間)

…と判った。上図の水町池の東端、おそらくは当時の池は現在よりも小さく、羊の舌先の地も広がっていたであろう。現地名は直方市上境である。

さて、當摩之咩斐は「酢鹿之諸男、次妹菅竈上由良度美」の二人を誕生させる。どんな意味を含めているのか紐解いてみよう。「酢鹿」とは?…「酢」=「酒を皿に作って、「す」にする」とある。「酒」がキーワード…上記の水町池は「酒折池」であった。「酒=坂」である。「酢」=「酒(坂)+乍(たちまち、直に)」とすると…

酢鹿=酢(短い坂で直ぐに)|鹿(麓:ふもと)

の地形象形ではなかろうか。「諸男」=「守男」でその地を守護する人を意味すると思われる。上図の水町池に至る二つの坂道、それを取り締まっていたと解釈される。

菅竈上由良度美」は何と解く?…「菅」=「酢鹿」上記の水町池に向かう坂であろう。「竈」は何を示すのであろうか?…竈の形をした山、丘と紐解くと「羊の舌」が該当するのではなかろうか。二つの坂に挟まれた小高い丘を「菅竈」と表現したと推定した。



釡の上方の蒸気が立つようにユラユラとした態度(様子)が美しい…その血筋が葛城の高額比賣命に受け継がれ、更に息長帯比賣命に・・・ちょっとイメージが違うかも?…當麻の血が流れて行ったことは間違いないようである。 


開化天皇紀に日子坐王の子孫が旦波国、多遲摩国などに広がっていく様が語られている。小俣王もその一人で「當摩」に移る。「淸日子」の居場所を修験場・求菩提山の麓の築上郡築城町寒田とした。修験場繋がりについては憶測の域をでないが、神の畏敬を通じた古代の人々の交流を伺わさせるものではなかろうか。

Ⅱ. 當麻之倉首比呂

橘豐日命(用明天皇)紀に最後の當麻関連事項が記述される。古事記原文(抜粋)…、

娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。

「倉首」はそれぞれが既出で、合せると…、


倉首=倉(谷)|首(凹形の地)

…と解釈でき、谷のような凹の地を示していると思われる。「呂」の地形象形を下記のようにすると…、


比呂=比(並ぶ)|呂(田が重なる様=棚田)

…「棚田が並んでいる様」と紐解くことができる。これらのキーワードで探すと…當摩北部の谷が適すると思われる。現地名は直方市永満寺である。

比賣「飯女」の「飯」=「食+反」、更に「食」=「山+良」と分解する。伊邪那岐・伊邪那美が国生みした「讚岐國謂飯依比古」の「飯」と同様に解釈して…、

飯=なだらかな山麓


…と読み解く。上記のなだらかな谷の様子を示していると思われる。古事記中最後の「飯」の文字の出現、全て上記の解釈で地形象形されていたことが判る。見事な文字使いの一貫性である。

御子に「當麻王、次妹須加志呂古郎女」と記される。當麻王はその地の中心に居たのであろう。


須加志呂古=須(州)|加(増やす)|志(之:川の蛇行)|呂(棚田)|古(固:しっかり安定)

…とすれば「州があって川の蛇行が増すが棚田がしっかりしている」ところに住む郎女という意味ではなかろうか。同じ永満寺にある當麻の谷の出口辺りと推定される。



當麻の地が天皇家に深く関わっていたことが判った。現在から見れば修験の世界は遥かに過去の世界である。神仏習合後の修験道の原形、山岳信仰の時代である。古事記がその世界を垣間見せていることだけは確かなように思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。





2018年1月15日月曜日

難波王=漢王? 〔155〕

難波王=漢王?



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
敏達天皇が息長眞手王之女・比呂比賣命を娶って誕生した忍坂日子人太子について前記した。天皇になれなかったこの太子の娶り関係が記載されており、古事記の範囲外となる舒明天皇に繋がる系譜が記述されていることを述べた。太子の娶りは更に…、

又娶漢王之妹・大俣王、生御子、智奴王、次妹桑田王又娶漢王之妹・大俣王、生御子、智奴王、次妹桑田王。

…と続けられる。「大俣王」は記述の流れから敏達天皇が春日中若子之女・老女子郎女を娶って誕生した「難波王、次桑田王、次春日王、次大俣王」に記載された王と推定される。ここで問題である。「漢王」とは誰か?…老女子郎女が産んだ敏達天皇以外の子?…などネットを調べた限りでは不詳の範疇に入る。これを紐解いてみよう。


Ⅰ. 春日中若子之女・老女子郎女の御子


この「老女子」の出自は詳らかではないが、居場所は春日の中央の地に居た(現地名田原郡赤村内田中村辺り)と推測される。御子の難波王、桑田王、春日王、大俣王も母親の近辺に居たと思われる。

難波王の「難波」とくれば難波津、ではなかろう。顕宗天皇が娶った石木王之女・難波王に出現した。彦山川がほぼ直角に曲がる場所の近隣を示すと紐解いた。大河が大きく蛇行する場所を示すところと思われる。全く類似する場所が犀川(今川)が直角に曲がるところがある。交通の要所の裏側に当たる場所であろう。

桑田王の「桑田」は「木=山稜」の象形と思われる。桑のように複数の枝葉を持つ場所である。赤村内田門前辺りがその地形に当たると推定される。もう一つ該当すると思われるところが見つかるが「桑田」は二度出現する。おそらく残りの「桑田」ではなかろうか。下図を参照願う。



春日王はそのまま春日の中央、赤村内田中村辺りと推定される。最後の「大俣王」は異なる場所で頻出するが、地形象形上類似のところが多くあったことを示しているようである。春日の地で「大俣」を求めると、現在の赤村内田内田原にある山稜が分岐した場所と思われる。纏めて下図に示した。



時代は全く異なるが前記した物部氏の祖「宇摩志麻遲命」が居た場所に隣接する。山稜の端で遮られた区域である。いつもことながら地域の命名に対して実にきめ細やかな記述がなされている。「難波王」の場所は環境的に極めて厳しいところであったと推測されるが、この期に及んで登場するには意味があるのであろうが、先に進もう・・・。

「大俣王」の地域はそれなりに広く、幾度か他の名前に比定しかかった場所なのであるが、ここで登場した。標高も高く、かつ治水に必要な川が見当たらず、従って池の造作もままならず開拓が遅れた理由となったと思われる。治水に関して山代の「大俣」とは大きな相違があったと推測される。

この「大俣王」を忍坂日子人太子が娶ることになり、御子が誕生する。

Ⅱ. 漢王之妹・大俣王


春日中若子之女・老女子郎女の比賣「大俣王」であることは間違いないと思われる。そして兄(姉)の「漢王」と記述される。大俣王は末っ子であり三人の兄妹(難波王・桑田王・春日王)がいた。古事記はその中に「漢王」とは記述しない。がしかし、前記で「財郎女」と「橘之中比賣」と異なる表現を用いた例がある。今回もそれに該当するのでは?…と考えて紐解いてみる。

「漢」の意味はどうであろうか…サイトの解説を引用すると…


これは長江の最大の支流の川の名前(漢水)を指しており、中・下流の流域では都市は川床(川底)よりも低い位置にある為、川の氾濫により大きな災難をもたらします。また、この地を支配した劉邦(紀元前256-紀元前195年)は川の名にちなんで「漢」という国号を定めました。(劉邦は漢の初代皇帝)その後、漢王朝400年の実績を踏まえて「漢」は、中国の地を指す代名詞のように用いられるようになりました。そして、中国に住む人を「漢民族」と呼ぶようになり、中国の人達が使う字の事を「漢字」と呼ぶようになったのです。

…氾濫する川に関連する文字である。


漢=大きな災難をもたらす川

一気に結論に導くことができる。


難波王=漢王

「漢」は氾濫する川に対峙して除災を願う巫女の象形とある。ならば「漢王」は犀川(今川)の神の怒りを鎮める巫女であり、その居場所は現在の田川郡赤村赤の油須原にある秋葉神社辺りと推定される。「難波」「漢」異なる表記は意味を持って使われていたと判る。

御子は「智奴王、次妹桑田王」とある。「智」=「神前で畏まって教えを得る」ところ(下図大祖神社)、「桑田」は上記でもう一方の地形のところである。現地名は共に田川郡赤村内田である。



「漢字」とは…Wikipediaによると…


漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えた。

現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われる。20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い。


象形することを基本とするこの文字体系は実に多様であり、特異である。近年になっての藤堂明保、白川静ら諸賢の解釈に負うところが多く、その分野の研究が更に進展することを願うところである。今回古事記を紐解き始めて古代の人々が如何に自由闊達に「漢字」を使っていたかを垣間見ることできたように感じる。

古事記は紛うことのない史書であるが、漢字の原点を示すことにおいても優れた書物であると思われる。限られた文字数ではあろうが、そんな切り口で纏め直してみるのも楽しい作業となるように感じられる。

さて、「漢」の文字は古事記中に幾度か出現する。後日に調べてみよう・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。




2018年1月14日日曜日

伊勢大鹿首の比賣 〔154〕

伊勢大鹿首の比賣


沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。…<中略>…又娶伊勢大鹿首之女・小熊子郎女、生御子、布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王。二柱…。

「財」出身の敏達天皇の娶りと御子の記述に「伊勢」が登場する。前記近淡海国の「川内」の比賣と同じく后の居場所としては初めてのことである。「伊勢」の文字は早期に出現するのであるが、比賣を送り込む神の地であって、比賣を求める后の地ではなかったのであろう。

紫川の中流域、当時の海面からすると下流域に入るところと推測される。上流からの開拓が進行しつつあった状況を示している。元々地形的には決して広い平野が広がっている場所ではない。福智山山塊の東北の山麓に当たり、大河の紫川に接する。

沼名倉太玉敷命は「他田宮」に座したという。この宮の名前も難解なのであるが、これは後日に記述しよう。まぁまぁの長きに亘って天下を治められた。皇位継承問題も一段落っていうところであえろうか…。伊勢の場所は既に比定してきたのであるが、それ以降の詳細となると甚だ情報に乏しい。さて、どんな状況なのか、紐解いてみよう。


Ⅰ. 伊勢大鹿首之女・小熊子郎女


「大鹿」は大きな鹿の生息地ではなかろう。「大鹿」=「大きな山の麓」…ひょっとすると鹿もいたかもしれないが…上記の如く伊勢がある福智山山麓を示していると思われる。「首」=「囲まれた凹の地」を示す。今に残る下関市彦島の「田の首」の表現に類似する。纏めると…、

大鹿首=大鹿(大きな山の麓)|首(囲まれた凹の地)

…と紐解ける。この特異な地形を求めると、現在の北九州市小倉南区蒲生にある虹山と蒲生八幡神社に挟まれたところと推定できる。採石場が近接し、かなり地形は変化しているが「首」の形を留めていると思われる。下図及び俯瞰図を参照願う。

「小熊子郎女」は紫川の蛇行の「熊=隅」、それが「小」=「小さく」、「子」=「成り切ってない」と記される。八幡神社の近傍であろう。御子に「布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王」が誕生する。

布斗=布を拡げたような柄杓の地

…「首」の中を示すと読み解ける。次いで「寶」=「宀+玉+缶+貝」と分解すれば…

寶=宀(山麓)|玉+缶+貝(宝:財)

…があるところ、と読める。別名の「糠代」=「小さな田」であろう。虹山の麓、紫川に接するところと思われる。纏めて示すと下図のようになる。


<伊勢大鹿首>
更に俯瞰図を示すと…



この時代になって伊勢の地にも御子を育てられる財力が蓄えられて来たのであろう。大河の紫川の下流域に属する地であるが、稀有な出来事と思われる。現在に至っては広大な耕地を有する中流域となっているが、未だ治水が及んでいなかったのであろう。遠賀川と同じく下流域の開拓はずっと後代になってからと推測される。

Ⅱ. 寶王・亦名糠代比賣命


敏達天皇の后と御子の記述は更に「息長眞手王之女・比呂比賣命、生御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王」と続く。息長一族の比賣を娶って「忍坂日子人太子」が誕生したと伝える。その彼が妹の「寶王・亦名糠代比賣王」を娶る記述がある。

日子人太子、娶庶妹田村王・亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇、次中津王、次多良王。

坐岡本宮治天下之天皇」後の「舒明天皇」(別書では田村皇子と記述)が誕生している。他に「中津王、次多良王」が生まれる。「中津王」は紫川と志井川との合流点近隣、「多良王」は「たらたらとしたところ」として現在の虹山北麓辺りと推定される。

忍坂日子人太子は皇位に就くことはなかった。宗賀一族以外であったからか、凄まじい宗賀の勢いを止められる者は居なかったのであろう。がしかし、御子が居た場所の詳細を示すことで宗賀の勢いもその限界に達していることを古事記は伝える。これが歴史の変曲点の背景である。

<田村王と多良王・中津王>




古事記は推古天皇まで、それが忠実に守られているようである。それ以降の天皇名は記述されない。「岡本」は何処であろうか?…何も修飾されずに記されるのだから…倭国の中心辺りで探索すると…、



上図中央部の一ノ岳東麓、香春町本町、その下にある(山王神社)辺りではなかろうか。「沙本」を現在の田川郡赤村内田の「本村」に比定した時に類似して興味深い。

余談になるが…忍坂日子人太子の系統から天智天皇、天武天皇が誕生することになる。宗賀一族外の血筋が今に繋がっていると記述される。そして倭国は変貌していくのであろう。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。







2018年1月13日土曜日

宣化天皇:后の川內之若子比賣と御子 〔153〕

宣化天皇:后の川內之若子比賣と御子



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
第二十七代安閑天皇(廣國押建金日命)は御子も無く逝去した。それを引継いだのが弟の建小廣國押楯命、バックアップがないといつ途切れるかわからないという危なっかしさである。既述は極めて簡略であるが、初出の文字が多数並ぶ。座したところなどは既に記したが再掲しながら紐解いてみよう(参照)。

古事記原文…

、建小廣國押楯命、坐檜坰之廬入野宮、治天下也。天皇、娶意祁天皇之御子・橘之中比賣命、生御子、石比賣命訓石如石、下效此、次小石比賣命、次倉之若江王。又娶川之若子比賣、生御子、火穗王、次惠波王。此天皇之御子等、幷五王。男三、女二。故、火穗王者、志比陀君之祖。惠波王者、韋那君、多治比君之祖也。

建小廣國押楯命が坐した「檜坰之廬入野宮」。文字の意味からではなかろう。「檜」「入」は、先が尖がった地形象形と解釈する。「坰」=「境」と解説されている。現在の同郡福智町金田の菅原神社近隣、彦山川と中元寺川の合流地点と思われる。

文字の意味からでは「檜」と「廬」が相応しない。通説は日本書紀の「檜隈廬入野宮」に従って「檜」の文字合わせで場所を比定している。「坰」≠「隈」である。古事記の忠実な地形象形を無視した変形と断じる。またこれに乗っかった後代の解釈が古代の姿を歪めてしまったのである。

「大倭日子鉏友命(懿徳天皇)、坐輕之境岡宮」、「大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)、坐輕之堺原宮」は遠賀川と彦山川との合流点、そこにある「州」を「輕」と表現し、地名を「境、堺」と記述されていた。類似する地形だが異なる地には別の表記を用いたのであろう。が、それにしても凝った名前である。


Ⅰ. 意祁天皇之御子・橘之中比賣命

「意祁天皇之御子・橘之中比賣命」を娶ったと記述される。これは「財」現在の北九州市門司区喜多久に居た比賣として既に記述した。原報を参照願うが、地図のみを下記に示す。



別名解釈から比賣の居場所は更に確からしいものになったと思われる。それにしてもこの地の豊かさは想像以上であったろう。古代において特異な位置付けを有した地として記憶に留めるべき地域である。

Ⅱ. 川內之若子比賣

川内に住んでいた若子比賣を娶ったと記される。川内の何れかは不詳であるが、これまでの古事記記述はここらの娶りが少ない。祖となったり、多くの墓所であったり、近淡海国としての表現は見かけられたのであるが…。きっと蘇った川内の姿が浮かび上がって来るのではなかろうか。御子が二人「火穗王、次惠波王」とされる。この比賣の居場所は名前からでは突き止め難く、御子の記述後に述べてみよう。

Ⅱ-1. 火穗王

「火」は「畝火山」を想起させる。三つの頂を持った連山となっているところであろう。「近淡海国の御上」である。現在の行橋市入覚にある観音山を示すと思われる。「穂」=「穂先(先端)」とすれば…


火穂=火(観音山連山)|穂(山稜の端)

と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山黒田、この連山の最南端にある勝山神社辺りであろう。更に「志比陀君之祖」になったと記される。


志比陀

記述が簡略になると途端に解釈のハードルが高くなる。さて、如何に解くか?…「志」は志賀に通じるであろう。「志=之」(蛇行する川の象形)と解釈すると、蛇行する川に挟まれた「川内」を表現したものとできる。ならば…、

志比陀=志(川内の)|比(並ぶ)|陀(崖)

…と解釈できるようである。「川内にある並び立つ崖の麓にあるところ」これを指し示すと解読される。背後に崖が立ち並ぶ地形を求めると…現地名は行橋市入覚の別所が浮かび上がる。もう一人の王子に移る。

Ⅱ-2. 惠波王

既に「惠(ゑ)」=「志」として同じく川の蛇行を表現したと解釈した。「惠」は更に蛇行が
激しくなった状態を示しているのであろう。これを組合せると…

惠波=惠(川内の)|波(端)

…「川内の中で最も蛇行が激しい場所の端」と紐解ける。現在も複数の川が合流する近傍、行橋市二塚辺りと推定される。更に「韋那君、多治比君之祖」と記される。「多治比」は雄略中天皇の陵墓あった川内之多治比であろう。現地名は行橋市入覚辺りと推定される。


韋那

久々に登場の、壹比韋に含まれる「韋」である。同様に解釈して…、


韋那=韋(取り囲まれる)|那(広い)

…「取り囲まれた広いところ」と紐解ける。現地名は京都郡みやこ町勝山池田が示す地形と思われる。この期に及んでの川内の詳細である。纏めた地図を参照願う。



近淡海国は早期に出現する国名ではあるが、現在から想像するよりもっと河川の治水に手間取ったところであったのだろう。それが漸くにして財力を貯え、国としての発展に迎える時期に達したと推測される。天皇家に近接する地であり、豪族が密かに力をつける地理的環境でもなかった。まだまだ発展途上の地域であったことを示しているようである。

閉塞感が頭をもたげて来た時代、やおら天皇家は近淡海国へ目を向けるようになった。が、それは時期尚早だったのか、手遅れだったのか、古事記は相変わらず無口である。

さて「川内之若子比賣」は何処に居たのであろうか?…「子」=「植物の幹から生え出たもの」という解説を信じると、上図の黒田神社がある辺り、ではなかろうか。川内の中心に位置する場所であり、誕生した御子が散ったところがそこを取り囲む。古事記の川内の中心地、そして現在の京都郡みやこ町本庁を含む地域である。1,300年を経て変わらぬ人々の佇まいに、あらためて感動する気分である。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

2018年1月12日金曜日

物部連の祖:宇摩志麻遲命 〔152〕

物部連の祖:宇摩志麻遲命


古事記が手を抜く、と言うか最低必要限度のことしか記述しないのが邇藝速日命関連事項である。既に幾度か述べたように「日=邇藝速日命」と推測される表現に遭遇して来た。その度に「一言」だけの補足説明で済ましてしまうのである。「日下」「春日」など過去のブログを参照願う。

首記の「宇摩志麻遲命」は物部氏、穂積氏など古代の有力な氏族の祖と知られているのであるが、関連する記述は極めて簡素、いつものことながらと思うものの、やはりこれでは「混迷」の解釈が横行する事態になるわけである。

彼は神倭伊波禮毘古(神武天皇)が邇藝速日命と接触し「天津瑞」を受け取る時に登場する。表記は邇藝速日命の子孫として祖となる連、臣の羅列である。穂積氏は孝元天皇の后の出自で一度、「內色許男命・內色許賣命の名前から春日に居たと紐解いた。一方物部氏は竺紫石井君の征伐を実行した「物部荒甲之大連」で登場するのみである。

そんな扱いを受けている「宇摩志麻遲命」ではあるが、この名前もその居場所を示しているものと考えて紐解いてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]

故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。[時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參って申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになたと聞きましたから、後を追て降て參りました」と申し上げて、天から持て來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部の連・穗積の臣・采女の臣等の祖先です]

邇藝速日命が登美毘古之妹・登美夜毘賣を娶って誕生したと記述される。「登美」は「春日」の旧名と推定した。現地名、福岡県田川郡赤村内田の中村と呼ばれるところが中心のところであったと紐解いた。邇藝速日命が降臨し、居着いた戸城山周辺の地域を示す地名であったと推測される。

宇摩志麻遲命の一文字一文字を解釈してみると…「宇」=「山麓」、「摩」=「接近している、近い」、「志」=「之:蛇行した川」、「遲」=「治水された田」までは頻度高く登場した文字解釈通りかと思われるが、「麻」は略字と仮定して「麻」⇒「麼:細かい、小さい」としてみる。


宇(山麓)|摩(近い)|志(蛇行した川)|麻(麼:小さい)|遲(治水された田)

…「高い山の麓近くで蛇行する川沿いに小さく治水された田があるところ」と紐解ける*。さてそんな場所が見つかるのか?…



戸城山の南麓、現地名は田川郡赤村赤の畑である。犀川(現今川)が大きく蛇行する急峻な地形で造られた田畑は決して大きくはなかったであろう。邇藝速日命に随行した者達及びその子孫は戸城山周辺から各地に散ったと推測される。それは天の神々にとっては好ましくない結果であった。邇邇芸命の降臨の物語はこの先史を受けて語られたものであろう。故に散々たる過去を伝えることを避けたと推測される。

古事記が描く世界では物部氏が皇族に絡むことはない。「物部荒甲」のように武将としての地位を得ていたのであろう。同根の穂積氏は成務天皇紀に比賣を送るが、誕生した和訶奴氣王は皇位に就くことはなかった。古代の日本という途轍もなく深い淵の上に立つ気分である。

*別天神五柱の一人「宇摩志阿斯訶備比古遲神」の「宇摩志」と全く同じ解釈である。


少し余談になるが・・・上記したように宇摩志麻遲命は「物部連、穗積臣、婇臣祖也」と記される。穂積臣は春日近隣に留まり、婇臣(采女)は後に登場する倭建命が名付けた「三重村」辺りと推定される。雄略天皇紀にも気骨のある女性が登場する。現在の紫川周辺である。


物部連は何処に行ったのであろうか?…大河の下流域に拡散したとするならば、彦山川・遠賀川流域ではなかろうか?…これも他の史書によるが遠賀川河口付近に「物部」に関連する地が多くあったと伝えられる。十分に想定されるところではなかろうか。(2018.03.24)


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。



2018年1月11日木曜日

宗賀一族 〔151〕

宗賀一族


継体天皇が意祁天皇之御子・手白髮命(大后)を娶って誕生した天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が即位する。兄弟間の日嗣で皇位継続の危機かと思われるような状況ではあるが、何とか持ち堪えた。そこに「宗賀」が登場する。建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった地であろうが、全く補足説明がない。記載された多くの御子達の名前を頼りにその地を突止めてみよう。


Ⅰ. 天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)


古事記原文(以下同様)…

又娶春日之日爪臣之女・糠子郎女、生御子、春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王。三柱。又娶宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣、生御子、橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王。十三柱。

「宗賀之倉王」「宗賀之稲目宿禰大臣」の二人の名前に付く「宗賀」明らかに地名を示していると思われる。「蘇賀石河宿禰」が祖となった地について嘗てに紐解いた概略を示すと・・・

歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述である。心して紐解こう。祖に「蘇我」と記述しながら「蘇賀」と書く。意味があると思われる。「賀=入江」に面したところである。

・・・<中略:祖となった地名に「小治田」がある。これが場所を突止める重要なヒントであった。大長谷王(雄略天皇)が兄の八瓜之白日子王を惨殺した場所が「小治田」であった。「八瓜」の場所が確定できれば導かれるところである。現地名、福岡県京都郡苅田町葛川辺りである>・・・

「石河」は何を意味するであろうか?…苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に…


川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態

…と言うのが知られている。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。神武天皇が八田の住人に案内されて通過した地はその後建内宿禰一族が開拓したのである。

「阿多」=「阿蘇」と置換えられることを既に示した。ならば「多賀」=「蘇賀」ではなかろうか。この多賀神社は「白山多賀神社」と言う。白山→石河及び語順を入れ替えれば、そのものの表現となる。間違いなく「蘇賀石河宿禰」はこの地に居た。

・・・「蘇賀石河宿禰」の住まった場所の比定は問題なく確定できることは判った。「蘇賀=宗賀」とできるのか?…「蘇」=「蘇る、目覚める」草を刈って隙間を作るというのが原義の文字である。原野を切り開いて田にする場所の表現に合致すると解釈した。「宗」=「宀+示」と分解すれば「賀=入江」が山麓に囲まれている様を示すと紐解ける。



上図を参照願う。地形象形的には同一場所の異なる表現と思われるが、果たしてそうであろうか?…后と御子の名前をこの地に当て嵌めてみる。

Ⅰ-1. 宗賀之倉王

欽明天皇が春日之日爪臣之女・糠子郎女を娶って宗賀之倉王が誕生する。姉、兄は春日に住まうが末っ子が「宗賀」に飛ぶ。春日も決して広い地ではない。必然的に移り住むことになったのであろう。新天地、そこが宗賀であった。受け入れるだけの繁栄をしていたところと思われる。

倉」=「谷」であろう。宗賀に多くの谷があるが、現在も残る地名、上図左側の「谷」現地名、京都郡苅田町谷を指し示していると思われる。本谷、北谷の地名も残る。上部のが「白山多賀神社」であり、「蘇賀石河神社」に置換えられると紐解いたところである。

娶りが続いて、宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣が后となり、多くの御子が誕生する。何と十三人、である。さて、彼らを全て受け入れられたのであろうか?…彼らの居場所を求めることは「蘇賀=宗賀」が明らかとなることに繋がるであろう。

Ⅰ-2. 宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣

サラッと読み飛ばしそうな名前であるが、何を象形しているのであろうか?…


稲目=稲(稲の田)|目(文字の形通りに並ぶ)

…と紐解ける。宗賀が美しく治水されて豊かな水田地帯になった、なりつつあると宣言していると思われる。上記したように石河(白川)に中流域開拓の進捗を示す命名であった。現地名に京都郡苅田町稲光がある。関連する名称と思えなくもない。

「岐多斯比賣」は「岐多志比賣命」とも表される。「志」は「志賀」に通じ「之」蛇行する川がある入江と解釈される。ならばこの比賣の名前は…


岐多志=岐(二つに分ける)|多(田)|志(蛇行する川の入江)

…「蛇行する川がの入江にある田を二つに分ける」と読み解ける。上図を参照願う。

上図の中央を縦に分断するかのような山稜が延びている。この最南端に付近にある國崎八幡宮辺りが宗賀の中心地域と思われる。例によって比賣の名前に潜めた詳細な位置情報である。それにしても良くできた地形で宗賀全体を見渡す絶好の位置にある。「国」である。豪族が地域開発に努め、獲得した地であろう。

御子が十三人「橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王」と記述される。これらの御子が居た場所を突止めてみよう。


橘之豐日命

「橘」が決め手であろう。現在の京都郡苅田町谷辺りの川の様子が当て嵌まると思われる。久々に「豊日」の表現である。勿論外れていない場所である。


石坰王

「坰」=「境」である。「石」=「石河」とすると吉野河(小波瀬川)との合流地点が境であろう。現地名は苅田町岡崎辺りと推定される。


足取王
 
単純ではないと思われる。「足」は既に登場した山稜が延びたところであろうが「取」の紐解きに工夫を要した。


取=耳(山稜の端)+手(手の地形)

…と解釈できる。

古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果としたことから「取」の字ができたと言われる。

何とも物騒な文字なのであるが、現実なのであろう。それで「山稜が延びた端(縁)にある手の形をしたところ」の王と紐解ける。現地名は苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜が見つかるのである。



亦麻呂古王

「亦」の文字通りの地形を意味するのであろう。「八瓜」の場所が該当すると思われる。「麻呂」=「丸」で瓜の実がなっているところである。苅田町葛川辺りである。


大宅王

これも「宅」=「宀+乇」に分解すると「乇」=「寄り掛かる、頼る」の意味を持つことより…


大宅=大(大きな)|宀(高い山)|乇(寄り掛かる)

…「大きく高い山に寄り掛かっている」状態を示す場所と紐解ける。現地名、苅田町法正寺辺り、背後は高い山稜が連なる麓である。


伊美賀古王

「美賀」は三つの賀(入江)があるところと解釈する。吉野河(小波瀬川)の上流部、平尾台から流れ出た川が大きく蛇行して入江を形成したと推測される。現在の行橋市徳永辺りにあったと思われる。現在の地形そのものとは異なるものであったろう。


山代王

「山代」=「山田」と置換える。宗賀の山にある田は一ヶ所に絞られる。現在の苅田町山口等覚寺・北谷辺りと思われる。犬上一族が居した場所と重なるのではなかろうか。


大伴王

これは難問である。固有名詞にも使わる文字は判断が難しい。が敢えて試みると、「伴」=「イ+半」とすると「半」=「牛のような大きなものを二つにする」ことからできた文字のようである。地形的には山稜を区切る深い谷間が当て嵌まる。現地名、苅田町山口の北谷に向かう谷筋ではなかろうか。上記「足取王」の北側に当たるところである。


櫻井之玄王

桜が咲く井戸の周りを意味するのでは決してない。既に登場して、「桜井」=「佐(助ける、促す)|倉(谷)|井(水源)」と解釈した。八田山近隣である。「玄」=「黒」やはりここは「八咫烏」の住処であったことを示しているのではなかろうか。


麻奴王

この名称も普通過ぎて判断に苦しむところではあるが、「麻」=「麿」=「丸」と紐解き、「奴」=「野」として読み解くと「丸い形をした野」が導き出せる。現地名、苅田町稲光稲光上辺りにある丸く小高い丘が該当するのであろう。


橘本之若子王

上記「橘之豐日命」に関連して、その山の上に「本谷」という地名が残っている。ここが求めるところと思われる。


泥杼王

水田地帯であろう。「杼」は織機の横糸を通すための道具とある。水田の水の流れに直交する様子に基づいた表現ではなかろうか。現地名、苅田町鋤崎辺りの地形が吉野河(小波瀬川)に直交する地形を示している。

纏めて下図に御子達の在処を示した。眺めると宗賀全体に散らばった配置となった。この地域が豊かになったことをあからさまにしている。何と十三人を収めることができたのである。が、更に続く御子の誕生・・・収まるか?・・・。




Ⅱ. 沼名倉太玉敷命(敏達天皇)


欽明天皇が「財」の石比賣を娶って誕生した沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が即位し、宗賀の比賣、腹違いの「豐御食炊屋比賣命」を后にする。ならば生まれた御子は「宗賀」に住まうことになろう。八人も・・・である。

沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆也。此天皇、娶庶妹豐御食炊屋比賣命、生御子、靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱。

Ⅱ-1. 庶妹豐御食炊屋比賣命

宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子の一人である。何だか恰幅の良さそうな女性なのであるが、後に皇位に就く。宗賀一族から出た、間違いなく女性の天皇(推古天皇)となる。古事記が名前を挙げる最後の天皇でもある。


靜貝王・竹田王

それぞれ別名があって貝鮹王・小貝王と記される。共通する「貝」は何を模しているのであろうか?…海辺の貝ではなかろう。やはり稲目の「目」と同じく「治水された田の様子」を示していると思われる。

鮹」はこれも海に棲息するものではなく「胼胝(タコ)=突起」を示す。目のように奇麗に並んでいるが片側に凹凸がある様子であろう。すると石河(白川)の蛇行に従って「タコ」が並んだように凹凸がある田が上図の中央付近に見当たる。

「竹」は細長く延びた田を象形していると思われる。山稜を挟んで「貝鮹」の東側に位置するところと判る。上記の「岐多志比賣」が居た山稜の両脇に当たるところであると推定される。共に現地名、京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろうが、不詳である。


小治田王・葛城王

大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所として登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側にある「治水された小さな田」があるところとした。小治田王は上図の西工大グラウンドの岡に居たのではなかろうか。


葛城王は既出の解釈「ゴツゴツした渇いた土地」に居たと思われる。上図の西工大グラウンドの北側、山麓と推定される。現地名は稲光と葛川に跨るのではなかろうか。葛川の由来と思われる。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。



宇毛理王・小張王

文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…



宇毛理=宇(山麓)|毛(鱗)|理(整った筋)

…山麓にあるうろこ状の小高いところが畑地に区画整理されているところと紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。「毛受」の解釈と全く類似する結果を示している。直線距離2km前後しか離れていない、余談だが・・・。



小張=小(小さく)|張(山麓の張り出し)

上図の黒添の少し北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。現地名は苅田町法正寺である。小張王はこの小さな丘の上、であろう。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。



多米王・櫻井玄王

「多米」の解釈は簡単なようで少し紐解きパターンが異なった。「米」は何を模しているのであろうか?…田の向きが異なっている様を示しているようである。



多米=多(田)|米(田が斜めになっている様)

1,300年以上も前の田んぼの形が残っているのか?…と不安を抱えながら探索すると、宗賀の北側、谷に近付いた場所で田が斜めになっているところが見つかる。現地名は苅田町山口にある。山の斜面に逆らわずに棚田を作ると宗賀全体の南北に区画された田とは異なった配置になっている。王はそこにある諏賀神社辺りに居たのであろう。


櫻井玄王は前出の櫻井之玄王を引継いだのだろう。八咫烏の末裔が住む地である。王は八田山稲荷神社辺りに居たと思われる。全員を纏めて下図に示した。宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。更に詰まるのである・・・。




Ⅲ-2. 庶妹玄王

娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。

岐多斯比賣の御子の一人「櫻井之玄王」であろう。御子に「山代王、次笠縫王」が誕生する。いよいよ宗賀は満杯になるのでは?…関連するところを示す。山代王は引継ぎであろう。「笠縫」=「山稜を縫って閉じ合せる」池の周辺は当時と大きく異なるであろうが、堰を作って谷を縫い合わせたところであろう。それにしても宗賀の勢いは凄まじいことが伺える。また、それを実現できる財力を蓄えていたことも納得できるのである。



蘇賀石河宿禰が切り開いた地は実に豊かな水田地帯に変貌した。今も残る見事に治水された風景からもそれを伺い知ることができる。石河(白川)他、多くの谷間から流れ出る川の流れを巧みに活かし、「目、貝」の如くに開墾した「蘇賀=宗賀」はその文字が示す通りの地域になったと思われる。

参考に俯瞰図を載せてみる。この地に歴史を動かす人々が住まっていた。宗賀之倉王から始まる蘇りは凄まじいものがあったと思われる。宗賀の北~東側の八田、八瓜、安と山裾の発展が川に沿って下流へと進展し、更に西側の発展も急速に下流へと延びていたのであろう。他場所が中流域に止まっているのに対して一気に下流域にまで拡がっていた。




川の流れに逆らわず、かつ「目、貝」のような効率的な耕地の開拓がもたらしたものは莫大な財力へと変換されて行ったと推測される。天皇家に関わる人材の輩出が集中した地に変貌したのであろう。そして同時に古事記がその役割を終える時が近付いたのである。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。