宗賀一族
継体天皇が意祁天皇之御子・手白髮命(大后)を娶って誕生した天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が即位する。兄弟間の日嗣で皇位継続の危機かと思われるような状況ではあるが、何とか持ち堪えた。そこに「宗賀」が登場する。建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった地であろうが、全く補足説明がない。記載された多くの御子達の名前を頼りにその地を突止めてみよう。
Ⅰ. 天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)
古事記原文(以下同様)…
又娶春日之日爪臣之女・糠子郎女、生御子、春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王。三柱。又娶宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣、生御子、橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王。十三柱。
「宗賀之倉王」「宗賀之稲目宿禰大臣」の二人の名前に付く「宗賀」明らかに地名を示していると思われる。「蘇賀石河宿禰」が祖となった地について嘗てに紐解いた概略を示すと・・・
歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述である。心して紐解こう。祖に「蘇我」と記述しながら「蘇賀」と書く。意味があると思われる。「賀=入江」に面したところである。
・・・<中略:祖となった地名に「小治田」がある。これが場所を突止める重要なヒントであった。大長谷王(雄略天皇)が兄の八瓜之白日子王を惨殺した場所が「小治田」であった。「八瓜」の場所が確定できれば導かれるところである。現地名、福岡県京都郡苅田町葛川辺りである>・・・
「石河」は何を意味するであろうか?…苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に…
川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態
…と言うのが知られている。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。神武天皇が八田の住人に案内されて通過した地はその後建内宿禰一族が開拓したのである。
「阿多」=「阿蘇」と置換えられることを既に示した。ならば「多賀」=「蘇賀」ではなかろうか。この多賀神社は「白山多賀神社」と言う。白山→石河及び語順を入れ替えれば、そのものの表現となる。間違いなく「蘇賀石河宿禰」はこの地に居た。
・・・「蘇賀石河宿禰」の住まった場所の比定は問題なく確定できることは判った。「蘇賀=宗賀」とできるのか?…「蘇」=「蘇る、目覚める」草を刈って隙間を作るというのが原義の文字である。原野を切り開いて田にする場所の表現に合致すると解釈した。「宗」=「宀+示」と分解すれば「賀=入江」が山麓に囲まれている様を示すと紐解ける。
上図を参照願う。地形象形的には同一場所の異なる表現と思われるが、果たしてそうであろうか?…后と御子の名前をこの地に当て嵌めてみる。
Ⅰ-1. 宗賀之倉王
欽明天皇が春日之日爪臣之女・糠子郎女を娶って宗賀之倉王が誕生する。姉、兄は春日に住まうが末っ子が「宗賀」に飛ぶ。春日も決して広い地ではない。必然的に移り住むことになったのであろう。新天地、そこが宗賀であった。受け入れるだけの繁栄をしていたところと思われる。
「倉」=「谷」であろう。宗賀に多くの谷があるが、現在も残る地名、上図左側の「谷」現地名、京都郡苅田町谷を指し示していると思われる。本谷、北谷の地名も残る。上部の⛩が「白山多賀神社」であり、「蘇賀石河神社」に置換えられると紐解いたところである。
娶りが続いて、宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣が后となり、多くの御子が誕生する。何と十三人、である。さて、彼らを全て受け入れられたのであろうか?…彼らの居場所を求めることは「蘇賀=宗賀」が明らかとなることに繋がるであろう。
Ⅰ-2. 宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣
サラッと読み飛ばしそうな名前であるが、何を象形しているのであろうか?…
…と紐解ける。宗賀が美しく治水されて豊かな水田地帯になった、なりつつあると宣言していると思われる。上記したように石河(白川)に中流域開拓の進捗を示す命名であった。現地名に京都郡苅田町稲光がある。関連する名称と思えなくもない。
「岐多斯比賣」は「岐多志比賣命」とも表される。「志」は「志賀」に通じ「之」蛇行する川がある入江と解釈される。ならばこの比賣の名前は…
…「蛇行する川がの入江にある田を二つに分ける」と読み解ける。上図を参照願う。
上図の中央を縦に分断するかのような山稜が延びている。この最南端に付近にある國崎八幡宮辺りが宗賀の中心地域と思われる。例によって比賣の名前に潜めた詳細な位置情報である。それにしても良くできた地形で宗賀全体を見渡す絶好の位置にある。「国」である。豪族が地域開発に努め、獲得した地であろう。
御子が十三人「橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王」と記述される。これらの御子が居た場所を突止めてみよう。
「橘」が決め手であろう。現在の京都郡苅田町谷辺りの川の様子が当て嵌まると思われる。久々に「豊日」の表現である。勿論外れていない場所である。
「坰」=「境」である。「石」=「石河」とすると吉野河(小波瀬川)との合流地点が境であろう。現地名は苅田町岡崎辺りと推定される。
…と解釈できる。
古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果としたことから「取」の字ができたと言われる。
何とも物騒な文字なのであるが、現実なのであろう。それで「山稜が延びた端(縁)にある手の形をしたところ」の王と紐解ける。現地名は苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜が見つかるのである。
「亦」の文字通りの地形を意味するのであろう。「八瓜」の場所が該当すると思われる。「麻呂」=「丸」で瓜の実がなっているところである。苅田町葛川辺りである。
これも「宅」=「宀+乇」に分解すると「乇」=「寄り掛かる、頼る」の意味を持つことより…
…「大きく高い山に寄り掛かっている」状態を示す場所と紐解ける。現地名、苅田町法正寺辺り、背後は高い山稜が連なる麓である。
「美賀」は三つの賀(入江)があるところと解釈する。吉野河(小波瀬川)の上流部、平尾台から流れ出た川が大きく蛇行して入江を形成したと推測される。現在の行橋市徳永辺りにあったと思われる。現在の地形そのものとは異なるものであったろう。
「山代」=「山田」と置換える。宗賀の山にある田は一ヶ所に絞られる。現在の苅田町山口等覚寺・北谷辺りと思われる。犬上一族が居した場所と重なるのではなかろうか。
これは難問である。固有名詞にも使わる文字は判断が難しい。が敢えて試みると、「伴」=「イ+半」とすると「半」=「牛のような大きなものを二つにする」ことからできた文字のようである。地形的には山稜を区切る深い谷間が当て嵌まる。現地名、苅田町山口の北谷に向かう谷筋ではなかろうか。上記「足取王」の北側に当たるところである。
桜が咲く井戸の周りを意味するのでは決してない。既に登場して、「桜井」=「佐(助ける、促す)|倉(谷)|井(水源)」と解釈した。八田山近隣である。「玄」=「黒」やはりここは「八咫烏」の住処であったことを示しているのではなかろうか。
この名称も普通過ぎて判断に苦しむところではあるが、「麻」=「麿」=「丸」と紐解き、「奴」=「野」として読み解くと「丸い形をした野」が導き出せる。現地名、苅田町稲光稲光上辺りにある丸く小高い丘が該当するのであろう。
上記「橘之豐日命」に関連して、その山の上に「本谷」という地名が残っている。ここが求めるところと思われる。
水田地帯であろう。「杼」は織機の横糸を通すための道具とある。水田の水の流れに直交する様子に基づいた表現ではなかろうか。現地名、苅田町鋤崎辺りの地形が吉野河(小波瀬川)に直交する地形を示している。
纏めて下図に御子達の在処を示した。眺めると宗賀全体に散らばった配置となった。この地域が豊かになったことをあからさまにしている。何と十三人を収めることができたのである。が、更に続く御子の誕生・・・収まるか?・・・。
欽明天皇が「財」の石比賣を娶って誕生した沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が即位し、宗賀の比賣、腹違いの「豐御食炊屋比賣命」を后にする。ならば生まれた御子は「宗賀」に住まうことになろう。八人も・・・である。
沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。此天皇、娶庶妹豐御食炊屋比賣命、生御子、靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱。
Ⅱ-1. 庶妹豐御食炊屋比賣命
宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子の一人である。何だか恰幅の良さそうな女性なのであるが、後に皇位に就く。宗賀一族から出た、間違いなく女性の天皇(推古天皇)となる。古事記が名前を挙げる最後の天皇でもある。
それぞれ別名があって貝鮹王・小貝王と記される。共通する「貝」は何を模しているのであろうか?…海辺の貝ではなかろう。やはり稲目の「目」と同じく「治水された田の様子」を示していると思われる。
「鮹」はこれも海に棲息するものではなく「胼胝(タコ)=突起」を示す。目のように奇麗に並んでいるが片側に凹凸がある様子であろう。すると石河(白川)の蛇行に従って「タコ」が並んだように凹凸がある田が上図の中央付近に見当たる。
「竹」は細長く延びた田を象形していると思われる。山稜を挟んで「貝鮹」の東側に位置するところと判る。上記の「岐多志比賣」が居た山稜の両脇に当たるところであると推定される。共に現地名、京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろうが、不詳である。
大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所として登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側にある「治水された小さな田」があるところとした。小治田王は上図の西工大グラウンドの岡に居たのではなかろうか。
葛城王は既出の解釈「ゴツゴツした渇いた土地」に居たと思われる。上図の西工大グラウンドの北側、山麓と推定される。現地名は稲光と葛川に跨るのではなかろうか。葛川の由来と思われる。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。
文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…
…山麓にあるうろこ状の小高いところが畑地に区画整理されているところと紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。「毛受」の解釈と全く類似する結果を示している。直線距離2km前後しか離れていない、余談だが・・・。
上図の黒添の少し北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。現地名は苅田町法正寺である。小張王はこの小さな丘の上、であろう。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。
「多米」の解釈は簡単なようで少し紐解きパターンが異なった。「米」は何を模しているのであろうか?…田の向きが異なっている様を示しているようである。
1,300年以上も前の田んぼの形が残っているのか?…と不安を抱えながら探索すると、宗賀の北側、谷に近付いた場所で田が斜めになっているところが見つかる。現地名は苅田町山口にある。山の斜面に逆らわずに棚田を作ると宗賀全体の南北に区画された田とは異なった配置になっている。王はそこにある諏賀神社辺りに居たのであろう。
櫻井玄王は前出の櫻井之玄王を引継いだのだろう。八咫烏の末裔が住む地である。王は八田山稲荷神社辺りに居たと思われる。全員を纏めて下図に示した。宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。更に詰まるのである・・・。
Ⅲ-2. 庶妹玄王
娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。
岐多斯比賣の御子の一人「櫻井之玄王」であろう。御子に「山代王、次笠縫王」が誕生する。いよいよ宗賀は満杯になるのでは?…関連するところを示す。山代王は引継ぎであろう。「笠縫」=「山稜を縫って閉じ合せる」池の周辺は当時と大きく異なるであろうが、堰を作って谷を縫い合わせたところであろう。それにしても宗賀の勢いは凄まじいことが伺える。また、それを実現できる財力を蓄えていたことも納得できるのである。
蘇賀石河宿禰が切り開いた地は実に豊かな水田地帯に変貌した。今も残る見事に治水された風景からもそれを伺い知ることができる。石河(白川)他、多くの谷間から流れ出る川の流れを巧みに活かし、「目、貝」の如くに開墾した「蘇賀=宗賀」はその文字が示す通りの地域になったと思われる。
参考に俯瞰図を載せてみる。この地に歴史を動かす人々が住まっていた。宗賀之倉王から始まる蘇りは凄まじいものがあったと思われる。宗賀の北~東側の八田、八瓜、安と山裾の発展が川に沿って下流へと進展し、更に西側の発展も急速に下流へと延びていたのであろう。他場所が中流域に止まっているのに対して一気に下流域にまで拡がっていた。
川の流れに逆らわず、かつ「目、貝」のような効率的な耕地の開拓がもたらしたものは莫大な財力へと変換されて行ったと推測される。天皇家に関わる人材の輩出が集中した地に変貌したのであろう。そして同時に古事記がその役割を終える時が近付いたのである。
…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。
・・・「蘇賀石河宿禰」の住まった場所の比定は問題なく確定できることは判った。「蘇賀=宗賀」とできるのか?…「蘇」=「蘇る、目覚める」草を刈って隙間を作るというのが原義の文字である。原野を切り開いて田にする場所の表現に合致すると解釈した。「宗」=「宀+示」と分解すれば「賀=入江」が山麓に囲まれている様を示すと紐解ける。
上図を参照願う。地形象形的には同一場所の異なる表現と思われるが、果たしてそうであろうか?…后と御子の名前をこの地に当て嵌めてみる。
Ⅰ-1. 宗賀之倉王
欽明天皇が春日之日爪臣之女・糠子郎女を娶って宗賀之倉王が誕生する。姉、兄は春日に住まうが末っ子が「宗賀」に飛ぶ。春日も決して広い地ではない。必然的に移り住むことになったのであろう。新天地、そこが宗賀であった。受け入れるだけの繁栄をしていたところと思われる。
「倉」=「谷」であろう。宗賀に多くの谷があるが、現在も残る地名、上図左側の「谷」現地名、京都郡苅田町谷を指し示していると思われる。本谷、北谷の地名も残る。上部の⛩が「白山多賀神社」であり、「蘇賀石河神社」に置換えられると紐解いたところである。
娶りが続いて、宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣が后となり、多くの御子が誕生する。何と十三人、である。さて、彼らを全て受け入れられたのであろうか?…彼らの居場所を求めることは「蘇賀=宗賀」が明らかとなることに繋がるであろう。
Ⅰ-2. 宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣
サラッと読み飛ばしそうな名前であるが、何を象形しているのであろうか?…
稲目=稲(稲の田)|目(文字の形通りに並ぶ)
…と紐解ける。宗賀が美しく治水されて豊かな水田地帯になった、なりつつあると宣言していると思われる。上記したように石河(白川)に中流域開拓の進捗を示す命名であった。現地名に京都郡苅田町稲光がある。関連する名称と思えなくもない。
「岐多斯比賣」は「岐多志比賣命」とも表される。「志」は「志賀」に通じ「之」蛇行する川がある入江と解釈される。ならばこの比賣の名前は…
岐多志=岐(二つに分ける)|多(田)|志(蛇行する川の入江)
…「蛇行する川がの入江にある田を二つに分ける」と読み解ける。上図を参照願う。
上図の中央を縦に分断するかのような山稜が延びている。この最南端に付近にある國崎八幡宮辺りが宗賀の中心地域と思われる。例によって比賣の名前に潜めた詳細な位置情報である。それにしても良くできた地形で宗賀全体を見渡す絶好の位置にある。「国」である。豪族が地域開発に努め、獲得した地であろう。
御子が十三人「橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王」と記述される。これらの御子が居た場所を突止めてみよう。
橘之豐日命
「橘」が決め手であろう。現在の京都郡苅田町谷辺りの川の様子が当て嵌まると思われる。久々に「豊日」の表現である。勿論外れていない場所である。
石坰王
「坰」=「境」である。「石」=「石河」とすると吉野河(小波瀬川)との合流地点が境であろう。現地名は苅田町岡崎辺りと推定される。
足取王
単純ではないと思われる。「足」は既に登場した山稜が延びたところであろうが「取」の紐解きに工夫を要した。
取=耳(山稜の端)+手(手の地形)
…と解釈できる。
古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果としたことから「取」の字ができたと言われる。
何とも物騒な文字なのであるが、現実なのであろう。それで「山稜が延びた端(縁)にある手の形をしたところ」の王と紐解ける。現地名は苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜が見つかるのである。
亦麻呂古王
「亦」の文字通りの地形を意味するのであろう。「八瓜」の場所が該当すると思われる。「麻呂」=「丸」で瓜の実がなっているところである。苅田町葛川辺りである。
大宅王
これも「宅」=「宀+乇」に分解すると「乇」=「寄り掛かる、頼る」の意味を持つことより…
大宅=大(大きな)|宀(高い山)|乇(寄り掛かる)
…「大きく高い山に寄り掛かっている」状態を示す場所と紐解ける。現地名、苅田町法正寺辺り、背後は高い山稜が連なる麓である。
伊美賀古王
「美賀」は三つの賀(入江)があるところと解釈する。吉野河(小波瀬川)の上流部、平尾台から流れ出た川が大きく蛇行して入江を形成したと推測される。現在の行橋市徳永辺りにあったと思われる。現在の地形そのものとは異なるものであったろう。
山代王
「山代」=「山田」と置換える。宗賀の山にある田は一ヶ所に絞られる。現在の苅田町山口等覚寺・北谷辺りと思われる。犬上一族が居した場所と重なるのではなかろうか。
大伴王
これは難問である。固有名詞にも使わる文字は判断が難しい。が敢えて試みると、「伴」=「イ+半」とすると「半」=「牛のような大きなものを二つにする」ことからできた文字のようである。地形的には山稜を区切る深い谷間が当て嵌まる。現地名、苅田町山口の北谷に向かう谷筋ではなかろうか。上記「足取王」の北側に当たるところである。
櫻井之玄王
桜が咲く井戸の周りを意味するのでは決してない。既に登場して、「桜井」=「佐(助ける、促す)|倉(谷)|井(水源)」と解釈した。八田山近隣である。「玄」=「黒」やはりここは「八咫烏」の住処であったことを示しているのではなかろうか。
麻奴王
この名称も普通過ぎて判断に苦しむところではあるが、「麻」=「麿」=「丸」と紐解き、「奴」=「野」として読み解くと「丸い形をした野」が導き出せる。現地名、苅田町稲光稲光上辺りにある丸く小高い丘が該当するのであろう。
橘本之若子王
上記「橘之豐日命」に関連して、その山の上に「本谷」という地名が残っている。ここが求めるところと思われる。
泥杼王
水田地帯であろう。「杼」は織機の横糸を通すための道具とある。水田の水の流れに直交する様子に基づいた表現ではなかろうか。現地名、苅田町鋤崎辺りの地形が吉野河(小波瀬川)に直交する地形を示している。
纏めて下図に御子達の在処を示した。眺めると宗賀全体に散らばった配置となった。この地域が豊かになったことをあからさまにしている。何と十三人を収めることができたのである。が、更に続く御子の誕生・・・収まるか?・・・。
Ⅱ. 沼名倉太玉敷命(敏達天皇)
欽明天皇が「財」の石比賣を娶って誕生した沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が即位し、宗賀の比賣、腹違いの「豐御食炊屋比賣命」を后にする。ならば生まれた御子は「宗賀」に住まうことになろう。八人も・・・である。
沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。此天皇、娶庶妹豐御食炊屋比賣命、生御子、靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱。
Ⅱ-1. 庶妹豐御食炊屋比賣命
宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子の一人である。何だか恰幅の良さそうな女性なのであるが、後に皇位に就く。宗賀一族から出た、間違いなく女性の天皇(推古天皇)となる。古事記が名前を挙げる最後の天皇でもある。
靜貝王・竹田王
それぞれ別名があって貝鮹王・小貝王と記される。共通する「貝」は何を模しているのであろうか?…海辺の貝ではなかろう。やはり稲目の「目」と同じく「治水された田の様子」を示していると思われる。
「鮹」はこれも海に棲息するものではなく「胼胝(タコ)=突起」を示す。目のように奇麗に並んでいるが片側に凹凸がある様子であろう。すると石河(白川)の蛇行に従って「タコ」が並んだように凹凸がある田が上図の中央付近に見当たる。
「竹」は細長く延びた田を象形していると思われる。山稜を挟んで「貝鮹」の東側に位置するところと判る。上記の「岐多志比賣」が居た山稜の両脇に当たるところであると推定される。共に現地名、京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろうが、不詳である。
小治田王・葛城王
大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所として登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側にある「治水された小さな田」があるところとした。小治田王は上図の西工大グラウンドの岡に居たのではなかろうか。
葛城王は既出の解釈「ゴツゴツした渇いた土地」に居たと思われる。上図の西工大グラウンドの北側、山麓と推定される。現地名は稲光と葛川に跨るのではなかろうか。葛川の由来と思われる。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。
宇毛理王・小張王
文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…
宇毛理=宇(山麓)|毛(鱗)|理(整った筋)
…山麓にあるうろこ状の小高いところが畑地に区画整理されているところと紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。「毛受」の解釈と全く類似する結果を示している。直線距離2km前後しか離れていない、余談だが・・・。
小張=小(小さく)|張(山麓の張り出し)
上図の黒添の少し北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。現地名は苅田町法正寺である。小張王はこの小さな丘の上、であろう。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。
多米王・櫻井玄王
「多米」の解釈は簡単なようで少し紐解きパターンが異なった。「米」は何を模しているのであろうか?…田の向きが異なっている様を示しているようである。
多米=多(田)|米(田が斜めになっている様)
1,300年以上も前の田んぼの形が残っているのか?…と不安を抱えながら探索すると、宗賀の北側、谷に近付いた場所で田が斜めになっているところが見つかる。現地名は苅田町山口にある。山の斜面に逆らわずに棚田を作ると宗賀全体の南北に区画された田とは異なった配置になっている。王はそこにある諏賀神社辺りに居たのであろう。
櫻井玄王は前出の櫻井之玄王を引継いだのだろう。八咫烏の末裔が住む地である。王は八田山稲荷神社辺りに居たと思われる。全員を纏めて下図に示した。宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。更に詰まるのである・・・。
Ⅲ-2. 庶妹玄王
娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。
岐多斯比賣の御子の一人「櫻井之玄王」であろう。御子に「山代王、次笠縫王」が誕生する。いよいよ宗賀は満杯になるのでは?…関連するところを示す。山代王は引継ぎであろう。「笠縫」=「山稜を縫って閉じ合せる」池の周辺は当時と大きく異なるであろうが、堰を作って谷を縫い合わせたところであろう。それにしても宗賀の勢いは凄まじいことが伺える。また、それを実現できる財力を蓄えていたことも納得できるのである。
蘇賀石河宿禰が切り開いた地は実に豊かな水田地帯に変貌した。今も残る見事に治水された風景からもそれを伺い知ることができる。石河(白川)他、多くの谷間から流れ出る川の流れを巧みに活かし、「目、貝」の如くに開墾した「蘇賀=宗賀」はその文字が示す通りの地域になったと思われる。
参考に俯瞰図を載せてみる。この地に歴史を動かす人々が住まっていた。宗賀之倉王から始まる蘇りは凄まじいものがあったと思われる。宗賀の北~東側の八田、八瓜、安と山裾の発展が川に沿って下流へと進展し、更に西側の発展も急速に下流へと延びていたのであろう。他場所が中流域に止まっているのに対して一気に下流域にまで拡がっていた。
川の流れに逆らわず、かつ「目、貝」のような効率的な耕地の開拓がもたらしたものは莫大な財力へと変換されて行ったと推測される。天皇家に関わる人材の輩出が集中した地に変貌したのであろう。そして同時に古事記がその役割を終える時が近付いたのである。
…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。