2019年5月30日木曜日

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):天押帶日子命 〔351〕

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):天押帶日子命


第五代天皇の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)については、葛城孝昭天皇の回帰 〔087〕、また
御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮 〔324〕と記述して来たが、なかなかに読み解き辛い内容で、更に大活躍の御子も登場していた。

その一人の天押帶日子命…次期天皇の大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の兄に当たる…が祖となった地名も、唐突な出現で戸惑うところであった。あらためて見直してみようかと思う。


<尾張国>
古事記原文…、

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱

天押帶日子命は御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男である。

この命が祖となった多数の地が記載されるのであるが、とりわけ尾張国及び春日・宇遲の地名が遠慮会釈なく羅列される。

言い換えれば、これらの地に早期より天皇家が侵出したことを示しているのであろう。またそれだけに重要な地点であったことが伺える。

図に古事記の登場する尾張国関連地名を纏めた。貫山の北稜の尾根が伸びて張り出た地域を、正に隈なく登場させていることが解る。小倉南区を流れる長野川・横代川周辺流域が古事記の尾張国と比定できる一つの証左でもあろう。

さて、主題の「天押帶日子命」について、既述と重なるところも併せて述べてみよう。天押帶」とは何を意味するのであろうか?…「帯=多羅斯」と古事記序文にある。元々は「結び垂らす」なのか「足らす」から来るのか、思い巡らすことは複数である。

前後するが、弟の大倭帶日子國押人命の「國押人」は「押」=「手+甲(甲羅の象形:田)」=「手を加えて田にする」と解釈される。ならば…、
 
國押人=大地に手を加えて田にする人

…とした。「國」は限られた範囲の大地を示していると思われる。「押」を同様に読み解くと…「天=阿麻」ではなく…「天押帶」は…、
 
天(あまねく)|押(手を加えて田にする)|帯(足らす)

…「天の下あまねく田を作り足らす(満たす)」の解釈となろう。例によって掛詞として使うこともあろうが、「帯」が意味するところは上記で理解できることが判った。事実、彼は、本当かい?…と思われるほど各地の祖となるのである。

天照大御神の読み解きの一つである「天照」=「遍く(あまねく)照らす」に類似する表記であろう。「天」も幾つかの用法があるが、複数に重ねられた意味を示そうとする古事記たるところである。

また、「帶」=「多羅斯」の表記をそのまま紐解くと…、


多(山稜の端の三角州)|羅(連なる)|斯(切り分ける)

…「山稜の端の三角州が連なるところを切り分ける」となる。極めて具体的な地形象形の表記と思われる。いずれにしても三角州を切り分けて耕地にした命に変わりはないようである。

古事記原文…、

兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。

…兄の天押帶日子命が祖となった十六の地を探してみよう・・・。

春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂

邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。結論を先に記すと…全て福岡県田川郡赤村に属する現在の地名である(但し柿下は田川郡香春町)

春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂

「春日」は邇藝速日命が降臨して坐した戸城山近隣であり、この地の中心となる地(中村)とした。「大坂」は現在の京都郡みやこ町犀川大坂の地名があるが、「春日」の中にある「大坂」を採用する。「柿本」は「本=下」として「柿下」に比定した。詳細は下記する。
 
<天押帶日子命(祖)①>
「大宅」の「宅」=「宀(山麓)+乇(寄り集まる)」に分解すると、山稜の端が寄り集まって、平らな台地が広がっているところと紐解ける。図に示した現在の大内田辺りと推定される。

「乇」=「寄り集まる」の原義を有すると解説したのは藤堂明保氏であり、その慧眼に感謝である。そしてその通りの意味を用いた安萬侶くんにも謝辞を述べておこう。

「粟田」の「粟」の解釈は伊豫之二名嶋の粟国に類すると思われる。「粟」=「たわわな様」の場所を求めると、現在の赤村内田の小内田辺りではなかろうか。粟国の山稜の形とは異なり田の連なる様を模したものと思われる。

「小野」は現在の小柳という地名のところと推定した。山稜の端が「小」の形をしていることに由来すると思われる。左図を拡大して参照。

残る「壹比韋」について紐解いてみる。これは応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。通説は「櫟井(イチイ)」に当てる。
 
(専ら、総て)|(並べ備える)|(囲い)

…「全てに囲いを並べ備える」場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。


田川郡赤村内田山ノ内と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した、おそらく当時はより隔離された場所であっただろう。

応神紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「壹比韋」と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかもしれない。「宇遅=内」に通じる。古事記全体を通じて…、
 
丹=極めて貴重な資源

…と記述されているのである。

<柿本(下)>
いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。

あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。

このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。

ところで「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」と思われる。

「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。

「柿」=「木+市」=「山稜が[市]の形」尾根と山稜が作る地形が「市」の字形を表していると見做したのである。
 
柿本(下)=山稜が作る[市]の字形の麓

山頂が約500mほぼ平坦な形状を示すことと尾根から真っ直ぐに降りる稜線が際立つ山容である。現在に繋がる地名由来としたが、果たして納得頂けるであろうか・・・。
 
<大坂山>
全くの余談だが・・・隣の「大坂山」も単に「大きな坂」からだけでの命名でもなかろう・・・では何を模したのか?…図を参照。

大坂山の山陵が作る稜線を結んだら…少し間延びした「大」だが…長く平坦な主稜線の峰と延びた枝稜線が描く文字が浮かんで来る。

間延びの稜線が「坂」を示す。「大坂山」は…、
 
[大]の字の地形が坂になった山

…と紐解ける。ありふれた文字の地形象形ほど難しいものはない、であろう。

「大きな坂」何処にでも転がっているような解釈では一に特定は不可であったが、古事記中最も重要なランドマークの一つである「大坂」は極めて高い確度で、田川郡香春町柿下(大坂)と京都郡みやこ町犀川大坂の間に横たわる山稜を示していたことが解る。

阿那・多紀・壹師・伊勢飯高

さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。
 
阿那:平尾台 多紀:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野

<多紀臣>
「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地、洞穴だらけの「平尾台」とする。勿論…、


阿(台地)|那(ゆったりとした)

…である。

「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…勿論掛けている筈。「多紀」は…、
 
多(山稜の端の三角州)|紀(畝る)
 
「紀」は頻出で、例えば胸形三女神の長女の名前(多紀理毘賣)に含まれている。「紀」=「糸+己(畝る、曲がりくねる)」地形を象形していると紐解いた。現地名は北九州市小倉南区高津尾である。

<壹師>
「壹師」は上記の北方に「志井」という現地名がある。語順を捩って残存する地名ではなかろうか・・・とこれで終わってしまうと通説の域を脱せない?・・・。

「壹師」は…、
 
壹(専ら、総て)|師(凹凸の地形)

…「専ら、総て凹凸の地形」と読み解ける。

「師」は「師木」など山稜の端で無数の凹凸が見られる場所、当時の主要地点で用いられる文字である。「壹師君」は上図の多賀神社辺りに坐していたのではなかろうか。

「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。「飯高」は…、
 

<伊勢飯高>
飯(なだらかな山陵の麓)|高(高い)

…「なだらかな山稜の麓にある高い台地」と読み解ける。既出の「飯=食+反=山+良+反」とする解釈である。合致するところであろう。

「伊勢飯高君」は現在の白山神社辺りに坐していたのかもしれない。

「伊勢神宮」に近接する現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡が・・・内宮と外宮が渡って合う「度会」もあった。

古事記は律令制後の地名を付けるのに、格好の書物であっただろう。それぞれの地名の配置を些かではあるが…地形の相違は致し方なく…考慮して、加えて文字を代えて行われた結果であろう。

いや、文字から地形が解っては困るから、変えたのが実際であろう。現在の地名の由来が不確かにしたのは、その大半の理由が「国譲り」と言える。

それはさて置き、引き続き祖の地を求めてみよう。

羽栗・知多・牟邪・都怒山

母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名のお出ましである。
 
羽栗:横代葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫

全て北九州市小倉南区の地名である。「栗」は甲骨文字を象ったとして…「羽栗」は…、
 
羽(羽の様な)|栗([栗]の形の山稜)

<天押帶日子命(祖)②>

…と紐解ける。栗の毬(イガ)が羽のように広がっていると記している。

この地は神倭伊波禮毘古命の段で日下之蓼津と記述されたところである。「蓼」に「羽」が含まれている。繋がった表記であろう。

山稜は見事に宅地開発されて当時を偲ぶことはできないが、「羽栗」の紐解きに何ら支障はなかったようである。

貫山山塊の北西の端(隅)に当たるところである。

「知多」は…、
 
知(鏃の形)|多(山稜の端の三角州)
 
…「知=矢+口」=「鏃」と解釈する。例えば大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の孫、和知都美命に含まれる「知」を同様に紐解いた。

現在の地図からは高低差も少なく、ほぼ住宅地になっているが、山稜の先端が鏃の形に突き出ている様子が伺える。先端はさす股の鏃と見做したのであろう。現在の知多半島、鏃に見えなくもないようだが・・・。「牟邪」は…、
 
牟([牟]の形)|邪(ねじ曲がる)
 
<牟邪臣・都怒山臣>
…「[牟]の形の川が大きくねじ曲がるところ」と紐解ける。後に開化天皇が坐する伊邪河宮に通じる。

これは「小ぶりでねじ曲がる」であるが…現地名長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。

現在の川も極めて蛇行の激しい様子を示していて、この長野川に比定できる。

「牟」の甲骨文字の形、「牛」の形が、この川の上流部の特徴を捉えているように思われる。

図に示したように二つの深い谷間から流れて出て合流している。また、白色破線で示したのは、推定した当時の海岸線である。実に「牟」と「邪」が近接した形を成していることが解る。

「都怒山」の「都」=「集まる」、「怒」=「女+又+心」と分解解される。「女」=「嫋やかに曲がる」、「又」=「[手]の形」、「心」=「中心」とすれば…、
 
都(集まる)|怒(嫋やかに曲がる[手]の形の中心)|山

…山稜の端で凹凸のある丘陵地帯を示していると解釈される。「又(手)」=「幾つかに分かれた山稜の端」の地形を表していると解釈する。「怒」と同様に「奴」、「取」、「坂」など多くの文字に含まれるが、全て同じ解釈である。
 
<天押帶日子命(祖)全>
中心の地は、現在の小倉カンツリー倶楽部(アウトコース)と推定される。地形は大きく変化しているが当時を偲ぶことは叶いそうである(上図参照)。

古事記では、「都怒」=「角」と置換えられるようである。後の仲哀天皇紀に「都奴(怒)賀」=「角鹿」が登場する。

尾張の都怒は、地形的な明瞭さには劣るが、類似する表記と思われる。

少々錯綜としてて面白いのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する

「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である。

最後は「近淡海国」…近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。

「近淡海国造」は些か広範囲で情報もなく、その地の交通の要所であり、ほぼ中心に位置するところとして現在の行橋市椿市辺りと推定した。

尚、「近淡海国造」の表記はこの段のみで、再度登場することはない。国として取り纏めるには至らなかったのであろう。後に古事記中最大の豪族宗賀一族が現れる地である。

「天押帶日子命」が祖となった地、一見してなかなかの布陣であろう。「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。

が、まだまだ時間を要する作業なのである。孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。これでも欠史と言えるか?・・・である。

2019年5月25日土曜日

大年神:大山咋神(山末之大主神) 〔350〕

大年神:大山咋神(山末之大主神)


速須佐之男命が神大市比賣を娶って誕生したのが大年神である。その大年神が実に多くの御子を誕生させる。その中の一人…秋津に居た天知迦流美豆比賣が生んだ「大山咋神」又の名を「山末之大主神」…である。

また、大年神の他の系譜には、伊怒比賣を娶って誕生した御子に韓神・曾富理神などが記されていて、韓国、京城と深い関係を持っていたと言われている。そして記述に矛盾があれば、神話だから、と放棄する。いずれにしても古事記は全く解読されていなかった、と断言できる。それはともかく、詳細はこちらを参照願う。

さて、本題の「大山咋神(山末之大主神)」の紐解きは、読み返すと、決して明解ではなかったことに気付いた。大活躍をされた神で、坐したところが複数あり、それに気を取られてしまった…単なる言い訳を述べて、早速紐解いてみよう。

該当する古事記原文を抜き出すと…「大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也」…である。

出雲に生まれ、近淡海国及び葛野にまで渡った人物であることが解る。通説は、良くできていて、「近淡海国」=「近江」として、琵琶湖周辺の地に比叡山、葛野が配置されているのである。従って、「大山咋神」が祭祀されている。祀られる方も、何で俺が?!…ってことであろうが、天皇陵と同様の状況であろう。


大山咋神(山末之大主神)
  
この名前を何と紐解くか?…「山末」の別名からすると山稜の端に坐していたのであろうが、「大主神」とは大物風の名付けであろうか・・・。


<大山咋神(山末之大主神)>
勿論、これでは至る所にある山稜の端から場所を特定することは不可能である。やはり「咋」の解釈に頼ることになる。

幾度か登場する「咋」=「口+乍」と分解される。「作」にも含まれる「乍」=「切れ目を入れる様」を象ったものと解説される。

結果として、ギザギザ(段々)になった形を表すものと解釈されている。伊邪那岐の禊祓で生まれた飽咋之宇斯能神などに含まれた文字解釈である。

類似の地形、山稜の端が海(汽水湖)に面するところは浸食によって複雑な形状を示すと思われる。それを「咋」と表記したと読み解ける。


大山(平らな頂の山稜)|咋(ギザギザになった地形)

…と紐解ける。

些か不運なことに「山末」は地形の高低差が少なく判別し辛いのであるが、その時は陰影起伏図を採用すると、「淡海」に面した場所でギザギザとした地形が見出せる。図に示した通りに父親の大年神の近隣の地である。

また、大年神が香用比賣を娶って誕生させた大香山戸臣神、御年神の前に隣接するところと解る。「大主神」とは、大物風などと述べたが、「主」=「山稜が[主]の地形」として「山末之大主神」は…、

平らな頂の山の山稜が[主]の形から伸びた稜線の端

…に坐した神と読み解ける。正に戸ノ上山山稜の中央部に位置する枝稜線の端っこに当たる場所である。端っこで誕生すると、新天地を求めて彷徨うのであろうか?…山の谷間に居ては巣篭ってしまうのかもしれない。彷徨う先が、何とも突飛なのだが・・・。


<大山咋神(山末之大主神)>
出自の場所に加えて、坐した場所が二つもある程に活躍をされた神である。その場所は「近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾」と記述される。

この神には「用鳴鏑神者也」と付記されるように武闘に長けていたのであろう。強引に遠征したのであろうか・・・。

突然倭国の地名が出現する。この記述だけでは到底突き止めることは不可能で後代の記述に依存する。それらを参照しながら求めてみよう。
 
・近淡海国之日枝山

「近淡海国」は、古事記で登場する初の場面である。現在の行橋市、京都郡みやこ町・苅田町辺りが該当するところである。

玄界灘・響灘に面するのではなく周防灘の一部に接し、倭国の中心に近接するところである。

古事記の中で発展する地であってその初期は蛇行する複数の川がある入江の「難波」の地であったと思われる。

「近淡海国」の場所が求められるのは、垂仁天皇紀に山邊之大鶙が鵠(クグイ:白鳥の古名)を求めて木国から高志まで追跡する行程の記述からである。水辺に佇む鵠の居場所を求める?…何故そんな説話を?…と訝っては勿体ない。登場する国々の場所が線で繋がった見事な記述なのである。安萬侶くんが伝えたかったのは、国々の配置であったことに間違いなかろう。

さて、その「近淡海国」にある「日枝山」は、入江の奥まった中央にあり中心の地点、現在の行橋市上・下稗田辺りにある小高いところと推定した。現在の日吉神社、比叡山それらの”本貫”となる地である。


<近淡海国之日枝山>
「日枝」とは何を示しているのであろうか?…「日(炎)」として、「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」と分解すると…、
 
[炎]の形の山稜が枝のように分かれているところ

…と紐解ける。

図に示したように長く延びた主稜線が更に分かれるところが見出せる。その枝稜線が[炎]のような地形を示している。

この地は後の開化天皇紀に比賣陀と記される。共にこの枝稜線の形を表したものと思われる。異なる文字で重ねられた表記である。

古事記が記す「日枝」の由来である。解ければ納得の地形象形と言えるであろう。「日枝山」は現在大規模な団地(宮の杜)となっているところと思われる。後の大雀命(仁徳天皇)が開拓する難波津の中央部にあり、天皇の宮こそ建てられることはなかったが、多くの命が住まった場所でもある。

「日枝(ヒエダ)」=「稗田(ヒエダ)」は関連する地名と思われるが、定かではない。「日吉」、「比叡」と文字が変化するが、それらの全ての元がこの地「日枝」にあると確信する。

・葛野之松尾

「葛野」は「吾勝野」と呼ばれた地域(現在の田川郡赤村赤)にある場所と比定した。その中に「松尾」と表記される場所が見出せるであろうか?・・・。
 

「松」=「木+公」と分解される。「公」の甲骨文字を図に示したが、「公」=「ハ+囗」と分解される。

「八」=「谷」の象形としてきたが、「ハ」=「谷が作る[ハ]の形」を象った表記と思われる。即ち二つの谷が集まるところを表していると読み解く。

「囗」がその間にある台地を示している。見事に「公」の文字ができ上がっているのである。

後に神八井耳命が祖となる伊勢之船木という地名が登場する。「船」=「舟+公」として同様に紐解ける。二つの谷が集まるところに渡し場ある地である。

近淡海国と同様、未開の地であったと思われるが、上記したように「用鳴鏑神」と言われ、武力を背景とした侵出を行ったようである。

上記の、唐突に記された「近淡海國之日枝山」、「葛野之松尾」は一体何を示そうとされたのであろうか?…坐したのであるが、その後の経緯は全く語られない。後代に近隣の地に命が入って行くが、その繋がりも不詳である。関連する資料がなかったからであろうが、大年神の系列として、発展する記述は見当たらない。

憶測の域ではあるが、これらの地は、邇藝速日命が戸城山に坐し、その子孫が南北に広がり(現在の田川郡赤村~北九州市小倉南区;参考図)、また、その領域に留まったことを示しているように感じられる。その領域の東側及び南側は全くの未開の土地であったのであろう。

邇藝速日命系列もさることながら、速須佐之男命ー大年神系列も、古事記が語る歴史の影の部分を担う役目となっているようである。そして、このコントラストこそが古事記が伝える主要なところの一つでもあることを忘れてはならないように思われる。



2019年5月22日水曜日

伊勢大神之宮:佐久久斯侶伊須受能宮・外宮 〔349〕

伊勢大神之宮:佐久久斯侶伊須受能宮・外宮


日子番能邇邇芸命の段で唐突に登場する宮である。実は、この段の解釈は古事記中最も難解なところと思われる。概略は主題のように「伊勢神宮=佐久久斯侶伊須受能宮」とすれば読み取れる内容なのだが、一文字一文字の解釈は簡単ではないようで、殆ど訳されていないのが現状であろう。

登場人物は概ね既出であるが、やはり地名が読取り難く感じられる。概略であっても、現在の伊勢神宮の場所を示しているとは到底思い難く、そんな背景からもスルーの状態を継続しているかもしれない。正に”禁忌”の世界に足を踏み入れることになる。

諸行無常、伊勢神宮の本来の姿を求めることは重要であろう。日本の天皇は、世界(文化)遺産と思うのだが・・・。尚、登場人物など詳細は、こちらを参照願う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

此二柱神者、拜祭佐久久斯侶、伊須受能宮自佐至能以音。登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也。次天石戸別神、亦名謂櫛石窻神、亦名謂豐石窻神、此神者、御門之神也。次手力男神者、坐佐那那縣也。故、其天兒屋命者、中臣連等之祖。布刀玉命者、忌部首等之祖。天宇受賣命者、猨女君等之祖。伊斯許理度賣命者、作鏡連等之祖。玉祖命者、玉祖連等之祖。
[この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮にはトヨウケの神を祭ってあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣の連等の祖先、フトダマの命は忌部の首等の祖先、ウズメの命は猿女の君等の祖先、イシコリドメの命は鏡作の連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖の連等の祖先であります]


御伴をした神々の行く末の一部である。武田氏は「佐久久斯侶、伊須受能宮」=「伊勢神宮」とサックリと訳されている。勿論直観的にも理解できるところではるが、一文字一文字の意味するところは不詳のようである。

一説には「佐久久斯侶」は「伊須受」の枕詞(拆釧:口の割れた鈴のついた腕飾り、五十鈴に掛かる)…「自佐至能以音」と注記されるように口に割れた鈴に関わる表記であろう。だが、「以音」とするには地形を象った記述と推察される。
 
佐久久斯侶伊須受能宮

ではその枕の意味は?…、
 
佐(促す)|久([久]の形)|久(山稜)|斯(切り分ける)|侶(仲間)

…「山稜に促されて[久]の形(二俣)に仲間(山稜)が切り分けられたところ」と紐解ける。「佐久(サク)」=「割く」と解釈しても通じるようであるが、重ねた表記と思われる(通説の口が割れた鈴は、この解釈に基づくのであろう)。下図<佐久久斯侶伊須受能宮>参照。

続けて、「伊」=「小ぶりな」、「須」=「州」、「受」=「受け渡す、引き継ぐ」の意味から地形象形的には、「受」=「連なる」、「能」=「熊(隅)」として…「伊須受能宮」は…、
 
伊(小ぶりな)|須(州)|受(引き連なる)|能(隅)|宮

…「小ぶりな州が引き連なるところの隅にある宮」と解釈される。「伊須受」の「受」は、天宇受賣命、また後の美夜受比賣毛受の「受」と同義であろう。

「佐久久斯侶伊須受能宮」を通して解釈すると…、
 
山稜に促されて[久]の形に切り分けられたところで
小ぶりな州が引き連なっている隅にある宮

…を示していることが解る。現在の北九州市小倉南区蒲生、現在の蒲生八幡神社辺りと推定される。


<佐久久斯侶伊須受能宮>
紫川の西岸、即ち蒲生八幡神社の東麓には谷間からの川が流れているのが伺える。国土地理院地図参照。

当時には、より多くの川が紫川と合流する場所であったと推測される。それを「伊須受」と表記したと思われる。

紫川の東岸については、現在は志井川との間に大きな三角州の地形を示すが、当時は紫川も志井川も幾つにも分岐して多くの州を形成していたと推測される。

北九州の地形・地質の調査資料に依ると紫川流域はかなり南側(内陸側)に至るまで沖積層の地層を示しているようである。現在の地形との差が大きく現れる地域かと推測される。

現在の地名、南方・徳力・守恒辺りは、沖積が未熟であり、紫川の氾濫する度に流れを変え、また分岐して州が形成されていたのではなかろうか。

ずっと後代の敏達天皇紀に伊勢大鹿首之女・小熊子郎女が登場する。この宮の近傍を「能=熊(隅)」と名付けていたと思われる。また「伊勢神宮、伊勢大神之宮」の表記で現れるのは、かなり後になって…例えば倭健命の記述など…である。
 
登由宇氣神(外宮之度相神)

ここで取り上げたいのが「登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也」の一文である。「登由宇氣神」は「豊受神」とも訳されるが、これが意味するところは何であろうか?…「坐外宮之度相神」坐してるところが「外宮の度相の神」だと言う。通説は、ほぼ全面的に解釈放棄である。こういう時に極めて重要な意味が潜んでいるのである。
 
度(広がり渡る)|相(山稜の隙間)

…「山稜の隙間が広がり渡っているところ」にある外宮は、内宮である「伊須受能宮」に対して川向こうにあり、向き合ってる状況と解る。「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解できる。後に登場する相津など多用される表記である。

「伊勢神宮」が上記のところとすると「外宮」は同区守恒の小高い丘の麓にあったのではなかろうか。「登由宇氣」は…、
 
登(登る)|由(寄り添う)|宇(山麓)|氣(気配:~らしい)

…「山麓らしきところに登って寄り添う」神と紐解ける。上記の場所の地形を表していると思われる。「豐受神」とすれば…、
 
豐が受け入れる神=豐(日別)にある神
 
<伊須受能宮・外宮>
…と紐解ける。簡単に言ってしまえば、ここも「豐」としましょう、という意味合いになる。

また「受」(引き継ぐ)の解釈を用いれば…、
 
豐が引き継ぐところの神

…と読み解ける。結果として「伊須受能宮」の「須(州)」が連なって「豐」が「受(引き継ぐ)」を表していると解釈できる。

天照大御神の詔「此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉」に従って、「佐久久斯侶、伊須受能宮」が造られたのである。「伊都岐奉」とは五穀を奉ることであろう。

その五穀を得る場所が紫川と志井川に挟まれた巨大な三角州、その州の中が治水されて連なっている状況を「度相」と表現したものと思われる。「此二柱神」とは天照大御神と高木神であろうか・・・。

伊邪那岐・伊邪那美が協同して生んだ最後の神について「和久巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神」と記述された。「和久産巣日神」=「穏やかに[く]の字に曲がる州を造り出す日神(日々の神)」と紐解いたが、これで繋がった。州を生み出す神の子、それが豐宇氣(受)毘賣神であると告げているのである。

本題の「登由宇氣神」の示すところは…上記守恒の小高い丘は「白日別」と「豐日別」の間の方向に位置する。「伊勢神宮」という表現を取らずに紫川の川中にある州の「受」の表現を用いてその場所を示していた。これが「五十鈴(イスズ)」に繋がるのであるが、古事記に鈴は登場しないようである。
 
<豐由宇氣神・櫛石窻神・忌部首>
「天石戸別神」は少し前の記述では「天石門別神」と記されているが、更に多くの別名を与えられる。

櫛石窻神」「豐石窻神」「御門之神」どうやら最後の表記が坐していた場所を表しているのであろう。

「石窻」は何と読み解くか?…、
 
石([石]の地形)|窻(通り抜けるところ)

…「天石門」と同様に「石」の文字形の地が見出せる。それに接して「窻」の地形(凹んだところ)も見出せる。両方の地形が並んだ場所を表していると解釈される。

更に「御門之神」は…、
 
御(束ねる)|門(谷間の登り口)

…「[石窻]の山稜にある谷間の登り口を束ねるところ」と紐解ける。現地名は北九州市小倉南区守恒にある八旗八幡神社辺りと推定される。小高くなった場所で古墳があるとのこと(参考資料)。

「櫛」=「櫛の目が並んだような」、「豐」=「多くの段差がある高台」と解釈すれば、「石窻」の地形を詳しく表していると思われる。また、上記したように「豐(日別)」に重ねているとも思われる。

「天」(壱岐)の「石」と同じ地形象形を行っていることが解る。そして、その「石」が繋がっていることを示しているのである。多くの別名を記して「石」が示す意味を伝えようとした記述ではなかろうか。現在の蒲生八幡神社、八旗八幡神社及び大権現がある場所、それが伊勢神宮内宮・外宮の”本貫”の地であると読み解ける。
 
忌部首・中臣連

布刀玉命が祖となった「忌部首」の場所も併せて図に示した。「忌」=「己+心」と分解して、蛇行する地形を表すと解釈する。神武天皇紀に登場する紀國などに類似する。頻出の「首」=「凹(窪)んだところ」である。現地名は小倉南区葉山町辺りでる。
 

<中臣連>
少しサイトを検索すると、朝廷の祭祀を司った氏族であって、主に御門祭の時には忌部氏の祝詞が用いられたとのことである。

次に述べる中臣氏がその他の祭を担当したが、次第に取って代わられたようである。
上図に示した通り、忌部氏は御門の近隣に位置している。本来の姿が読み取れたのではなかろうか。

天兒屋命が祖となった「中臣連」の「中」=「真ん中を突き抜ける様」と解釈すると・・・、

「中臣」は…、
 
左右対称に開いた山麓の谷間

…と紐解ける。更に「連」=「山稜の端が延びて連なった様」を表していると読み解ける。

これが「中臣連」の出自の場所であり、それは伊須受能宮に近接しているところである。邇邇芸命の降臨に随行した命達は、猨女君を除き伊勢大神宮の近隣に住まい、そして祭祀を執り行う役目を担ったと告げている。そして中臣氏は後に藤原氏としてその権勢を天下に知らしめることになる。

現在の伊勢神宮の外宮と内宮を繋ぐ道も古市参宮街道などとして大切に保存されているようである。「豐」=「豊かな」も掛けている、としておきましょう。あや、そうなってるではないか…衣食住の恵みの神…。(2020.03.08改)


2019年5月20日月曜日

淡海國賤老媼:置目 〔348〕

淡海國賤老媼:置目

山部連小楯に見つけ出された意祁命・袁祁命の兄弟、弟の「袁祁之石巢別命」が即位する。「石巣別」が付帯する。その地を与えられたのであろう。ともかくも仇討話しが記述される。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

伊弉本別王御子、市邊忍齒王御子・袁祁之石巢別命、坐近飛鳥宮治天下、捌也。天皇、娶石木王之女・難波王、无子也。此天皇、求其父王市邊王之御骨時、在淡海國賤老媼、參出白「王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。」御齒者、如三技押齒坐也。爾起民掘土、求其御骨、卽獲其御骨而、於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓帒之子等、令守其陵。然後持上其御骨也。
[イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、御子はありませんでした。この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤しい老婆が參つて申しますには、「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。またそのお齒でも知られましよう」と申しました。オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。後にはその御骨を持ち上りなさいました]

<淡海国>
求めていた父親の市邊忍齒王の墓所について、耳寄りな情報が得られた。

淡海之久多綿之蚊屋野大長谷若建命(雄略天皇)に殺害された父親の亡骸があると言う。

置目老媼」が教えたところにあった亡骸の歯から、父親であることを確認して、蚊屋野の東の山に陵を造り、韓帒の子に守らせたと伝える。

実に具体的な記述であり、登場する地名も明解である。「淡海」=「近江」とする通説は「久多(くた)」の有様である。
 
置目老媼
 
「淡海國賤老媼」に「賜名號置目老媼」と名付けたと伝える。「東山」=「この地の東方にある山」、現在の皿倉山山塊であることが解る。陵はその麓とすると現在の北九州市八幡西区市瀬辺りにあったと推定される。
 
<置目老媼>
名付けた「置目」は一体何を示そうとしているのであろうか?…不失見置・知其地」からの命名とある。

そのままの通りかと思われるが、古事記の読み解きでは、要注意の表現である。

「置目」とは?…「目」=「筋、区切り」とすると、福智山山塊が北に延びた先で大きな谷を作るところ、皿倉山・権現山の南麓の谷筋を示すと思われる。
 
「置」は何と解釈するか?…「置」=「网+直」と分解される。「网」=「閉じ込められた」様を表し、「直」=「真っすぐに区切られた」様とすると…、

「置目」は…、
 
置(閉じ込められた真っすぐな地)|目(谷間)

<蚊屋野~佐佐紀山>
…と紐解ける。「老媼」は”老婆”を表しているのであろが、ならば”老女”と表記すれば済む。やはり地形象形であろう。「老媼」は…、
 
老(海老のように曲がった)|媼(取り囲まれた窪んだ地)

…谷間の出口の北側の山稜の地形を示していることが解る。「媼」=「女+𥁕」と分解され、更に「𥁕」=「囚+皿」から成る文字と知られる。しいて訳せば「平らな地で取り囲まれた」様を表す文字と解釈される。

御陵はこの谷間に造ったのであろう。「置」=「留める」から、その後移したことも重ねた表記のように思われる。図に蚊屋野から佐佐紀山までを示した。「置目」と「韓帒」との距離は直線で7km弱、関係して登場することに無理はなさそうである。

登場人物も少なく、この地の詳細が語られることはないが、竺紫日向の古遠賀湾対岸の地にも人々の生業があったことが伺える記述であろう。

繰り返し述べて来たように古事記の世界に「住所」は無いのである。いや、その概念さえもなかったであろう。それを為そうとした勇気と根気に敬意を表したい。これが読めていない現状では、総ての古事記解釈は妄想の域を脱していないと言える。
 
片岡之石坏岡上
 
<片岡之石坏岡上>
袁祁命(顕宗天皇)の御陵が「片岡之石坏岡上」とある。

「片岡」=「低く平らな丘稜」、「石」=「山麓の小高いところ」と読めるが、「坏」は何と解釈するか?・・・。
 
坏」=「土+不」と分解すると、「不」=「花の雌蕊」を象った文字と解説される。

「蕾」説もあるが、どうやら古事記は「雌蕊、子房」説を採用しているようである。

既に登場した「咅」と同じ象形であることが判る。「片岡之石坏岡」は…、
 
山麓の低く平らな丘稜にある雌蕊のような岡

…と紐解ける。

「岡」が二つも記されるのは、雌蕊を包むところが逆様にした「岡」の形をしているからであろう。現在の同町犀川大村の北側、犀川大坂笹原・松坂と犀川谷口に挟まれたところである。尚、後の武烈天皇も同じところと記載される。

説話は雄略天皇の之多治比高鸇にあった墓に「少掘其陵邊」を施して恨みを晴らしたと結ぶ。意祁命の知恵が冴えた、というところであろうか。がしかし、皇位継承の暗雲が晴れたわけではない。



2019年5月17日金曜日

平群の志毘と菟田の首等:再考 〔347〕

平群の志毘と菟田の首等:再考


再考のブログがすっかり増えて来た・・・なかなか一筋縄では紐解けない古事記であるが故に、これからも引き続く・・・のでなければ良いが・・・。そんな訳で、少し前の「山部連小楯」に関連した説話に登場する「平群臣之祖・名志毘臣」、「菟田首等之女・名大魚」について纏め直してみよう。

かなり以前に平群の志毘と菟田の首等 〔138〕として投稿したものの改訂版となる。ほぼ一年半前の記述なのだが、その後もいくらか手を加えて現在に至っている。建内宿禰:平群都久宿禰・木角宿禰 〔338〕で述べた「平群」の詳細を参照願う。
 
平群臣之祖・志毘臣

平群は建内宿禰の子、平群都久宿禰が切り開いた地であり、現在の福岡県田川市~田川郡に横たわる丘陵地帯であると比定した。「志毘」は地形象形として紐解けるであろうか?・・・「志」=「之:蛇行する川」と思われるが、「毘」は波多毘の「臍(ヘソ)」あるいは開化天皇の諡号である毘毘命の「坑道の前に並ぶ人々を助ける(増やす)」では平群の丘陵地帯に合致する場所はなさそうである。

「毘古」の場合と同様に「毘」=「田+比」と分解して、「田を並べる」と読むと、「志毘」は…、
 
志(蛇行する川)|毘(田を並べる)

…「蛇行する川の傍らで田を並べたところ」と解釈される。現在の田川郡川崎町田原辺り(現在は西・中・東田原と細分化されているようだが…)と推定される。中元寺川と櫛毛川が合流する地点であり、川崎町の中心の地と思われる。山間の場所ではあるが、真に豊かな川の水源とその流域の開拓によって繁栄してきたものと推察される。
 
<志毘・菟田>
茨田(松田)は谷間を利用した水田である。給水と排水が自然に行われ初期の水田開発には最も適したところであったが、その耕地面積の拡大には限りがある。

一方、平地が沖積によって急激に拡大し河川の築堤、排水の手段が講じられるようになると圧倒的に耕地面積が増加していったものと推察される。

生産量の増大が生んだ豪族間格差の広がりを示しているようである。

平群は内陸にあり、都から遠く離れたところであり、決して先進の地ではなかったであろう。この地理的条件が天皇不在時に志毘という人物を登場させる要因であったと思われる。
 
結果的には叩き潰されてしまうのであるが、彼以外にも登場して何ら不思議ではない人物も居たことであろう。時の流れ、地形の変化、水田耕作の進化等々、それらを記述していると読み取ることができる説話と思われる。
 
では娶ろうとした美人の「菟田首等之女・名大魚」は何処に住まっていたのであろうか?・・・。
 
菟田首等

まかり間違っても「菟田」は「ウダ」ではない。「菟田」=「斗田(トダ)」である。高山の「斗」ではなく丘陵地帯の「斗」で少々判別が難しく感じるが、上記の「志毘」の近隣にあった。


<菟田首等・大魚>
「首等」は「斗」が作る「首」の形を捩ったものであろう。下関市彦島田の首町に類似する。

更に「等」の文字は初登場である。古事記が記述する範囲外では重要人物に用いられたようであるが、「等(ラ)」で読み飛ばすところであった。固有名詞ならば地形を表している筈であろう。

「等」=「竹(小ぶりな山稜)+寺」と分解すると、「寺」=「之:蛇行する川」と紐解ける。伊邪那岐の禊祓で誕生の時量師神など。

「等」=「小ぶりな山稜の谷間を蛇行して流れる川」を表していると読み解ける。この「斗」の地に全て揃っていることが解る。

美人と聞けば、どうしてもその謂れが知りたくなる…という訳で求めた結果は、やはりそのままズバリの地形象形のようである。お蔭で、少々「菟=斗」の形が崩れかかっている地ではあったが、比定確度が一気に高まった、と思われる。それにしても魚の真ん中の「田」と下の「灬」の部分を上手く捉えたものである。

加えて二人の御子と志毘臣との遣り取りの歌、何となく分かりそうではあるが、原文の直接的な解釈が今一でもある。案の定、志毘臣及び大魚の居場所が潜められていた。再度抜き出すと「斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由[潮の寄る瀬の浪の碎けるところを見れば遊んでいるシビ魚の傍に妻が立つているのが見える]」。

①斯本勢能

「斯」=「切り分ける」、「本」=「山麓」、「勢」=「山稜に挟まれた小高いところ」、「能」=「熊:隅」とすれば…、
 
山麓を切り分けた小高いところの隅

…と紐解ける。

②那袁理袁美禮婆

「那」=「整った」、「袁」=「ゆったりとした山麓の三角州」、「理」=「区分けされた田」、「美」=「谷間に広がる地」、「禮」=「高台」、「婆」=「端」とすれば…、
 
整ったゆったりとした山麓の三角州に区分けされた田があり
その三角州の谷間に広がる地の高台の端

…と紐解ける。

③阿蘇毘久流

「阿」=「台地」、「蘇」=「山稜が寄り集まる」、「毘」=「田を並べる」、「久」=「[く]の形」、「流」=「広がる」とすれば…、
 
山稜が寄り集まった台地に田が並べられて[く]の形に広がる

…と紐解ける。


<志毘臣>
④志毘賀波多傳爾

「波多」=「端」、「傳」=「続く」とすれば…、
 
志毘の端に続くところで

…と紐解ける。

⑤都麻多弖理美由

「都麻」=「妻」とすれば…上記の武田氏の訳通り「妻が立っているのが見える」となるが・・・。

「都(集まる)」、「麻(近接する)」、「多(山稜の端の三角州)」、「弖([弓]の形)」、「理(区分けされた田)」、「美(谷間に広がる地)」、「由(如し)」とすると…、


近接する山稜の端の三角州が集まり谷間に広がる地で
曲りくねって区分けされた田がある様子

…と紐解ける。回りくどいようだが「大魚」(とりわけ尾の部分)の地形をそのまま述べていると思われる。「弖」=「[弓]の形:曲りくねる様」と読み解く。安康天皇紀に登場する目弱王の「弱」の解釈に類似する。

「妻(大魚)」と志毘臣の場所を見事に表している歌であることが解る。初見では志毘臣の場所をもう少し南側と推定したが、「志毘」の情報からだけでは何とも特定し辛いところであった。上記の歌は極めて詳細である。これこそ「古事記の暗号」と言えるのではなかろうか。

「斯」、「勢」、「袁」、「阿」、「蘇」、「久」、「麻」、「多」、「美」など地形を表す文字が盛り沢山に使われている。そして重要なことは「志毘」と「大魚」の位置関係、正に両者は目と鼻の先、しっかり見張れる位置なのである。だから志毘臣が”切れた”。

最後の歌、「意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘[大きい魚の鮪を突く海人よ、その魚が荒れたら心戀しいだろう。 鮪を突く鮪の臣よ]」は、お前の傍にいる大魚(鮪:シビ)は私の妻になる…と止めをさしているのである。

「志毘」=「鴟尾(シビ)」も掛けられているのかもしれない。宮殿の大棟に取り付けられる鳥の尾の形とのこと…それを突いてはいけません。兄弟の謀議は必然的に行われた、と伝えている。

「志毘」の出自は語られないが、平群臣の祖となった平群都久宿禰を遠祖に持つのであろう。天皇家の混乱に乗じて新興勢力として力を示していた様子が伺える。彼らは葛城一族なのであるが、時を経るに従って同じ一族間でも主導権争いは生じるものである。その一面を説話が伝えたものと推察される。

2019年5月15日水曜日

袁本杼命(継体天皇):坂田大俣王之女・黑比賣 〔346〕

袁本杼命(継体天皇):坂田大俣王之女・黑比賣


古事記に登場する「坂」はいつも唐突である。八坂之入日子命、八坂之入日賣命の八坂、建内宿禰の御子、木角宿禰が祖となった坂本臣など、読み手にとって何の修飾がなくても分る筈として、簡明な、そして異なる表記で重ねたものでもなく、である。

黄泉比良坂、出雲国之伊賦夜坂のようにそれなりに修飾されていれば紐解きようもあるが、いきなり「坂」では如何ともし難しの状況であろう。と言う訳で、その他の情報、例えば誕生する御子達などの居場所と絡めて読み解くことになる。

古事記原文…、

品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。天皇、娶三尾君等祖・名若比賣、生御子、大郎子、次出雲郎女。二柱。又娶尾張連等之祖凡連之妹・目子郎女、生御子、廣國押建金日命、次建小廣國押楯命。二柱。又娶意祁天皇之御子・手白髮命是大后也生御子、天國押波流岐廣庭命。波流岐三字以音。一柱。又娶息長眞手王之女・麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。一柱。又娶坂田大俣王之女・黑比賣、生御子、神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣。四柱。又娶三尾君加多夫之妹・倭比賣、生御子、大郎女、次丸高王、次耳王、次赤比賣郎女。四柱。又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女、次都夫良郎女、次阿豆王。三柱。
此天皇之御子等、幷十九王。男七、女十二。此之中、天國押波流岐廣庭命者、治天下。次廣國押建金日命、治天下。次建小廣國押楯命、治天下。次佐佐宜王者、拜伊勢神宮也。此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。
天皇御年、肆拾參丁未年四月九日崩也。御陵者、三嶋之藍御陵也。

袁本杼命(継体天皇)の娶りの記述に「坂田」が登場する。他の娶りは、既出であったり、また何某かの修飾が施されている。やはり、唐突なのである。と言う訳で、なけなしの知恵を絞って解読する羽目になる。前置きは、これくらいにして、先に進めてみよう。
 
坂田大俣王之女・黑比賣

「坂田」は初出である。手掛かりは「大俣王」と思われる。開化天皇の御子、日子坐王が山代之苅幡戸辨(苅羽田刀辨)を娶って誕生したのが大俣王であった。これが引き継がれているとすると苅羽田の近隣を「坂田」と称していたのではなかろうか。
 
<坂田大俣王の比賣と御子>
御所ヶ岳山塊から犀川(今川)に流れ出る松坂川沿いの地は急勾配の「坂」にある田の表現に合致すると思われる。

古事記記述の流れから推察すると上記のように思われるが、「坂」の文字そのものの地形象形を読み解いた経緯もある。

建内宿禰の御子、木角宿禰が祖となった坂本を「坂」=「土+厂+又」と分解して「崖下の[手]の地形」と紐解いた。

より類似の地形としては、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御子、八坂之入日子命に含まれる「八坂」が挙げられる。

御所ヶ岳山稜から延びる無数の[手]を表していると思われる。その[手]の先に田がある地は特異であること、それが何の修飾も無く「坂田」と記された所以なのであろう。

「黒比賣」の名前がこの地であることを支持する。孝霊天皇の黑田廬戸宮の「黑」とすると、[炎]の地形の山稜の端が見える。

御子に「神前郎女、次田郎女、次白坂活日子郎女、次野郎女・亦名長目比賣」と記される。この名前が極めて貴重な情報を提供してくれる。

現在に残る地名も犀川大坂松坂・城坂・神田がある(Bing地図[ⒸZenrin]参照;Google Mapにも記載されていたが消失)。古事記に記された文字…神前(神田)、白坂(城坂)…との重なりも見出だせる。

神前郎女」は「神」=「雷」の山稜の先。「白坂活日子郎女」は「白」=「団栗の形」として山稜から突出たところ(十鞍山)の麓の坂と解釈する。「活」=「氵+舌」で「川の畔に延びた[舌]のようなところ」と紐解ける。「長目比賣」は頻出の「目」=「山稜の隙間」この場合は「山腹の谷間」と読み解く。「田郎女」はそれらに囲まれたところかと思われる。

上図に纏めて示した。相変わらずの精緻な表記と頷かされるところである。全て比賣であろうが、山代の「苅羽」の地の開拓も大きく進捗したものと思われる。残念ながら、これらの比賣を娶る天皇は登場しなかった。山代は開けたものの、それ以上の発展が見込める広さは有していなかった。崖下の土地ではなく、大河の中~下流域の開拓が待たれたのであろう。それは古事記が語る時代ではないのである。