2019年5月30日木曜日

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):天押帶日子命 〔351〕

御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):天押帶日子命


第五代天皇の御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)については、葛城孝昭天皇の回帰 〔087〕、また
御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇):葛城掖上宮 〔324〕と記述して来たが、なかなかに読み解き辛い内容で、更に大活躍の御子も登場していた。

その一人の天押帶日子命…次期天皇の大倭帶日子國押人命(孝安天皇)の兄に当たる…が祖となった地名も、唐突な出現で戸惑うところであった。あらためて見直してみようかと思う。


<尾張国>
古事記原文…、

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱

天押帶日子命は御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男である。

この命が祖となった多数の地が記載されるのであるが、とりわけ尾張国及び春日・宇遲の地名が遠慮会釈なく羅列される。

言い換えれば、これらの地に早期より天皇家が侵出したことを示しているのであろう。またそれだけに重要な地点であったことが伺える。

図に古事記の登場する尾張国関連地名を纏めた。貫山の北稜の尾根が伸びて張り出た地域を、正に隈なく登場させていることが解る。小倉南区を流れる長野川・横代川周辺流域が古事記の尾張国と比定できる一つの証左でもあろう。

さて、主題の「天押帶日子命」について、既述と重なるところも併せて述べてみよう。天押帶」とは何を意味するのであろうか?…「帯=多羅斯」と古事記序文にある。元々は「結び垂らす」なのか「足らす」から来るのか、思い巡らすことは複数である。

前後するが、弟の大倭帶日子國押人命の「國押人」は「押」=「手+甲(甲羅の象形:田)」=「手を加えて田にする」と解釈される。ならば…、
 
國押人=大地に手を加えて田にする人

…とした。「國」は限られた範囲の大地を示していると思われる。「押」を同様に読み解くと…「天=阿麻」ではなく…「天押帶」は…、
 
天(あまねく)|押(手を加えて田にする)|帯(足らす)

…「天の下あまねく田を作り足らす(満たす)」の解釈となろう。例によって掛詞として使うこともあろうが、「帯」が意味するところは上記で理解できることが判った。事実、彼は、本当かい?…と思われるほど各地の祖となるのである。

天照大御神の読み解きの一つである「天照」=「遍く(あまねく)照らす」に類似する表記であろう。「天」も幾つかの用法があるが、複数に重ねられた意味を示そうとする古事記たるところである。

また、「帶」=「多羅斯」の表記をそのまま紐解くと…、


多(山稜の端の三角州)|羅(連なる)|斯(切り分ける)

…「山稜の端の三角州が連なるところを切り分ける」となる。極めて具体的な地形象形の表記と思われる。いずれにしても三角州を切り分けて耕地にした命に変わりはないようである。

古事記原文…、

兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。

…兄の天押帶日子命が祖となった十六の地を探してみよう・・・。

春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂

邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。結論を先に記すと…全て福岡県田川郡赤村に属する現在の地名である(但し柿下は田川郡香春町)

春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂

「春日」は邇藝速日命が降臨して坐した戸城山近隣であり、この地の中心となる地(中村)とした。「大坂」は現在の京都郡みやこ町犀川大坂の地名があるが、「春日」の中にある「大坂」を採用する。「柿本」は「本=下」として「柿下」に比定した。詳細は下記する。
 
<天押帶日子命(祖)①>
「大宅」の「宅」=「宀(山麓)+乇(寄り集まる)」に分解すると、山稜の端が寄り集まって、平らな台地が広がっているところと紐解ける。図に示した現在の大内田辺りと推定される。

「乇」=「寄り集まる」の原義を有すると解説したのは藤堂明保氏であり、その慧眼に感謝である。そしてその通りの意味を用いた安萬侶くんにも謝辞を述べておこう。

「粟田」の「粟」の解釈は伊豫之二名嶋の粟国に類すると思われる。「粟」=「たわわな様」の場所を求めると、現在の赤村内田の小内田辺りではなかろうか。粟国の山稜の形とは異なり田の連なる様を模したものと思われる。

「小野」は現在の小柳という地名のところと推定した。山稜の端が「小」の形をしていることに由来すると思われる。左図を拡大して参照。

残る「壹比韋」について紐解いてみる。これは応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。通説は「櫟井(イチイ)」に当てる。
 
(専ら、総て)|(並べ備える)|(囲い)

…「全てに囲いを並べ備える」場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。


田川郡赤村内田山ノ内と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した、おそらく当時はより隔離された場所であっただろう。

応神紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「壹比韋」と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかもしれない。「宇遅=内」に通じる。古事記全体を通じて…、
 
丹=極めて貴重な資源

…と記述されているのである。

<柿本(下)>
いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。

あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。

このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。

ところで「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」と思われる。

「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。

「柿」=「木+市」=「山稜が[市]の形」尾根と山稜が作る地形が「市」の字形を表していると見做したのである。
 
柿本(下)=山稜が作る[市]の字形の麓

山頂が約500mほぼ平坦な形状を示すことと尾根から真っ直ぐに降りる稜線が際立つ山容である。現在に繋がる地名由来としたが、果たして納得頂けるであろうか・・・。
 
<大坂山>
全くの余談だが・・・隣の「大坂山」も単に「大きな坂」からだけでの命名でもなかろう・・・では何を模したのか?…図を参照。

大坂山の山陵が作る稜線を結んだら…少し間延びした「大」だが…長く平坦な主稜線の峰と延びた枝稜線が描く文字が浮かんで来る。

間延びの稜線が「坂」を示す。「大坂山」は…、
 
[大]の字の地形が坂になった山

…と紐解ける。ありふれた文字の地形象形ほど難しいものはない、であろう。

「大きな坂」何処にでも転がっているような解釈では一に特定は不可であったが、古事記中最も重要なランドマークの一つである「大坂」は極めて高い確度で、田川郡香春町柿下(大坂)と京都郡みやこ町犀川大坂の間に横たわる山稜を示していたことが解る。

阿那・多紀・壹師・伊勢飯高

さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。
 
阿那:平尾台 多紀:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野

<多紀臣>
「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地、洞穴だらけの「平尾台」とする。勿論…、


阿(台地)|那(ゆったりとした)

…である。

「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…勿論掛けている筈。「多紀」は…、
 
多(山稜の端の三角州)|紀(畝る)
 
「紀」は頻出で、例えば胸形三女神の長女の名前(多紀理毘賣)に含まれている。「紀」=「糸+己(畝る、曲がりくねる)」地形を象形していると紐解いた。現地名は北九州市小倉南区高津尾である。

<壹師>
「壹師」は上記の北方に「志井」という現地名がある。語順を捩って残存する地名ではなかろうか・・・とこれで終わってしまうと通説の域を脱せない?・・・。

「壹師」は…、
 
壹(専ら、総て)|師(凹凸の地形)

…「専ら、総て凹凸の地形」と読み解ける。

「師」は「師木」など山稜の端で無数の凹凸が見られる場所、当時の主要地点で用いられる文字である。「壹師君」は上図の多賀神社辺りに坐していたのではなかろうか。

「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。「飯高」は…、
 

<伊勢飯高>
飯(なだらかな山陵の麓)|高(高い)

…「なだらかな山稜の麓にある高い台地」と読み解ける。既出の「飯=食+反=山+良+反」とする解釈である。合致するところであろう。

「伊勢飯高君」は現在の白山神社辺りに坐していたのかもしれない。

「伊勢神宮」に近接する現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡が・・・内宮と外宮が渡って合う「度会」もあった。

古事記は律令制後の地名を付けるのに、格好の書物であっただろう。それぞれの地名の配置を些かではあるが…地形の相違は致し方なく…考慮して、加えて文字を代えて行われた結果であろう。

いや、文字から地形が解っては困るから、変えたのが実際であろう。現在の地名の由来が不確かにしたのは、その大半の理由が「国譲り」と言える。

それはさて置き、引き続き祖の地を求めてみよう。

羽栗・知多・牟邪・都怒山

母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名のお出ましである。
 
羽栗:横代葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫

全て北九州市小倉南区の地名である。「栗」は甲骨文字を象ったとして…「羽栗」は…、
 
羽(羽の様な)|栗([栗]の形の山稜)

<天押帶日子命(祖)②>

…と紐解ける。栗の毬(イガ)が羽のように広がっていると記している。

この地は神倭伊波禮毘古命の段で日下之蓼津と記述されたところである。「蓼」に「羽」が含まれている。繋がった表記であろう。

山稜は見事に宅地開発されて当時を偲ぶことはできないが、「羽栗」の紐解きに何ら支障はなかったようである。

貫山山塊の北西の端(隅)に当たるところである。

「知多」は…、
 
知(鏃の形)|多(山稜の端の三角州)
 
…「知=矢+口」=「鏃」と解釈する。例えば大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の孫、和知都美命に含まれる「知」を同様に紐解いた。

現在の地図からは高低差も少なく、ほぼ住宅地になっているが、山稜の先端が鏃の形に突き出ている様子が伺える。先端はさす股の鏃と見做したのであろう。現在の知多半島、鏃に見えなくもないようだが・・・。「牟邪」は…、
 
牟([牟]の形)|邪(ねじ曲がる)
 
<牟邪臣・都怒山臣>
…「[牟]の形の川が大きくねじ曲がるところ」と紐解ける。後に開化天皇が坐する伊邪河宮に通じる。

これは「小ぶりでねじ曲がる」であるが…現地名長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。

現在の川も極めて蛇行の激しい様子を示していて、この長野川に比定できる。

「牟」の甲骨文字の形、「牛」の形が、この川の上流部の特徴を捉えているように思われる。

図に示したように二つの深い谷間から流れて出て合流している。また、白色破線で示したのは、推定した当時の海岸線である。実に「牟」と「邪」が近接した形を成していることが解る。

「都怒山」の「都」=「集まる」、「怒」=「女+又+心」と分解解される。「女」=「嫋やかに曲がる」、「又」=「[手]の形」、「心」=「中心」とすれば…、
 
都(集まる)|怒(嫋やかに曲がる[手]の形の中心)|山

…山稜の端で凹凸のある丘陵地帯を示していると解釈される。「又(手)」=「幾つかに分かれた山稜の端」の地形を表していると解釈する。「怒」と同様に「奴」、「取」、「坂」など多くの文字に含まれるが、全て同じ解釈である。
 
<天押帶日子命(祖)全>
中心の地は、現在の小倉カンツリー倶楽部(アウトコース)と推定される。地形は大きく変化しているが当時を偲ぶことは叶いそうである(上図参照)。

古事記では、「都怒」=「角」と置換えられるようである。後の仲哀天皇紀に「都奴(怒)賀」=「角鹿」が登場する。

尾張の都怒は、地形的な明瞭さには劣るが、類似する表記と思われる。

少々錯綜としてて面白いのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する

「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である。

最後は「近淡海国」…近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。

「近淡海国造」は些か広範囲で情報もなく、その地の交通の要所であり、ほぼ中心に位置するところとして現在の行橋市椿市辺りと推定した。

尚、「近淡海国造」の表記はこの段のみで、再度登場することはない。国として取り纏めるには至らなかったのであろう。後に古事記中最大の豪族宗賀一族が現れる地である。

「天押帶日子命」が祖となった地、一見してなかなかの布陣であろう。「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。

が、まだまだ時間を要する作業なのである。孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。これでも欠史と言えるか?・・・である。