2020年2月27日木曜日

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅰ) 〔391〕

坐岡本宮治天下之天皇:舒明天皇(Ⅰ)


古事記が途切れて、何を思ったのか中国史書へと彷徨ってしまった。そして他国史書に登場する地名・人名など全てが古事記に記載された地形象形表記であることが解った。日本の古代史上、幾多の論争が行われた魏志倭人伝に記載された邪馬壹國の在処は、一に特定され、奈良大和あるいは北部九州などという曖昧な場所ではなく、女王卑彌呼の坐した場所を求められたのである。

日本の史書と中国史書に記載された内容が全く繋がらない、何故か?…これも永遠の謎のように思われて来た。事実その解明は殆ど放棄された感があり、繋がらなくて当然のごとき論調さえ伺わせる有様である。しかし、見事に繋がったのである。隋書俀國伝、そこには倭國と俀國の二つの国名が登場し、更に旧唐書東夷伝に至って俀國は日本國と称されることになる。

これら読み解いた史書は、その時点において入手し得る資料に基づき、可能な限り真実を伝えようとする姿勢で書き綴られた書物であることが明らかとなった。即ち日本の正式な史書として伝えられる日本書紀の記述から読めば多くの矛盾が生じることになるわけである。そして混迷の歴史学に陥ってしまったのが現状であろう。改竄と無視に満ちた解釈、あり得ない蛮行が蔓延る世界である。

更に全く未解明の銅鐸・古墳に関する現在までの考古学上の知見から弥生・古墳時代における日本列島に住まう人々の出自を推論した。それはアジア大陸西方から押し寄せる文明開化の波によって押し出された民族が東へ東へと移動した赤裸々な状況を物語るものであり、極東の日本列島に押し寄せ、安住の地を得た人々の集まり合う世界であったことが浮かび上がって来た。

縄文→弥生→(銅鐸)→古墳と劇的な時代模様を示す事実は、異なる文化を持つ民族による置き換わり以外の何物でもなかろう。ましてや万世一系の史観で読むことなど全く場違いであろう。大切なことは異なる文化の民族が寄り集まって一つの国を作り上げたことなのである。DNAハプログープ解析が示すように正に多様な遺伝子を有する民族となった。「万葉」の世界にどっぷりと浸るわけである。邪馬台国比定地が数百か所あることを楽しむ人々の国でもある。

さて、そんな背景で残るは(修)正史日本書紀を摘まみ食いしてみようかと思い至った。既に古事記序文で述べたように万葉集も併せて読み解けば何らかの貴重な情報が得られるかもしれない。

古事記原文…、

此天皇之御子等、幷十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王・亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇、次中津王、次多良王。三柱。又娶漢王之妹・大俣王、生御子、智奴王、次妹桑田王。二柱。又娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。幷七王。
 
<忍坂日子人太子・坂騰王・宇遲王>
…「此天皇」=「沼名倉太玉敷命(敏達天皇)」で、息長眞手王之女・比呂比賣命を娶って誕生したのが「忍坂日子人太子・亦名麻呂古王」と記述されている。

この太子の出自は息長系であり、忍坂の場所にある場所の地形に所縁を持つと解釈した。三人兄弟の長男であり、妹達の居場所も併せて示した。

角鹿出身の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が宗賀之稻目宿禰の孫である豐御食炊屋比賣命を娶って多くの御子が誕生しているが、太子は息長系の忍坂日子人となっている。

宗賀(蘇我)氏の権勢が露わになる直前の日嗣の予定だったのであろう。予定は未定の通り、敏達天皇の崩御の後を継いだのは橘豐日命(用明天皇)となる。宗賀の御子である。隋書俀國伝に登場する「阿毎多利思北孤阿輩雞彌」と読み解いた。

そして宗賀一族が長谷部若雀天皇(崇峻天皇)、豐御食炊屋比賣命(推古天皇)と繋がり、その後の日嗣で、日子人太子が腹違いの妹の田村王・亦名糠代比賣命を娶って誕生した坐岡本宮治天下之天皇(舒明天皇)の登場となる。屈折したところを日本書紀は何と記述しているのであろうか?・・・読み進んでみよう。
 
<田村王の御子:多良王・中津王>
田村王・亦名糠代比賣命は、沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が伊勢大鹿首之女・小熊子郎女を娶って生まれ、寶王とも記されている。

現在の小倉南区にある虹山の北麓に出自を持つ比賣と推定した。いずれにしても父方、母方共に宗賀一族とは異なり、息長・伊勢系の出自であると述べている。

上記したように御子二名は諡号を記すが、「坐岡本宮治天下之天皇」には当てられていない。古事記は豐御食炊屋比賣命(推古天皇)までの記述であってその後は範疇に属さない。

何とも律義なことである。古事記編纂の指示者でもある天武天皇に憚ることでもあったのか、後日に感想を述べてみたく思うが、ここまでとする。系譜関連については古事記の敏達天皇紀を参照。

上記に対応する箇所について日本書紀ではどのように記載されているであろうか・・・徐に引用してみよう。現代語訳はこちらのサイトなどを参照した。長い引用となるので段落に区切って掲載する。尚、引用した部分を青字で示す。

息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彥人大兄皇子之子也。母曰糠手姬皇女。豐御食炊屋姬天皇廿九年、皇太子豐聰耳尊薨而未立皇太子、以卅六年三月天皇崩。
 
<息長足日廣額天皇>
「息長足日廣額天皇」=「
坐岡本宮治天下之天皇」である。古事記風に記すと「息長帶日廣額命」かもしれない。

要するに母親でも父親でもなく父方の祖母(比呂比賣)に関連する地を出自に持つ命名であることが解る。

書紀では「廣姫」と記され、新年早々に皇后となったがその年の十一月に亡くなったと述べられている。祖母の地を引継いだようである。

古事記の地形象形表記としての帶=多羅(良)斯:連なる(なだらかな)山稜の端の三角州が切り分けられた地形日=炎のような山稜の形額=山腹に突き出たところがある地形で紐解ける。

豐御食炊屋姬天皇(推古天皇)(古事記では豐御食炊屋比賣命)及び皇太子豐聰耳尊(古事記では上宮之厩戸豐聰耳命)の長い治世に終わりを告げる時が来たと伝えている。そして「息長足日廣額天皇」=「坐岡本宮治天下之天皇」が即位する経緯が長々と語られている。
 
蘇我馬子・蝦夷・入鹿

ここで蘇我一族の頭領三名についてその出自の場所を求めておこう。書紀の敏達天皇紀に「蘇我馬子」、舒明天皇紀に「蘇我蝦夷」そして皇極天皇紀に「蘇我入鹿」が登場する。古事記では「蘇賀」及び「宗賀」と記述され、その一派に「蘇我臣」が存在したと記述される。

Wikipediaによると、その出自は…、

『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていないが、河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)および葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪族であったとされる。『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。 

…と記されている。大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)→建内宿禰→蘇賀石河宿禰に出自を求めることに間違いはないであろう。それにしても歴史上この上なく重要な人物を輩出した一族について、殆ど把握されていないことに驚かされる。全く頼りない古代史学である。「学」を取って「物語」とすべき、いや「神話」とした方が適切かも・・・。

では蘇我馬子・蝦夷・入鹿の出自の地は何処に求められるであろうか?…古事記の地形象形表記と見做して紐解いてみよう・・・と、構えることなく容易に求められたのである。
 
<蘇我馬子宿禰・蝦夷臣・入鹿臣>
蘇我馬子宿禰は、馬子=馬の子のような(子馬)地形、単純な命名である。これに宿禰=山麓に広がる高台が付加される。

現在は西工大グランドに整地されているが、延びて広がったところを示していると思われる。小治田宮の近隣である。

後に「嶋大臣」と呼称されている。邸宅の庭の池に浮島があったことが由来とか・・・。

図に示したところは三角州の状態であったのではなかろうか。邸宅の池ではなく近くを流れる川にあった浮島を示していると思われる。古事記の品陀和氣命(応神天皇)が坐した輕嶋之明宮に類似する表記であろう。

蘇我蝦夷臣の「夷」について、古事記に「夷」は幾度か登場するが、地形象形としての使用ではない。後漢書倭伝に登場する夷州、現在の石垣島に比定したが、「夷」の文字形…即ち、裾広がりの三角形の形…に類似する解釈と思われる。

「エビ、カエル」を意味する「蝦」=「虫+叚」と分解される。更に「叚」=「垂れた布で覆い隠す様」を表すと解説される。布が斜めに裾広がりになった様を「エビ、カエル」の形態と見做したと思われる。文字の地形象形は「夷」、「蝦」共に三角形の地を示すと読み解ける。すると蝦夷=「夷」の文字形を覆い隠すようにした裾広がりのところと解釈される。「臣」が付加され、臣=凹(窪)んだところを示していると思われる。

後の記述で「豐浦大臣」と呼称される。豐浦=段差のある台地が水辺にあるところと読める。図の「臣」の場所の地形を示していることが解る。

蘇我入鹿臣は、入鹿=山麓の「入」の形に凹(窪)んだ地形を示す。付加された「臣」は上記と同様の解釈となる。図に示したように「蘇我」の地形の東隣に広がったところに割り付けられた配置となる。ここが天皇家の外戚として圧倒的な権勢を奮った蘇我一族の出自の場所と推定される。
 
<蘇我氏系譜>
古事記の地形象形表記で書紀も登場人物が名付けられていることが明確となった思われる。

また「臣」、「宿禰」の使い分けも単なる称号ではなく、その人物の居場所の地形を示していることが解った。

書紀編纂者によって蘇我一族に卑字を用いて名付けたかのような解釈もある。

馬子と入鹿を併せると「馬鹿」だとか・・・更に「蝦夷」はそのものの表現など・・・。

古事記にしろ書紀にしろ編纂者はそんな低レベルの知能では決してない、と思われるが・・・。

尚、蘇我馬子蘇我蝦夷蘇我入鹿についてWikipediaに解説されている。本ブログがもう少し進捗したところでコメントしてみようかと思う。蘇賀石河宿禰から蘇我入鹿に至る系譜を求めてみた。詳細は後日に譲ることにする。

さて、次回は日嗣の論議の詳細である。登場人物が多数・・・。