敏達天皇
兄弟相続が続いて来たが漸く真面に御子が皇位を継ぐことになった。「財」出身の御子である。古くは高志前、角鹿と言われたところ、現在の北九州市門司区喜多久に当たると比定した。通説の表現に依れば、この天皇が「越前」出身の天皇ということになる。
建内宿禰の御子、若子宿禰が江野財の祖となって以来繁栄して来た地であろう。前記の「宗賀」も蘇賀石河宿禰が祖となった場所である。この時代になって彼らが切り開いた土地が豊かな大地となって天皇家に貢献できるようになったと告げているのである。
娶りと誕生する御子の名前の羅列であるが、それから何が読み取れるであろうか?…一人一人紐解いてみよう。
古事記原文…、
御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。此天皇、娶庶妹豐御食炊屋比賣命、生御子、靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱。又娶伊勢大鹿首之女・小熊子郎女、生御子、布斗比賣命、次寶王・亦名糠代比賣王。二柱。又娶息長眞手王之女・比呂比賣命、生御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王、次坂騰王、次宇遲王。三柱。又娶春日中若子之女・老女子郎女、生御子、難波王、次桑田王、次春日王、次大俣王。四柱。
此天皇之御子等、幷十七王之中、日子人太子、娶庶妹田村王・亦名糠代比賣命、生御子、坐岡本宮治天下之天皇、次中津王、次多良王。三柱。又娶漢王之妹・大俣王、生御子、智奴王、次妹桑田王。二柱。又娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。幷七王。甲辰年四月六日崩。御陵在川內科長也。
1. 他田宮・川内科長陵
沼名倉太玉敷命、敏達天皇は「他田宮」に坐したと伝える。「他田」は何と読む?…タダ、オサダ・・・初見では「タタ」と読んで「多多泥古」を連想し、河内の美奴村(現在の京都郡みやこ町勝山箕田辺り)の近隣に求めた。これだけを根拠にするには何とも心許ない状況であった。文字解釈の原点に戻り改めて紐解いてみよう。
気に掛かるのが「オサダ」の読みである。「他田」=「長田」とされて来たのであろう。「他」に「オサ」という読みはない。
では何故「他」=「長」とできるのであろうか?…ネット検索するとこの置換えは事実のようであるが、何故?…は全く不詳である。
どうやらこの読みも難読の地名に類するもののようである。「他」を分解する。異字体「佗」=「イ+它」と分けると「它」=「蛇の象形」であることが判る。
即ち「他」は「人と蛇」の会意から生まれた文字であると解説されている。現在用いられている意味とはかなり離れた字源ではあるが、字形そのものの解釈はその通りであろう。
古事記はこれを使っていると思われる。「他田」は…、
…と紐解ける。「長田」は「長い」の意味を抽出し「蛇のようなうねり」を省略したものと推測される。肝心の「うねる」ことが欠落した表現である。
この地形は極めて特徴的な場所であり、容易に特定できる。現在の京都郡みやこ町勝山矢山・岩熊の谷間にある畝って続く田を指し示していると思われる。
詳細な地図を示すと、現在もかなりの標高の場所まで続く水田があることが判る。矢山川に沿って小さく蛇行しながら「茨田=棚田」が作られていたのである。
「他田宮」の場所を特定するには情報が少なく、上図から勝山矢山か勝山岩熊かであろうが、「他田」らしいのは勝山矢山ではなかろうか。図中の龍王宮辺りにあったと思われる。
「御陵在川內科長也」と記されるが、川内の「科」=「段差」がある斜面は行橋市入覚の西側にある。
それが長いところとすれば、観音山の西側に当たる小高いところと推定される。上図参照。
2. 后と御子
四人の后と十七人の御子が誕生する。勢いを取り戻した感がするが、果たして・・・。
2-1. 庶妹豐御食炊屋比賣命
宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子の一人である。何だか恰幅の良さそうな女性なのであるが、後に皇位に就く。御子に「靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王」計八名が誕生する。彼らを「宗賀」が引き受けることになる。
それぞれ別名があって貝鮹王・小貝王と記される。共通する「貝」は何を模しているのであろうか?…海辺の貝ではなかろう。やはり稲目の「目」と同じく「治水された田の様子」を示していると思われる。「鮹」はこれも海に棲息するものではなく「胼胝(タコ)=突起」を示す。
目のように奇麗に並んでいるが片側に凹凸がある様子であろう。すると石河(白川)の蛇行に従って「タコ」が並んだように凹凸がある田が上図の中央付近に見当たる。
本来の名前に含まれる「静」は何と解釈されるか?…「静」=「青+争」であって、「青」=「押し沈める」(「忍」と類似)の意味を持つ。
これから通常の「静か」の意味が発生するのだが、地形象形的には「争うことを押し沈める」とは…、
…箕田川の蛇行に沿った田が並ぶ場所を表していると読み解ける。一方の「竹」は細長く延びた田を象形していると思われる。「丹波之竹野」で登場した例に類似する。山稜を挟んで「貝鮹」の東側に位置する、狭い谷間にある小さな田を並べたところと判る。
全く同じ蛇行の状況とは思えないが、基本的な様子を現在にまで残していることに驚きを感じざるを得ない。
古事記が示す地形は、河口付近を除けばかなりの確度で現存していることをあらてめて知ることになったようである。両者共に現地名の京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろう。
「小治田」は、建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった小治田臣で記載された場所と思われる。また、大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所としても登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側とした。「小治田王」は、西工大グラウンド南端辺りに居たのではなかろうか。
「葛城王」は、既出の解釈「遮られて閉じ込められたような地」に居たと思われる。「八瓜」の「瓜」の地を示していると思われる。現地名は葛川、その由来ではなかろうか。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。
文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…、
…「山麓の鱗片状の地に筋目(小高いところ)があるところ」と紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。
…上図の黒添の北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。
現地名は苅田町谷である。小張王は國崎八幡社辺りに坐していたのではなかろうか。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。
「多米」の解釈は簡単なようなのだが、いつもの様に一文字一文字で紐解いてみよう。「米」は何を表わそうとしているのか?・・・。
山稜の端が米粒のように小さく突出たところと推定される。宗賀の北側、谷に近付いた場所が見出せる。
現地名は苅田町山口にある。諏賀神社(⛩)がある小高いところと思われる。
現在もこの地は複数の谷間が集まった地形であり、それぞれに棚田が広がっている様子が伺える。古から開かれた土地なのであろう。
「櫻井玄王」は前出の櫻井之玄王を引継いだのだと推定される。八咫烏の末裔が住む地である。現在は、広大なダムとなっていて、当時の地形は湖底にすっかり沈んでしまったようである。
全員を纏めた図をあらためて見ると、宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。それにしても凄まじいばかりに一族が広がって行った様子が伺える。蘇我一族の台頭、それは豊かな財力に支えられていたことが解る。
沼名倉太玉敷命、敏達天皇は「他田宮」に坐したと伝える。「他田」は何と読む?…タダ、オサダ・・・初見では「タタ」と読んで「多多泥古」を連想し、河内の美奴村(現在の京都郡みやこ町勝山箕田辺り)の近隣に求めた。これだけを根拠にするには何とも心許ない状況であった。文字解釈の原点に戻り改めて紐解いてみよう。
<他田宮> |
では何故「他」=「長」とできるのであろうか?…ネット検索するとこの置換えは事実のようであるが、何故?…は全く不詳である。
どうやらこの読みも難読の地名に類するもののようである。「他」を分解する。異字体「佗」=「イ+它」と分けると「它」=「蛇の象形」であることが判る。
即ち「他」は「人と蛇」の会意から生まれた文字であると解説されている。現在用いられている意味とはかなり離れた字源ではあるが、字形そのものの解釈はその通りであろう。
古事記はこれを使っていると思われる。「他田」は…、
他(蛇のように畝って細長い)|田
<他田宮俯瞰図> |
この地形は極めて特徴的な場所であり、容易に特定できる。現在の京都郡みやこ町勝山矢山・岩熊の谷間にある畝って続く田を指し示していると思われる。
詳細な地図を示すと、現在もかなりの標高の場所まで続く水田があることが判る。矢山川に沿って小さく蛇行しながら「茨田=棚田」が作られていたのである。
「他田宮」の場所を特定するには情報が少なく、上図から勝山矢山か勝山岩熊かであろうが、「他田」らしいのは勝山矢山ではなかろうか。図中の龍王宮辺りにあったと思われる。
「御陵在川內科長也」と記されるが、川内の「科」=「段差」がある斜面は行橋市入覚の西側にある。
それが長いところとすれば、観音山の西側に当たる小高いところと推定される。上図参照。
四人の后と十七人の御子が誕生する。勢いを取り戻した感がするが、果たして・・・。
2-1. 庶妹豐御食炊屋比賣命
宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣の御子の一人である。何だか恰幅の良さそうな女性なのであるが、後に皇位に就く。御子に「靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王」計八名が誕生する。彼らを「宗賀」が引き受けることになる。
靜貝王・竹田王
目のように奇麗に並んでいるが片側に凹凸がある様子であろう。すると石河(白川)の蛇行に従って「タコ」が並んだように凹凸がある田が上図の中央付近に見当たる。
<静貝王・竹田王・葛城王・小治田王> |
これから通常の「静か」の意味が発生するのだが、地形象形的には「争うことを押し沈める」とは…、
川の蛇行に逆らわない様
全く同じ蛇行の状況とは思えないが、基本的な様子を現在にまで残していることに驚きを感じざるを得ない。
古事記が示す地形は、河口付近を除けばかなりの確度で現存していることをあらてめて知ることになったようである。両者共に現地名の京都郡苅田町稲光に含まれる。二人の王の居場所は稲光の丘陵であろう。
小治田王・葛城王
「小治田」は、建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった小治田臣で記載された場所と思われる。また、大長谷王が八瓜之白日子王を生き埋めにした場所としても登場した。「八瓜」の比定場所、現地名苅田町葛川の南側とした。「小治田王」は、西工大グラウンド南端辺りに居たのではなかろうか。
「葛城王」は、既出の解釈「遮られて閉じ込められたような地」に居たと思われる。「八瓜」の「瓜」の地を示していると思われる。現地名は葛川、その由来ではなかろうか。葛城、葛原、葛川の地名は「葛」の地形象形に基づく表現で統一されていることが判る。
宇毛理王・小張王
文字解釈の応用問題、である。「宇毛理」を一字一字解くと…、
宇(山麓)|毛(鱗)|理(筋目がある)
…「山麓の鱗片状の地に筋目(小高いところ)があるところ」と紐解ける。現地名、苅田町黒添と推定される。宇毛理王はこの丘の上に居たのであろう。
…上図の黒添の北側にそのものズバリの小高い張り出しが見える。
現地名は苅田町谷である。小張王は國崎八幡社辺りに坐していたのではなかろうか。「尾張」が解ければ「小張」は解ける、これも余談だが・・・。
多米王・櫻井玄王
「多米」の解釈は簡単なようなのだが、いつもの様に一文字一文字で紐解いてみよう。「米」は何を表わそうとしているのか?・・・。
<豐御食炊屋比賣命の御子> |
多(山稜の端の三角州)|米(米粒の形)
山稜の端が米粒のように小さく突出たところと推定される。宗賀の北側、谷に近付いた場所が見出せる。
現地名は苅田町山口にある。諏賀神社(⛩)がある小高いところと思われる。
現在もこの地は複数の谷間が集まった地形であり、それぞれに棚田が広がっている様子が伺える。古から開かれた土地なのであろう。
「櫻井玄王」は前出の櫻井之玄王を引継いだのだと推定される。八咫烏の末裔が住む地である。現在は、広大なダムとなっていて、当時の地形は湖底にすっかり沈んでしまったようである。
全員を纏めた図をあらためて見ると、宗賀の主要地域がグンと詰まって来た感じである。それにしても凄まじいばかりに一族が広がって行った様子が伺える。蘇我一族の台頭、それは豊かな財力に支えられていたことが解る。
2-2. 伊勢大鹿首之女・小熊子郎女
<伊勢大鹿首俯瞰図> |
大河の紫川の下流域に属する地であるが、稀有な出来事と思われる。
現在に至っては広大な耕地(寧ろ団地開発が進んでいる)を有する中流域となっているが、未だ治水が及んでいなかったのであろう。
遠賀川と同じく下流域の開拓はずっと後代になってからと推測される。
「大鹿」は大きな鹿の生息地ではなかろう。ひょっとすると鹿もいたのかもしれないが…上記の如く伊勢がある福智山山麓を示していると思われる。既出に従って「大」=「平らな頂の山陵」、「首」=「囲まれた凹の地」と解釈する。今に残る下関市彦島の田の首に類似の地形とすると…、
大鹿(平らな頂の山陵の麓)|首(囲まれた凹地)
<小熊子郎女・布斗比賣命> |
大半が採石場となっていて、かなり地形は変化しているが、伊勢大神宮の場所を佐久久斯侶伊須受能宮から導いた。
それを思い起こすと「佐久久斯侶」を「首」と表記していることが解る。初めに「首」と記述されている方が判り易い?・・・。
そしてその比賣を娶ったのだから、誕生する御子達がこの地に散らばる・・・さて、現地形はその比定に耐えられるか?・・・。
「小熊子郎女」の「小」=「小さい」ではなかろう…既出の小治田に類すると見做す。紫川の蛇行の「熊=隅」、その「子」=「突き出たところ」と解釈される。「熊」=「能+灬」とすると、同じ「隅」でも[炎](山稜の端が細かく分岐した様)の地形を表しているのであろう。
これらを併せると、図に示した蒲生八幡神社(伊勢大神宮)の麓と解読される・・・実に際どいところではあるが・・・。
これらを併せると、図に示した蒲生八幡神社(伊勢大神宮)の麓と解読される・・・実に際どいところではあるが・・・。
布を拡げたような柄杓の地
…正に採石の場所となるが、虹山山稜に囲まれた「斗」の麓が平坦な地形を有していたのではなかろうか。
次いで「寶」=「宀+玉+缶+貝」と分解すれば…、
宀(山麓)+玉(高台)+缶(丸く膨らむ)+貝(谷間の田)
…「丸く膨らんだような山麓に高台がある谷間の田」の傍らに座している王と読み解ける。また山容をふっくらとした貝(図中の虹山)と見做して麓に高台がある様を表しているとも解釈される。
別名の「糠代」の「糠」の意味は既に登場した丸邇・春日之日爪の「糠若子郎女」「糠子郎女」で、「糠」=「崖が引っ付くような地形」と紐解いた。虹山と鷲峯山の麓の崖が作る地形と推定される。
糠(崖が引っ付くような地形)|代(背にある)
…「崖がくっ付くような谷間が背にあるところ」と紐解ける。ここでも「細かな田」の意味も含まれているであろう。丸邇・春日之日爪の場合と同様に決して広い場所ではない。纏めて示すと上図のようになる。
2-3. 息長眞手王之女・比呂比賣命
<比呂比賣命> |
その比呂比賣命を娶って「忍坂日子人太子・亦名麻呂古王、次坂騰王、次宇遲王」が誕生したと伝える。
比(並んでくっ付く)|呂(背骨のような山稜)
…「背骨のような山稜が並んでくっ付いているところ」と解釈する。
継体天皇が誕生させた佐佐宜郎女は母親の近隣を出自としたが、敏達天皇の子はそうではなかったようである。図から判るように「眞手王」の近隣では養育する土地がなかったからであろう。
「玖賀耳之御笠」「丹波之遠津」から始まった「息長」の比定、これにて一件落着、と言ったところであろうか。文字通り…息長く…皇統に関わる地域(一族)であったと伝えている。
現地名行橋市馬場辺りの棚田を示していると思われる。多くの貯水池が現存しているところである。御子達はそれぞれが地形象形として命名されているとするのだが・・・。
<忍坂日子人太子・坂騰王・宇遲王> |
「人」に着目すれば、図に示したような地形象形ではなかろうか。幾度か登場の「麻呂古」=「細かい積重なる田を定める」と解釈した。
「人」の足元と金辺川との間の狭い地を表しているのであろう。坐したところは現在二つの寺が並ぶところではなかろうか。
「坂騰」=「坂上がり」と読める。下る坂の途中に一段高くなったところではなかろうか。現在の清祀殿がある場所と思われる。
山稜の端が寄り集まり、それが交差して坂の途中が高くなるという複雑な地形を示している場所ではなかろうか。
「宇遲」=「谷間で延びた山稜が犀の角のように延びているところ」幾度も登場した文字列である。「丸邇」に関連して表記された「宇遲」も固有の名称ではなく、その地の様子を表す表現と読み解ける(こちら参照)。
考えれば古事記の時代に「固有」という概念はなかったかもしれない。仮にあったとしても例外的であろう。何をもって固有と言うのか、従来よりそう言われていることのみが根拠?…従来が希薄である。
不思議と言えばそうなのだが、現地名の香春町採銅所近隣は既に幾度か登場した。が、御子の住まいとした場所は空白のところであった。古事記の徹底した几帳面さに恐れ入る次第である。これで「長谷」の地も、ほぼ古事記の地名で敷き詰められたようである。
<桑> |
またもや皇位継承の捻れが生じていたのであろう。息長一族であって宗賀一族ではなかったことが要因であろうが、古事記は無口である。
2-4. 春日中若子之女・老女子郎女
春日の地からも娶ったと伝える。この「老女子」の出自は詳らかではないが、居場所は春日の中央の地に居た(現地名田原郡赤村内田中村辺り)と推測される。
老女(老いた女のように嫋やかに曲がる山稜)|子(山稜の端)
難波王の「難波」とくれば難波津…通説ならそうなるが…ではなかろう。「難波」は固有の名称ではない。顕宗天皇が娶った石木王之女・難波王に出現した。彦山川がほぼ直角に曲がる場所の近隣を示すと紐解いた。
<老女子郎女> |
桑田王の「桑田」は「木(山稜)」の象形と思われる。桑のように複数の枝葉を持つ場所である。赤村内田門前辺りがその地形に当たると推定される。
春日王はそのまま春日の中央、赤村内田中村辺りと推定される。
最後の「大俣王」は異なる場所で頻出するが、地形象形上類似のところが多くあったことを示しているようである。
春日の地で「大俣」と求めると、現在の赤村内田の内田原にある山稜が分岐した場所と思われる。
この地は「登美」と呼ばれたところと重なるようである。神倭伊波禮毘古命と戦った「那賀須泥毘古」が住まっていた場所、幾世代かを経ても土地には変わりはなかったのであろう。
3. 忍坂日子人太子の后と御子
息長眞手王之女・比呂比賣命の御子は太子と称されるが、日嗣にはならなかったようである。ただその後に彼の末裔が天皇となるためかと思われるが、娶り関連が記載される。
3-1. 庶妹田村王・亦名糠代比賣命
<田村王と多良王・中津王①> |
古事記はこの天皇を名付けない。その徹底ぶりを示している記述である。
御子は他に「中津王、次多良王」が生まれる。「中津王」は紫川と志井川との合流点近隣、「多良王」は…、
多(山稜の端の三角州)|良(なだらか)
…「山稜の端の三角州がなだらかなところ」と読み解く。山麓の傾斜が緩やかになった地形を表しているのであろう。二人の御子が母親の地を囲むように坐していたと思われる。
<田村王と多良王・中津王②> |
現在の田川郡香春町香春に「本町」という地名がある。「沙本」を現在の田川郡赤村内田の「本村」に比定した時に類似して興味深い。鬼ヶ城(香春城)跡、須佐神社の近隣辺りと思われる。
宮の名前は良いが、天皇の名前は古事記流に付けるな!…と言うところであろうか・・・「寳(タカラ)」→「田村(タムラ)、日本書紀の表記に合わせさせられた?…のかもしれない。
建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が切り開いたが、河川の中流域~下流域へ田を拡げるには多くの時間が必要であった。それはこの場所に限らず全て同じである。
<岡本宮> |
地形の詳細にまで言及するのは本著の域を越えているが、この「大きな谷」の地形こそ当時では「茨田」(棚田)に最適の稲作地であったと思われる。
孝元天皇の血統を持ち建内宿禰一族として倭国全域に後裔を持つ「稲目」の台頭は至極当然の成り行きであったと推測される。
がしかし、諸行無常の鐘が鳴るのである。御子が居た場所の詳細を示すことで、その地に拘る限り、宗賀の勢いもその限界に達していることを古事記は伝える。後に忍坂日子人太子の系統から天智天皇、天武天皇が登場し、今に繋がる。これが歴史の変曲点の背景である。
春日中若子之女・老女子郎女(上図参照>)の比賣「大俣王」であることは間違いないと思われる。そして兄(姉)の「漢王」と記述される。大俣王は末っ子であり三人の兄妹(難波王・桑田王・春日王)がいた。古事記はその中に「漢王」とは記述しない。がしかし、前記で「財郎女=橘之中比賣」と異なる表現を用いた例がある。今回もそれに該当するのでは?…と考えて紐解いてみる。
「漢」の意味はどうであろうか…サイトの解説を引用すると…、
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これは長江の最大の支流の川の名前(漢水)を指しており、中・下流の流域では都市は川床(川底)よりも低い位置にある為、川の氾濫により大きな災難をもたらします。また、この地を支配した劉邦(紀元前256-紀元前195年)は川の名にちなんで「漢」という国号を定めました。(劉邦は漢の初代皇帝)その後、漢王朝400年の実績を踏まえて「漢」は、中国の地を指す代名詞のように用いられるようになりました。そして、中国に住む人を「漢民族」と呼ぶようになり、中国の人達が使う字の事を「漢字」と呼ぶようになったのです。
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…氾濫する川に関連する文字である。
漢=大きな災難をもたらす川
<難波王=漢王と御子> |
難波王=漢王
「漢」は氾濫する川に対峙して除災を願う巫女の象形とある。
ならば「漢王」は犀川(今川)の神の怒りを鎮める巫女であり、その居場所は現在の田川郡赤村赤の油須原にある秋葉神社辺りと推定される。
「難波」「漢」異なる表記は意味を持って使われていたと判る。御子は「智奴王、次妹桑田王」とある。
「桑田」は上記でもう一方の地形のところである。現地名は共に田川郡赤村内田である。「智」は何と紐解くか?…思いつかない時は分解してみる。
「智」=「知+日」とし、「知」=「矢+口」=「鏃」と紐解いた例がある。「日(炎)」であろう。「奴」=「女+又(手)」とすると「智奴」は…、
智([炎]と[鏃]の形がある地)|奴(嫋やかに曲がる[手]の地形)
<智奴王> |
初見では「神前で畏まって教えを得る」ところ(大祖神社⛩)、としたが、実は同一場所に当たる。
重ねた表現?…そこまで掛けるか…という感じでもあるが、図に示すような具合となる。
御子の一人の居場所の確度が高まると他の御子の居場所も同様に高まって来る。これを踏まえての記述、変わらぬ姿勢である。
垂仁天皇の御子、無口な本牟智別命に随行して出雲の出向いた曙立王が、御子が言葉を発するという成果をもたらした功績で「師木登美豐朝倉曙立王」という称号を拝領し、その地を上記の場所と比定した。これも幾世代かを経て引き継がれたのであろう。
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「漢字」とは…Wikipediaによると…、
漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。
また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒する。古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えた。
現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われる。20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い。
…と解説されている。
象形することを基本とするこの文字体系は実に多様であり、特異である。近年になっての藤堂明保、白川静ら諸賢の解釈に負うところが多く、その分野の研究が更に進展することを願うところである。今回古事記を紐解き始めて古代の人々が如何に自由闊達に「漢字」を使っていたかを垣間見ることができたように感じる。
古事記は紛うことのない史書であるが、漢字の原点を示すことにおいても優れた書物であると思われる。限られた文字数ではあろうが、そんな切り口で纏め直してみるのも楽しい作業となるように感じられる。
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白川漢字学について・・・文字形(分解された要素も含めて)から意味を引出そうとする手法であり、地形象形的には容易なように感じられたが、実は多くのケースで誤った解釈になることが解った。例を挙げれば要素の一つである「口」=「サイ」(祝詞を収める箱)としたのでは、意味不明となる。「口」=「限定符号」として、「ある限られた領域」を表すと解釈する方が適切となる。
漢字の成立ちは、①言葉(意味)→②各要素の文字形→③要素の組合せとしての文字形であって、とりわけ各要素への分解(析)が決め手となるようである。①~③の各過程を繰り返しながら解析することが重要である。古事記は、それを巧みにそして重層に使っていると思われる。
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<玄王と御子> |
岐多斯比賣の御子の一人「櫻井之玄王」であろう。御子に「山代王、次笠縫王」が誕生する。
いよいよ宗賀は満杯になるのでは?…関連するところを示す。山代王は引継ぎであろう。
「笠縫」=「山稜を縫って閉じ合せる」池の周辺は当時と大きく異なるであろうが、堰を作って谷を縫い合わせたところであろう。
それにしても宗賀の勢いは凄まじいことが伺える。また、それを実現できる財力を蓄えていたことも納得できるのである。天皇一家が葛城の地を開拓した時に類似する状況であったと推測される。それには「八代」の時を要したのである。