2020年10月28日水曜日

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (1) 〔464〕

高天原廣野姬天皇:持統天皇 (1)


「記紀」が伝える天皇家の物語上のクーデター『壬申の乱』を唯一成功させた天武天皇が即位十五年(西暦686年)「朱鳥元年」九月九日に崩御された。前紀の天智天皇紀は唐・三韓と深く関わり、挙句に唐との軍事面における力の差を思い知らされる羽目に陥り、只管国防対策に翻弄させられた時代であったが、天武天皇紀は国力の充実のために天皇の一極集中した制度へと転換したようである。

それは天智天皇紀までの群雄割拠した豪族対策の仕上げでもあり、「公地公民」制の確立でもあったように思われる。一方で国内掌握の一環として「姓」を制定し、身分制度の明確化及び天孫降臨以後の皇族を見直し、『八色之姓』の最上位「眞人」姓の設定を行っている。「記紀」編纂の勅命はこれに関連してなされたものと思われる。

事後のことについて、世に「吉野の盟約」と呼ばれる出来事も記載されているが、まるでそれが呼び水のようになって、皇太子を決めてはいるもののすんなりとは日嗣されなかったと伝えている。そこに母親の皇后であった菟野皇女が持統天皇として即位することになったようである。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

高天原廣野姬天皇、少名鸕野讚良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰遠智娘更名美濃津子娘、天皇深沈有大度。天豐財重日足姬天皇三年、適天渟中原瀛眞人天皇爲妃。雖帝王女而好禮節儉、有母儀德。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。十年十月、從沙門天渟中原瀛眞人天皇、入於吉野避朝猜忌、語在天命開別天皇紀。

暫しプロフィールの紹介である。「高天原廣野姬天皇」の和風諮号が記載されている。後に藤原宮に遷ったと記載される。従前通りであれば、その地の地形を表していることになる。幼名が鸕野讚良皇女、父親が天命開別天皇(次女)で母親が遠智娘更名美濃津子娘である。「深沈有大度」は沈着冷静で度量が大きい、ぐらいであろうか。

天豐財重日足姬天皇の三年に天渟中原瀛眞人天皇の妃となっている。帝王の娘だが、礼節を好み母親としての道徳を持合せていたと述べている。天命開別天皇元年に(近江)大津宮で草壁皇太子を生んでいる。天智天皇十年十月に天武天皇に従って吉野に入り、(近江)朝廷の猜疑を避けたと記している。

高天原廣野姬天皇

前記で天皇が坐した藤原宮の場所を求めた。宮前に藥師寺があり、その脇を池が連なり上った場所と推定した。現地名は田川市夏吉であるが、田川郡香春町との境にある谷間である。

<高天原廣野姬天皇>
既に読み解いたように「藤」=「艸+朕+水」と分解される。地形象形的には、藤=谷間(艸)で水溜まり[池](水)が積み上がっている(朕)様を表している。現在の地図上で確認される池は、一つのようであるが・・・。

「高天原」とは、造化三神から三貴神に至る神々が鎮座していた場所を示すのではなかろう。高天原も立派な地形象形表記なのである。皺が寄ったような山稜が擦り潰されて平らな地となったところである。

図に示したように、皺の寄り方に異動はあるものの山稜が細かく延びている麓に平らに広がった野原(廣野)の地形であることが解る。姫=女+臣=山稜に挟まれた窪んだ様と解釈される。

通常に受け取られる「天上高くにある原」とも言っているのである。現在の標高で40~50m、高台で奥まった地であることも併せて表現したものであろう。また別名として「大倭根子天之広野日女尊」と記されると知られている。皺のある山稜は前出の膽駒山から延びる大きな山稜()から生え出た山稜()である。極めて特徴的な地形を捉えた表現と思われる。

「藤原宮」その場所の比定は、ほぼ間違いないものと思われる。それにしても連なる池が現存しているのは奇跡に近いものであろう。些か手が加えられている感じもあるが、原形を留めていると推測される。かつても述べたが、開発に伴う地形の変形は止むを得ない状況でもあろうが、国土地理院地図のデータベースに残されることを期待したい。

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余談になるが、書紀では「藤原宮」であって「藤原京」とは記載されていない。これに対応するの「新益京」が後に登場する。確かに「宮」は天皇の住まい、建屋を表すが、「京」は、それこそ条里制が敷かれた地域を表す表記であろう(勿論「記紀」はそんなたいそうな意味で用いてはいないが)。実は、藥師寺の場所が特定された時に、思わずその近隣に「藤原京」があった、と早とちりしてしまった経緯がある。それほど馴染んでしまっているとも言えるが、大きな問題を含んでいることに気付かされた。

Wikipediaでは「藤原京」が書記に記載されていないことを踏まえて、これはあくまで後代の”学術用語”と解説している。少々噛み付きたくなる表現であるが、実体のないもののを学術用語で済ませる、単なる狭い世界の隠語ではなかろうか。発掘調査されたところが条里制らしきものが見出せたからだけのような感じである。「藤原」、「高天原」が示す地形は皺に取り囲まれた平らな広場にある宮である。この地形の場所を発掘しない限り、「藤原宮」を見出すことは不可能であろう。

「新益京」では「京」の文字を使っている。言い換えれば「藤原宮」の周りが「京」であれば「藤原京」と記載した筈であろう。登場した時に詳細を述べるが、この地域は「藤原宮」の麓の藥師寺があったところの前から磯城縣が広がると読み解いた。その「縣」の地形を「益」で表していると思われる。書紀の記述は、極めて明解である。読み手が混乱させているだけであろう。

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天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東國、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。

天武天皇即位元年六月から始まる『壬申の乱』(こちら参照)について簡単に述べられている。最初は僅かな手勢だったのが三々五々と見方が集まって「鞠旅」(軍隊を育てる)、謀略を定めることができ、「命敢死者」(命知らずの者)を分けて要害の地に敷いた、と回想している。阿閉隊と男依隊(こちら参照)、命知らずの最たる者は将軍吹負であろうか。

七月、美濃軍の将等と大倭の豪傑が共闘して大友皇子を誅殺して首を不破宮に届けた、と最後の件を述べている。天武二年に皇后となり、初めより今まで天皇の脇に居て天下を定めたが、政事などに関して多くのところで補佐して来ていると記載している。

朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反發覺、逮捕皇子大津、幷捕爲皇子大津所詿誤、直廣肆八口朝臣音橿・小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心及帳內礪杵道作等、卅餘人。庚午、賜死皇子大津於譯語田舍、時年廿四。妃皇女山邊、被髮徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷。皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲天命開別天皇所愛、及長辨有才學、尤愛文筆、詩賦之興、自大津始也。

丙申詔曰、皇子大津謀反、詿誤吏民帳內不得已、今皇子大津已滅、從者當坐皇子大津者皆赦之、但礪杵道作流伊豆。又詔曰、新羅沙門行心、與皇子大津謀反、朕不忍加法、徙飛騨國伽藍。

朱鳥元年(西暦686年)九月九日に天武天皇が崩御され、皇后が称制したと記している。十月二日、皇子大津の謀反が発覚している。皇子及び唆された「八口朝臣音橿」・壹伎連博德(伊吉博德)・中臣朝臣臣麻呂(中臣酒人連に併記)・巨勢朝臣多益須(巨勢朝臣馬飼に併記)・新羅沙門行心・礪杵道作(美濃國礪杵郡に併記)」等三十余人を逮捕している。

翌日十月三日に皇子大津は「譯語田舍」(自宅)で殺され、齢二十四、后の皇女山邊が殉死したと記している。以下皇子の人となりが綴られ、出来が良かったとのこと、使者へのはなむけかもしれないが、別書の記述と大きな食い違いがなく、やはり優秀な人材だったようである。それが災いしたのかもしれない。

「譯語田」の文字列は、「譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)」に用いられている(こちら参照)。即ち、大津皇子は「幸玉宮」に住まっていたこと示しているようである。かつての天皇の宮の活用、幾つかの皇子の例がある。

二十九日に皇子大津の謀反の件について、従った者を赦すが、「礪杵道作」は伊豆(嶋)へ流罪となって、三十余人の中で唯一重罪だったようである。他の者は、大津皇子と懇意なだけで、謀反と言える行為の対象者は「道作」だけだったのかもしれない。ことを起こすなら、やはり美濃、これも引っ掛ったようでもある。

天武天皇即位五年(西暦676年)四月の記事に美濃國司が「礪杵郡」に居る紀臣訶佐麻呂(既出の紀臣訶多麻呂に併記)の子を東國に移し、百姓としたと告げている。『壬申の乱』で近江朝側に付いたために左遷されていたのでは、と読んだが、どこかしら不遜な行いが生じる地となっていたのかもしれない。もう一人免罪とならなかった「沙門行心」は「飛騨國」の伽藍(寺)へ移せと命じられている。

<飛騨國>
飛騨國

「飛騨」の文字は仁徳天皇紀に一度、本紀に二度出現する。確かに辺鄙な地なのであろう。とは言うもののさて、如何なる場所に求められのであろうか、先ずは文字が示す地形を確かめてみよう。

「飛」の文字は、勿論「飛鳥」に用いられているが、この時の解釈は「飛ぶ鳥」の姿そのものを表していたのではないか、と推定した(こちら参照)。

もう一つの地形象形表現としては、古事記に登場する大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)紀の倭飛羽矢若屋比賣に含まれている。この解釈は飛=二つに分かれる様とした。「飛」が示す意味は、「羽が左右に分かれて広がる様」である。

「騨」=「馬+単」と分解される。「馬」=「馬の背のような様」であり、「単」=「平らな様」と解釈される。纏めると飛騨=馬の背のように平らな地が二つに分かれたところと読み解ける。その地形が「越前國」の西側、「阿多」の南側に見出せる。現地名は北九州市門司区黒川西である。現在は開発されて広い住宅地になっているが、おそらく元々平坦な地形だったものと推測される。

全くもって国譲りの丁寧さを示しているようであるが、文字が示す地形とは似ても似付かないところとなっている。勿論「飛騨」の地名由来は諸説あるとのこと(こちら参照;仁徳天皇紀に出現している筈だが、都合が悪いからカットされている?)。

<八口朝臣音橿>
● 八口朝臣音橿

「八口」は『壬申の乱』の中で登場している。「谷間の入口」であるが、何処の谷間?…書紀は決してあからさまにはしない記述をしている。当然、この乱が起こった場所の特定が暈すためである。

結果として河内から倭京へ抜ける峠に向かう谷間の入口と推定した(こちら参照)。尚、「八口采女」も舒明天皇紀に登場している。これは「采女」の地にある「谷間の入口」と解釈した。

既出の「音=辛+囗+一=耕地が閉じ込められた様」と紐解いた。直近では紀臣大音で用いられていた。「橿=木+畺=山稜の傍らで田が積み重なっている様」と解釈される。纏めると音橿=耕地が閉じ込められたような地で山稜の傍らで田が積み重なっているところと読み解ける。図に示した現地名京都郡みやこ町勝山宮原辺りと推定される。

十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。癸丑、地震。十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇、設無遮大會於五寺大官・飛鳥・川原・小墾田豐浦・坂田。壬辰、賜京師孤獨高年布帛各有差。潤十二月、筑紫大宰、獻三國高麗・百濟・新羅百姓男女幷僧尼六十二人。是歲、蛇犬相交、俄而倶死。

十一月十六日に伊勢に居た皇女大來(大津皇子とは姉弟)が京に戻されている。翌日に地震あり。十二月十九日、天渟中原瀛眞人天皇の為に「無遮大會」(無遮:一切平等慈悲)を五つの寺「大官大寺・飛鳥寺(法興寺)・川原寺・小墾田豐浦寺・南淵坂田寺」で設けている。二十六日に京に住む「孤獨高年」に布帛を与えたと述べている。閏十二月に筑紫大宰が高麗・百濟・新羅の百姓男女・僧尼を併せて六十二人を献上している。この年、蛇と犬が交わって、共に死んだと記している。

<大官大寺・南淵坂田寺>
大官大寺・南淵坂田寺

大官大寺は高市大寺の呼称が変わったと記載されていた。既に幾度か登場しているが、あらためて図に示した。「高市」は高市皇子の居場所を示す表記であり、大寺は近隣にあったと思われる。

頻出の高=山稜が皺が寄ったような様と読み解き、市=寄り集まる様として田川郡香春町鏡山にある山稜の端と推定した。

書紀本文では「坂田」と記載されるが、用明天皇紀に「南淵坂田寺」が登場している。幾つかの「坂田寺」があったのかもしれないが、「無遮大會」が催される規模とするなら複数回登場する寺と思われる。

ならば幾度か登場の南淵の地にあったと推定され、南淵山・細川山の谷間の坂道沿いとなるが、一に特定は叶わないようである。図に示した範囲とする。飛鳥寺(法興寺)から呉川の畔に大寺が並んでいた様相であり、仏教への傾斜の凄まじさが伺える。

<小墾田豐浦寺>
小墾田豐浦寺

「豐浦」が決め手の場所であろう。蘇我蝦夷大臣の通称が「豐浦大臣」と記載されていた。豐浦=段差のある高台が水辺の平らな地の傍らにあるところと読み解いた。

「蝦夷」の東南の隅に当たる場所と推定した。「小墾田」は小墾田宮と相似形の田がある場所を表していると解釈される。

三角形の小ぶりな地形を示す表記である。水辺の平らなところが田にされていたのであろう。その傍らの高台に寺が造られていたと思われる。

権勢を誇った蝦夷大臣の豪邸の近隣、いや、寺も含めての邸宅だったと推測される。仏教隆盛の礎の地であろう。蘇我一族の影も形もなくなった時でも寺は存在していたのではなかろうか。

補足になるが、「豐浦寺」は舒明天皇紀に登場している。明らかにこの寺は「京」近辺にあったことが分る記述なのであるが、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)が坐した穴門之豐浦宮の近隣にあったと推定した(同じく呉川の畔)。書紀編者もここではきちんと区別して「小墾田」を冠したようである。舒明天皇紀以前にも登場しているようであり、詳細は後日としよう。




2020年10月24日土曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(26) 〔463〕

 天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(26)


年が明けて即位十五年(西暦686年)、年号「朱鳥」と記載されている。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯、御大極殿而賜宴於諸王卿。是日詔曰、朕問王卿以無端事、仍對言得實必有賜。於是、高市皇子、被問以實對、賜蓁揩御衣三具・錦袴二具、幷絁廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端。伊勢王、亦得實、卽賜皁御衣三具・紫袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿卌斤・布卌端。是日、攝津國人百濟新興、獻白馬瑙。庚戌、請三綱律師及大官大寺知事・佐官、幷九僧、以俗供養々之、仍施絁綿布各有差。辛亥、諸王卿各賜袍袴一具。甲寅、召諸才人・博士・陰陽師・醫師者、幷廿餘人、賜食及祿。

正月二日、諸王卿と宴を行い、「無端事」(なぞなぞ?)を問うと高市皇子と伊勢王が答えて、それぞれに多くの品物(賞品?)を貰ったと記載している。この日、攝津國の「百濟新興」が「白馬瑙」を献上している。九日に「三綱」(寺の監督役)、「律師」(僧尼の管理役)及び大官大寺知事・佐官、計九僧に俗人の供養をさせ、綿布などを施している。

十日、諸王卿に「袍袴」(表着の袍,内側の脚衣である袴 )を一揃え与えている。十三日に種々の才人・博士・陰陽師・医師など計二十余人に食物と禄を与えたと記している。尚、元号「朱鳥」についてはこちらなどを参照。

<攝津國百濟新興・白馬瑙>
白馬瑙

今年も早々に献上のお話が盛り込まれている。攝津國は盛んに土地開発が行われていたのであろうか、即位九年二月に続いて「白馬瑙」である。

勿論「白い瑪瑙」と解釈されて、「瑪」と「馬」の違いなど全く無視されて読み飛ばされているのが現状である。

地形象形表記しての白馬=くっ付いて並ぶ馬の地形である。目新しい文字である「瑙」=「玉+𡿺」と分解される。「𡿺」=「頭蓋の柔らかく凹んだところ」を表す文字と知られる。地形象形表記では、瑙=丸くなだらかに窪んだ様と読み解ける。その地形が現在の行橋市泉中央に見出せる。「馬」の地形には些か曖昧さが残るが、下流域での地形象形としておこう。

献上した当人の名前、百濟新興が記載されている。長く延びた山稜の端であって、間違いなく「百濟」(連なり並ぶ小高いところが水際で揃っているところ)の様相であろう。新興=山稜が断ち切られて筒の様に刳り抜かれたところと読み解ける。前出の法興寺などで用いられた「興」の解釈に類似する。彼の居場所は、図に示したように「白馬瑙」の北側に接するところと求められる。

六年前の即位九年(西暦680年)献上の白巫鳥の東側に当たる場所と解る。天武天皇紀になると海辺に近接する下流域の開発が行われていたことが伺える記述である。治水の進展、沖積の進行に伴って平地での稲作が盛んになりつつあった時代と推測される。

乙卯酉時、難波大藏省失火、宮室悉焚。或曰、阿斗連藥家失火之引及宮室。唯、兵庫職不焚焉。丁巳、天皇御於大安殿、喚諸王卿賜宴、因以賜絁綿布各有差。是日、天皇問群臣以無端事、則當時得實重給絁綿。戊午、宴後宮。己未、朝庭大酺、是日、御窟殿前而倡優等賜祿有差、亦歌人等賜袍袴。庚申、地震。是月、爲饗新羅金智祥、遣淨廣肆川內王・直廣參大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直廣肆境部宿禰鯯魚・直廣肆穗積朝臣蟲麻呂等于筑紫。 

一月十四日に「難波大藏省」が失火して宮室が全て焼失している。「阿斗連藥」の家の失火から延焼たように言われている。兵庫職(兵器庫?)は無事だったようである。十六日に諸王卿に宴をさせ、綿布などを与えている。同日、「無端事」を行って答えられた者には綿などを与えたと記載している。

十七日に宴を催している。翌日には御窟殿の前で「倡優」(芸人)に禄を、歌人等には「袍袴」を与えている。十九日に地震、頻発であろう。この月、新羅の使者を饗応するために「川内王」・大伴宿禰安麻呂藤原朝臣大嶋・「境部宿禰鯯魚」・穗積朝臣蟲麻呂(穂積臣百足の子)等を筑紫に遣わしている。

<難波大藏省・兵庫職・阿斗連藥>
難波大藏省・兵庫職

天智天皇即位十年(西暦671年)十一月二十四日に近江宮の隣接する大蔵省から出火したと記載されていた。「難波大藏省」は孝徳天皇の宮、難波長柄豐碕宮の近隣にあったと思われる。

失火したのが阿斗連藥の家とされ、そこから延焼して「難波大蔵省」、「宮室」が全て焼け落ちたと記載されている。

では失火場所は何処であろうか?…阿=台地斗=柄杓の地形藥=小さく小高い地が連なるところと読み解いて来た。その地形を宮の東側の山稜に求めることができる。図に示した場所を拡大すると「藥」が表す幾つかの小高い地形が「斗」の入口付近に見出せる。ここに失火した家があったと推定される。

難波大藏省は、近江大津の大藏省と同様に平らな頂の山稜の麓にある四角く取り囲まれた場所であり、「阿斗連藥」の谷間の出口辺りにあったと推定される。そして更に西側に火の粉が流れ、約450m離れた「豐碕宮」へ延焼したと推測される。

ただ、兵庫職は難を逃れたと言う。「兵」=「斤+手」と分解される。「斤を手に持つ様」が通常の意味となるが、地形象形的には、兵=切り分けられた山稜の端が斧のような形になっている様となる。武庫行宮に含まれていた庫=广+車=山稜の端が延びて連なる様と読み解いた。

「職」=「耳+戠」と分解される。「戠」は「織」にも含まれる文字要素であって、既出では錦織の文字列があった。縦糸・横糸が交差するように、地形象形的には「山稜が交差する様」と読み解いた。職=縁(耳)で山稜が交差するところと読み解ける。これらの地形要素を満足する場所が「豐碕宮」がある山稜の西側に見出せる。

多分、「豐碕宮」は段差のある高台の前にあった宮であり、背後の高台のよって火の粉の飛散が抑制されたのではなかろうか。さり気なく宮の配置を示しているようにも受け取れる。「兵庫職」の表記は、書紀中最初で最後であるが、律令制で「兵庫」(武器管理)の表現が引き継がれているようである。

● 川内王

この王も素性が明確ではなく、実に困ったものである。調べると敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王の一人と記載されているが、出自の場所などは皆目見当もつかないようである。と言うことで、飛鳥周辺で「川(河)内」と呼べる場所を当たってみることにする・・・と舌の根も乾かぬうちにそれらしき場所が浮かんで来る。

金辺川と呉川が作る三角州で、現在の田川郡香春町鏡山にある鏡山大神社の西隣に「河内王陵」と推定されている場所が地図に記載されている(地図のリンク)。その北西側の山稜の端は弓削皇子の出自の場所と推定した。おそらく川内王の場所は、もう少し東側に寄ったところだったのではなかろうか。

<境部宿禰鯯魚>
● 境部宿禰鯯魚

人材輩出の境部=坂合部の地が出自の場所であろう。「鯯魚」は孝徳天皇紀に鹽屋鯯魚が登場していた。魚の「コノシロ」に特徴的な尻尾の形を模した表記と解釈した。

その地形がもう一方の「坂」に見出せる。この「坂」からの人材は初登場のようである。彦山川の川辺、最下流域に広がる地である。下流域へ人の居住が進行していることを示している。

有間皇子の乱に「鹽屋鯯魚」と「坂合部藥」が関わったと記載されている。二人を合せたような名前である。「コノシロ」は「鮗」の漢字が当てられている。

秋が旬の魚に「冬」?…「冬」の文字形が尻尾の形を表していると見れなくもない。諸説ある語源に加えられるかもしれないが、漢字で(地)形を表すことには関心がないようである(「冬」の甲骨文字はこちら)。

二月辛未朔甲戌、御大安殿、侍臣六人授勤位。乙亥、勅、選諸國司有功者九人授勤位。三月辛丑朔丙午、大辨官直大參羽田眞人八國、病、爲之度僧三人。庚戌、雪之。乙丑、羽田眞人八國卒、以壬申年之功贈直大壹位。

二月四日に侍臣六人に勤位(新冠位の一つ)を、翌日國司の中で功ある者九人に同じく勤位を授けている。三月六日、大辨官の羽田眞人八國が発病し、その為に僧三人を出家させたと記している。十日、雪が降っている。二十五日に「八國」が亡くなっている。乱の功績により直大壹位を贈ったとのこと。

天武天皇は大臣廃止の制度を採用した故に、太政官の中に要職である大辨官に任じていた「八國」への信頼は大きかったのであろう。「眞人」の姓が与えられているように天神一族としての身分と実務能力を兼ね備えた人物だったのかもしれない。

夏四月庚午朔丁丑、侍醫桑原村主訶都授直廣肆、因以賜姓曰連。壬午、爲饗新羅客等、運川原寺伎樂於筑紫、仍以皇后宮之私稻五千束、納于川原寺。戊子、新羅進調、從筑紫貢上、細馬一匹・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及金銀霞錦綾羅虎豹皮、及藥物之類、幷百餘種。亦智祥・健勳等、別獻物、金銀霞錦綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類、各六十餘種、別獻皇后・皇太子及諸親王等之物各有數。丙申、遣多紀皇女・山背姬王・石川夫人於伊勢神宮。

四月八日に侍醫の桑原村主訶都(桑原連人足に併記)に直廣肆の冠位を授け、「連」姓を与えている。十三日に新羅の客をもてなすために川原寺の伎樂(舞やら音楽を担う人)を筑紫に運んでいる。皇后の宮の稲五千束を川原寺に納めたと述べている。皇后が差配したようである。

十九日に新羅の進調を筑紫が届けている。百余種のたいそうな物だったようである。使者が別途献上した物があり、これも六十余種、皇后・皇太子・諸王にも献上品があったとか、融和の兆しか・・・唐との関係が悪化したのかもしれない。二十七日に多紀皇女(託基皇女)・山背姬王(山背大兄王の地)・石川夫人(大蕤娘)を伊勢神宮に遣わしている。

五月庚子朔戊申、多紀皇女等至自伊勢。是日、侍醫百濟人億仁、病之臨死、則授勤大壹位、仍封一百戸。癸丑、勅之大官大寺封七百戸、乃納税卅萬束。丙辰、宮人等増加爵位。癸亥、天皇始體不安、因以於川原寺說藥師經、安居于宮中。戊辰、饗金智祥等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫退之。是月、勅遣左右大舍人等掃淸諸寺堂塔、則大赦天下、囚獄已空。

五月九日に多紀皇女等が伊勢より到着している。この日侍医の百濟人億仁が危篤になって、すぐさま勤大壹位と一百戸を封じたと記載している。十四日、大官大寺に七百戸を封じて、税三十万束を納め、十七日に宮人の爵位を増している。

二十四日、天皇は体が心許なくなり始めて、川原寺で藥師經を説いたり安居を行ったと述べている。二十九日に筑紫で新羅の使者達を饗応し、禄を与えている。その後直ぐに筑紫を退いている。この月、大舎人達を遣わして諸寺堂塔を掃き清めさせている。大赦し、獄中が空になったとか。

六月己巳朔、槻本村主勝麻呂賜姓曰連、仍加勤大壹位、封廿戸。庚午、工匠・陰陽師・侍醫・大唐學生及一二官人、幷卅四人授爵位。乙亥、選諸司人等有功廿八人、増加爵位。戊寅、卜天皇病、祟草薙劒、卽日送置于尾張國熱田社。庚辰、雩之。甲申、遣伊勢王及官人等於飛鳥寺、勅衆僧曰、近者朕身不和、願頼三寶之威、以身體欲得安和。是以、僧正僧都及衆僧、應誓願、則奉珍寶於三寶。是日、三綱律師及四寺和上・知事、幷現有師位僧等、施御衣御被各一具。丁亥、勅之遣百官人等於川原寺爲燃燈供養、仍大齋之悔過也。丙申、法忍僧・義照僧、爲養老各封卅戸。庚寅、名張厨司災之。

六月初め、「槻本村主勝麻呂」(出自の場所はこちらを参照)に「連」姓を与え、勤大壹位と二十戸を封じている。何か良いことを成したのであろうか?・・・。翌日に工匠・陰陽師・侍醫・大唐學生及一二官人等、計三十四人に爵位を授け、また七日には功績のあった諸司人二十八人に爵位を増している。十日、天皇の病気が良くならないのは草薙劒の祟りだと占いに出て、それを「尾張國熱田社」に送り置いたと記載している。十二日に雨乞い。効果なし、所詮は祟りなどではなかったかも。

十六日に伊勢王と官人を飛鳥寺に向かわせ、衆僧に朕の病を三寶の威でもって和らげないかと思っているので誓願するようにと告げさせ、衣服などを施している。十九日に百官達を川原寺に遣わし、燃燈供養、悔過ための大齋を行ったと記している。二十八日、二僧の養老のため各三十戸を封じている。二十二日に名張の厨司(厨房のあるところ)が火災している。

<尾張國熱田社>
尾張國熱田社

「草薙劒」が保管されている神社、となれば”熱田神宮”ではないか・・・勿論、国譲りされた結末であろう。

尾張國に「熱田」の地形を探すことにする。「熱」=「埶+灬(炎)」と分解する。「埶」=「小高く盛り上がった様」と読み解いた。「勢」にも含まれる文字要素である。

地形象形的には「熱」=「小高く盛り上がった地から[炎]のような山稜が延びている様」と解釈される。纏めると熱田=小高く盛り上がった地から延び出た山稜の麓で田が広がっているところと読み解ける。

ところが、尾張國と推定される地域は、現在ではゴルフ場・団地・高速道路と開発されて一部を除いて全容は不確かな有様である。国土地理院航空写真1961~9年を参照しながら「熱田」が表す地形を探索すると、図に示した場所が見出せる。現在の小倉東ICに変貌している場所である。

”熱田神宮”(名古屋市熱田区神宮)も山稜の先端にあり、当時は周囲を海に囲まれた地形の場所にあると思われる。実に丁寧な”遷宮”を行ったものである。日本人らしさ満点の国譲りである。

秋七月己亥朔庚子、勅、更男夫着脛裳・婦女垂髮于背、猶如故。是日、僧正僧都等、參赴宮中而悔過矣。辛丑、詔諸國大解除。壬寅、半減天下之調、仍悉免徭役。癸卯、奉幣於居紀伊國々懸神・飛鳥四社・住吉大神。丙午、請一百僧讀金光明經於宮中。戊申、雷光南方而一大鳴、則天災於民部省藏庸舍屋。或曰、忍壁皇子宮失火延燒民部省。癸丑勅曰、天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子。是日、大赦之。甲寅、祭廣瀬龍田神。丁巳詔曰、天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者、乙酉年十二月卅日以前、不問公私皆免原。

七月二日に男女の衣裳・髪型などについて、かつて改めたものを元に戻している。不評だっだのであろう。同日、僧正・僧都が宮中に参内して悔過を行っている。三日に大解除(大祓)。翌日に租税を半減、労役を免除したと記載している。五日に幣(ミテグラ)を「紀伊國々懸神」・「飛鳥四社」・「住吉大神」に奉納している。八日に百人の僧に金光明經を宮中で上げさせている。

十日に南の方で雷が光ってが鳴っている。「民部省藏庸舍屋」が被災したが、それは「忍壁皇子」の宮から失火したせいだと言われたようである。<民部省藏庸舍屋は忍壁皇子の近隣、古事記の忍坂大室の谷間の出口辺りか?>。十五日に天下のことについては大小を問わず、皇后と皇太子に告げよと命じられている。十六日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。十九日に百姓に貸した稲やら資材は、即位十四年十二月三十日以前については免除しろ、と命じられている。

<紀伊國々懸神>
紀伊國々懸神

紀伊國の「國縣神」として書紀中たった一度の登場である。調べるとこの神は「日前神」(天照大御神が天石屋に雲隠れする時に、一書曰で登場する)と一対になった、あるいは別名のような名称であることが分かった。

現在、和歌山市に日前神宮と国縣神宮の二社がある。その由来にも上記に関連することが、また、神武天皇の東征の時が両宮の起源とも記載されている。

これで書紀記述との繋がりが見えて来るようである。國縣=大地が[縣]の様と読み解ける。「紀國」の「紀」が示す地形の見方を少々変えたと言うことであろう。

日前=[炎]の地の前である。古事記で記述される五瀬命が戦死した紀國之竈山の麓であろう。[炎]は「竈の中で燃える炎」を表している。即ち二社並立ではなく、日前國縣神である。書紀の記述が読み取れず、二つの名前があるから二社にしたのであろう。天石屋の騒動に駆り出され、ご登場の神様も二つに分けられて、未だに騒動収まらずの有様である。

紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁に属さない単立神社、とのこと。本社と竈山神社及び伊太祁󠄀曽神社の参詣を「三社参り」と言われるそうである。「竈山」の由来こそ、重要な意味を持っているのであるが、「記紀」に記載された文字を並べて祭祀、である。

<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井>
飛鳥四社

飛鳥にある神社(宮)は、先ずは石上神宮(現在の香春神社辺り)であろう。「記紀」の登場回数では伊勢神宮に匹敵する頻度であり、重要な位置付けにあることが分かる。

残りの三社は途端に登場の回数が減少するようである。それらしき神社が記載された図を再掲する。

天武天皇紀の『壬申の乱』において、将軍吹負が西方からの敵の攻撃に備えている時に神のお告げがあったと言う記事に二社、高市社(事代主神)、身狹社(生靈神)が登場する。そして「捧幣而禮祭高市・身狹二社之神」と述べている。

さて、残りの一社は如何に?…「飛鳥」の地とは少し離れているように思われるが、上記の二社の記述に続いて村屋神が登場する。西方から飛鳥に向かう入口に当たる場所(現地名田川市夏吉)である。どうやら、「飛鳥」を中心にして東西に並ぶ四社を「飛鳥四社」と読んだのではなかろうか。

<住吉大神>
住吉大神

「住吉」は書紀の伊弉諾尊が”筑紫日向”で禊祓をした時に誕生した「底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣」で初登場する。また仁徳天皇の御子に「住吉仲皇子」と記述されている。

対応する古事記の記述は、墨江之三前大神であり、現地名では遠賀郡岡垣町と推定した。また住吉仲皇子に対応するのが、墨江之中津王となり、現地名では京都郡苅田町である。「住吉」⇄「墨江」(隅にある入江)として、各地にあった場所を表現しているのであろう。

「住吉」の文字列は地形象形しているのであろうか?・・・今までのところ、言い換えてもきちんと象形されていたが・・・案じることはなかったようである。

「住」=「人+主」=「谷間に真っ直ぐに延びた山稜がある様」、「吉」=「蓋+囗」=「蓋をしたような様」の文字が示す場所であることが解る。「吉」の解釈は前出の讚吉國伊吉博德などに類似する。住吉=谷間に真っ直ぐに延びる山稜が蓋をしているようなところと読み解ける。

それでは、この「住吉大神」の「住吉」は何処の場所を表しているのであろうか?…ずっと後になるが、攝津國住吉郡があったことが伝えられている。「攝津國」は難波津に接する地、現地名では行橋市矢留辺りと推定した。この”矢”のような山稜が、難波津を蓋するように延びている様を表現していることが解る。

「大神」が鎮座する場所については、些か曖昧であるが、図に示した高台、現在の清地神社辺りにあったのではなかろうか。上記の槻本連が麓に蔓延っていた場所である。「大神」の場所を匂わせる、ご登場だったのかもしれない。

戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥(此云阿訶美苔利)、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。丙寅、選淨行者七十人以出家、乃設齋於宮中御窟院。是月、諸王臣等、爲天皇造觀世音像、則說觀世音經於大官大寺。

七月二十日に元号「朱鳥(アカミトリ)」とした。宮の名前を飛鳥淨御原宮としたと記している。二十八日に淨行者から選んで出家させ、宮中の御窟院で「設齋」している。この月、諸王臣等は天皇の為に観世音像を造り、大官大寺で観世音経を説かせている。

八月己巳朔、爲天皇、度八十僧。庚午、度僧尼幷一百、因以、坐百菩薩於宮中、讀觀世音經二百卷。丁丑、爲天皇體不豫、祈于神祗。辛巳、遣秦忌寸石勝、奉幣於土左大神。是日、皇太子・大津皇子・高市皇子各加封四百戸、川嶋皇子・忍壁皇子各加百戸。癸未、芝基皇子・磯城皇子各加二百戸。己丑、檜隈寺・輕寺・大窪寺各封百戸、限卅年。辛卯、巨勢寺封二百戸。

八月初め、八十人の僧を出家させている。翌日に僧尼併せて百人を出家させ、菩薩百体を宮中に坐せ、観世音経二百巻を読んだと記載している。九日に天皇の病気の為に神祗に祈っている。十三日に「秦忌寸石勝」を遣わして土左大神(北九州市若松区乙丸、戸脇神社辺りか?)幣を奉納している。この日、皇太子(草壁)・大津皇子・高市皇子に各四百戸を、川嶋皇子・忍壁皇子には各百戸を封じている。

十五日に芝基皇子(施基皇子)・磯城皇子に各二百戸増やしている。二十一日に檜隈寺・輕寺・大窪寺に、三十年間に限り、各百戸を封じている。二十三日に巨勢寺に二百戸を封じている。皇太子及び各皇子は既出。

<秦忌寸石勝>
檜隈寺檜隈坂合陵近辺であろう。輕寺は前記の輕部朝臣足瀬の近隣と思われる。巨勢寺巨勢臣発祥の地、おそらく山裾かと思われるが、詳細は不詳である。

大窪寺はついては情報少なく、調べると神武天皇陵に関係する場所と言われているようである。畝火山北方白檮の場所の窪んだところにあったのかもしれない。

初登場の「秦忌寸石勝」の出自の場所を求めておこう。

● 秦忌寸石勝

調べると葛野秦造河勝の子と知られているようである。「勝」だらけの地であるが、「石」と見做せる山麓の地が「河勝」の東側に見出せる。その地が出自の場所と推定される。後の文武天皇紀(續紀)に「石勝」の子が登場するが、その時に述べることにする。

九月戊戌朔辛丑、親王以下逮于諸臣悉集川原寺、爲天皇病誓願、云々。丙午、天皇、病遂不差、崩于正宮。戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。辛酉、殯于南庭、卽發哀。當是時、大津皇子、謀反於皇太子。

九月四日に親王以下諸臣全て川原寺に集まって天皇病気を誓願している。九月九日、崩御された。十一日に發哭を始め、殯宮を南庭に建てている。二十四日に殯を行ったが、この時に当たって、大津皇子が皇太子に謀反をしようとしたと述べている。

甲子平旦、諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日、肇進奠卽誄之。第一大海宿禰荒蒲、誄壬生事。次淨大肆伊勢王、誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴、總誄宮內事。次淨廣肆河內王、誄左右大舍人事。次直大參當麻眞人國見、誄左右兵衞事。次直大肆采女朝臣竺羅、誄內命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人、誄膳職事。乙丑、諸僧尼亦哭於殯庭。是日、直大參布勢朝臣御主人、誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂、誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂、誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂、誄大藏事。次直大肆藤原朝臣大嶋、誄兵政官事。

九月二十七日に諸僧尼は殯庭で發哭し、退出している。奠(供物)をし、誄(弔辞)をしたと述べている。第一に「大海宿禰荒蒲」が壬生(皇子の養育係)について、次に伊勢王が諸王について、次に縣犬養宿禰大伴が宮内について、次に河内王が左右大舎人について、次に當麻眞人國見(當摩公楯に併記)が左右兵衛について、次に采女朝臣竺羅が内命婦について、次に紀朝臣眞人(紀大人臣に併記)が膳職について、それぞれ誄したと記載している。

二十八日に僧尼が殯庭で發哭している。この日、布勢朝臣御主人(布勢臣耳麻呂に併記)が太政官について、次いで石上朝臣麻呂が法官について、次いで三輪朝臣高市麻呂が理官について、次いで大伴宿禰安麻呂が大藏について、次いで藤原朝臣大嶋が兵政官について、それぞれ誄したと記載している。

丙寅、僧尼亦發哀。是日、直廣肆阿倍久努朝臣麻呂、誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張、誄民官事。次直廣肆穗積朝臣蟲麻呂、誄諸國司事。次大隅・阿多隼人及倭・河內馬飼部造、各誄之。丁卯、僧尼發哀之。是日、百濟王良虞、代百濟王善光而誄之。次國々造等、隨參赴各誄之。仍奏種々歌儛。

二十九日、僧尼が發哀している。この日、阿倍久努朝臣麻呂が刑官について、次に紀朝臣弓張(紀大人臣に併記)が民官について、次に穗積朝臣蟲麻呂が諸國司について、次に大隅・阿多隼人及び河内馬飼部造誄したと記載している。三十日に僧尼が發哀している。この日、百濟王良虞(郎)が百濟王善光()に代わって誄し、次いで國々造等が随時参上して誄し、種々の歌舞を奏じたと記載している。

<大海宿禰荒蒲>
● 大海宿禰荒蒲

大海皇子を養育した人物であろう。その「大海」を引継いでいる。と言うことは、大海皇子の出自の場所に関わる地となる。

既に読み解いたように「石上」の水辺である。「海」(水辺で母が両手で抱える様)の地形、「荒」(山稜が海で隠れてしまう様)、「蒲」(山稜が水辺で広がった様)の三つの要件を満たす場所が見出せる。

宿禰の居場所は明解ではないが、図に示したところかと推測される。育ての親が弔弔辞を述べるとは、特別なことなのであろうか。人と人の深い繋がりを示唆しているような感覚である。

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漸くにして、天武天皇紀が終了した。凄まじいばかりの登場人物であったが、ほぼ全ての出自の場所を求めることができたようである(二名の「王」が不詳)。勿論、古事記の舞台に、である。未だ天皇家は九州の片隅に在していたと思われる。























2020年10月21日水曜日

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(25) 〔462〕

天渟中原瀛眞人天皇:天武天皇(25)


年が明けて即位十四年(西暦685年)の出来事である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらどを参照。

十四年春正月丁未朔戊申、百寮拜朝庭。丁卯、更改爵位之號、仍増加階級。明位二階・淨位四階、毎階有大廣、幷十二階、以前諸王已上之位。正位四階・直位四階・勤位四階・務位四階・追位四階・進位四階、毎階有大廣、幷卌八階、以前諸臣之位。是日、草壁皇子尊授淨廣壹位、大津皇子授淨大貳位、高市皇子授淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子授淨大參位。自此以下諸王諸臣等、増加爵位各有差。

正月二日、百寮が朝廷で拝礼している。爵位の號(呼び名)を改め、また階級を増したと述べている。①明:二階、②淨:四階、それぞれ大・廣で計十二階(以前の諸王の位より上位)、③正、④直、⑤勤、⓺務、⑦追、⑧進、それぞれ四階、大・廣で計四十八階(以前の諸臣の位)としている。

草壁皇子尊:淨廣壹位、大津皇子:淨大貳位、高市皇子:淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子:淨大參位を授かっている。諸王・諸臣、個別に爵位を増したと記載している。 

二月丁丑朔庚辰、大唐人・百濟人・高麗人、幷百卌七人賜爵位。三月丙午朔己未、饗金物儒於筑紫、卽從筑紫歸之、仍流着新羅人七口附物儒還之。辛酉、京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努、卒。壬申、詔、諸國毎家作佛舍、乃置佛像及經、以禮拜供養。是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉。夏四月丙子朔己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也。丁亥、祭廣瀬龍田神。壬辰、新羅人金主山、歸之。庚寅、始請僧尼安居于宮中。

二月四日に大唐人・百濟人・高麗人計百四十七人に爵位を与えている。当然であろうが、新羅人は外されている。三月十四日に新羅の使者を筑紫で饗応。漂着した新羅人七人を伴って直ぐに帰国したようである。十六日に京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努(孝徳天皇紀に別名紫檀で登場)が亡くなっている。二十七日に家ごとに仏舎を作って礼拝供養しろと命じている。

三月に信濃國に灰が降って草木が枯れたと伝えている。さて、何処の火山が噴火したのであろうか?…翌四月四日、紀伊國司が言うには「牟婁湯泉」が没して出なくなったと述べている。後の七月二十七日に「東山道は美濃から東。東海道は伊勢から東の諸国」の課役が免除されたと記載されている。

間違いなく、この噴火に伴う措置かと思われるが、美濃・伊勢より東方?…通説の紀伊國の牟婁との位置関係が怪しくなっているが、お構いなしの有様であろう。四月十二日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。十七日に新羅の使者が帰国。十五日に「安居」(七月十五日まで講説)させることにしたと記している。

<牟婁湯泉>
牟婁湯泉

三月に灰を降らせた噴火に関連する地震があったのであろう。前記の伊豫湯泉の同じく谷間が崩れて埋まったと推測される。

「牟婁湯泉」は前出の牟婁温湯と錯覚させる記述であろう。通説は紀伊國にあったと勝手な解釈をしていたが、今度は紀伊國が付いているので、憚ることなく決め付けられている。

「牟婁」はそれが示す地形であって、固有の名称ではない。牟婁=二つの谷間が寄り集まった地(牟)の傍らに丸く小高いところが連なっている(婁)様と読み解いた。

紀伊國の曲がりくねった山稜の東麓の谷間にその地形を見出すことができる。古事記では倭建命が東方十二道遠征で立ち寄った足柄と記述された地である。

後の記述で「東山道は美濃から東。東海道は伊勢から東の諸国」の課役免除するほど被害が大きかったようである。東山道及び東海道の双方の水田の損害が大きいと言うことは、津波が東から押し寄せたのではなかろうか。

憶測になるが、現在の山口県小野田市にある竜王山辺りで噴火があったのかもしれない(直線距離で牟婁湯泉:北九州市門司区恒見約21km信濃國:京都郡苅田町雨窪約26km尾張國:小倉南区長野約28km、近江:行橋市約31km)。

五月丙午朔庚戌、射於南門。天皇、幸于飛鳥寺、以珍寶奉於佛而禮敬。甲子、直大肆粟田朝臣眞人、讓位于父、然勅不聽矣。是日、直大參當麻眞人廣麻呂卒、以壬申年之功贈直大壹位。辛未、高向朝臣麻呂・都努朝臣牛飼等、至自新羅、乃學問僧觀常・雲觀從至之。新羅王獻物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及種種寶物。

五月五日、射会を催し、天皇は飛鳥寺に行幸、宝物を捧げたと記している。十九日に粟田朝臣眞人は位を父に譲ろうとしたが、聞き入れなかったと述べている。また當麻眞人廣麻呂が亡くなり、乱の功績より直大壹位を与えている。二十六日に高向朝臣麻呂都努朝臣牛飼等が新羅から帰国。學問僧觀常・雲觀が従ったと記している。新羅が「馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及種種寶物」を献上した。

六月乙亥朔甲午、大倭連・葛城連・凡川內連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河內漢連・秦連・大隅直・書連、幷十一氏賜姓曰忌寸。秋七月乙巳朔乙丑、祭廣瀬龍田神。庚午、勅定明位已下進位已上之朝服色、淨位已上並着朱花朱花此云波泥孺・正位深紫・直位淺紫・勤位深緑・務位淺緑・追位深蒲萄・進位淺蒲萄。辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。八月甲戌朔乙酉、天皇幸于淨土寺。丙戌、幸于川原寺、施稻於衆僧。癸巳、遣耽羅使人等還之。

六月二十日に以下の十一氏に「忌寸」姓を与えている。「大倭連」・葛城連凡川內連山背連難波連紀酒人連倭漢連河內漢連(高向漢人玄理の場所と推定)秦連・「大隅直」・書連即位十二年(西暦683年)に五十二氏に「連」姓を与えているが、概ねその名前に基づくもののようであるが、一部「直」姓の者も含まれている。

七月二十一日に恒例の「廣瀬龍田神」を祭祀している。二十六日に明から進位までの服の色を定めている。淨位から上は朱色で、以下正位:深紫、直位:浅紫、勤位:深緑、務位:浅緑、追位:深蒲萄(濃い青)、進位:浅蒲萄(淡い青)。二十七日については上記参照。

八月十二日に淨土寺(山田寺の別名)、翌日は川原寺に行幸し、僧に稲を施している。二十日に耽羅に派遣した使者が帰国したと記している。

大倭連については、直近で連姓を賜った勾筥作造が改名したとして解釈する。「大倭」に当て嵌る地には額田部連などが思い付けるが、「宿禰」姓に昇格している。「勾筥作造」は白髮大倭根子命(清寧天皇)の「伊波禮之甕栗宮」に関連する場所であり、「大倭」の地形に含まれていると思われる。

<大隅直>
大隅直は、勿論前記の「連」姓付与の対象ではなかったが、ここで「直」から「忌寸」に昇格されている。調べると大隅隼人の首領のような解説も見られるが、錯綜しているだけであろう。

「大隅」の文字は、応神天皇紀に難波にある「大隅宮」が登場している。一説には崩御の場所とも言われているようである。難波の大隅ならば、その場所を求めることは難しくなく、図に示したところと推定される。

孝徳天皇及び大友皇子の最後に関わって山碕宮山前・河南とか書紀編者が工夫を凝らして記述している地である。それ故に「大隅」の表記も唐突に記載しているように伺える。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊の高崎である。

東山道:美濃から東、東海道:伊勢から東の諸國と記載されているが、書紀に登場した国名を並べてみると…、

東山道(美濃國~):紀伊國、甲斐國、茨城國、常陸國、陸奥國、若狹國、越國、信濃國
東海道(伊勢國~):石見國、參河國、尾張國、科野國、周芳國、相摸國、駿河國、武蔵國

…がずらりと、ほぼ隙間なく揃うことになる。起点国を含めて計18ヶ国である。

<東海道・東山道>

東海道の裏側には筑紫國・出雲國ある。東山道を更に向かうと阿多の地があり、そして蝦夷の国々が広がり、裏側には肅愼國があると読み解いて来た。東海道・東山道の国々は周防灘に面している。現在の曽根平野は奥の奥まで海面下にあり、巨大な潟となっていたと知られるが、この海に面する道を「東海道」と呼称していることが解る。

周防灘対岸にある竜王山(山口県小野田市)を図に示した。大きな入江のような海岸線であろう。前記の「鼓」は北九州市・下関市が作る西側であったが、今度はそれらに小野田市が加わって東側にある「鼓」となろう。遮るものがなく、灰やら津波が押し寄せて来たのではなかろうか。

九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、賜布各有差。甲寅、遣宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王於京及畿內、各令校人夫之兵。戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者・直廣肆石川朝臣蟲名爲東山使者・直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者・直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者・直廣參路眞人迹見爲南海使者・直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者、各判官一人・史一人、巡察國司・郡司及百姓之消息。

九月九日に旧宮の安殿の庭で宴を催し、この日、皇太子以下忍壁皇子までに布を個別に与えている。十一日に「宮處王」・廣瀬王(既出;開化天皇が坐した地の伊邪河の畔)・「難波王」・竹田王・「彌努王」を京及び畿内に遣わして兵器を調べさせている。

十五日、都努朝臣牛飼を「東海」へ、「石川朝臣蟲名」を「東山」へ、佐味朝臣少麻呂(佐味君宿那(少)麻呂)を「山陽」へ、「巨勢朝臣粟持」を「山陰」へ、路眞人迹見を「南海」へ、佐伯宿禰廣足を「筑紫」への使者として、各判官一人・史一人を付けて、國司・郡司及百姓之消息を巡察させたと記載している。

宮處王の「宮處」については、舒明天皇紀に「造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺、便以書直縣爲大匠」と記載されていた。即ち百濟宮の場所を出自としていたと思われる。

「難波王・彌努王」については、全く情報がなく、難波王の「難波」も幾つかの場所があって特定には至らない。ひょっとすると難波皇子が居たところかもしれない。彌努王については後日の捜索に委ねることにする。

<石川朝臣蟲名>
● 石川朝臣蟲名

古くは蘇我倉山田石川麻呂臣に付けられた名称に由来する。更には蘇賀石河宿禰に遡る名前である。父親が「蘇賀連大臣」であり、舒明天皇紀以降に多くの人材を輩出した家柄と言える。

蟲=小さな山稜が幾つも延びる様であり、頻出の名=山稜の端の三角州と読み解いて来た。

その地形を蘇賀の谷間の出口辺りに見出すことができる。現在の白川の支流である舟入川、更にその支流が寄り集まっている場所と思われる。図中の「安麻侶」との兄弟の関係と知られている。

<巨勢朝臣粟持>
● 巨勢朝臣粟持

「巨勢」も多くの人材供給場所であったようである。その地で「粟」、「持」の地形を探索することになる。「粟」もかなりの頻度で用いられていて、「粟」そのものの象形を行っていると思われる。

「持」=「手+寺」と分解される。「手」=「腕を延ばしたような様」であり、幾度か登場した「寺」=「蛇行する川」を表すと読み解いた。古事記の伊邪那岐が「竺紫日向」で禊祓を行った時に生まれた時量師神で読み解いた。

纏めると、粟持=粟の様にしなやかに延びて曲がる山稜の傍らを蛇行する川があるところと読み解ける。來目臣鹽籠の場所北側、近津川が盛んに蛇行している畔と思われる。

東海・東山・山陽・山陰・南海・筑紫

<諸國巡察>

「東海・東山・筑紫」は前出の通りであるが、「山陽・山陰」は初登場の表記である。勿論現在では馴染みのある言葉なのであるが、そもそもの意味を確認しておこう。「陽」と「陰」は、それぞれ「昜+阜」、「侌+阜」と分解される。「阜」=「土地が積み重なった様」を表す文字要素である。

「昜」=「日が昇る様」であり、陽=日当たりのよい南側を表し、一方の「侌」=「被せて塞ぐ様」であり、陰=日当たりのよくない北側を表すと解説されている。馴染み通りの解釈であって違和感は感じられないが、さて当地にそんな地形が存在するのか?・・・図に示した通り、「山陽」の地が吉備國周辺、現地名下関市吉見辺りにあり、「山陰」の地が出雲國周辺、現地名北九州市門司区大里辺りに見出せる。

「吉備國」と言わず「山陽」と表現したのは、それぞれ幾つかの国名を付け、例えば吉備國の近隣にある備後國のように複数の「國」に分割したことに基づくものであろう。出雲の周辺も幾つかに分割されていたのかもしれない。「肅愼國」を含めたいところであろうが、曖昧である。上図<東海道・東山道>参照。

南海は、南の海と読んで差支えなしであろう。筑紫は、勿論筑紫國以外の国はなく、故に「筑紫」と記載されている。相変わらずの九州島全体を表すような解釈は、混迷しかもたらさないであろう。「筑紫」以外も同じ状況だが、一体何年かけて踏査するつもりなのであろうか?・・・。

是日、詔曰、凡諸歌男・歌女・笛吹者、卽傳己子孫令習歌笛。辛酉、天皇、御大安殿、喚王卿等於殿前以令博戲。是日、宮處王・難波王・竹田王・三國眞人友足・縣犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋、凡十人賜御衣袴。壬戌、皇太子以下及諸王卿、幷卌八人賜羆皮山羊皮、各有差。癸亥、遣高麗國使人等還之。丁卯、爲天皇體不豫之、三日誦經於大官大寺・川原寺・飛鳥寺、因以稻納三寺各有差。庚午、化來高麗人等賜祿各有差。

この日(九月十五日)、「歌男・歌女・笛吹者」はその術を子孫に伝えよ、と命じられている。十八日には「博戲」(博打の遊びか?)を行ったと言う。「宮處王・難波王・竹田王・「三國眞人友足」・縣犬養宿禰大侶大伴宿禰御行境部宿禰石積多朝臣品治采女朝臣竹羅(筑羅)・藤原朝臣大嶋(中臣連大嶋)」の十人に「衣袴」(衣服令による朝服の上衣と袴)を与えている。「難波王・竹田王」は上記と変わらず。

十九日に皇太子以下諸王卿の計四十八人に「羆皮山羊皮」を個別に与えている。二十日に高麗から使者が帰国。二十四日、天皇が病気になったので大官大寺・川原寺・飛鳥寺の三寺で経を唱えさせ、稲を個別に納めている。二十七日に自ら進んで帰化した高麗人に禄を与えたと記載している。

<三國眞人友足・人足・大浦>
● 三國眞人友足

「三國」は久方ぶりではあるが、絶えることなく登場している。意富富杼王の後裔として三國麻呂公の出自の場所と求めた。

更なる後裔達は何処に散らばっていったのか?…尾根の近傍に住まう一族のその後を知る上において貴重な登場人物かと思われる。

既出の友=又+又=山稜が二つ並んで寄り添う様と読み解いて来た。その地形が尾根の東側に見出せる。その麓に辺りが出自の場所と推定される。正に山奥の谷間なのでるが、当時の人々が住まうことができた土地と推測される。

後に、續紀の文武天皇紀に三國眞人人足、また聖武天皇紀に三國眞人大浦が登場する。「友足」の更に東側に人形の山稜が延びている場所がある。その麓を出自としたのであろう。「大浦」の大=平らな頂の山稜の麓浦=氵+甫=川がくっ付いて平らに広がった様と読み解くと、「人足」の東側の谷間を表していると思われる。現在の北九州市門司区、小倉北区、小倉南区の境となる地、今に繋がる國境と推測される。

冬十月癸酉朔丙子、百濟僧常輝封卅戸、是僧壽百歲。庚辰、遣百濟僧法藏・優婆塞益田直金鍾於美濃、令煎白朮、因以賜絁綿布。壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。甲申、以淨大肆泊瀬王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷廿人任於畿內之役。己丑、伊勢王等亦向于東國、因以賜衣袴。是月、說金剛般若經於宮中。

十月四日に百濟僧の常輝(百歳)に三十戸を与えている。八日に百濟僧の法臓と「優婆塞」(在家信者)の益田直金鍾を「美濃」に遣わして「白朮」(漢方薬用の植物)を煎じさせている。十日に「輕部朝臣足瀬」・高田首新家荒田尾連麻呂を「信濃」に派遣して行宮を造らせ、束間温湯に向かおうとしたのではなかろうか、と記している。

十二日、泊瀬王(草壁皇子?)・「巨勢朝臣馬飼」及び判官以下の計二十人を畿内の労役に任じている。十七日に伊勢王等を東國に向かわせ、衣袴」を与えている。この月、宮中で金剛般若経を説かせたと述べている。

<輕部朝臣足瀬>
● 輕部朝臣足瀬

「輕部」は古事記の許勢小柄宿禰が祖となった場所であり、彦山川と遠賀川が合流する巨大な三角州の近傍の地と読み解いた。

「巨(許)勢臣」とは、勿論同族の関係になろう。かなり限られた地域と思われ、求める場所も容易に見出せるように思われる。

足=山稜が長く延びた様であり、古事記の「帶」と解釈することも可能であろう。それが「瀬」だと言う。瀬(瀨)=氵+賴=水辺が狭くなった様であり、水の流れが速くなっているところを表す文字である。足のような山稜に挟まれた地形である。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

図では、現在の標高10mを当時の水辺と想定した。淡海の古遠賀湾の最奥に当たる場所、現地名は直方市感田である。書紀は巨勢(許勢)臣の出自を語ることがなく、その末裔の一族を登場させるという記述を行う。「巨勢」ばかりか「輕部」もここに登場させ、素知らぬ顔を決め込んでいるようである。

<巨勢朝臣馬飼-多益須-麻呂>
● 巨勢朝臣馬飼

巨勢朝臣馬飼は、その対岸の高台に「馬」の地形が見出せ(些か崩れてはいるが)、その南麓に、飼=食+司=なだらかな谷間で出口がくっ付くように狭くなっているところが見出せる。

古事記の解釈では、この地も「輕部」のように推測したが、「巨勢」の勢いが勝って侵出したのかもしれない。現地名は直方市頓野である。

後の持統天皇紀に巨勢朝臣麻呂・巨勢朝臣多益須の兄弟が登場する(父親は巨勢臣紫檀)。「麻呂」の表記では、何とも特定できないが、別名に萬呂があると知られている。太安萬侶と同様に「萬」(蠍)の地形を探すと、図に示した場所が見出せる。後の元明天皇紀に活躍され、従三位中納言になったと伝えられている。

弟の「多益須」は大津皇子の謀反に連座したが、赦されて、藤原朝臣史等と共に「判事」の任を与えられている。さて、出自の場所を求めてみよう。既出の文字列である。「多」=「山稜の端の三角州」、「益」=「谷間に挟まれて平らに広がった様」、「須」=「州」とすると、山稜の端にある三角州が平らに広がった地の傍らで州になったところと読み解ける。

上図に示した通り、いよいよ彦山川の川縁の場所に、ずらりと並んでいる。開拓は上流から下流へと進展して行った有様を示している。

十一月癸卯朔甲辰、儲用鐵一萬斤、送於周芳總令所。是日、筑紫大宰、請儲用物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連、送下於筑紫。丙午、詔四方國曰、大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類、不應存私家、咸收于郡家。戊申、幸白錦後菀。丙寅、法藏法師・金鍾、獻白朮煎。是日、爲天皇招魂之。己巳、新羅、遣波珍飡金智祥・大阿飡金健勳、請政、仍進調。

十一月二日に「儲」(官庁の備品)鉄一万斤を周芳総指令所に送ったと記している。本著は東海の真ん中辺りの場所と推定したが、全体を見渡すには都合の良い場所のように思われる。周芳國は、直近では赤龜献上で登場(上図の東海道❻)。同日、筑紫大宰が同じく備品各種を申請している。鉄、箭竹など武器用資材が主のように思われる。

四日に具体的な武器名「大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類」は郡家に収めるように命じている。六日に「白錦後菀」に行幸。二十四日、十月八日に美濃へ向かわせた「法藏法師・金鍾」が白朮」を献上している。「招魂」(鎮魂祭)を催している。二十七日、新羅が「請政」(政情を申し述べる)と進調をしている。

<白錦後菀>
白錦後菀

何の修飾もなく登場されているとなれば、飛鳥近辺と推測して、「白錦」の文字が表す地形を求めることにする。白=くっ付いて並ぶ様であり、何が並んでいるかを読み解く。

錦=金+帛=谷間の高台で布が長く広がったような様と読み解ける。少し前に登場した錦織造小分に用いられていた文字である。

図に示した場所が、その要件を満たすと思われる。後菀=背後の庭園と解釈するが、その場所を特定するには至らない。現在、「田川四国東部第41番札所」と命名されたところが中腹に見える。庭園にできるような広さも伺えるようである。これ以上の情報は調べても入手不可で、候補として挙げるに留める。

十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中皆失衣裳、則爲防人衣服以布四百五十八端、給下於筑紫。辛巳、自西發之地震。丁亥、絁綿布以施大官大寺僧等。庚寅、皇后命以、王卿等五十五人賜朝服各一具。

十二月四日、筑紫防人として派遣したのだが、漂流して海中に衣裳を失ったようで、すぐさま衣服を筑紫に送ったと記している。十日に西の方で地震があった。十六日、大官大寺の僧に綿布などを施している。十九日、皇后の指示で王卿等五十五人に朝廷で着用する服をそれぞれに一揃え与えたと記載している。

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なかなか終わりが見えて来ないが、挫けずに先に進もう・・・。