2017年10月29日日曜日

応神天皇:木幡村再考 〔116〕

応神天皇:木幡村再考


思い込み程恐いものは無し、である。出掛けたのだから往路のことしか考えない。落とし穴に嵌ったようにトンデモナイ間違いをしてしまったようである。木幡村、再考である。少々長いが段落全文を掲載する。

古事記原文[武田祐吉訳]…

一時、天皇越幸近淡海國之時、御宇遲野上、望葛野
知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由
故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰「汝者誰子。」答白「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣。」天皇卽詔其孃子「吾明日還幸之時、入坐汝家。」故、矢河枝比賣、委曲語其父、於是父答曰「是者天皇坐那理。此二字以音。恐之、我子仕奉。」云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。[或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになって葛野を御覽になってお詠みになりました御歌、
葉の茂った葛野を見れば、幾千も富み榮えた家居が見える、國の中での良い處が見える
かくて木幡の村においでになった時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依って父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言って、その家をりっぱに飾り立て、待っておりましたところ、あくる日においでになりました]

荒れた地であった葛野を見て国の充実ぶりを詠ったとされる。応神天皇期には随分と開拓が進行していたことが伺える。領土を拡大すると言うよりも領土内の開発を優先した結果であろう。天皇家の戦略は大倭豊秋津嶋とその周辺の地域からはみ出ることは殆どなかったと理解する。伊邪那岐・伊邪那美が産んだ大八嶋と六嶋及びその周辺である。

地名として記述されているのが、近淡海国、葛野、宇遲野上、木幡村である。既出は近淡海国と葛野であり、「宇遲野上」は春日と呼ばれた地域に重なる。現地名は田川郡赤村内田であり、「野上」は戸城山を指し示すと思われる。国見をする場所として適切である。

読み飛ばしていた「矢河枝比賣」の居場所が重要であった。丸邇の比賣が山代の神社に来ていた、近いから問題はない、そこから道を踏み外すことになるのである。先ずは、一つ一つ丁寧に…丸邇近隣の地を示すところなのかどうか、父親の名前も併せて述べる。


丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣


既に詳細を記述した「丸邇」で「柿本」と言われたところ、現在の田川郡香春町柿下である。その中にある場所と思われるが「比布禮」は何を意味しているのか?…、


比(並べる)|布(布を敷いたような)|禮(山裾の高台)
 
<丸邇之比布禮>
…「並べて布を敷いたような山裾の高台」と解釈される。「禮」は伊波禮の「禮」=「山(=神)裾の高台」と全く同様の解釈である。

丸邇の地では特異的に平坦な地形となった山稜が並ぶところ、柿本*の中心地を指し示していると読み解ける。

現在の柿下の中心地の地形であるが当時との差は少ないのではなかろうか。その近隣で「矢河枝」とは?…


矢河(矢のように流れる川)|枝(江)

その中心地の東南に現在でも急勾配を直線的に流れる川が見える。三本の川が合流するところ、それは入江のような形状をしていたのであろう。下図を参照願う。図中△58.9の周囲が柿本の中心地。平成筑豊鉄道田川線と書かれた中の「線」の文字の右側が「矢河枝」。



木幡村

天皇の行程を推察すると近淡海国へ向かう途中の出来事ではなく、むしろ帰りの道すがらに起きたことと思われる。戸城山で国見をした後宇遲野を下って来て偶然見染めた比賣を翌日訪れるという、「明日」が強調された記述に依る。本来の目的である近淡海国に越行くならば「明日入坐」の記述は相応しくない。ならば木幡村の場所は前記の矢河枝比賣が居たところの近隣ではなかろうか…、


木幡=木(尾根の稜線/日子国の子)|幡(端)

と紐解いた。「木」の解釈に二通りを示したが、地形的には前者、読みとしては後者が適するようである。両方が掛けられているのかもしれない。「木幡」二つの稜線の端が重なったところで極めて特異な場所である。日子国は柿本辺り、現在の田川郡香春町柿下辺りと既に比定した。

その近隣を調べると、現在の同郡赤村内田の小柳にあった村が該当すると思われる。初見では往路として考察し、近淡海国への途中、即ち比賣に会ってからその国に向かい、翌日また来るという行程と考えた。往路か復路かで大きく異なる結果となる。

矢河枝比賣及びその妹も娶って宇遲能和紀郎子等が誕生する。丸邇から宇遲へとその一族が旧の春日の地域に広がっていく様を伝えているようである。軽嶋之明宮との往復を含めて、上記の地名を地図に示した…



地名を示す文字列が漸くにしてその落着き場所を得たような感覚である。その他の地名、まだまだ「再考」の余地があろうかと思うが、焦らずに…である。

…応神天皇紀を通しては「古事記新釈」の応神天皇【后・子】と【説話】を参照願う。

2017年10月26日木曜日

迦邇米雷王 〔115〕

迦邇米雷王


神の教えを聞かぬ仲哀天皇、熊曾退治が優先との考えに拘泥なされて、息長ならぬ息短になってしまったと古事記が伝える。他の史書では実際に熊曾征伐に出向き、弓矢に当たって亡くなったとの噂もあるほどである。古事記は語らないので、琴を弾きながら息を引取ったとしておこう。

そこで大后の息長帯比賣が華々しい活躍をする舞台が設定されることになる。この背景については憶測の域を出ないが、少し調べてみたのが、この大后の出自である。ところどころで大后の祖となる人物が登場するが、先ずは整理をしてみようかとしたら、思わぬ人物に出会ってしまった。迦邇米雷王である。彼のことは、例によって素っ飛ばしていた。

古事記原文…

山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。此者多遲摩國造之祖也。

大毘毘命(開化天皇)丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命を娶って日子坐王が誕生する。その日子坐王が其母弟・袁祁都比賣命を娶って誕生したのが山代之大筒木眞若王である。ここまでは丸邇一族に関連するのであるが、崇神天皇紀に日子坐王は旦波國の玖賀耳之御笠を征伐する出来事が発生する。

この事件は旦波国の平定を確定したことを意味しているようで、日子坐王はこの国に強い影響力を持った王になった推測される。それがあってか日子坐王一族の一派に旦波国系が継続することになったのであろう。大変な数の子孫を残した王なので多方面にではあるが、この旦波国から優秀な人材が輩出することになる。

山代之大筒木眞若王が娶ったのが同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣とある。姪を后にしたのである。この「丹波能阿治佐波毘賣」の居場所は既に紐解いたように現在の行橋市稲童出屋辺り、音無川の北岸近隣の地域とした。名前の通り旦波国の東南端の台地であり、既に治水が行き届いたところであったのだろう。そして御子の「迦邇米雷王(カニメイカヅチノミコ)」が誕生する。


以下の系譜を述べると、この王が丹波之遠津臣之女・名高材比賣を娶って息長宿禰王が誕生し、更にこの御子が葛城之高額比賣を娶って誕生するのが息長帯比賣であり、河俣稻依毘賣を娶って産まれた大多牟坂王が多遲摩國造之祖となると記述される。旦波国と多遲摩国が深く繋がっていく様が伺える。

系譜的には母親である「葛城之高額比賣」が重要なのであるが、それは後程にして…本日の興味の対象である「迦邇米雷王」を紐解こう。

変わった名前で「雷」があるからそれらしい武将のイメージに引っ掛かってしまうところである。また「迦邇(カニ)」と結び付けてしまうのである。ネット検索も文字解釈をされているものでは「蟹の目」とされているようである。唐突に蟹である。やはり一文字一文字解釈するしか道はないようである・・・とあれこれ考えているうちに「邇米」と気付いた。

迦邇米雷=迦(施す)|邇(丹:赤)|米|雷(雨+田)

「迦邇米雷王」は赤米の田に雨を施す王となるが、「迦」=「辶+加」とすると、単なる施しではなく「十字路(水路)を作って田に水を施す」と読み解けるのではなかろうか。丹波国は赤米の産地と既述したが、ここにもそれを示す表現が潜んでいたのである。

丹波国、多遲麻国、それにあまり登場しないが稲羽国の三ヶ国(現在の福岡県行橋市稲童~築上郡築上町高塚)は当時の穀倉地帯として際立った存在であったと推測される。

食が満たされていく、それが国の発展に対して何よりの礎になったであろう。そして有能な人材を出す基盤となったと推測される。茨田(松田)、石垣の池(筒木)、溝作りと繋がり、葛城から旦波、多遲麻へと物語が進行する過程は実に論理的であり、感動的な記述と思われる。

さて、上記の「葛城之高額比賣」の出自は、新羅の王子、多遲麻国に居座った天之日矛から始まる系譜である。詳細は後日に纏めようかと思うが…この王子が多遲摩之俣尾之女・名前津見を娶って多遲摩母呂須玖が誕生。その子が多遲摩斐泥で、更に斐泥の子が多遲摩比那良岐。

比那良岐の子に多遲麻毛理(垂仁天皇紀に登場:常世国に橘を求めた)、多遲摩比多訶、淸日子の三人。淸日子が當摩之咩斐を娶って誕生したのが酢鹿之諸男、菅竈上由良度美の二人。この由良度美を娶ったのが比多訶であり、誕生するのが葛城之高額比賣命となる。多遲麻国内の地名がズラリ、それは後日として…新羅の血が流れる比賣だと伝えている。

旦波、多遲麻、當摩、葛城これらの在処は既に紐解いてきたが、正に縦横の交流が行われていたと読み取れる。上記したように食が満たされた土地の間で行われた人材交流である。古事記の記述は、一見全てが唐突な感じに受け取られるが、実に見事に布石、少々後出しの感もあるが、が打たれているのである。

「迦邇米雷王」彼の登場はその後記載されないが、このような国と国、人と人と…「迦」する…の繋がりの基を示す重要なキーワードを担った命名であったと気付かされた。「息長帯比賣」はこのような背景を担う存在であったと思われる。

…仲哀天皇紀を通しては「古事記新釈」の仲哀天皇・神功皇后の項を参照願う。


2017年10月24日火曜日

春日=カスガ? 〔114〕

春日=カスガ?


「春日」を何と読む?…とは愚問もいいところと言われそうである。当然「カスガ」で「ハルヒ」「シュンジツ」などと読む方がおかしいくらいになってしまっている。それだけ「カスガ」の読みが浸透しているのである。勿論、「春」「日」にも「カスガ」の読みなど、辞書には見当たらない。

というわけで、これも「飛鳥=アスカ」「日下=クサカ」の類である。調べれば、「春日=カスガ」の由来は枕詞とすぐに出て来る。「春の日」が掛る言葉が「滓鹿=カスガ」「霞処=カスミカ⇒カスガ」であって、後者の読みで「春日=カスガ」となった。明日香(アスカ)、草香(クサカ)と同様である。

春日=滓鹿、霞処

本ブログで幾度か述べて来たように枕詞が由来の場合は要注意である。少なくとも上記の「飛鳥」「日下」は古事記の説話から…

近つ飛鳥=近つ(近付ける)|飛鳥(隼人:曾婆訶理)を|明日の処[アスカ]
遠つ飛鳥=遠つ(遠ざける)|飛鳥(隼人:曾婆訶理)を|明日の処[アスカ]

日下=日(邇藝速日命:櫛玉命[])が|下([]:加護する・処[])

と紐解いた。前者は敵を暗殺するために使った隼(飛ぶ鳥)人の曾婆訶理を褒め殺し(近付けて遠ざける)にするという、少々陰惨な事件に基づくものであり、後の人がそれを包み隠して表現(曾婆訶理を省略)したのであろう。後者は侵出する神倭伊波礼比古(後の神武天皇)に対して青雲の白肩津で登美の那賀須泥毘古が初戦大勝利した時、それは邇藝速日命のお陰と言われたことに由来する。

それぞれ重要な意味を持ち、後代の人々が事件の核心を突いた表現と解釈した。だからこそ今も残る「読み」として1,300年以上も読み続けて来られたと理解できる。大きく、深くそこに隠れた意味があるからこそ漢字本来とは掛離れた読みが定着したものと判る。

決して枕詞だからと簡単に解釈するのではなく、そもそも枕詞とは本来それだけの意味を含んでいると思うべきであろう。言葉の持つ重さ、と言ってもやけに軽いものもあるわけだから、言葉遊びのように感じるものも含めて付き合うことになろうか。安萬侶くんの戯れに多くのその遊びと核心を突く表現とが入り混じっていることを理解しよう。

さて、本題はどうであろうか?…何かの事件でもあったのだろうか?…少なくとも古事記の記述には「春日=カスガ」の読みに関連する説話は存在しないようである。「春日」の文字は計14回出現する。その命名の由来など全くの無口である。既に「春日」の意味は紐解いた…

春日=春(物事の始りの勢い付くとき)|日(邇藝速日命)

邇藝速日命が哮ヶ峯(現在の香春三ノ岳)に降臨した後、定住したのが鳥見(トミ)の白庭山(現在の戸城山)と解釈し、その山麓一帯を「春日」と名付けたと推定した。この地にはトンデモナイ宝が眠っていたのである。地元の人々(古事記は「沙本」と名付ける)が細々と掘り出していた「辰砂」である。

「壹比韋」と呼ばれた辰砂が眠る場所について古事記は何度となく記述を繰り返す。現在の福岡県田川郡赤村内田山の内である。関連する文字は数えきれないほど出現する。上記の沙本、若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の「毘毘」=「通気口の前の人々を助ける」、沙本之大闇見戸賣の「大闇見」=「辰砂のある真っ暗闇の採取坑()を見()る」等々。

留めは、応神天皇の「蟹の歌」であろうか、難解中の難解と言われる歌、辰砂を実に丁寧に詠っているのであった。住居を朱に染め、眉を黒々とし、鏡を光らせる、そして後には仏像を金ぴかにする、そんな魔法のようなことができるもの、それが辰砂であった。多くの人々が集って賑わい、国に彩を与えたのである。

壹比韋=壹(総てに)|比(並べ備える)|韋(囲い)

と読み解ける。また、「一つになって他を寄せ付けない」という意味も含まれているように思われる。正に後代の黒いダイヤ(石炭)騒ぎ、「春日」の近隣で起こった出来事に酷似する。この地の鉱物資源の豊かさ、カルスト台地等、稀有のものが存在していた、いや今も残る、場所なのである。

辰砂から必要なものを取り出すと、圧倒的に多くの残渣も取り出すことになる。それは捨てられ、当時ならば放置されることになる。恰も石炭採掘地に今も残る捨石が集積した「ボタ山(ズリ山)」のように…、

滓鹿(カスガ)=辰砂採掘に伴う捨て砂の山()

と紐解ける。この光景を見て、人々が「春日=カスガ」と呼ぶことになったのであろう。「滓」と言う文字が当てられる不思議さに無神経では済まされない。枕詞云々よりもこの文字を使う理由が大切なのである。「滓」が目立つほどのことが起きる地は稀有である。

「霞処」はどうであろうか?…春の日には霞がかかりやすい、であろうか?…それでは日本全国至るところが「春日」である。地名とするにはその地の特異性を示す必要があろう、出雲が「八雲立つ」の枕詞を持つ意味は「大斗=大きな柄杓」の地形を有しているからである。柄杓が煙突効果を示す、煙突から噴き出る白い煙を作り出すからである。

霞処=辰砂の加熱精製時に発生する煙が立つところ

スモッグの発生場所であった。それも夥しいくらいに、である。だから人々は「春日」のことをそう呼んだのである。自然現象で発生する霞ではあり得ない。雲とも言わず、霧とも言わず、霞と言った表現に無神経であってはならないことなのである。

滓鹿、霞処共に根拠のある由来と読み解ける。言い伝えられて来たこと、何故だか不思議だがという言葉の意味には、やはり深い謂れが潜んでいるのである。「春日=カスガ」は古事記全体の解釈が従来とは全く異なる視点から行われない限り為し得なかったことと思われる。「春日の地」=「辰砂の地」と言う図式が見出せない限り到底行き着くことができなかった、と確信する。



…背景等詳細は「古事記新釈」を参照願う。 




2017年10月19日木曜日

犬上君:稲依別王 〔113〕

犬上君:稻依別王




まさかの出来事、固有の姓ではなかったことが判った、というか気付かされた。滋賀県犬上郡という地名がある。個人名を土地に付けるなら精々、町・村の単位であろう。郡であることもかんがえられなくもないが、ここは地名が個人名になったと推測される

「犬上」の姓を持つ人物が後に登場する。といっても古事記ではなく日本書紀など、古事記が筆を置く直前か、その後の人物である。日本武尊の御子・稲依別王の子孫で「近江国犬上郡」発祥の豪族である。その内の一人に犬上御田鍬がおり、遣隋使(最後)及び遣唐使(最初)の二度にわたって中国に出向いたと記録されている。

古事記が語らないところではあるが、祖先として登場する「稲依別王」は倭建命が近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣を娶って誕生した稻依別王そのものであろう。更に「近淡海国⇒近江」である。近淡海国に「犬上」を見つけないと、近江に持って行かれてしまう…そんな話ではないのだが・・・。

不純な動機で始まったこの探索は、かなり難度の高いものであることを、やり始めて感じさせられた。いつもの地形象形とは一味違っているようである。古事記原文…「稻依別王者、犬上君、建部君等之祖」と記述される。「建部君」は武将の頭のような意味であろう。倭建命の跡目を引継いだのかもしれない。

「犬上君」を紐解いた経緯も含めて、やや冗長に記述すると・・・、

「犬」はどんな意味を示すのであろうか?…通常の使われ方はあまり芳しくない…犬のように飼い馴らされている…ことが多い。名前には使われないであろう。勇猛な感じでは犬に勝るものが多く、迫力に欠ける。では、やはりこれも地形象形か?

と言っても、何処の地形を?…母親が住んでいた場所は近淡海之安国である。「安(ヤス)」=「ヤ(谷)・ス(州)」と紐解いて、谷の出入口に州があるところ、現在の福岡県京都郡苅田町片島辺り、小波瀬川(古事記:吉野河)河口付近である。建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が開いたところで、その東端に安国がある。

それ以前には神倭伊波礼比古が八咫烏に道案内されて通ったところでもある。古事記に度々登場する近淡海国北辺の重要な地点である。この地に関連する地名は、八田八瓜八咫烏もそうであろう。現地名でも八田山がある・・・ここで気付いた。「蘇賀石河」の地を「犬」の文字で表したのであろう。



更に、
干支で使われる「戌」がより適切である。大きな扇形の地形を犬、戌の文字で表したと読み解いた。

蘇賀石河=戌=犬

犬上=蘇賀石河の上にあるところ

現地名は京都郡苅田町山口北谷・等覚寺辺りである。更にこの地は蘇賀石河の西北西に当たる。「戌」の方位である。語源としては「作物を刃物で刈取り一纏めにすること」を表した文字とある。この地に相応しい表現と思われる。文字遊びもここまでくればアートである。




通説は滋賀県犬上郡多賀町、そこにある多賀神社(旧官幣大社)が犬上一族の祖神を祀ったという伝承が残っているそうである。苅田町にある近接の白山多賀神社(上図中央)と併せて「犬上」との密接な関連があることが伺える。

犬上御田鍬の祖先は蘇賀石河を眺める北谷に、間違いなく、居た。時が流れて古事記の舞台は日本全土に拡大されて行く。そのプロセスは如何なるルールを用いたのであろうか、端からそんなものはなかったのであろうか…極めて興味深いところである。が、それは後日としよう・・・。



少し余談になるが…近淡海之安國造之祖意富多牟和氣は出雲系である。河内之美努村には意富多多泥古が住んでいた。更には山代国と出雲との繋がりは深いことを既に考察した。歴史の表舞台には出ないが数多くの人々が出雲から大倭豊秋津嶋に移り住んだことが伺える。

不確かではあるが渡来の一つのルートを示しているようである。異なる表現では、そのルートを辿った人々が生き永らえたとも言える。古代における生きるために費やすエネルギーの大きさを思うと命懸けの選択をした彼らに敬意を表する。

…背景等詳細は「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。



2017年10月17日火曜日

倭建命:能煩野・白鳥御陵 〔112〕

倭建命:能煩野・白鳥御陵


大英雄のエンディングの場所、ある程度の根拠を持ちながらこの辺りとして来たが、今一度在所を突止めてみようかと思う。更なる情報がきっと埋め込まれていることを期待して…古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、
伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古
此歌者、思國歌也。又歌曰、
波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母
此者片歌也。此時御病甚急、爾御歌曰、
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜
歌竟卽崩。
[其處からおいでになって、三重の村においでになった時に、また「わたしの足は、三重に曲った餅のようになって非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになって、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになってお歌いになりましたお歌、
大和は國の中の國だ。重なり合ている青い垣、山に圍まれている大和は美しいなあ。 命が無事だた人は、大和の國の平群の山のりぱなカシの木の葉を 頭插にお插しなさい。お前たち。
とお歌いになりました。この歌は思國歌という名の歌です。またお歌い遊ばされました。
なつかしのわが家の方から雲が立ち昇て來るわい。
これは片歌でございます。この時に、御病氣が非常に重くなりました。そこで、御歌を、
孃子の床のほとりにわたしの置いて來た良く切れる大刀、あの大刀はなあ。
と歌い終って、お隱れになりました]

能煩野*

通説に従って読み下せると思われる。現在の北九州市小倉南区徳力辺りと推定される「三重村」から、紫川に沿って現在の金辺峠に向かう。倭建命が西方、東方、吉備へと何度も通った道である。そのどこかに「能煩野」がある。足が疲れて歩けなくなるなんて当時は予想もしなかったことであろう。

前記で能煩野は現在の「母原」辺りと推定した。「煩(ボ)」=「母(ボ)」を共に持つ文字列を一つの根拠にした。が、何とも頼りないと思われた。古事記原文には、上記に続いて駆け付けた后と御子達のことが記述される…、

於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵、卽匍匐廻其地之那豆岐田而、哭爲歌曰、
那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良[ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下っておいでになて、御墓を作てそのほとりの田に這い回ってお泣きなってお歌いになりました。
周まわりの田の稻の莖くきに、稻の莖に、這い繞めぐつているツルイモの蔓つるです]

…能煩野に駆け付けて、陵を作ったのだが、その周りを「那豆岐田」と呼んでいる。


那豆岐田=那(多くの)・豆(凹凸がある)・岐(二つにわかれた)・田

山稜の端にあるゴツゴツとしていて、それが二つに割れた台地状の地形象形であろう。現地名は小倉南区母原・新道寺の境界にある台地である。地図を参照願うが、「三重村」を発って暫くは紫川沿いに進み、現在の小倉南区高尾辺りで東谷川沿いの道となる。谷間を抜けると小高い台地が眼前に広がる。



それが二つに割れた台地の北半分の地(母原)である。ここが「能煩野」と推定される。上図のの周辺である。やはりと言うべきか、能煩野の地形を忍ばせていたのである。


白鳥御陵

后、御子達のてんやわんやが語られる…、

於是化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行。智字以音。爾其后及御子等、於其小竹之苅杙、雖足䠊破、忘其痛以哭追。此時歌曰、
阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那
又入其海鹽而、那豆美此三字以音行時歌曰、
宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波伊佐用布
又飛、居其礒之時歌曰、
波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布

是四歌者、皆歌其御葬也。故至今其歌者、歌天皇之大御葬也。故自其國飛翔行、留河內國之志幾、故於其地作御陵鎭坐也、卽號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。凡此倭建命、平國廻行之時、久米直之祖・名七拳脛、恒爲膳夫、以從仕奉也。[しかるに其處から大きな白鳥になって天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追ておいでになりました。その時の御歌は、
小篠こざさが原を行き惱なやむ、空中からは行かずに、歩あるいて行くのです。
また、海水にはいて、海水の中を骨を折つておいでになつた時の御歌、
海の方から行けば行き惱む。大河原の草のように、海や河かわをさまよい行く。
また飛んで、其處の磯においで遊ばされた時の御歌、
濱の千鳥、濱からは行かずに磯傳いをする。
この四首の歌は皆そのお葬式に歌いました。それで今でもその歌は天皇の御葬式に歌うのです。そこでその國から飛び翔ておいでになて、河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作て、お鎭まり遊ばされました。しかしながら、また其處から更に空を飛んでおいでになりました。すべてこのヤマトタケルの命が諸國を平定するために廻っておいでになた時に、久米の直の祖先のナナツカハギという者がいつもお料理人としてお仕え申しました]

…白鳥伝説の説話となって「河內國之志幾」に「白鳥御陵*」が作られる。古事記読み解きの当初は、近淡海国の内陸部の「志幾」=「師木」であろうと推測し、倭の師木と同様の地形、小さな凸凹の丘陵地帯である現在の京都郡みやこ町勝山黒田、橘塚古墳や綾塚古墳の辺り…とした。

だが、読みは同じでも文字を変えているのは異なるからであろう。


志幾=志(之)・幾(近い)

「之」は直ぐ後に記述される成務天皇が坐した志賀高穴穂宮の「志」と解釈する。詳細は既述のこちらであるが、川の河口付近で大きく湾曲して流れる様を象形したもので、中国江南の「之江」に由来すると紐解いた。志幾は河口付近の蛇行する川の近くにあったと推定される。

「白鳥」は浜に向かって飛び立ち、追いかける御子達は浜辺を彷徨うと述べている。白鳥が降り立ったのは河内の内陸部ではなく、限りなく浜辺に近いところであったことを示すのではなかろうか。現在でも蛇行する複数の川に挟まれたところを探すと…



行橋市大字二塚辺り

が該当すると思われる(上図の八雷神社近隣)。読みが同じと安易に置換える、禁じ手を犯してしまったようである。問わず語りに記述する古事記をしっかり受け止めることが肝要と改めて思い知らされた。

…全体を通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。

2017年10月15日日曜日

倭建命:尾張から甲斐への行程 〔111〕

倭建命:尾張から甲斐への行程


倭建命の東方十二道の行程については伊勢、尾津(小津)の辺りは詳細にわかって来たのだがその他は決して明確ではない。要するに地名の情報が少なく、手掛かりが掴めないと言った状況のままで今日に至ったようである。推論を逞しくして挑んでみよう。


尾張国・相武国

尾張国と相武国についての記述は以下の通りで…古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…

故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。[かくて尾張の國においでになって、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還って來た時にしようとお思いになって、約束をなさって東の國においでになって、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました]

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]

尾張国は既に何度も登場で概略の位置は不動である。一方、相武国は建比良鳥命が国造となった「无邪志國」と思われ、ほぼこれに該当するのであるが、決して明確ではない。むしろこの国も倭建命の東方十二道に記述される「沼」が決め手と思われる。現在も多くの沼があり、地名も「沼…」が付く。現在の…、


北九州市小倉南区沼(大字)

である(地名表示は細分されているが…)。地名絡みの文字「焼津」「大沼」が登場する。これらの比定が今一スッキリしない、という状況である。

また、前後するが「尾張國造之祖・美夜受比賣之家」も尾張の何処にあったのか、と問いには答え切れてないのが現状と思われる。これらを当時の地形を推測しながら行程として矛盾のない解釈を試みる。下図を参照願いながら論を進めるとして、先ずは「美夜受比賣之家」からである。


尾張の中心としてあったところは現在の小倉南区長野であろう。残存する地域の大きさ、地図上で占める面積の大きさからも疑いのないところと思われる。また、数は少ないが尾張国内の地名も幾つか比定したものがある。上図では嶋田、知多、その他に丹羽、尾張之三野等挙げられる。

これらの周辺地域の場所を纏めてみると、当然と言えばそうなのだろうが、美夜受比賣之家」は…、


貫山山系から流れ出る川(現長野川)の谷筋

の上流部であったことが導かれる。現地名は小倉南区長野(大字)であり、上図の破線円の辺りと推定される(白抜き文字は北九州市小倉南区の地名)。「美夜受」は…、


美夜受*=美(三つ)|夜(谷)|受(引継ぐ)
 
…「三つの谷から流れる川を引継ぐ」ところに居た比賣と推定される。上図に記載のところより申し少し南側に移動したところと思われる。

国土地理院図の青色が示すところは概ね標高10m以下で、その大部分が当時は海面下にあったと予想される。

上図「尾張国」辺りが海岸線であったと思われる。このことは相武国に向かう際に船を利用したことを裏付ける推察である。

向かった先は相武国の西南端、小さいが入江の形状を示している場所、「焼津」と推定される。上図の上側の破線円辺りである。現地名は…、


小倉南区沼緑町

沼らしきものが多くあるが、同じ町内に属し、最も山側の池を「大沼」と比定できるのではなかろうか。神様が住んでるという表現からも人が住む海辺に近いところではないように思われる。


新しい地域に出向いたのではなく、東方十二道は既に祖先が切り開いたところ、時の変化で「言向和」不十分となった。建比良鳥命からその時の国造までの経緯は不詳だが、何かの理由で謀反を企てたのであろうか。欺くのは得意、欺かれることは全くなしの倭建命であった。

伊勢で貰った袋には何と火打石が入っていた…倭比賣、なかなかの切れ者、というところか・・・火には、火を、である。同じく授けられた草薙の剣は役に立ったのかどうか…肝心な時に持たずに出かけるという不始末を犯す。この説話、小道具も活用しているのである。

初戦を大勝した倭建命は意気揚々と次に向かうが、焼津から出航して間もなく難破の危機に陥るという事件が起きたのである。


弟橘比賣命

自其入幸、渡走水海之時、其渡神興浪、廻船不得進渡。爾其后・名弟橘比賣命白之「妾、易御子而入海中。御子者、所遣之政遂、應覆奏。」將入海時、以菅疊八重・皮疊八重・絁疊八重、敷于波上而、下坐其上。於是、其暴浪自伏、御船得進。爾其后歌曰、
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
故七日之後、其后御櫛、依于海邊。乃取其櫛、作御陵而治置也。[其處からおいでになって、走水の海をお渡りになた時にその渡の神が波を立てて御船がただよて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代て海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪いで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、
高い山の立つ相摸の國の野原で、燃え立つ火の、その火の中に立って わたくしをお尋ねになつたわが君。
かくして七日過ぎての後に、そのお妃のお櫛が海濱に寄りました。その櫛を取て、御墓を作て收めておきました]

焼津から東に向かうとそこは「走水海」と呼ばれたところと記述される。「走水」の表現は「浪速」「難波」とは異なっているのだが、何を言いたかったのでろうか?…因みに横須賀にある走水神社には近くの湧水が「走水」の由来とのことらしい。これも少しズレているような・・・

文字通り「走る水」とすれば、何かの上を滑るように水が流れる様を表していると思われる。隣国の科野国、茨木国の名前が示す通りに急傾斜の土地であり、相武国も全く同様であったと思われる。高蔵山及び鋤崎山の南陵が交錯しながら長く延びてストンと海に落ちるという極めて荒涼たる…当時は…風景の中で事件が起きたと思われる。

「走水海」とは相武国の…、


急傾斜の地を水が走り落ちていく海

である。浪速、難波と違っているから異なる表現を使ったのである。そう気付くと真に特異な地形であることがわかる。当時の海岸線の状況は不詳だが、十分に推測可能なものと思われる。

古事記登場の比賣達は、概ね、才色兼備、弟橘比賣命も正しくそれに相応しい行動をした。我が身を挺して走水の災難を防ぎ船を進めさせた、というのである。上記の走水神社では弟橘比賣命を祭祀しているとか。この比賣との間に若建王という御子がいる。系譜が詳しく語られる。詳細はこちら

命拾いをして先に進む…倭建命の船は現在の沼本町辺りで上陸したと推測される。ここからの記述が少々入組んでいて読み辛いところではあるが、整理をしながら読み解いてみよう。

自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。自阿下五字以音也。」故、號其國謂阿豆麻也。
卽自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、
邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流
爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、
迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁
是以譽其老人、卽給東國造也。[それからはいっておいでになて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還ってお上りになる時に、足柄の坂本に到って食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になって參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常にお歎きになって、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになった時に、お歌いなされるには、
常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。
ここにその火を燒いている老人が續いて、
日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。
と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました]


邇比婆理・都久波

上陸してから「足柄之坂本」に至るのであるが、歌でその途中通過した地名が登場する。「邇比婆理」「都久波」である。あらためてこれらの文字を解釈してみよう。「邇比婆理」は…、


邇(近接する)|比(並ぶ)|婆(端)|理(区分けされた田)

…「近接して並ぶ端にある区分けされた田」と紐解ける。図に示したように稜線の端の高台が二つ並んでいるように見えるところである。現地名は細分化されているが、北九州市小倉南区沼新町、上・中吉田辺りと思われる。かなり広い団地が造成されているようである。「都久波」は…、


都久(筑=竹)|波(端)

足立山(竹和山)山系の端にあると解釈される。地図を見てみよう。接岸した沼本町を上がると、現在は大規模な団地が形成されている。しかしながら、高蔵山、鋤崎山の稜線が大きく張り出したところであったことは明瞭である。この凹凸の地面を暫く進むと北九州市門司区吉志の地名となる。ここが「都久波」に該当すると思われる。



 
足柄之坂本・甲斐・阿豆麻(東国)

足柄之坂本は「足柄」=「足搦(アシガラ)ミ」勾配、距離等きつい坂道を上る様子を示したものであろう。現在の北九州市門司区恒見から小倉南区吉田に抜ける道がある。抜けたところの吉田が「東国」である。足柄の坂を登り切ったところで「阿豆麻波夜」と叫ぶのである。走水海を眼下に見下ろす場所であった。

最もらしいシナリオとロケーションではなかろうか。この入組んだ行程の説明もこれで漸く納得、である。更に説話に落が付く、面白いので再掲…幾ら日数が経ったかの問いに「日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます」と老人が答える。「九十(クソ)」=「糞」=「(日数なんて)取るに足らないものでございますと言った?…まぁ、国造かも?・・・。

ところで失った妻のことを嘆いて「吾妻」素直な解釈なのだが、やや引っ掛かる…


阿豆麻=阿(台地)|豆(小さな凹凸)|麻(摩:削る)

吉田の地も大規模な団地となっていることが伺える。しかしながら背後の山の稜線が殆ど見られない状況である。後代の仕業かどうかは定かではないが、当時既に稜線を削って平坦にされていたのではなかろうか。即ち倭建命の目線は上図の二つの白破線の方向、走水海だけでなく東国にも向けられていた、と。

安萬侶くんの戯れ、いい加減にしろと言いたいところだが、文字遊びもここまでくれば、感服である。夜露死苦なんていう落書きより…巷で見かけることは殆どなくなったが…遥かに高度な文字遊びである。かつてポケベルで「4908」というのがあった、何のメッセージか?…お判りでしょうか?

東を「アズマ」と言う有力な語源の一つである。碓氷峠で関東を眺めて「吾妻よ!」と叫んだことに由来するとある。飛鳥に始まる難読文字の仲間に、また一つ加わることになるであろう。

吉田から東北方向に山を越えると甲斐国に行き酒折宮で一息ついたら科野国に向かうのである。この大英雄が教えてくれた古事記の国々、弟橘比賣と共にその霊に感謝の意を表そう。

全体通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。


2017年10月12日木曜日

沙本の謀反 〔110〕

沙本*の謀反


垂仁天皇紀の説話の冒頭に記述される事件である。垂仁天皇は沙本之大闇見戸賣の子の沙本毘賣(別名、佐波遲比賣)を娶った。この比賣の兄に沙本毘古がいた。

古事記原文…

此天皇、以沙本毘賣爲后之時、沙本毘賣命之兄・沙本毘古王、問其伊呂妹曰「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下。」而、卽作八鹽折之紐小刀、授其妹曰「以此小刀、刺殺天皇之寢。」

事件の前書きである。巷の兄妹の会話ならいざ知らず、妹の夫はまがりなりにも天下の天皇…これで天下がひっくり返っては堪ったもんじゃない…と古事記に語り掛けても答えは還って来ない訳で・・・。勿論、安萬侶くんが書き残すことができない事情があったと思うべし、である。

さて、説話の内容は過去の記述を参照願うとして、この書き残せない事情なるものを妄想してみようかと思う。必ずそのヒントを忍ばせている、と信じて・・・。この兄妹の系図を示す。



前記「丸邇臣の台頭」でも述べたように兄妹の母、祖母及び父方の祖母の名前が凄まじいのである。再記すると、

・沙本之大闇見戸賣辰砂のある”真っ暗闇の採取坑(道)を見(張)る”女人

・春日建国勝戸賣=春日に居る”建国を心密かに目論む”女人

・丸邇臣之祖日子国意祁都命之妹意祁都命比賣命=丸邇臣の祖の日子国に居る”思いは大きく都にる”命
 の妹の”思いは大きく都にする”比賣

である。勿論安萬侶くんの常套手段、偽名若しくは当て字で表わす登場人物の「人となり」である。ならばと、「丸邇臣の台頭」として丹に係る一族の「思い上がり」の解釈とした。だが、この思い上がりだけで「以此小刀、刺殺天皇之寢」となるとは、納得のいかないところではあった。

今一度「丸邇」と「沙本」の言葉を紐解いてみようかと思う。「丸邇」は「和邇」「和珥」などと呼ばれ、当然のごとくに名前そのもののように読取ってきたが、そうではないとしたらどうなるであろう?…「邇」=「近い」という意味を持つ。


丸邇=丸(辰砂)|邇(近い)

辰砂の採れるところを「壹比韋」と記載される。孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となったところであり、後の応神天皇の「蟹の歌」で詠われる「伊知比韋」に当たる。


壹比韋=壹(一途に)|(並べ備える)|(囲い)

場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれた、現在の福岡県田川郡赤村内田山の内と推定した。この囲われた地域を「丸」と表現したのではなかろうか。このことは重要な意味を示す。「丸邇」は丹の中心ではなく、その近隣に居たと述べているのである。

「日子国」の「日の子」、「日」そのものではないが、近しい関係であること述べていると思われる。「丸邇」は丹に深く関わる存在であったことには変わりはないが、「丸」に居たわけではないことを告げているのではなかろうか。彼らが居た場所は「柿本」で、現在の田川郡香春町柿下とした。

「柿本」の由来は何であろうか?…現在地名の柿下に残る「柿」である。消すに消せない重要なキーワードなのであろう。



図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。


柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓


現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。「壹比韋」に近接する場所である。勿論「春日」に隣接する地でもある。「沙本*」はどうであろうか…


沙本=沙(辰砂)|本(麓)

…と読み下すのが適切のように思われる。沙本毘賣の別名、佐波遲比賣の「佐波遲」は…、


佐波遲=佐(促す)|波(端)|遲(田を治水する)

…「丹の端の豊かな水田がある場所に住んでいた」比賣と解釈される。現地名、田川郡赤村内田本村である。「丸邇」「沙本」は本丸を取り囲むように住まっていたのであろう。

「丸邇」「沙本」及び「柿本」を紐解いた結果、「沙本の謀反」の本来の姿が見えてきたようである。丹を手中に収めて勢い付いて、調子に乗って、天下を取ろうなんてこともあったかもしれないが、もっと根深い怨念が横たわっていたと推測される。

開化天皇の諡号「大毘毘命」=「坑道に集まる人を加護する天皇」裏を返せば見張ってる張本人とも解釈できる。開化天皇の春日への侵出は間違いく地元の混乱を招いたであろう。邇藝速日命一族との融和、決して簡単ではなかったのであろう。それが積年の思いとなって沙本毘古・沙本毘賣の事件に顕在化したと解釈される。



少々長くなるが、経緯を纏めてみると…、

登美の地に邇藝速日命の一団、三十数名の将軍を抱える大船団がやって来た。現在の福岡県田川郡赤村、そこに聳える戸城山を根城として、十種の神宝を持ち、天神の見印をかざして侵攻した。その地を「春日」(日=邇藝速日命)という呼び名に変えて「虚空見日本国」への第一歩を歩んだのである。

しかし、思うようには事は運ばず、特に「銅」の産地を抑えられなかったのが痛かった。「神」の怒りをかってしまい、神倭伊波禮毘古命の登場となった。彼の戦略は当たった(太陽邇藝速日命でキャンセル)。邇藝速日命から受け継いだ神宝を守り、香春の地に落ち着いたのである。

だが、決して楽ではなかった。幾人かの天皇が変わって始めて「春日」に辿り着き、そして都の中心「師木」(低く小さな山が無数にあるところ)、現在の福岡県田川郡香春町中津原辺りに、漸くにして行き着いた。

邇藝速日命一族が切り開いた地に開化天皇一家が侵出した。それは元来そこで生きて来た住民にとって全てを歓迎する出来事であったろうか。彼らは辰砂=丹という世にも珍しいモノを見つけていたのである。だが、力及ばず次第に端に追いやられてしまうのである。

「丸邇」=「丸()の近く」、「沙本」=「辰砂の麓」これらが意味するところは、その時の丹の中心とは離れていることである。「壹比韋」の入口に陣取った開化天皇の進出は決定的な出来事であったろう。おそらくは「辰砂の麓」一帯を差配していた「沙本」の人々を排除し、取って代わって「伊邪河宮」に坐したのではなかろうか。民の心はその急変に追随するには尚早であったと思われる。

これが沙本毘古・沙本毘賣の謀反の真相ではなかろうか。開化天皇の諡号「大毘毘命」=「坑道に集まる人を加護する天皇」裏を返せば見張ってる張本人とも解釈できる。丹に関する鬩ぎ合い、軋轢それが謀反の動機であろう。

春日の地の銅に勝るとも劣らない「宝」に多くの人が集まった。天皇家を脅かす輩も現れる。この危機を乗越えずしてなんとする、垂仁天皇の知恵の出しどころあったと、伝えているのであろう。「丸邇」はこの後も引継続き大きな勢力となって天皇家に尽くす。葛城の地いる一大勢力との鬩ぎあいも垣間見える記述も後に登場する。

天皇への奏上書としてあからさまな記述を差し控え、その名前に忍ばせた安萬侶くんの知恵に感謝申し上げよう。漸くにして君の本意が伝わったように思われる。

全体を通しては「古事記新釈」の垂仁天皇【説話】を参照願う。

2017年10月10日火曜日

再びの東方十二道 〔109〕

再びの東方十二道


「古事記新釈」なんて作業に取り掛かったら、出て来るは出て来るわ、読み飛ばし、珍解釈・・・何とか気持ちが折れることなく進められているのは、やはり推敲重ねるとそれなりの結果が伴うからで、グルグル回りはこれからも時間の許す限り、であろう。


中でも「東方十二道」は古事記そのものの記述も簡単で、登場回数も決して多くはない。倭建命の東方遠征が最後で後は顔を見せない。古事記の設定からすると、舞台の大枠はこの命の作業でほぼ完了ってことなのでしょうか・・・。

再々があるかもしれないが、通釈が倭建命まで進んだところで一応纏めてみようかと思う。現在のところ「精一杯」の結論である。下図に紐解いた命の東方遠征ルートを示す。

景行天皇の纏向日代宮から伊勢神宮に向かい、そこで気丈な命が泣き言を倭比賣に漏らして遠く旅立ち、甲斐で折返し、還りの尾張でちょっと余計なことに手を出したために命を落とす羽目になる。今思えば、通説のように広々とした本州蝦夷の辺りまでを使った遠征行程とは異なり、何とチマチマとしたルート・・・。

正直、こんな狭い範囲で求める地名が出て来るのか?…途中で船にでも乗られたら、何処に行くのか皆目判らずの状態であった…懐かしいものである。古事記全体を読み通した今では、このルート以外は思いもつかないようになってしまった。<追記:尾張国の場所修正等>



前回に紐解いた結果も含めて見直してみよう。上図に倭建命が遠征した時に登場する地名が示されている。国名あるいはそれなりに纏まりのある地域の名称として採用できそうなのが…西から…、

伊勢 三重 尾張 科野 相武 東 足柄 甲斐

の八か所と思われる。国が付かないのは「三重」と「足柄」であるが、土地の広さ、独立性から推定すると区切られた地域として存在していたように思われる。

少し曖昧なのが「三野国」なのだが、命は立寄らない。この地はむしろ高志道に属すると考える方が適切であろう。科野、相武に向かう途中の国の位置付けではない。勿論どの道にも属さない国があっても不思議ではない、と思われる。

また、既に神八井耳命(綏靖天皇の兄)が祖となったと記されている場所に「道奥石代国、常道仲国」があり、図中の「恒見」=「常道仲国」とし、更にその北側に「道奥石代国」があったと紐解いた(合計十か所)。命の行程には含まれないが、存在していたことは間違いところであろう。



上図にある「都久波、邇比婆理」倭建命の話し言葉の中にのみ登場で、古事記中では筑波、新治という記述がないことから「道」には加え難く、むしろ既に登場している天津日子根命が祖となった「茨木国」を採用すべきと考える(合計十一か所)。

残り一ヶ所倭建命の行き帰りの道中に存在したところとして「三川」(足立山西南麓:尾張国と科野国の間)がある。これを採用すると合計十二か所となる。些か異なる見地から検討すべきかと思われるが、目下のところ「東方十二道」の地名は…西から…
 
伊勢 三重 尾張 三川 科野 相武 東 足柄 甲斐 茨木 常道仲 道奥石城

と推察される。従来より定説がないのであるが、古事記の記述が簡単すぎるきらいがある。倭建命の遠征以降には登場しない文字であり、重きに置いていなかったのであろうか・・・。

…と、まぁ、出来たようでもあり、まだ、再考余地もあるかも・・・。

全体通しては「古事記新釈」の倭建命の項を参照願う。


2017年10月8日日曜日

赤い丹の穂 〔108〕

赤い丹の穂


赤米、黒米(紫黒米、紫米)が登場して彩鮮やかな古代の米の話題が浮かびあがってきた。衣食住の食について古事記が記述しないわけがない筈で、紐解いた結果はその技術にまで立ち入ることとなった。

耕作地については「茨田=松田」それには水源()の確保と「溝」作りがあり、それは比較的傾斜の緩やかな扇状地に拡げられたところである。急傾斜の地には「池()」を作り貯水と灌漑用水を配備する。それには石垣を積み上げる技術「筒木」が必要であり、深い谷間に大きな池を作る、今のダムの原点でもあろう。

河口付近の広い平野部の豊かな水、だがこれは頻繁に生じる河川の氾濫対策及び有り余る水の排水が不可欠でもあった。安定給水源としての「依網池」の必要性はわかるもののそれには国家的規模での大事業を要する、確かに河口付近の水田の開発が後代になるのは納得できるところである。

「茨田」と言えば第十六代仁徳天皇の「茨田堤」となるが、初代神武天皇紀に既にこの文字は出現しているのである。初代の「茨田」を読み解けない限り第十六代の「茨田」も理解できることはないであろう。そして古事記における後者の天皇の位置付けもさっぱり伝わって来ないであろう。

この開拓された耕作地で一体何を?…それが赤米、黒米という稲の種類であったことが示されていた。特に黒米は最近になって紐解けたのであるが、垂仁天皇の諡号、伊玖米入日子伊沙知命の「玖米」に拠る。「玖」の文字がそれなりの頻度で出現し、読み解ければその示すところが見えてきたことが背景にある。

「玖米」=「黒米」の直接的な表現とその地名との関連から確度の高い解釈と思われる。一方赤米は赤色を示す「丹」で表しているように受止められるが、今一歩直接的な繋がりが見つからず今日に至っているのが現状である。

「赤米考」などの著作に頼るも古代は不詳と片付けられている。裏付けがない論考になることが避けられないのであろう。考古学における遺物が確証か?…持ち運べるものは確証にはならず、過去にトンデモナイ持ち込み・持ち出し・世紀の大発見なんてことをやらかしたお方もおられる。全くの余談だが・・・。

あらためて赤米について調べてみたことを纏めてみようかと思う。結論めいたことが得られることを期待しないで…。


次田潤著『新版祝詞新講』の中に「赤丹穂」の記述がある…、

・・・「赤丹」は赤土をいい、転じては赤色をいう。「穂」は秀の義で、すべて外に表れ出る意がある。「稲の穂」「波の穂」「火の穂」()「舟の帆」「国の秀」「槍の穂」や「上枝(ほつえ)」「秀罇(ほだり)」の「ホ」もすべて著しく目につくものをいうのであるが、なお「ホ」を語源とする語に「ホコ」()「ホム」()「ホコル」()「ホコロブ」()等がある。・・・


という述べられている。ここに出てくる幾つかの言葉は本ブログで読み解いてきた解釈を強く支持しているものと思われる。例えば「穂」=「著しく目につくもの」は志賀之高穴穂宮で「高穴穂」=「高いところにある洞窟が表面に出て目立つ」と解釈した。

「赤丹穂」の「赤丹」は赤色を示すとあるが「丹」の語源は「丹砂を採掘する井戸」の象形である。既に応神天皇紀の歌の解釈で述べたように元鉱物には赤と黒があり、黒丹(眉墨)も存在する。「赤丹」は省略せずに表記したものと思われる。勿論、主には赤色が使われ、丹とくれば赤色を示すと考えて差支えはない。

「穂」に「稲の穂」が記述されている。注目は次の「波の穂」である。ありふれた言葉ではあるが、目にして気付く、というところであろうか。繋がりました。


丹波国=赤い稲穂の国

である。「丹穂」でネット検索すると多くのサイトがあることが判った。健康食品ブームもあろうが、古代の有色米への興味を持つ人が多いことに、何故か勇気付けられた。そして、古事記へと足を運んでもらえることを期待しよう・・・少し紹介…。


 にしら米穀店:赤米のことを丁寧に紹介されている。

自然を愛し環境を考えるお兄ちゃん神丹穂米の紹介。右の画像を拝借。

「丹波」と「旦波」の表記について、探ってみると…開化天皇紀の最初に「旦波」で1件現れ、その後の5件は「丹波」である。

それ以降(垂仁天皇紀迄)は全て「旦波」と記述される

「タンバ国」の登場はこの三代に限られている。同一国であることは間違いなのであるが、何故?…。

「旦」は朝日の象形そのものと知られる。朝焼けの真っ赤な空を思い浮かべれば「丹」と同じく赤色を示す言葉であろう。夜が明け新しい日を迎える時に掛けて、渡来人達が多く集まって来た地と憶測することもできるであろう。「旦」の文字には意味が込められていたのではなかろうか。

「丹」は赤色を直接的に示すために一時使用した、と読み解ける。氷羽州比賣が居たところは赤米の一大産地であった、ということで納得しておこう。ところでもう一件関連する地名「尾張之丹羽」がある。



「尾張国」(現地名北九州市小倉南区横代・長野)を流れる現在の稗田川の下流付近(横代北町辺り)と特定した場所である。



丹羽=丹(赤い)・羽(羽毛=稲のヒゲ)

と紐解いた。稲穂が棚引く様を羽の羽ばたく様に置換えたともとれるが、上記の解で良しとしよう。この地も豊かな穀倉地帯であったことを伺わせる記述である。『赤米考』に記載されているように稗、その他の穀物種との混栽であろうし、むしろ稗などの方が多く栽培されていたと思われる。



天孫降臨以前に赤米などは倭国で栽培されていたであろう。それを狭い耕地で栽培していったことは特筆すべき事柄であろう。見逃してはならないことと思われる。仁徳天皇の「茨田堤」を淀川べりにおいて議論するなど、他に考えるべきことがあるのでは?…と思うが・・・。

牧畜に関しては「日向之諸縣君牛諸」記述から新羅などから伝わったように受け取れた。また建内宿禰の子である平群都久宿禰が馬御樴連の祖となる記述もあった。数少ないところで何とも言い難いのであるが、農業関連の生産に関して少しは記載されているように思われる。馬は戦闘用?・・・。

…と、丹はなんとか落ち着いたかな?・・・。





2017年10月6日金曜日

建内宿禰:久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣 〔107〕

建内宿禰:久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣


毎度のことながら我ながら情けなくなるのが、読み飛ばしである。気付けばその時に少しは引っ掛かったという記憶があるのだが、今一歩の突っ込み不足で後日に嘆くことになる。地名を刷り込まれた人名の羅列に圧倒される日々である・・・と、言い訳めいた前置きはこれくらいにして、取り掛かろう。

古事記原文…

此建宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

既に紐解いた建内宿禰一族の、錚々たるお方達である。その中に「女二」として載っている比賣について調べてみようかと思う。何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。

久米能摩伊刀比賣

何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。実のところは、なんの事はない前記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の名前を紐解いた時に気付いたのである。古事記検索で「久米」を掛けると出て来る。その中にあったという訳である。


<師木玉垣宮・水垣宮>
そんな事情で時代は前後するが、「伊久米天皇」の紐解き概略を述べながら比賣の住まった場所を求めてみよう。

「伊久米」の探策結果は図に示すように現在の田川市伊田、鎮西公園付近とした。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に「天津久米」類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。


伊久米=伊(僅かに)|久(勹の形)|米(川の合流点)


<久米能摩伊刀比賣>
…「僅かに勹の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。すると比賣が居た場所は上図に橙色破線円の近場と推定される。が、津の周りの何処かは不明である。

「摩伊刀」はそのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。

だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、


摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。古事記の「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。標高差が少なく、地図は国土地理院アナグリフを使用する。浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「久米」の範囲は残念ながら上記からは求めることは不可で、凡その領域を示した。垂仁天皇がこの地に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたのである。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」が正解のようである。だが、これでは埒が明かない、というのも正解のようである。そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。現地名は…、


田川市伊加利

かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。


実際には「ノorド」と言われたところであったのかもしれない。変遷があって読み替えたものが残ったようにも思われる。それにしても「伊久米」から始まった地名探索は見事なまでに収束してきたようである。師木の詳細地図が見えて来たと思われる。

ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。「錨」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。「怒能伊呂比賣」は…、
 
<怒能伊呂比賣>
怒(錨の地形)|能(の)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。

この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。(2018.05.25 改訂)



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全体の物語は「古事記新釈」の孝元天皇・建内宿禰の項を参照願う。