2017年10月6日金曜日

建内宿禰:久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣 〔107〕

建内宿禰:久米能摩伊刀比賣・怒能伊呂比賣


毎度のことながら我ながら情けなくなるのが、読み飛ばしである。気付けばその時に少しは引っ掛かったという記憶があるのだが、今一歩の突っ込み不足で後日に嘆くことになる。地名を刷り込まれた人名の羅列に圧倒される日々である・・・と、言い訳めいた前置きはこれくらいにして、取り掛かろう。

古事記原文…

此建宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

既に紐解いた建内宿禰一族の、錚々たるお方達である。その中に「女二」として載っている比賣について調べてみようかと思う。何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。

久米能摩伊刀比賣

何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。実のところは、なんの事はない前記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の名前を紐解いた時に気付いたのである。古事記検索で「久米」を掛けると出て来る。その中にあったという訳である。


<師木玉垣宮・水垣宮>
そんな事情で時代は前後するが、「伊久米天皇」の紐解き概略を述べながら比賣の住まった場所を求めてみよう。

「伊久米」の探策結果は図に示すように現在の田川市伊田、鎮西公園付近とした。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に「天津久米」類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。


伊久米=伊(僅かに)|久(勹の形)|米(川の合流点)


<久米能摩伊刀比賣>
…「僅かに勹の形に曲がった川が合流するところ」と紐解ける。すると比賣が居た場所は上図に橙色破線円の近場と推定される。が、津の周りの何処かは不明である。

「摩伊刀」はそのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。

だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、


摩(消えかかったような)|伊(小ぶりな)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。古事記の「刀」=「斗」=「戸」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。標高差が少なく、地図は国土地理院アナグリフを使用する。浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「久米」の範囲は残念ながら上記からは求めることは不可で、凡その領域を示した。垂仁天皇がこの地に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたのである。

怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」が正解のようである。だが、これでは埒が明かない、というのも正解のようである。そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。現地名は…、


田川市伊加利

かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。


実際には「ノorド」と言われたところであったのかもしれない。変遷があって読み替えたものが残ったようにも思われる。それにしても「伊久米」から始まった地名探索は見事なまでに収束してきたようである。師木の詳細地図が見えて来たと思われる。

ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。「錨」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。「怒能伊呂比賣」は…、
 
<怒能伊呂比賣>
怒(錨の地形)|能(の)|伊(小ぶり)|呂(背骨)

…「錨の地形で小ぶりな背骨ようなところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、背骨の凹凸があり、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。

この形状は石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのではなかろうか…興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。(2018.05.25 改訂)



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全体の物語は「古事記新釈」の孝元天皇・建内宿禰の項を参照願う。