2017年10月8日日曜日

赤い丹の穂 〔108〕

赤い丹の穂


赤米、黒米(紫黒米、紫米)が登場して彩鮮やかな古代の米の話題が浮かびあがってきた。衣食住の食について古事記が記述しないわけがない筈で、紐解いた結果はその技術にまで立ち入ることとなった。

耕作地については「茨田=松田」それには水源()の確保と「溝」作りがあり、それは比較的傾斜の緩やかな扇状地に拡げられたところである。急傾斜の地には「池()」を作り貯水と灌漑用水を配備する。それには石垣を積み上げる技術「筒木」が必要であり、深い谷間に大きな池を作る、今のダムの原点でもあろう。

河口付近の広い平野部の豊かな水、だがこれは頻繁に生じる河川の氾濫対策及び有り余る水の排水が不可欠でもあった。安定給水源としての「依網池」の必要性はわかるもののそれには国家的規模での大事業を要する、確かに河口付近の水田の開発が後代になるのは納得できるところである。

「茨田」と言えば第十六代仁徳天皇の「茨田堤」となるが、初代神武天皇紀に既にこの文字は出現しているのである。初代の「茨田」を読み解けない限り第十六代の「茨田」も理解できることはないであろう。そして古事記における後者の天皇の位置付けもさっぱり伝わって来ないであろう。

この開拓された耕作地で一体何を?…それが赤米、黒米という稲の種類であったことが示されていた。特に黒米は最近になって紐解けたのであるが、垂仁天皇の諡号、伊玖米入日子伊沙知命の「玖米」に拠る。「玖」の文字がそれなりの頻度で出現し、読み解ければその示すところが見えてきたことが背景にある。

「玖米」=「黒米」の直接的な表現とその地名との関連から確度の高い解釈と思われる。一方赤米は赤色を示す「丹」で表しているように受止められるが、今一歩直接的な繋がりが見つからず今日に至っているのが現状である。

「赤米考」などの著作に頼るも古代は不詳と片付けられている。裏付けがない論考になることが避けられないのであろう。考古学における遺物が確証か?…持ち運べるものは確証にはならず、過去にトンデモナイ持ち込み・持ち出し・世紀の大発見なんてことをやらかしたお方もおられる。全くの余談だが・・・。

あらためて赤米について調べてみたことを纏めてみようかと思う。結論めいたことが得られることを期待しないで…。


次田潤著『新版祝詞新講』の中に「赤丹穂」の記述がある…、

・・・「赤丹」は赤土をいい、転じては赤色をいう。「穂」は秀の義で、すべて外に表れ出る意がある。「稲の穂」「波の穂」「火の穂」()「舟の帆」「国の秀」「槍の穂」や「上枝(ほつえ)」「秀罇(ほだり)」の「ホ」もすべて著しく目につくものをいうのであるが、なお「ホ」を語源とする語に「ホコ」()「ホム」()「ホコル」()「ホコロブ」()等がある。・・・


という述べられている。ここに出てくる幾つかの言葉は本ブログで読み解いてきた解釈を強く支持しているものと思われる。例えば「穂」=「著しく目につくもの」は志賀之高穴穂宮で「高穴穂」=「高いところにある洞窟が表面に出て目立つ」と解釈した。

「赤丹穂」の「赤丹」は赤色を示すとあるが「丹」の語源は「丹砂を採掘する井戸」の象形である。既に応神天皇紀の歌の解釈で述べたように元鉱物には赤と黒があり、黒丹(眉墨)も存在する。「赤丹」は省略せずに表記したものと思われる。勿論、主には赤色が使われ、丹とくれば赤色を示すと考えて差支えはない。

「穂」に「稲の穂」が記述されている。注目は次の「波の穂」である。ありふれた言葉ではあるが、目にして気付く、というところであろうか。繋がりました。


丹波国=赤い稲穂の国

である。「丹穂」でネット検索すると多くのサイトがあることが判った。健康食品ブームもあろうが、古代の有色米への興味を持つ人が多いことに、何故か勇気付けられた。そして、古事記へと足を運んでもらえることを期待しよう・・・少し紹介…。


 にしら米穀店:赤米のことを丁寧に紹介されている。

自然を愛し環境を考えるお兄ちゃん神丹穂米の紹介。右の画像を拝借。

「丹波」と「旦波」の表記について、探ってみると…開化天皇紀の最初に「旦波」で1件現れ、その後の5件は「丹波」である。

それ以降(垂仁天皇紀迄)は全て「旦波」と記述される

「タンバ国」の登場はこの三代に限られている。同一国であることは間違いなのであるが、何故?…。

「旦」は朝日の象形そのものと知られる。朝焼けの真っ赤な空を思い浮かべれば「丹」と同じく赤色を示す言葉であろう。夜が明け新しい日を迎える時に掛けて、渡来人達が多く集まって来た地と憶測することもできるであろう。「旦」の文字には意味が込められていたのではなかろうか。

「丹」は赤色を直接的に示すために一時使用した、と読み解ける。氷羽州比賣が居たところは赤米の一大産地であった、ということで納得しておこう。ところでもう一件関連する地名「尾張之丹羽」がある。



「尾張国」(現地名北九州市小倉南区横代・長野)を流れる現在の稗田川の下流付近(横代北町辺り)と特定した場所である。



丹羽=丹(赤い)・羽(羽毛=稲のヒゲ)

と紐解いた。稲穂が棚引く様を羽の羽ばたく様に置換えたともとれるが、上記の解で良しとしよう。この地も豊かな穀倉地帯であったことを伺わせる記述である。『赤米考』に記載されているように稗、その他の穀物種との混栽であろうし、むしろ稗などの方が多く栽培されていたと思われる。



天孫降臨以前に赤米などは倭国で栽培されていたであろう。それを狭い耕地で栽培していったことは特筆すべき事柄であろう。見逃してはならないことと思われる。仁徳天皇の「茨田堤」を淀川べりにおいて議論するなど、他に考えるべきことがあるのでは?…と思うが・・・。

牧畜に関しては「日向之諸縣君牛諸」記述から新羅などから伝わったように受け取れた。また建内宿禰の子である平群都久宿禰が馬御樴連の祖となる記述もあった。数少ないところで何とも言い難いのであるが、農業関連の生産に関して少しは記載されているように思われる。馬は戦闘用?・・・。

…と、丹はなんとか落ち着いたかな?・・・。