2021年11月30日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(23) 〔560〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(23)


天平九年(西暦737年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

五月甲戌朔。日有蝕之。請僧六百人于宮中。令讀大般若經焉。壬辰。詔曰。四月以來。疫旱並行田苗燋萎。由是。祈祷山川。奠祭神祇。未得効驗。至今猶苦。朕以不徳實致茲災。思布寛仁以救民患。宜令國郡審録寃獄。掩骼埋胔。禁酒斷屠。高年之徒。鰥寡惸獨。及京内僧尼男女。臥疾不能自存者。量加賑給。又普賜文武職事以上物。大赦天下。自天平九年五月十九日昧爽以前死罪以下。咸從原免。其八虐劫賊。官人受財枉法。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者不在赦例。

五月一日に日蝕があった、と記している。僧侶六百人を宮中に招いて、大般若経を読ませている。十九日に以下のように詔されている・・・四月以来、疫病と日照りが並行して起こって、田の苗は枯れて萎んでしまった。このために山川の神々に祈祷し、天神地祇に供え物を捧げて祭ったが、まだその効果が現れず、現在に至るまで依然として人民は苦しんでいる。朕が不徳なために、真にこのような災難を招いてしまった。それを反省して寛大で慈しみ深い心を世に布いて、人民の患いを救おうと思う。そこで國司・郡司に命令して、無実の罪によって獄に繋がれている者を審らかに記録させ、路上の骨や腐った肉を土中に埋めさせ、飲酒を禁じ、屠殺を止めさせるべきである。また、高齢者、鰥・寡・惸・獨、及び京内の僧尼や男女で病臥して自活できない者には、程度を量って物を恵み与えよ。また、広く文武の職事官以上には物を授ける。更に天下に大赦を行う。天平九年五月十九日の夜明けより以前の死罪以下、全て赦免せよ。但し、八虐や人を脅して盗みをした賊、収賄して法を曲げた者、管理下の官物を盗んだ者、強盗・窃盗、故意に殺人を犯した者、贋金造りなど、通常の恩赦では許されない者については、赦の範囲に入れない・・・。

六月甲辰朔。廢朝。以百官官人患疫也。癸丑。散位從四位下大宅朝臣大國卒。甲寅。大宰大貳從四位下小野朝臣老卒。辛酉。散位正四位下長田王卒。丙寅。中納言正三位多治比眞人縣守薨。左大臣正二位嶋之子也。

六月一日、朝廷での行事を廃止している。諸官司の官人が疫病に患っているからである。十日に散位の大宅朝臣大國(金弓に併記)、十一日には太宰大弐の小野朝臣老(馬養に併記)、十八日には散位の長田王(長皇子の子)、二十三日には中納言の多治比眞人縣守(左大臣嶋の子)が亡くなっている。

秋七月丁丑。賑給大倭。伊豆。若狹三國飢疫百姓。」散位從四位下大野王卒。壬午。賑給伊賀。駿河。長門三國疫飢之民。乙酉。參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也。己丑。散位從四位下百濟王郎虞卒。乙未。大赦天下。詔曰。比來。縁有疫氣多發。祈祭神祇。猶未得可。而今右大臣。身體有勞。寢膳不穩。朕以惻隱。可大赦天下救此病苦。自天平九年七月廿二日昧爽以前大辟罪已下咸赦除之。其犯八虐。私鑄錢。及強竊二盜。常赦所不免者。並不在赦限。丁酉。勅遣左大弁從三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人。就右大臣第。授正一位拜左大臣。即日薨。遣從四位下中臣朝臣名代等監護喪事。所須官給。武智麻呂贈太政大臣不比等之第一子也。

七月五日に大倭・伊豆・若狭の三國の、飢饉と疫病で苦しむ人民に物を恵み与えている。散位の「大野王」(天武天皇の忍壁皇子の子)が亡くなっている。十日に伊賀・駿河・長門の三國の飢饉と疫病に苦しむ人民に物を恵み与えている。十三日に参議・兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)が亡くなっている。贈太政大臣の不比等の第四子であった。十七日に散位の百濟王郎虞()が亡くなっている。

二十三日に天下に大赦し、以下のように詔されている。「此の頃、疫病の気が頻りに起こるために、神祇に祈祭するけれども、まだ事態は改善されていない。しかも現在、右大臣(藤原朝臣武智麻呂)は身体に疲労があり、寝食も平常ではない。朕は憐れみ痛ましく思う。天下に大赦を行い、この病苦を救いたいと思う。天平九年七月二十二日の夜明けより以前の大辟の罪以下、皆悉く赦免する。但し、八虐を犯した者、贋金造り、及び強盗・窃盗、通常の恩赦では許されない者は、並びに赦の範囲に入れない。」

二十五日に勅して、左大弁の「橘宿祢諸兄」(葛木王諸兄:母親三千代の地形)と右大弁の紀朝臣男人を遣わし、右大臣の邸宅に赴かせ、正一位を授け、左大臣に任命している。その日の内に亡くなっている。中臣朝臣名代(人足に併記)等を遣わして、葬儀を監督・護衛させている。用いる品々は官物より支給している。「武智麻呂」は、贈太政大臣不比等の第一子であった。

八月壬寅朔。中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿祢佐爲卒。癸夘。命四畿内二監及七道諸國。僧尼清淨沐浴。一月之内二三度令讀最勝王經。又月六齋日禁斷殺生。丙午。參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也。甲寅。詔曰。朕君臨宇内稍歴多年。而風化尚擁。黎庶未安。通旦忘寐。憂勞在茲。又自春已來災氣遽發。天下百姓死亡實多。百官人等闕卒不少。良由朕之不徳致此災殃。仰天慚惶。不敢寧處。故可優復百姓使得存濟。免天下今年租賦及百姓宿負公私稻。公稻限八年以前。私稻七年以前。其在諸國能起風雨爲國家有驗神未預幣帛者。悉入供幣之例。給大宮主御巫。坐摩御巫。生嶋御巫及諸神祝部等爵。丙辰。爲天下太平國土安寧。於宮中一十五處。請僧七百人。令轉大般若經。最勝王經。度四百人。四畿内七道諸國五百七十八人。庚申。以正四位上多治比眞人廣成爲參議。辛酉。三品水主内親王薨。天智天皇之皇女也。甲子。正五位下巨勢朝臣奈氐麻呂爲造佛像司長官。丁夘。以玄昉法師爲僧正。良敏法師爲大僧都。

八月一日に中宮大夫・右兵衛率の「橘宿祢佐爲」(佐為王)が亡くなっている。二日、畿内四ヶ國・二監、及び七道の諸國に命令を下し、僧尼は沐浴して身を浄め、一ヶ月の内に二、三回、金光明最勝王経を読誦させている。また、月々の六齋日には殺生を禁断させている。五日に参議・式部卿・太宰帥の藤原朝臣宇合が亡くなっている。贈太政大臣不比等の第三子であった。

十三日に以下のように詔されている・・・朕は天下に君主として臨んで、ようやく多くの年を経た。しかし徳によって人民を教え導くことにはまだ障害があって、人民はまが安らかに暮らしていない。夜もすがら寝ることも忘れ、憂い気遣っているのは、このことである。また春以来、災厄の気がしきりに発生し、天下の人民で死亡する者が実に多く、百官人の中にも欠け死亡する者が少なくない。真に朕の不徳によって、この災厄を生じたのである。天を仰いで慚じ恐れ、あえて安んじるところもない。そこで人民に免税の優遇を行い、生活の算定を得させたいと思う。ついては、天下の今年の田租、及び人民が多年にわたり負債として負っている公・私の出挙の稲を免除せよ。公出挙の稲は八年以前、私出挙のそれは七年以前を限って債務を破棄せよ。更に幣帛の頒布に預かっていない神々は、全て奉幣の例に入れよ。神祇官の大宮主、御巫、坐摩、の御坐、生嶋の御坐、及び諸神社の祝部等に位階を授けよ・・・。

十五日に天下太平・国土安寧のため、宮中の十五ヶ所において、僧侶七百人を招いて大般若経・金光明最勝王経を転読させ、四百人を出家させている。畿内四ヶ國・七道の諸國でも五百七十八人を出家させている。十九日に多治比眞人廣成を参議に任じている。二十日、水主内親王が亡くなっている。天智天皇の皇女であった。二十三日に巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)を造仏像司の長官に任じている。二十六日に玄昉法師を僧正に任じ、「良敏」法師を大僧都に任じている。

<良敏法師>
● 良敏法師

「良敏法師」は初見であり、またこの後に登場されることもなく、極めて情報の少ない僧だったようである。そこで他書を含め探索を行うと、尾張國の人であり、父親が熱田神宮に関わる人物だったと伝えられていることが分かった。

熱田神宮も書紀の天武天皇紀に尾張熱田社として登場しているが、決して頻度高くはない状況である。唯一の情報であるこれを頼りに「良敏」が示す地形から出自の場所を求めてみよう。

「敏」=「毎+攴」=「山稜が枝分かれした地に母が子を抱くように山稜が取り囲んでいる様」と解釈される。敏達天皇に用いられているが、これは地形象形表記ではなく、どうやらこの人物に初めて用いられた文字のように思われる。

纏めると良敏=なだらかに延びる山稜から枝分れした傍らで母が子を抱くように山稜が取り囲んでいるところと読み解ける。「敏」に含まれる枝分れした山稜があることが要であろう。

「尾張熱田社」は、残念ながら開発が進行し、当時の地形を知り得ないが、幸運にも1961~9年の国土地理院航空写真を参照することができ、現在の小倉東IC辺りと推定した。續紀の元明天皇紀に、この地は尾張國愛知郡と名付けられいたと記載されていた。その地で「良敏」が表す地形を図に示した場所に確認できることが解った。良敏法師の出自の場所として申し分のない場所であろう。

九月癸巳。詔曰。如聞。臣家之稻貯蓄諸國。出擧百姓。求利交關。無知愚民不顧後害。迷安乞食忘此農務。遂逼乏困逃亡他所。父子流離。夫婦相失。百姓幣窮因斯弥甚。實是國司教喩乖方之所致也。朕甚愍焉。濟民之道豈合如此。自今以後。悉皆禁斷。催課百姓。一赴産業。必使不失地宜。人阜家贍。如有違者。以違勅論。其物沒官。國郡官人。即解見任。是日。停筑紫防人歸于本郷。差筑紫人令戍壹伎對馬。己亥。以從三位鈴鹿王爲知太政官事。從三位橘宿祢諸兄爲大納言。正四位上多治比眞人廣成爲中納言。」廣成及百濟王南典並授從三位。從四位下高安王從四位上。无位諱〈天宗高紹天皇也。〉道祖王並從四位下。无位倉橋王。明石王。宇治王。神前王。久勢王。河内王。尾張王。古市王。大井王。安宿王並從五位下。正五位下巨勢朝臣奈氐麻呂。正五位上藤原朝臣豊成並從四位下。正五位下大伴宿祢牛養。高橋朝臣安麻呂。石上朝臣乙麻呂並正五位上。從五位上縣犬養宿祢石次。吉田連宜並正五位下。從五位下石河朝臣麻呂從五位上。正六位上阿倍朝臣吾人。石川朝臣牛養。多治比眞人牛養。阿倍朝臣佐美麻呂。從六位下巨勢朝臣淨成。從六位上藤原朝臣乙麻呂。藤原朝臣永手。藤原朝臣廣嗣並從五位下。正六位上爲奈眞人馬養。紀朝臣鹿人。賀茂朝臣高麻呂。路眞人宮守。波多朝臣孫足。從六位下佐伯宿祢常人。正六位上平羣朝臣廣成。〈在唐未歸〉大宅朝臣君子。穗積朝臣老人。從六位上大伴宿祢祜信備。正六位上柿本朝臣濱名。太朝臣國吉。正六位下巨勢斐太朝臣嶋村。菅生朝臣古麻呂。正六位上小野朝臣東人。正六位下中臣熊凝朝臣五百嶋。正七位上阿倍朝臣虫麻呂。從七位上縣犬養宿祢大國。正六位上土師宿祢御目。高麥太。民忌寸大梶。於忌寸人主。文忌寸馬養。大津連船人並外從五位下。」因施兩京四畿二監僧正以下沙弥尼已上。惣二千三百七十六人綿并鹽各有差。

九月二十二日に以下のように詔されている・・・聞くところによると、諸臣等は、稲を諸國に貯え、人民に出挙し、また利益を求めて交易しているようである。無知で愚かな人民は、後の被害を顧みず、一時の安楽に迷わされて、出挙稲を植物として乞い、その農業のつとめを忘れて遂に窮乏に陥り、本籍を捨てて他所に逃亡し、父子離散し、夫婦が相手を失ってしまう。人民の困窮は、このためにいよいよ甚だしい。真にこれは、國司が教え諭すのに、方法を誤ったことから起こっているのである。朕は非常にこれを憐れに思う。人民を救済する道は、どうしてこのようであってよいであろうか。今より以降、悉く禁止せよ。そして人民を督励してもっぱら生業に就かせ、土地のよい条件を生かすようにさえすれば、人民は豊かに、家々は賑わうであろう。もし違反する者がおれば、違勅の罪をもって論断し、その物は官に没収せよ。國郡の官人は直ちに現職を解任せよ・・・。この日、筑紫防人を停止して、出身地に帰し、代わって筑紫人を徴発して壹伎・對馬を守備させている。

二十八日に以下の人事・叙位を行っている。鈴鹿王を知太政官事、「橘宿祢諸兄」(葛木王、諸兄:母親三千代の地形)を大納言、多治比眞人廣成を中納言に任じている。「廣成」及び百濟王南典()に從三位、高安王に從四位上、无位諱〈天宗高紹天皇也。〉(白壁王、施基皇子の子。後の光仁天皇)・道祖王(新田部皇子の子、鹽燒王に併記)に從四位下、「倉橋王」・「明石王」・「宇治王」・「神前王」・「久勢王」・「河内王」・「尾張王」・「古市王」・「大井王」・安宿王(長屋王の子)に從五位下、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)藤原朝臣豊成に從四位下、大伴宿祢牛養高橋朝臣安麻呂(父親笠間に併記)石上朝臣乙麻呂に正五位上、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)吉田連宜(吉宜。智首に併記)に正五位下、石河朝臣麻呂(君子に併記)に從五位上、阿倍朝臣吾人(豊繼に併記)・石川朝臣牛養(枚夫に併記)・多治比眞人牛養(池守の子の犢養)・「阿倍朝臣佐美麻呂」・「巨勢朝臣淨成」・藤原朝臣乙麻呂(武智麻呂の子)藤原朝臣永手(房前の子)・「藤原朝臣廣嗣」に從五位下、「爲奈眞人馬養」・紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)・賀茂朝臣高麻呂(治田に併記)・路眞人宮守(麻呂に併記)・波多朝臣孫足(波多眞人余射に併記)・佐伯宿祢常人(豐人に併記)平羣朝臣廣成〈在唐未歸〉(豊麻呂の子)・大宅朝臣君子(廣麻呂に併記)・「穗積朝臣老人」・大伴宿祢祜信備(祖父麻呂の子。小室に併記)・柿本朝臣濱名(父親佐留に併記)・太朝臣國吉(遠建治に併記)・巨勢斐太朝臣嶋村(大男に併記)・菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)・小野朝臣東人(馬養に併記)・中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)阿倍朝臣虫麻呂(兄の豐繼に併記)縣犬養宿祢大國(筑紫に併記)・土師宿祢御目(百村に併記)・高麥太(背奈公行文に併記)・民忌寸大梶(比良夫に併記)・「於忌寸人主」・文忌寸馬養大津連船人(大津連意毘登[沙門義法]に併記)に外從五位下を授けている。

また、左右両京・畿内四ヶ國・二監の僧正以下、沙弥以上の身分の僧侶、総数二千三百七十六人に、それぞれ真綿・塩を施与している。

● 倉橋王 この王を筆頭に無位の王が列記されている。出自の系譜が知られている王が少なく、関連する情報も得られない有様である。名前と元は宮があった地を頼りに出自の場所を推測してみよう。倉橋王の出自の場所は、書紀の天武天皇紀に齋宮於倉梯河上と記載された齋宮ではなかろうか。慶雲二(705)年に文武天皇が行幸された「倉橋離宮」として登場していた。

<明石王>
● 明石王

系譜は不詳であり、歴代の天皇が坐した宮の場所と探索すると、右図に示した場所が浮かんで来た。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の他田宮、書紀では譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の幸玉宮近隣の地である。

既出の明=日+月=炎を夕月の地形が並んでいる様石=厂+囗=山麓の区切られた様から、図に示したところが出自の場所と推定される。直近では明石の文字列は、播磨國明石郡で用いられていた。同様の解釈である。

養老五(721)年に、文人と武人を重んじて唱歌師の記多眞玉に褒賞が与えられたと記載されていたが、その人物の出自の場所を幸玉宮の北側と推定した。宮の周辺で文化が育まれていたのであろう。

● 宇治王 別名で宇遲王と記されたと伝えられているようだが、この王も系譜が定かではない。古事記の沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子に宇遲王がいたと知られているが、多分、その地が出自だったのではなかろうか。現在の田川郡香春町のJR採銅所駅の北西に隣接する場所である。

<神前王>
● 神前王

調べると「栗前(隈)王」の子の武家王が父親だったと伝えられている。『壬申の乱』において重要な役割を果たした家族である。

兄の「三野王(美努王)」及びその子等(葛木王・佐爲王)の活躍も多く伝えられている。「栗前王」の孫となると、敏達天皇の後裔となる。

「武家王」の近隣を見ると、神前=長く延びた山稜の前のところであり、漠然とした表記であるが、臣籍降下後の「甘南備眞人」姓が詳細な場所の地形を表していることが解った。

既出の文字である、甘=谷間から山稜が延び出ている様南=勢いよく伸びている様備=箙のような形をした様と解釈すると、父親の北側の谷間を表していると思われる(甘檮岡雙家など参照)。「甘南備」は”神奈備”に重ねて表記であろう。「前」は祖父の「前」を引き継いだのかもしれない。

ところで古事記には沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の子に智奴王(書紀では茅渟王)がいたが、全くその場所に重なっていることが解る。更に遡れば伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子の本牟智和氣命の出自の場所でもある。引き継がれて用いられて来た居処だったのであろう。

<久勢王・三室王・高丘王>
● 久勢王

調べると天智天皇の子、川嶋皇子の系列であったようである。皇子の子、三室王が父親の系図が残っているとのことである。天智天皇の曽孫に当たることになる。

兎も角も川嶋皇子の近辺で、「三室」、「久勢」の地形を求める・・・と書くまでもなく、久勢=くの字形に曲がっている丸く小高いところが見出せる。何とも微妙に折れ曲がっている場所である。

すると、父親の三室=三つの山稜に囲まれて谷間が奥深くに延びているところが、その東側に確認される。「御室王」の別名があったようであるが、確かに束ねている場所を示している。尚、「久勢王」にも久世王の別名表記があったと知られている。久世=くの字形に曲がった地が途切れずに繋がっているところと読み解ける。常世國の表記に類似し、地形象形表記として、かなり明確に確認される例と思われる。

後に高丘王が無位から従五位下に叙爵されて登場する。何だか忘れられたような存在であるが、川嶋皇子の末っ子、三室王の弟、であったと知られている。高丘=皺が寄ったような山稜の麓が丘になっているところと読むと、図に示した場所が出自と思われる。

● 河内王 今回の无位から従五位下に叙爵以降、三十数年間に幾度か登場され、最終正五位下にまで昇進されたと伝えられているが、系譜は全く知られていないようである。多くの同一人物名があり、「河内」という特定し辛い名前でもある。詳細は別途として、前出の河内女王の近隣と推定する。

● 尾張王 出自は不詳であるが、後に「右京人」と修飾されて記載される。少々入組んだ内容なのだが、この王は河内國古市郡に所管する地を保有していたようで、白龜を献上したと述べてる。出自の場所は、書紀で記載された敏達天皇の子、尾張皇子の場所ではなかろうか(こちら参照)。詳細は天平十七(745)年十月の記事で述べることにする。

<古市王・大井王>
● 古市王・大井王

この二人の王も、全く出自が不詳であり、やはり歴代の宮跡で探索すると、古事記の意祁命(仁賢天皇)の「石上廣高宮」及び穴穗命(安康天皇)の「石上穴穗宮」が、どうやらそれらしき場所のように思われる(こちら参照)。

「石上廣高宮」があった高台は、古市=丸く小高い地が寄り集まっているところの地形を示している。また、「石上穴穗宮」があった場所は、この高台の麓にあり、大井=平らな頂の麓にある四角く取り囲まれたところの地形を示していると思われる。

後(孝謙天皇紀)に「大井王」は臣籍降下して奈良眞人姓を賜ったと記載されている。奈良=山稜の高台がなだらかに延びているところと解釈すると、出自の場所の背後にある山稜の形を表していることが解る。併せて図に示した。

出自不詳の皇族の探索は、実に手間暇が掛かる作業なのであるが、解けて来ると実に興味深い結果となる。とりわけ、古事記の記述は簡明で、いや簡単過ぎるきらいがあるが、それが補われることになる。多様な表記に挫けることなく追跡することであろう。

阿倍朝臣佐美麻呂・爲奈眞人馬養
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阿倍朝臣佐美麻呂・
爲奈眞人馬養

「阿倍朝臣」一族なのであるが、調べると、少々不確かな感じであるが、父親が「名足」と知られている。両者の名前から、元は「布勢(朝)臣」と名乗っていた系列と推測される。

名足=山稜の端が足を開いたようなところと解釈される。「佐」=「人+左」=谷間に左手のように山稜が延びている様」から、佐美=谷間に左手のように延びている山稜の傍らで谷間が広がっているところと読み解ける。

図に示したように本来の「布勢」の地から若干外れた場所が居処であった系列のように思われる。別名に沙彌麻呂益麻呂などがあったと知られるが、全てこの場所の地形を表していると思われる。後に参議に任じられたとのことで、阿倍朝臣一族から久々に活躍された人物だったようである。

「爲奈眞人」は初出であるのだが、「眞人」姓である以上かつての”韋那公”、”猪名眞人”の系列に間違いないであろう。先ずは文字が示す地形を求めてみよう。既出の「爲」=「爪+象」=「象のように広く大きな地に腕のような山稜が延びている様」、また「奈」=「木+示」=「山稜が高台となっている様」と解釈した。纏めると爲奈=象のように広く大きな高台に腕のような山稜が延びているところと読み解ける。

図に示したように「韋那」の谷間を表すのではなく、その西側の広々とした丘陵地帯を示していることが解る。馬養=馬の地形の傍の谷間がなだらかに延びているところであり、”象”の一部を”馬”と見做した表記と思われる。

<巨勢朝臣淨成-廣足>
図が込み入って来るので省略しているが、この地は淡海之柴野入杵及びその娘柴野比賣、またその比賣が生んだ迦具漏比賣命の居処と古事記が伝えている(こちら参照)。倭建命の後裔が関わった地なのである。

● 巨勢朝臣淨成

「巨勢朝臣」一族なのだが、残念ながら系譜は不詳のようで、名前が示す地形のみから出自の場所を求めることになる。

頻出の文字列であるが、あらためて淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様成=丁+戊=平たく盛り上げた様と解釈した。

「淨」が表す地形は、意外と少なく、近津川の畔で探すと、図に示した場所が見出せる。大納言「比等」、『壬申の乱』後子孫共々に流罪となったのだが、奈氐麻呂(今回従四位下に昇進)と同じく、その子だったのかもしれない。昇進しつつ地方官を勤めたと伝えられている。

後(淳仁天皇紀)に巨勢朝臣廣足が従五位下を叙爵されて登場する。藤原恵美朝臣押勝(仲麻呂)の家人(田村第)だったようである。系譜は全く不詳で、名前から出自の場所を求めた。廣足=平らに広がった足のように山稜が延びているところと読んで出自の場所を推定した。

<藤原朝臣廣嗣・兄弟>
● 藤原朝臣廣嗣

藤原四家の息子達が一気に叙爵されている。式家「宇合」の長男と知られている。と言うことで、兄弟と言われている人物を全て並べてみようかと思う。

調べると、主だった兄弟は「良継」、「清成」、「綱手」、「田麻呂」、「蔵下麻呂」だったようである。廣嗣の「嗣」=「口+冊+司」と分解される。地形象形的には、「嗣」=「谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まった様」と解釈される。

廣嗣=谷間が延び出た山稜に挟まれて狭まった地の前で広がっているところと読み解ける。図に示した場所、北家の淸河の南側に当たるところが出自と推定される。他の兄弟も難なく式家の山稜の麓に配置できることが解った。詳細はご登場の時に述べるとして、対岸の南家の場合と同様に、ほぼ隙間なく各自の居処が求められる。

「廣嗣」は、参議であった父親の後を引き継いで、順風に・・・ではなく、反藤原勢力との抗争に没入し、結果として乱を起こしたが、捕らえられて処刑されることになったと伝えられている。尚、式家の大半は、中臣連彌氣(鎌足の父親)の地であった。

<穂積朝臣老人-小東人>
● 穗積朝臣老人

一説に穂積朝臣老の子と言われている。「老」は「蟲麻呂」の子であり、その地に出自を持つ人物なのであろう。老人=海老のように曲がった谷間と解釈すると、「老」の西側の谷間を示していることが解る。

配置的には、「老」の子として全く差し障りのないように思われる。むしろ、親子関係を積極的に支持していると言えそうである。

また後に登場するが穂積朝臣小東人も「老」の子と言われている。頻出の「東人」に「小」が付加された名前である。図に示したように東人の谷間に三角の形の山稜の端が延びている。これをと見做したのではなかろうか。

<於忌寸人主>
● 於忌寸人主

間違いなく東漢一族であろう。既に多くの人物が登場して来たが、さて、居処が残されているのか、早速に名前が示す地形を読み解いてみよう。

「於」は既出の文字であり、於=㫃+二=旗がたなびくように山稜が延びている様と解釈した。幾つかの例があるが、その一つに山於億良に用いられた文字である。

東漢一族が集められた台地、現在の京都郡みやこ町豊津で探索する。すると、図に示した場所が、すっぽりと空いていることに気付かされた。「於」の地形として申し分のないように思われる。名前が人主=谷間に真っ直ぐに延びる山稜があるところと読み解ける。その端がこの人物の出自の場所と推定される。

冬十月壬寅。令左右京職停收徭錢。丁未。停額外散位輸續勞錢。」贈民部卿正三位藤原朝臣房前正一位左大臣。并賜食封二千戸於其家。限以廿年。己未。地震。庚申。天皇御南苑。授從五位下安宿王從四位下。无位黄文王。從五位下圓方女王。紀女王。忍海部女王並從四位下。甲子。令百官人等貢薪一千荷。從三位鈴鹿王已下。文官番上已上。躬擔進于中宮供養院。丙寅。講金光明最勝王經于大極殿。朝廷之儀一同元日。請律師道慈爲講師。堅藏爲讀師。聽衆一百。沙弥一百。

十月二日に左右京職に命じて徭銭(雑徭の代わりに納める銭)を徴収することを停止させている。七日に定員外の散位の官人が続労銭(勤務を継続していることにする銭)を納めることを停止している。この日、藤原朝臣房前に正一位・左大臣を追贈し、併せて食封二千戸を二十年限りとして賜っている。

十九日に地震があったと記している。二十日に天皇は南苑に出御されて、安宿王(長屋王の子)に從四位下を、黄文王圓方女王・紀女王・忍海部女王(共に長屋王の子)に從四位下を授けている。二十四日に百官人等に命じて薪千荷を貢納させている。鈴鹿王以下文官の番上官以上の者は、自ら薪を担って中宮の供養院に進納している。

二十六日に大極殿で金光明最勝王経を講義させている。朝廷のありさまは、全く元日の朝賀のようであった。律師の道慈(神叡と併記)を招いて講師とし、堅蔵(出自不詳)を読師としている。聴聞の俗人は百人、沙弥も百人であった。

十一月癸酉。遣使于畿内及七道。令造諸神社。甲戌。加置鑄錢司史生六員。通前十六員。己丑。以從四位下石川王爲宮内卿。壬辰。宴群臣中宮。散位正六位上大倭忌寸小東人。大外記從六位下大倭忌寸水守二人。賜姓宿祢。自餘族人連姓。爲有神宣也。又授小東人外從五位下。宴訖五位已上賜物有差。但大倭宿祢小東人。水守。賜絁各廿疋。

十一月三日に畿内と七道に使者を派遣して諸神の社を造営させている。四日、鋳銭司に史生六人を増員し、従前と合わせて十六人としている。十九日に石川王(長皇子の子)を宮内卿に任じている。

二十二日に中宮で群臣と宴を行っている。散位の「大倭忌寸小東人」、大外記の「大倭忌寸水守」の二人に「宿祢」姓を賜っている(こちら参照)。その他の一族の人々には「連」姓を賜っている。神の託宣があったためである(「大倭忌寸」は大倭神社の祭祀を司る一族)。また、「小東人」に外従五位下を授けている。宴の後に五位以上の官人にそれぞれ物を授けているが、「小東人」と「水守」には絁を与えている。

書紀の持統天皇紀に大倭大神が登場するが、決して頻度は高くはない。そこでも述べたが、鎮座の地は、紆余曲折を経て”穴磯邑”に落ち着いたと伝えられている。即ち、ここで登場する「大倭忌寸」一族は、”磯辺”に住まう人々だったことが伺える。「水守」、下記に登場する「淸國」の名前が示す場所と辻褄が合っていることが解る。疫病対策は神仏に頼らざるを得なかった時代、少々蔑ろにしていた大神の復活であったのかもしれない。

十二月辛亥。以兵部卿從四位下藤原朝臣豊成爲參議。壬戌。外從五位下菅生朝臣古麻呂爲神祇大副。外從五位下阿倍朝臣虫麻呂爲皇后宮亮。外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋爲員外亮。從五位下池邊王爲内匠頭。外從五位上秦忌寸朝元爲圖書頭。從五位下宇治王爲内藏頭。外從五位下高麥太爲陰陽頭兼陰陽師。外從五位下小治田朝臣諸人爲散位頭。從五位下神前王爲治部大輔。外從五位下大倭宿祢清國爲玄蕃頭。外從五位下土師宿祢三目爲諸陵頭。從五位下阿倍朝臣吾人爲主計頭。從五位下大伴宿祢兄麻呂爲主税頭。從五位下石川朝臣牛養爲大藏少輔。外從五位下紀朝臣鹿人爲主殿頭。從四位上御原王爲彈正尹。外從五位下穗積朝臣老人爲左京亮。從四位下門部王爲右京大夫。外從五位下太朝臣國吉爲亮。丙寅。改大倭國。爲大養徳國。是日。皇太夫人藤原氏就皇后宮見僧正玄昉法師。天皇亦幸皇后宮。皇太夫人爲沈幽憂久廢人事。自誕天皇未曾相見。法師一看。惠然開晤。至是適与天皇相見。天下莫不慶賀。即施法師絁一千疋。綿一千屯。絲一千絇。布一千端。又賜中宮職官人六人位各有差。亮從五位下下道朝臣眞備授從五位上。少進外從五位下阿倍朝臣虫麻呂從五位下。外從五位下文忌寸馬養外從五位上。是年春。疫瘡大發。初自筑紫來。經夏渉秋。公卿以下天下百姓。相繼没死不可勝計。近代以来未之有也。

十二月十二日に兵部卿の藤原朝臣豊成を参議としている。二十三日に以下の人事を行っている。菅生朝臣古麻呂(大麻呂に併記)を神祇大副、阿倍朝臣虫麻呂(兄の豐繼に併記)を皇后宮亮、中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)を員外亮、池邊王(父親の葛野王に併記)を内匠頭、秦忌寸朝元を圖書頭、宇治王(古事記の宇遲王の場所?)を内藏頭、高麥太(既出だが不詳)を陰陽頭兼陰陽師、小治田朝臣諸人(當麻に併記)を散位頭、神前王を治部大輔、大倭宿祢清國(五百足に併記)を玄蕃頭、土師宿祢三目(御目)を諸陵頭、阿倍朝臣吾人(豐繼に併記)を主計頭、大伴宿祢兄麻呂を主税頭、石川朝臣牛養(枚夫に併記)を大藏少輔、紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)を主殿頭、御原王を彈正尹、穗積朝臣老人を左京亮、門部王を右京大夫、太朝臣國吉(遠建治に併記)を右京亮にそれぞれ任じている。

二十七日に大倭國を「大養德國」に改めている(後に復している)。この日、皇太夫人の藤原氏(宮子)が皇后宮に赴いて僧正の玄昉を引見している。天皇もまた皇后宮に行幸している。皇太夫人が憂鬱な気分に沈み、永らく人間らしい行動をとっていなかったからである。天皇を出産して以来、まだ会ったことはなかったが、法師が一たび看病するや、穏やかで晴々となった。偶然その時に天皇と面会し、国中がこれを慶び祝している。

そこで法師に絁・真綿・絹糸・麻布を施し与え、また中宮職の官人六人にそれぞれ位階を授けている。中宮亮の下道朝臣眞備に従五位上、少進の阿倍朝臣虫麻呂に従五位下、文忌寸馬養に外従五位上を授けている。この年の春、瘡のできる疫病が大流行した。初め九州より伝染し、夏を経て秋にまでわたって公卿以下、天下の人民が相続いて死亡し、その数は数えることができないほどであった。これは最近までかつてなかったことである。

大養德國の”養德=德を養う”であり、”養老=老いを養う”に類似する表現であろう。地形象形として養老=なだらかな谷間が海老のように曲がっているところと読んだが(こちら参照)、それに準じると養德=なだらかな谷間が四角く区切られているところとなる。大倭國の中心の地形を見ると、そんな感じでもあるが、果たして・・・およそ十年後に大倭國に戻したと記載されている(陰影地形図参照)。

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天然痘によって、藤原四家の重鎮が他界し、その後釜の選定、それに併せて新人の登用が凄まじいばかりに行われた、と伝えている。親王等を、ここぞとばかりに叙爵し、お陰で系譜の定かでない王が羅列されることになった。負けじと出自の場所を求めてみたが、決して確証のあるわけでもなく、後日に符合する出来事と遭遇できることを祈るばかりである。

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『續日本紀』巻十二巻尾














 

2021年11月24日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(22) 〔559〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(22)


天平九年(西暦737年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

三月丁丑。詔曰。毎國令造釋迦佛像一躯。挾侍菩薩二躯。兼寫大般若經一部。壬寅。遣新羅使副使正六位上大伴宿祢三中等卌人拜朝。

三月三日に以下のように詔されている。「國ごとに釈迦仏の像一体と脇侍菩薩の像二体を造り立て、併せて大般若経一揃いを書写させよ。」二十八日に、疫病に感染していた遣新羅使の副使の大伴宿祢三中等四十人が拝謁している。

正月二十七日に一部(無症状と言うべきか?)が入京したと記載されていたから、二ヶ月後に生還者全員(?)、即ち、濃厚接触者等が入京したことになる。天然痘の潜伏期間約12日間からすると(こちら参照)、十分な入国管理だったようであるが・・・。

夏四月乙已朔。遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣以告新羅无禮之状。壬午。律師道慈言。道慈奉天勅住此大安寺。修造以來。於此伽藍恐有災事。私請淨行僧等。毎年令轉大般若經一部六百卷。因此。雖有雷聲。無所災害。請自今以後。撮取諸國進調庸各三段物以充布施。請僧百五十人令轉此經。伏願。護寺鎭國平安聖朝。以此功徳永爲恒例。勅許之。

四月一日に使者を伊勢神宮、「大神社」、「筑紫住吉社・八幡社」の二社、及び「香椎宮」に遣わして幣帛を奉り、新羅國が無礼である様を報告している。八日に律師の道慈(神叡と併記)が以下のように言上している・・・「道慈」は天皇の勅命を承って、この大安寺に住している。造営して以来、この伽藍に災害があるのを恐れ、私に行いの清らかな僧等を招いて、毎年大般若経一揃い六百巻を転読させているが、このために雷鳴があっても災害はない。そこで今後、諸國から進上される調・庸(麻布)それぞれ三段を割き、布施に充当して僧百五十人を招き、この経を転読させたいと思う。寺を護り国家を鎮めてこの御代を平安にし、この功徳を末永く恒例とすることを伏してお願いする・・・。勅によって、これが許されている。

大神社・筑紫住吉社・筑紫八幡社・香椎宮
 
<筑紫三社・一
皇祖神を奉る伊勢神宮は別格として、残りの三社と一宮の所在を求めてみよう。大神社の所在は、紛うことなく大神朝臣の地、即ち三輪君の後裔の出自の場所であろう。

現在の北九州市小倉北区の足立山・砲台山の西麓である。「大神神社」の場所は、おそらく、その中腹にある立法寺別院辺りではなかろうか。

記紀には登場せず、續紀でもこれが最初で最後である。要するに「大神朝臣」一族の氏神として祭祀されていたのであろう。勿論、大物主大神に繋がっているのであろうが、天神一族の奔流ではない。

筑紫住吉社は、既出の住吉=谷間に真っ直ぐに延びる山稜で蓋をされたようなところであり、その地形を求めると、図に示した場所が見出せる。おそらく、現在の福聚寺辺りに鎮座されていたのではなかろうか。

筑紫八幡社の「八幡」の文字列は、見慣れたものであるが、今までに登場していなかった。あらためて八幡=旗が棚引くように延びている地が二つに岐れて延びているところと読み解ける。迷うことなく、図に示した谷間から延び出た山稜の地形を表していると思われる。「八幡社」が鎮座していたのは、現在の須賀神社辺りと思われる。

最後の香椎宮は、その名の通り、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)の訶志比宮を”神の社”としていたのであろう。幾度か登場の文字列であり、香椎=窪んだ地から延び出てしなやかに曲がる山稜が背骨のような形をしているところと読み解ける。足立山北麓の谷間(黄泉國)から砲台山を経て延びる山稜を表していることが解る。いつものことながら、実に多様な表記を行っているのである。勿論、現在の福岡市東区にある香椎宮の地形を表すものではない。

結果として、三社と一宮は、大宰府を中心として、”古小倉湾”に面する高台にずらりと並んでいる配置となった。不穏な新羅の行動に対して、八百万の神々の援助を祈願したのであろう。皇祖神としての伊勢神宮は、ともかくとして、「大神社」が現在の大神神社とするならば、ここで登場する根拠が求められるであろう。

いや、単に皇祖神だけではなく、新羅対策の水城の背後に伊勢神宮が鎮座しているのである。斉明天皇がご老体に鞭打って画策した<唐・新羅の侵攻予想行程>をあらためて見ると、当時の危機感が伝わって来るようである。

戊午。遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日到陸奧多賀柵。与鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武藏。上野。下野等六國騎兵惣一千人。開山海兩道。夷狄等咸懷疑懼。仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人。遣海道。差歸服狄和我君計安壘。遣山道。並以使旨慰喩鎭撫之。仍抽勇健一百九十六人委將軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等帥所餘三百卌五人鎭多賀柵。遣副使從五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎭玉造柵。判官正六位上大伴宿祢美濃麻呂鎭新田柵。國大掾正七位下日下部宿祢大麻呂鎭牡鹿柵。自餘諸柵依舊鎭守。廿五日。將軍東人從多賀柵發。三月一日。帥使下判官從七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎭兵四百九十九人。當國兵五千人。歸服狄俘二百卌九人從部内色麻柵發。即日到出羽國大室驛。出羽國守正六位下田邊史難破將部内兵五百人。歸服狄一百卌人。在此驛。相待以三日。与將軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深馬芻難得。所以雪消草生。方始發遣。同月十一日。將軍東人廻至多賀柵。自導新開通道惣一百六十里。或尅石伐樹。或填澗疏峯。從賀美郡至出羽國最上郡玉野八十里。雖惣是山野形勢險阻。而人馬往還無大艱難。從玉野至賊地比羅保許山八十里。地勢平坦無有危嶮。狄俘等曰。從比羅保許山至雄勝村五十餘里。其間亦平。唯有兩河。毎至水漲並用船渡。四月四日。軍屯賊地比羅保許山。先是。田邊難波状稱。雄勝村俘長等三人來降。拜首云。承聞官軍欲入我村。不勝危懼。故來請降者。東人曰。夫狄俘者其多姦謀。其言無恒。不可輙信。而重有歸順之語。仍共平章。難破議曰。發軍入賊地者。爲教喩俘狄築城居民。非必窮兵殘害順服。若不許其請。凌壓直進者。俘等懼怨遁走山野。勞多功少。恐非上策。不如示官軍之威從此地而返。然後。難破訓以福順。懷以寛恩。然則城郭易守。人民永安者也。東人以爲然矣。又東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。而今春大雪倍於常年。由是不得早入耕種。天時如此。已違元意。其唯營造城郭一朝可成。而守城以人。存人以食。耕種失候。將何取給。且夫兵者。見利則爲。無利則止。所以引軍而旋。方待後年始作城郭。但爲東人自入賊地。奏請將軍鎭多賀柵。今新道既通。地形親視。至於後年。雖不自入可以成事者。臣麻呂等愚昧。不明事機。但東人久將邊要。尠謀不中。加以親臨賊境。察其形勢。深思遠慮。量定如此。謹録事状。伏聽勅裁。但今間無事。時属農作。所發軍士且放且奏。

四月十四日に陸奥國に派遣された持節大使の藤原朝臣麻呂(萬里)等が以下のように言上している・・・去る二月十九日に「陸奥國多賀柵」に到着し、鎮守将軍の大野朝臣東人と協議し、また常陸・上総・下総・武藏・上野・下野等六ヶ國の騎兵、総計千人を召して、海沿いと山中の両道を開かせたので、夷狄たちは悉く疑いと畏怖の念を懐いている。そこで農耕に従事している蝦夷で「遠田郡」の郡領の「遠田君雄人」を海沿いの道より、帰服した蝦夷の「和我君計安塁」を山間の道よりそれぞれ派遣し、遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫した。そして勇敢で強健な者百九十六人を選んで将軍の「東人」に委ね、四百五十九人を「玉造」など五つの柵に分属させた。「麻呂」等は残りの三百四十五人を率いて「多賀柵」を守備し、副使の坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)は「玉造柵」を守り、判官の「大伴宿祢美濃麻呂」は「新田柵」を、陸奥國の大掾の「日下部宿祢大麻呂」は「牡鹿柵」を守備し、その他の柵は従来通り鎮守した・・・。<続>

・・・二月二十五日に将軍「東人」が「多賀柵」より進発し、四月一日に征夷使の配下の判官の紀朝臣武良士等と委ねられた騎兵百九十六人、鎮守府の兵四百九十九人、陸奥國の兵五千人、帰服した夷狄二百四十九人を率いて、管内の「色麻柵」を発し、その日のうちに「出羽國大室駅」に到達した。一方出羽國守の田邊史難波は、管内の兵五百人と帰服した夷狄百四十人を率いて、この駅に滞在し待機すること三日で、将軍「東人」の軍勢と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍した。ただ賊地は雪が深く秣(まぐさ:牛馬の餌)は確保しにくく、そのため雪が消え草が生えるのを待って、また改めて軍を遣わすことにした・・・。<続>

・・・同月十一日に将軍「東人」が引き返して「多賀柵」に帰還した。自らが指導して新たに開通させた道は全長百六十里、あるいは石を砕いたり樹を伐ったり、あるいは渓を埋め峯を越えて通した。「賀美郡」から「出羽國最上郡玉野」に至る八十里は、全て山野で、地形は険しいとはいえ、人馬の往復に大きな艱難はない。「玉野」から賊地の「比羅保許山」に至る八十里は、地形は平坦で危うく険しい箇所は存在しない。夷狄等は、[「比羅保許山」から「雄勝村」に至る五十里余りは、その間は平坦であるが、二つの河があって、増水するたびに両方とも船を用いて渡らなければならない]と言っている・・・。<続>

・・・四月四日に将軍「東人」等の軍勢は賊地内の「比羅保許山」に駐屯したが、これより先、田邊史難波の書状が来て[「雄勝村」の蝦夷の長等三人が拝伏して、[官軍が我々の村に入ろうとされていると承り、不安を抑えきれず、降伏しようとやって来た]と伝えて来た。]しかし東人は[投降の夷狄にはたいそう悪だくみが多く、その言葉も変えることがある。安易に信じることができない。重ねて帰順したいと言うならば、その時点で合議しよう]と述べた。それに対して「難波」は建議して、[軍勢を進めて賊地に入るということは、夷狄を教え諭し、城柵を築いて民を移して住まわせるためである。何も兵を苦しめ、帰順する者を傷つけ殺そうというのではない。もし投降の請願を許さず、無視して圧迫して直ちに進攻したならば、帰順した夷狄たちは恐れて怨んで山野に遁走するであろう。それでは労多くして功少ないこととなり、おそらく上策とは言えない。今は官軍の威勢を示しておいて、この地から引き揚げるにしくはないであろう。その後でこの「難波」が帰順の幸せを諭し、寛大な恵みで懐けてみせる。そうすれば則ち、城郭は守備しやすく、人民は永く安らかになろう]と言ったので、「東人」は、その通りと考えた。また「東人」の本来の計略では早期に賊地に入り、耕作して穀物を蓄え、兵糧を搬送する費用を省くことにあった。しかし今春は例年に倍する大雪が降り、これによって早期に入って耕作することができなかった。天の与えた条件がこのようなので、既に本来の意向とは違ってきている・・・。<続>

・・・一体、城郭を造営することぐらいはすぐにもできる。しかし城を守るのは人間であり、人間の生存は食糧に依る。耕作の時候を失えば、何を給することができようか。更に兵士というものは、利益をみて行動し、利益がなければ動かない。それ故に軍勢を引き揚げて帰り、今後を待って初めて城を造営することにする。但し、「東人」は、自ら賊地に進攻するため、将軍として「多賀柵」を守備する許可を請うている。しかし、今進道は既に開通し、地形を直接に視察したので、後年になって、「東人」が自ら攻め入ることはしなくても、事は成就させることができる。臣下たる「麻呂」等は愚かで事情に明るくないが、「東人」は久しく将軍として辺要の地におり、作戦が的中しなかった例はほとんどない。のみならず、自ら賊軍の地に臨み、それ形勢を熟知し、深謀遠慮の上で、このような作戦を企てた。そこで謹んで事の記し、天皇の裁決をお伺いする。ただ、この頃は情勢も平穏で、農作業の時節に当たっているので、徴発している兵士は一旦解放し、その一方で以上のようなことを奏上する・・・。

陸奥國:多賀柵・玉造柵・新田柵・牡鹿柵・色麻柵
出羽國:大室驛・最上郡玉野

正月の記事に陸奥按擦使の大野朝臣東人等が陸奥國から出羽柵への行程を何とか短縮させるため、途中の蝦夷の地である「男勝村」を通過したいとの旨の言上を受けて、持節大使・兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)を筆頭にする大軍団を進発させることになった、と記載されている。

<陸奥-出羽國五柵>
勅命を受けたのが一月二十三日で陸奥國多賀柵に到着した日付は二月十九日と述べている。その二ヶ月後の状況報告を行っている。陸奥國から出羽國を経由して「出羽柵」に至る
詳細な行程を伺うことができる内容である。

先ずは多賀柵の場所を求めてみよう。頻出の文字列、多賀=山稜の端が谷間を押し開いているところと読み解ける。幾つかの候補地が見出せるが、南から陸奥國に接近したとすると、図に示した谷間の出口と推定される。

玉造柵は元は丹取郡にあった丹取軍團を玉作軍團に改名したと記載されていた。更に「作」を「造」に替えたのであろう。共に「つくる」の意味を示す文字である。作=谷間がギザギザとしている様と解釈するが、「造」は如何?…古事記の造=牛の古文字の頭部の形としたが、山稜の形をそれと見做したように思われる。

新田柵は、既出の新田=山稜が切り分けられたところある平らな地であり、図に示した場所と思われる。後に新田郡と郡建てされることになる。牡鹿柵牡鹿=鹿の角の地で♂の形の山稜があるところと読み解ける。山稜の端で海に面した場所と推定される。

これら四柵は、海辺に面し、海上からの敵に対する柵であることが解る。極めて周到に配置されているのである。北からの脅威に対して万全を期したのであろうが、いや、かなりの大事に発展したように感じられる。そんなこんなで後顧の憂いを無くして、いよいよ鎮守将軍の大野朝臣東人が「多賀柵」を発って蝦夷の地へと足を踏み入れることになった、と告げている。

色麻柵は、既出の文字である色=人+卩=谷間で渦巻くような様麻=擦り潰されたような平らな様であり、図に示した山稜の麓辺りを表していると思われる。その近隣に出羽國大室驛があったと記している。大室=平らな頂の山稜で谷間が奥深く延びているところと解釈して来たが、近辺には全く見当たらない・・・国土地理院航空写真(1974~8年)を参照すると、現在の九州自動車道が横切るところにその地形があったことが判った。

峠の標高が約40mであり、麓との標高差は10mに満たないことも分る。更に、その峠の向こう側の谷間がなだらかに延びていることが認められた。この場所が蝦夷の地への入口だったのである。幾つも山稜が重なって延びる山間の地、勿論、積雪もあったであろう。ところで、「色麻柵」に向かう途中に出羽國最上郡玉野があったと告げている。図に示した通り、玉のように小高くなっているところが見出せる。現在の西迎寺の場所である。

<下野國賀美郡>
賀美郡

さて、出羽國最上郡玉野に向かって出発した賀美郡とは、何処にあったとされるのか?…「多賀柵」があった地と錯覚するところであるが・・・。

鎮守将軍の大野朝臣東人は、「常陸・上総・下総・武藏・上野・下野等六ヶ國の騎兵、総計千人」を率いて示威しながら進軍して来ているのである。その最後に記載された下野國にあったと思われる。

図に示したように上野國との境にある賀美=押し広げられた谷間が大きく広がったところを示していると解る。上野國、石城國、常陸國、陸奥國には、多くの夷狄が住まっていたのであろうか?…夷狄であろうとなかろうと、大軍団が通過すれば、恐れ慄くのは当然だったであろう。行程は、おそらく山麓を縫うような険しい道だったかと思われるが、海沿いの行程もあり得るかもしれない。

いよいよ次の目的地に向かって進軍するのであるが、ここで初登場の「陸奥國遠田郡」、その郡領の「遠田君雄人」、「和我君計安塁」及び陸奥國大掾の「日下部宿祢大麻呂」について、各々の出自の場所を求めておこう。

● 遠田君雄人・和我君計安塁 久しぶりに登場の「遠」=「辶+袁」を含む文字列であり、遠田=山稜がなだらかに延びている地にある平らなところと読み解ける。上図<陸奥-出羽國五柵>に示した丹取郡、信夫郡、最上郡に挟まれた地域と思われる。早くから採石場となっていて、当時の地形の通りではないが、基本的なところは保たれているようである。雄人=谷間に羽を広げた鳥の形の山稜があるところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。

和我君計安塁は、珍しい文字使いであるが、和我=しなやかに曲がっているギザギザとしたところと読み解ける。これも上図<陸奥-出羽國五柵>に示した場所に見出せる。名前の計安壘計=言+十=耕地を束ねた様安=宀+女=山稜に囲まれて谷間が嫋やかに曲がっている様壘=積み重なる様であり、おそらく「和我」が作る谷間の様子を表しているように伺えるが、少々地形変形があって、見定めるに至らないようである。

<日下部宿祢大麻呂-子麻呂>
● 日下部宿祢大麻呂

「日下部」は「日下」の近隣の地であり、書紀では「草壁」と表記される。草壁皇子の出自の場所である。勿論、氷高皇女(元正天皇)、吉備皇女(内親王)など多くの登場人物の居処である。

大麻呂は、の「麻呂」は「萬呂」を示すものと思われる。「大」=「平らな頂の麓」と解釈すると、大麻呂=平らな頂の麓で蠍の頭部の形をした山稜があるところと読み解ける。

すると、「(阿倍)老」の北側にその地形が見出せる。現在は国道322号線が通り当時を偲ぶことは叶わないようである。当時の人々にとっては欠かせない住居地だったのであろう。後に従五位下まで昇進されたようである。

後(孝謙天皇紀)に日下部宿祢子麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「大麻呂」の東側の山稜が生え出たように(子)見える場所が出自と思われる。また古麻呂とも表記される。生え出た山稜の端の地形を表している。最終従四位上まで昇進されたとのことである。

<大伴宿禰美濃麻呂・百世・名負>
● 大伴宿祢美濃麻呂

この人物も系譜が不詳のようであり、おそらく、現在は山口ダムとなった場所に関わる地が出自と思われる。国土地理院航空写真(1961~9年)を参照しながら、その場所を求めてみよう。

美濃國でも用いられている美濃濃=氵+農=水辺で二枚貝が舌を出したように山稜が延びている様と解釈した。美=羊+大=谷間が広がっている様であり、これらの地形を満足する場所が前出の老人の東側に見出せる。

山稜の端が幾つもに岐れてできた谷間を多くの人が出自としていたのであろう。「佐伯宿祢」と合わせて現地名の京都郡苅田町山口の谷間が夥しいほどに開拓された歴史を示唆しているように思われる。

後に大伴宿祢百世が登場する。美濃麻呂の東側の山稜、残念ながら百=白+一=小高い地が連なっている様を地図上で確認するのが難しいが、平らな台地状になっていることから、当時は凹凸のある地形だったのであろう。幾度か登場した世=受け継いでいる様であり、南側の台地と繋がっているように見える様を表していると思われる。別名百代代=人+弋=谷間にある山稜が杙のような形をしている様であり、申し分のない表記であろう。

更に大伴宿祢名負が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳であり、おそらく「美濃麻呂」の近辺が出自の場所と思われる。既出の文字列である名負=山稜の端の三角の地が二つに岐れて延びているところと解釈される。図に示した場所と推定される。現在の山口ダムで水没した地である。

<比羅保許山>
比羅保許山

鎮守将軍の大野朝臣東人の次なる目的地は、出羽國最上郡の玉野から出羽國大室驛を経て、賊地内にある比羅保許山と告げている。

そこに駐屯している時に雄勝村の俘長等三人が来て降伏する旨を伝えたが、それを疑ったものの「東人」は例年にない大雪で進軍がままならないこと、部下の田邊史難波の進言もあって、官軍の威勢を示すに止めた、と物語っている。

即ち「比羅保許山」以降の地形は、蝦夷等からの情報のみであるが、ほぼ雄勝村までの行程を征したと述べている。進言通りに「難波」はこの地に留まり、懐柔に努めたのであろう。

「比羅」=「連なり並んでいる様」、「許」=「言+午」=「谷間の耕地が突き当たっている様」と解釈した。「保」=「人+呆」と分解される。更に「呆」=「子+八」から成る文字とされる。地形象形的には「保」=「谷間にある山稜の先が丸く小高くなっている様」と解釈される。

纏めると比羅保許山=連なり並んでいる谷間にある山稜の端が丸く小高くなった先の耕地が突き当たっていると読み解ける。図に示したところの地形を表していることが解る。越(高志)國や肥後國に囲まれた場所であるが、すっぽりと抜け落ちていた谷間がここで登場したことになる。

<賀美郡~出羽柵>
「下野國賀美郡」から「出羽柵」に至る全行程を図に示した。本文に「賀美郡」から「玉野」へは”八十里”、険しい山道を通るが、「玉野」から「比羅保許山」への道は、同じく”八十里”、平坦で険しくないと述べている。

確かに崖下の山麓を通る行程と山稜がなだらかに延びている地形を横切る行程であることを示している。それぞれ”八十里”、図から判るようにほぼ等距離(約4km)である。通常の換算をすると40km強となるが、おそらく、編者が都合により十倍した値であろう。

靈龜(長七寸、闊六寸)・白龜(長一寸半、廣一寸)や甲羅に「天王貴平知百年」の文様がある龜(長五寸三分、闊四寸五分)の場合は、都合により大幅な縮小を行った”実績”がある續紀編者である。

少々興味深いのが、大室驛のところで述べたように、ほぼ現在の九州自動車道が通るルートとなっている。姿を変えて今に残る当時の面影かと思われる。

「比羅保許山」から「雄勝村」まで五十里は、蝦夷等の情報に基づく記述であり、少し短くなっている感じであるが、誤差の範囲としておこう。

さて、当初「東人」が言上した時に登場した男勝村は、結局その後に登場しなかった。と言うことは、その村は「比羅保許山」と「雄勝村」との間に存在していたと推測される。

男勝=[男]の形の地が盛り上がっているところと解釈すると、図に示した場所に見出すことができる。大坪川を遡って谷間を直進すれば雄勝村への最短行程になることが解る。確かに迂遠な行程を避けることができるのであるが、男勝村の場所は、陸奥國から出羽柵に向かう時に大きな障害となっている。それを排除することは極めて重要であったと思われる。

さて、全体を眺めてみると、新羅國が肅愼國に在住する同胞を率いて佐渡國に上陸し、内陸に入り込むのを防御する目的で設置された出羽柵である。この重要な柵への人材・物資の供給路の確保は欠かせなかったであろう。また、本文中にも記載されているように途中の地を開拓し、あるいは地元の協力を得て、食料の補給を行うことも必須のことであろう。

実に道理の叶った出来事であった、と續紀は伝えている。既に述べたことだが、斉明天皇紀でも、新羅が騒ぐと蝦夷対策に奔走するのである。西海が不穏となって、何故東北での緊急対策なのか?…この地政学的観点からの矛盾に歴史学は答えなければならないであろう。

辛酉。參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也。癸亥。大宰管内諸國。疫瘡時行。百姓多死。詔奉幣於部内諸社以祈祷焉。又賑恤貧疫之家。并給湯藥療之。

四月十七日に参議・民部卿の藤原朝臣房前が亡くなっている。大臣待遇の儀礼で葬送することにしたが、その家では固辞して受けなかった。「房前」は贈太政大臣の不比等の第二子であった。十九日に大宰府管内の諸國では、瘡のできる疫病が流行し、多くの人民が死亡している。詔して管内諸社に幣帛を捧げ、祈祷をさせている。また、貧しく疫病に罹っている人の家に物を恵み与えるとともに煎じ薬を給して治療させている。

「房前」の死因は、間違いなく天然痘であろう。”固辞”の表記がそれを表している。それにしても、大宰府管内での流行と繰り返し記述されるが、九州と奈良大和の距離、今では当たり前のことであるが、当時の人の移動範囲を思うと、些か違和感がある。更に「房前」は、東海道東山道節度使(732年に拝命)であり、彼の行動範囲は奈良大和以東であろう。

兄弟の中でも突出して早くに感染したのは、東海道の起点(三川之衣)が大宰府に近接していたからではなかろうか。既に畿内は汚染されつつあったのである。少し先走るが、筑紫での疫病を避けるために奈良大和に遷移したことに繋がる・・・のかもしれない。