2021年11月24日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(22) 〔559〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(22)


天平九年(西暦737年)三月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

三月丁丑。詔曰。毎國令造釋迦佛像一躯。挾侍菩薩二躯。兼寫大般若經一部。壬寅。遣新羅使副使正六位上大伴宿祢三中等卌人拜朝。

三月三日に以下のように詔されている。「國ごとに釈迦仏の像一体と脇侍菩薩の像二体を造り立て、併せて大般若経一揃いを書写させよ。」二十八日に、疫病に感染していた遣新羅使の副使の大伴宿祢三中等四十人が拝謁している。

正月二十七日に一部(無症状と言うべきか?)が入京したと記載されていたから、二ヶ月後に生還者全員(?)、即ち、濃厚接触者等が入京したことになる。天然痘の潜伏期間約12日間からすると(こちら参照)、十分な入国管理だったようであるが・・・。

夏四月乙已朔。遣使於伊勢神宮。大神社。筑紫住吉。八幡二社及香椎宮。奉幣以告新羅无禮之状。壬午。律師道慈言。道慈奉天勅住此大安寺。修造以來。於此伽藍恐有災事。私請淨行僧等。毎年令轉大般若經一部六百卷。因此。雖有雷聲。無所災害。請自今以後。撮取諸國進調庸各三段物以充布施。請僧百五十人令轉此經。伏願。護寺鎭國平安聖朝。以此功徳永爲恒例。勅許之。

四月一日に使者を伊勢神宮、「大神社」、「筑紫住吉社・八幡社」の二社、及び「香椎宮」に遣わして幣帛を奉り、新羅國が無礼である様を報告している。八日に律師の道慈(神叡と併記)が以下のように言上している・・・「道慈」は天皇の勅命を承って、この大安寺に住している。造営して以来、この伽藍に災害があるのを恐れ、私に行いの清らかな僧等を招いて、毎年大般若経一揃い六百巻を転読させているが、このために雷鳴があっても災害はない。そこで今後、諸國から進上される調・庸(麻布)それぞれ三段を割き、布施に充当して僧百五十人を招き、この経を転読させたいと思う。寺を護り国家を鎮めてこの御代を平安にし、この功徳を末永く恒例とすることを伏してお願いする・・・。勅によって、これが許されている。

大神社・筑紫住吉社・筑紫八幡社・香椎宮
 
<筑紫三社・一
皇祖神を奉る伊勢神宮は別格として、残りの三社と一宮の所在を求めてみよう。大神社の所在は、紛うことなく大神朝臣の地、即ち三輪君の後裔の出自の場所であろう。

現在の北九州市小倉北区の足立山・砲台山の西麓である。「大神神社」の場所は、おそらく、その中腹にある立法寺別院辺りではなかろうか。

記紀には登場せず、續紀でもこれが最初で最後である。要するに「大神朝臣」一族の氏神として祭祀されていたのであろう。勿論、大物主大神に繋がっているのであろうが、天神一族の奔流ではない。

筑紫住吉社は、既出の住吉=谷間に真っ直ぐに延びる山稜で蓋をされたようなところであり、その地形を求めると、図に示した場所が見出せる。おそらく、現在の福聚寺辺りに鎮座されていたのではなかろうか。

筑紫八幡社の「八幡」の文字列は、見慣れたものであるが、今までに登場していなかった。あらためて八幡=旗が棚引くように延びている地が二つに岐れて延びているところと読み解ける。迷うことなく、図に示した谷間から延び出た山稜の地形を表していると思われる。「八幡社」が鎮座していたのは、現在の須賀神社辺りと思われる。

最後の香椎宮は、その名の通り、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)の訶志比宮を”神の社”としていたのであろう。幾度か登場の文字列であり、香椎=窪んだ地から延び出てしなやかに曲がる山稜が背骨のような形をしているところと読み解ける。足立山北麓の谷間(黄泉國)から砲台山を経て延びる山稜を表していることが解る。いつものことながら、実に多様な表記を行っているのである。勿論、現在の福岡市東区にある香椎宮の地形を表すものではない。

結果として、三社と一宮は、大宰府を中心として、”古小倉湾”に面する高台にずらりと並んでいる配置となった。不穏な新羅の行動に対して、八百万の神々の援助を祈願したのであろう。皇祖神としての伊勢神宮は、ともかくとして、「大神社」が現在の大神神社とするならば、ここで登場する根拠が求められるであろう。

いや、単に皇祖神だけではなく、新羅対策の水城の背後に伊勢神宮が鎮座しているのである。斉明天皇がご老体に鞭打って画策した<唐・新羅の侵攻予想行程>をあらためて見ると、当時の危機感が伝わって来るようである。

戊午。遣陸奧持節大使從三位藤原朝臣麻呂等言。以去二月十九日到陸奧多賀柵。与鎭守將軍從四位上大野朝臣東人共平章。且追常陸。上総。下総。武藏。上野。下野等六國騎兵惣一千人。開山海兩道。夷狄等咸懷疑懼。仍差田夷遠田郡領外從七位上遠田君雄人。遣海道。差歸服狄和我君計安壘。遣山道。並以使旨慰喩鎭撫之。仍抽勇健一百九十六人委將軍東人。四百五十九人分配玉造等五柵。麻呂等帥所餘三百卌五人鎭多賀柵。遣副使從五位上坂本朝臣宇頭麻佐鎭玉造柵。判官正六位上大伴宿祢美濃麻呂鎭新田柵。國大掾正七位下日下部宿祢大麻呂鎭牡鹿柵。自餘諸柵依舊鎭守。廿五日。將軍東人從多賀柵發。三月一日。帥使下判官從七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎭兵四百九十九人。當國兵五千人。歸服狄俘二百卌九人從部内色麻柵發。即日到出羽國大室驛。出羽國守正六位下田邊史難破將部内兵五百人。歸服狄一百卌人。在此驛。相待以三日。与將軍東人共入賊地。且開道而行。但賊地雪深馬芻難得。所以雪消草生。方始發遣。同月十一日。將軍東人廻至多賀柵。自導新開通道惣一百六十里。或尅石伐樹。或填澗疏峯。從賀美郡至出羽國最上郡玉野八十里。雖惣是山野形勢險阻。而人馬往還無大艱難。從玉野至賊地比羅保許山八十里。地勢平坦無有危嶮。狄俘等曰。從比羅保許山至雄勝村五十餘里。其間亦平。唯有兩河。毎至水漲並用船渡。四月四日。軍屯賊地比羅保許山。先是。田邊難波状稱。雄勝村俘長等三人來降。拜首云。承聞官軍欲入我村。不勝危懼。故來請降者。東人曰。夫狄俘者其多姦謀。其言無恒。不可輙信。而重有歸順之語。仍共平章。難破議曰。發軍入賊地者。爲教喩俘狄築城居民。非必窮兵殘害順服。若不許其請。凌壓直進者。俘等懼怨遁走山野。勞多功少。恐非上策。不如示官軍之威從此地而返。然後。難破訓以福順。懷以寛恩。然則城郭易守。人民永安者也。東人以爲然矣。又東人本計。早入賊地。耕種貯穀。省運糧費。而今春大雪倍於常年。由是不得早入耕種。天時如此。已違元意。其唯營造城郭一朝可成。而守城以人。存人以食。耕種失候。將何取給。且夫兵者。見利則爲。無利則止。所以引軍而旋。方待後年始作城郭。但爲東人自入賊地。奏請將軍鎭多賀柵。今新道既通。地形親視。至於後年。雖不自入可以成事者。臣麻呂等愚昧。不明事機。但東人久將邊要。尠謀不中。加以親臨賊境。察其形勢。深思遠慮。量定如此。謹録事状。伏聽勅裁。但今間無事。時属農作。所發軍士且放且奏。

四月十四日に陸奥國に派遣された持節大使の藤原朝臣麻呂(萬里)等が以下のように言上している・・・去る二月十九日に「陸奥國多賀柵」に到着し、鎮守将軍の大野朝臣東人と協議し、また常陸・上総・下総・武藏・上野・下野等六ヶ國の騎兵、総計千人を召して、海沿いと山中の両道を開かせたので、夷狄たちは悉く疑いと畏怖の念を懐いている。そこで農耕に従事している蝦夷で「遠田郡」の郡領の「遠田君雄人」を海沿いの道より、帰服した蝦夷の「和我君計安塁」を山間の道よりそれぞれ派遣し、遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫した。そして勇敢で強健な者百九十六人を選んで将軍の「東人」に委ね、四百五十九人を「玉造」など五つの柵に分属させた。「麻呂」等は残りの三百四十五人を率いて「多賀柵」を守備し、副使の坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)は「玉造柵」を守り、判官の「大伴宿祢美濃麻呂」は「新田柵」を、陸奥國の大掾の「日下部宿祢大麻呂」は「牡鹿柵」を守備し、その他の柵は従来通り鎮守した・・・。<続>

・・・二月二十五日に将軍「東人」が「多賀柵」より進発し、四月一日に征夷使の配下の判官の紀朝臣武良士等と委ねられた騎兵百九十六人、鎮守府の兵四百九十九人、陸奥國の兵五千人、帰服した夷狄二百四十九人を率いて、管内の「色麻柵」を発し、その日のうちに「出羽國大室駅」に到達した。一方出羽國守の田邊史難波は、管内の兵五百人と帰服した夷狄百四十人を率いて、この駅に滞在し待機すること三日で、将軍「東人」の軍勢と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍した。ただ賊地は雪が深く秣(まぐさ:牛馬の餌)は確保しにくく、そのため雪が消え草が生えるのを待って、また改めて軍を遣わすことにした・・・。<続>

・・・同月十一日に将軍「東人」が引き返して「多賀柵」に帰還した。自らが指導して新たに開通させた道は全長百六十里、あるいは石を砕いたり樹を伐ったり、あるいは渓を埋め峯を越えて通した。「賀美郡」から「出羽國最上郡玉野」に至る八十里は、全て山野で、地形は険しいとはいえ、人馬の往復に大きな艱難はない。「玉野」から賊地の「比羅保許山」に至る八十里は、地形は平坦で危うく険しい箇所は存在しない。夷狄等は、[「比羅保許山」から「雄勝村」に至る五十里余りは、その間は平坦であるが、二つの河があって、増水するたびに両方とも船を用いて渡らなければならない]と言っている・・・。<続>

・・・四月四日に将軍「東人」等の軍勢は賊地内の「比羅保許山」に駐屯したが、これより先、田邊史難波の書状が来て[「雄勝村」の蝦夷の長等三人が拝伏して、[官軍が我々の村に入ろうとされていると承り、不安を抑えきれず、降伏しようとやって来た]と伝えて来た。]しかし東人は[投降の夷狄にはたいそう悪だくみが多く、その言葉も変えることがある。安易に信じることができない。重ねて帰順したいと言うならば、その時点で合議しよう]と述べた。それに対して「難波」は建議して、[軍勢を進めて賊地に入るということは、夷狄を教え諭し、城柵を築いて民を移して住まわせるためである。何も兵を苦しめ、帰順する者を傷つけ殺そうというのではない。もし投降の請願を許さず、無視して圧迫して直ちに進攻したならば、帰順した夷狄たちは恐れて怨んで山野に遁走するであろう。それでは労多くして功少ないこととなり、おそらく上策とは言えない。今は官軍の威勢を示しておいて、この地から引き揚げるにしくはないであろう。その後でこの「難波」が帰順の幸せを諭し、寛大な恵みで懐けてみせる。そうすれば則ち、城郭は守備しやすく、人民は永く安らかになろう]と言ったので、「東人」は、その通りと考えた。また「東人」の本来の計略では早期に賊地に入り、耕作して穀物を蓄え、兵糧を搬送する費用を省くことにあった。しかし今春は例年に倍する大雪が降り、これによって早期に入って耕作することができなかった。天の与えた条件がこのようなので、既に本来の意向とは違ってきている・・・。<続>

・・・一体、城郭を造営することぐらいはすぐにもできる。しかし城を守るのは人間であり、人間の生存は食糧に依る。耕作の時候を失えば、何を給することができようか。更に兵士というものは、利益をみて行動し、利益がなければ動かない。それ故に軍勢を引き揚げて帰り、今後を待って初めて城を造営することにする。但し、「東人」は、自ら賊地に進攻するため、将軍として「多賀柵」を守備する許可を請うている。しかし、今進道は既に開通し、地形を直接に視察したので、後年になって、「東人」が自ら攻め入ることはしなくても、事は成就させることができる。臣下たる「麻呂」等は愚かで事情に明るくないが、「東人」は久しく将軍として辺要の地におり、作戦が的中しなかった例はほとんどない。のみならず、自ら賊軍の地に臨み、それ形勢を熟知し、深謀遠慮の上で、このような作戦を企てた。そこで謹んで事の記し、天皇の裁決をお伺いする。ただ、この頃は情勢も平穏で、農作業の時節に当たっているので、徴発している兵士は一旦解放し、その一方で以上のようなことを奏上する・・・。

陸奥國:多賀柵・玉造柵・新田柵・牡鹿柵・色麻柵
出羽國:大室驛・最上郡玉野

正月の記事に陸奥按擦使の大野朝臣東人等が陸奥國から出羽柵への行程を何とか短縮させるため、途中の蝦夷の地である「男勝村」を通過したいとの旨の言上を受けて、持節大使・兵部卿の藤原朝臣麻呂(萬里)を筆頭にする大軍団を進発させることになった、と記載されている。

<陸奥-出羽國五柵>
勅命を受けたのが一月二十三日で陸奥國多賀柵に到着した日付は二月十九日と述べている。その二ヶ月後の状況報告を行っている。陸奥國から出羽國を経由して「出羽柵」に至る
詳細な行程を伺うことができる内容である。

先ずは多賀柵の場所を求めてみよう。頻出の文字列、多賀=山稜の端が谷間を押し開いているところと読み解ける。幾つかの候補地が見出せるが、南から陸奥國に接近したとすると、図に示した谷間の出口と推定される。

玉造柵は元は丹取郡にあった丹取軍團を玉作軍團に改名したと記載されていた。更に「作」を「造」に替えたのであろう。共に「つくる」の意味を示す文字である。作=谷間がギザギザとしている様と解釈するが、「造」は如何?…古事記の造=牛の古文字の頭部の形としたが、山稜の形をそれと見做したように思われる。

新田柵は、既出の新田=山稜が切り分けられたところある平らな地であり、図に示した場所と思われる。後に新田郡と郡建てされることになる。牡鹿柵牡鹿=鹿の角の地で♂の形の山稜があるところと読み解ける。山稜の端で海に面した場所と推定される。

これら四柵は、海辺に面し、海上からの敵に対する柵であることが解る。極めて周到に配置されているのである。北からの脅威に対して万全を期したのであろうが、いや、かなりの大事に発展したように感じられる。そんなこんなで後顧の憂いを無くして、いよいよ鎮守将軍の大野朝臣東人が「多賀柵」を発って蝦夷の地へと足を踏み入れることになった、と告げている。

色麻柵は、既出の文字である色=人+卩=谷間で渦巻くような様麻=擦り潰されたような平らな様であり、図に示した山稜の麓辺りを表していると思われる。その近隣に出羽國大室驛があったと記している。大室=平らな頂の山稜で谷間が奥深く延びているところと解釈して来たが、近辺には全く見当たらない・・・国土地理院航空写真(1974~8年)を参照すると、現在の九州自動車道が横切るところにその地形があったことが判った。

峠の標高が約40mであり、麓との標高差は10mに満たないことも分る。更に、その峠の向こう側の谷間がなだらかに延びていることが認められた。この場所が蝦夷の地への入口だったのである。幾つも山稜が重なって延びる山間の地、勿論、積雪もあったであろう。ところで、「色麻柵」に向かう途中に出羽國最上郡玉野があったと告げている。図に示した通り、玉のように小高くなっているところが見出せる。現在の西迎寺の場所である。

<下野國賀美郡>
賀美郡

さて、出羽國最上郡玉野に向かって出発した賀美郡とは、何処にあったとされるのか?…「多賀柵」があった地と錯覚するところであるが・・・。

鎮守将軍の大野朝臣東人は、「常陸・上総・下総・武藏・上野・下野等六ヶ國の騎兵、総計千人」を率いて示威しながら進軍して来ているのである。その最後に記載された下野國にあったと思われる。

図に示したように上野國との境にある賀美=押し広げられた谷間が大きく広がったところを示していると解る。上野國、石城國、常陸國、陸奥國には、多くの夷狄が住まっていたのであろうか?…夷狄であろうとなかろうと、大軍団が通過すれば、恐れ慄くのは当然だったであろう。行程は、おそらく山麓を縫うような険しい道だったかと思われるが、海沿いの行程もあり得るかもしれない。

いよいよ次の目的地に向かって進軍するのであるが、ここで初登場の「陸奥國遠田郡」、その郡領の「遠田君雄人」、「和我君計安塁」及び陸奥國大掾の「日下部宿祢大麻呂」について、各々の出自の場所を求めておこう。

● 遠田君雄人・和我君計安塁 久しぶりに登場の「遠」=「辶+袁」を含む文字列であり、遠田=山稜がなだらかに延びている地にある平らなところと読み解ける。上図<陸奥-出羽國五柵>に示した丹取郡、信夫郡、最上郡に挟まれた地域と思われる。早くから採石場となっていて、当時の地形の通りではないが、基本的なところは保たれているようである。雄人=谷間に羽を広げた鳥の形の山稜があるところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。

和我君計安塁は、珍しい文字使いであるが、和我=しなやかに曲がっているギザギザとしたところと読み解ける。これも上図<陸奥-出羽國五柵>に示した場所に見出せる。名前の計安壘計=言+十=耕地を束ねた様安=宀+女=山稜に囲まれて谷間が嫋やかに曲がっている様壘=積み重なる様であり、おそらく「和我」が作る谷間の様子を表しているように伺えるが、少々地形変形があって、見定めるに至らないようである。

<日下部宿祢大麻呂-子麻呂>
● 日下部宿祢大麻呂

「日下部」は「日下」の近隣の地であり、書紀では「草壁」と表記される。草壁皇子の出自の場所である。勿論、氷高皇女(元正天皇)、吉備皇女(内親王)など多くの登場人物の居処である。

大麻呂は、の「麻呂」は「萬呂」を示すものと思われる。「大」=「平らな頂の麓」と解釈すると、大麻呂=平らな頂の麓で蠍の頭部の形をした山稜があるところと読み解ける。

すると、「(阿倍)老」の北側にその地形が見出せる。現在は国道322号線が通り当時を偲ぶことは叶わないようである。当時の人々にとっては欠かせない住居地だったのであろう。後に従五位下まで昇進されたようである。

後(孝謙天皇紀)に日下部宿祢子麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。「大麻呂」の東側の山稜が生え出たように(子)見える場所が出自と思われる。また古麻呂とも表記される。生え出た山稜の端の地形を表している。最終従四位上まで昇進されたとのことである。

<大伴宿禰美濃麻呂・百世・名負>
● 大伴宿祢美濃麻呂

この人物も系譜が不詳のようであり、おそらく、現在は山口ダムとなった場所に関わる地が出自と思われる。国土地理院航空写真(1961~9年)を参照しながら、その場所を求めてみよう。

美濃國でも用いられている美濃濃=氵+農=水辺で二枚貝が舌を出したように山稜が延びている様と解釈した。美=羊+大=谷間が広がっている様であり、これらの地形を満足する場所が前出の老人の東側に見出せる。

山稜の端が幾つもに岐れてできた谷間を多くの人が出自としていたのであろう。「佐伯宿祢」と合わせて現地名の京都郡苅田町山口の谷間が夥しいほどに開拓された歴史を示唆しているように思われる。

後に大伴宿祢百世が登場する。美濃麻呂の東側の山稜、残念ながら百=白+一=小高い地が連なっている様を地図上で確認するのが難しいが、平らな台地状になっていることから、当時は凹凸のある地形だったのであろう。幾度か登場した世=受け継いでいる様であり、南側の台地と繋がっているように見える様を表していると思われる。別名百代代=人+弋=谷間にある山稜が杙のような形をしている様であり、申し分のない表記であろう。

更に大伴宿祢名負が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳であり、おそらく「美濃麻呂」の近辺が出自の場所と思われる。既出の文字列である名負=山稜の端の三角の地が二つに岐れて延びているところと解釈される。図に示した場所と推定される。現在の山口ダムで水没した地である。

<比羅保許山>
比羅保許山

鎮守将軍の大野朝臣東人の次なる目的地は、出羽國最上郡の玉野から出羽國大室驛を経て、賊地内にある比羅保許山と告げている。

そこに駐屯している時に雄勝村の俘長等三人が来て降伏する旨を伝えたが、それを疑ったものの「東人」は例年にない大雪で進軍がままならないこと、部下の田邊史難波の進言もあって、官軍の威勢を示すに止めた、と物語っている。

即ち「比羅保許山」以降の地形は、蝦夷等からの情報のみであるが、ほぼ雄勝村までの行程を征したと述べている。進言通りに「難波」はこの地に留まり、懐柔に努めたのであろう。

「比羅」=「連なり並んでいる様」、「許」=「言+午」=「谷間の耕地が突き当たっている様」と解釈した。「保」=「人+呆」と分解される。更に「呆」=「子+八」から成る文字とされる。地形象形的には「保」=「谷間にある山稜の先が丸く小高くなっている様」と解釈される。

纏めると比羅保許山=連なり並んでいる谷間にある山稜の端が丸く小高くなった先の耕地が突き当たっていると読み解ける。図に示したところの地形を表していることが解る。越(高志)國や肥後國に囲まれた場所であるが、すっぽりと抜け落ちていた谷間がここで登場したことになる。

<賀美郡~出羽柵>
「下野國賀美郡」から「出羽柵」に至る全行程を図に示した。本文に「賀美郡」から「玉野」へは”八十里”、険しい山道を通るが、「玉野」から「比羅保許山」への道は、同じく”八十里”、平坦で険しくないと述べている。

確かに崖下の山麓を通る行程と山稜がなだらかに延びている地形を横切る行程であることを示している。それぞれ”八十里”、図から判るようにほぼ等距離(約4km)である。通常の換算をすると40km強となるが、おそらく、編者が都合により十倍した値であろう。

靈龜(長七寸、闊六寸)・白龜(長一寸半、廣一寸)や甲羅に「天王貴平知百年」の文様がある龜(長五寸三分、闊四寸五分)の場合は、都合により大幅な縮小を行った”実績”がある續紀編者である。

少々興味深いのが、大室驛のところで述べたように、ほぼ現在の九州自動車道が通るルートとなっている。姿を変えて今に残る当時の面影かと思われる。

「比羅保許山」から「雄勝村」まで五十里は、蝦夷等の情報に基づく記述であり、少し短くなっている感じであるが、誤差の範囲としておこう。

さて、当初「東人」が言上した時に登場した男勝村は、結局その後に登場しなかった。と言うことは、その村は「比羅保許山」と「雄勝村」との間に存在していたと推測される。

男勝=[男]の形の地が盛り上がっているところと解釈すると、図に示した場所に見出すことができる。大坪川を遡って谷間を直進すれば雄勝村への最短行程になることが解る。確かに迂遠な行程を避けることができるのであるが、男勝村の場所は、陸奥國から出羽柵に向かう時に大きな障害となっている。それを排除することは極めて重要であったと思われる。

さて、全体を眺めてみると、新羅國が肅愼國に在住する同胞を率いて佐渡國に上陸し、内陸に入り込むのを防御する目的で設置された出羽柵である。この重要な柵への人材・物資の供給路の確保は欠かせなかったであろう。また、本文中にも記載されているように途中の地を開拓し、あるいは地元の協力を得て、食料の補給を行うことも必須のことであろう。

実に道理の叶った出来事であった、と續紀は伝えている。既に述べたことだが、斉明天皇紀でも、新羅が騒ぐと蝦夷対策に奔走するのである。西海が不穏となって、何故東北での緊急対策なのか?…この地政学的観点からの矛盾に歴史学は答えなければならないであろう。

辛酉。參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也。癸亥。大宰管内諸國。疫瘡時行。百姓多死。詔奉幣於部内諸社以祈祷焉。又賑恤貧疫之家。并給湯藥療之。

四月十七日に参議・民部卿の藤原朝臣房前が亡くなっている。大臣待遇の儀礼で葬送することにしたが、その家では固辞して受けなかった。「房前」は贈太政大臣の不比等の第二子であった。十九日に大宰府管内の諸國では、瘡のできる疫病が流行し、多くの人民が死亡している。詔して管内諸社に幣帛を捧げ、祈祷をさせている。また、貧しく疫病に罹っている人の家に物を恵み与えるとともに煎じ薬を給して治療させている。

「房前」の死因は、間違いなく天然痘であろう。”固辞”の表記がそれを表している。それにしても、大宰府管内での流行と繰り返し記述されるが、九州と奈良大和の距離、今では当たり前のことであるが、当時の人の移動範囲を思うと、些か違和感がある。更に「房前」は、東海道東山道節度使(732年に拝命)であり、彼の行動範囲は奈良大和以東であろう。

兄弟の中でも突出して早くに感染したのは、東海道の起点(三川之衣)が大宰府に近接していたからではなかろうか。既に畿内は汚染されつつあったのである。少し先走るが、筑紫での疫病を避けるために奈良大和に遷移したことに繋がる・・・のかもしれない。