2017年11月27日月曜日

波邇賦坂の暗号 〔130〕

波邇賦坂の暗号

前記で水齒別命(反正天皇)の「多治比之柴垣宮」が紐解けた。父親仁徳天皇の「難波之高津宮」の近隣にあり、並び守る場所であった。「柴垣」の示す亡き人を鎮魂するという想像を越えた意味が含まれていたのである。既に登場した「柴野」の意味と重ね合わせて古事記の伝えるところが垣間見えたと思われる。

これが更にその言葉に含まれた深い意味を解き明かすことに繋がった。「波邇賦坂」である。この深い意味を「暗号」と呼ぶことにする。少々悪ノリの感じであるが、解読できた感動は同じであろうか・・・。難波之高津宮を焼け出された履中天皇がこの坂から…眠気眼で…炎上する宮、村を眺めて嘆く場所であった。



既に比定したところ「羽田=埴田」に向かう峠の坂道に変わりはないであろうが、それも掛けていることは勿論であるが、この「波邇賦坂」が示す意味が解けて、納得となる。「多治比之柴垣宮」との関係、それは如何に解釈できるであろうか・・・。

「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であるが、何?の端もしくは近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。「柴垣」と同様、説文解字擬きに準じた結果である…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。「曙光」を見て愕然とし、メラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

ただ漫然と遥か遠くの明かりを見て眠気が醒めた、という話ではなく眼前に見える激しい炎に報復の決意をした場所であったことを「暗号」しているのである。水齒別命は当事者ではないが深くこの事件に関わる。それどころか報復の実行を担うことになる。「柴垣宮」そして「高津宮」への思いは決して浅くはなかったであろう。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりにできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。

間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを、またもや、確信した。

…全体を通しては「古事記新釈」履中天皇・反正天皇の項を参照願う。

2017年11月26日日曜日

蝮の反正天皇 〔129〕

蝮の反正天皇


伊邪本和氣命(履中天皇)が「伊波禮」の開拓に力を注いで倭国はその精神的な支柱である畝火山(現在の香春岳)を中心とした国へと名実ともに歩み始めた。その後を継いだのが御子の葛城之曾都毘古の血を引く市邊之忍齒王等ではなく、弟の水齒別命(反正天皇)であったと古事記は告げる。

強大な力を付けて来た葛城一族の御子ならスンナリと行きそうな流れなのだが年齢もそう大きく変わらない弟への譲位は紆余曲折を生じるように感じるところである。後に少し推察してみよう。ともあれ、当然のことながら事績もなくあっさりと記述されるが、これがまた何とも捻くれた表現をしているようである。

些か考えさせられた紐解きを逐次述べてみる…古事記原文…

弟、水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。此天皇、御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。天皇、娶丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女、生御子、甲斐郎女、次都夫良郎女。二柱。又娶同臣之女・弟比賣、生御子、財王、次多訶辨郎女。幷四王也。天皇之御年、陸拾歲。丁丑年七月崩。御陵在毛受野也。

坐したところは「多治比」仁徳天皇崩御の後に直ぐ下の弟の墨江之中津王に焼き出されて逃げた時立ち止まる場所である「多遲比野」を指すと思われる。実のところ「遲=治」であることを気付かされた記述なのである。「多遲比」=「田が治水されて並んでいる」の解釈に進み、更に「多遲摩国」の理解が納得へと導かれたことを思い出す。

現地名は福岡県京都郡みやこ町勝山大久保辺りで、その西側の勝山松田(茨田)から続く古くからの広大な治水地帯であると紐解いた。「蝮之水齒別命」と記されるが「蝮」=「タジヒ」であり、そもそも住んでいた場所なのである。


柴垣宮

柴垣宮の「柴」=「雑木の小枝、垣根、塞いで守る」のような意味を示すとある。それはそれで宮を取り囲む垣根として不都合はないように思われるが、これまでに幾たびも遭遇した、一見普通に思える記述は要注意である。何かを意味しているのではなかろうか・・・。

「柴」=「此+木」この字が垣根、塞ぐというような意味を示すのは「此=比」として解釈することに基づくとのことである。「比」=「並ぶ(べる)」である。多治比、多遲比野に含まれる。既に何度も出現した「木」=「山の稜線」とする。辞書に倣って「垣」=「間を隔てる」と解釈すると…


柴垣宮=柴(山の稜線に並ぶ)|垣(間を隔てる)|宮

…と紐解ける。御所ヶ岳山系の麓にあって、燃えて焼失した難波之高津宮と並ぶ位置にある場所を示していると思われる。

更に付け加えると「此」は「妣(亡き母)」に通じる。即ち亡き人と並ぶという意味も含まれることになる。既述した「柴野入杵」の「柴」も、亡き須佐之男命と並ぶという意味を示すものと解釈される。「塞いで守る」その対象が大切な「亡き人」であった。


上図中央部右側の住吉池傍のが難波之高津宮、左の図師の上にある、ここが水齒別命の「多治比之柴垣宮」であったと推定される。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保図師、は八幡宮と記載される。勝山御所CCにある複数の南北の稜線が「垣」を表している。「難波之高津宮」は履中天皇、反正天皇にとって忘れられない宮であり、その鎮魂の意味を込めている、と思われる。

おそらく宮の周りに柴垣があった、それも的外れの解釈ではないのであろう。異なる意味の潜め方が実に巧妙であると言わざるを得ない。この地多遲比野の中で宮を造るとすれば図師の地が筆頭に浮かんでくる。直観的にも宮に相応しい地形を示す場所である。その地の表現に「柴垣」を用いた。恐るべし、安萬侶くんである。

ここで重要な言葉「波邇賦坂」が紐解けることを気付かされた。「埴生田」に向かう坂と解釈して来たこの名付け、漸くにして納得の解釈となった。稿をあらためて述べることにする。


丸邇之許碁登

丸邇の姉妹を娶る。「丸邇之許碁登」は何処であろうか?…ポイントは「碁」の解釈であろう。碁石でもなく、字源から導かれる「崖下の石」では何ら地形の特徴を示さない。上記と同じく分解してみると「碁」=「其+石」更に「其」=「箕」に通じると解釈すると…、


許碁登=許(もと:下)|碁(箕の地形)|登(登る)

…丸邇にあって「箕(農具:右図参照)の地形の下を登ったところ」と紐解ける。

現在の田川郡香春町柿下の近隣でその場所を探すと、「柿下大坂」の地名が見つかる。大坂山南麓の坂を登った場所である。

地図を参照願うが、稜線の端が「箕」の形をしていることが判る。数少ない地形象形と思われるが、それだけに特徴的な地形を示している。


 
この地は孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となったと記述にあった「大坂臣」の近隣に当たると思われる。現在も「大坂」「柿下大坂」と別記されるように異なる集落であったようである。兎も角も「許碁登」が「大坂」に繋がり、詳細地図のピースが埋まるとはビックリである。

娶った比賣が「都怒郎女」とその妹、産まれた御子が「甲斐郎女」「都夫良郎女」「財王」「多訶辨郎女」と記載される。地名を直接的に表現しているであろう「甲斐」は既に登場の「甲斐酒折宮」に関連すると思われる。現地名は北九州市門司区恒見の鳶ヶ巣山の西~南麓である。

「都夫良」は後の安寧天皇紀に出現する「都夫良意富美」の居場所と思われる。詳細は省略するが、「都夫良」=「螺羅(ツブラ)」と解釈して、現在の北九州市門司区大字畑にある鹿喰峠近隣と比定した。そう解釈できるとするとここで出現する名前は「高志国」関連地名のように思われる。

「都怒」=「都怒賀(ツノガ)」幾たびか登場した角鹿、都奴賀である。現地名門司区喜多久であり「財」=「江野財」建内宿禰の子、若子宿禰が臣の祖となった地である。同じく喜多久の内陸側と推定される。多訶辨」は不詳であるが「田花弁」と置換えてみると田が入江を塞ぐようにある場所を示しているようである。現地名は「猿喰新田」と呼ばれた門司区猿喰辺りではなかろうか。

かなり遠くの地名が当てられている。反正天皇は五十五歳前後での即位と思われ、即位前の御子達の食い扶持を与えるには距離を障壁にすることができなかったのかもしれない。その一方で、仁徳天皇が開拓した難波津から海路で往来することを思うと全く問題ない場所とも思われる。むしろ、仁徳天皇紀以降のこの交流の容易さを示すために記述されたようにも受け取れる。

履中天皇を引継いで五年後に崩御する。極めて短い「天下」であったと伝える。坐した宮は多治比之柴垣宮であり、「多治比」は元々住んでいたところである。晩年での即位と兼ね合わせて最もらしい選択であったようである。御陵も父、兄に次いで「毛受野」現在の行橋市長尾辺りの草原地帯と思われる。

葛城と丸邇

水齒別命は「丸邇之許碁登」の比賣二人を娶る。葛城系の市邊之忍齒王等の即位が叶わなかった主要因のようにも思われる。「許碁登」は壹比韋(辰砂の産出地)に近く、また現在の地形からではあるが、豊かな茨田(松田)を持つ地域となっていたのではなかろうか。それを背景とした「財力」が起死回生の姻戚回復に向かわさせたと推測される。

古事記はこの争いについては全く語らないが、履中天皇後の皇位継承の「異常」さがそれを如実に物語っているようである。従来より解説されてきたことではあるが、その「実態」らしきものが垣間見えた。本ブログも少しは進化したのであろうか・・・この係争はしばらく尾を引くことになる。後日に述べてみよう。

…全体を通しては「古事記新釈」の履中天皇・反正天皇の項を参照願う。

2017年11月25日土曜日

二羽の飛鳥は何処に?-ver.2 〔128〕

二羽の飛鳥は何処に?-ver.2


「飛鳥」=「アスカ」何故そう読むのか?…から始まった古事記の紐解き、月日を重ねてあらぬ方向に進んで来たが、それが今や納得の方向なのではと思い始めている始末である。そんなわけで「古事記新釈」なんて大それたことに手を付け始め、すると色々と修正・加筆も生じて来る。乗り掛かった舟なので飛び降りることも出来ず、只今鋭意検討中。

取り敢えず、大いに重複するところもあるが、構わず書き連ねてみようかと思う。古事記原文[武田祐吉訳]…

於是、其伊呂弟水齒別命、參赴令謁。爾天皇令詔「吾疑汝命若與墨江中王同心乎、故不相言。」答白「僕者無穢邪心、亦不同墨江中王。」亦令詔「然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言。」故卽還下難波、欺所近習墨江中王之隼人・名曾婆加理云「若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。」曾婆訶理答白「隨命。」
爾多祿給其隼人曰「然者殺汝王也。」於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛刺而殺也。故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。
爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇「政既平訖參上侍之。」爾召入而相語也。
[ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許においでになりました。天皇が臣下に言わしめられますに
は、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢い心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還って行て、スミノエノナカツ王を殺して上ておいでなさい。その時にはきとお話をしよう」と仰せられました。依て難波に還ておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人
を欺いて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依てその隼人に澤山物をやて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいておられるのを伺て、 矛で刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和にておいでになる時に、大坂の山口においでになてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行たら、かえてその心が恐しい。依てその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まて、まずお前に大臣の位を賜わて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まて假宮を造て急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成たと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上ておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥と名づけます。大和に上ておいでにな仰せられますには、「今日は此處に留まて禊祓をして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石の神宮に參て、天皇に「すべて平定し終て參りました」と奏上致しました。依て召し入れて語られました] 

仁徳天皇崩御の後に起こった騒動である。次男の墨江之中津王が火を放った宮殿から、伊邪本和氣命(後の履中天皇)が部下の阿知直(後に蔵官:大蔵大臣に任命される)の機転で逃げ出すことができて、一息ついた石上神宮で反撃に出ようとしていた時の物語である。

墨江王は計画的、用意周到で万が一逃しても幹線ルートに大勢の味方を配置して取り押さえようとしていたと古事記は伝える。何はともあれ地元の女性が教えてくれた「當岐麻道(分岐が消えかかった道)」の選択が命拾いとなった。

危機一髪を逃れたがさて如何に反撃する…「當藝麻知(弾碁待ち)」に気付いた。あの「之江(蛇行する河)」を整備したばかりではなく港にまでした墨江王の勢力は計り知れない。力を持った次男に味方する多勢に対し我が方は優秀なのもいるが無勢、ここは斬首作戦しかない、と思っているところに三男の水齒別命が現れた。

こやつは大男で歯がでかいのが取り柄の男だがどっちつかずと思われているに違いない。ならば「弾碁」の手当てをさせよう…伊邪本和氣命、暢気な性格ではあるが頭は悪くない・・・そんな背景で上記の説話が始まる。

武田氏の訳の通りに読み下せば何とも凄惨な事件であることを述べている。ギャング映画のよう、と初見で書いたが、読み返しても同じである。「弾碁」は鉄砲玉と言われる役回りそのものである。因みに「弾碁」は中央が山のように盛り上がった碁盤上で片端からもう一歩の端にある碁石を弾き飛ばす遊戯のようである。遊戯は文化、であろうか…。

見事に、いとも簡単に役割を果たした墨江王の幹部、「隼人・曾婆訶理」の事後処理:「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身」…勝手な言い分だが、所詮は裏切り者の運命なのだと述べておられるようである。そんな事件の中に時代を表す言葉が出現する。

二つの飛鳥


我々はこの文字を見ると、「アスカ」と読んでしまうほど慣れ親しんだ、だが、なんで「アスカ」なの?なんて気にもしない。そのまま読めば「飛ぶ鳥=トブトリ」である。「鶏」ではない。


これは、何を示すのか?…「飛ぶ鳥」=「隼:ハヤブサ」と置換えてみる。


「飛鳥」=「隼」=「隼人」=「曾婆加理(ソバカリ)」

となる。これでギャング映画の出来事と地名の繋がりが見えてくる。

近 と 遠

「飛鳥」=「曾婆訶理」だから…、

近・飛鳥=近・曾婆訶理(曾婆訶理を近づける)
遠・飛鳥=遠・曾婆訶理(曾婆訶理を遠ざける)


「雖報其功、滅其正身」は…

近づけて報い、滅して遠ざける

…と告げてる。「滅正身」は「祓禊:祓って禊ぐ」で完了する。

こう見ると、出来事そのものを名付けており、生々しさしか残らない。先人達の知恵の出しどころ、その読みを変えてしまった。

飛鳥=アスカ

再度、関連する原文は…爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

どうやら王子が「明日、明日」と地名を付ける前に宣っておられることに目を付けたようである。

明日の場所=明日処(アスカ)
「処」は場所を示す接尾辞(ex.すみか)

近飛鳥⇒アスカソバカリチカづけるソバカリ省略
アスカチカづける⇒チカアスカ

遠飛鳥⇒アスカソバカリトオざけるソバカリ省略
アスカトオざける⇒トオアスカ

先人達の素晴らしい知恵で、その生々しくておどろおどろしい内容を…


飛鳥=明日処(アスカ)(明るい日の場所)



に変えた。その現在の地名は…、

近飛鳥:京都郡みやこ町犀川大坂字大坂
遠飛鳥:田川郡香春町香春(の香春一ノ岳東南麓)

…と推定される。下図を参照願う。破線は水齒別命(曾婆訶理は一部)が通ったと推定されるルートを示す。


近飛鳥・遠飛鳥は決して広い範囲を示すのではなく、限られた場所であることが判ってきた。宮(若しくは神社)の中心とした地域の広さと思われる。垂仁天皇紀の大中津日子命が祖となった飛鳥君として登場している。後に名付けられた遠飛鳥に由来すると解釈した。

倭国における神、石上(イソノカミ=五十神=多くの神)が宿る場所として、そして「伊波禮」はその傍らにあって、人々が住む国の中心として位置付けられていると思われる。神が実在するという観念に基づく古代の国の有様を伝えているようである。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?…後世の出来事に由来するのかもしれないが・・・。

この川は嘗ては「犀川(現在名今川、何故変えた?)」の支流の大河であったとも言われる。大倭豊秋津嶋を「島」と見做すことと密接に関連する。断片的な情報が古事記の中で集約されて記述されているように感じる。ただ、読取れなかっただけなのである。

犀川(古事記では狹井河、佐韋河)は英彦山麓を源流に持ち平成筑豊田川線(平成筑豊鉄道)の傍を走り、行橋市市役所の脇を通って周防灘に注ぐ。昭和の時代、ゴールドならぬコールラッシュを見てきたのであろう。万葉歌にも登場する。豊かな自然の恵みに加え、時には穏やかに時には荒々しく、その姿に詠む人が己の姿を映し出したことであろう。

最後になるが、石上神宮について…既に記述したごとく、現在の香春一、二、三ノ岳にあった神社を現在の香春神社に祭祀したと言われる。その由来は奈良大和の石上神宮よりも歴史が古い。正一位となるのが九世紀半ばである。これを一地方の戯言という歴史認識を保守する、その図太さに呆れるのである。

我が町でもセミナーなどで古事記が語られているようである。「古事記は物語、日本書紀は史書」だから気楽に楽しく読み下そう、なんていうものが開催されているとか。次田潤氏の古典的「古事記新講」にどれだけの不詳事項があるのか、それを自ら解読されているならまだしも、そうでないなら無神経で図太いだけの教授となる。「弾碁」でも…いえいえ、暇が取り柄の老いぼれのは正真正銘の碁石であるが・・・。

超高齢化社会に向けて、一つの解決策として移民の受入れがあるが、その体制が整ってないという論議がなされている。古事記の時代、多くの渡来人達がやって来て、それを受け入れて来た時代である。時を経ての様変わり、更にはその時代と国が成熟し切った現在との対比に歴史というものの非情さを感じる。このまま立ち枯れて行くのか、はたまた弁証法的飛躍が発生するのか、歴史は非情な眼で見ているのであろう

…全体を通しては「古事記新釈」の履中天皇・反正天皇の項を参照願う。





2017年11月24日金曜日

尾張の奥津余曾 〔127〕

尾張の奥津余曾


<本稿は加筆・訂正*あり。こちらを参照願う>
丸邇関連の地名を調べていたら、未読の文字が現れた。春日及び丸邇の地名も随分とその詳細が見えてきているが、尾張国もそれなりになってきた。漏れ落ちたところを気長に拾う作業が連続するかもしれないが、一つ一つ丁寧に・・・。

孝昭天皇(御眞津日子訶惠志泥命)が葛城掖上宮に坐して娶った比賣が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命で、長男に「天押帶日子命」が居た。次期天皇の兄が猛烈に活躍されるパターンの一つである。とりわけ春日、丸邇の詳細地名、勿論尾張も含めて祖となる名称は十六にもなるという記述であった。

古事記原文…

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本*臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。

上記の地名は既に紐解いたこちらを参照願うが、何故か「尾張の奧津余曾」が抜けていた。ということで早速紐解きに入ると・・・「奥津」=「奥まった場所の川が合流するところ」は問題ないようであるが、やはり「余曾」は簡単には解釈できないようである。

「曾」=「重な(ね)る」で既に幾つか登場した文字である。「熊曾国」=「隅が重なった(山)」の解釈で現在の北九州市門司区にある古城山が特徴の国であると紐解いた。これもほぼ確実に今回に適用できると思われる。残りは「余」である。

いろいろ辞書を紐解いてみると、あまり、よぶんなどなど、どうも上手く合致しないが、尾根が延びた残りの場所を意味すると考えると…、


余曾=余([尾根の]残り)|曾(積み重なる)

…「尾根が延びた残りが積み重なって高くなったところ」と読み解ける。「奥津」があって「余曾」の地形を探すと…現在の北九州市小倉南区大字横代、岳の観音トンネルの近傍が合致することが判った。何のことは無い最近紐解いた「尾張の志理都紀斗賣」の山を越えた東側の地であった。

「豊国宇沙の足一騰宮」稜線の端が高くなっているところにあった宮と同じ状況である。山の稜線の特徴を捉えて表現する、古事記の主要なパターンに含まれる例であろう。


<奥津余曾>
「多本毘賣命」は…、


多(多くの山稜)|本(麓)|毘(田を並べて)|賣命

…「多くの山稜がある麓で田を並べている」比賣と解釈される。広くはないが豊かなところであったろうか…。現在の地形からでも綺麗な棚田が形成されているようである。

…全体を通しては古事記新釈孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇を参照願う。


柿本*
「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」であろう。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。



図は別表示で拡大願いたいが、「柿」=「木+市」=「山稜が市」尾根と山稜が作る地形が「市」を模していると見做したのであろう。


柿本(下)=山稜が作る市の字形の麓

現在に繋がる地名由来であるが、果たして納得頂けるであろうか・・・。




2017年11月22日水曜日

『伊波礼』の地 〔126〕

『伊波礼』の地


古事記の中で「伊波禮」の文字の初出は「神倭伊波禮毘古命」誕生の記述である。天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶って誕生した四人の御子、五瀬命、稻氷命、御毛沼命、若御毛沼命(亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命)、末っ子の若御毛沼命の別名に含まれる。

明らかに地名と記述されるようになるのは、伊邪本和氣命(履中天皇)の「伊波禮之若櫻宮」、白髮大倭根子命(清寧天皇)の「伊波禮之甕栗宮」及び袁本杼命(継体天皇)の「伊波禮之玉穗宮」である。こう並べてみると「神倭伊波禮毘古命」によって切り開かれた地に名付けられたものと考えて良さそうである。

畝火之白檮原宮」の場所を既に求めて来たが、それを振り返りながら「伊波禮」の地の詳細を探ってみよう。神倭伊波禮毘古命が嫁探しに行った「高佐士野」で「伊須氣余理比賣」を見染める時の説話から…随行の大久米命の歌[武田祐吉訳]…、

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]

「高佐士野」中では「多加佐士怒」である。「佐士」=「佐(タスクル)士(天子)」と解釈する。「高佐士野」=「高い所で天子を奉り仕えるところの野原」であろう。宮殿は畝火之白檮原宮である。その傍らにあったところを示している。「夜麻登能」=「山登りの」となる。

夜麻登能 多加佐士怒=山登りの高い所で天子を奉り仕えるところの野原

と解釈される。現在の「田川郡香春町高野」これこそが「畝火之白檮原宮」があったところである。おそらくは貴船神社辺りではなかろうか。現在の行政区分では細分されているが、香春一ノ岳の東南麓に面する広がりの地域であったろう。

ところで「伊波禮」は地形的な意味を示しているのであろうか?…「禮」=「示(神に捧げる台)+豊(酒を盛る高坏)」から地形的には「山(=神)裾の高台」を示すと解釈すると…、


伊波禮=伊(神の)|波(端:ハタ)|禮(山裾の高台)

…「畝火山(神)の傍にある山裾の高台」と紐解ける。「波」は多くは「端(ハシ)」であるが、傍(カタワラ)の意味も含む。香春一ノ岳の傍らにあってその山に祭祀される神に捧げる行いを為すには最適の場所を意味していると読み解ける。上記高野の地を示すとして矛盾のない表現である。

では、一つ一つ宮の在処を紐解いてみよう。

伊波禮之若櫻宮

「伊邪本和氣命、坐伊波禮之若櫻宮」と記述されている。伊波禮」の地に「若櫻」を示す場所は何処であろうか?…それは地名?…はたまた地形に関係するのであろうか?…「若」=「若い、未熟、時間が経っていない」であろう。「櫻」を分解する。既に登場した「櫻井」と同じ手法を用いると…、

櫻(サ|クラ)=佐(促す:良い状態にする)|倉(暗い:谷)

…通して紐解くと、「谷をより良い状態にするにはまだ時間が掛かる」ところとなる。谷への入り口付近を意味しているようである。伊波禮」近隣でそのような場所は?…現地名香春町鏡山、谷間から流れ出す呉川と金辺川との合流点近隣の高台ではなかろうか。下図中JR九州日田彦山線と国道201号線が交差する近隣である。


伊波禮之甕栗宮

「白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮」と記述されている。キーワードは「甕」と「栗」である。地形象形と見て該当するところを探すと…現在の日田彦山線香春駅の近隣、香春町松丸、庄ヶ原(下高野一区)の地名となっているところが浮かび上がる。


甕の形状と栗の毬のような台地の縁

となっていることが判る。

白髮大倭根子命」の「大倭根子」=「大倭の根本(中心)の子」と紐解けば「甕栗宮」の位置と正に合致すると思われる。倭国の中心の地をこの地、現在の香春町役場がある近隣と古事記が伝えている。

自然環境的な変化に加え人的な変遷を経て、1,300年間という途轍もなく長い年月のなかで根本(中心)の場所が不変であったことに驚嘆する。これが「歴史」であり、これを語る書物を「史書」という。


伊波禮之玉穗宮

「品太王五世孫・袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮」と記述されている。応神天皇五世の継体天皇が坐した場所である。この天皇の出自についてはサラリと流してきたが、いずれキチンと纏めることになるであろう。本日は兎も角も宮の場所を重点に紐解くことにする。


玉穗=玉(勾玉)|穂(穂のような先端)

曲がった地形でその端にある地形を探すと…上記「甕栗宮」の東北の近隣、現在の香春町高野にある勾金小学校辺りと推定される。現地名は変化しているが小中学校の名前に過去の地名に由来する名前が残っている。既に幾度か遭遇した現象である。

「甕」「勾金」を合わせると上記の「栗」その中にすっぽりと収まっている様と判る。見事である。地図が無い時代にどの場所で観察して命名したのか、実に興味ある記述と思われる。下図を参照願う。勿論通常の地図では上記の意味は全く読み取れず、色別標高図を駆使しての結果である。

  
「伊波禮」の地を紐解いて倭国の中心の場所が浮かび上がって来た。長い時間を掛けて漸く辿り着いた場所である。倭国(大倭)の全体を見渡すことができるようになったと言える。安萬侶くんに裏切られることなく導かれたことを感謝する。そして「伊波禮」関連の言葉に潜められた情報の豊かさに感嘆する。まだまだ彼が伝えることを見逃しているのではと、怯える気持ちも生じるのである。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。






2017年11月21日火曜日

多麻岐波流と蘇良美都 〔125〕

多麻岐波流と蘇良美都

仁徳天皇が日女嶋で宴会を催した時という設定で説話が始まる。単純な話だけに難読の言葉も散りばめられているようである。とりわけ枕詞と片付けられる「多麻岐波流(タマキハル)」と「蘇良美都(ソラミツ)」はこの説話が初出である。前者はこの段のみ。何故ここで?…この二つの言葉の意味をあらためて紐解いてみた。

登場する前後の流れを示すと…古事記原文[武田祐吉訳]

亦一時、天皇爲將豐樂而、幸行日女嶋之時、於其嶋、鴈生卵。爾召建內宿禰命、以歌問鴈生卵之狀、其歌曰、
多麻岐波流 宇知能阿曾 那許曾波 余能那賀比登 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登岐久夜
於是建內宿禰、以歌語白、
多迦比迦流 比能美古 宇倍志許曾 斗比多麻閇 麻許曾邇 斗比多麻閇 阿禮許曾波 余能那賀比登 蘇良美都 夜麻登能久邇爾 加理古牟登 伊麻陀岐加受
如此白而、被給御琴歌曰、
那賀美古夜 都毘邇斯良牟登 加理波古牟良斯
此者本岐歌之片歌也。
[また或る時、天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島においでになった時に、その島に雁が卵を生みました。依つてタケシウチの宿禰を召して、歌をもつて雁の卵を生んだ樣をお尋ねになりました。その御歌は、
わが大臣よ、あなたは世にも長壽の人だ。この日本の國に雁が子を生んだのを聞いたことがあるか。
ここにタケシウチの宿禰は歌をもって語りました。
高く光り輝く日の御子樣、よくこそお尋ねくださいました。まことにもお尋ねくださいました。わたくしこそはこの世の長壽の人間ですが、この日本の國に雁が子を生んだとはまだ聞いておりません。
かように申して、お琴を戴いて續けて歌いました。
陛下が初めてお聞き遊ばしますために雁は子を生むのでございましよう。
これは壽歌の片歌です

背景を概略述べると…「日女嶋」は応神天皇紀に出現した「日女・嶋」=「阿加流(光を放つ)比賣・嶋」である。阿加流比賣神が新羅国から逃げて来て「難波之比賣碁曾社」に鎮座し、後を追って来た天之日矛を拒絶した難波津の入口にある場所である。

前記で現在の福岡県行橋市にある沓尾山の麓とした。周防灘に流れ込む祓川河口にあり、当時はその山は「島」であったと思われる場所である。この場所を選んで説話としたのも思惑あってのことであろうが、それは後に述べる。


多麻岐波流

天皇が神出鬼没の建内宿禰、その古老に問い掛ける歌…それに登場するのが…「多麻岐波流 宇知能阿曾」通常枕詞として処理される「多麻岐波流(タマキハル)」=「霊魂極まる」と訳されるようであるが、わかったようでスッキリしないところであろう。「タマ=霊魂」の形式的な理解が少々気に掛かる。

宇知能阿曾」=「内の朝臣(大臣)」内大臣となって建内宿禰にすんなり当て嵌まるようであるが、「霊魂極まる」の枕では眠れない。武田氏も困って「わが大臣よ」と、今回は省略の手法で読んでいる。枕の解釈多麻岐波流」を原点から見直すべきことを示しているようである。

掛かる言葉の「宇知」は「内」であろうか?…「宇」=「ウ+干」でドーム状に覆いかぶさる象形である。軒、屋根、無限の空間、天、空…を意味する文字と解釈されている。とすると…、


宇知=宇(宇宙)|知(知識、知恵)

…地上をドーム状に覆う広大な天空(全ての世の中)の知識、知恵を持つ…人と解釈すれば天皇の質問に答えるために登場した理由が浮かび上がって来る。

この紐解きが「多麻岐波流」は「宇」に繋がることを導く。「地」を中心に「天」を「玉」と見ると…

多麻岐波流=多麻(玉:天空)|岐波流(際る:限界、果てまで)

…玉のような天空の果てまで…と解釈できる。天動説・地動説ではないが人間の感覚は天が回っている、であろう。それは途轍もなく大きな玉と見ていたのである。それを何と五文字で表現したのが「多麻岐波流」であった。

この天空の、この世界(世の中)の、この宇宙の…果てまでを意味する壮大な概念を表現する言葉であった。仁徳天皇の時代にあったものか、安萬侶くんが編纂する時にあったものかは判別しかねるが、古代の世界観を示していて実に興味深く感じられる。「タマ=霊魂」では勿体ない解釈であろう。


蘇良美都

もう一つの「蘇良美都」は古事記中に3回出現する。仁徳紀が最初で2回、雄略紀が1回である。面白いのは、これが掛かる「夜麻登」の表記は計15回で初出は大国主神の段である。彼が何を思ったのか倭国に行くと言い出して后の須勢理毘賣命が思い留めようと詠う時である。が、それには蘇良美都」が付かない。

神武天皇紀以降に頻出するのであるが、これらも全て蘇良美都」は付かない。仁徳天皇の時代になって初めて古事記で使われ、雄略天皇で最後に使われて終わる。何を意味するのであろうか?…

日本書紀など「虚空見」の別表記がある。そもそもは邇藝速日命が哮ヶ峯に降臨した時に発した言葉として伝えられる。「虚空」の意味から「虚空見」=「今は何もないが、これから多くのものが存在することができるところ」と解釈した。

上記の蘇良美都」出現の状況を考え合わせると、古事記では「虚空」の意味ではなく、「ソラ=空」を示していると思われる。紐解くと…、


蘇良美都=蘇良(空:天空、世界)|美都(満ちた)

…天空の下(世界)が満ちた…倭国と告げているのである。仁徳紀で多くの説話を載せ、中でも民の竈の煙を語り、事績を列挙して登場させるのが蘇良美都」である。見事なシナリオとしか言いようがないのではなかろうか。

この二つの枕詞と言われる「多麻岐波流(タマキハル)」と「蘇良美都(ソラミツ)」紐解けて初めて共に「天空(世界)」に関連付けられると判った。伊邪那岐・伊邪那美の国生みに始まる彼らの世界を漸くにして手中に収めたという意識の発現であろう。実に壮大な意識である。

新羅から里帰りした阿加流比賣は赤い玉から生まれた伝説を持つ。卵、赤い玉、多麻岐波流、蘇良美都…どうやら「タマ」がキーワードの説話にしているように受け取れる。そんなことを匂わせながら仁徳天皇紀に倭国が出来上がって来たことを伝えているのである。これがこの説話が載せられている真の理由であると思われる。

…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。

2017年11月15日水曜日

淡嶋と淡道嶋 〔124〕

淡嶋と淡道嶋

「淡」が付く二つの島が古事記に表れる。勿論これらは伊邪那岐・伊邪那美が産んだ島であるが、「淡嶋」は何故か「子」の数には加えていない。一方の「淡道嶋」は正式名称「淡道之穗之狹別嶋」であり、決して両者は同じ島ではないことを伝えているようである。

しかしながら現在までこれらの区別をした解釈はできておらず、本ブログも曖昧な記述で終わっていた。と言うのもこれらの島が登場する場面は限られており、なかなか出くわさなかった訳である。やはり国生み神話の島が登場する仁徳天皇紀の記述の再読であろう。

…と言う訳で、奥方の実家遁走を招いた仁徳さんの怪しい「吉備国」行き、バレバレの口実をしてまで行った吉備国への行程、とりわけ「遙望歌曰」の歌の紐解きを再考してみてみよう・・・。

伊邪那岐・伊邪那美が初めて産んだ子は[武田祐吉訳]

久美度邇興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。[結婚をして、これによつて御子の水蛭子をお生みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の數にははいりません]

と記述される中で登場するのが「淡嶋」である。子には加えていないが、後に仁徳天皇がこの「淡嶋」を見ているのである。つまり実際に存在していた島であったと伝える。一方の淡道之穗之狹別嶋」はれっきとした第一子として記述される。要するに「淡」に関連する島は二つあったと解釈すべき、なのである。

仁徳天皇紀の歌の前後を抜き出してみると、古事記原文[武田祐吉訳]

故、大后聞是之御歌、大忿、遣人於大浦、追下而、自步追去。於是天皇、戀其黑日賣、欺大后曰「欲見淡道嶋。」而、幸行之時、坐淡道嶋、遙望歌曰、
淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能志麻母美由 佐氣都志摩美由
乃自其嶋傳而、幸行吉備國。
[ここに天皇は黒姫をお慕い遊ばされて、皇后樣に欺つて、淡路島を御覽になると言われて、淡路島においでになつて遙にお眺めになつてお歌いになつた御歌、
海の照り輝く難波の埼から立ち出でて國々を見やれば、 アハ島やオノゴロ島アヂマサの島も見える。サケツ島も見える。
そこでその島から傳つて吉備の國においでになりました]

何としても黑日賣に会いに吉備国に行きたいが為に取った挙動不審なことを述べて、「淡道嶋」が登場する。「坐淡道嶋、遙望歌曰」その島に坐し、遥か彼方を望んで歌ったと言う。その歌の中に「阿波志摩」=「淡嶋」が登場するのである。

その他の島については原報を参照願うが、比定した現地名を含め概略は以下の通り…

●「淤能碁呂志摩」=「彦島(西山)」(下関市彦島西山町)
 伊邪那岐・伊邪那美が天浮橋に立って沼矛で作った島。血液が凝固する時の凸凹状態。

●「阿遲摩佐能志麻」=「馬島」(北九州市小倉北区)
 「阿遲」=「小型の鴨」渡り鳥の一種。「摩佐」=「増す(繁殖)」

●「佐氣都志摩」=「六連島」(下関市大字六連島)
 「佐氣都」=「裂ける」天然記念物(雲母玄武岩)の劈開性を表現。もしくは「氣都」=「穴」
 溶岩台地の凝結時に海水の水蒸気爆発による多孔状の外観、又はその両者。

さて、仁徳天皇が詠った場所は明らかに「淡道嶋」であるが、歌の冒頭部…「淤志弖流夜 那爾波能佐岐」の解釈が重要となってくる。通訳は「海の照り輝く難波の埼から」とある。「那爾波」=「浪速」=「難波」と置換えると問題なく読み取れるといった感じであろうか…。

ここで二つの疑問が浮かび上がる…

①淡道嶋に居ながら、何故、難波の崎に立った時の歌としたのか?

②「佐岐(サキ)」=「前、先(突出たところ)」である。難波(海)が突き出ることはない。
 「氣多之前」など串刺しの算盤玉のような山塊の陸地が海に突き出た表現である。

やはり「那爾波」の解釈がキーポイントとなってくる。「難波」ではなく淡道嶋にある海に突き出た岬を持つ地形を意味していると思われる。では、何と紐解けるのか?…思った以上に難物であった。「那」=「多い、美しい」、「波」=「端」であるが、「爾」の解釈が一向に浮かんで来なかったが…国土地理院さんに感謝である。



上図彦島塩浜町~田の首町にある山塊の稜線を「爾」と表現したのである。その北部は宅地開発によって些か削られているように伺えるが、当時の稜線を残していると思われる。この色別標高図がなければ到底見出せなかった地形象形である。


淤志弖流夜 那爾波能佐岐

=押し出ている美しい多くの(爾の)稜線持つ山並の端にある岬

と紐解ける。上図西端にある岬のことを指し示している推定される。「淤志弖流夜」=「押し照るや」=「海の照り輝く」とは全く異なる解釈となった。ナニワの枕詞で片付けられそうなことではなく、立派に意味を持つ文字列となった。意味不明→枕詞の多さに驚かされるが、一度しか出現しない言葉を枕詞とは言えないであろう。



記述された内容を再現した図である。仁徳天皇はここに示された島伝いに吉備国へと旅立った説話は続く。挙げられた島の順序も手前の阿波志摩(彦島本村)から遠い佐氣都志摩(六連島)へと合致する。

古事記で挙げらる島の名称とその地形及びその数がピッタリと一致することは、その描かれた舞台が北九州の玄界灘、響灘及び周防灘の海域であったことを強く支持するものと思われる。

淡嶋と淡道嶋は明確に区別され、それぞれが実在する島として記述されていることが明らかとなった。淡道嶋の詳細は仁徳天皇紀に記載されている。免寸河之西、有一高樹」の説話でその島の東部の様相を示す、また既に第三代安寧天皇の孫、和知都美命が坐した「淡道之御井宮」でもその地の状況を伝えている。




上図に示したようにこの二つの島の分岐点は下関市彦島江ノ浦町辺りであろう。縄文海進など海面上昇によって淤能碁呂志摩、淡道嶋は彦島(淡嶋)から分離独立したものと推測される。

悔しいかな本ブログも通説に引き摺られて「那爾波能佐岐」の解釈を取り違えたようである。その御崎に立って初めて古事記が伝える本当のところを伺えたように感じる。一語一語を大切に…である。淡嶋を国生みに加えない理由は今一不詳ではあるが、それは今後の課題としよう。


…全体を通しては「古事記新釈」を参照願う。


2017年11月14日火曜日

品陀の意味 〔123〕

品陀の意味


応神天皇の和風諡号は「品陀和氣命」とあり、それに含まれる「品陀」その意味についてはまだ紐解いていなかった。「宇陀」「阿陀」の文字が登場、古事記で用いられている意味は「陀」=「崖」急勾配の山の斜面を意味することが確認した。応神天皇紀を読む限り「陀」に関連するような説話は登場せず、不思議な命名と思われる。

応神天皇紀にある「吉野の国主の歌」にその読みは「本牟多(ホム(ン)タ)」であると記述されている。また日本書紀では「誉田」であり、そもそもの意味は何を示しているのか、何とも怪しげで曖昧な状況のようである。これは何としても読み解いておかなくてはと、勇んでみたが・・・。

天皇自らが語られる出自は「蟹の歌」と言われる中にある。ところがそれは「越前の蟹」であってそこからエッチラオッチラやって来たなんていう物語なのである。母親の息長帯比賣命(神功皇后)が彼を産み落としたのが「筑紫の宇美」そこに行くまで新羅国など朝鮮半島にお出ましであった。

「品陀」の影、ましてや「崖」の臭いも全く感じさせない記述なのである。では如何なるカラクリがあるのか・・・思い出すのが、建内宿禰に連れられて高志前に禊に行ったことである。そこで何かが起こった・・・。再度関連する古事記原文を載せると…

故、建宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦*、今謂都奴賀也。

「其地伊奢沙和氣大神之命」に名前を交換しよう、と持ち掛けられている。どうやら交換が成立ったようなのであるが、例によって直截で簡明な表現をしないのが安萬侶くん風なのである。「品陀」の文字が見えないばかりか、何を交換したかも判り辛い。


こんな時は古事記に「品陀」の文字が何処に記されているか、検索するのが手っ取り早い。すると妙なところでヒットした。「品陀」の文字は応神天皇にだけ付けられていたわけではなく、もう一人居る。

品陀眞若王

である。注記に「品陀二字以音」とある。間違いなく地形象形の目的があったと推測される。応神天皇が最初に娶った高木之入日賣の父親で、五百木之入日子の子と注記されている。では地形象形の「品陀」は何と紐解けるか…

品陀=品(段差)|陀(崖)

「段差のある崖」である。高木は現在の北九州市若松区藤木にあった場所で、洞海湾に面した石峰山南麓の地と比定した。極めて急峻な地形であることは一目でわかる地形をしている。西麓には「伊余湯」のあった場所としたところでもある。

足立山(竹和山)の南麓と同様の地形を持つところである。高木之入日賣の父親であり、高木に住んでいたと思われる品陀眞若王の命名としては実に合致した表現と思われる。地の神の名前は「伊奢沙和氣大神之命」と言う。

これに含まれる「伊奢」は応神天皇が高木之入日賣に産ませた「伊奢之眞若命」にある文字である。石峰山南麓にあった場所と推定した。「奢=おごる、贅沢、有り余る」潤沢な海の幸、高木=粟国は「大宜都比賣」の謂れを持つことが根拠である。



即ち、地の神の名前は…、

伊奢=品陀*

…和氣大神之命という亦の名を持っていたと推測できる。その「品陀」を貰い受けたと紐解ける。高木の急峻な斜面の名前を引継いだのが品陀和気命、応神天皇であったと告げているのである。そして代わりにその大神は「御食津大神(気比大神)」の名前を賜ったのである。

地形象形の表現そのままの文字を貰ったことになり、応神天皇そのものには何ら関わりのない名前となったのである。いや、彼は後に品陀の比賣を娶り、御子達が高木の地の全体に散らばることになる。深い関係を築くのである。グルグル回して名前の由来を地名と共に知らしめる、いつもの手だと思いながらも、少々悔しい思いもする読み解きであった。


「品陀和氣命」確かに高志から来た。名前はその人を示す。実に明解である。文字そのものが示すところを記述する。それが古事記であろう。文字に対する現在の感覚と異なる、今は忘れ去られた部分を示している。日本語をこれからもこよなく使うならば、忘れてはならないことではなかろうか。それを古事記が教えてくれているように感じる。

…応神天皇紀を通しては「古事記新釈」の応神天皇【后・子】と【説話】を参照願う。 


2017年11月13日月曜日

再びの難波之高津宮 〔122〕

再びの難波之高津宮


古事記が描く壮大な物語りの舞台が何処にあったか、それを示す重要なキーワードの一つ「難波之高津宮」がある。あからさまに語られない故に様々な憶測が生まれて来た。本ブログも九州豊前平野を見下ろす御所ヶ岳・馬ヶ岳山塊の北麓辺りとして読み下して来たが、そろそろその詳細を述べる時になったように感じる。

既に記述したものも含めて纏めると、また何か新しい発見があるかもしれない…と期待しつつ・・・。

古事記原文…大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。

先の応神天皇は「軽嶋之明宮」に坐した。師木の西方に当たり、彦山川と中元寺川が合流する地域の開拓を目指したのであろう。現在も残る広大な水田地帯であることが伺える。紆余曲折があったものの皇位を引継いだ大雀命は迷うことなく東方を目指したのである。彼らにとって残された唯一と言って良い地である近淡海国の広大な平野を開拓することであった。


神武天皇から始まる天皇一家の遷宮は明確な目的・意味を示していると解釈した。第二代から九代の天皇の諡号が意味するところは極めて重要な天皇家の戦略を表現しているのである。大雀命の難波への進出はその戦略の最終段階であったと思われる。

さて、大雀命が坐した「難波之高津宮」の詳細を紐解いてみよう。いつもことながら「ここです!」とは教えてくれない。この宮が登場する二つの説話にその場所の情報が潜められていることは想像が付くのであるが、そうは簡単には読み解けない。大阪難波も含めて諸説入り混じった状態が今も継続中である。

関連する説話を纏めてみると…


・嫉妬で血が上った(実際は冷静な后であることが判る)石之日賣命大后が木国から帰りに宮には戻らず脇を通り抜けて実家に帰ろうとする場面。結局は戻らず知人の家に落着くという話。脇を通り抜ける時の大后が詠う言葉が注目される。詳細はこちら


・仁徳天皇亡き後の跡目相続争いで墨江之中津王が仕掛けた放火事件の際、伊邪本和氣命(後の履中天皇)が事件を察知して逃亡しながら詠う言葉が注目される。詳細はこちら


いずにしても極めて間接的であり、大后と長男の挙動をしっかりと解析しない限りその粗々の場所さえ見失ってしまい兼ねない有様である。初見で行ったこれらの解析を思い出しながら、あらためて纏め直してみよう。当然、高津宮の「高津」これは重要なヒントであるし、これに合致しない場所は除外される。



石之日賣命大后

吉備の「黒日売」との密会が終わったかと思うと、自分がいない間に、なんと宮に女を連れ込んで日夜…なんてヒドイひと、許せません、あんたのお仕事のためにわざわざ出掛けて取って来たのに…大事なものをかなぐり捨てて、実家へ・・・その行程記述が始まる。

古事記原文[通訳(武田祐吉)は…

於是大后大恨怒、載其御船之御綱柏者、悉投棄於海、故號其地謂御津前也。卽不入坐宮而、引避其御船、泝於堀江、隨河而上幸山代。此時歌曰、
[そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏かしわの葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。そうして皇居におはいりにならないで、船を曲げて堀江に溯らせて、河のままに山城に上っておいでになりました。この時にお歌いになつた歌は、]

行程の第一歩、大切です。「引避其御船」=「船を曲げて」と解釈されている。「引避」=「後ろに向かって避ける」であろう。Uターンしたのである。しかも「皇居」はかなり近いところにある。見えるところと言ってもいいかもしれない状況である。通訳が「曲げる」としたこと、これは極めて重要な意味を持つ。

難波之堀江」後に事績の中で述べることになるが、河川の蛇行が激しく、氾濫を繰り返した場所の大港湾整備事業と推察される。縄文海進の退行と沖積の進行で船舶の通行が難しくなってきたのであろう。下流域、特に河口付近の平野部の土地開発に手を付け始めた記録として貴重なものと思われる。

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
[山また山の山城川を上流へとわたしが溯れば、河のほとりに生い立つているサシブの木、 そのサシブの木のその下に生い立つている葉の廣い椿の大樹、その椿の花のように輝いており その椿の葉のように廣らかにおいでになるわが陛下です]

「堀江」から「夜麻志呂賀波」=「山代(背)川」=「山の背(うしろ)を流れる川」に入ると述べる。これが行程の第一段階。既に登場の木国から難波津に戻って来たのだから船旅で「南方」から帰途する際に起った事件であることが判る。となると、上記の「Uターン」のような表現に合致する。

通説は「南」から難波津で東北方向に「曲がった」と言う。淀川沿いに進めばその通りである。「車線変更」であり、「右折」でもない。ましてや「山城」に向かうなら「Uターン」して何処に行く?…である。通説の木国、難波津、山代、葛城の四地点の位置関係に誤謬があるのは明らかであろう。

「后」の船は難波津(御津)で左方向「Uターン」し、「山代川」の先にある堀江に入った。そして前方に見える「御所宮」を見て詠った。紛うことなく「山代川」=「犀川(今川[])」である。今川から御所ヶ谷神籠石跡及びその麓まで、直線距離で2~3kmである。

「避」けるようにすり抜けて、御所ヶ岳山塊の「背後を流れる川」を遡った。詠われた場所及びその内容からして「宮」の場所は御所ヶ岳山塊の北麓にあったことを示唆していると思われる。


芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母
=その(椿の)葉が広がっているのは大君の呂(露台:宮殿の屋根のない所)かも

と解釈される。山代川に浮かぶ船上から高津宮を眺めながら椿が茂る場所を示していると思われる。宮殿の在処を知らない筈のない大后である。離れて見る椿の咲くところは「呂」と表現している。

この歌の持つ現実感が漸くにして紐解けたようである。今川(山代川)を遡りながら前方に見える光景から「難波之高津宮」は御所ヶ岳山塊北麓以外にはあり得ないと結論付けられる。

卽自山代廻、到坐那良山口歌曰、
都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理
[それから山城から廻って、奈良の山口においでになつてお歌いになつた歌、
山また山の山城川を御殿の方へとわたしが溯れば、うるわしの奈良山を過ぎ 青山の圍んでいる大和を過ぎわたしの見たいと思う處は、葛城の高臺の御殿、 故郷の家のあたりです]

「山口」=「那良山口」=「平山口」である。彦山川と中元寺川に挟まれる「平原」である。現在の赤村辺りで犀川が大きく曲がる所で下船したのであろう。続くは、枕詞「あおによし」、現在の「田川市奈良」を素通りし、枕詞「小楯」=「青山の囲んでいる」そうでしょう…「倭」=「田川市香春町周辺」を横目で見て、特に「山口」もなく進めば「我が故郷」、と詠っておられる。

大后の父親は建内宿禰の子、葛城長江曾都毘古である。彼が居た場所は「葛城の玉手」現在の田川郡福智町常福辺りと比定した。
「我が故郷」の「葛城高台御殿」は玉手の岡と呼ばれた高台にあったと推定される。上記の歌は「那良山口」から眺めた景色を写実していると思われる。

大后は歌を詠った後、また「Uターン」して筒木韓人の奴理能美の家に入ると述べている。山代の大筒木にあったと推定される。現在の京都郡みやこ町犀川木山辺りである。行ったり来たりの行動で大后の心の内を表現したのであろうか・・・。


纏めて図示すると(参考:通訳ルート)


<参考>

伊邪本和氣命(履中天皇)

もう一つの説話、伊邪本和氣命が命辛々の逃亡劇に関する。

本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、
多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆
到於波邇賦坂、望見難波宮、其火猶炳。爾天皇亦歌曰、

波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多
[はじめ難波の宮においでになった時に、大嘗の祭を遊ばされて、御酒にお浮かれになて、お寢
なさいました。ここにスミノエノナカツ王が惡い心を起して、大殿に火をつけました。この時に大和のの直の祖先のアチの直が、天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになて、目がお寤めになて「此處は何處だ」と仰せられましたから、アチの直が申しますには、「スミノエノナカツ王が大殿に火をつけましたのでお連れ申して大和に逃げて行くのです」と申しました。そこで天皇がお歌いになた御歌、 
タヂヒ野で寢ようと知たなら屏風をも持て來たものを。寢ようと知たなら。 
 ハニフ坂においでになて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。そこでお歌いになた御歌、 
ハニフ坂にわたしが立て見れば、盛んに燃える家々は妻が家のあたりだ]

墨江中王の策略に嵌りかけた伊邪本和氣命が部下の機転で逃げ延びようとした時の説話である。この中で最も重要な言葉は歌中に含まれている。「迦藝漏肥=カゲロヒ=曙光」である。陽炎と訳されるが(武田氏は「盛んに」である)、「毛由流=燃ゆる」に掛かる言葉として、東の空に見える明け方の光の赤々とした情景の描写と解釈される。

ならば、伊邪本和氣命一党は「西に逃げた」と推測される。既に解読したように「多遲比野」を経て「波邇賦坂」に至り、そこで詠んだ歌である。下図に示すように難波之高津宮を御所ヶ岳北麓に置いたとしてその位置を示すと見事に当て嵌まる場所を示すことができる。

多遲比野」=「田が治水されて並べられた野」波邇賦坂」<追記❶>=「埴生坂」垂仁天皇紀で述べた山代大國之淵之女・苅羽田刀辨の苅羽田」=「草を刈った埴田」に通じる道である。<追記❷>では、「高津宮」の在処は何処であろうか?…


高津=高い所にある津(川の合流地)

現在の御所ヶ谷住吉池公園の近隣にある住吉神社辺り(図中+上の⛩)と推定される。漸くにして辿り着いた宮の場所、墨江中王によって放火されたところであり、後代の天皇達もここに宮を造ることはなかったようである。近淡海国に広がる平野を眺めながら国の繁栄に努めた天皇であった。

纏めて図示すると下記のようになる。峠から燃え上がる家々までの距離は約1.5km、十分に目視できる距離と思われる。



途中でも述べたように従来よりの解釈では上記の説話の理解は不可能である。方位もさることながら実距離としての現実味が浮かんで来ない。地名ありきで古事記を解釈して来たのが実態であろう。あたかも地図の概念の欠片もないような、いやあったがその理解が不能な後代の人々が様々な古書から引っ張り出して地名比定を行ったことから抜け出せていないのが現状と理解すべきであろう・・・。

…全体を通しては「古事記新釈」の仁徳天皇【后・子】を参照願う


<追記>

❶2017.11.26 「蝮の反正天皇 〔129〕」より抜粋。


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けない・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書

であることを確信した。

❷2017.12.06
古事記は「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」という文字区切りをしていると判った。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽田」とは?…、


苅羽・田=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・田

「羽の形をした地の一部を刈(切)り取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

また意祁王・袁祁王の二人が逃亡する際に登場する「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽・井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。




思い起こせば「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」では埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。