2017年6月19日月曜日

垂仁天皇:御子達の活躍-その弐-〔052〕

垂仁天皇:御子達の活躍-その弐-


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
大中津日子命、小碓命に劣らぬ活躍であったが、知名度は低い。だが地元での人気は未だにしっかり残っているようでもある。日本書紀など改名もいいところ、ほぼ抹殺に近い。彼が残した足跡は後代に引き継がれ、国の発展に大きく寄与したことを此処に書き記しておこう。

それに加えて他の御子達も存分の活躍をしていることがわかる。それも併せて紐解いてみよう。暇が取り柄の老いぼれにしては、地名が残ってるという楽しみもある。また、この時期の御子達、姫達の命名が正しく地形象形的であることも嬉しい限りである。

「活躍」に入る前に一名の御子の名前が地名を意味していたのを見逃していた…

旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音

「印色」で、「以音」とある。旦波国の中に「印色(イニシキ)」に類似する地名を探すと「錦」という町名が残っていることがわかった。今の町名ではなく、かつての、というべきであろう。現在の福岡県京都郡みやこ町豊津に含まれているが、コンビニ「7-・豊津錦町」とある。またもう少し南に下って「錦ヶ丘」という地名もある。

旦波国内の仲津(氷羽州)、沼羽田、呰見ときて、最も西に位置するところであろう。犀川の東側河口付近となる。この国の領域が朧気ながら見えてきた。この御子の活躍は既に記述した通り、池、刀作りの名人、「鳥取」の川上の住人となった、職人気質?の御子である。景行天皇、大中津日子命の長兄に当たる。

さて、旦波国の次は「山代国」、とりわけ「山代大国」の比賣達である…

小月之山・三川之衣

山代大國之淵之女・苅羽田刀辨の御子、落別王は「小月之山」「三川之衣」君の祖となる、と記載されている。この二つの在処について考えてみよう。既にわかっている「三川」の地に「衣」という地域がある、と言っている。「衣(ころも)」=「許呂母」、前記の逆である。やはり「襟(元)」の象形と考える。

現在の足立山の南西麓、湯川及び現在は沖積で埋もれたと思われる川とが作る三角州を指す(山稜の端の三角州)、と思われる。現地名は北九州市小倉北区湯川である。ところで「三川」にはもう一つの地域があると記載されていた。三川の「穂」である。開化天皇紀に上記の美知宇斯王の御子、朝廷別王が「三川之穗」別の祖となったとある。

「穂」の解釈は既に幾度か出会ったが、三本の川が付けば、穂先、筆先の形であろう。二つの穂先の象形と思われる。三本の川を表す三川の「穂」の場所は、川に挟まれたところ、現在の同区湯川新町・若園蜷田辺りとすることができる、といっても言っても当時とはかなり変化しているものと思われるが・・・。

この地は現在の地名と見比べると非常に面白い。愛知県の三河地方、律令制後にあった「三河国」には東の豊橋、豊川(穂の国と現在でも言われる)と西の豊田がある。世界の豊田は「挙母(ころも)」と言われた地で、現在にもいくつか地名が残っている。上記そのものである。

<三川之衣・小月之山>

に「豊」が付く。本ブログで紐解いたように「三川」の地は「筑紫嶋」の筑紫国謂白日別と豊国謂豊日別の分かれ目である。豊国の先端にある場所である。

現在の三河地方に「豊」の文字を今に残す所以のように思われる。「挙母」も消さずに…宜敷く、です。

朝廷別王の母親が丹波之河上之摩須郎女、「摩須」=「井」と解釈すると、祓川上流の現在地名、京都郡みやこ町犀川木井馬場であろう。纏めの図に示した。

三川の地の詳細が見えてきたら、「小月」が雲間から見えるようになった。「小」は「小(倉)」「小(河)」であろう。「小月」=「小が尽きる」ところ、「小月之山」は現在の小倉北区赤坂の手向山辺りと思われる。

既に神功皇后の記述の際に出てきた「筑紫末羅縣之玉嶋里」近隣であろう。この地はどうすることもできないどん詰まりの場所であった。

羽咋・三尾


其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨の御子、石衝別王は「羽咋」及び「三尾」君の祖となったと記述されている。

全くの情報なく、象形であること、二つはかなり近いところ、そして山城国から遠くないところと考えて探索する。

「三尾」は三つに分かれた山稜の麓であろうし、「羽咋」は喰われた羽の形状で、それなりに見分けやすいと判断する。

「羽」の象形は、羽先の凹凸の状態であろう。大きな山稜ではなく丘に近い、小さな谷に刻まれた…京都郡みやこ町豊津の二月谷があるところ、犀川に接している。

上記の「錦ヶ丘」に近接した場所である。地形象形的には極めて合致したところとわかる。「三尾」も地形的には有力な場所がある。現在の同町光富辺りである。「羽咋」とは祓川を挟んだ対岸にある場所である。

御子達の配置は以上であるが、比賣の名前で少々気になったことを、ついでに・・・。

布多遲能伊理毘賣命・布多遲比賣

倭建命の后となった二人の比賣の名前に「布多遲」がある。「多遲」=「多治」=「多くの川が寄せ集められたところ」=「多くの治水された田」と理解してきた。これに「布」が付くことによって更にその光景を思い浮かべることが可能である。

「布多遲能伊理毘賣命」が居たところは、現地名京都郡みやこ町上原布引というところがある。まさか、ではあるが…。「布多遲比賣」は父親の名前、近淡海之安國造之祖意富多牟和氣からすると現地名京都郡苅田町片島辺りであろう。河川の下流域における治水が大きく進展したことを述べていると推察される。

「布を敷き詰めたように」現在なら「絨毯を敷いたように」とも解釈できそうである。水田に水が張っている状態を上手く表現しているものと思われる。そして「多治」の解釈との整合性も確信することができた。

ついで、ついでに「苅羽田」も・・・。

苅羽田<追記>


国際空港「羽田」の由来かどうかは知らないが、由来の中の一つに「埴田」が変化したもの、という記事があった。当たり、と思われる文字を見つけると、ホッとするのである。「苅羽田」=「苅(草木を刈った)埴田(粘土質の田)」である。

比賣達が生まれ育った場所、山代之大国は急傾斜の山裾にも関わらず見事な水田に変えられていた、ということであろう。御子達の名前に土地情報を埋め込む、あたかも遺伝子のごとく…安萬侶くん、読む方はかなり疲れるよ・・・。

本件、本ブログが走り始めた「履中天皇」の逃亡劇、そこにあった「波邇賦坂(埴生坂)」<追記>に密接に関連する。想定したルートはこの「埴生坂」を越えたところが「山代之大国」の裏に当たる。垂仁天皇紀に、既に、その先は「埴田」と記していた。なんとも周到な記述である。「多遲比怒」と併せて、本ブログの逃亡ルート、確信に至った。

その-壱-、-弐-纏めの図、参考までに…


大中津日子命により、南北ラインの南限北限を「言向」て、その後の東西への拡張への兵站基地としての場所を確保した、と述べていると解釈した。言うのは簡単だが大変な作業であり、返す返すも彼の後裔の記述がないのが残念である。が、それは言っても仕方ないことで今回はどうであろうか?

これも極めて明確である。「小月之山」では北の玄関ともいえる、淡海の窓口、後の「赤間」を押さえたのである。続く「三川之衣」「三川之穂」と併せて交通の要所である。筑紫国と豊国との境であり、敵の侵入もさることながら、自らが通過する時にもその地における情報は欠かせない処である。

「羽咋」とは何とも言えない名称であるが、「犀川」の河口付近に位置し、上記同様の戦略地点であろう。「三尾」は「祓川」「城井川」の下流にあり、網目の川が流れていたところと思われる。いずれにしてもヒト、モノの行き交う要所であったことは疑えない。

また、この時点においては「難波津」の役割は低く、やはり仁徳天皇による港湾整備事業が完成するまでは「難しい波の津」に過ぎなかったことが推測される。近淡海国はそうして初めて多くの人を受け入れる地になったようである。現在の豊前(京都)平野の大きさからは予測困難な有様、だったのであろう。

企救半島東側(科野~都久波)、福智山西麓(葛城)、御所ヶ岳南麓(山代)加えての近淡海国、人が住めないところに渡来して開拓した、殲滅駆逐するのではなく「言向和」することで道を切り開いて来た。DNAハプログループの世界に類を見ない多様性、暇が取り柄の老いぼれは、心の底から、誇りに思う今日この頃である。

…と、まぁ、こんな具合で地名ピースをボチボチと・・・。

<追記>

2017.11.26 「蝮の反正天皇 〔129〕」より抜粋。


波邇賦坂

「多治比之柴垣宮」の在処が解けたからこそ辿り着いた納得の解釈、そんな大袈裟なものではないが、本当のところ、かもである。「波邇」=「波(端)|邇(近隣)」を意味することまでは容易であったが、何?の端、近隣かが不詳であった。これでは解けないが・・・「何?」は「多治比之柴垣宮」と気付いた。また…、

賦=貝(財)+武(武器)

…財(必要なもの)と武器を持って戦いに行く時を表した文字と解釈される。古事記のこの段の徹底した「説文解字」に準じると…ならば「波邇賦坂」は…、

波邇賦坂=柴垣宮の傍近くで戦闘に向かう時の坂

と紐解くことができる。勿論この時は真面に戦う気持ちであった筈で「弾碁」戦法に気付くのはこの坂を下りてからである。曙光を見て愕然としメラメラと湧き上がって来る怒りを抑えて大坂山口で出会った女人の言葉で初めて気付く戦法であったと古事記は記述する。

全てが生き生きと蘇って来る。そのドラマチックな記述を読取れなかったのを後代の識者の所為にばかりできないであろう。漢字というものの原点、というか使う漢字を自由に分解して、古代であっても、通常の解釈に拘泥することなく文字が伝える意味を作り上げていく、驚嘆の文字使いである。間違いなく…、

古事記は世界に誇るべき史書


であることを確信した。

2017.12.06
古事記は「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」という文字区切りをしていると判った。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽田」とは?…、


苅羽・田=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・田

「羽の形をした地の一部を刈(切)り取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

また意祁王・袁祁王の二人が逃亡する際に登場する「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽・井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。




思い起こせば「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」では埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。