ラベル 旧・新唐書東夷伝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 旧・新唐書東夷伝 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年1月10日金曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅲ) 〔389〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅲ)


2. 新唐書東夷伝

Wikipediaによると「『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。」と記され、唐末の戦乱の影響で資料的に欠落部が多かったのが宋代になって見出された資料を加えて纏められたとのことである。尚、日本語訳はこちらを参照。

新唐書東夷伝(日本伝)…、

日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿每氏、自言、初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極。其俗、椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦。婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦綫冠、飾以金玉。文布爲衣、左右佩銀蘤、長八寸、以多少明貴賤。

太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司、毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表、往諭。與王爭禮、不平、不肯宣天子命而還。久之、更附新羅使者、上書。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。獻虎魄大如斗、碼碯若五升器。時、新羅、爲高麗百濟所暴。高宗、賜璽書、令出兵援新羅。未幾、孝德死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦、亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十步、射無不中。天智死、子天武立。死、子總持立。咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以爲名。或云、日本乃小國、爲倭所幷、故冒其號。使者、不以情、故疑焉。又妄夸。其國都、方數千里。南、西、盡海。東、北、限大山。其外卽毛人云。

長安元年、其王文武立、改元曰太寶。朝臣真人粟田、貢方物。朝臣真人者、猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華蘤四披、紫袍帛帶。真人好學、能屬文、進止有容。武后、宴之麟德殿。授司膳卿、還之。文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。開元初、粟田復朝、請從諸儒受經。詔、四門助教趙玄默、卽鴻臚寺爲師。獻大幅布爲贄。悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿、慕華不肯去、易姓名曰朝衡、歷左補闕、儀王友。多所該識。久乃還。聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。天寶十二載、朝衡復入朝、上元中、擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道、更繇明、越州朝貢。孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。建中元年、使者真人興能、獻方物。真人、蓋因官而氏者也。興能、善書。其紙似繭而澤、人莫識。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海、願留肄業。歷二十餘年、使者高階真人來請、免勢等俱還。詔可。次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。

其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云。

…『旧唐書』には「倭國伝」と「日本伝」の二本立ての記述であったのが「日本伝」のみとなっている。また天御中主から始まる皇統の記述が、些か誤字、衍字もあるが皇極天皇まで列記されているのも、それまでの中国史料とは大きく異なる内容を示している。度重なる遣唐使の派遣で「日本國」の有様が伝えられたものと思われる。

とは言え、伝えらた天皇名は所謂「漢風諡号」であり、『隋書』に登場する阿毎多利思北孤阿輩鶏彌の名前は用明天皇の別名として記載されている。上記したように誤字、衍字が多数見られる史書であることから、『新唐書』の資料的価値を低く見て、この記述を真面に取り上げられていないのが現状であろう。

「漢風諡号」は淡海三船によって西暦762~4年に一括撰定されたと”想像”されているが、それ以前にも見受けられており、曖昧さが拭い切れないようである。言い換えると『新唐書』の諡号が誤りだと言い切れない部分もあることになる。正史『日本書紀』の記述を鵜呑みにすることだけは避けたいものである。

『隋書俀國伝』及び『旧・新唐書東夷伝』の解釈が学術的に行われていないのは、史料批判に耐えないものではなく、寧ろそれらが記載する内容、即ち『日本書紀』などに記される内容との齟齬が大きいように思われる。簡単に言えば、相変わらず通説から外れた論考には学術的価値は無いという風潮なのである。

――――✯――――✯――――✯――――

初主號天御中主、至彥瀲、凡三十二世、、皆以尊爲號、居筑紫城。彥瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州と記されている。少々補足的に述べてみると・・・。

『古事記』によると彥瀲=天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命である。確かに神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の父親に当たる。神話風に記述された『古事記』では凡三十二世を辿ることは不可のようである。祖父である火遠理命(日子穗穗手見命)が五百八十年間在位したと伝えているが、個人が、ではなく世襲名でそれくらいの年数とすれば、三十世代が経過したのかもしれない。

『古事記』は邇邇芸命以下鵜葺草葺不合命が坐した地を竺紫日向と伝える。その中心にあったのが高千穂宮である。「筑」と「竺」はそれらの文字が示す場所が全く異なることを『古事記』が記している。それが読み解けていない現状では、「筑紫」=「竹斯」となってしまうのである。『隋書』に登場する竹斯國=竺紫日向である。『新唐書』の撰者は「日本國」の遣使の語るところに拠って、彼らが言う「日本國」は神武天皇以来奈良大和に移ったと…史実に基づくことだと主張したであろう。

――――✯――――✯――――✯――――

仲哀死、以開化曾孫女、神功爲王。勿論「三韓征伐」のような記述はないが、「王」と記したのは日本側も「神功天皇」とは告げなかったからであろう。開化天皇及び新羅王子の天之日矛の末裔である。『宋書』には別名「息長足姫」が記載されている通り、正確さには欠け、不十分ではあるが皇統の重要なところは記述されているようである。

欽明之十一年、直梁承聖元年。梁の承聖元年(西暦552年)である。此の頃、百濟を経て仏教が伝わったと知られる。仏教公伝の年次については西暦538 or 552年など幾つかの説があり、またそれ以前にも私的には伝わっていたこともあって、年次の重要性は低いと言う説もある。これに関連する『日本書紀』の記述にも怪しげなところがあると指摘されており、不祥な様相である。唐突に記された「欽明之十一年、梁の承聖元年」は何を示そうとしたのであろうか?・・・。

南朝の梁とされることは三国・南北朝時代を経て隋(西暦581~618年)が統一を果たす前の時代である。西暦220年まで続いた後漢から三百数十年間の群雄割拠時代の末期に当たる。「倭國」関連は、漢代の建武中元二年(西暦57年)に始まり、三国時代の魏代(西暦220~265年)に盛んな朝貢が行われたと伝えられている。晋代では泰始元年(西暦265年)の前後に幾度となく朝貢したと記されている(晋書倭人伝)。

およそ百年間の空白を経て宋代になると「倭の五王」として登場する。既述したように上記の「倭國」とは異なる国(朝鮮半島南部、所謂加羅辺りか?)と推定した。即ち次に登場するのは『隋書』の開皇二十年(西暦600年)の「阿毎多利思北孤」の遣使ということになる。『旧・新唐書』は宋代における「倭國」との関わりを略しているのである。

『旧唐書』では空白のように思われたところも(別伝で記述されていたが)、次の段「永徽初・・・」で纏められている。要するに西暦265年からおよそ百三十数年間は「倭國」との関わりを確信するには至らなかったことが伺える。中国における南北朝時代は、朝貢はなかったと見做しているのであろう。「倭の五王」の国の系列が「倭(奴)國」→「俀國」→「日本國」と繋がる系列とは異なることと矛盾しない。

確実な情報として欽明天皇十一年(西暦552年)梁(元帝)の時代であったことを明示しているのであろう。それでも、何故十一年やら西暦552年のピンポイントの年を示したのであろうか?・・・西暦552年は特別な意味を持つ年だったからである。日本に仏教が公伝しただけではない。

末法思想を調べると、日本での末法の始まりは、西暦1,052年、平安末期に当たるとされる。がそれは日本独自の末法であって、中国では西暦552年がその始まりと伝えられている。仏滅は紀元前949年、それから正法500年、像法1,000年を経て西暦552年から末法になったと知られる。

日本に伝わった時には末世の時代、暗黒の世の中に入っていた。故に500年後ろ倒しにしたのである。『新唐書』の撰者の”皮肉”った表記が欽明之十一年、直梁承聖元年。であったと読み解ける。空海他、多くの学問僧を送り込み、遣使も甚だ有能で優雅な物腰を示す東夷の国に対する嫌味っぽい表現であろう。

次海達。次用明。亦曰、目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女、雄古立。次舒明、次皇極」天皇名に多くの誤りが見受けられる。また目多利思比孤は『隋書』の多利思北孤と思われるが、「目」が加わり、「北」が「比」となっている。雑な記述ではあるが、述べていることは伝わって来るようである。『隋書俀國伝』のところで詳細に述べたのでここでは省略する。重要な「用明」=「多利思北孤」の記載である。

永徽初、其王孝德卽位、改元曰。白雉。永徽初(西暦650年)に孝徳天皇が即位して元号を「白雉」としたと述べている。『旧唐書』…永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上…に関連する記述もある。少し後に「咸亨元年(西暦670年)、遣使賀平高麗」と記述され、同様に『旧唐書』の「倭國伝」にはなかった記述がある。

孝徳天皇から持統天皇に関わる記述であろうが、名称の異動もさることながら、『日本書紀』では入組んだ系譜となっているのだが、極めて簡単に親子関係の記述となっている。全て子が引き継いだ皇位継承である。これは日本側が複雑さを知って敢えて簡単に伝えたのであろう。中でも孝徳天皇の前の皇極天皇の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」と知られている。

孝德死、其子天豐財立」確かに『日本書紀』では皇極天皇が斉明天皇として継承するように記述されている。勿論「其子」ではない。伝えた者が漢風諡号を知らなかったのか、敢えて言わなかったのかは不詳である。西暦645年に起った「乙巳の変」と言われる事件以降の政権の揺らぎは相当大きくあった様子が背景にあると推察される。

そして長安元年、其王文武立、改元曰太寶。と記述は飛ぶ。長安元年(西暦701年)、文武天皇が即位して元号を大寶としたと述べている。続いて文武死、子阿用立。死、子聖武立、改元曰白龜。と記す。白龜は神亀(元年:西暦724年)の誤りか?…『旧唐書』に「白龜元年調布」が登場するが、それに惑わされたのかもしれない。更に聖武死、女孝明立、改元曰、天平勝寶。と記述されているが、孝謙天皇(女帝)の元号(元年:西暦749年)である。

孝明死、大炊立。死、以聖武女、高野姬爲王。死、白壁立。大は淳仁天皇の諱である。称徳天皇(孝謙天皇:異名「高野天皇」の重祚)及び光仁天皇の諱が白壁。漢風諡号と諱が混在した表記ではあるが、系譜として齟齬はないようである。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝。貞元(西暦785~805年)であり、桓武天皇の在位が西暦781~806年だから、かなり情報確度が上がっている様子である。

次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明。仁明直開成四年、復入貢。仁明天皇が在位していた開成四年は西暦839年に当たる。次文德、次清和、次陽成。次光孝、直光啓元年。光孝天皇が在位していた光啓元年は西暦885年である。史書編纂の時期に近付けば、日本側の史料との齟齬が少なく確度が増しているようである。天皇系譜は宮内庁の資料を参照。

『旧唐書』に記載された遣使及びその随行者の記述もあり、中でも朝臣真人粟田の記述が多く見受けられる。武后(則天武后)のお気に入りの人物であったことが伺える。いずれにしても『旧・新唐書』に記載された内容は極めて重要な意味を有しているのであるが、学術的な検討の影が薄く感じられる。「日本國伝」と一本化されてはいるが、やはり「空白」が存在する。それを突き詰めてこそ「日本國」の成立ちが白日の下に浮かび上がって来るのではなかろうか。

――――✯――――✯――――✯――――

最後に「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州。有絲絮、怪珍云」と記されている。この地理的表現は、「日本國」の在処は九州島であると述べているようである。「俀國」と表記された過去の史書をそのまま引き継ぎ記述したようにも伺えるし、また「日本國」の使者が主張したことをそのまま記載したようでもある。使者達は、決して奈良大和の地理的状況を伝えることはしなかった、のであろう。命懸けで入朝し、命懸けで使命を果たしたと思われる。(2020.01.10)

――――✯――――✯――――✯――――


2020年1月5日日曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ) 〔388〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅱ)


引き続いて旧唐書東夷伝の後半部分を読み解いてみよう。いよいよ「日本國」の登場である。


日本國

「倭奴國」、「倭國」、「俀國」に続く名称、中国史書の撰者にとっては、今一掴みどころのない国名変更のようにも思えるが、彼らは辛抱強く付き合ってくれたようである。「日出處天子致書日没處天子無恙云云」などと小生意気な文を述べたりするが、極東最果ての地を抑えることは中国本土の国にしても価値があったのであろう。「隋書」は彼らの大人の対応を記している。

貞觀二十二年(西暦648年)の遣使を最後に音沙汰がなかった、勿論その時点で唐は大帝国になっていたが、長安三年(西暦703年)に、今度は「日本國」として遣使したと告げている。該当部分を再掲する。

旧唐書東夷伝(抜粋:日本語訳はこちらこちらなどを参照)…、


日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。

どうやら遣使の態度は尊大で、中国側は「倭(俀)國」の時の控え目な態度とは大きく異なったように受け取られたようである。「日出處天子・・・」を引き摺っていることは間違いなかろう。

「又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」と記載されている。勿論遣使の言葉そのままであって実地検分したわけではない。かつては、「倭國在百濟・新羅東南、⽔陸三千⾥、於⼤海之中、依⼭島⽽居」と記述されていた地形とは全く異なっていることが解る。「毛人之國」が登場する。

里数は不確かであろうが、西と南に海があって東と北が山に囲まれた地形をしていると述べている。日本國は日本列島全体では決してなく、紀伊半島及び岐阜県南部・愛知県西部の地域を示しているのではなかろうか。すると毛人之國は、岐阜県北部及び愛知県東・北部から存在していたように受け取れる。いずれにしても簡略な記述故に様々に解釈されるが、長安三年(西暦703年)の日本國成立時における地域を示しているように思われる。

遣使が朝臣真人と記載されているが、「粟田真人」とされ、「春日粟田百済」の子と言われる。「春日粟田」は、『古事記』で御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)が尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命を娶って誕生した長男坊である天押帶日子命が祖となった地、粟田臣に登場する。現地名は田川郡赤村内田小内田辺りと推定した。

春日は、同じく天押帶日子命が祖となった地で、元々は邇藝速日命が「哮ヶ峰」に降臨した後に「鳥見之白庭山」(戸城山)に移り、その北西麓の地(赤村内田)を示す名称である。その更に西側に「丸邇一族」が隆盛する(田川郡香春町柿下)。皇統に関わるところでもあり、多くの有意な人材を輩出した地である。

物腰は温雅で経書・史書を好んで読むとのことで則天(則天武后:中国では武則天、中国史上唯一の女帝)に気に入られたのか手厚くもてなされた様子が記述されている。『隋書』の記述以降の「倭國」の急速な発展を伺い知ることができる内容である。

『隋書俀國伝』は遣使の名前を伝えないが、従来より「小野妹子」とされている。「近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身」とWikipediaに記載されている。勿論上記の天押帶日子命が祖となった小野臣(現地名は田川郡赤村内田小柳辺り、「粟田」の北隣)に出自を有する人物であったと推定する。「春日」の地に関連する人材が遣使の役割を果たしていたことを伝えている。
 
白龜元年調布

開元初(西暦713年)の遣使は、儒学者にによる経典の教授を請願したと述べている。学ぶことへの飽くなき要求は既にこの時点で明らかであろう。その返礼に白龜元年調布の話題が登場する。何じゃこれは?と言われるところ、後の解釈も様々である。こんな元号は「九州王朝」にも無いとか、例によって誤写だとか、もったいない解釈が横行していようである。

白龜」を調べると、中国の故事に「白亀の恩」と言うのがあるとのことである。晋書(唐の太宗の命により編纂、西暦648年)に記載された物語に由来する。するとこれは元号ではなく、実に洒落た「調布」(租税:租庸調の布)を意味することになろう。

経典教授の返礼に名付けた布、恩に報いることを示している。しかも晋書に記載された内容を踏まえていることを表しているのである。あらてめて白龜元年調布の文字列を眺めると、報恩元年の貢ぎ物としての意味が伝わって来る。洒落た、では真に失礼な解釈であって、日本國の”知性”を顕在させている。

またそれを「人亦疑其偽」と受け流す旧唐書の撰者の”知性”を表す記述と思われる。「恩に報いることの始まりって、本当かい?」「大丈夫だろうね?」って気持ちを表している。近隣諸国とは、こんな遣り取りで付き合うことが肝要なのかもしれない。

所得錫賚、盡市文籍、泛海而還」昭和三十年代の高度成長期の日本であろう。学ぶことへの貪欲さが薄れては日本は成り立たない国である。そして白龜元年調布のような文言を携えて教えを乞う姿勢が肝心であろう。それにしても「元号」に有るとか無いとかを論議しているようでは国の行く末が案じられる。類似の考察をされているサイトがある。
 
朝臣仲滿

その時の副使に朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)が居たと伝える。Wikipediaには「阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。唐名を「朝衡/晁衡」(ちょうこう)とする。唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した」と記載されている。

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀の大毘古命の子、建沼河別命が祖となった阿倍臣に出自があると思われるが、当人は一族がその地を離れた後に誕生したのではなかろうか。遣使の中でも一際優秀な人材であったようである。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護」と記され、上元中(西暦760~2年)には、皇帝の側近となり、現在のベトナムの北・中部を統治する長官に抜擢されたと伝えている。

在唐中の天寶十二年(西暦753年)にも遣使があり、藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備他だったようである。凄まじいばかりの中国詣であったが、日本書紀などでは彼ら遣使の命懸けの様子が語られている(Wikipedia参照)。貞元二十年(西暦804)には「留學生橘逸勢、學問僧空海」が記載され、開成四年(西暦806年)の遣使で旧唐書の記述は終わりを告げている。

空白の五十年

貞觀二十二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)までの五十有余年間、遣使の記述が見られない。『旧唐書』の百濟國に関する記述に「倭衆」という表記が登場する。「倭國」として最後の遣使の後、僅か十年余りで百濟國は滅亡する(西暦660年)ことになる。新羅國の策略がまんまと成功して唐と組んで百濟國を殲滅してしまうのである。

この当たりの政略は実に見事であろう。後に朝鮮半島を新羅國が統一するのであるが、その伏線として、重要な出来事が連続して起こることになる。中国は隋代から高句麗には随分と梃子摺っていたが、南の百濟國を手中に収めることによってついに滅亡させる(西暦668年)。百濟國滅亡から十年経たない内に成遂げられたのである。極東における新羅國の存在が大きくクローズアップされた時代であろう。

そのような時代背景の中で「倭國」は「日本國」へと変貌したのである。『日本書紀』には『旧唐書』に記載された以外の幾つかの遣使を述べ、「白村江」での百濟・倭連合の大敗(西暦663年)、壬申の乱など、なかなか賑やかに伝えている。「白村江」の戦いは、『旧唐書』の「倭國」関連では「空白」である。上記したように、これに関連する記述が『旧唐書』の百濟國関連の項にある。

抜粋して引用すると…、

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌倭兵白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊衆大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等、率士女及倭衆幷耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順、賊帥遲受信據任存城不降。

…簡明な記述であり、仁軌(劉仁軌)に投降したのは参戦していた倭兵(衆)である。白江は「白村江」とされている(現地名の比定は未達)。即ち唐はこの事件を「倭國」との関係とは見做していないと思われる。飽くまで百濟國関連であり、そこに応援部隊としての「倭人」が存在しても意に介せずの態度を示していると思われる。一方の『日本書紀』は何万もの大軍で支援した格好を取り、更に戦後処理で登場する郭務悰を迎え入れた様子が記載されている。

同一の事件を関係する国によって異なる取扱いがあっても何ら不思議ではないが、『日本書紀』の取扱いには些か不自然さが感じられる。当時にそれだけの兵力を動員する財力があったのか、また奈良大和を中心として軍船の手配及び朝鮮半島を経由せずに直接中国に向かうことが可能であったのか、など幾つも列挙できるが、憶測の域に入るのでこれで止めることにする。

一方中国史書の方は、撰者が参考にしたと思われる『旧唐書』以外の史書、例えば『唐会要』(この書の元になったものを含め)などには「倭國」に関連する記述が散見されるようである。

永徽五年(西暦654年)に「倭國」が琥珀、碼碯を献上して、その立派なのに高宗が喜び、危急のことがあれば、助けよと述べた。

顕慶四年(西暦659年)に「蝦夷國」を「倭國」の遣使が伴って来た。

・・・<百濟國滅亡(西暦660年)・白江戦(西暦663年)・高句麗國滅亡(西暦668年)>・・・

咸亨元年(西暦670年)に「倭國」が高句麗征伐を祝して遣使を送った。

『日本書紀』に記載された時期、内容も概ね合致しているようであるが、正史『旧唐書』の「倭國伝」からは抹消されている。上記の「劉仁軌伝」登場の「倭兵(衆)」ではなく「倭國」からの遣使と認識しながら未記載なのである。

中国側から見れば隋代では「俀國」と名乗り、元々は「倭(奴)國」だと主張し、派遣した使者はその地にまるで中国と変わらないような人々が住まい(秦王国)、遣使はそれぞれなかなかの人物で皇帝にかわいがられるような有様、要するに”曲者”の雰囲気を醸し出していると見ていたのであろう。

そして唐は新羅國と手を結んで百濟・高句麗國を殲滅させる戦略をとる中で百濟國への支援に走った「倭國」に大いなる不信が募っていた時代であったと思われる。「倭國」の様子を伺う時期であり、さりとて「新羅國」の抑えには「倭國」が必要であり、距離を置いた関係を保つ戦略を採用したと推測される。それは更に「倭國」への無言の圧力として作用したのである。

中国史書には登場しない「郭務悰」が派遣されて来るが(西暦664~9年)、戦後の占領統治策を講じるわけでもなく、朝鮮半島南部及び倭國の実情査察を主たる目的にしたのではなかろうか。勿論「倭國」はおっかなびっくりの状況ではあったと思われるが・・・。詰まるところ、本当の意味での「空白」の時期は、西暦672~703年の三十二年間と見積もられる。天智天皇から文武天皇の期間に当たるようである。

いずれにしても660年の百濟國滅亡は、「俀國」に住まう「天神族」にとっては大変な出来事であった筈で、唐の侵入もさることながら新羅國の勢いを防ぎ切れない様相を感じ取っていたのであろう。彼らは更に「東へ」と逃亡する、その重要な動機付けになったと推測される。勿論「倭衆」が大移動するためのプロパガンダの役割を持たせていたのである。



2019年12月28日土曜日

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅰ) 〔387〕

『古事記』で読み解く『旧・新唐書東夷伝』(Ⅰ)


Wikipediaよると…、

完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。

…と記されている。何せ極東から中央アジアまでを統一した大帝国であり、その記載量は膨大なものになるのは当然の結果と思われる。更に拡大膨張したとは言え物理的に全土を支配するには困難な状況故に決して安定した統治でもなかったことが伝えられている。


とりわけ東夷となれば、その情報の収集・検証に割く時間も少なかったであろう。「隋」の時代からもその兆候は見え隠れしており、かつ東夷そのものも激動の様相であり、情報の時間的変動も加わっていたと推測される。


そんな背景の中で『古事記』の読み解き手法を適用してみることにした。とは言え、その範疇を大きく逸脱した時代である。どこまで通じるか、憶測の領域を突き進むことになる。



1. 旧唐書東夷伝

『隋書俀國伝』に続いて『旧唐書東夷伝』に登場する「倭」に関係するところを抜き出してみると、『隋書』で記された「俀國」(但し「俀」は使われず「倭」となっている)、更に「日本國」という表記が登場する。中国史書には「倭奴國」、「倭國」、「俀國」、「日本國」の四つの国名が揃うことになる。

未だに王道を歩く、「邪馬壹國」が奈良大和にあったとする説を唱える人達にとっては、単に名前を変えただけのことと簡単に片付けられているようだが、各中国史書に記された付随する詳細な、かつ重要な記述の相違などが全く無視されているようでもある。

一方、古田武彦氏が唱えた「九州王朝」の存在を信奉する人々にとっては、決して簡単ではなく、その枠の中で種々の議論が噴出しているようである。とりわけ『隋書』の「俀國」について、その地に登場する「竹斯國」を「竹斯=筑紫」と置換えて、現在の博多湾岸の地に比定した結果がもたらす混迷状態のようである。あるいは早々と「俀國」を奈良大和に持って行く説も現れて来る有様である。

簡単に言えば、古田氏の「多元国家論」が中途半端だったことに由来するのであろう。多元国家が群雄割拠する江南の地を脱出した「倭族」は着地した日本列島でも「多元」であった。即ち一元的な「九州王朝」は存在せず、その地も「多元」であったと考えるべきなのである。

さて、旧唐書の原文を引用する…日本語訳はこちらこちらなどを参照。

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿每氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後。佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歲貢、又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅、奉表、以通起居。

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人、好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天、宴之於麟德殿。授司膳卿、放還本國。

開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔、四門助教趙玄默、就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布、以爲束修之禮、題云、白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名爲朝衡、仕歷左補闕、儀王友。衡、留京師五十年、好書籍。放歸鄉、逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡、爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年、遣使來朝、留學生橘逸勢、學問僧空海。元和元年、日本國使判官高階真人、上言「前件學生、藝業稍成。願歸本國、便請與臣同歸。」從之。開成四年、又遣使朝貢。
 
倭奴國・倭國・俀國

『隋書』の記述に沿って要約した記述から始まっている。ただ「俀國」の表記は採用せず「倭國」としている。『隋書俀國伝』を読み解いた通り、「俀」の文字は、過去に遡って複数ある「倭國」を「爪(下向きの手の形)」で纏めた(抑えつけた)ような意味を表していると解釈した。実に上手い表現ではあろうが(魏徴撰)、旧唐書の撰者は、押し並べて「倭國」と見做すと読んだのであろう。

倭人の中に「倭奴族・邪馬族」(古有明海沿岸地域)と「天神族」(大倭豐秋津嶋:福智山・貫山山塊の山麓を主とする地域)とがあって、『隋書』に「俀國」と記されたのは「天神族」の国と明確に区別できなかったのである。勿論「天神族」は、過去の朝貢実績を根こそぎ頂くという奸計を行い、それが罷り通ったのは「倭奴族」間の小競り合い及び航海(造船)技術が停滞していたものと推測される。

「古倭奴國」と記されている。『後漢書』の記述で「倭(人)」が初めて朝貢(西暦57年)した記録に基づくものである。既に読み解いたように「倭奴國」=「狗奴國」(『魏志倭人伝』で「邪馬壹國に属さない国として登場)とした。極東から中央アジアまでを領土とした大帝国の唐から見れば、これらの地域差は”誤差”であったろう。一つにひっくるめて「倭國」したくなるのは当然かもしれない。がしかし、その狭い地域の中での抗争、あるいは全く関わることなく存在していたのが倭人達の逃亡先に作った国々であったと思われる。
 
<阿毎多利思北孤>

阿毎

「其王姓阿每氏」と記載されている。『隋書』に記載された「俀王姓阿每、字多利思比孤、號阿輩雞彌」をそのまま引き継いだ表記となっている。

図を再掲すると『古事記』で「橘之豐日命」の別名表記であると結論された。

「天(阿麻)」の読みを巧みに取り入れた命名である。「姓」も「字」も「號」も無く名付けられていたものを”漢風”にした名前であろう。

『魏志』に「郡使往來常所駐」である「伊都國」に「特置⼀⼤率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」から一大率を取り上げている。

『隋書』には一大率の記述はない。即ち「伊都國」に「駐」することはなく、「竹斯國」に直行したと伝えている。「邪馬壹國」及びその連合国にとって対外折衝の場所であった場所をスルーしており、「倭國」と「俀國」の場所が異なることを示していたのである。
 
<海岸・彼都>
『旧唐書』の撰者が実際に「倭・俀國」に向かった使者の情報に基づく記述ではなく、既述の資料を要領よく纏めた体裁をとったものであることが解る。

勿論「俀國」における「伊都國」の役割は「彼都」がある場所、『古事記』における「筑紫國」が担っていたことになる。

中国史書と古事記の記述が繋がった、重要なところであり、図を再掲した。

いずれにしても「地図」(当時にない概念であろうが…)は国防上最重要な情報であった筈で、『魏志』の陳寿の記述には見事な配慮がなされていると既述した。後の撰者が文字面だけで読むんだ結果が混乱を招くことになったと思われる。

――――✯――――✯――――✯――――

全くの余談だが・・・昨日幕末に発生したシーボルト事件に関する新たな資料が見つかったとの報道があった。「江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処刑された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。」とされる事件である。

持ち出し発覚(江戸露見説)の様子を克明に記した資料とのことで通説の台風による座礁船から見つかったという説は翻されたようである。元々オランダ側の資料との齟齬が解消したとのことである。何故台風座礁説などが登場したのかは憶測の域であるが、国禁の地図、オランダ側資料の正確さなど上記と重なる内容を示している。

また、列強に包囲されたかのような状況も「倭(俀)國」の立場に通じるものがあろう。そんな緊張状態における地図の重要性は想像以上のものであったと思われる。現在は何百もの衛星が天から見つめる時代、いや高度三千メートルからドローン攻撃もあり得る、時代は変わったようである。(2019.12.28)

――――✯――――✯――――✯――――

「倭(俀)國」の人々の様子や風俗は『隋書』に準拠するようであるが、「頗有文字、俗敬佛法」が加わっている。身分格差は大きくあるものの着実に進化していることを示しているように思われる。『古事記』は「佛法」のことは語らないが、その訳は定かではない。何かを意味しているような気もするのだが・・・。

貞観五年、二十二年(西暦631年、648年)の二度、遣使したと伝えている。『隋書』記載された遣使は大業三年(西暦607年)、そして裴世清が「俀國」を訪れたのが明年の大業四年(西暦608年)とある。おそらく帰国したのが大業六年(西暦610年)、「隋」はその八年後(西暦618年)に唐によって滅ぼされたと知られる。

「貞観」の遣使は日本書紀に記載された天皇紀では、舒明天皇~皇極天皇~孝徳天皇紀に該当する(西暦629~654年)。本ブログの解読からすると「俀國」の「邪靡堆」に坐した天皇となる。日本の歴史の真っ暗闇にどっぷりと浸かった時代を迎えることになる。