2021年5月31日月曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(1) 〔517〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(1)


日本根子高端淨足姫天皇。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。天皇神識沈深。言必典礼。

「日本根子高端淨足姫天皇」は、諱は氷高であり、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)の孫、日並知皇子尊(草壁皇子)の皇女である(別名:日高皇女・新家皇女、母親は元明天皇:天智天皇の阿閇皇女)。天皇の見識は沈着で奥深く、言動は常に儀式作法に叶っていた、と述べている。

<日本根子高端淨足姫天皇・盖山・楯波池>
日本根子高端淨足姫天皇

持統天皇の強い思いで孫に日嗣したのだが、時が経ってその子に繋げるには、またもや幼なく、先例に従って女性陣が指揮を執るようにせざるを得なかった。がしかし、それは賢明であって、男子がしゃしゃり出ると『乱』となったであろう。

元正天皇(漢風諮号)の和風諮号が記載されている。勿論平城宮を拠点とする体制であり、日本根子=炎のような山稜が途切れた先の根のような地から生え出たところの地が中心となっている。とは言っても元明天皇と同じ場所にするわけには行かず、少しばかり外れた地を示す名称と思われる。

高端=皺が寄ったような地の端にある様、前記で登場した「高田首久比麻呂」の麓と推定される。図に示したように「龜」を、正に目の当たりにする場所である。淨足=水辺で両腕で取り囲むように山稜が延びた様と読み解ける。頻度高く登場する文字を並べた諡号であることが解る。天皇は生涯独り身だったとのことである。

後に盖山が登場する。その南麓で遣唐使が神祇を祭祀したと記載している。この山には祠が設けられていたのであろう。「盖」=「蓋」であり、谷間に蓋するような位置にある山と思われる。平城宮の東北(艮)方向にある小高い山がその地形を示していることが解る。陰陽道ではこの方向は”鬼門”とされる。航海の無事を祈願したのではなかろうか。

また、聖武天皇紀に楯波池が登場する。その池から飄風(つむじ風)が立ち上って宮の木々を薙ぎ倒した、と記載されている。既出の楯=木+斤+目=山稜に斧で切られたような隙間ができている様と解釈した。上記の「日本」の本=木+一=山稜が途切れた様が示す地形である。その山稜の端(波)にあった池と読み解ける。天皇の諡号は、その池を取り巻いた地形を表しているのである。

靈龜元年(西暦715年)九月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

靈龜元年九月庚辰。受禪。即位于大極殿。詔曰。朕欽承禪命。不敢推讓。履祚登極。欲保社稷。粤得左京職所貢瑞龜。臨位之初。天表嘉瑞。天地貺施不可不酬。其改和銅八年。爲靈龜元年。大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸從赦除。但謀殺々訖。私鑄錢。強竊二盜。及常赦所不原者。並不在赦限。親王已下及百官人。并京畿諸寺僧尼。天下諸社祝部等。賜物各有差。高年鰥寡孤獨疾疹之徒。不能自存者。量加賑恤。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。免天下今年之租。又五位已上子孫。年廿已上者。宜授蔭位。獲瑞人大初位下高田首久比麻呂。賜從六位上并絁廿疋。綿卌屯。布八十端。稻二千束。

九月二日に天皇は禅譲を受け、大極殿で即位され、以下のことを詔されている。禅譲の命を慎んで受け国家の安泰を保とうと思う。粤(ここに)左京職が瑞龜を献上し、天が嘉瑞を表したと受け取り、和銅八年を靈龜元年とする。死罪以下の者を赦すが、殺人・私鑄錢・強盗・窃盗などはこの範囲ではない。親王以下百官人並びに京畿内の諸寺の僧尼、天下の諸社の祝部等のそれぞれ物を賜える。また高齢者や”鰥寡孤獨”及び疾病により生活のできない者にその程度により物を与える。”孝子順孫・義夫節婦”は終身租税を免除する。天下の今年の租税を免除し、五位以上の者の子孫で二十歳以上に蔭位(父祖の爵位に依る位)を授ける。瑞龜を献上した高田首久比麻呂には従六位上、絁・真綿・麻布・稲を与えている。

冬十月乙夘。詔曰。國家隆泰。要在冨民。冨民之本。務從貨食。故男勤耕耘。女脩絍織。家有衣食之饒。人生廉耻之心。刑錯之化爰興。太平之風可致。凡厥吏民豈不勗歟。今諸國百姓未盡産術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋稼若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存教導。宜令佰姓兼種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗。於諸穀中。最是精好。宜以此状遍告天下。盡力耕種。莫失時候。自餘雜穀。任力課之。若有百姓輸粟轉稻者聽之。丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。

十月七日に以下のことを詔されている。概略は、国家の繁栄は民が富むことであり、それには貨食(貨殖:財産を増やす)に専念させることある。男は農耕、女は機織りで衣食が豊かになり、刑罰を要しない政治となる。太平の風習を招くように官人と民は努力せよ、と述べている。ただし今の諸國の民は生業の技術を極めておらず、ひたすら湿地で稲を作り、陸田(畑)の有益なことに気付いていない。大水や旱に遭うと穀物の蓄えもなく直ぐに飢饉となる。これは民の怠惰なことだけではなく、國司が教導していないからである。今後は麦と稲とを共に植え、男子一人につき二段の割合とせよ、と命じている。また粟は長期保存が可能であり、播種の時候を失することにないように指導することである。その他雑穀はそれぞれに応じて割り当て、租税として稲の代わりに粟を納めることを聴き入れるようにせよ、と述べている。

二十九日に陸奥蝦夷で第三等(蝦夷の位)の「邑良志別君宇蘇弥奈」等が次のように言上している。概略は、親族が少なく、常に蛮族に掠め取られることに恐怖している。それ故に「香河村」に郡家を置き編戸(戸籍のある公民)とされたい。また蝦夷の「須賀君古麻比留」等が先祖以来この地で採取した昆布を毎年献上して来たが、國府城から遠く隔たり往復に何十日も要している。それ故に「閇村」に郡家を設置されたい、と言上している。これを許している。

十二月己酉朔。日有蝕之。己未。常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男。給粮并乳母一人。

十二月一日に日蝕があったと記している。十一日、「常陸國久慈郡」の人の「占部御蔭女」が三つ子の男子を産んでいる。食料と乳母一人を与えている。

<邑良志別君宇蘇弥奈-須賀君古麻比留>
● 邑良志別君宇蘇弥奈・須賀君古麻比留

一部を除いて概ね蝦夷らしい(?)名前なのだが、例によって一文字一文字が示す地形を求めてみよう。陸奥蝦夷記載されるのだから、陸奥國及びその周辺辺りが出自の場所であろう。

「邑」=「集まった様」、「良」=「なだらかな様」、「志」=「蛇行する川」、「別」=「近隣の地」と読めるから邑良志別=集まったなだらかに蛇行する川辺と読み解ける。

「宇」=「宀+于」=谷間に山稜延びている様」、「蘇」=「艸+魚+禾」=「様々な山稜が寄り集まっている様」、「弥」=「広がっている様」、「奈」=「木+示」=「山稜の端にある高台」と読み解いて来た。纏めると宇蘇弥奈=谷間に延びる様々な山稜が寄り集まって広がり高台になっているところと読み解ける。

図は現在の標高10m以下のところを強調した表示としたが、谷川と井手谷川が近付き、その後合流する付近の地形が上記の名前が表す場所と思われる。郡家を望んだ香河村は、現在の井手谷川の畔にあったことを示していると思われる。

「香」=「禾(黍)+甘=窪んだところから山稜がしなやかに曲がって延びる様」と解釈したが、谷間の窪んだところから流れ出す川と見做しているのであろう。井手=四角く囲まれた地から延びる山稜となるが、正に「香」に通じる表記と思われる。その傍らの村を香河村と呼称したと推測される。

須賀=州が押し開いたような谷間は倭名らしき表記であるが、それを求めると丹取郡の山稜の地形を表していると思われる。古麻比留=丸く小高いところが平たくなって並び谷間を押し広げたようなところと読み解ける。興味深いことには、湾状の地形であり、かつ昆布の生育環境である水深5m以上の海が間近に存在する場所である。閇村の場所を求めるには至難であるが、おそらく図に示した谷間が塞がれたような場所を示しているのではなかろうか。

彼らの名前は上記でも述べたように”蝦夷風”であろう。書紀の持統天皇紀に登場した越度嶋蝦夷の「伊奈理武志」、肅愼の「志良守叡草」に通じる表記と思われる(こちら参照)。おそらく倭人の地形象形表現に不慣れであって、見よう見真似で付けたのであろう。續紀があからさまに記載するのもそれを暗示するためのように感じられる。

従来での解釈は、蝦夷とくれば現在の東北地方、即ち”現・日本人”とされるが、全くの誤りと思われる。断言するのには些か情報不足であるが、記紀・續紀に名前を有する”現・日本人”は登場していない、と推測されるが、今後の重要な課題でもある。

<常陸國久慈郡・占部御蔭女>
常陸國久慈郡

常陸國は幾度か登場し、現在の北九州市吉志辺りと推定した。古事記では神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった常道仲國造の地である。

既出では郡の名称は記載されず、ここに来て郡が建てられていたことが判る。また書紀の持統天皇即位元年(687年)三月に高麗からの帰化人56人をこの地に住まわせたと記されている。未開の地が未だ多く残る國であったのであろう。

久=くの字形に曲がる様慈=艸+絲+心=谷間の中心に山稜が並んでいる様と解釈すると、図に示した場所と推定される。その範囲については情報少ないが、その上にかなり地形が変化していることもあり、明瞭ではないようである。

● 占部御蔭女

三つ子を産んだ女性の名前、占=山稜が岐れた様部=近隣御=束ねる様蔭=艸+阝+亼+云=山稜が覆い被さるように広がり延びている様と読むと図に示した場所辺りと思われる。

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二年春正月戊寅朔。廢朝。雨也。宴五位已上於朝堂。辛巳。地震。壬午。授從三位長屋王正三位。正五位上長田王。佐伯宿祢百足並從四位下。正六位上猪名眞人法麻呂。多治比眞人廣足。大伴宿祢祖父麻呂。小野朝臣牛養。土師宿祢大麻呂。美努連岡麻呂並從五位下。

霊龜二年(西暦716年)正月一日、雨が降り、朝賀を廃し、五位以上の者と朝堂で宴会を行っている。四日に地震があったと記している。五日、以下の叙位を行っている。長屋王を正三位、長田王(六人部王に併記)・佐伯宿祢百足を從四位下、猪名眞人法麻呂(石前に併記)・多治比眞人廣足(廣成に併記)・大伴宿祢祖父麻呂(牛養に併記)・小野朝臣牛養(毛野に併記)・土師宿祢大麻呂美努連岡麻呂(淨麻呂に併記)を從五位下を授けている。

二月己酉。令攝津國罷大隅媛嶋二牧。聽佰姓佃食之。丁巳。出雲國々造外正七位上出雲臣果安。齋竟奏神賀事。神祇大副中臣朝臣人足。以其詞奏聞。是日。百官齋焉。自果安至祝部。一百一十餘人。進位賜祿各有差。
三月癸夘。割河内國和泉日根兩郡。令供珍努宮。

二月二日に攝津國に命じて「大隅・媛嶋」の二つの牧場を廃止し、水田にすることを許可している。二月十日に出雲國々造である外正七位上の「出雲臣果安」が齋(心身を清めて飲食を慎んで神に仕える)を行って神賀事(天皇の治世を祝う詞)を奏上している。神祇大副の中臣朝臣人足がその詞を奏上したと記載している。この日、百官が「齋」をして、「果安」から祝部までの百十余人をそれぞれに進位し、禄を与えている。

出雲國造の「神賀事」は、特別なものであったようで、「服属儀礼」もしくは「復奏儀礼」とみる解釈があるとのこと。本記事が最初であるが、この後十数回の記載がある。「出雲臣果安」の出自の場所を下記で求めてみよう。

三月二十七日に河内國の「和泉・日根」兩郡(二つで一組となるものの双方)を割いて「珍努宮」に供している。

<大隅直>
大隅媛嶋二牧

「大隅」は、書紀の天武天皇紀に大隅直が連姓を賜ったと記載されていた地であろう。当地は応神天皇紀に「大隅宮」が置かれていた場所でもある。

左図を再掲したが、大隅牧は図中の”河南”と記載した辺りではなかろうか。現在では耕地となっているが、住宅地となっている様子が伺える。

確かに犀川(現今川)の崖岸の上にあり、ここに放牧しても柵を殆ど必要としない環境と思われる。かつては耕作地にするのが難しく、放牧した牛馬を閉じ込めておくには最適なだったのであろう。

<媛嶋牧(松原)>
媛嶋は、間違いなく古事記の難波之比賣碁曾社のあった日女嶋と思われる。
品陀和氣命(応神天皇)紀及び大雀命(仁徳天皇)紀に登場した島であり、現在の沓尾山であり、当時は周囲を川・海で囲まれた地形であったと推測した。

書紀では安閑天皇紀に「媛嶋松原」に牛を放牧した記載されている。「松原」は図に示したように松葉が延びたような山稜が並んでいる麓の場所と推定した。

この地の谷間の先は水面下であったと思われ、放牧に適した場所であったと思われる。現在とは大きく異なった地形と推測される。この谷間の上に松山神社が鎮座している。「松」は繋がっているのかもしれない。

出雲國々造:出雲臣果安

出雲國の國造として”神賀詞”を述べた記載される。まるで新羅の使者のような取り扱いであり、”外”正七位上として出自が外れていることを表している。古事記の解読で詳述したように、速須佐之男命の系列が二つに分れると記載されている。

<出雲臣果安・廣嶋・弟山>
原文を引用すると…「故、其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神、次宇迦之御魂神。二柱」…である。

娶った櫛名田比賣神大市比賣の系列が派生し、この派閥間の凄惨な争いが発生したことをそれぞれの後裔達の名前を羅列することによって表現していた。

登場する神々の名前からその出自を場所を突き止めなければ全く意味不明の記述となってしまう。前者が出雲の東北部、後者が西南部を占め、前者の末裔である「大國主命(神)」(刺國が出自)は西南部を奪取するために送り込まれた刺客だったのである。

出雲の国譲りと記載される物語は、天皇家が「櫛名田比賣」の系列を引継ぎ、その地(東北部)を譲り受けたことを示している。「大國主命」に多数の名前が付与されるのは、出雲の全域を奪せよ、との指令であり、結局それは果たせず、淡海の片隅に隠遁するしかなかったのである。更に崇神天皇紀に”疫病神”として登場する大物主大神は「神大市比賣」の子、大年神の末裔と推定した。

書紀に幾度か登場する「出雲臣」(出雲の地形に類似する地の臣)の捻じれた表記に惑わされることなく、出雲國々造の出雲臣果安が「神大市比賣」の系列を受け継ぐ人物であると推測される。續紀になって漸く出自の場所が推定される人名である。頻出と言える果安=山稜に挟まれた嫋やかに曲がる谷間に丸く小高い地がある様と読み解いた。その地形が図に示した場所に見出せる。

「大年神」の子、「大國御魂神」の東側であり、現在の戸ノ上山の西麓に当たる。この谷間から立ち上る雲が”八雲”であり、同じく「大年神」の子、「奥津比賣命」、別名竈神の”竈(現桃山)から立ち上る煙”を”八雲”と重ねた表記である。上記の詳細はこちらを参照。

そんな背景が浮かぶと上記の神賀事」の特別さがより鮮明になって来るであろう。そして意富富杼王でさえ不可侵の領域であった出雲西南部をも天皇家の統治領域に組み込まれたことを告げ、古事記で記載される長い出雲の物語は、ここに完結したのである。

後に息子連中が登場する出雲臣廣嶋・出雲臣弟山である。廣嶋=鳥のような山稜が広がったところ弟山=山の前にギザギザとして山稜があるところと読み解ける。図に示した場所と推定される。尚、「廣嶋」は出雲風土記の編者であったようである。また、「弟山」は「廣嶋」の子とする説もあるが、兄弟として問題ない配置であろう。

<河内國:和泉郡/日根郡・珍努宮>
河内國:和泉郡/日根郡・珍努宮

大国河内國に更なる郡名が記載されている。と言うか、最も広い主たる郡が漸くにして登場したようである。既出の文字列であり、すんなりと読み解けるであろう。

「和」=「山稜がしなやかに曲がる様」、「泉」=「囟+水」=「窪んだ地に水がある様」から和泉=しなやかに曲がる山稜の麓にある窪んだ地に水が湛えられている様と読み解ける。

図に示した場所の地形を表していると思われる。和泉郡は現在の京都郡みやこ町役場がある地域である。

日根郡日根=炎のような山稜が根のように延びた様と読むと、北側に並ぶ場所と推定される。「和泉郡」は打って変わって多くの山稜が延びている地形である。

「珍」=「玉+人+彡」=「玉のような地の傍らにある谷間から山稜が連なって延びている様」、「努」=「女+又+力」=「手のような山稜が嫋やかに曲がりながら押し延ばされている様」と解釈される。

<珍努宮>
珍努=玉のような地の傍らにある谷間から手のような山稜が嫋やかに曲がって並んで延びているところと読み解ける。珍努宮は図に示した場所と推定される。

現在の権現山と呼ばれている山容を「玉」と見做した地形象形表記であることが解る。別名に茅渟宮、智奴宮などがあるそうだが、共にこの地形を表していると思われる。

河内國の東半分の郡別ができたのではなかろうか。郡名と地形が見事に合致した様相を示している。かつては墓所の地だったのが、大きく開拓されて変貌したと思われる。河川の下流域、それは古事記の表舞台ではなかったのである。












































2021年5月27日木曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(20) 〔516〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(20)


靈龜元年(西暦715年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五月辛巳朔。勅諸國朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。經三月以上者。即云斷輸調庸。隨當國法。又撫導百姓。勸課農桑。心存字育。能救飢寒。實是國郡之善政也。若有身在公庭。心顧私門。妨奪農業侵蛑万民。實是國家之大蠧也。宜其勸催産業。資産豊足者爲上等。雖加催勸。衣食短乏者爲中等。田疇荒廢。百姓飢寒。因致死亡者爲下等。十人以上。則解見任。又四民之徒。各有其業。今失職流散。此亦國郡司教導無方。甚無謂也。有如此類。必加顯戮。自今以後。當遣巡察使。分行天下。觀省風俗。宜勤敦徳政。庶彼周行。始今。諸國百姓。往來過所。用當國印焉。」丹波丹後二國飢。遣使賑貸。己丑。始充京職印。壬辰。伯耆國言。甘露降。甲午。詔曰。凡諸國運輸調庸。各有期限。今國司等。怠緩違期。遂妨耕農。運送之民。仍致勞擾。非是國郡之善政。撫養之要道也。自今以後。如有此類。以重論之。又海路漕庸。輙委惷民。或已漂失。或多濕損。是由國司不順先制之所致也。自今以後。不悛改者。節級科罪。所損之物。即徴國司。又五兵之用。自古尚矣。服強懷柔。咸因武徳。今六道諸國。營造器仗。不甚牢固。臨事何用。自今以後。毎年貢樣。巡察使出日。細爲校勘焉。乙巳。從六位下畫師忍勝姓改爲倭畫師。」攝津。紀伊。武藏。越前。志摩五國飢。賑貸之。」遠江國地震。山崩壅麁玉河。水爲之不流。經數十日。潰沒敷智。長下。石田三郡民家百七十餘區。并損苗。己亥。太政官奏。更定義倉出粟法。分爲九等。語在別格。壬寅。以從三位巨勢朝臣麻呂爲中納言。從四位上多治比眞人三宅麻呂爲左大弁。從四位上巨勢朝臣邑治爲右大弁。從四位上大伴宿祢旅人爲中務卿。從四位下阿倍朝臣首名爲兵部卿。從四位上阿部朝臣廣庭爲宮内卿。從四位下多治比眞人縣守爲造宮卿。從五位上大伴宿祢宿奈麻呂爲左衛士督。正五位上大神朝臣狛麻呂爲武藏守。從五位上阿倍朝臣安麻呂爲但馬守。從五位下石川朝臣君子爲播磨守。從三位多治比眞人池守爲大宰帥。丙午。參河國地震。壞正倉卌七。又百姓廬舍往々陷沒。庚戌。移相摸。上総。常陸。上野。武藏。下野六國富民千戸。配陸奥焉。

五月一日に諸國の朝集使に以下のように勅されている。概略は、天下の百姓(民)は本貫の地を離れて他郷に流れているが、課役を回避している。浮浪の者で三ヶ月以上逗留するならばその国の法に従って調・庸を納めさせよ。國司で善政を行う者もいるが、一方で私腹を肥やす者もおり、これは国家にとってに大きな害虫のようなものである。そこで上等・中等・下等に分けることにする。中でも下等で飢饉・寒さによる死者の数が多い場合(十人以上)は解任せよ。四民(士農工商か?)はそれぞれ生業と持っているが、職を失って流散するのは國司の教導が無方のことによる。依って刑罰の対象とせよ、と述べている。また、巡察使を派遣して民の生活ぶりを調べさせることにする。更に民が往来する過所(通行証明書)ではその國の印を用いよ、とも述べている。

丹波・丹後の二國で飢饉が発生し、稲を無利息で貸付ている。九日、初めて京職の印を配布している。十二日に伯耆國が甘露が降ったと告げている。

十四日に天皇は以下のように詔している。概略は、諸國の調・庸には期限があるのに國司の怠慢で納期を違え、農耕を妨害し、また運送を民に任せて煩わせている。これは善政に全く叶わないことである。今後は重罪とせよ。更に海路による庸の運送をおろかな民に任せ、それ故に漂失したり濡れて品質を損なったりしている。今後はその程度によって罪を科し、損害は國司から徴収せよ、と述べている。また五兵(弓矢・矛・戈・殳・戟)は常日頃から使用に耐えるようにせねばならない。しかるに六道(西海道を除く)の物は甚だ心許ない。この後は毎年見本を提出し、また巡察使は仔細を調べることにせよ、と述べられている。

二十五日(記載順序?)に「畫師忍勝」の姓を改めて「倭畫師」としている。また、攝津・紀伊・武藏・越前・志摩の五國で飢饉が発生し、稲を無利息で貸し付けている。また、遠江國で地震があり、山が崩れ、「麁玉河」が堰き止められ、その後決壊して、「敷智・長下・石田」の三郡の民家百七十餘が水没し、苗にも損害があった、と記載している。十九日に太政官が義倉(備蓄倉庫)に粟を出す法(資産に応じて出資)を九等に分けるが、仔細は別途定める。

二十二日に以下の任命を行っている。巨勢朝臣麻呂を中納言、多治比眞人三宅麻呂を左大弁、巨勢朝臣邑治を右大弁、大伴宿祢旅人を中務卿、阿倍朝臣首名を兵部卿、阿部朝臣廣庭を宮内卿、多治比眞人縣守を造宮卿、大伴宿祢宿奈麻呂を左衛士督、大神朝臣狛麻呂を武藏守、阿倍朝臣安麻呂を但馬守、石川朝臣君子を播磨守、多治比眞人池守を大宰帥に任じている。

二十六日に參河國で地震があり四十七の正倉が倒壊し、民の廬舍(小さな家)もあちこちで陥没している。三十日、相摸・上総・常陸・上野・武藏・下野の六國の富裕な民千戸を陸奥國に移して配置させている。

<遠江國:麁玉河>
遠江國:麁玉河

川の氾濫で敷智郡・長下郡・石田郡の甚大な災害が発生したと伝えている。遠江國の各郡については、配置を既に求めたこちらを参照。

石田郡は磐田郡の別表記であろう。確かに「磐」は一様に広がる様を表すが、少々曖昧さが残る「石」の表記が適切なように思われる。

長田郡が正式に分割されてその一部である長下郡として登場している。即ち片割れである長上郡では被害が発生しなかったのであろう。川の流路を暗示していると受け取れる。

敷智郡はあらためて文字が示す地形を求めると、既出の敷=布を広げたような様智=矢+口+日=山稜が鏃と炎のような形をしている様であり、「鏃」に幾つか「炎」のように延び出た山稜がある場所を表している。この地も現在は広大な宅地となっていて山稜の姿は大きく変貌しているが、当時を偲ぶことに支障はないようである。

麁玉河の「麁」は既に読み解いた文字である。麁蝦夷で用いられていた。麁=鹿+鹿+鹿=山麓が三つに岐れている様の地形を表している。玉=玉のような様とすると、図に示した場所がその地形を示していることが解る。そしてこの丸い山稜…ここも同じく広大な宅地となっているが…から二手に岐れて流れる川を麁玉河と称したと解釈される。

この二つの川は長下郡・石田郡石田郡・敷智郡の郡境を流れ、この三郡に被害が及んだのであろう。被害が記載されない長上郡の脇を流れることのない川なのである。災害と言う悲しい出来事ではあるが、その地の詳細が把握される貴重な記述であろう。

<畫師忍勝・狛造千金>
● 畫師忍勝

書紀の天武天皇紀に倭畫師音檮が小山下位を授けられ、また封戸二十を賜ったと記載されていた。畫師の狛堅部子麻呂の近隣と推定して図に示した場所が出自とした。

畫師の忍勝は、「音檮」の系譜とは異なっていたが、畫師としての資質に優れて倭畫師の姓を引き継がせた、と言うことなのかもしれない。

委細は不明だが、そうとすれば「子麻呂」、「音檮」からそう遠くない場所に住まっていたと思われる。忍勝=一見そうは見えない盛り上がったところ、或は、谷間の中心でギザギザと山稜が突き出ている地で盛り上がったところと解釈され、図に示した辺りと推定される。續紀での登場は今回が最初で最後のようである。

直ぐ後に狛造千金が登場する「大狛連」の姓を賜ったと記される。千=人+一=谷間を束ねる様金=金の文字形と読み解くと、南側の台地の麓辺りが出自の場所と推定される。大=平らな頂の山稜と読むと賜った姓もしっかりと地形象形した表記であろう。

六月甲寅。一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也。庚申。開大倭國都祁山之道。壬戌。太政官奏。懸像失度。亢旱弥旬。恐東皐不耕。南畝損稼。昔者周王遇旱。有雲漢之詩。漢帝祈雨。興改元之詔。人君之願。載感上天。請奉幣帛。祈於諸社。使民有年。誰知尭力。癸亥。設齋於弘福法隆二寺。詔。遣使奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。於是未經數日。注雨滂沱。時人以爲。聖徳感通所致焉。因賜百官人祿各有差。丁夘。諸國人廿戸。移附京職。由殖貨也。

六月四日に長親王が亡くなっている。天武天皇の第四皇子であった。十日に「大倭國都祁山之道」が開通している。十二日に太政官が以下のようなことを奏上している。簡単に言えば、中国の故事を引き合いにして旱魃の害を抑えるために諸社に雨乞いをしましょう、であろう。

十三日に弘福・法隆の二寺で設齋を行っている。「弘福寺」は川原寺(の中金堂)、「法隆寺」は斑鳩寺の別名と知られている。前日の太政官の申し出通りに諸社に幣帛を奉納し、名山大川で雨乞いをしたところ数日の内に恵みの雨が降り、百官に禄を与えた、と述べている。十七日に諸國の人二十戸を移して京職に附けている。銭を増やすのに秀でているからとのこと。

<都祁>
大倭國都祁山之道

都祁は古事記に一度、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった地として挙げられていた。書紀では記載されることはないようである。

場所を再掲した。南は飛鳥に繋がり、北は伊賀・鈴鹿・三重を経て伊勢に通じる場所である。『壬申の乱』で天武天皇一行が逃げた谷間は山を挟んで東側にある。

一行が渡渉して天照大神を望拝時の迹太川(紫川)の上流域となる。都祁山之道は、紫川沿いか、新道寺に抜ける道(櫨ヶ峠)か、多分後者のような・・・詳細は不明である。

秋七月庚辰朔。日有蝕之。己丑。地震。行幸甕原離宮。」賜從五位下紀朝臣淨人數人穀百斛。優學士也。壬辰。授刀舍人狛造千金。改賜大狛連。丙午。知太政官事一品穗積親王薨。遣從四位上石上朝臣豊庭。從五位上小野朝臣馬養。監護喪事。天武天皇之第五皇子也。」尾張國人外從八位上席田君邇近及新羅人七十四家。貫于美濃國。始建席田郡焉。

七月一日に日蝕があったと記している。十日、地震があったが、甕原離宮に行幸されている。この日に紀朝臣淨人(淸人)等数人に学問が優れていることより穀百斛を与えている。十三日に授刀舍人(帯刀した禁中の警護役)の「狛造千金」(上図参照)に「大狛連」の氏姓を与えている。

二十七日に知太政官事の穗積親王が亡くなっている。つい先日に一品に昇位したばかりであった。石上朝臣豊庭小野朝臣馬養に葬儀を執り行わせている。天武天皇の第五皇子であった。この日、尾張國の人の「席田君邇近」及び新羅人七十四家を美濃國に戸籍(貫)を移し、初めて「席田郡」を建てている。

<美濃國席田郡・席田君邇近>
美濃國席田郡

「席田」は何と解釈できるであろうか?…世の中では「席」→「蓆(ムシロ)」として読まれているようである。略体文字を使用することは今までに幾度か遭遇したが、「蓆」の地形象形が今一明瞭ではない。

「席」=「广+廿+巾」と分解される。「廿」=「動物」を象徴的に表す文字であり、「席」=「屋根の下で毛皮を広げた様」と解釈される。それが通常の意味である「席」を表す文字へと展開している。こんな身近な文字なのだが漢字学では定説がないようである。

兎も角も毛皮を広げたように見える地形を求めると、図に示した、現在はゴルフ場となっているが、かつてにも述べたようにゴルフ場開発はかなり元の地形を活かした設計なのであろうか、見事な”毛皮”が見出せる。

文武天皇紀に記載された南嶋の度感の「度」と同じ解釈になる。「度」=「广+廿+又(手)」と分解したが、「巾」と「又(手)」の違いである。「巾」を用いたのは山稜と言えるほど明瞭な地形ではなく、全体として広がった様子を表していると思われる。

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余談だが、漢字に関する理解は、間違いなく退化した日本人と言える。「口(サイ)」などを持ち出す白川漢字学(学とも言えないが)が持て囃されるのも頷ける、かもである。ところでこの地の現地名は西貫であって、安八磨郡は上貫・中貫に該当し、下貫・東貫辺りは当時は海面下と推測される。西貫に田原(多分「田」は「席田」であろう)を加えた地が席田郡となり、現在の行政区分とかなり良い一致を示している。

その他の地と同様に貫の地名由来は不詳と言えるようなのだが、上記「貫于美濃國」あたりから引っ張り出されたのかもしれない。”本貫の地”などと用いられる「貫」=「毌+貝」と分解される。「毌」=「突き抜ける様」を象った文字と知られる。地形象形的には貫=谷間が突き抜けている様と解釈される。ならば多臣品治・太安萬侶の本貫の地である谷間、岐蘇山道の突き抜けるような谷間から名付けられたのであろう。

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● 席田君邇近 余談はこれくらいにして、「近」は近淡海の「近」であろう。「席」の南側にある大池の形を示していると思われる。邇近=[近]の地形に近接しているところと読めば図に示した場所が出自と推定される。

図に示したようにこの地は美濃國安八磨郡の西隣に当たる。美濃國に新しく郡として建てたのは正に合理的な配置と言える。それにしても古代の美濃國は広大な面積を有する國であったと思われる。天武天皇一党が美濃に愛着を示したからなのであろう。勿論それ以外の要因もあったと憶測されるが・・・。

八月己未。制。大宰府官人家口。皆免課役。」從四位上路眞人大人爲大宰大貳。甲戌。京人流宕畿外。則貫當國而從事。丁丑。左京人大初位下高田首久比麻呂獻靈龜。長七寸。闊六寸。左眼白。右眼赤。頚著三公。背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白兩點。相次八字。

八月十日に大宰府の官人の家口(戸口)は課役を全て免除すると定めている。またこの日、路眞人大人を大宰大貳に任じている。二十五日に京人が畿外に流出したらその國に戸籍を移し、事(調・庸など)に従わせた、と述べている。

二十八日に左京人の「高田首久比麻呂」が「靈龜」を献上している。それは「長七寸。闊六寸。左眼白。右眼赤。頚著三公。背負七星。前脚並有離卦。後脚並有一爻。腹下赤白兩點。相次八字」の姿をしていた、と記載している。元号の由来が唐突に記されている。勿論、瑞祥の龜ではなく、であろう。今頃になって?…なかなか良い貢物がなかったのかもしれない。

<靈龜・高田首久比麻呂>
靈龜

何といっても目出度いものが散りばめられた「龜」と読めるように記載されている。「三公」は中国周の最高官僚、「七星」は北斗七星、脚には、易の八卦、眼は左右で白赤と異なり、腹には赤白の文様があったと解釈される。

化け物に限りなく近い姿なのだが、瑞祥だったのであろう・・・と言うことで、献上者の左京人の近隣で「龜」の地形を探索することになった。

がしかし、実は平城宮の近辺、金辺川沿いに「龜」が棲息していたのは、随分と前に気付いていたのである。それは斉明天皇紀に肅愼人を饗応するために石上池の近くに須彌山を造ったという記事が載せられていた。「龜」の首辺りに廟塔を建てたと推定した場所である。

胴体部分の山稜が複雑に入り組んでいるところを順不同に読み解いてみよう。「背負七星」は明解である、図に示した通りに綺麗に北斗七星が見出せる。「左眼白。右眼赤」は確かに顔面の右側を示している。谷間の形状からして赤=大+火=平らな山稜から延びる谷間の山稜が交差する様のような地形かと思われるが、地図上では確認されない。「左眼」の白=何もない様と解釈すると、全く見えない様子を述べていると読み取れる。

「前脚並有離卦。後脚並有一爻」と記載される。「卦」=「L形になった様」と解説される。離卦=くっ付いているL形の山稜と読み解ける。図に示した前脚と思われる山稜の端にその地形がくっ付いていることが解る。後脚には爻=山稜が交差する様の場所が一ヶ所見出せる。そして前後脚の左右は重なって「並」と記されている。

「頚著三公」の公=谷間にある小高い様と読み解いた。頻出の文字である。首の辺りで求めると図に示した場所が該当するようである。「相次八字」の「相」=「木+目」=「山稜が途切れている様」、「字」=「宀+子」=「谷間で生え出た山稜」と解釈すると、相次八字=山稜が途切れた谷間に連なって生え出た山稜と読み解ける。図に示したように「龜」の舌のような位置付けになる。

「腹下赤白兩點」の「赤白」は、赤白=平らな頂の谷間で交差するような山稜がくっ付いて並ぶ様と読み解く。図の谷間の出口辺りの地形を表している。「兩」=「左右同じような様」と解釈される。「点」の旧字体である「點」=「黑+占」と分解される。「黑」=「山稜が炎のように延びた前に平らな地がある様」と読み解い来た。「占」=「卜+囗」=「岐れて延びた大地」として、兩點=左右同じように岐れた山稜が炎のように延びて前に平らな地がある様と読み解ける。確かに「腹」の位置にある地形を表していると思われるが、炎の地形は、残念ながら確認することは叶わないようである。

「龜」の大きさを「長七寸。闊六寸」と記している。そのまま読めば、せいぜい20cm四方の大きさとなろう。さて、「寸」=「又(手)+一」=「指を広げた長さ」であるが、それを地形象形すると寸=山稜の端の長さを表していると解釈される。既出では寸=肘=腕の肘を曲げたように山稜が延びる様の解釈が流行りのようであるが・・・。

では何処の山稜の端か?…平城宮のある山稜の端と推測される。現在の地図上でその幅、約100mであり、長≒700m闊≒600mと実測される。高田首久比麻呂の遊び心はなかなかのもので、また、それなりの博識を有していたのであろう。天皇含め重臣たちが甚く感動した、租税を免除するほどでもなかったのかもしれない。

● 高田首久比麻呂 左京の地で探すと図に示した場所が見出せる。首=首の付け根の様久比=くの字に曲がる山稜が並んでいる様が決め手であるが、高=山稜が皺が寄ったような様は地図からでは断定するには至らないようである。と言うことで、最も確からしい場所として提案することにした。

九月己夘朔。詔。皇親二世准五位。三世以下准六位。」禁文武百寮六位以下用虎豹羆皮及金銀飾鞍具并横刀帶端。但朝會日用者許之。婦女依父夫蔭服用。亦聽之。凡横刀鋏者。以絲纒造。勿用素木令脆焉。庚辰。天皇禪位于氷高内親王。詔曰。乾道統天。文明於是馭暦。大寳曰位。震極所以居尊。昔者。揖讓之君。旁求歴試。干戈之主。繼體承基。貽厥後昆。克隆晢祚。朕君臨天下。撫育黎元。蒙上天之保休。頼祖宗之遺慶。海内晏靜。區夏安寧。然而兢兢之志。夙夜不怠。翼翼之情。日愼一日。憂勞庶政。九載于茲。今精華漸衰。耄期斯倦。深求閑逸。高踏風雲。釋累遺塵。將同脱屣。因以此神器。欲讓皇太子。而年齒幼稚。未離深宮。庶務多端。一日万機。一品氷高内親王。早叶祥符。夙彰徳音。天縱寛仁。沈靜婉㜻。華夏載佇。謳訟知歸。今傳皇帝位於内親王。公卿百寮。宜悉祇奉以稱朕意焉。

九月一日に皇親の内で二世は五位に、三世以下は六位に准じるようにせよ、と詔されている。また、六位以下の文武官人が虎・豹・羆の皮や金・銀の鞍具及び帯刀の装飾を行うことを禁じている。但し朝会の日に使用することは許されている。婦女については父及び夫の蔭(五位以上示す)で着用を許されている。また帯刀の柄は絹糸を巻き、素木のままにしてはならない、と述べている。

二日に氷高内親王に天皇禪位された。以下のように詔されている。概略は、天下を統治するには德と教養が大切である。中国では、平和裏に位を譲る時には適任者を選び、武力で天下を取ったとしても先朝の築いたものを受け継ぎ子孫を繁栄させている。今まで上天の助けを蒙って祖先の遺したものによって天下は安らかであった。しかしながら政事を執り行って早九年が過ぎ、年老いてしまった。ならば皇太子に譲るべきであろうが、未だ幼い。そこで評判も良く、憐れみの性質を持ち、沈着冷静で若い一品の氷高内親王に皇帝の位を伝えたく思う。公卿(三位以上)以下の諸々の官人は朕の意志に従うようにせよ、と詔されている。「婉㜻」=「若々しく美しい」かも?・・・。

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『續日本紀』巻六巻尾





















 

2021年5月23日日曜日

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(19) 〔515〕

日本根子天津御代豐國成姫天皇:元明天皇(19)


靈龜元年(西暦715年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

靈龜元年春正月甲申朔。天皇御大極殿受朝。皇太子始加礼服拜朝。陸奥出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覺。球美等來朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹騎兵。元會之日。用鉦鼓自是始矣。是日。東方慶雲見。遠江國獻白狐。丹波國獻白鴿。癸巳。詔曰。今年元日。皇太子始拜朝。瑞雲顯見。宜大赦天下。但犯八虐。私鑄錢。盜人常赦所不原者。並不在赦限。内外文武官六位以下。進位一階。又授二品穗積親王一品。三品志紀親王二品。從四位下路眞人大人。巨勢朝臣邑治。大伴宿祢旅人。石上朝臣豊庭。多治比眞人三宅麻呂。百濟王南典。藤原朝臣武智麻呂並從四位上。正五位上大伴宿祢男人。太朝臣安麻呂。正五位下當麻眞人櫻井。從五位上多治比眞人縣守。藤原朝臣房前並從四位下。正五位下曾祢連足人。佐伯宿祢百足。百濟王良虞並正五位上。從五位上笠朝臣吉麻呂。中臣朝臣人足並正五位下。從五位下臺忌寸少麻呂。道君首名並從五位上。從六位上下毛野朝臣石代。當麻眞人大名。紀朝臣清人。從六位下土師宿祢豊麻呂並從五位下。又授二品氷高内親王一品。甲午。三品泉内親王。四品水主内親王。長谷部内親王。益封各一百戸。戊戌。蝦夷及南嶋七十七人。授位有差。己亥。宴百寮主典以上並新羅使金元靜等于中門。奏諸方樂。宴訖。賜祿有差。庚子。賜大射于南闈。新羅使亦在射列。賜綿各有差。

正月一日、天皇は大極殿で朝賀を受け、初めて皇太子(首皇子)が礼服を着て加わっている。陸奥・出羽の蝦夷並びに南嶋の奄美(阿麻彌)夜久(掖玖)度感信覺・球美等がそれぞれの地の産物を携えて来朝している。

儀式として朱雀門の左右に皷吹(軍楽隊)と騎兵を並ばせている。元日の儀式に鉦鼓を用いるのはこの時から始まったと記載している。この日、東方に慶雲が見られ、遠江國が「白狐」、丹波國が「白鴿」を献上している。十日に元日に皇太子が初めて拝賀した時瑞雲が明らかに見えた。故に大赦を行うべき、と詔されている。但し八虐・私鋳銭・盗人などは常のように除かれている。

また内外文武官六位以下の者を進位一階させている。また穗積親王に一品、志紀親王に二品、路眞人大人巨勢朝臣邑治大伴宿祢旅人石上朝臣豊庭多治比眞人三宅麻呂百濟王南典()・藤原朝臣武智麻呂に從四位上、大伴宿祢男人太朝臣安麻呂當麻眞人櫻井多治比眞人縣守藤原朝臣房前に從四位下、曾祢連足人佐伯宿祢百足百濟王良虞(郎虞)を正五位上、笠朝臣吉麻呂中臣朝臣人足に正五位下、臺忌寸少麻呂(宿奈麻呂)・道君首名(道公首名)を從五位上、下毛野朝臣石代・「當麻眞人大名」・紀朝臣清人土師宿祢豊麻呂(大麻呂に併記)に從五位下を授けている。又、氷高内親王に一品を授けている。次期天皇への布石であろう。

十一日に泉内親王水主内親王(共に天智天皇の皇女)長谷部内親王(天武天皇の泊瀬部皇女)に封戸百戸を増やしている。十五日に蝦夷及び南嶋の七十七人をそれぞれ叙位している。十六日、百寮の主典以上並びに新羅使者と中門で宴会している。各地方の樂を奏でた後に禄をそれぞれ与えている。十七日に南闈(大極殿の南門)で大射を行っている。新羅の使者も参加して、それぞれ真綿を賜っている。

<遠江國:白狐>
遠江國:白狐

やはりその国の僻地を開拓したと解釈しよう。遠江國は、現在の北九州市八幡西区・中間市・遠賀郡水巻町に跨る地域と推定し、前記で八郡に割いてみた(こちら参照)。

さて白狐狐=犬+瓜=平らな頂をした瓜のような様と解釈する。前記の嘉瓜に含まれる「瓜」の地形と思われる。

この地も大きく地形が変化していて、些か探し辛いのであるが、八郡の内の「磐田郡」と推定した場所、古遠賀湾に面するところと思われる。図ではその一部となるが、現在は多くの川が寄り集まる地形となっている。

<丹波國:白鴿>
丹波國:白鴿

前記で丹波國は白雉を献上していた。山稜の末端が集まる地形で雉の形を見事にしていたところと推定した。但馬國との国境であった。

今回は白鴿と記載されている。「鴿」は「鳩」と同じ意味を示すとされるが、実は「鳩」は野生のハトを、「鴿」は家ハト(ドバトと呼称)を表すと解説されている(現代中国では鴿子)。

「鳩」=「九+鳥」で、「九」=「鳴き声」を示すと言うのが定説のようである。一方「鴿」の文字についての解説は見当たらず、少し解釈を試みてみよう。

「鴿」=「合+鳥」と分解される。更に「合」=「亼+口」から成る文字で、「蓋をする様」を表していると解説されている。確かに蓋ができるようなところで飼った「鳩」を「鴿」と称したのであろう。屋根の下のハトである。地形象形的には鴿=屋根のような山稜の麓に佇む鳥となろう。図に示した覗山の山稜が覆い被さるようになっている場所と推定される。

<當麻眞人大名>
● 當麻眞人大名

「當摩(麻)眞人」も多くの人物が登場して来たが、彦山川の川辺まで行き着いた感がある(こちら参照)。その上に、なのであるが、どうやら少し揺り戻されているようである。

「豐濱」の系譜は一部知られているのだが、「楯」は全く情報がない。今回も情報なく、さりとてやはり大浦池周辺には間違いないであろう。既出の文字列である大名=平らな頂の麓にある山稜の端が三日月の形をしている様と読み解ける。

すると図に示した場所にそれらしき山稜が突き出た地形を見出すことができる。「當麻眞人」はまだまだ途切れることはないようで、果たして出自の場所は如何なる方面に向かうのか?…ご登場なされた時に読み解くことにしよう。

百濟王南典()は和銅元年(708年)三月から備前守に任じられている。和銅六年(713年)四月の記事で備前國を六郡に割って、新たに美作國を設置したと記されているが、統治能力を高く評価されたのであろう。従四位上として錚々たる面々に並んでいる。良虞(郎虞)は大寶三年(703年)八月から和銅元年(708年)三月まで伊豫守(後任は久米朝臣尾張麻呂)に任じられていた。

二月丙辰。制。尚侍從四位者。賜祿准典藏焉。丙寅。從五位下大神朝臣忍人爲氏上。」從四位下當麻眞人櫻井卒。丁丑。勅以三品吉備内親王男女。皆入皇孫之例焉。

二月四日に尚侍(後宮の内侍司の長官)で従四位の者は典藏(後宮の蔵司の次官)に準じた禄を与える、と制定している。十四日、大神朝臣忍人を氏上とする。この日に當麻眞人櫻井(和銅元年:708年三月武藏守)が亡くなっている。二十五日、吉備内親王(草壁皇子の氷高皇女、後の元正天皇、に併記)の男女の子(父親は長屋王)を全て皇孫と同様の扱いにしている。

確かに奔流の血筋ではあるが、それが過ぎると危ういことになる。事変が起こるのはもう少し後である。草壁皇子は天皇に準じる扱いであろう。書紀・續紀の記述の流れからすると頷けるようにも感じられる。

三月壬午朔。車駕幸甕原離宮。丙申。散位從四位上竹田王卒。甲辰。金元靜等還蕃。勅大宰府。賜綿五千四百五十斤。船一艘。丙午。相摸國足上郡人。丈部造智積。君子尺麻呂。並表閭里。終身勿事。旌孝行也。

三月一日に甕原離宮に行幸されている。十五日、散位(無任)の竹田王が亡くなっている。二十三日に新羅の使者の金元靜等が帰国している。眞綿を五千四百五十斤及び船一艘を与えている。二十五日、「相摸國足上郡」の人、「丈部造智積・君子尺麻呂」をそれぞれの郷里で表彰し、彼らの孝行を褒めている。

<相摸國足上郡:丈部造智積・君子尺麻呂>
相摸國足上郡

「足上郡」を調べると足柄上郡を”好字二字”の表記としたと解説されている。同じようにすると足柄下郡は「足下郡」と言われたとも記されている(Wikipedia)。

ところが記紀・續紀を通じて”足下郡”なる表現は登場しない。勿論”足柄下郡”も、である。そもそも「足柄」そのものの場所があやふやなのである。

「足上」の足=山稜が長く延びた様、即ち「足=帶(タラシ)」であろう。上=高くなる様と解釈する。古事記の豐國宇沙の足一騰宮に類似する記述であろう。長く延びた山稜の端が高くなっているところを表している。

図に示したように山稜の端で高く盛り上がって、当時はその先は海であったと推定される。即ち「下郡」は存在し得ない地形を表している。勝手に”好字二字”を持ち出しただけであろう。書物を真面目に読んでいるとは到底思えない杜撰さである。

● 丈部造智積・君子尺麻呂 二人の孝行者が記載されている。丈=十+又=長く腕を延ばした様であり、部=近隣の地を表す。頻出の智=矢+口+日=鏃のような形と炎のような形がある様と読み解いて来た。積=山稜が積み重なっている様である。これらの地形要素を持つ場所が「丈」の東隣にあることが解る。

君子=高台から山稜が生え出た様尺=尺の文字形のような谷間を表す。既に幾度か登場した文字である。すると東側の谷間の地形を示していることが解る。古事記の倭建命の時代には纏ろわぬ輩が生息していた場所であったが、時代が変わって来たのであろう。焼津(炎の形した高台にある津)と推定した辺りである。

夏四月庚申。櫛見山陵。〈生目入日子伊佐知天皇之陵也。〉充守陵三戸。伏見山陵。〈穴穗天皇之陵也。〉四戸。庚午。諸直丁經廿年已上者。預考選例。憐其勞也。癸酉。上村主通改賜阿刀連姓。丙子。詔叙成選人等位。授從三位粟田朝臣眞人正三位。正五位下長田王。大神朝臣狛麻呂。田口朝臣益人並正五位上。從五位上小治田朝臣安麻呂。縣犬養宿祢筑紫。平群朝臣安麻呂並正五位下。從五位下三國眞人人足。佐味朝臣加作麻呂。阿倍朝臣秋麻呂。坂本朝臣阿曾麻呂。日下部宿祢阿倍老。阿倍朝臣安麻呂並從五位上。

四月九日に「櫛見山陵」(生目入日子伊佐知天皇之陵)に守陵を三戸、「伏見山陵」(穴穗天皇之陵)に四戸を置いている。古事記では前者は伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の菅原之御立野中陵であり、後者は穴穗命(安康天皇)の菅原之伏見岡陵に該当する。

「櫛見山陵」は「御立野中陵」とは異なる表記であるが、「櫛」は「菅」が並ぶ様を言い換えたものと思われる。上記と同じく「見」=「谷間から山稜が延び出た様」であり、同じ場所を示している。異なる表記によって御陵の場所の確からしさが増したようである。両陵墓は僅か300m程度離れた場所にあり、同時期に守陵を置いたのであろう。

<生目-活目-伊久米入日子>
垂仁天皇の和風諡号の生目=生え出た山稜の傍らの谷間と解釈される。書紀が活目=水辺にある舌のような山稜の傍らの谷間であり、別表記と見做せる。

ところが古事記の伊久米=谷間で区切られた山稜がくの字形に曲がっているところに幾つも山稜が延び出ている様は別視点の表記であり、かつ難解な文字列である。

とは言え、これらの地形要素を全て満足することが必要であるが、三書の表記を読み解くことによって比定場所の確度が高まると思われる。

共通する「入日子」は図に示したように炎の地形が生え出て谷間に入り込む様を表している。多用されている文字列である。三書が共通の認識であることが確認される。「入」は「內」=「入+冂」に含まれる意味を表している。

十九日に官司に勤める諸直丁で二十年以上の者については考選の対象とする、としている。二十二日、慶雲元年(704年)二月の「上村主百濟」と同じく上村主通(大石に併記)が「阿刀連姓」を賜っている。

二十五日に成選(定期の叙位)を行っている。粟田朝臣眞人に正三位、長田王(六人部王に併記)・大神朝臣狛麻呂田口朝臣益人に正五位上、小治田朝臣安麻呂縣犬養宿祢筑紫平群朝臣安麻呂(平羣朝臣)に正五位下、三國眞人人足佐味朝臣加作麻呂(賀佐麻呂)・阿倍朝臣秋麻呂(狛朝臣)・坂本朝臣阿曾麻呂(鹿田に併記)日下部宿祢阿倍老(老)・阿倍朝臣安麻呂に從五位上を授けている。

「佐味朝臣賀佐麻呂」を「加作麻呂」と記載していると思われる。賀佐=押し広げた谷間の麓であるが、加作=押し広げた谷間がギザギザとしている様となろう。おそらく谷間の棚田が全体に広がったのであろう。しっかりと日常業務に励んでられていた故の叙位と推測される。

「日下部宿祢阿倍老」は「老」に「阿倍」が付加されている。確かに「老」の台地は阿倍=咅(子房と二つの花弁から成る形:不)のように延びた台地になっていることが分かる。續紀の時代になれば”地形象形表記”も完成に近い状態だったのであろう。ここまでくれば地名・番地も不要な・・・それはないであろうが・・・。

元号「靈龜」の謂れが待ち遠しいが、ご登場の時に・・・。