大國主命・大年神

須佐之男命・大國主命              建御雷之男神・建御名方神

大國主命・大年神


繁栄をした大斗の國、出雲國の更なる発展は如何なものになるのか、倭に向かうでもなく大國主命の最大のなやみであったろう。居心地よくて、さりとてこのままでは決して広い土地でもなく、いずれ行き詰まってしまうことも容易に読み取れる。

出雲を離れた連中は対馬海峡、何のそので盛んな交流をしている。がしかし「天」までは戻るが出雲までは届かない。周囲を山に囲まれて変な奴らに侵出される心配もなく居心地は良いが、こんな僻地にわざわざ来る奴の数などたかが知れている…と言うところであろうか。勿論これは嵐の前の静けさであって風雲急を告げる時が来るのである。
 
1. 来訪者

重要な説話が始まる・・・。悩める大國主命に心強い助っ人の来訪があった。

常世國・少名毘古那神

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」
故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
[そこで大國主の命が出雲の御大(みほ)の御埼においでになった時に、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾の皮をそっくり剥いで著物にして寄って來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者の神たちにお尋ねになったけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。依ってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となってこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。
それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子のことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です]

少名毘古那神*の登場。一寸法師かと思えるほどの記述である。しかも誰も名前を知らない、という特異な設定である。すぐに帰ってしまうところもあって何だか狐につままれたような気分になるところである。が、重要なことを幾つか告げている。その一つが出雲國への接岸場所である。

出雲之御大之御前

出雲之御大之御前の「御大之御前」は何と解釈するのか?…頻出する「御」=「束ねる、臨む」、「大」=「たいらな頂の山」とすると…「御大之御前」は…、
 
御(束ねる)|大(平らな頂の山の稜線)|之|御前(岬)
 
<出雲之御大之御前>
…「平らな頂の山(戸ノ上山)から延びる稜線を束ねたところの岬」と紐解ける。

「御前」=「前を束ねる」が直訳である。手綱を纏めた形、即ち先端が尖がって海に突き出た形を表わす表記になったと思われる。

後に登場する笠紗之御前などが典型的な例示となろう。「御(ミ)」は接頭語と解説されるが、やはり「束ねる」の解釈が地形を象っていて有意かと思われる。

図に示したように推定した当時の海岸線は御所神社近隣で大きな入江を作っていたと思われる。

また、入江を囲むように突き出た岬があり、それを「御前」と表記したのであろう(出雲全体は下図参照)。

後の安徳天皇が坐した場所は、この地近隣の御所神宮と言われる。大國の中心の地である。「御大」はそれを掛けた表記と推測される。通説は、全く意に介せず出雲の中心地から遠く離れた「美保」の地に比定する。これでは伝わらない、大切なことが・・・。

また、「御大(みお)」=「澪(みお)」=「水脈(船の水路)」と重ねられているようでもある。入江の中で川の流れが作った水路であり、それを伝って接岸するのである。「澪標」=「澪つ串」であり、水路表示と言われるものである。ブログの方でも幾度か取り上げた万葉歌で詠われた「身を尽くし」である。
 
天之羅摩船

<出雲俯瞰図>
蔓芋で作った船?…更には蛾の皮の服?…いくら神話と雖も少々短絡的な解釈であろう。

これが実しやかに語られているのが現状である。「羅摩」とは?…、


羅(連なる)|摩(接する)

…「連なり接した」船と読める。丸木舟ではなく板を張り合わせた、所謂構造船と言われる船のことを意味していると解る。

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和船
和船(わせん)とは、日本において発達し、幕末以後の洋式船舶の導入の前まで、移動や漁業に用いられた構造船及び準構造船の総称である。

和船はその構造において海外の船と大きく異なる形で発展した。応力を、海外の船では、竜骨や肋材といった梁部材で受けるという構造であり、これは大型化を容易にした。一方和船は、有史以前の丸木舟からの発達である所までは同様であったが、その後に、そのような部材は持たず厚板を必要な強度で継ぎ合わせた構造で発展を遂げた。

船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、諸手船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は基本的には全てそのような基本構造のもとにあった。和船はこのような基本構造のもとに日本各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称である。Wikipedia
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「內剥鵝皮剥爲衣服」は「鵝」=「鵞鳥」であろう。何のことはない、ダウンジャケットを身に纏っていたと告げているのである。

常世國の少名毘古那神が如何に先進のものを伝えたかを語っている。一寸法師がやって来た!…ではなく、大國主命が必要とするものを携えて、出雲の御大之御前に出向いて来た。少名毘古那神の所在は下記に述べる。

更には多邇具久(ヒキガエル)、久延毘古(案山子の神名)、山田之曾富騰(案山子の古名)、神產巢日御祖命まで登場するという豪華さ、案山子は古老の比喩なんでしょうか・・・。害虫駆除、稲穂を鳥から守る技術に長けた連中であろう。

少名毘古那神は最新の稲作技術を伝えに来たのである。神産巣日命は食料の神と紐解いた。専門は穀物でその種子を集めるのが得意、かどうかは不詳であるが、やはり大國主命支配下の出雲の食糧難を伺わせるものと思われる。

説話の内容から類推すると耕地の開拓はさることながら、収穫時の歩留まり向上であろう。何らかの手を打たねばならない時期に差し掛かっていたと推測される。大國主命の最大の悩み、と言える。案山子の効能を伝えたらサッサと「常世國」に引き上げたとのこと。
 
常世國

常世國は既に紐解いた。神の國、あの世…様々だが現実には存在しないところとして認識されて来た國ではなく、「天」にある地域を示す。
 
常(北向きに山稜が延びて広がる)|世(長く引き延ばされた)|國

…現地名壱岐市勝本町仲触にある地とした。島と島が繋がったようなところと見られる。その地に複数の古代の遺跡が現存している。古事記が描く時代よりずっと以前からの地と理解できる。思金神など優秀な人材が集まっているところと位置付けられているようである。
 
<少名毘古那神>
後の垂仁天皇紀の求人高倍率の時期に常世國の「橘」を求める説話が出て来る。上記の背景を知るとその説話の解釈もすんなりと理解できるものとなるのではなかろうか・・・。
 
少名毘古那神

「少名毘古那神」とは?…「名」=「山稜の端の三角州」、「毘古」=「田を並べ定める」、「那」=「揃える」と解釈できそうだが・・・。

残る「少」は何とするか?…「少」=「小+ノ」と分解される。「削ぎ取って減らす」と解説される。

これをそのまま地形象形に用いたのではなかろうか。即ち「少」=「山稜の端を削ぎ取ったような様」を表していると読み解ける。

すると「少名毘古那神」は…、
 
少(山稜の端が削ぎ取られた)|名(三角州)|毘古(田を並べ定める)|那(揃える)|神

…「山稜の端が削ぎ取られたような三角州の傍らで田を並べ定めて揃えた」神と紐解ける。

図に示した場所は、常世國では数少ない広く長い谷間の地形である。勿論父親の「神產巢日神」が坐した場所に含まれるところである。

先進の稲作技術の指導者であったと伝えているのである。稲穂を守るだけではなく、物知りの案山子を残して、サッサとご帰還、納得である。
 
御諸山神

と言ってる間に「御諸山神」が海上を照らしながらやって来て、自分を祀れ、宣ったとか。

於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山神也。
[そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸の山においでになる神樣です]

御諸山に坐す神とは?…ここではその名前を明らかにしないが、この後も引き続き登場する「大物主大神」であろう。そして常に祭祀しろと告げるのである。古事記は、一体何を語ろうしているのであろうか?…後に詳細を述べるとして、「大物主大神」の役割は極めて重要なことを表わそうとしていることには間違いない。

通説はこの大神の実体はなく大國主命の「言霊」のような解釈を行って来た。この大神から皇統に関わる比賣が誕生するのであるが、日本書紀に至っては、その比賣の父親に事代主神を当てる。神話の時代、皇統の乱れなど意に介せず、の感である。これら含めて後の記述に譲る。

<御諸山>
さて、「御諸山」の場所を特定するにはこの段階では不可である。後の崇神天皇紀に大変な國難にぶつかる。

疫病が蔓延してしまい、その時に現れるのがこの「御諸山」の神で同じく祭祀しろと言いつける。

ここでは結論だけを記す。伊邪那岐【神生み・黄泉國】で登場した黄泉比良坂の先の尾根にある三つの頂上を持つ山(現在名谷山)である。

後に登場する美和山(現在名足立山)と併せて紐解いた結果である。尚「御諸」=「凹凸を束ねた様」が直訳である。

上記に「倭之青垣東山上」と記される。これに従って「倭」に御諸山があったとされて来たようであるが、「倭」は倭國ではない。「青垣」=「取り囲む山稜」黄泉國を取巻く山稜である。
 
しなやかに曲がる山稜の東にある山の上

…と解釈する。美和山の「和」も同じ山稜を模した表記と思われる。この御諸山の場所、それが極めて重要な意味を含んでいることが後に明らかになる。<大物主大神についてはこちらを参照>

2. 大年神の子孫

大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神。五神。又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、次御年神。二柱。又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子神、次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、次大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、次庭津日神、次阿須波神此神名以音、次波比岐神此神名以音、次香山戸臣神、次羽山戸神、次庭高津日神、次大土神、亦名、土之御祖神。九神。上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。

大年神は、須佐之男命と神大市比賣との間に生まれた神である。「年」=「禾+人」であり、稲の収穫を示す文字と解釈されている。保有する財力で子孫繁栄へと進んで行ったのであろう。

八嶋士奴美神とは異母兄弟となる。その彼の末裔が記述される。言い訳ではないが、真に難解な表現である。通説では「京城」まで登場するようである。

①神活須毘神之女・伊怒比賣

「神活須毘」には既に紐解いた文字の列であろう。順次置き換えてみると…、
 
<神活須毘神・伊怒比賣>
神(稻妻の山麓)|活(舌の形)|須(州)|毘(並んだ田)


…となる。

前記の「神大市比賣」などと同じ山麓でその形が「舌」のように突き出たところ…現在の門司区城山町辺りと思われる。

「伊怒比賣」の「怒」は何と紐解くか?…「怒」=「女+又+心」とバラバラにすると、それぞれが地形・場所を表す文字となる。「伊」=「人(谷間)+尹[|(区切る)+又(山稜)]」と分解され、「谷間で区切られた山稜」と解釈すると、「伊怒」は…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|怒(嫋やかに曲がり[又]の地形の中心)

…に坐していた比賣と解釈できるであろう。「女」=「嫋やかに曲がる」、「又」=「[又](手:二俣)の地形」、「心」=「中心」と解釈する。

父親には「毘」が含まれるがその比賣は「毘賣」と記されない。田とは無縁の比賣だったのであろう。これは御子の「大國御魂神、次韓神、次曾富理神、次白日神、次聖神」がこの地には居なかったことと深く関連するようである。
 
大國御魂神

父親の大年神の弟、即ち叔父に宇迦之御魂神がいた。「御魂神」は同じ解釈とすると…、
 
大(平らな頂の山稜)|國(地)|御(束ねる)|魂(玉のような山)

…「平らな山頂の麓の地で玉のような山を束ねる」神と紐解ける。現地名は門司区大里桃山町辺りと推定される。宇迦之御魂神とは桃山を挟んだところと読み解ける。束ねる「魂」は、桃山と戸ノ上山の西稜となる。下図<大戸比賣神(竈神)>参照。

神宿る山:戸ノ上山山頂への「戸口」の一つである。上記も含めて地形的に特徴ある場所であり、特定が容易となるが故に「玉」を使わなかったのであろうか・・・いずれにしても桃山は頻出する。この特徴的な地形を告げているのであろう。出雲のランドマーク、通説はほぼ無視である。
 
韓神

大年神の御子が「韓國の神」となる?…三韓統一の神?…あり得ない。それを知ってて使った文字であろうが、これも少々捻れている感じである。

「韓」=「井桁」を意味する。すると後の八上比賣が木の俣に残して去った「御井神」と重なるのだが・・・。現地名は門司区大字大里、緑ヶ丘の谷筋を登ったところである。下流に広がる「年」の地への重要な水源があった場所と思われる。
 
<伊怒比賣の御子>
曾富理神

「京城」が出て来る所以である。確かに「韓」と来て「曽富理」だから…これは決定的に捻れた表現であろう。そう読めるようにも記述している。

「富」=「宀(山麓)+酒樽の象形」と解説され、安萬侶コード「酒(境の坂)」とした。
 
富=山麓の境の坂

…と紐解ける。坂を登り切ったところは「境」であることを示している。

「理」は…「理」=「王+田+土」から成り「土地に筋目を入れる(入れられた)様」の象形から発生した文字と言われる。畔で仕切られた「田」を表す場合もあるが、地形象形では単に「田」を示すよりも「筋目」の意味を表すようである。「曾富理」は…、
 
曾(重なる)|富(山麓の境の坂)|理(筋目がある)

…となる。「山麓の境の坂に重なった筋目があるところ」の神と解釈できるであろう。現地名は門司区大字大里、上藤松(一)の谷筋を示していると思われる。谷が十字に交差する様子を「理」で表現したと読み解ける。

現在も複数の堰が設けられているようであり、急傾斜の斜面で階段状に作られた田も作れていたかもしれない。上記と同じく「年」の地への重要な水源があった場所である。ところで前記でこの地は「八十神」の出自の場所と推定した。「八十」及び「理」の解釈を互いに補完し合うものであろう。矛盾のない読み解きと思われる。

「曾」「富」「理」の三文字、それぞれの成り立ちから紐解かねば伝わらない。しかしながら、それが分かれば決して奇想天外な記述ではなく、古代にあったであろう現実が浮かび上がって来る。それにしても「京城の古名」を匂わせるような文字使い、意図的、と思われる。
 
白日神

「白日」は「白日別」に接するところであろう。また既出の黄泉比良坂に繋がる場所と推定される。現在の門司区大字大里、上藤松(三)の谷筋である。
 
聖神

「聖なる神」ではなかろう?…よくぞ見つけて来たよ、この文字を…という感じである。「聖」=「耳+口+𡈼(テイ)」に分解される。多用される「耳」=「耳の形」、「口」=「大地」である。「𡈼」=「飛び出る、真っ直ぐ立つ」と解釈されている。纏めると「聖神」は…、
 
聖(耳の地形が飛び出ているところ)|神
 
<伊怒比賣・香用比賣の御子>
…となるが、果たしてそんな地形はあるのか?…現在の門司区光町・青葉台辺りである。

後に御諸山の大物主大神が陶津耳命之女・活玉依毘賣を娶ったと記述される。

その「陶津耳」に合致する。古事記は語らないが何らかの繋がりがあったのではなかろうか。上記を纏めた図を示す。
 
后が住まう地に神子達が居たのではなく父親の近隣である。稀有なケースなのだが、「神活須毘」は狭く、后の名前「伊怒」と記述している。

「大年神」は出雲の南部の開拓に邁進したのであろう。「大年神」の居場所は図のような範囲と推測される。

八嶋士奴美神の御子である布波能母遲久奴須奴神」は叔父二人と従兄弟達に取り囲まれた配置になる(実線:親子、破線:娶り)。それが何を意味するのか…彼は肥河の比賣を娶って後裔は出雲北部に移って行くことになる。

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余談だが・・・「宇迦之御魂神」は「女神」とされている。伏見稲荷大社の主祭神とのことであるが、これも少々捻れた感じである。上記の紐解きからでは女神も稲荷神もその影は伺えないようである。

<香用比賣・大香山戸臣神・御年神>
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②香用比賣

出自が不明でこの文字だけで解釈しろ、ということなのであろうか…既に紐解いたように「香(山)」=「[香]の形をした(山)」と紐解いた。

天香山の「香」=「黍+甘」と分解され、それぞれの文字形で地形を表記したものと思われる。古文字は下記の図を参照。

それと同様にこの地にある「香」を求めると、図に示した通りに現在の戸ノ上山の山稜を表していると解る。

尾根にある窪んだところを「甘」に見立ててしなやかに曲がる山稜を「黍」と見做したのではなかろうか。天香山に通じる地形象形であろう。

些か解釈に戸惑うのが「用」の文字で、この文字の解釈には幾通りかの説が見受けられる。藤堂明保説に「用」=「突き通す」の原義が示されている。

戸ノ上山の北西麓の瀧ノ観音寺に向かう谷は、正に「用」の字形に合致した地形を示していると思われる。

初見では「禾+白(モウス)」として「神を祭祀する場所」解釈したが、辿り着くところは同じである。即ちそんな意味合いも重ねているのであろう。

がしかし、場所を一に特定することは不可で、御子の名前などから求められたのである。麓は門司区不老町(二)とある。

御子に「大香山戸臣神、次御年神」と記される。
 
大香山戸臣神・御年神

「平らな頂の香山の登り口の臣神」という解釈であろう。上記の麓辺りと思われる。御年神とは…、
 
御(束ねる)|年([禾]のようにしなやかに曲がるところ)

…「[禾]のようにしなやかに曲がるところを束ねる」神と紐解ける。上図に示した通り大年神に隣接し、それほどの長さはないが複数の[禾]の形に延びる山稜を束ねたような場所と思われる。この御子の名前からも母親の居場所の確からしさが伺える。

③天知迦流美豆比賣

脚注に「訓天如天」と記される。「天=阿麻」ではないということであろう。まさか「テン」?…と思いつつ紐解いてみよう。「流美豆」から見ると…、
 
流(広がる)|美(谷間の大地)|豆(凹凸のある地面)

…「谷間に広がる凹凸のある地」と読み解ける。既に登場の「美」はその甲骨文字から解釈された地形を示す。「知迦」は何を意味するのか?…凹凸の地面が続くのであれば、と気付き…、
 
知(鏃の形)|迦(合せる)

…としてみる。「知」=「矢+口」=「矢の口(鏃)の形」に分解したことに基づく。どうやらここまででは「鏃の形を凹凸の地面で繋ぎ合わせる」の意味を示しているようである。
 
奧津日子神・奧津比賣命

御子が「奧津日子神、次奧津比賣命」と記述される。既に登場の「秋津」の「奥津嶋比賣命」に関わる名前と判る。「火の津」の河口付近・・・これで解読可能となった。「天」=「火の文字の上部(頭)」を指し示していると紐解ける。「天知迦流美豆」を通して見ると…、
 
天知([火の頭]が[鏃])|迦(出合う)|流美豆(谷間に広がる高台)

<天知迦流美豆比賣と御子>
…「[鏃]の形をした[火の文字の頭部]が谷間に広がる高台と出合うところ」の比賣と解釈される。

現地名は宗像市神湊であり、釣川の河口付近の場所と比定される。

この地域の当時の地形は、現在と大きく異なり、かなりの部分が海面下であったと推測され、限られた高台の地に坐していたのであろう。

図に「段天」という地名がある。その由来は不詳であるが「天」の所以を知りたいところでもある。

「秋津」を「火の津」と解釈することと全く矛盾しない表記であろう。それにしてももっと簡単な表現方法もあったと思われるが、古事記作者の戯れかな?・・・。

「奥津比賣命」は「亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也」と追記される。
 
<大戸比賣神(竈神)>
大戸比賣神(竈神)

「大戸」は「平らな頂の山稜への登り口」を表すとして、「竃」とは何を意味するのか?・・・。

謎が解けたのは神倭伊波禮毘古命の兄、五瀬命が葬られた地:竈山の解読ができて漸く、その示す意味が読み解けたのである。


竈で積み上げられた焚き木が燃える様子、即ち交差するように稜線が延びる山(小高いところ)を「竈」に象ったと紐解けた。

「竈」は、葦原色許男が表す山、現在の北九州市門司区にある桃山である。

図に少し手を加えて「雲」が浮かんでいるようにしたが、湿気の多い淡海からの谷風が作るユラユラと立ち上がる雲を竈の煙に見立てのではなかろうか。この比賣の出自が「火」の津、「火の粉(子)」が「竈」に入り、八雲立つ…煙が立ち昇る、何ともよくできた筋書きであろうか・・・。

「八雲」=「谷の雲」の意味を追加した方が良い?…いや、「八」=「多い」ではなく「谷」であったと気付かされた。宗像と出雲は、天神達が倭國に到達する前に深く関わる地であった、と古事記は伝えている。
 
大山咋神(山末之大主神)

更に御子が続く…「大山咋神、亦名、山末之大主神」の大物が現れる。出雲國を飛び出た神であり、その行き先は倭國に近付く地であると伝える。
 
<大山咋神(山末之大主神)>
この名前を何と紐解くか?…「山末」の別名からすると山稜の端に坐していたのであろうが、「大主神」とは大物風の名付けであろう。

勿論これでは至る所にある山稜の端から場所を特定することは不可能である。やはり「咋」の解釈に頼ることになる。

幾度か登場する「咋」=「口+乍」と分解される。「作」にも含まれる「乍」=「切れ目を入れる様」を象ったものと解説される。

結果として、ギザギザ(段々)になった形を表すものと解釈されている。伊邪那岐の禊祓で生まれた飽咋之宇斯能神などに含まれた文字解釈である。

類似の地形、山稜の端が海(汽水湖)に面するところは浸食によって複雑な形状を示すと思われる。それを「咋」と表記したと読み解ける。


大山(平らな頂の山稜)|咋(ギザギザになった地形)

…と紐解ける。

些か不運なことに「山末」は地形の高低差が少なく判別し辛いのであるが、その時は陰影起伏図を採用すると、「淡海」に面した場所でギザギザとした地形が見出せる。図に示した通りに父親の大年神の近隣の地である。

また、大年神が香用比賣を娶って誕生させた大香山戸臣神、御年神の前に隣接するところと解る。「大主神」とは、大物風などと述べたが、「主」=「山稜が[主]の地形」として「山末之大主神」は…、
 
平らな頂の山の山稜が[主]の形から伸びた稜線の端


…に坐した神と読み解ける。正に戸ノ上山山稜の中央部に位置する枝稜線の端っこに当たる場所である。端っこで誕生すると、新天地を求めて彷徨うのであろうか?…山の谷間に居ては巣篭ってしまうのかもしれない。彷徨う先が、何とも突飛なのだが・・・。


<大山咋神(山末之大主神)>
出自の場所に加えて、坐した場所が二つもある程に活躍をされた神である。その場所は「近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾」と記述される。

この神には「用鳴鏑神者也」と付記されるように武闘に長けていたのであろう。強引に遠征したのであろうか・・・。

突然倭國の地名が出現する。この記述だけでは到底突き止めることは不可能で後代の記述に依存する。それらを参照しながら求めてみよう。
 
・近淡海國之日枝山

「近淡海國」は現在の行橋市、京都郡みやこ町・苅田町辺りが該当するところである。

玄界灘・響灘に面するのではなく周防灘に一部に接し、倭國の中心に近接するところである。

古事記の中で発展する地であってその初期は蛇行する複数の川がある入江の「難波」の地であったと思われる。


「近淡海國」の場所が求められるのは、垂仁天皇紀に山邊之大鶙が鵠(クグイ:白鳥の古名)を求めて木國から高志まで追跡する行程の記述からである。水辺に佇む鵠の居場所を求める?…何故そんな説話を?…と訝っては勿体ない。登場する國々の場所が線で繋がった見事な記述なのである。安萬侶くんが伝えたかったのは、國々の配置であったことに間違いなかろう。

さて、その「近淡海國」にある「日枝山」は入江の奥まった中央にあり中心の地点にあったと推定し、現在の行橋市上・下稗田辺りにある小高いところとした。現在の日吉神社、比叡山それらの”本貫”となる地である。
 
<近淡海國之日枝山>
「日枝」とは何を示しているのであろうか?…「日(炎)」として、「枝」=「木(山稜)+支(分かれる)」と分解すると…、
 
[炎]の形の山稜が枝のように分かれているところ

…と紐解ける。

図に示したように長く延びた主稜線が更に分かれるところが見出せる。その枝稜線が[炎]のような地形を示している。


この地は後の開化天皇紀に比賣陀と記される。共にこの枝稜線の形を表したものと思われる。異なる文字で重ねられた表記である。

古事記が記す「日枝」の由来である。解ければ納得の地形象形と言えるであろう。「日枝山」は現在大規模な団地(宮の杜)となっているところと思われる。後の大雀命(仁徳天皇)が開拓する難波津の中央部にあり、天皇の宮こそ建てられることはなかったが、多くの命が住まった場所でもある。

「日枝(ヒエダ)」=「稗田(ヒエダ)」は関連する地名と思われるが、定かではない。「日吉」、「比叡」と文字が変化するが、それらの全ての元がこの地「日枝」にあると確信する。

・葛野之松尾
 
<葛野之松尾>
「葛野」は「吾勝野」と呼ばれた地域(現在の田川郡赤村赤)にある場所と比定した。その中に「松尾」と表記される場所が見出せるであろうか?・・・。
 
「松」=「木+公」と分解される。「公」の甲骨文字を図に示したが、「公」=「ハ+囗」と分解される。

「八」=「谷」の象形としてきたが、大きく開いた谷間を表していると思われる。「囗」がその間にある台地を示している。見事に「公」の文字ができ上がっているのである。

近淡海國と同様、未開の地であったと思われるが、上記したように「用鳴鏑神」と言われ、武力を背景とした侵出を行ったようである。

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上記の、唐突に記された「近淡海國之日枝山」、「葛野之松尾」は一体何を示そうとされたのであろうか?…坐したのであるが、その後の経緯は全く語られない。後代に近隣の地に命が入って行くが、その繋がりも不詳である。関連する資料がなかったからであろうが、大年神の系列として、発展する記述は見当たらない。

憶測の域ではあるが、これらの地は、邇藝速日命が戸城山に坐し、その子孫が南北に広がり(現在の田川郡赤村~北九州市小倉南区)、また、その領域に留まったことを示しているように感じられる。その領域の東側及び南側は全くの未開の土地であったのであろう。

邇藝速日命系列もさることながら、速須佐之男命ー大年神系列も、古事記が語る歴史の影の部分を担う役目となっているようである。そして、このコントラストこそが古事記が伝える主要なところの一つでもあることを忘れてはならないように思われる。これらは後に記述される倭國の中心、即ち大倭豊秋津嶋への侵出の布石であり、その周辺が示された最初の例である。

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<庭津日神・庭高津日神>
庭津日神・庭高津日神
 
多彩多様な文字使いに少々悩まされるが・・・「廷」=「平らに延びる・広がる」の意味を持つとされる。

本来は「广+廷」で屋根付きのようであるが…いや、その本来の意味を採用する。「广」=「山麓」を象ったと解釈する。

すると「庭津日神」は…、


庭(山麓の平らに広がる)|津(集まる)|日([炎]の地形)

…「山麓の平らに広がるところが集まった[炎]の地形がある」地に坐す神と読み解ける。また「高」=「皺の筋目のような様」で「高天原」などの解釈と同じとして、「山稜が皺の筋目のようになっている様」と解釈する。

すると「庭高津日神」は…、
 
庭(山麓の平らに広がる)|(山稜が皺の筋目のような)|津(集まる)|日([炎]の地形)

…戸ノ上山の山麓を探すと「寺内」という地名が見つかる。そして低いところと少し山麓を上がったとことで所望の地形が見出せることが判る。住宅地に開発されており、些か判別が難しい地形ではあるが、特に[炎]の地形、推定可能な域にあると思われる。
 
阿須波神・波比岐神・羽山戸神

これらの名前を以下のように紐解いた。
 
<阿須波神・波比岐神・羽山戸神>

阿須波=阿(台地)|須(州)|波(端)

…「州の端にある台地」であろう。現地名は門司区大里東(一)、海に接するところと思われる。
 
波比岐=波(端)|比(並ぶ)|岐(分かれる)

…「端にあって分かれて並ぶところ」と紐解ける。上記の北側にある台地、現地名は門司区矢筈町である。共に肥河の河口付近に居た神と伝えていると思われる。「羽山戸神」は…、
 
羽山(端の山)|戸(登り口)

<風師(頭)山>
…「端の山(風師山)の登り口」に坐した神と紐解ける。出雲の端にある山として妥当な解釈に至る。

更に「戸=斗(柄杓)」として、柄杓のような凹んだ地形を表しているとも思われる。重ねた表記として解釈する。現在の門司区羽山辺り、小森江貯水池がある。

また「羽(ハ)」=「端(ハ)」の読み替えの解釈としたが、古事記では多くは「波」の文字を使用する。

何故「羽」を用いたのか?…下記に「風師山」は「扇」の形をしていると述べる。「扇」に「羽」が含まれている。
 
羽山=風師(頭)山

…であった。山容を模した、そのものズバリの表記であった。「端の山」の解釈も記録として留めることにする。
 
香山戸臣神・大土神(土之御祖神)
 
「香山戸」とは上記外の戸ノ上山の登り口を意味していると思われる。現在も門司区城山町からの北麓からの登山道が記載されている。おそらくは類似のルートがあったのではなかろうか。


<香山戸臣神・大土神>
次の大土神の解釈は「土之御祖(祖先)」から考察すると岩石の集積所ではなかろうか?…。

古事記の作者は…当然ながら…岩が砕かれて石、砂、土へと状態を変えていくことを理解していると思われる。

現在も採石場の場所が鹿喰峠付近にある。岩石が川を流れて砕けて土となることを示しているようである。図に重ねて表示した。

文字の意味から場所を求めることは可能であるが、更に「御祖」は地形象形表記しているのではなかろうか・・・。

「御」=「束ねる」として、「祖」=「示(高台)+且(段差)」と分解すると、「祖」=「段差のある高台」と紐解ける。「御祖」は…、
 
段差のある高台を束ねたところ

…と読み解ける。現在の鹿咋峠辺りを表している。「且」は「宜」=「山麓の段差がある台地」を象ったと紐解いた。大宜都比賣佐佐宜郎女など幾度か出現した文字である。両意に掛けて表記された典型的な例と思われる。

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「秋津」(宗像)に居た「天知迦流美豆比賣」の御子の大半は父親の大年神の出雲に移って行ったことが解る。「天」から移住した子孫は東へ東へと移り住んで行くことを願っていたのであろう。当時の宗像は現在とは大きく異なり大河の中~下流域であって、多くの人々が生きるために決して適した場所ではなかったことが伺える。

東へと向かっても、奪い合うような狭い土地を、また未開の谷間を命懸けで開拓して行った古代の生業を思い浮かべさせる記述であろう。古代、そして現在の日本に繋がる、血と汗と涙の歴史、それが日本人が生きる知恵と勤勉さを獲得した最大の理由ではなかろうか。それを古事記が忠実に伝えていることを読み解けたようである。(2019.05.01 令和元年)

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2-1. 羽山戸神の子孫

「大年神」の御子の一人「羽山戸神」の娶りと御子が記述される。


羽山戸神、娶大氣都比賣自氣下四字以音神、生子、若山咋神、次若年神、次妹若沙那賣神自沙下三字以音、次彌豆麻岐神自彌下四字音、次夏高津日神、亦名、夏之賣神、次秋毘賣神、次久久年神久久二字以音、次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音。上件羽山之子以下、若室葛根以前、幷八神。

<大氣都比賣神>
娶ったのは「大氣都比賣」とある。この比賣の出自は不詳であるが、前記で登場の「大宜都比賣」ではなかろう。名前が示すのは豊かな「食肉」のイメージには変わりない、かもしれない。「大」=「平らな頂の山」、「氣」=「長く延びる湯気の様」とすると…、


大(平らな頂の山稜)|氣(長く延びる)|都(集まる)

…「平らな頂の山稜が長く延びて集まっているところ」の比賣と読み解ける。該当する地形が現地名北九州市門司区清滝に見出せる。この娶りが示すことは、出雲の最北部は羽山戸神、即ち大年神一族によって統治されたことであろう。

誕生した御子を順不同で読み解いてみよう。「若咋」、「若年」は「大山咋神」(山稜の端がギザギザとなったところ)、「大年神」(しなやかに曲がったところ)に因んだ命名であろう。「沙那賣」=「海辺が豊かで凹の地形のところ」として、羽山近隣の海岸(羽山川河口)付近を示すのではなかろうか。
 
<羽山戸神・大氣都比賣神の御子>
「彌豆麻岐」は…、

 
彌([弓]の形)|豆(高台)|麻(小さく)|岐(分かれる)

…「[弓]の形になった高台が小さく分かれているところ」の神と紐解ける。現在の門司区二夕松・風師辺りと推定される。出雲が尽きるところである。

高台の縁が[弓]の形(図では上下逆様)に突出て接近している様を「彌」=「弓+爾」と表記したと解釈される。

「若山咋神」は大山咋神と同じく、山稜の端がギザギザとしたところと推定されるが、その中でも山稜が最も「淡海」に突出たところと思われる。他の御子の所在と併せて図に示したところと推定される。

さて、次から記述される四季の名前は何と解釈できるであろうか…「夏」の字源はやや複雑である。夏祭りで舞う姿からとか…この文字の頭の部分が大きな冠・面を表し、覆いかぶさる様と解説される。

地形象形的には、それが山頂の形を象っているのではなかろうか…風師山の頂上の形である。高天原に含まれる「高」として「皺が寄ってできた筋目のような山稜」とすると…「夏高津日神」は…、
 
夏(風師山)|高(皺の筋目のような山稜)|津(集まる)|日([炎]の地形)|神
 
<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命と御子>
…現在の羽山にある小森江貯水池に隣接するところと推定される。

別名「夏之賣神」とも言われる。「賣」=「凹んだ隙間の地形」と紐解とける。

深い谷間を示しているが、現在も風師山登山口の一つになっているようである。

次の「秋」は?…風師山の頂上はいくつかの峰が連なった地形を示すが、「秋」は何処か?・・・。

図に示したように山腹の稜線が放射状に延びているところがある。それを「秋」=「禾+火」の「火」の形と見做したのではなかろうか。

現在は「小森江子供のもり公園」となっている辺りと推定される。「秋毘賣神」の「毘賣」は田を並べて稲を栽培する意味を持つと読み解いた。広くはないが水田稲作に適した場所であったと思われる。

少々先の話になるが孝霊天皇紀に「夜麻登登母母曾毘賣命」が登場する。紐解いた結果を図に示す。天皇家の草創期には重要な役割を果たした地であったことが伺える。異なる表現をすれば、何としても手に入れたかった地であったとも推察される。

風師山は「風頭山」とも言われるそうである。由来は定かでないが、「風が吹いて来る方向にある」とか言われるようである。「風」=「扇子」である。扇子の先の折り畳みを示していると思われる。見事な命名ではなかろうか。

<羽山戸神の子孫>
久久年神、久久紀若室葛根神」に含まれる「久久」とは?…「速甕」である。「甕」二つ縛ったような山:矢筈山と紐解いた。

上図<風師(頭)山>を参照。頂上が二つ並んでいる様子が伺える。これを「久久」で表したと思われる。

「久」の文字は川、山の形状表記に多彩に活用されているようである。

「久久年神」の「年」は下記に詳述するように「年」=「禾+人」に基づくと紐解いた。

「禾」が示す嫋やかに曲がる地形である。矢筈山の山陵が伸びている様を模した表記と解釈される。

「久久紀若室葛根」は…同じく「久久=矢筈山」として…、
 
紀(曲がりくねる)|若室(谷間が行き止まりかけるところ)|葛根(葛の根のような)

<久久の御子>
…「矢筈山の山麓が葛根のような地形で曲がりくねった谷間のが行き止まりかけところ」に坐す神と紐解ける。

「若」=「成りかけ」で、「兒」と類似の意味を表していると思われる。

山麓が葛の根(地下茎)のように垂れ下がった様子であることが判る。これを象った命名と思われる。

「若年神」も同様に解釈して「禾」(しなやかに曲がる)に成りかけのところ、図に示したように「久久年神」の北側と推定した。

上図<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命と御子>に記した「倭飛羽矢若屋比賣」より矢筈山の山腹に上ったところに当たる。

後代になるが、羽山戸神の子孫の地は、天皇家によって置換えられて行ったことを伝えている。師木津日子玉手見命(安寧天皇)の孫、淡道之御井宮に坐した和知都美命、更には孝元天皇紀の建内宿禰の御子、波多八代宿禰が侵出する。古事記は語らないが、この地も攻防のあったところであろう。いずれにしても当時は重要な地点であったことは間違いないようである。
 
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些か解読に手こずった「大年神」の名前について少し考察を加えてみよう。彼の名前が意味するところは、従来より解説されているように「穀物」に関わり、出雲では珍しい豊かな地を切り開いた印象を強く示す命名であろう。

<大年神①>
「大物主大神」に繋がり、出雲の南部の支配者としての位置付けも確かなようである。
坐した場所も後裔達の居場所から十分に確からしく求めることが可能である。
 
間違いないところなのであるが、それだけで済ませないのが古事記、安萬侶くん達の為せるところと思われる。

ところが「年」の一文字で何を表そうとしたのか、短ければ短いほど紐解きは難しくなる。地図を確認すると、やはり桃山から、微かではあるが、山陵が伸びていることが解った。国土地理院の陰影起伏図で確認できる。これを閲覧しなければならないほど、微か、である。

更にこの微かな山稜の端が「禾」の象形のように嫋やかに曲がっていることが見出だせる。「年」=「禾+人」と分解されると解説されている。「人」=「谷間」であり、これで「年」が表す地形が求められる。即ち「年」=「谷間に稲穂のような山稜が延びている様」となる。

纏めると「大年」は…、
 
大(平らな頂)の年(稲穂のような山稜が谷間に延びているところ)

…と紐解ける。ここに至る切っ掛けは、上記の「久久年神」にあった。下記するように桃山と矢筈山の地形的相似から「年」が山を示すという解釈を行うのであるが、大年神の場所はその麓とできるが、「久久年神」の場所は多数の御子が所狭しと併存することから不可である。やはり、「年」は麓の地形を示していると気付かされた。

草書体なんていう、古事記中唯一の手法、これも面白いところではあるが、山そのものは住まう所ではないようである。記念に残して置くことにする。
 
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<大年神>
頻出の甲骨文字か?…など試すが行き当たらないようである。図に示した通り、草書体を用いていることが判った。「年(楷書体)」の草書体を図に当て嵌めてみると・・・。

大きく膨らんだ線がスッポリと桃山を取り囲む様が見て取れる。右側の蛇行するするところは谷川であり、登山道であり、尾根までしっかりと届いている。

偶然にしては出来過ぎ?…大年神の領域は二つの谷川に挟まれたところと比定したが、彼らの恵まれた環境はこの桃山の二つの谷川に依存するのである。命名に用いるには最も適した位置関係であろう。

「御魂」と呼ばれ、南部出雲のランドマークである。これを外す訳もない。しっかりと刻まれていたのである。それにしても古事記編纂に関わる人達の地形認識のレベルの高さにあらためて感心する。


大國主命(オレンジ色)及び大年神(ブルー色)関連で記述された人名(地名)を下図に示した。大きく別けると大國主命は出雲の北部に限られ、一方の大年神はほぼ全面的に分布していることが判る。二人の軌跡が重なっているのは中央部、戸ノ上山の西麓と南部の「宇迦」(桃山の西麓)である。


大國主命は黄泉國で須佐之男命から大國の主と認知され、桃山の麓の宮作りからスタートしたと記述された。

確かに大國主命は正統の出雲國主だったのである。彼の子孫の分布は肥河(大川)の河口付近に延び、その後は「天」に向かい、更に新羅へ飛びその後「天」に戻るという軌跡を辿ると紐解いた。

大年神は南部の肥沃な「州」に居たと推定した。

彼に関する説話は全く見られないが名前と居場所からその生業を推察できるようである。

子孫は出雲の中央、南部から進展して北部に至り、その地で更に子孫が延びていったと記される。

彼ら二人は共に秋津(宗像)から娶る。大國主命の子達はその地に坐し、大年神の子の奧津比賣命(別名大戸比賣神)は大戸に坐したようである。

この差は大きく、大戸比賣神が多くの子孫を誕生させ、出雲、更には倭にも散らばることになる。

秋津からの娶りに加えて戸ノ上山の麓からも同じように娶る。

世代差から考えても同じような姻戚関係にある大先輩の地に大國主命は投げ出されたという感じである。

大國主命は須佐之男命からの言いつけの通りに「宇都志國」を大年神がその財力を持って作り上げた地に打ち立てようとした(大國御魂神、韓神など)。

「韓神」の地に「御井神」を置き去りにしたという記述は大國主命がその地を離れたという比喩ではなかろうか。行き着く先は北部の大年神の子孫が手を付けていない場所に限られたのであろう。

幾度か述べたように出雲は決して広い地ではない。南の「州」が開拓されれば残るは北の肥河(大川)の河口付近及び上流の谷間に限られてしまうのである。


<八嶋士奴美神・大國主命 vs 大年神・羽山戸神>
系図と併せて見ると、そもそもは「大年神系」とその同世代の従兄弟(?)である「八嶋士奴美神系」(肥河が合流するところに坐した)との確執のように映る。

前者は確実に「州」をものにして行ったが、後者は肥河を治めることができなかったのであろう。

彼の末裔は「天」に戻りそこで大國主命が生まれる。「刺國」(小呂島)という特異な場所で…。

大國主命は天神が差し向けた「刺客」と解釈してよいであろう。「肥河」をものにせよ!という指示なら分かるが、敢えて大年神の地「宇迦」を狙わしている。

結果はまたもや舞い戻りの経緯となる。挙句には新羅まで…所詮開拓できる土地がなければそこを離れるしか方法はなかったのである。

大國主命の悩みは当然であろう。そして深刻であったろう。その窮状に「天」が手を差し伸べて上記の説話となる。だが、時既に遅し、という状況を生んでいたのである。出雲は確かに豊かになった。それ以外の地を求めるには知識も知恵も不十分であったと推測される。

それを成し遂げた大年神及びその子孫も出雲からの脱却を試みてはいた。御子の「大山咋神」が唯一その方向へに向かった神である。だが、記述を見る限り、単発である。支援もなく継続できなかったであろう。この閉塞感を示すこれらのことが天神達がしゃしゃり出る理由であり、邇邇芸命の降臨を生じる背景と読み取れる。


須佐之男命・大國主命              建御雷之男神・建御名方神




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