2022年1月31日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(33) 〔570〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(33)


天平十四年(西暦742年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十四年春正月丁未朔。百官朝賀。爲大極殿未成。權造四阿殿。於此受朝焉。石上榎井兩氏始樹大楯槍。辛亥。廢大宰府。遣右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂等四人。以廢府官物付筑前國司。癸丑。天皇幸城北苑。宴五位已上。賜祿有差。特齎造宮卿正四位下智努王東絁六十疋。綿三百屯。以勤造宮殿也。」外從五位下巨勢朝臣堺麻呂。上毛野朝臣今具麻呂並授從五位下。丙辰。賜武官酒食。仍齎五位已上被。主典已上支子袍帛袴。府生已下衛士已上絁綿各有差。壬戌。天皇御大安殿。宴群臣。酒酣奏五節田舞。訖更令少年童女踏歌。又賜宴天下有位人并諸司史生。於是六位以下人等鼓琴。歌曰。新年始邇。何久志社。供奉良米。万代摩提丹。宴訖賜祿有差。又賜家入大宮百姓廿人爵一級。入都内者。无問男女並齎物。己巳。陸奧國言。部下黒川郡以北十一郡。雨赤雪平地二寸。

正月一日に全ての官人が朝賀している。大極殿が未だ完成していないので仮に四阿殿を造り、朝賀を受けている。石上・榎井の両氏が初めて大楯と槍を立ている。五日に「大宰府」を廃止している。右代弁の紀朝臣飯麻呂等四人を派遣して廃止した府の官物を「筑前國司」に付託している。

七日に恭仁宮の北の苑に行幸し、五位以上の者を召して宴会し、それぞれに禄を賜っている。とりわけ造営卿の智努王(文室淨三)には東絁・真綿を賜っている。「巨勢朝臣堺麻呂」と上毛野朝臣今具麻呂(荒馬に併記)に従五位下を授けている。十日に武官に酒食を賜っている。それに従って五位以上には被(頭からかぶって用いた単物)、主典以上には支子(くちなし)色の袍(朝服の上衣)と帛(絹)の袴、府生以下衛士以上に絁と真綿を、それぞれ賜っている。

十六日に天皇は大安殿に出御されて、臣下と宴会している。酒宴が最高潮の時に五節の田舞が奏せられ、それが終わって更に少年・童女に踏歌(多数の人が足で地面を踏みならし、列を作り行進して歌い躍る)させている。また天下の位を持つ諸司の史生に宴会を賜っている。ここに六位以上の者等が琴を演奏して、次のように歌っている…新しき年の初めに かくしこそ つかまつらめ 万代までに…。宴が終了し、それぞれに禄を賜っている。また大宮の敷地内に入った民二十人に位一階を賜っている。都内に入った者には、男女を問わず皆物を賜っている。

二十三日に陸奥國が[管下の「黒川郡」以北の十一郡に「赤雪」が降り、平地に二寸積もった]と報告している。

<巨勢朝臣堺(關)麻呂-苗麻呂>
● 巨勢朝臣堺麻呂

調べると堺麻呂は「子祖父(邑治)」の子と知られていることが分った。左大臣の「徳太」から「黒麻呂」を経る系列となる。また伯父の祖父(邑治、中納言)の養子となっていたようである。最終官位は従三位・参議であった。

「子祖父」に関する記述は、和銅四(711)年四月に従五位上に叙爵された以降は見当たらず、上記の「堺麻呂」が養子となっていることからも早くに亡くなったのであろう。

既出の堺=土+田+介=山稜が[介]の形に寄り集まった様と解釈した(例えばこちら)。同様にその地形を「子祖父」の西南の地に見出すことができる。堺=境=坂合なのであるが、山稜の出合い方が「く」の字形に曲がっている場合に用いていると思われる。なかなか繊細な表記であろう。別名の關麻呂も、山稜が寄り集まっている様を表している。

後(孝謙天皇紀)に息子の巨勢朝臣苗麻呂が登場する。橘宿祢奈良麻呂の謀反の記述の中であるが、特段の関りはなかったようである。「苗」が名前に用いられたの初見である。苗=艸+田=平らな地で僅かに山稜が延びている様と解釈すると、父親の近傍の場所であることが解る。

<陸奥國黒川郡>
陸奥國黒川郡

陸奥國は、多くの郡割をしたり、一部を割いて新しく國を建てたり、目まぐるしく行政区画を再編している地である。元来は陸奥蝦夷として表記されていたが、帰順する地域が増えて行ったことを反映しているのであろう。

元明天皇紀の和銅五(712)年十月に陸奥國の「置賜郡・最上郡」を出羽國に転属したと記載されていた(こちら参照)。「置賜郡」は、地形から推定すると長い谷間の出口辺り、現在畑貯水池となっている領域と思われた。

すると、その西側の谷間の奧を黒川郡と称していたのではなかろうか。頻出の黑=囗+米+灬(炎)=谷間の囲まれた地に山稜が炎のように延び出ている様であり、図に示した地形を表していることが解る。

この郡の以北に「十一郡」があって、赤雪が降ったと述べている。「赤雪」とは?・・・極地や高山の氷河・残雪の表面に、微小な藻類が多量に繁殖して赤色になったもの・・・と知られている。関西大学天然素材工学研究室のサイト(「赤雪」の画像あり)も参照。

上図に示したように「黒川郡」の北側は高山地帯であって、戸ノ上山~足立山山塊の東側の山稜である。冬季には降雪があり、その残雪に赤い藻(雪氷藻類)が繁殖したのではなかろうか。換言すれば、「黒川郡」は高山の南に位置する郡であったと記載しているのである。この藻は山間の平らに窪んだ場所に棲息していたのであろう。「平地二寸」が教えるところである。

二月丙子朔。幸皇后宮宴群臣。天皇歡甚。授正四位上巨勢朝臣奈氐麻呂從三位。從五位上坂上忌寸犬養正五位下。正八位上縣犬養宿祢八重外從五位下。宴訖賜祿有差。戊寅。免中宮職奴廣庭。賜大養徳忌寸姓。大宰府言。新羅使沙飡金欽英等一百八十七人來朝。庚辰。詔以新京草創宮室未成。便令右大弁紀朝臣飯麻呂等饗金欽英等於大宰。自彼放還。是日。始開恭仁京東北道。通近江國甲賀郡。
三月己巳。地震。

二月一日に天皇は皇后宮に行幸し、臣下達と宴会している。大そう喜び、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)に従三位、坂上忌寸犬養に正五位下、「縣犬養宿祢八重」に外従五位下を授けている。宴が終わって、それぞれに禄を賜っている。三日に中宮職の奴である「廣庭」を免じて、「大養德忌寸」の氏姓を与えている。また、大宰府が[新羅の使節の金欽英等百八十人が来朝した]と報告して来ている。

五日、詔があって新京が草創期で、まだ宮室が完成していないため、そのまま右代弁の紀朝臣飯麻呂等に大宰府で新羅使を饗応させ、そこから帰らせている。この日に初めて恭仁京から東北に向かう道を造成し、「近江國甲賀郡」に通じるようにしている。

三月二十四日に地震があったと記している。

<縣犬養宿祢八重-姉女-内麻呂>
● 縣犬養宿祢八重

調べると縣犬養(橘)宿祢三千代・石次の妹と分った。葛井連廣庭の室であり、女官を務めて、最終官位は命婦・従四位下だったようである。

光明皇后が注力した写経事業に専心したことが記録に残っている。縣犬養一族の女性として活躍をされたことが伺える。

出自の場所は、既出の文字列である八重=二つに岐れた山稜が突き通すように延びているところと解釈される。残念ながら現在の地図では地形変化が凄まじく、国土地理院航空写真1961~9年を参照して、その地形を確認することになる。

すると、「石次」の東側の谷間は、扁平な山稜の端が二つに岐れて延びていることが分かる。別名に(縣)犬甘命婦犬甘八重があったと知られている。「甘」は書紀で登場した甘檮岡に用いられた文字であり、甘=谷間から山稜が舌のように延び出た様と解釈した。この山稜の端を「甘」と見做した表記と思われる。「犬養」の「養」の谷間から遠く離れ、むしろ近接する「甘」の地を好んで用いたのであろう。

後(淳仁天皇紀)に縣犬養宿祢姉女が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳のようである。姉=谷間が寄せ集められた様と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。「石次」の子、縣犬養宿祢内麻呂(後に淳仁天皇紀に登場)と同族であったと知られている。この後、幾度か登場されることになる。

<大養德忌寸廣庭-佐留>
● 大養德忌寸廣庭

唐突に記載されて登場するのであるが、何か特別なことをしたのであろうか、氏姓を与えている。「大養德忌寸」は、以前の大倭忌寸であり、その地を出自に持つ人物と思われる。

廣庭の名前は幾度も用いられていて、阿倍朝臣廣庭などがいる。廣庭=麓で平らに広がったところと解釈した。

すると図に示した辺りが、その地形要件を満たす場所として挙げられる。既出の大倭忌寸一族とは少し離れた場所である。おそらく、罰を受けて中宮職の奴となっていたのを免じたのであろう。ただ、この後續紀に登場することはないようである。

少し後に大養德忌寸佐留が従五位下を叙爵される。佐留は、「柿本朝臣佐留」に含まれていた。書紀では「柿本臣猨」と記載された人物であり、「柿本朝臣人麻呂」の兄と知られている(こちら参照)。佐留=押し広げたように谷間から左手のような山稜が延びているところと読み解いた。その地形を図に示した場所に見出すことができる。

<恭仁京東北道>
恭仁京東北道

恭仁京(宮)があった山背國相樂郡は、東北~南西に延びる山稜の谷間に位置する場所と推定した。賀世山東河に架けた橋は東南の方角に当たることになる。

地図を詳細に眺めると、宮の北側には幾つかの谷間が並列して延びてる地形であることが分る。元明天皇及び聖武天皇が足繁く通った甕原宮(離宮)も東北方角にあり、これらの谷間を経て向かったのであろう。

その行程を推測すると、宮を出て北に向かい、久仁里の谷間沿いに東~北上、更に東に進んで甕原離宮(現地名は京都郡みやこ町犀川大村)に辿り着いたのであろう(図中黄色の二重破線)。

するとここで記載された東北道は、「久仁里」で東に向かうことなく、そのまま東北の方角に谷間に沿って進む道と思われる。古事記の伊邪本和氣命(履中天皇)が難波高津宮を焼け出されて逃げた道中に登場する當岐麻道と記載された道である。長い年月が経っての再見である。

確かにその後この道に関わる人物も登場せず、未開の通路だったのかもしれない。これを抜ければ近飛鳥の地に届き、更に千草山と鉄光坊山との間にある峠を経て河内國に向かうことが可能となる。元正天皇の行幸で登場した竹原井頓宮が、その谷間の先にあったと推定した。

上記の本文で「通近江國甲賀郡」と述べている。後世の國別配置からすると、この「東北道」の先が「甲賀郡」となって、すんなり受け止められているようである。後の八月の記事に「近江國甲賀郡紫香樂村」が登場し、離宮を造営することになった、と記載される。その時に場所を求めることにする。勿論、「東北道」は、上記したように河内國を経る近江國甲賀郡への最短ルートとなる。

夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。賜外從七位下日下部直益人伊豆國造伊豆直姓。甲午。天皇御皇后宮宴五位以上。賜祿有差。授河内守從五位上大伴宿祢祜志備正五位下。皇后宮亮外從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋從五位下。戊戌。授從四位下大原眞人門部從四位上。

四月十日に伊勢國飯高郡の采女の「飯高君笠目」の「親族縣造」等、皆に「飯高君」姓を、また、「日下部直益人」に「伊豆國造・伊豆直」姓を賜っている。二十日に皇后宮に出御して五位以上の官人と宴会し、それぞれに禄を賜っている。河内守の大伴宿祢祜志備(祜信備。小室に併記)に正五位下、皇后宮亮の中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)に従五位下を授けている。二十四日に大原眞人門部(門部王、高安王と共に臣籍降下)に従四位上を授けている。

<飯高君笠目-親族縣造>
● 飯高君笠目

「飯高」は、直近では伊勢國飯高郡人伊勢直族大江が登場していた。現地名では北九州市小倉南区大字長行、大半は高野と記載されているところである。

古事記の天押帶日子命が祖となった飯高君に由来する地と思われる。中臣(藤原)一族が、その勢力を拡大し、せめぎ合うような場所である。

笠目の「笠」=「山稜の端が笠のような形をしている様」であり、「笠」は、古事記の若建吉備津日子命が祖となった笠臣、また、高橋朝臣笠間などに用いられていた。「目」=「[目]の形に山稜が延びている様」と解釈した。纏めると、笠目=山稜の端が[笠]のようになっている地の傍らに[目]の形に山稜が延びているところと読み解ける。

親族縣造と記載される人々の居処は、図に示した山稜が縣=県+系=首を吊るしたような様をしている場所を表している。おそらく親族の居処は、「笠目」の西側辺りを中心としていたのであろう。簡単に読み飛ばすことのできない記述である。一文字一文字に、地形が込められていることが解る。

<日下部直益人>
● 日下部直益人

「伊豆國造」の称号と「伊豆直」の氏姓を与えたと記している。即ち、元々は日下部直と名乗っていたのだが、「日下部」(書紀では「草壁」)という紛らわしい名前を変更させたのであろう。

言い換えると「日下部」は、この人物の出自の地形を表していることになる。日下=炎の形の山稜の下部であるが、飛鳥の日下部は、”垂直に燃えがる炎”に対して、こちらは”水平に燃え広が炎”を表していると思われる。

図に示した場所にその地形を見出せる。そしての地形の山稜が延びていることも確認される。益=八+八+一+皿=谷間に挟まれて平らに盛り上がった様と解釈した。その「直」の地形を表している。出自の場所は「益」の上部と思われる。

島の中央部であり、前出の伊豆三嶋の北隣となる。多くの配流者が住まった地、伊豆國の詳細が徐々に明らかにされているようである。後に「伊豆直」姓を持つ人物が登場するようであるが、その時に述べることにする。

五月丙午。遣使畿内。検校遭霖百姓産業。癸丑。越智山陵崩壞。長一十一丈。廣五丈二尺。丙辰。遣知太政官事正三位鈴鹿王等十人。率雑工修緝之。又遣采女女嬬等供奉其事。庚申。遣内藏頭外從五位下路眞人宮守等。齎種種獻物奉山陵。庚午。制。凡擬郡司少領已上者。國司史生已上共知簡定。必取當郡推服。比都知聞者。毎司依員貢擧。如有顏面濫擧者。當時國司隨事科决。又采女者。自今以後。毎郡一人貢進之。
六月丁丑。上毛野朝臣宿奈麻呂復本位外從五位下。戊寅。夜京中徃往雨飯。
秋七月癸夘朔。日有蝕之。

五月三日に使者を畿内に遣わして、長雨に遭った百姓の産業を調べさせている。十日に越智山陵(斉明天皇陵)が長さ十一丈、広さ五丈二尺にわたって崩壊している。十三日に知太政官事の鈴鹿王等を派遣し、各種の工人を率いて山陵を修理させている。また采女や女孺等を派遣して、その工事に奉仕させている。十七日に内藏頭の路眞人宮守(麻呂に併記)等を派遣し、種々の献上品をもたらして山陵に奉らせている。

二十七日に以下のように制している・・・全て擬郡司の少領以上の者は、國司の史生以上が共同して選び定めよ。必ずその郡がこぞって推し、となりの郡にも聞こえた者を取って、各郡司ごとに定員に従って推薦せよ。もし顔面(媚び諂う?)みだりに推薦する者があれば、その時の國司は、事情に応じて罪名を定めて罰せよ。また采女は今後各郡毎に一人貢進せよ・・・。

六月四日に上毛野朝臣宿奈麻呂(長屋王の変に連座、天平元[729]年配流)を外従五位下に復させている。五日、京のところどころに飯が降ったと記している。

七月一日に日蝕があった、と記している。




2022年1月25日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(32) 〔569〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(32)


天平十三年(西暦741年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十三年春正月癸未朔。天皇始御恭仁宮受朝。宮垣未就。繞以帷帳。是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。癸巳。遣使於伊勢大神宮及七道諸社。奉幣以告遷新京之状也。丁酉。故太政大臣藤原朝臣家返上食封五千戸。二千戸依舊返賜其家。三千戸施入諸國國分寺。以充造丈六佛像之料。」停大射。戊戌。御大極殿賜宴百官主典已上。賜祿有差。甲辰。逆人廣嗣与黨且所捉獲死罪廿六人。沒官五人。流罪卌七人。徒罪卅二人。杖罪一百七十七人。下之所司。據法處焉。徴從四位下中臣朝臣名代。外從五位下塩屋連古麻呂。大養徳宿祢小東人等卅四人於配處。

正月一日に天皇は初めて恭仁宮で朝賀を受けている。宮の垣が未完成なので帷帳を引き回して垣の代わりとしている。この日、五位以上の官人を内裏に招いて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。十一日に使者を伊勢大神宮と七道の諸神社に派遣して幣帛を奉り、新京に遷ったことを報告させている。

十五日に故太政大臣藤原朝臣不比等の家が食封五千戸を返上している。しかし二千戸は、もとのままその家に返し与え、三千戸は諸國の國分寺に寄捨して、丈六の釈迦仏像を造る費用に充てている。また、大射の行事を中止している。十六日に大極殿に出御されて百官の主典以上の者と宴を催し、それぞれに禄を賜っている。

二十二日に叛逆者の藤原朝臣廣嗣の一味で、現在捕らえられた者は、死罪二十六人、官に没収して奴婢とする者五人、流罪四十七人、徒罪三十二人、杖罪百七十七人となっている。これらを所管の官司(刑部省)に下して、法に則って処刑させた。中臣朝臣名代(人足に併記)塩屋連古麻呂(吉麻呂)大養徳宿祢小東人(大倭忌寸小東人)等三十四人を配流している。

二月戊午。詔曰。馬牛代人。勤勞養人。因茲。先有明制。不許屠殺。今聞。國郡未能禁止。百姓猶有屠殺。宜其有犯者。不問蔭贖。先决杖一百。然後科罪。又聞。國郡司等非縁公事。聚人田獵。妨民産業。損害實多。自今以後。宜令禁斷。更有犯者必擬重科。

二月七日に以下のように詔されている・・・馬や牛は人間に代わって働き、人間を養うものである。このために以前に屠殺を禁じるに定めた。今聞くところによると、國や郡では未だ禁じることができず、やはり屠殺する民がある。そこで違犯する者には蔭や贖(の特権)を問わず、先ず杖で百回打つ罪とし、その後罪を科すことにせよ。また聞くところでは、國郡司等が公務と関係なく人民を集めて狩猟を行い、生業を妨げ、損害が多いと言う。今後はそうしたことを禁止し、それでも違犯する者があったら、必ず重い罪とするようにせよ・・・。

三月壬午朔。日有蝕之。己丑。禁外從五位下小野朝臣東人下平城獄。庚寅。東西兩市决杖各五十。配流伊豆三嶋。辛丑。攝津職言。自今月十四日始至十八日。有鸛一百八。來集宮内殿上。或集樓閣之上。或止太政官之庭。毎日辰時始來。未時散去。仍遣使鎭謝焉。乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主皆能先業。國泰人樂。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯勞罪己。是以廣爲蒼生遍求景福。故前年馳驛増飾天下神宮。去歳普令天下造釋迦牟尼佛尊像高一丈六尺者各一鋪。并寫大般若經各一部。自今春已來。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃徴誠啓願。靈貺如荅。載惶載懼無以自寧。案經云。若有國土講宣讀誦。恭敬供養。流通此經王者。我等四王。常來擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歡喜者。宜令天下諸國各敬造七重塔一區。并寫金光明最勝王經。妙法蓮華經各一部。朕又別擬寫金字金光明最勝王經。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒滿。其造塔之寺。兼爲國華。必擇好處。實可長久。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲勞衆歸集。國司等各宜務存嚴飾。兼盡潔清。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎國僧寺。施封五十戸。水田十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名爲金光明四天王護國之寺。尼寺一十尼。其寺名爲法華滅罪之寺。兩寺相共宜受教戒。若有闕者。即須補滿。其僧尼。毎月八日。必應轉讀最勝王經。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六齋日。公私不得漁獵殺生。國司等宜恒加検校。己酉。三品長谷部内親王薨。天武天皇之皇女也。

三月一日に日蝕があったと記している。八日に小野朝臣東人(妹子の孫。馬養に併記)の身柄を拘束し、平城の獄に入れている。九日に平城宮の東西の市において杖で五十回ずつ打つ刑にし、その後「伊豆三嶋」に流罪としている。

二十日に攝津職が次のように報告して来た・・・今月十四日から十八日まで、鸛(コウノトリ)が百八羽やって来て「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)内殿舎の上に集まったり、楼閣の上に集まったり。、あるいは太政官の庭に留まったりしている。毎日辰の時(午前八時前後)にやって来て、未の時(午後二時前後)に散り散りに飛び去っている。そこで使者を派遣して取り鎮め追い払わせた・・・。

二十四日に以下のように詔されている・・・朕は德の薄い身であるのに、忝くも重い任務を受け継いだ。まだ民を導くよい政治を広めておらず、寝ても覚めても慚じることが多い。しかし昔の明君は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく福がもたらされた。どういう政治・指導を行えば、このような統治を実現できるのか。此の頃田畑の稔が豊かではなく、疫病が頻りに起こる。慚じる気持ちと恐れとが代わる代わる起こって、一人心を痛め、自分を責めている。<続>

そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと考える。そのために先年駅馬の使いを遣わして全国の神宮を修復させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦像一つずつ造らせるとともに、大般若経を一揃いずつ写させた。そうすると、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、答えとして不可思議な賜り物があったのであろう。恐れるやら驚くやら、自分でも心が安まらない。<続>

考えてみると経には[もし国内に、この経を講義して聞かせたり読経・暗誦したり、恭しく謹んで供養して、流布させる王があったなら、我ら四天王は、常にやって来て擁護しよう。一切の災いや障害は、みな消滅させるし、憂愁や疫病もまた除去し癒すであろう。願いも心のままであるし、いつも歓びが生じるであろう。]と述べてある。そこで全国に命じて各々慎んで七重塔一基を造営し、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書写させよう。<続>

朕は、また別に文字が金泥の金光明最勝王経を写し、塔ごとにそれぞれ一揃い置かせる。神聖な法が盛んになって天地とともに永久に伝わり、四天王の擁護の恵みを、死者にも生者にも行き届かせて、常に十分であるようにと願ってのことである。一体、塔を造る寺は、またその國の精華とも言うべきものである。必ず良い場所を択んで建て、本当に永久であるようにすべきである。人家に近くて悪臭が及ぶのはいけないし、人家から遠くて参集するのに人々を疲れさせるのは本意ではない。國司等は各々寺を厳かに飾るように努め、併せて清浄を守るようにせよ。間近に諸天(四天王)を感嘆させ、諸天がその地に臨んで護ることを願うものである。遠近に布告して朕の意向を知らしめよ。<続>

また、國ごとに僧寺には、封戸五十戸・水田十町を、尼寺には水田十町を施入することとした。僧寺には必ず僧二十人を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護國之寺とする。尼寺には尼十人とし、名は法華滅罪之寺とする。両寺とも仏教の戒を受けていなければならず、もし欠員があれば、直ぐに補充するべきである。その僧尼は、毎月八日に必ず最勝王経を転読しなければならない。月の半ばに至るごとに受戒の羯磨(作法次第)を暗誦し、毎月の六斎日(持戒清浄であるべき日と定められた六か日)には公的にも私的にも漁猟や殺生をしてはならない。國司等は、常に検査を加えよ・・・。

二十八日に長谷部内親王(泊瀬部皇女)が亡くなっている。天武天皇の皇女であった。

<伊豆三嶋>
伊豆三嶋

「伊豆嶋」は、書紀によると天武天皇紀以降に、かなり多くの人物が、例えば麻續王(伊賀采女が出自と推定)の子、𣏾田史名倉礪杵道作、更に續紀では役君小角多治比眞人三宅麻呂の配流地として記載されている。

古事記では、伊邪那岐命・伊邪那美命が生んだ六嶋の一つである小豆嶋と推定した。現在の北九州市小倉北区藍島である。典型的な溶岩台地の地形をしている。関連する記述で書紀の天武天皇紀(684年)に北部で巨大噴火が発生し、貝島・姫島が誕生したと推測した(こちら参照)。

極めて貴重な記述であるが、通説では登場する「伊豆」と「土佐・伊豫」などの位置関係が異なるために意味不明な解釈で押し通されているようで、真に勿体ない有様である。

さて、その地の三嶋と記載され、初めて伊豆嶋内の詳細を登場させている。三嶋=山稜が鳥のような形をした地が三つ並んでいるところと読めば、嶋の最南部の地形を表していると思われる。余談だが、現在の伊豆半島の東南部(河津町・南伊豆町など)に多くの三嶋(島)神社がある(こちら参照)。どうやら、「三嶋」は”伊豆の南部”を示す表記と分っていたのではなかろうか。

閏三月乙夘。天皇臨朝。授從四位上大野朝臣東人從三位。從五位上大井王正五位下。從四位下巨勢朝臣奈氐麻呂從四位上。正五位上藤原朝臣仲麻呂。從五位上紀朝臣飯麻呂並從四位下。正五位下佐伯宿祢常人正五位上。從五位下大伴宿祢兄麻呂。從五位上阿倍朝臣虫麻呂並正五位下。正六位上多治比眞人犢養。阿倍朝臣子嶋並從五位下。正六位上馬史比奈麻呂。外正六位上曾乃君多理志佐。外從七位上楉田勝麻呂。外正八位上額田部直廣麻呂並外從五位下。己未。遣使運平城宮兵器於甕原宮。乙丑。詔留守從三位大養徳國守大野朝臣東人。兵部卿正四位下藤原朝臣豊成等曰。自今以後。五位以上不得任意住於平城。如有事故應須退歸。被賜官符然後聽之。其見在平城者。限今日内悉皆催發。自餘散在他所者亦宜急追。己巳。難波宮鎭恠。庭中有狐頭斷絶而無其身。但毛屎等散落頭傍。甲戌。奉八幡神宮秘錦冠一頭。金字最勝王經。法華經各一部。度者十人。封戸馬五疋。又令造三重塔一區。賽宿祷也。乙亥。勅賜百官主典已上并中衛兵衛等錢各有差。

閏三月五日に天皇は朝庭に臨んで以下の叙位を行っている。大野朝臣東人に從三位、大井王に正五位下、巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)に從四位上、藤原朝臣仲麻呂紀朝臣飯麻呂に從四位下、佐伯宿祢常人(豐人に併記)に正五位上、大伴宿祢兄麻呂阿倍朝臣虫麻呂に正五位下、多治比眞人犢養(池守の子。家主に併記)・阿倍朝臣子嶋(兄の駿河に併記)に從五位下、「馬史比奈麻呂」・曾乃君多理志佐(贈唹君多理志佐)・楉田勝麻呂(勢麻呂)・額田部直廣麻呂に外從五位下を授けている。

九日に使者を遣わして平城宮の兵器を甕原宮に運ばせている。十五日に平城宮の留守官である大養德國守の大野朝臣東人と兵部卿の藤原朝臣豊成に対して以下のように詔されている・・・今後は五位以上の者は勝手に平城宮に留まってはならない。もし事情があって退き帰らなければならない時は、太政官の符を受けて、その後許可せよ。平城宮に現在いる者は今日の内に全部恭仁宮に行くように促して出発させよ。これ以外の他の場所に散在する者達も至急召喚せよ・・・。

「甕原宮」の場所(現地名は京都郡みやこ町犀川大村)は、難波津からの侵入に対する備えとして極めて重要である。行宮(離宮)から宮として整備されたのであろう。通説は、「恭仁宮」に隣接するとされているが…宮に兵器は不可欠、わざわざ記載したのには、伝えることがあったと憶測されるのだが…。

十九日に「難波宮」(難波長柄豐碕宮跡地)での怪異を鎮祭させている。それは庭の中に狐の頭がちぎれて体部のないものがあり、ただ毛と糞などが頭の傍に散り散りに落ちていた。二十四日に「八幡神宮」に秘錦(金糸を加えた緋色の錦)の冠一つ、金泥で書いた最勝王経と法華経を各一揃え、得度者十人、封戸から出させる馬五匹を献上している。また三重塔一基を造営させている。これまでの祈祷に対する御礼のためである。二十五日に勅によって、全官司主典以上と中衛・兵衛等にそれぞれ銭を賜っている。

八幡神宮は、天平九[737]年四月に記載された筑紫八幡社であろう。また一年前の十月に「廣嗣」征圧軍の大将軍であった「東人」等に祈請させていた時にも登場していた。「賽宿祷」は、この記事に関連していると思われる。通常、この神宮は宇佐神宮とされているようだが、全く空間感覚欠如であろう。「廣嗣」の三軍のうち一軍は豐後國から攻めようと企てていた。敵陣の神宮に先勝祈願はあり得ない。

<馬史比奈麻呂・馬毘登國人>
● 馬史比奈麻呂

元正天皇紀の靈龜二(716)年六月に「馬史伊麻呂等獻新羅國紫驃馬二疋」と記載されていた。実際の”紫驃馬”と地形の”馬”とを掛けた上手い表記と洒落てみたが、比奈麻呂は、その馬史一族、多分息子だったのではなかろうか。

登場人物が増えることによって、「馬史」の出自の場所がより確かになって来ると思われる。比奈=なだらかな高台が並んでくっ付いているところと読むと、図に示した場所が、その地形を示しているようである。

また別名に夷麻呂とも表記されていたと知られている。既出の夷=大+弓=平らな頂の山稜が弓のような形をしている様と解釈すると、より明確にこの人物の出自を表していることが解る。今回の行幸で騎兵への褒賞が特筆されている。在来馬と比較して”紫驃馬”の優秀さ、姿形の素晴らしさが際立ったのかもしれない。

尚、外従五位下に叙爵された他の三名(曾乃君多理志佐楉田勝麻呂額田部直廣麻呂)は、『廣嗣の乱』における功に報いたものであろう。

後(淳仁天皇紀)に馬毘登國人が外従五位下を叙爵されて登場する。國人=谷間に囲われた地があるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「毘登」は、「史(不比等)」に憚った表記であろう。

夏四月辛丑。遣從四位上巨勢朝臣奈氐麻呂。從四位下藤原朝臣仲麻呂。從五位下民忌寸大楫。外從五位下陽侯史眞身等検校河内与攝津相爭河堤所。

四月二十二日に巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)藤原朝臣仲麻呂民忌寸大楫(大梶)・陽侯史眞身(陽胡史)等を遣わして、河内國と攝津國とが河の堤の帰属について相争っている場所を調べさせている。<この河は、多分、現在の行橋市津積(攝津國)と京都郡みやこ町勝山大久保(河内國)との境を流れる井尻川ではなかろうか(こちら参照)。後日に関連する記述あれば詳細に述べてみようかと思う>

五月乙夘。天皇幸河南觀校獵。庚申。令諸國常額之外差加左右衛土各四百人。衛門衛士二百人貢之。丙子。讃岐國介正六位上村國連子老。越後國掾正七位下錦部連男笠等。与官長失礼不相和順。仍解却見任。

五月六日に河南に行幸されて、校獵(籬垣を作って、追い込む猟)を観覧されている。「河南」は、書紀の天武天皇紀に登場していた。現地名は行橋市彦德と天生田の境となっている(こちら参照)。

十一日に諸國に命じて、決められた定員の外に、左右衛士府の衛士各四百人、衛門府の衛士二百人を増加して徴発させ、これを貢上させている。二十七日に讃岐國の介の村國連子老(子虫に併記)と越後國の掾の錦部連男笠(吉美に併記)等は、役所の長官に対して礼儀を失し、従順ではないので現在の官職を解任している(介:國司の二等官、掾:同三等官)。

秋七月辛亥。從四位上勳十二等巨勢朝臣奈氏麻呂爲左大辨兼神祇伯春宮大夫。從四位下紀朝臣飯麻呂爲右大弁。從五位下藤原朝臣清河爲中務少輔。從五位上橘宿祢奈良麻呂爲大學頭。從四位上黄文王爲散位頭。從五位上紀朝臣淨人爲治部大輔兼文章博士。外從五位下猪名眞人馬養爲雅樂頭。從四位下藤原朝臣仲麻呂爲民部卿。外從五位下文忌寸黒麻呂爲主税頭。正五位下下道朝臣眞備爲東宮學士。戊午。太上天皇移御新宮。天皇奉迎河頭。辛酉。宴群臣于新宮。奏女樂高麗樂。五位已上賜祿有差。是日。授左大弁從四位上巨勢朝臣奈氐麻呂正四位上。并賜以金牙餝斑竹御杖。辛未。正五位上紀朝臣麻路爲式部大輔。

七月三日に以下の人事を行っている。巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)を左大辨兼神祇伯・春宮大夫、紀朝臣飯麻呂を右大弁、藤原朝臣清河を中務少輔、橘宿祢奈良麻呂を大學頭、黄文王を散位頭、紀朝臣淨人(淸人)を治部大輔兼文章博士、猪名眞人馬養(爲奈眞人馬養)を雅樂頭、藤原朝臣仲麻呂を民部卿、文忌寸黒麻呂を主税頭、下道朝臣眞備を東宮學士に任じている。

十日に太上天皇(元正天皇)が新宮に移っている。天皇が河頭(相樂郡と春日との境、下図<賀世山・左右京>参照)にて迎えている。十三日に群臣に新宮で宴会させ、女楽と高麗楽を奏でさせている。五位以上には、それぞれ禄が与えられている。この日に左大弁の巨勢朝臣奈氐麻呂に正四位上を授け、併せて金と象牙で飾った斑入りの竹の杖を与えている。二十三日に紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を式部大輔に任じている。

八月丁亥。從五位下多治比眞人木人爲兵部少輔。從四位上長田王爲刑部卿。外從五位下大伴宿祢御中爲少輔兼大判事。從五位上百濟王慈敬爲宮内大輔。正四位下智努王爲木工頭。外從五位上紀朝臣鹿人爲大炊頭。外從五位下車持朝臣國人爲主殿頭。從五位上多治比眞人家主爲鑄錢長官。從五位下小治田朝臣廣千爲尾張守。從五位下百濟王孝忠爲遠江守。外從五位下陽侯史眞身爲但馬守。正五位下阿倍朝臣虫麻呂爲播磨守。外從五位下大伴宿祢百世爲美作守。癸巳。佐渡國自去六月至今月。霖雨不止。有傷民産。免當年田租調庸。丙午。遷平城二市於恭仁京。

八月九日に以下の人事を行っている。多治比眞人木人を兵部少輔、長田王(六人部王に併記)を刑部卿、大伴宿祢御中(三中)を少輔兼大判事、百濟王慈敬()を宮内大輔、智努王(文室淨三)を木工頭、紀朝臣鹿人(多麻呂に併記)を大炊頭、車持朝臣國人(益に併記)を主殿頭、多治比眞人家主を鑄錢長官、「小治田朝臣廣千」(小治田朝臣中の❼)を尾張守、百濟王孝忠()を遠江守、陽侯史眞身(陽胡史)を但馬守、阿倍朝臣虫麻呂を播磨守、大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)を美作守に任じている。

十五日、佐渡國では、去る六月から今月に至るまで長雨が止まず、人民の産業を損なっている。そこで今年の田租・調・庸を免除している。二十八日に平城の二市を恭仁京に遷している。

● 小治田朝臣廣千 「廣千」の「千」=「人+一」=「人(谷間)を束ねる(一)様」と解釈した。廣千=谷間を束ねた前が広がっているところと読み解ける。續紀に登場する小治田朝臣と名乗る人物としては、最後の一人であった。

九月辛亥。免左右京百姓調租。四畿内田租。縁遷都也。乙夘。勅。以京都新遷大赦天下。天平十三年九月八日午時以前天下罪人。大辟已下。已發覺。未發覺。已結正。未結正。無問輕重。咸釋放却。其流人未達前所。已達前所。及年滿已編付爲百姓。亦咸釋放還。其在流所生子孫。父母已亡。無可隨還者。亦不限年之遠近。情願還。皆録名聞奏。但不願還者恣聽之。又縁逆人廣繼入罪者咸從原免。又大養徳。伊賀。伊勢。美濃。近江。山背等國供奉行宮之郡。勿收今年之調。」以正四位下智努王。正四位上巨勢朝臣奈氐麻呂二人爲造宮卿。丙辰。爲供造宮。差發大養徳。河内。攝津。山背四國役夫五千五百人。己未。遣木工頭正四位下智努王。民部卿從四位下藤原朝臣仲麻呂。散位外從五位下高岳連河内。主税頭外從五位下文忌寸黒麻呂四人。班給京都百姓宅地。從賀世山西道以東爲左京。以西爲右京。丁丑。行幸宇治及山科。五位已上皆悉從駕。追奈良留守兵部卿正四位下藤原朝臣豊成爲留守。

九月四日に左右京の民の調と租、畿内四ヶ國の田租を遷都に因んで免除している。八日に以下のように勅されている・・・都を新たに遷したので、全国に大赦を行う。天平十三年九月八日の午の時以前の全国の罪人は、死罪以下既に発覚した者も、まだ発覚していない者も、罪の確定した者も、まだ確定していない者も、その軽重に関係なく全て許して開放せよ。流人で、まだ配流地に到達していない者も、既に配流地に達した者も、配流の年限を満了して、既に戸籍に付けられて一般人民となっている者も、また皆許して故郷に帰らせよ。配流地で誕生した子や子孫で、父母が既に亡くなり、付き従って還るわけにはいかない場合は、年代の遠い近いに関係なく、還りたいと願う旨を願い出れば、皆名前を記録して奏上せよ。但し、還ることを願わない者には、当人の自由にすることを許せ。また反逆人の「廣嗣」に連座して罪人となった者も、全て赦免せよ。また大養德・伊賀・伊勢・美濃・近江・山背などの國で先の行宮に奉仕した郡については、今年の調をとってはならない・・・。この日に智努王巨勢朝臣奈氐麻呂の二人を造宮卿に任じている。

九日に宮の造営に当てるために、大養德・河内・攝津・山背四ヶ國の役夫五千五百人を徴発している。十二日に木工頭の智努王、民部卿の藤原朝臣仲麻呂、散位の高岳連河内(高丘連河内;樂浪河内)、主税頭の文忌寸黒麻呂の四人を遣わして恭仁京の人民に宅地を分け与えている。「賀世山西道」(賀世山の西の道)から東を「左京」とし、西を「右京」としている。三十日に「宇治」と山科(書紀の天智天皇紀の山科野)に行幸している。五位以上の者は、皆天皇の乗り物に付き従っている。奈良(平城宮)留守官の兵部卿の藤原朝臣豊成を召して、恭仁京の留守官としている。

<賀世山・左右京・鴨川>
賀世山・左右京・鴨川

宮の場所が定まったら、次は左京・右京であろう。但し「平城宮」の時には、特にその規定はなく、そうするまでもなく至極当然だったのである。即ち、「平城宮」は長く延びた山稜の上にあり、その山稜を基準として左右が決められたからである(例えばこちら参照)。

恭仁宮は”京都”と表記されるように高台の上にあって、その場所では左右を決めるわけにはいかなかった。左右を分ける目印を決める必要があったわけである。

そこで選択されたのが「賀世山西道」と記載されている。賀世山に含まれる頻出の「賀」=「加+貝」=「谷間を押し広げるように山稜が延びている様」、「世」=「十+十+十+一」=「長く引き延ばされた様」と解釈した。纏めると賀世=長く引き延ばされたような山稜が谷間を押し広げているところと読み解ける。図に示した場所にある山を表していると思われる。

文武天皇紀に登場した鴨首形名の出自の場所が、その山の南麓に当たることが解る。正に「鴨の首のように山稜が引き延ばされた地形」なのである。故にその地を賀茂里と名付けていたと思われる。その西麓の道を「西道」と表現しているのである。

そして、「恭仁宮」の高台の麓を蛇行して流れる川(現在名称不詳)に沿って道が造られていたと推測される。これが左右京の分岐と定義されているのである。少し後になるが、その川の名称を鴨川から宮川に改名したと述べている。

記紀・續紀は、その真偽は別としても、極めて合理的な記述を行っていると思われる。言い換えると、現在解釈されているような曖昧かつ不合理なままでは、天子は納得しないであろう。そんな報告書を提出したなら、杖打ち・配流だったと思われるが・・・。尚、通説の左右京の推定図がこちらに載せられている。

<宇治・山科>
宇治・山科

山科は、書紀の天智天皇紀に登場した山科野周辺を示す場所であろう。「山稜が段々に並んだ麓」と推定した。現地名は京都郡みやこ町犀川花熊である。

通説に従うと「宇治」も「宇遲」も同じ読みとなり、従って同一場所を表すと解釈されている。「宇遲」は、現地名の田川郡香春町中津原・柿下と推定した(例えばこちら参照)。

「治」=「氵+台(耜)」と「遲」=「辶+犀」は、異なる地形を表す文字である。前者は「耜」のように「先端が広がった形」であり、後者は「犀の角の形」である。要するに、先端が”四角く”尖っているのに対して”三角に”尖っている地形を表している。

頻出の宇=宀+于=谷間で山稜が長く延びている様とすると、図に示した、山科の西側に接する場所を宇治と表現していると思われる。多治比眞人(書紀では丹比眞人)一族の地の山稜と極めて類似した地形であることが解る。「読み」で記紀・續紀を解釈しては、未来永劫に解読されることはないであろう。

勿論、この行幸は平城宮と比べれば、格段に機動力を生かせる宮となっているが、一方で賊の侵入も容易となる。その経路を確かめるためであろう。いずれにしても、奥まった地に鎮座する天皇ではなかったことを伝えているようである。

後に宇治河が枯れて渡渉が楽になったと伝えている。犀川(現在の今川)及びその支流を併せた川の名称なのであろう。現在のような治水された状態ではなく、大きく蛇行していたと推測される。

冬十月己夘。車駕還宮。辛夘。勅。五位已上礼服冠者。元來官作賜之。自今以後。令私作備。内命婦亦同。癸巳。賀世山東河造橋。始自七月。至今月乃成。召畿内及諸國優婆塞等役之。隨成令得度。惣七百五十人。戊戌。制。令内外從五位已上自今以後。侍中供奉。

十月二日に宮に帰還されている。十四日に以下のように勅されている・・・五位以上の礼服と冠は、もともと官で作って与えていた。今後は個人で作り備えさせよ。内命婦についても同じである・・・。十六日に「賀世山東河」(賀世山の東の河)に橋を造らせている。七月から始めて今月になって完成している。その工事には畿内と諸國の優婆塞(在家信者)等を呼び出して使役し、出来上がるにつれて、総計七百五十人を得度させている。二十一日に次のように定めている・・・内位・外位の従五位以上の者に命じて、今後は宮中に侍して奉仕させる・・・。

<賀世山東河>
賀世山東河

「賀世山西道」に続いて、東麓には川が流れていたと述べている。国土地理院地形図には川が記載されていないが、間違いなく西麓と同様に長い谷間を流れる川が現在も存在していることが確認される。

航空写真1961~9を参照すると、長いだけではなく、谷間全体に棚田が敷き詰められている様子が伺える。更に、川は切り立った谷間を流れている。即ち、一見では川幅は決して大きくはないのだが、渡渉するには最も難しい川であると思われる。

現在の地形ではあるが、Google Viewを添付した。重機のない時代では、最も困難な土木事業だったと思われる。谷間の吊り橋では、宮への往来を担うことは叶わなかったであろう。

十一月戊辰。右大臣橘宿祢諸兄奏。此間朝廷以何名號傳於萬代。天皇勅曰。号爲大養徳恭仁大宮也。庚午。始以赤幡班給大藏。内藏。大膳。大炊。造酒。主醤等司。供御物前建以爲標。

十一月二十一日に右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が、[ここの朝廷は、どのような名称で後々まで伝えるか]と奏上している。天皇は、[「大養德」恭仁宮と名付ける]と勅している。

二十三日に初めて赤い幡を大藏省・内藏寮・大膳職・大炊寮・造酒司・主醤(種々の大豆発酵食品を作る司)等の官司に分け与え、天皇に奉る物の前に立てて、標としている。

大養德は、「大倭國」を改めて「大養德國」とした、と記載されていた。通常、「ヤマト」と読むようなのだが、「大倭(ヤマト)」とするなら通じる読みとなるが、この地は「山背國」である。「大養德」は、勿論、地形象形表記である。恭仁宮がある地は、養德=平らな頂の麓にあるなだらかな谷間が四角く区切られているところである。

十二月丙戌。外從五位下秦前大魚爲參河守。外從五位下馬史比奈麻呂爲甲斐守。外從五位下紀朝臣廣名爲上総守。外從五位下守部連牛養爲下総守。從五位下阿倍朝臣子嶋爲肥後守。」安房國并上総國。能登國并越中國。己亥。外從五位下引田朝臣虫麻呂爲攝津亮。從五位下甘南備眞人神前爲近江守。從五位下大伴宿祢稻君爲因幡守。從五位上藤原朝臣八束爲右衛士督。

十日に以下の人事を行っている。秦前大魚(秦忌寸廣庭に併記)を参河守、馬史比奈麻呂を甲斐守、紀朝臣廣名(宇美に併記)を上総守、守部連牛養を下総守、阿倍朝臣子嶋(駿河に併記)を肥後守に任じている。また、「安房國」を「上総國」に、「能登國」を「越中國」に併合している。二十三日に引田朝臣虫麻呂を攝津亮、甘南備眞人神前(臣籍降下した神前王)を近江守、大伴宿祢稻君(宿奈麻呂に併記)を因幡守、藤原朝臣八束(眞楯、北家の三男)を右衛士督に任じている。

安房國は、そもそも上総國から分割して設置した國であった。養老二(718)年五月に「割上総國之平群。安房。朝夷。長狹四郡。置安房國」と記載されていた。それを、また元に戻したのである。よく似た例としては、養老五(721)年六月に信濃國から分離した諏方國を天平三(731)年二月に元に戻している。

ところが、上記の養老二年五月の記事で、同じように「割越前國之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登國」と記載され、初めて能登國を設置していた。戻すなら越前國なのだが・・・どうやら単に戻すのではなく、國の広さを調整した結果なのであろう。

上総國は安房國を分離すると、本体が極めて狭い地となっていた。また越中國は、多くの郡を越後國に転属させたために、やはり狭い地となっていたのである(越中國四郡参照)。どちらかと言えば、能登國の名称を失くして越中國に変更した、のであろう。





 

2022年1月19日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(31) 〔568〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(31)


天平十二年(西暦740年)十二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十二月癸丑朔。到不破郡不破頓宮。甲寅。幸宮處寺及曳常泉。丙辰。解騎兵司。令還入京。皇帝巡觀國城。晩頭奏新羅樂飛騨樂。丁巳。賜美濃國郡司及百姓有勞勤者位一級。正五位上賀茂朝臣助授從四位下。戊午。從不破發至坂田郡横川頓宮。是日。右大臣橘宿祢諸兄在前而發。經略山背國相樂郡恭仁郷。以擬遷都故也。己未。從横川發到犬上頓宮。丙寅。外從六位上調連馬養授外從五位下。辛酉。從犬上發到蒲生郡宿。壬戌。從蒲生郡宿發到野洲頓宮。癸亥。從野洲發到志賀郡禾津頓宮。乙丑。幸志賀山寺礼佛。丙寅。賜近江國郡司位一級。從禾津發到山背國相樂郡玉井頓宮。丁夘。皇帝在前幸恭仁宮。始作京都矣。太上天皇皇后在後而至。

十二月一日に「不破郡不破頓宮」に到着している。二日に「宮處寺」と「曳常泉」に行幸されている。四日、騎兵司を解散し、京に帰らせている。天皇は國城を巡視し、夕方には新羅楽と飛騨楽を演奏させている。

五日に美濃國の國郡司及び人民の勤労者には位を一級ずつ賜っている。賀茂朝臣助(鴨朝臣助)に従四位下を授けている。六日、「不破」を発ち、「坂田郡」の「横川頓宮」に至っている。この日、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)は先発している。「山背國相樂郡恭仁郷」の地を整備して遷都の候補地とするためである。

七日に「横川」を発って「犬上頓宮」に到着している。十四日に「調連馬養」に外從五位下を授けている。九日に「犬上」を発って、「蒲生郡宿」に到着している。十日に「蒲生郡宿」を発って「野洲頓宮」に到着している。十一日に「野洲」を発って、「志賀郡禾津頓宮」に到着している。

十三日に天皇は「志賀山寺」に行幸し、仏を拝まれた。十四日、近江國の國郡司に位を一級ずつ賜っている。「禾津」を発って、山背國相樂郡の「玉井頓宿」に到着している。十五日に天皇は先発して「恭仁宮」に行幸し、初めて京都の造営を行わせている。太上天皇と皇后は後れて到着している。

<宮處寺・曳常泉>
宮處寺・曳常泉

關東への行幸の続きである。十二月一日に「不破頓宮」(現在の朽網小学校辺り)に到着し、翌日に宮處寺曳常泉へ赴かれている。元正天皇の多度山美泉への行幸を想起させる記述である。

重なる「泉」の文字に引き寄せられて、多度山周辺を散策することにした。現地名は北九州市小倉南区東朽網である。

宮處寺の「宮處」の文字列は、既出であって、中臣宮處連東人に用いられていた。「宮」=「宀+呂」、「處」=「虍+几+夂」と分解して地形象形表記として解釈した。

宮處=谷間が[几]形をして奥深く虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいるところと読み解いた。その地形を示す場所が幾つか見出せるが、決め手は曳常泉の表記であることが解った。

「曳」=「絡み合った糸玉から糸を引っ張りだす様」を象形した文字と知られる。地形象形表記としては、曳=高く聳える頂きから山稜が延び出ている様と読み解ける。図に示した「多度山」から延びる山稜を表していると解釈される。頻出の常=向+八+巾=北向きに並ぶ山稜が延び広がっている様と解釈した。「曳」の主稜線の南麓で枝稜線が縞状に並んでいる地形を示していることが解る。

そして「常」の地形を「處」で言い換えた表現であることを気付かされる。これだけの表記では、寺及び泉の場所を一に特定することは叶わないが、図に示したように「曳」の山稜の南麓に寄り添って並んでいたのであろう。

現在は樹木に埋もれたような様相であるが、国土地理院1945~51年の航空写真では、棚田が広がった谷間であったことが認められる。「多度山」の谷間には、清泉が湧き出る場所が幾つもあったのではなかろうか。

<坂田郡:横川頓宮>
坂田郡:横川頓宮

「不破」滞在中では、騎兵司を解散し、雅楽を楽しんだり、國城を視察したり、美濃國郡司等を昇進させたり、真に多忙な日々を過ごし、十二月六日に不破を発って、その日のうちに坂田郡横川頓宮に至っている。

この郡は、後の國郡司の昇進の記述からすると、近江國に属していたことが分る。既に蒲生郡(書紀の天智天皇紀)及び志我郡・依智郡(元正天皇紀)が登場していた。さて、「坂田郡」の入り込む余地はあるのか?…全くの杞憂であることが解った。

元明天皇紀に登場した近江國木連理十二株の主稜線を坂=土+厂+又=山麓で山稜が長く延びている様と見做し、その先にある平坦な地を坂田郡と称していたと思われる。図に示した通りに志我郡に北に接する場所である。現地名は京都郡苅田町南原・馬場辺りである。

横川頓宮横川=東西に流れる川と解釈する。孝徳天皇紀の名墾横河(畿内の西限)
、天武天皇紀の横河息長横河など幾つかの例がある。「頓宮」は、おそらく図に示した殿川の畔の高台辺りに造られていたのではなかろうか。

現在の殿川上流の谷間は、国土地理院1961~9年航空写真ではダムは存在せず、棚田が敷き詰められた実に奥深く大きな谷間であったことが伺える。ここが古事記の熊野之高倉下であり、書紀の倉歷道と記載された場所と推定した。真に貴重な写真である。

上記したように唐突に騎兵司を解散し、京に戻らせている。即ち、美濃國不破郡以降の行程には不要だったのである。美濃國當耆郡及び信濃國を経て近江國に至る道は、山稜の端が直に海となる地形であり、騎兵が活躍できる場所ではなかったことを告げているのである。

<犬上頓宮・蒲生郡宿・野洲頓宮>
犬上頓宮・蒲生郡宿・野洲頓宮

駆けるように近江國の各頓宮(宿)を巡ったと記載されている。いずれも発った日のうちに次の目的地に到着したとも述べている。

「横川頓宮」を発って、志我郡を経由して南下して、犬上頓宮に至ったのであろう。「犬上」は、古事記の倭建命の子、稻依別王が犬上君の祖となったと記載されている。

書紀では、舒明天皇紀に遣唐使を拝命した犬上君三田耜が、その他にも関連する人物が登場する。犬上=[戌]の形をした谷間の上にあるところと読み解いた。現地名は京都郡苅田町山口の北谷である。

その地形に類似した、最もかなり小ぶりではあるが、谷間が見出せる。依智郡に属する場所、現地名は京都郡苅田町尾倉である。近隣には多くの渡来人たちが入植し、土地を開拓して来たようであり、登場した人物名が記載されている(こちら参照)。

次の蒲生郡宿については、図に示した辺りかと思われる。蒲生郡の初出は、書紀の天智天皇紀に神前郡と共に百濟を脱国した人々を移住させた地として記載されている。戦乱で発生した移民を受け入れ、国土開発に向けている。聖武天皇の時代に至って、すっかり定着した様子だったのであろう。

次の野洲頓宮の「野」は通常、”〇〇野”と記載される場合が多く、「野原」と解釈して不都合はないのだが、ここでの用いられ方では、「野」が地形象形表記と解釈すべきと思われる。「野」=「里+予」と分解される。「予」=「杼」(横糸を通す様→横に広がる様)である。すると「野」=「平らな地が横に広がっている様」を表している。

纏めると野洲=川に挟まれた(洲)平らな地が横に広がっている(野)ところと読み解ける。図に示した山稜の端の地形を表していると思われる。頓宮の場所は、おそらく、かつて大臣蘇我蝦夷が住まった近隣だったのではなかろうか。

ところで、この地の近隣は、書紀の持統天皇紀に益須郡と記載されていた。共に「ヤス」と読んで同じ場所とするのであるが、明らかに異なる地である。記紀・續紀を”読んで”はだめなのである。

<志賀郡禾津頓宮>
志賀郡禾津頓宮

十二月十一日に野洲頓宮を発って、やはり、その日のうちに志賀郡禾津頓宮に至っている。「志賀郡」は、記紀・續紀を通じて初出である。

古事記に記載された若帶日子命(成務天皇)の宮、近淡海之志賀高穴穗宮に含まれる志賀=蛇行する川が押し拡げられた谷間を流れているところである。この地を現在の行橋市高来辺りと推定した。

禾津頓宮は、禾津=稲穂のような山稜が川が集まる地に延びているところと解釈すると、稲穂の先端部、現在の興隆寺辺りに造られていたと思われる。

また、「幸志賀山寺礼佛」と記載された志賀山寺は、文武天皇紀に登場した近江國志我山寺と推定される。本寺は、聖武天皇になって紫郷山寺の別表記で”官寺”にしたと述べられている。即ち「志賀・志我・紫郷」は、同じ読みであると同時に同一場所を示す地形象形表記であることが解る。

上記で示した志我郡(現地名京都郡苅田町集)は、元正天皇紀に記載されている。大混乱の有様であるが、古事記の記述に従って、この地を「志賀」とし、「志賀山寺」と表記したと思われる。古事記の時代では、近淡海は入江の中、その水辺の地を表していたのに対して、開拓に伴って外海の地を含めて「近江」と表現したことに基づくのであろう。

<玉井頓宿・恭仁宮・河頭>
玉井頓宿・恭仁宮

山背國相樂郡の登場は、かなり古く、例えば古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の説話で山代國之相樂が記載されている。

直近では元明天皇紀に、その地に「岡田離宮」があったと告げ、併せて「賀茂里・久仁里」の二つの里があったことも記載している(こちら参照)。

玉井頓宿玉井=玉のような山稜に囲まれた四角く区切られたところと読むと、図に示した場所、岡田離宮の南側の地形を表していると思われる。正に仮宿であって、直ぐに恭仁宮に遷っている。

その宮の場所は、「恭」=「共+心」と分解する。「共」=「両手を差し上げた様」であり、「心」=「中心、中央」を表す文字要素である。既出の「仁」=「人+二」=「谷間が二つ並んでいる様」と解釈した。これらを組み合わせると、恭仁=谷間が二つ並んで両手を差し上げたように延びた地の中心にあるところと読み解ける。

図に示した小高くなった地を示したいると思われる。この地は、”山背國相樂郡賀茂里”となる。現地名は田川郡赤村赤である。原文中に「始作京都矣」と記載されている。京都=高い台地の都と述べているのである。”山背國賀茂”にあった甕原離宮に近接するのではなく、「岡田離宮」に近いところにあった宮である。上記の「志賀(我)」と同じように「賀茂」も”迷宮”なのであろう。

この時点までで聖武天皇は、三度も「甕原離宮」に行幸している。それは平城宮から甕原離宮へ向かう途中に相樂郡賀茂里があり、すっかり、この地が気に入ったからであろう。さて、初めて造営された「京都」は、如何なることになるのか?…まだまだ、先が続きそうである。

幾度か述べたように行幸の記述は極めて重要である。登場する地名及び行宮名が地形により、その道筋が解明されて各々の配置を求めることが可能となる。時空を越えず、実に合理的な解釈となる。また、そうでなければ、その解釈をそのまま受け入れるわけにはいかないのである。

また、後日に太上天皇(元正天皇)が恭仁宮に移って来た時に、天皇が出迎える場所、「河頭」が記載される。辞書によると、”川のほとり”と解釈されているようだが、わざわざ記載しているのに、極めて曖昧な表記であろう。河頭=川が流れ出るところと読むと、図に示した現在の戸城山の東麓、春日からの峠を表しているのではなかろうか。太上天皇を迎えるのに相応しい場所と思われる。

<調連馬養-牛養>
● 調連馬養

調連は、『壬申の乱』の功臣であった調首淡海が後に「連」姓を賜った氏姓と知られている。古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に登場した筒木韓人奴理能美の系列と言われる。

それぞれの名前が表す地形が見事に合致し、渡来系の名称から倭風へと変わっていることが分った。おそらく百濟の地でも地形象形表現を日常的に用いていたのであろう。現地名は京都郡みやこ町犀川木山である。

馬養と「淡海」の繋がりは不詳のようであるが、近接する場所が出自であることには違いないと思われる。すると、図に示した山稜をと見做し、その東側の谷間を養=羊+良として、命名されたと推測される。

この人物についての情報は續紀の記述以外に殆ど見当たらないが、備前守を任じられたりして、ここで叙位された外従五位下から内位の従五位上にまで昇進したことが記載されている。

後(孝謙天皇紀)に調連牛養が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。「馬養」の谷間の奥にある山稜を牛の頭部に見立てた表記と思われる。系譜は不詳のようである。

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『續日本紀』巻十三巻尾