2021年8月5日木曜日

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(17) 〔533〕

日本根子高端淨足姫天皇:元正天皇(17)


養老六年(西暦722年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月癸夘朔。天皇不受朝。詔曰。朕以不天。奄丁凶酷。嬰蓼莪之巨痛。懷顧復之深慈。悲慕纏心。不忍賀正。宜朝廷礼儀皆悉停之。壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。庚申。西方雷。庚午。散位正四位下廣湍王卒。

正月一日に天皇は朝賀を受けず、以下のように詔されている。概略は、天の祐けを得ることができず、はなはなだしい凶事に会ってしまった(太上天皇の崩御)。親に孝養を尽くしたくとも尽くせない大変な苦しみに出会い、母の愛育の深い慈しみを思うばかりである。正月を賀するには忍びなく、朝廷の礼儀を全て停止せよ、と述べている。

二十日、多治比眞人三宅麻呂は謀反を誣告(偽りを告げる)罪により、また穗積朝臣老は天皇を名指しで批難した罪で斬刑に処せられるところを皇太子の奏上により、罪一等を減じられて、「三宅麻呂」は伊豆嶋(古事記の小豆嶋;北九州市小倉北区藍島)へ、「老」は佐渡嶋(古事記の佐度嶋;福岡市西区小呂島)に流罪となっている。

十八日に西方で雷が鳴っている。二十八日に散位の廣湍王(廣瀬王;湍=早瀬)が亡くなっている。

二月壬申朔。以正四位下安部朝臣廣庭參議朝政。丁亥。割遠江國佐益郡八郷。始置山名郡。甲午。詔曰。去養老五年三月廿七日兵部卿從四位上阿倍朝臣首名等奏言。諸府衛士。往々偶語。逃亡難禁。所以然者。壯年赴役。白首歸郷。艱苦弥深。遂陷踈網。望令三周相替。以慰懷土之心。朕君有天下。八載於今。思濟黎元。無忘寢膳。向隅之怨。在余一人。自今以後。諸衛士仕丁。便減役年之數。以慰人子之懷。其限三載。以爲一番。依式与替。莫令留滯。戊戌。詔曰。市頭交易。元來定價。比日以後。多不如法。因茲本源欲斷。則有廢業之家。末流無禁。則有姦非之侶。更量用錢之便宜。欲得百姓之潤利。其用二百錢。當一兩銀。仍買物貴賎。價錢多少。隨時平章。永爲恒式。如有違者。職事官主典已上。除却當年考勞。自餘不論蔭贖。决杖六十。」賜正六位上矢集宿祢虫麻呂田五町。從六位下陽胡史眞身四町。從七位上大倭忌寸小東人四町。從七位下塩屋連吉麻呂五町。正八位下百濟人成四町。並以撰律令功也。又賜諸有學術者廿三人田各有數。

二月一日に安部朝臣廣庭(阿部朝臣廣庭、宮内卿)を朝政に參議させている。十六日、「遠江國佐益郡」の八郷を割いて初めて「山名郡」を置いている。

二十三日に以下のように詔されている。概略は、去る養老五年(721)三月二十七日、兵部卿の阿倍朝臣首名等は次のように奏言した。「諸府(衛門府・左右衛士府)の衛士達は、しばしば互いに語り合って逃亡するが、これを禁止することは困難である。何故なら彼等は壮年にして衛士役となり、白髪の老人となって郷に帰るからである。今後は三年交替として故郷を思う心を慰めてやりたい」と望んでいる。朕はこの八年の間人民の苦しみを救おうとすることを片時も忘れることはなかった。今後は衛士・仕丁の役に当たる年数を減らし、子として親を思う心を慰めてやりたい。三年に制限して式の規定に従って滞留させてはならない、と述べている。

二十七日に以下のように詔されている。概略は、東西の市で行われる交易については、もとより価格は定められているが、近頃はこの規定が守られていないことが多い。これを断絶しようとすると、生業を失う者や利を貪る者が蔓延ることになる。あらたに銭を使用するための便宜をはかり、銭二百文を銀一両に当てることにする。買い物の価格の高低と、その支払いに要する銭の多少は、その時の状況に従って評定して決めることにせよ。違反すれば職事官の主典以上の官人は、その年の考労をご破算にせよ。他の者は蔭贖の特権を考慮せずに杖六十(杖刑六十回)の処分とせよ、と述べている。

この日に矢集宿祢虫麻呂(箭集宿禰蟲萬呂)に田五町、「陽胡史眞身」に四町、大倭忌寸小東人(父親五百足に併記)に四町、塩屋連吉麻呂に五町、百濟人成(幡文通に併記)に四町、授けている。律令の撰定の功である。また、諸有學術者、二十三人に各々田を与えたと記している。

<遠江國:長田郡(長上/下郡)-敷智郡-佐益郡>
<山名郡-蓁原郡-磐田郡-城飼郡>
遠江國佐益郡:山名郡

遠江國の各郡については、和銅二年(709年)二月に長田郡を二つに分けたと言う記事があり(後に長上・長下郡と記載される)、續紀全体では佐益郡・山名郡・蓁原郡・磐田郡・敷智郡の名称が記載されていることが分った。

その中に含まれる山名郡が佐益郡から分割されて登場した記事に該当する。あらためて各郡の配置を図に示した(郡名の地形象形表記についてはこちら参照)。

山名郡の場所は、古事記の淡海之久多綿之蚊屋野に当たり、更に古くは味御路が横切るところと推定される。古遠賀湾から洞海湾に抜ける交通の要所だった場所である。平安時代の『和名類聚抄』(源順著)に記載された「近江=近淡海」、「遠江=遠淡海」を丸呑みにした解釈から脱せない歴史学である。古事記に「遠淡海」の文字列は登場しない。

<陽胡史眞身>
● 陽胡史眞身

文武天皇紀に僧通德が還俗し、その時に「陽侯史」姓を賜ったと記載されていた。元正天皇紀になって大隅國守であった陽侯史麻呂が隼人に殺害される事件が発生したと記述され、征伐隊が遠征するなど、大きな騒ぎとなったことが伝えられている。

この騒乱がなければ、「陽侯史」の場所は闇の中だったのであるが、日向國の東端部の詳細を明らかにすることが可能となった、貴重な記述であった。

確かにこの人物も「陽侯史」一族であろうが、「侯」を「胡」に置き換えた表記を用いている。それも併せて出自の場所も求めてみよう。頻出の「眞」=「鼎+匕」=「山稜が窪んだ地に寄せ集められた様」と解釈した。幾度か登場の「身」=「ふっくらと膨らんだ様、弓なりの様」と解釈して来たが、図に示した古文字の形をそのまま表記していると思われる。

纏めると眞身=窪んだ地に膨らんだ腹のような山稜が寄せ集められているところと読み解ける。この場所が求められると、陽胡胡=古+月=丸く小高い地から延び出た山稜の端(三角州)と解釈すると、「眞身」の場所に辿り着けることが解る。

賜ったのは「陽侯」なのだが、その「侯」からは遠く離れたところとなる。同じような音で置き換えたのであろう。前記で述べたように、「侯」は隼人達の居場所に重なる。諍いの原因の一つかもしれない。それを回避する意味でも、上手い表記だったのではなかろうか。

三月壬寅朔。日有蝕之。戊申。以正四位下阿倍朝臣廣庭知河内和泉事。辛亥。伊賀國金作部東人。伊勢國金作部牟良。忍海漢人安得。近江國飽波漢人伊太須。韓鍛冶百嶋。忍海部乎太須。丹波國韓鍛冶首法麻呂。弓削部名麻呂。播磨國忍海漢人麻呂。韓鍛冶百依。紀伊國韓鍛冶杭田。鎧作名床等。合七十一戸。雖姓渉雜工。而尋要本源。元來不預雜戸之色。因除其号並從公戸。

三月一日に日蝕があったと記している。七日、阿倍朝臣廣庭(安部朝臣、首名に併記)を知河内和泉事(河内國守・和泉監正を監督)に任じている。十日、伊賀國の「金作部東人」、伊勢國の「金作部牟良」、「忍海漢人安得」、近江國の「飽波漢人伊太須」、「韓鍛冶百嶋」、「忍海部乎太須」、丹波國の「韓鍛冶首法麻呂」、「弓削部名麻呂」、播磨國の「忍海漢人麻呂」、「韓鍛冶百依」、紀伊國の「韓鍛冶杭田」、「鎧作名床」等、合わせて七十一戸は、雜工の名称と関わっているが、本源は雜戸とは無関係であると判った。そこで紛らわしい呼称を除き、公戸(良民身分)としている。

<金作部東人>
● 金作部東人

養老四(720)年六月に「河内手人刀子作廣麻呂」を「下村主」に改姓させ、”雜戸”の称号を免じたと記されていた。「刀子作」は立派な地形象形表記であり、同じ地形を表す”下村主”に代えて”雜戸”の名称との混乱を避けたのである。

地形象形に多用される文字列である金作=三角に尖った高台がある谷間に幾つもの山稜の端が延び出てギザギザとしているところと読み解ける。

これも頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、部=近辺とすると、図に示した場所が、これらの地形要素を満たしていることが解る。現地名は北九州市小倉南区長行西(二)であり、伊賀國の谷間の最奥となる。南側の谷間は采女臣筑羅の出自の場所と推定したところである。

<金作部牟良>
● 金作部牟良

続いて伊勢國で「金作部」の地形を求めることになる。既に述べたように古事記においても「伊勢」の登場は早期であり、尚且つ南北に長い地勢であることも分った。

上記と同様に「金」と「作」の文字が表す場所を探すと、図に示したところが見出せる。現地名は北九州市小倉南区辻三、辻の蔵川の最上流部に当たる地と推定される。

名前の「牟」=「囗+牛」と分解され、牟=牛の頭部を象った古文字のような様を表す文字と解釈して来た。古事記では頻出であるが、書紀・續紀ではそんなに多用される文字ではない。良=なだらかな様であり、するとこの人物の出自の場所は、図に示した辺りと推定される。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となった伊勢船木直が東側に隣接する地であり、古くから人々が住まっていたことには違いない。そして「金作部」の文字列は、彼等の間では地形象形表記の手法が共有化されていたことも暗示している。正に抹殺された”文化”のようである。

<忍海漢人安得>
● 忍海漢人安得

「漢人」の類似の用法は、書紀の舒明天皇紀に高向漢人玄理(黑麻呂)の名前で出現していた。度々登場する「漢」=「氵+革+火」=「川が大きく曲がっている様」と解釈した。勿論「倭漢」、「東漢」、「西漢」はそれぞれの場所で川が大きく曲がって流れる傍らの地を示している。

漢人=谷間で川が大きく曲がっているところと読み解いた。「中国から渡来し、その多くは大陸の学芸・技術をもって朝廷に仕えた人々」としてしまっては、出自情報を見逃してしまうわけである。祖先がそうである人物に用いていることも確かであろう。重ねられた表記である。

「忍海」=「一見海に見えない海」の場所であり、現在の紫川が大きく蛇行して流れる小倉北区南丘、対岸は北方辺りの地域を表していると推定される。既出の安得=山稜の挟まれ嫋やかに曲がる谷間が出口が長四角に窪んだところと読み解ける。南丘小学校がある高台の南面の地形を表していると思われる。

<飽波漢人伊太須>
● 飽波漢人伊太須

「飽波」は、倭國飽波郡に含まれていた。飽=食+包=山稜がなだらかに延びて取り囲まれている様波=端にある様と解釈した。すると図に示した場所にその地形を見出せる。

その端の地形を伊太須=谷間に区切られた山稜が広がり延びて州となっているところの名前が表している。これだけ十二分に出自の場所を表現しているのであるが、更に漢人が付加されている。

図から判るようにその端の台地の麓を川が大きく曲がって流れている。多分この台地の上に住まっていたのであろう。現地名は京都郡苅田町尾倉である。この人物に関しては、地形象形よりもその出自の漢人に重きを置いた名前だったのではなかろうか。

<韓鍛冶百嶋>
● 韓鍛冶百嶋

「韓鍛冶」は、初登場の文字列であろう。既出の「韓」=「山稜に取り囲まれた様」である。「鍛」=「金+段」と分解され、「金」=「三角に尖った高台」、「段」=「段々に積み重なっている様」とすると「鍛」=「三角に尖った積み重なった高台」と解釈される。

「冶」=「冫+台」と分解される。「冫」=「二つに岐れた様」、「台」=「耜」=「山稜の端が鋤のような様」と解釈される。「冶」=「二つに岐れた山稜が鋤のような形をしている様」と読み解ける。これらを纏めると韓鍛冶=山稜に取り囲まれた地で三角に尖った高台が段々に積み重なった傍らに二つに岐れた鋤のような形をした山稜が延びているところと読み解ける。

その地形を近江國で求めると図に示した現地名の京都郡苅田町集の山麓に見出せる。その谷間の出口は開発されて当時の地形を伺うことが難しい感じであるが、百嶋=小高い地が連なった麓に鳥のような形の山稜があるところと読み解ける。何と、実に特徴的な地形が目に止まる。おそらくこの人物の出自の場所は苅田工業高校辺りだったのではなかろうか。

現地名の「集」の由来は定かではないが、既出の木連理十二株など、多くの山稜が集まり、結果数多くの谷間から流れる川が流れる地形に依っているように推測される。素直に表現した名称のように思われる。

<忍海部乎太須>
● 忍海部乎太須

「忍海」は上記と同様な地形環境の場所であろう。そして近江國は山稜の麓が海に面する地形を有し、忍海となる場所はかなり限られていることも一見で知ることができる。

その中でも第一の候補となるのが、現地名の苅田町新津であり、近江國の東南部となる蒲生郡と推定した地域かと思われる。

名前の「乎太須」を読み解いてみよう。「乎」を地名・人名に用いられるの極めて稀で孝徳天皇紀に紀臣乎麻呂岐太に用いられていたぐらいである。邪馬壹國の卑弥呼に含まれている文字要素でもある(「呼」=「口+乎」)。

あらためて述べると、「乎」=「口を開いて呼気を吐き出す様」を表す文字と知られている。これを地形象形的に「乎」=「谷間から山稜が曲がりながら延び出ている様」と解釈した。これで乎太須=谷間から山稜が曲がりながら延び出た先が広がって州になっているところと読み解ける。「漢人」が付くわけでもなく、百濟からの帰化人の後裔なのかもしれないが、定かではない。

<韓鍛冶首法麻呂>
● 韓鍛冶首法麻呂

上記の韓鍛冶=山稜に取り囲まれた地で三角に尖った高台が段々に積み重なった傍らに二つに岐れた鋤のような形をした山稜が延びているところに類似する地形を求めることになる。

「丹波國」の中心地は延び切った山稜が寄り集まった地形であり、「韓鍛冶」はその北部の山岳地帯と推定される。その地を探索すると、図に示した山稜の描く模様が該当することが解った。

申し分なく地形要素を満たす場所であり、間違いなく出自の地と思われる。現地名は行橋市沓尾、当時は海に浮かぶ島であったと推測される。古事記の大雀命(仁徳天皇)紀に難波之比賣碁曾社が鎮座していた嶋と推定した。

名前が首法麻呂と記載されている。首=首の付け根のような様法=氵+去=水辺で区切られた窪んだ様と解釈した。図に示したように「首」と「法」の地形が見出せる。おそらくそれらが重なる場所がこの人物の出自と推定される。

<弓削部名麻呂>
● 弓削部名麻呂

「弓削(ユゲ)」の文字列は既出である。例えば、物部弓削大連弓削皇子などが思い出せる。弓削=山稜の端が弓のように削ぎ落されたところと読み解いた。

この地形の丹波國北部、覗山山塊にある筈として探索すると、その山の西麓の地形が当て嵌まることが解った。部=近辺であって、この「弓削」の一部に当たる場所と思われる。

「名麻呂」の名=夕+囗=山稜の端にある三日月のような様と解釈したが、その地形を図に示した場所に見出すことができる。確かに「部」の表記は的を得ている様子であろう。

「弓削」と言う山稜の末端の特徴的な地形に基づく名称が「雜工」の名前と被って紛らわしいとは、何をか況やの有様であるが、この問題はおよそ三十年後にも記載されていて、なかなかに根深ったようである。要するに地形象形によって名付ける”文化”を抹消するには相当の時間が必要だったわけである。垣間見せてくれたところではあるが、また、後日に考察してみよう。

<忍海漢人麻呂>
● 忍海漢人麻呂

「播磨國」の水辺では、殆どが忍海状態のように思われ、それでは場所の特定には程遠い様相となってしまう。ところが決め手は「漢人」であることに気付かされた。

確かに谷間から流れる多くの川が見られるが、山間部での蛇行が大きく、「漢人」が発生するのであるが、谷間を出口以降は、思いの外素直な川筋をしていることが分った。

では、忍海の地で大きく蛇行する川はあるのか?…すると播磨國の最東部、現地名では豊前市との境の場所が浮かんで来た。何とも際どい感じなのであるが、それらしき場所が築上郡築上町上ノ河内に見出すことができる。

名前の「麻呂」は別表記「萬呂」の可能性が高く、山稜の端が二股に岐れている様も確認される。と言うことで、「漢人」を削除してしまっては、追跡不可の状況に陥っていたようである。

<韓鍛冶百依>
● 韓鍛冶百依

上記の韓鍛冶=山稜に取り囲まれた地で三角に尖った高台が段々に積み重なった傍らに二つに岐れた鋤のような形をした山稜が延びているところに類似する地形を播磨國の地で求めることになる。

これはいとも簡単に見出すことができたようである。現地名の築上町築上郡小山田に、些かこれまでの小ぶりな「韓」ではなく、かなり大きな地形であることが解った。

その「韓」の中に「鍛」があり、「冶」も延びていることが見出せる。播磨國からの多くの人物が記載されているが、全くの空白の地であった。

既出の文字列である百依=谷間にある山稜の端の三角州に丸く小高い地が連なっているところと読み解ける。「依」=「人+衣」と分解され、「衣」=「襟」=「山稜の端の三角州」と解釈する。古事記で多用される文字である。

山稜に囲まれた天然の要塞のような場所である。多分、この地の住人はそれを取り巻く世界とは隔絶された雰囲気だったのであろう。突然にその名前はけしからん、と言われても如何ともし難かったのではなかろうか。ともかくも、一國として扱われそうな場所と思われる。

後(聖武天皇紀)に播磨國賀茂郡と記載されるが、頻出の賀茂=押し広げられた谷間に覆い被さるように広がったところ、この「韓」の地を示していると思われる。ここは「鴨」に置き換えることは不可、そもそも、「賀茂」は「鴨」の地形の周辺を取り込んで拡大した表記であった。

<韓鍛冶杭田・鎧作名床>
● 韓鍛冶杭田・鎧作名床

上記の韓鍛冶の地形を紀伊國の地で求めることになる。この地でも「韓」の地形を容易く求めることができる。前出の牟婁(武漏)湯泉があった牟婁(武漏)郡に該当する場所である。

その「韓」の中に「鍛」の地形は分り易いのであるが、「冶」=「二つに岐れた鋤のような様」が一見見当たりそうに見えないが、実はちゃんと山稜の端が岐れていることが確認される。

「杭」=「木+亢」=「山稜が向かい合っている様」と解釈する。すると杭田=山稜が向かい合っている地で平らに整えられたところと読み解ける。この人物の出自は図に示した辺りと推定される。尚、現地名は北九州市小倉南区吉田であって、門司区恒見と入組んでいる行政区分となっている。何らかの変遷を経た結果なのかもしれない。

「鎧作名床」は、正に雜工の名前のような感じである。だが、これも立派な地形象形表記と見做すことができる。「鎧」=「金+山+豆」と分解される。そのまま繋げれば鎧=三角に尖った高台の上に山が聳えている様と読み解ける。作=人+乍=谷間に幾つかの山稜の端が突き出てギザギザとしている様であり、これらの地形要素を満たす場所が図に示した辺りと推定される。

名=山稜の端にある三日月の形をしている様床=牀=爿+木=山稜が長方形になっている様であり、繋げれば「の傍にある床」と読める。おそらく出自の場所は図に示した辺りではなかろうか。前出の紀伊國阿提郡に含まれたところである。現地名は北九州市門司区恒見である。

――――✯――――✯――――✯――――

上記の一連の登場人物は、今までには記載されなかったパターンであった。加えて彼等の出自に関連する情報も皆無であった。それだけに國名と人名を頼りに出自の場所を求めたが、やはりきちんと地形象形されていたことが確認できた。貴重な記述と思われる。

裏返して読めば、”「雜工」の名称と紛らわしい”とは、今までに登場した人物名の解釈をそのまま「雜工」とする解釈が誤りであることを示唆している。更に類推すれば、古事記の湯坐連、膳臣などの解釈も同様となろう。記紀・續紀の人名解釈を古代史学は根本的に見直すべき、と思われる。