2021年10月30日土曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(17) 〔554〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(17)


天平六年(西暦734年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

六年春正月癸亥朔。天皇御中宮宴侍臣。饗五位已上於朝堂。但馬。安藝。長門等三國各献木連理。丁丑。聽諸國司毎年貸官稻。大國十四萬以下。上國十二萬以下。中國十萬以下。下國八万已下。如過茲數。依法科罪。己夘。授正三位藤原朝臣武智麻呂從二位。從三位多治比眞人縣守。藤原朝臣宇合並正三位。无位小田王。野中王並從五位下。正五位上小野朝臣老從四位下。從五位下紀朝臣麻路從五位上。正六位上石川朝臣乙麻呂。正六位下藤原朝臣仲麻呂並從五位下。從六位下三國眞人廣庭。正六位下當麻眞人鏡麻呂。正六位上大伴宿祢麻呂。大伴宿祢老人。小野朝臣鎌麻呂。波多朝臣安麻呂。從六位下田中朝臣淨足並外從五位下。内命婦无位大市女王。神社女王並從四位下。正五位下播磨女王正五位上。從五位上新家女王正五位下。從七位上秦忌寸大宅外從五位下。以從二位藤原朝臣武智麻呂爲右大臣。庚辰。勅令諸國雜色官稻。除驛起稻以外。悉混合正税。

正月一日に天皇は中宮に出御されて侍臣と宴を行い、五位以上の者を朝堂で饗応している。また但馬・安藝・長門等の三國が各々「木連理」を献上している。十五日に諸國司が毎年官稲を貸すことを許している。大國は十四万束以下、上國は十二万束以下、中國は十万束以下、下國は八万束以下としている。この数を超過した場合は、法に基づいて罪を科す、としている。

十七日に以下の叙位を行っている。藤原朝臣武智麻呂に從二位、多治比眞人縣守藤原朝臣宇合に正三位、「小田王」・「野中王」に從五位下、小野朝臣老(馬養に併記)に從四位下、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)に從五位上、石川朝臣乙麻呂(枚夫に併記)・「藤原朝臣仲麻呂」に從五位下、「三國眞人廣庭」・「當麻眞人鏡麻呂」・大伴宿祢麻呂・大伴宿祢老人(兄麻呂に併記)・「小野朝臣鎌麻呂」・波多朝臣安麻呂(波多眞人余射に併記)田中朝臣淨足(稻敷に併記)に外從五位下、内命婦の「大市女王」・「神社女王」に從四位下、「播磨女王」に正五位上、「新家女王」に正五位下、秦忌寸大宅(朝元に併記)に外從五位下を授けている。また藤原朝臣武智麻呂を右大臣に任じている。

十八日に以下のように勅されている。「諸國に命じて、様々な種類の官稲のうち、駅起稲(駅の維持管理用の財源となる稲)以外は悉く正税に加えて出挙させよ。」

但馬國・安藝國・長門國:木連理

「木連理」は、既に幾度か登場した献上物である。例えば慶雲元(704)年六月の阿波國和銅五(712)年三月の美濃國和銅六(713)年十一月の近江國(十二株)、天平三(731)年正月の美作國が記載されていた。ここに来て、一気に三國揃い踏みであるが、”瑞祥”と解釈しては違和感があろう。だが、現実は、お構いなしの有様である。

<但馬國・安藝國・長門國:木連理>

前出の四國と同様に木連理=連なっている[木]のような山稜が区分けされているところと読み解いて、求めた結果を図に示した。実際に開拓された場所は、この表記だけからでは、少々曖昧ではあるが、それぞれに存在する谷間を示していると思われる。山稜の端の入組んだ地を、決して広くはないのだが、切り拓いて公地として献上したのである。

最後の長門國は、地形の変化が大きく、国土地理院年度別航空写真を参照しながら、それらしき場所として図に示した。『国土開発』、記紀・續紀を通じて繰り返し記述されている”大瑞”を見逃した解釈では、真に勿体ないのではなかろうか。

● 小田王・野中王・大市女王・神社女王・播磨女王・新家女王

二王と四女王が新たに叙爵されている。いつものことながら彼等、彼女等の素性は全く伝えれていないようなのだが、恐れずに各々の出自の場所を求めてみよう。名前が示す地形が唯一の頼りである。

<二王と四女王+二女王>
勿論、探索の地は飛鳥周辺であろう。小田王小田=三角に区切られた平らなところと解釈される。すると古事記の袁本杼命(継体天皇)が坐した「伊波禮之玉穗宮」の近隣の地形を表していると思われる。

野中王野中=野原を山稜が突き通しているようなところと解釈される。同様に伊邪本和氣命(履中天皇)が坐した「伊波禮之若櫻宮」の近隣の地形を示していると思われる。

ならば、播磨女王は、廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した「勾之金箸宮」の周辺ではなかろうか。播磨=山稜が延びて広がり擦り潰されたようなところと矛盾はないであろう。伊波禮の宮については、こちら参照。

神社女王については、書紀の孝徳天皇紀に「奉順天皇」の一人としてお褒めに預かった神社福草が登場していた。神社=盛り上がって長く延びる高台と読み解いた。香春一ノ岳の南麓を示していると思われる。おそらくこの人物の近隣が出自の場所だったのであろう。

大市女王大市=平らな頂から延びる山稜が寄り集まっているところと解釈される。既に幾度が登場した文字列である。平らな頂が見られるのは香春二ノ岳であり、一ノ岳の北稜と二ノ岳の稜線が作る地形を表していると思われる。耳梨山の由来に関わる場所である。

新家女王については、氷高皇女(元正天皇)の別名に「新家皇女」があった。新家=切り分けられた山稜の端が豚の口ようになっているところと読み解いた。上図のように縮小されても、しっかりと確認されるほどに明確な地形を示している場所である。多分、独身のまま天皇になって、空き家同然の居処が出自となったのではなかろうか。天皇と近親関係にあった女王と推察されるが、不詳のようである。

少し後に多伎女王住吉女王が登場する。共に系譜は、全く知られていないようである。ならば、多伎女王は伊波禮の宮で残った甕栗宮が出自の場所ではなかろうか。多伎=山稜の端が谷間で岐れているところと読むと、その地形が見出せる。現在のJR香春駅前の場所である。そして住吉女王は、住吉=谷間に真っ直ぐに延びた山稜の前が蓋をされたようになっているところとすると、岡本宮の場所を示していると思われる。図を拡大すると、ちゃんと”蓋”があるのが確認される。

いやはや、見事に収まった。当初の不安もすっかり消失して、返って確信に近付いたように感じられる有様である。多くの宮が造営され、その跡を誕生した皇族に住まわさせる。至極当然の成り行きだったと思われる。草壁皇子は、間違いなく、古事記の大長谷若建命(雄略天皇)の長谷朝倉宮の活用だったのである。

<藤原朝臣豐成-仲麻呂-乙麻呂-巨勢麻呂>
● 藤原朝臣仲麻呂

仲麻呂は、「不比等」の嫡子、南家の右大臣「武智麻呂」の次男と知られている。長男が前出の「豐成」、三男が「乙麻呂」、四男が「巨勢麻呂」と、「不比等」に劣らずの跡継ぎを誕生させていたようである。

と言うことで、ここで四兄弟を纏めて、その出自の場所を定めてみよう・・・意気込んでも狭い谷間で、且つ山麓の変形が大きい場所故に、国土地理院写真を援用する。

藤原朝臣豐成は、前出時に通常の地形図のみから、豐成=段差のある高台が平らに盛り上げられたところとして、図に示した場所と推定した。1945~50年写真を参照すると、その地形がしっかりと確認されることが解った。

仲麻呂仲=人+中=谷間で山稜が突き通すように延びている様と解釈したが、その通りに山稜の端が細く延びてところが見出せる。その中州の先端は小高くなっていることが伺える。藤原朝臣乙麻呂乙麻呂も、頻度高く用いられる名前であり、全て乙=乙の形に曲がっている様と解釈して来た。図に示したように、些かうねりが少ないが、その地形を示す場所を確認できる。

藤原朝臣巨勢麻呂巨勢=谷間で延びる山稜の端に丸く小高い地があるところと解釈した。巨大な谷間を表現したのが巨勢朝臣の由来である。とてもこの地には存在し得ない地形かと、一瞬思われるが、見事に再現した場所が「豐成」と「乙麻呂」の間に見出せる。正にずらりと四兄弟の揃い踏みの様相であることが解った。平原川の対岸は式家の「宇合」の子がひしめき合っていたと思われるが、また、ご登場の時に・・・。

<三國眞人廣庭>
● 三國眞人廣庭

「三國眞人」は、御諸山(現在の谷山)の周辺の地から、「友足・人足・大浦」が登場し、次第にその東側の谷間に広がって行ったことが伺えた(こちら参照)。現地名は北九州市門司区吉志であり、上・下野國に繋がる地である。

「三國」の名称が表すように多くの國に接する境にある故に、この國の所在は重要になって来る。再配列された國別配置を主張するならば、これほど厄介な國はない、と言えるであろう。依って、未だ、全く釈然としない解釈で放置されているのである。

古事記の意富富杼王が祖となった三國君から、幾人かの後裔達の登場によって、この地の場所が徐々に確定されつつある、と思われる。

地図を90度回転させて表示したが、この狭い谷間に廣庭=山稜が麓で延び広がっているところがあるのか?…明確な地形が見出せる。実に特徴的な山稜を捉えて命名したのであろう。勿論、出自の場所は、その麓の川辺だったと思われる。

<當麻眞人鏡麻呂>
● 當麻眞人鏡麻呂

「當麻眞人」も多くの人材が輩出して来ているが、最近は系譜が定かではない者の登場が多い。この人物も不詳のようであり、「當麻」の地で、名前からのみで出自の場所を求めることになろう。

「鏡」=「金+竟」と分解される。「竟」=「区切り」表す文字であり、「→|←」のように示されている。これを「坂合(サカアイ⇒サカイ)」とも表記される所以である。竟=坂合=延びた山稜が出合うところと解釈した。

鏡=金+竟=延びた山稜が出合う地で三角形の山稜の端が延びているところと解釈した。前出の額田姫王の父親、鏡王で読み解いた。即ち、「鏡」の文字は、極めて特徴的な地形を表しているのである。それを「當麻」の地で探すと、図に示した谷間を見出すことができる。

書紀の天武天皇紀に登場した廣嶋・廣麻呂の東側の谷間であり、多分、彼等の一族だったかと推測されるが、上記したように他の情報は欠落しているようである。同じ一族であっても、一系列に集中するのは短期間であって、別の系列を登用する。諸臣を突出させずに管理する巧みな手法だったように思われる。「藤原朝臣」が、そう仕向けたのかもしれないが・・・。

<小野朝臣鎌麻呂>
● 小野朝臣鎌麻呂

多数登場の「小野朝臣」一族の新人である。既にこの地への人物の配置は埋め尽くされたかのようであるが、まだまだ片隅が残っているかもしれない。

鎌=山稜が鎌のように延びている様と解釈される。中臣鎌足(中臣鎌子連)に用いられた文字である。それと類似の地形を表していると思われる。

すると前出の「馬養」の北側に、その地形を見出すことができる。多くの「小野朝臣」は、續紀中に複数回登場されるが、この人物名は二度と記載されることがないようである。

「馬養」の南側は「粟田朝臣」の地域となる。共に古事記の天押帶日子命が祖となった小野臣・粟田臣から蔓延った一族であろう。

二月癸巳朔。天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百卌餘人。五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王。從四位下栗栖王。門部王。從五位下野中王等爲頭。以本末唱和。爲難波曲。倭部曲。淺茅原曲。廣瀬曲。八裳刺曲之音。令都中士女縱觀。極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。庚子。二品泉内親王薨。天智天皇之皇女也。

二月一日に天皇は朱雀門に出御して歌垣を見ている。男女二百四十余人で行われ、五品(位)以上の風流心のある者は、皆入り混じっていた。長田王(六人部王に併記)・栗栖王門部王・野中王(出自不詳)を頭として、本末(首部と末尾)を唱和させている。難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲の音楽を演奏し、都中の人々に観覧させている。歓を極めて終わっている。歌垣に参加した男女等にそれぞれ禄を賜っている。八日に泉内親王が亡くなっている。天智天皇の皇女であった。

三月辛未。行幸難波宮。壬申。散位從四位下百濟王遠寳卒。丙子。施入四天王寺食封二百戸。限以三年。并施僧等絁布。攝津職奏吉師部樂。丁丑。陪從百官衛士已上。并造難波宮司。國郡司。樂人等。賜祿有差。免供奉難波宮東西二郡今年田租調。自餘十郡調。戊寅。車駕發自難波。宿竹原井頓宮。庚辰。車駕還宮。

三月十日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。十一日に散位の百濟王遠寳()が亡くなっている。十五日に四天王寺に三年間の期限で食封二百戸を施入している。それと共に僧等に絁・布を布施として与えている。また攝津職が「吉師部楽」を奏している。

「吉師」は、古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に難波吉師部之祖・伊佐比宿禰、品陀和氣命(応神天皇)紀には渡来系の和邇吉師・阿知吉師記載されている。後の攝津國に含まれる地域に住まっていた人物達と思われる。息長帶毘賣命(神功皇后)が朝鮮半島との外交樹立して(三韓征伐では、決してない!)、一気に新しい技術・文化が流入して来た時であった。

十六日に陪従した諸官司の衛士以上、並びに造難波宮司・國郡司・楽人等にそれぞれ禄を賜っている。「難波宮」に奉仕した東西二郡は今年の田租・調を、その他の十郡は今年の調を免除している。十七日に車駕は難波を発ち、竹原井頓宮に宿泊している。十九日に平城宮に帰還している。





 

2021年10月26日火曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(16) 〔553〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(16)


天平五年(西暦733年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

夏四月己亥。遣唐四船自難波津進發。辛丑。制。諸國司等相代向京。或替人未到以前上道。或雖交替訖不付解由。因茲。去天平三年。告知朝集使等已訖。然國司寛縱不肯遵行。仍遷任之人不得居官。無職之徒不許直寮。空延日月豈合道理。國宜知状。遷替之人必付解由。申送於官。今日以後。永爲恒例。

四月三日に遣唐使を乗せた船が難波津を進発(出発、出陣)している。五日に次のように制定している。「諸國司等が交替して京に向かう場合は、替わる人がまだ任國に到着する以前に上京してしまったり、任務交替が終わったにも拘らず解由(交代の事務引継完了を証する文書)を与えないことがある。このことは去る天平三年に朝集使等に告知したのであるが、國司等は、そのような点には大雑把で、知っていながら従い行うことをしない。そこで解由がないために官職を遷る人に新たな職に就くことができず、空しく月日が経過してしまう。遷り替わる人には必ず解由を与え、その旨を太政官に申し送れ。今後永く恒例とせよ。」

五月辛夘。勅。皇后枕席不安。已經年月。百方療治未見其可。思斯煩苦忘寢与飡。可大赦天下救濟此病。自天平五年五月廿六日昧爽以前大辟已下。常赦所不免皆悉原放。其反逆并縁坐流之類者。便隨輕重降。但強竊二盜不在免例。

五月二十六日に以下のように勅されている。「皇后は既に長い間病床にある。様々に治療したが、未だ効果を見ることができない。この煩いの苦しみを思うと、寝ることも食べることも忘れてしまう。天下に大赦して、この病気から救い出したい。天平五年五月二十六日の明け方以前の死罪以下、普通の赦では免ぜられないものも、皆悉く許して釈放せよ。反逆並びに縁坐による流罪の類は軽重に応じて軽くせよ。但し、強盗・窃盗は免除の範囲に入らない。」

丁酉。多褹嶋熊毛郡大領外從七位下安志託等十一人。賜多褹後國造姓。益救郡大領外從六位下加理伽等一百卅六人多褹直。能滿郡少領外從八位上粟麻呂等九百六十九人。因居賜直姓。」武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。甲辰。太白入東井。

六月二日に多褹嶋「熊毛郡」の大領の「安志託」等十一人に「多褹後國造」姓を、また、「益救郡」の大領の「加理伽」等百三十六人に「多褹直」姓を、「能滿郡」の少領の「粟麻呂」等九百六十九人には、居住地に依って「直」姓を賜っている。また、この日に武藏國「埼玉郡」の新羅人の徳師等男女五十三人に、申請に依って「金」姓としている。九日に太白(金星)が東井(ふたご座の東方)に入っている。

多褹嶋:熊毛郡・益救郡・能滿郡

多褹嶋:熊毛郡・益救郡・能滿郡
書紀で南嶋多禰(嶋)として登場し、續紀では「多褹」と記載された嶋である。その嶋の詳細が述べられている。現地名は福岡市中央区・南区である。

通説は、現在の鹿児島県に属する種子島とするが、他の嶋である夜久(掖玖)奄美(阿麻彌)など一連の島名の読みの一致から、安易に比定することが如何に危険であるかを教えてくれた記述であろう。

この嶋に三つの郡があったと述べている。熊毛郡は既に周防國熊毛郡に含まれていた。全く同様に解釈することが肝要であろう。熊毛=隅にある鱗のような形をしたところと読み解いた。一目で、その場所を特定することができる。

益救郡に含まれる頻出の益=八+八+一+皿=谷間に挟まれた台地が一様に平らな様と解釈した。次の「救」は、珍しい文字であろう。多分、初出のように思われる。取り敢えず分解してみると、「救」=「求+攵」であり、「求」=「引き寄せる」と解釈し、既出の「攵」=「卜+又(手)」=「山稜が交差している様」とすると、救=山稜が交差するように寄り集まっている様と読み解ける。「熊毛郡」の西側にある多くの谷間が集まっている場所と推定される。

能滿郡に含まれる頻出の能=隅滿=氵+廿+㒳=水辺で動物の皮のように左右対称に広げたような様と解釈した。熊毛郡と対角にある場所を示していることが解る。二つの酷似した山稜が並んで延びていることが特徴的な地形である。「多褹」直角三角形の島であった。編者等の地形認識の正確さをあらためて知らされる記述と思われる。

● 熊毛郡:安志託(多褹後國造) 「安志託」に含まれる「安」、「志」は記紀・續紀を通じて頻繁に用いられている人名用の文字である。ただ文字列としての印象は、既出の渡来系の人々の名前のようでもある。即ち、地形を表す文字の羅列と受け取れる。

安=宀+女=山稜に囲まれた谷間が嫋やかに曲がっている様志=川が蛇行している様と解釈して来た。「託」も頻度は高くないが、既出の文字であり、託=言+乇=耕地のある山稜が長く延びている様と解釈した。これら三つの地形要素を満たす場所を求めると、図に示した谷間が見出せる。

賜った姓、多褹後國造の「後」は通常「うしろ」の意味を示すが、「後」=「彳+幺(糸)+夊」と分解され、「夊」=「足を引き摺っている様」を表す文字要素と知られている。正にそのものずばりの山稜が並んでいることを捉えた表記と思われる。「安」の山稜が長く延びているのである。「後」=「京から見て遠い方」の解釈とすると、奈良大和からでは、意味不明となろう。

● 益救郡:加理伽(多褹直) 加理伽に含まれる頻出の文字列の「加理」=「押し拡げられて区分けされた様」と読める。「伽」=「人+加」=「谷間が出合う様」と解釈される。纏めると加理伽=押し広げられて区分けされた地で谷間が出合うところと読み解ける。図に示した地形をそのまま文字列にしたのである。

「益救」は山稜が寄り集まっている表現であり、この人物の名前は、谷間を表していることになる。多褹直の「直」は谷間の形状をそのまま表記したものと思われる。

● 能滿郡:粟麻呂 粟麻呂は「滿」の二つの山稜の形を「粟」と見做した命名であろう。突如、”倭風”の名称となっている。本文に記載されているように、姓を与えた人数は、上記ニ郡がそれぞれ十一人、百三十六人、そしてこの郡が九百六十九人と圧倒的に多い。素っ気なく、各々に個別の姓を与えたと記されているが、「粟麻呂」の名前が示すように、既に「感化」が進捗していた郡だったのかもしれない。

<武藏國埼玉郡>
武藏國埼玉郡

武藏國には、既に秩父郡、高麗郡が登場していた。そして今回は埼玉郡である。現在の東京都及び埼玉県の本貫の地を記載していると思われる。

埼玉は既出の文字列であり、埼玉=玉のような山稜の前が尖っているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。

図に示した青い部分は現在の標高10m以下の領域であり、当時は海面下にあったと推測される。現在からすると陸地はかなり狭い範囲であったと思われる。。埼玉郡は、海に突き出た半島のような区域だったと推定される。

武藏國と上総國との間の空白部分が、これで埋まったことになる。配置はさて置いても、真に忠実に国譲りしているのである。いずれにせよ現地名は幾多の変遷を経た結果であり、また自在に変更されて来たようで、史書との繋がりを論じるのは、極めて困難であることは確かであろう。

秋七月乙丑朔。日有蝕之。庚午。始令大膳職備盂蘭盆供養。
八月辛亥。天皇臨朝始聽庶政。
九月丁亥。遠江國蓁原郡人君子部眞鹽女。一産三男。賜大税二百束。乳母一人。冬十月丙申。外從五位下大伴宿祢小室爲攝津亮。正五位下多治比眞人廣足爲上総守。

七月一日に日蝕があったと記している。六日に大膳職に命じて「盂蘭盆」の供養を準備させている。「盂蘭盆」は書紀の斉明天皇紀に記載されている。所謂「お盆」であって、旧歷七月十五日に父母や祖霊を供養したりする行事となっている。

八月十五日に天皇は初めて庶政(諸々の政治)を聴いている。

九月二十三日に遠江國蓁原郡の人、「君子部眞鹽女」が三つ子の男子を産んでいる。大税二百束と乳母一人を賜っている。

十月三日に大伴宿祢小室を攝津亮、多治比眞人廣足(廣成に併記)を上総守に任じている。

<君子部眞鹽女・吉弥侯根麻呂>
● 君子部眞鹽女

「遠江國」の各郡の配置は、既に求められており、「蓁原郡」は、山名郡と長上・下郡とに挟まれた地域とした(こちら参照)。具体的な登場人物によって、この郡の詳細が垣間見えることになるであろう。

君子の文字列は既出であって、「君」=「|+又(手)+囗」に分解されることから「君」=「区切られた山稜が高台となっている様」と解釈した。君子=区切られた山稜が高台となって生え出たところと読み解ける。部=近隣から、その高台の麓辺りを表す表現と思われる(立花・和氣を参照)。

遠江國の長く延びた主稜線から生え出た枝稜線上に幾つかの小高くなった場所が見出せる。続く名前が出自の場所へと導いてくれるであろう。やはり既出の文字列である眞鹽=周りを取り囲まれた窪んだ地に平らな台地が詰まっているところと読み解ける。

図中の”高尾山”の北麓の谷間が拓けた場所を示していると思われる。現在は採石されて(多分?)、原形留めずだが、国土地理院写真(1945~50年)を参照すると明確に地形を確認することができる。同(1961~9年)では既に採石が進行しているようである。図の上部の地形図には”高尾山”と、曖昧に記載されているが、かつては均整の取れた山であったことが判る。

後(称徳天皇紀)になるが、吉弥侯根麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「君子部」は後の孝謙天皇紀に「吉美侯部」に改めれれているが、「君子」を「吉弥侯」で改めた名称であろう。「部」が付いていないのは、近隣ではなく、「君子」そのものの地であることを示している。

根麻呂根=木+艮=山稜の端が細かく岐れている様を表すとして、図に示した場所が出自と推定される。些か地形の変形があって見辛くなってはいるが(今昔マップ1936~8年のこちら参照)。登場時には無姓であるが、その後に下毛野公の氏姓を賜ったと記載されている。「君」を「毛」と見做した表記であり、上流域に同様な地形があることから名付けた名称と思われる。「下毛野公」としてご登場の時に詳細を述べることにする。

十二月己未。出羽柵遷置於秋田村高清水岡。又於雄勝村建郡居民焉。庚申。以從五位上縣犬養宿祢石次爲少納言。從五位上吉田連宜爲圖書頭。從五位下路眞人虫麻呂爲内藏頭。從五位下阿倍朝臣糠虫爲縫殿頭。從四位下栗栖王爲雅樂頭。從五位下角朝臣家主爲諸陵頭。辛酉。遣一品舍人親王。大納言正三位藤原朝臣武智麻呂。式部卿從三位藤原朝臣宇合。大藏卿從三位鈴鹿王。右大辨正四位下大伴宿祢道足。就縣犬養橘宿祢第。宣詔贈從一位。別勅莫收食封資人。是年。左右京及諸國飢疫者衆。並加賑貸。

十二月二十六日に「出羽柵」を「秋田村高清水岡」に遷し置いている。また、「雄勝村」に郡を建てて民を住まわせている。二十七日に以下の人事を行っている。縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を少納言、吉田連宜(吉宜、智首に併記)を圖書頭、路眞人虫麻呂(麻呂に併記)を内藏頭、阿倍朝臣糠虫(粳虫)を縫殿頭、栗栖王を雅樂頭、角朝臣家主(角兄麻呂に併記)を諸陵頭に任じている。

二十八日に舍人親王、大納言の藤原朝臣武智麻呂、式部卿の藤原朝臣宇合、大藏卿の鈴鹿王、右大辨の大伴宿祢道足縣犬養橘宿祢の邸に遣わして、詔を宣べさせ從一位を贈っている。別勅として食封・資人を収公することを止めさせている。

この年、左右京及び諸國で飢饉となり疫病に罹った者が多く、無利息での貸付けを行った、と記している。

出羽柵:秋田村高清水岡
出羽柵:秋田村高清水岡

「出羽柵」は、和銅二(709)年七月の記事に出現している。その前年の九月に「越後國」が出羽郡を建てたい、と申し出て認められたと記載されている。

また和銅五(712)年九月に太政官が北方の夷狄を教化することを目的に出羽國を建てることを奏言し、結果「陸奥國」の二郡を中心として設置したと記載されている。

時系列からすると「出羽柵」は、後に設けられた「出羽國」ではなく、間違いなく越後國の「出羽郡」にあったと読み取れる。ただ記述は簡略であり、また「出羽」では、「柵」の場所を特定するには広大であった。

今回の記述で漸くその場所を突き止めることが叶うようである。蛇足になるが、通説は「出羽」が示す場所に、二つはなく、出羽柵、出羽郡、出羽國は、その領域の広さは別として全て同一の場所と解釈されている。越後國、陸奥國共に広大な領域となるが、空間意識皆無の”神話風”解釈のままで現在に至っているのである。

秋田村秋=禾+火=[炎]のような山稜が延びている様と解釈した。「出羽」の「羽」に重なる表記であろう。ただ、[炎]に見える山稜が多く存在し、出羽郡全体を示しているように思われる。がしかし、ちゃんと補足の情報が与えられているのである。

人々を住まわせた場所を雄勝村と記載している。ところが出羽郡の領域は、現在採石場となっていて、全く欠落している場所がある。例によって国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、その地形が確認された。既出の雄=厷+隹=羽を広げた鳥の様勝=朕+力=押し上げられたように持ち上がった様と解釈した。正にその地形が削り取られていたことが解る。

即ち、「出羽」の「羽」の南部は「雄」に属していることが明らかになった。すると「秋」の場所は、その北部の多くの山稜が突き出ているところと推定される。では高清水岡は、その突き出た山稜のどれかを示していると思われるが、この文字列を読み解いてみよう。

頻出の「高」=「皺が寄ったような凹凸が並んでいる様」、及び「清(淸)」=「氵+生+井」=「水辺で四角く取り囲まれた様」と解釈した。文字列高清水岡=皺が寄ったように谷間が並ぶ地にある四角く取り囲まれた地に川が流れる傍らの岡になったところと読み解ける。図に示した谷間が四角く見える傍の山稜の上に柵が造られていたと伝えているのである。

續紀編者は、後世の國別配置を十二分に承知していた筈であり、國も郡も省略して、いきなり「秋田村」と記述している。即ち、”越後國出羽郡秋田村”とは、書き辛かったのであろう。ましてや”出羽國秋田村”と書き残しては、間違いとなる。彼等の”苦悩”も顧みず、呑気に解釈しているのが、現在の歴史学である。




 













2021年10月22日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(15) 〔552〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(15)


天平四年(西暦732年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

八月甲戌。始大風雨。辛巳。遣新羅使從五位下角朝臣家主等還歸。丁亥。以從四位上多治比眞人廣成爲遣唐大使。從五位下中臣朝臣名代爲副使。判官四人。録事四人。正三位藤原朝臣房前爲東海東山二道節度使。從三位多治比眞人縣守爲山陰道節度使。從三位藤原朝臣宇合爲西海道節度使。道別判官四人。主典四人。醫師一人。陰陽師一人。壬辰。勅。東海東山二道及山陰道等國兵器牛馬並不得賣与他處。一切禁斷勿令出界。其常進公牧繋飼牛馬者。不在禁限。但西海道依恒法。又節度使所管諸國軍團幕釜有欠者。割取今年應入京官物。充價速令填備。又四道兵士者。依令差點滿四分之一。其兵器者脩理舊物。仍造勝載百石已上船。又量便宜造籾燒塩。又筑紫兵士課役並免。其白丁者免調輸庸。年限遠近聽勅處分。又使已下儀人已上並令佩劔。其國人習得入三色。博士者以生徒多少爲三等。上等給田一町五段。中等一町。下等五段。兵士者毎月一試。得上等人賜庸綿二屯。中等一屯。丁酉。大風雨。壞百姓廬舍及處處佛寺堂塔。」是夏。少雨。秋稼不稔。」山陰道節度使判官巨曾倍朝臣津嶋。西海道判官佐伯宿祢東人並授外從五位下。

八月四日に初めて大風が吹き、雨が降ったと記している。遣新羅使の角朝臣家主(角兄麻呂に併記)等が帰還している。十七日に多治比眞人廣成を遣唐大使、中臣朝臣名代(人足に併記)を副使に任じ、判官四人・録事四人としている。藤原朝臣房前を東海・東山二道の節度使、多治比眞人縣守を山陰道の節度使、藤原朝臣宇合を西海道の節度使、各道の判官四人・主典四人・醫師一人・陰陽師一人としている。

二十二日に以下のように勅されている。「東海・東山及び山陰道の諸國の兵器・牛馬は、いずれも他所に売り与えてはならない。一切禁断して國境から出してはならない。しかし牧に繋いで飼っている牛馬で例年のように国家に進上するものは、禁止の範囲に入れない。但し、西海道の場合はいつもの法に依れ。また、節度使が管轄する諸國の軍団の天幕や釜が不足している場合は、その國の今年中に京に進上すべき官物の留保し、それを代金に充てて速やかに補充させよ。また四道(東海・東山・山陰・西海)の兵士は、令の規定によって徴発し、國内の正丁数の四分の一を満たすようにせよ。その兵器は旧物を修理して用いよ。そうして百石以上積載することができる船を造らせよ。また、便宜を図って籾米を作り、塩を作れ。また、筑紫の兵士は、課役をいずれも免除する。また白丁は調を免じて庸を納めさせる。勤務年限の多寡は勅に拠る処分にまかせる。また、節度使以下儀人(従者)以上には、いずれも帯剣させる。その國々の人は学問・武芸を習得して、次の三種類のどれかに入ることができる。博士は、生徒の多少を基準として三等にわけ、上等には田一丁五段、中等には一町、下等には五段を支給する。兵士は、毎月一回武芸試験を行い、上等には庸綿二屯、中等には一屯を賜う。」

二十七日、大風が吹き、大雨が降って人々の家やあちこちの仏寺の堂塔が壊されている。この夏は雨が少なく秋の取り入れ時に稔らなかったと記載している。また、山陰道節度使判官の巨曾倍朝臣津嶋(陽麻呂に併記)・西海道判官の佐伯宿祢東人(麻呂の子、豐人に併記)に外從五位下を授けている。

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前記で来朝した新羅使が朝貢の間隔について天皇の裁可を仰ぎ、三年に一度で良いと返答したと記載されていた。さり気なくの感じであるが、裏には新羅の態度の変化を告げているようである。新羅の状況は、少し遡るが、唐・新羅連合によって668年に高麗を滅亡させ、その後新羅が唐の支配下にあった領域を奪って朝鮮半島中南部を統一したのが676年と知られている。それから半世紀以上が過ぎ、半島内の支配も十分に達成した時期と思われる。

朝貢しないのではなく、その頻度を尋ねて来るとは、新羅の腹の内を探るべき時期と判断したのであろう。そのための節度使の設置と推測される。節度使は、中国の辺境支配のための地方軍司令官に用いられた呼称らしく(710年に初めて設置されている)、それを捩った表記だったと思われる。新羅の半島内から倭國への勢力拡大を防衛することが急務と判断されたのであろう。

節度使として最初に記載されたのが、「房前」に任された東海道・東山道である。奈良大和中心の國別配置とすれば、西方新羅の脅威に対応する場所ではない。本著は、肅愼國を新羅の倭國における”橋頭保”の位置付けと解釈した。即ち現在の企救半島北部とすると、新羅本國からも然る事乍ら(山陰・西海道)、この地から攻め込まれるのが、最も大きな脅威であり、とりわけ東山道での早期の防御は欠かせない状況であったと推測される(七道参照)。

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九月辛丑朔。賑給和泉監佰姓。甲辰。遣使于近江。丹波。播磨。備中等國。爲遣唐使造舶四艘。乙巳。以正五位上中臣朝臣廣見爲神祇伯。正五位下高橋朝臣安麻呂爲右中弁。從五位上縣犬養宿祢石次爲少弁。外從五位下箭集宿祢虫麻呂爲大判事。正五位上佐伯宿祢豊人爲左京亮。正五位下石川朝臣枚夫爲造難波宮長官。從四位上榎井朝臣廣國爲大倭守。外從五位下佐伯宿祢伊益爲三河守。外從五位下田口朝臣年足爲越中守。從五位上石上朝臣乙麻呂爲丹波守。外從五位下土師宿祢千村爲備前守。從五位上石川朝臣夫子爲備後守。兼知安藝守事。丁夘。依諸道節度使請。充驛鈴各二口。

九月一日に和泉監の民に物を恵み与えている。四日に使者を近江・丹波・播磨・備中等の國に派遣して、遣唐使の船四艘を建造させている。

五日に以下の人事を行っている。中臣朝臣廣見(兄の東人に併記)を神祇伯、高橋朝臣安麻呂(若麻呂、父親笠間に併記)を右中弁、縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を少弁、箭集宿祢虫麻呂(蟲萬呂)を大判事、佐伯宿祢豊人を左京亮、石川朝臣枚夫を造難波宮長官、榎井朝臣廣國を大倭守、佐伯宿祢伊益を三河守、田口朝臣年足(家主に併記)を越中守、石上朝臣乙麻呂を丹波守、土師宿祢千村(父親百村に併記)を備前守、石川朝臣夫子を備後守兼知安藝守事に任じている。二十七日に諸道の節度使の要請で駅鈴を各二個与えている。

冬十月癸酉。始置造客館司。辛巳。給節節度使白銅印。道別一面。丁亥。以外從五位下箭集宿祢虫麻呂爲大學頭。外從五位下大神朝臣乙麻呂爲散位頭。從五位上久米朝臣麻呂爲主税頭。正五位上中臣朝臣東人爲兵部大輔。外從五位下當麻眞人廣人爲大藏少輔。從五位上多治比眞人占部爲宮内少輔。外從五位下物部韓國連廣足爲典藥頭。從五位上紀朝臣清人爲右京亮。正四位下長田王爲攝津大夫。正五位上粟田朝臣人上爲造藥師寺大夫。從四位下高安王爲衛門督。外從五位下後部王起爲右衛士佐。外從五位下大伴宿祢御助爲右兵衛率。外從五位下大伴直南淵麻呂爲左兵庫頭。從五位上伊吉連古麻呂爲下野守。

十月三日に初めて造客館司を置いている。十一日に節度使に白銅印を給している。道毎に一面であった。十七日に以下の人事を行っている。箭集宿祢虫麻呂(蟲萬呂)を大學頭、大神朝臣乙麻呂(通守に併記)を散位頭、久米朝臣麻呂を主税頭、中臣朝臣東人を兵部大輔、當麻眞人廣人(東人に併記)を大藏少輔、多治比眞人占部を宮内少輔、物部韓國連廣足(榎井倭麻呂に併記)を典藥頭、紀朝臣清人を右京亮、長田王(六人部王に併記)を攝津大夫、粟田朝臣人上(必登に併記)を造藥師寺大夫、高安王を衛門督、後部王起(高麗系渡来人)を右衛士佐、大伴宿祢御助(兄麻呂に併記)を右兵衛率、大伴直南淵麻呂を左兵庫頭、伊吉連古麻呂を下野守に任じている。

十一月丙寅。冬至。天皇御南苑宴群臣。賜親王已下絁及高年者綿有差。」又曲赦京及畿内二監。天平四年十一月廿七日昧爽已前徒罪已下。其八虐劫賊。官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者不在此例。其京及倭國百姓年七十以上。鰥寡惸獨不能自存者。給綿有差。
十二月丙戌。築河内國丹比郡狹山下池。辛夘。地震。

十一月二十七日、冬至であった。天皇は南苑に出御し、群臣を招いて宴を行っている。親王以下に絁、また高齢者に真綿を、それぞれ賜っている。また、京及び畿内二監について、天平四年十一月二十七日の明け方以前に犯した徒罪以下の者に限って赦を行っている。しかし、八虐や劫賊、官人でありながら法を曲げて収賄した者、監督・支配して物資を保管すべき地位にある者で盗みを働いた者、監督下にある物資を盗んだ者、強盗・窃盗、故意の殺人、贋金造り、普通の赦では免ぜられない者は、今回の対象にはいれない、と記している。京及び大倭國の民で七十歳以上の者、鰥・寡・惸・獨で自活できない者に、事情に応じて真綿を支給している。

十二月十七日に河内國丹比郡に狹山下池(船連藥に併記)を築造している。二十二日に地震があったと記している。少々余談ぽくなるが、「狹山池」に関しては、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に「印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池」と記載されて登場している。

印色入日子命は、大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の兄である。「日下之高津池」の「日下」を頼りにして、これらの三つの池が、現在の金辺峠を跨ぐ谷間沿いにあったと推定した(こちら参照)。ここでは「下池」とは言わない。「丹比」の長い山稜及びその傍らの谷間があることを示す「下」であろう。

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五年春正月庚子朔。天皇御中宮宴侍臣。自餘五位已上者。賜饗於朝堂。越前國獻白鳥。丙午。雷風。戊申。熒惑入軒轅。庚戌。内命婦正三位縣犬養橘宿祢三千代薨。遣從四位下高安王等監護喪事。賜葬儀准散一位。命婦皇后之母也。丙寅。芳野監。讃岐。淡路等國。去年不登。百姓飢饉。勅賑貸之。

天平五年(西暦733年)正月一日に天皇は中宮に出御して侍臣と宴を行っている。その他の五位以上の者に朝堂で酒食を賜っている。また越前國が「白鳥」を献上している。七日に雷が鳴り、風が吹いている。九日に熒惑(火星)が軒轅(北斗七星の北部)に入っている。参照している続日本紀2(直木考次郎他著)では「白鳥」を「白烏」と訳されている。「白鳥」をそのまま読めば、”珍しい鳥”の献上物語にならないからであろう。

十一日に内命婦の縣犬養橘宿祢三千代が亡くなっている。高安王等を遣わして葬儀を監督・護衛させている。葬儀は散一位に準じている。命婦は皇后(光明子)の母であった。二十七日に芳野監・讃岐・淡路等の國は去年不作であり、百姓は飢饉となった。そこで勅により稲を無利息で貸し付けることにした、と記載している。

<越前國:白鳥>
越前國:白鳥

多くの山稜が延びている越前國なのだが、意外にも「鳥」の形を見出せない有様であることに気付かされた。更に白=くっ付いている様となると、絶望的な状況である。

困った時には国土地理院の年代別写真(19661~9年)を参照すると、現在は採石場となっている場所に、それらしき地形を見出すことができた。図に示したように、裾広がりで三角形の山稜が二つ並んでたことが示されている。

古事記で登場の際にも述べたが、北九州市門司区の柄杓田は谷間の奥近くまで、当時は海面下であったと推測される。その奥にあった、幾つにも細かく岐れた谷間の一つの場所と推定される。

上記したように、現実にはあり得ないものを「瑞」と記述する正史、また逆に在り来たりのものを「瑞」とする。それに何の疑念も抱かずに解釈する、あるいは誤記として来た古代史学は、学問として存在し得ないことを自ら露わにしているのである。言い換えれば、古代の編者達に対して、極めて不遜な態度であろう。

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今年もノーベル賞の季節となって、米国に帰化されたプリンストン大上席研究員の真鍋淑郎氏が受賞された。地球上の気象をコンピューターを用いたシミュレーションによってモデル化し、CO2による温暖化を予測する手法の基礎を築いた業績を評価されたと解説されている。

物理学は三つの粒子間の相互作用を厳密に求めることは不可であり、パータベーション(二つの粒子と無視できるくらいに小さな一つの粒子とする)と言う手法を用いて近似解を得る。弁証法における「正・反・合」の論理構造と繋がることを主張されたのが武谷三男氏である。仏教における「色即是空 空即是色」、また「三空」と言われる概念の理解へと導かれることになる。

ましてや限られた閉じた系でさえ、その厳密な解を得たり、理解することが困難な有様なのであることから多粒子間の相互作用を含む開かれた系を扱う気象学は数値シミュレーション法を用いざるを得ないことは当然の帰結であろう。現象を数値化し、それに合致するモデルを作り上げることになる。

ノーベル賞が将来に亘って不変であることが保証されない現象論を、その授与対象にして来なかったのは頷けるところである。ある意味、その主旨を捻じ曲げても地球温暖化のテーマは、重要であることを示しているとも感じられる。学問上揺るぎない地位を確保した最高峰の賞として、本財団が採択した結果でもあろう。

受賞インタビューで記者が米国に帰化した理由を問うているが、おそらく予想の通りであったろうが、日本の社会なるものが、如何に閉鎖的であるかを言わしめている。昨今あらゆる階層で顕在化しているハラスメントも根源は同じであろう。”鶏口”となることは重要であるが、”鶏”であることを忘れて”牛”になった気分に陥る輩が蔓延っているのである。

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二月乙亥。紀伊國旱損。賑給之。」太政官奏。遷替國司等。赴任之日官給傳驛。入京之時何乘來歸。望請。給四位守馬六疋。五位五疋。六位已下守四疋。介掾各三疋。目史生各二疋。放去。若歴國之人者。依多給不給兩所。縁犯解却。不入給例者。勅許之。甲申。大倭。河内五穀不登。百姓飢饉。並加賑給。三月辛亥。授无位鹽燒王。正五位上中臣朝臣東人並從四位下。正五位下小野朝臣老正五位上。從五位下中臣朝臣名代。坂本朝臣宇頭麻佐。紀朝臣飯麻呂。巨勢朝臣少麻呂。外從五位下大神朝臣乙麻呂並從五位上。外從五位下息長眞人名代。當麻眞人廣人並從五位下。正六位上大伴宿祢小室。小治田朝臣廣千。高向朝臣諸足。河内藏人首麻呂並外從五位下。癸丑。遠江。淡路飢。賑恤之。戊午。遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜朝。

二月七日に紀伊國で旱魃によって損害が生じている。物を恵み与えている。太政官が次のように奏上している。「転任する國司等に対しては、赴任する時に政府が伝馬・駅馬の使用を認めている。しかし京に帰る場合には何に乗って帰れば良いかは決められていない。そこで爵位に応じて使える馬の数を上記のように決めたい。他國への転任の場合は、支給馬数の多くなる方を認め、前任と新任國の合算とはしない。また犯罪などによって解任された場合は使用を認めないこととする。」と述べ、勅が発せられて許可されている。

十六日に大倭・河内では五穀が実らず人々は飢饉となっている。それぞれに恵みをもって物を与えて救っている。

十四日に「鹽燒王」・中臣朝臣東人に從四位下、小野朝臣老(馬養に併記)に正五位上、中臣朝臣名代(人足に併記)坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)紀朝臣飯麻呂巨勢朝臣少麻呂大神朝臣乙麻呂(通守に併記)に從五位上、息長眞人名代(臣足に併記)當麻眞人廣人(東人に併記)に從五位下、「大伴宿祢小室」・小治田朝臣廣千(❼)・「高向朝臣諸足」・河内藏人首麻呂(河内手人刀子作廣麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

十六日に遠江・淡路が飢饉となって、物を与えている。二十一日に遣唐大使の多治比眞人廣成等が朝廷を拝している。

<鹽焼王・道祖王・陽胡女王>
● 鹽燒王

無位からの初登場で従四位下とは、調べると新田部親王の子であった。天武天皇の孫、藤原鎌足大臣の曾孫となる系譜の持ち主である。

参議・中納言まで昇進するが、配流されたり、臣籍降下して「氷上眞人」姓を名乗ったり、最後は武装反乱に巻き込まれ討伐軍に殺害されるという、波乱万丈の生き様だったようである。

「鹽」=「監+齒」と分解され、「監」は鑑の原字である。鏡のような塩田に塩の粒が突き出ている様そのものを表している。地形象形的には簡略に表現して、鹽=四角く区切られて平らに窪んだ様と解釈する。

「焼」=「火+堯」と分解され、「堯」=「高台が盛り上がっている様」とすると、焼=盛り上がっている高台が炎のような形をしている様と解釈される。これらの二文字は古事記に登場し、全く同様の解釈とした。鹽燒王の出自は、が隣り合っている場所と求められる。図に示した通り、現在の新田原駅前と推定される。

後に弟の道祖王、姉の陽胡女王が同じく従四位下を叙爵されて登場する。弟は、頻出の文字である道=辶+首=首の付け根のように窪んだ様、及び祖=示+且=積み重なった高台の様と解釈すると、兄の東側にある小高くなった場所と推定される。妹ついては、前出の陽=太陽のように丸く小高い様胡=古+月=丸く小高い地の傍らにある三角の山稜の端がある様と解釈したが、その地形が覗山の西麓に見出せる。父親の北側に位置するところである。

<大伴宿祢小室・伯麻呂・祜信備>
● 大伴宿祢小室

出自不詳の「大伴宿禰」一族ではなく、『壬申の乱』の功臣馬來田の孫、「男人」の子と知られている。「大伴」の谷間から飛び出た馬來田・吹負兄弟の子孫は着実に登用されていたようである。

頻出の文字列である小室=三角の形をした囲まれた谷間が行き着くところと読み解ける。右図に示した通り、祖父の「馬來田」の北側の場所が小室の出自と推定される。

「馬來田・吹負」兄弟の子孫は、白川の東・西岸を住み分けていたのであろう。大きな蘇賀の谷間に突き出た、特徴ある地であるが、やはり、それなりの経緯があってのことだと解る。

後(孝謙天皇紀)に「道足」の子、大伴宿祢伯麻呂が登場する。活躍の時代がずっと後になるが、従三位・参議まで昇進されたと伝えられている。頻出の伯=人+白=谷間がくっ付く様であり、図に示した場所が出自と思われる。

一方の吹負系列では、後(聖武天皇紀)に「祖父麻呂」の子、大伴宿祢祜信備が登場する。些か凝った名前であるが、出自の場所を求めてみよう。「祜」=「示+古」と分解すると祜=高台に丸く小高い地がある様と読み解ける。通常の意味は”幸福”なんだそうだが、地形象形的には、お構いなしである。

信=人+言=谷間に耕地がある様備=人+𤰇=箙の形をしている様と解釈する。これら三つの地形要素が合わさった場所、図に示した「吹負」の谷間の奥に当たるところと推定される。別表記に「古慈備・祜志備」があったとのことであるが、これらも同様に上記の場所を表していることが解る。

<高向朝臣諸足>
高向朝臣諸足

「高向朝臣」も系譜の記録が残っている一族に入るようであり、「諸足」は「大足」の子とする系図が残っているとのことである。

左図では省略しているが、「宇摩」から「國押」、「麻呂」、「大足」そして「諸足」へと五世代の繋がりが、この崖下の狭隘な地に見出せる(こちら参照)。

古事記に記載されている建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が祖となった高向臣が発祥とすれば、実に由緒正しき系統であると思われる。高向=皺が寄ったような山稜が北向きに並んでいるところと解釈した。

頻出の「諸」=「言+者」=「耕地が交差するような様」であり、諸足=長く延びた山稜の前に交差するような耕地が並んでいるところと読み解ける。図に示した父親「大足」の東北に当たる場所が出自と推定される。

小治田朝臣廣千について、若干補足すると、頻出の「千」=「人+一」=「谷間を束ねる様」と解釈した。纏めると、廣千=広がった地で谷間を束ねたようなところと読み解ける。引用の図の❼で示した場所が出自と推定される。

閏三月己巳。勅。和泉監。紀伊。淡路。阿波等國。遭旱殊甚。五穀不登。宜今年之間借貸大税。令續百姓産業。戊子。諸生飢乏者二百十三人召入於殿前。各賜米鹽。詔責其懶惰令治生業。壬辰。勅。以調布一万端。商布三万一千九百廿九段。充西海道造雜器仗之料。癸巳。遣唐大使多治比眞人廣成辞見。授節刀。

閏三月二日に以下のように詔されている。「和泉監・紀伊・淡路・阿波などの國は、旱魃が特にひどく、五穀が実らなかった。そこで今年中は大税を無利息(通常五割)で貸して人々の生業を続けさせよ。」二十一日に諸生のうち生活に困窮している者二百十三人を殿前に召し入れて、それぞれに米・塩を賜っている。詔されて、その怠けごころを責め、生業にきちんと就かせている。

二十五日に調布一万端、商布三万千九百二十九段を西海道が種々の兵器を造る費用に充てさせている。二十六日に遣唐大使の多治比眞人廣成が別れの挨拶をし、節刀が与えられている。不穏な動静の新羅の背後との接触である。いざという時の情報収集と支援協力の依頼、ってところだったのであろう。







 

2021年10月18日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(14) 〔551〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(14)


天平三年(西暦731年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

冬十一月丁未。太政官處分。武官醫師使部。及左右馬監馬醫帶仗者考選。及武官解任者。先例並属式部。於事不便。自今以後。令兵部掌焉。但正身依舊在寮上下。庚戌。冬至。天皇御南樹苑。宴五位已上。賜錢親王三百貫。大納言二百五十貫。正三位二百貫。自外各有差。辛酉。先是。車駕巡幸京中。道經獄邊。聞囚等悲吟叫呼之聲。天皇憐愍。遣使覆審犯状輕重。於是。降恩咸免死罪已下。并賜衣服令其自新。丁夘。始置畿内惣管。諸道鎭撫使。以一品新田部親王。爲大惣管。從三位藤原朝臣宇合爲副惣管。從三位多治比眞人縣守爲山陽道鎭撫使。從三位藤原朝臣麻呂爲山陰道鎭撫使。正四位下大伴宿祢道足爲南海道鎭撫使。癸酉。制。大惣管者。帶劔待勅。副惣管者。与大惣管同。判史二人。主事四人。鎭撫使掌与惣管同。判官一人。主典一人。其抽内外文武官六位已下。解兵術文筆者充。仍給大惣管儀仗十人。副惣管六人。鎭撫使三位隨身四人。四位二人。並負持弓箭。朝夕祇承。隨主願充。令得入考。惣管如有縁事入部者。聽從騎兵卅疋。其職掌者。差發京及畿内兵馬。搜捕結徒集衆。樹黨假勢。劫奪老少。壓略貧賎。是非時政。臧否人物。邪曲寃枉之事。又斷盜賊妖言。自非衛府執持兵刄之類。取時巡察國郡司等治績。如得善惡即時奏聞。不須連延日時令會恩赦。其有犯罪者。先决杖一百已下。然後奏聞。但鎭撫使不得差發兵馬。

十一月二日に太政官は次のような処分を下している。概略は、「武官である医師や使部、及び左右の馬監の馬医で武器を携行する者の評定・叙位と、武官の解任とは、先例では式部省の管轄となっているが、事において不便である。従って今後は兵部省に管轄させよ。」

五日(冬至)に天皇は南樹苑に出御して。五位以上の者と宴を行い、銭を賜っている。親王三百貫、大納言二百五十貫、正三位二百貫で、その他の者は、それぞれ地位に応じている。

十六日、これに先立って天皇が京内を巡幸し、途中で牢獄の近くを通った時に、囚人達が悲しげにうめき、大声で叫んでいるのを聞いた。天皇は哀れに思い、使者を派遣して犯した罪の軽重を再び審査させた。その結果、恵みを下して死罪以下の罪を全て免じ、併せて衣服を与えて行いを改めさせている。

二十二日に畿内の惣管と諸道の鎭撫使を初めて設置し、新田部親王を大惣管、藤原朝臣宇合を副惣管、多治比眞人縣守を山陽道鎭撫使、藤原朝臣麻呂(萬里)を山陰道鎭撫使、大伴宿祢道足を南海道鎭撫使に任じている。

二十八日に、以下のように制定している。「大惣管は剣を帯びて勅命に備えよ。副惣管は大惣管と同じである。判史二人・主事四人を付属させる。鎮撫使の職掌は惣管と同じである。判官一人・主典一人を付属させる。判史・主事・判官・主典には、内外の文官・武官で六位以上の者の内、兵衛や文筆に素養のある者をぬき出して任命せよ。大惣管に儀仗十人、副惣管には六人を与える。鎮撫使で三位の者には、随身四人、四位の者には二人を与える。儀仗・随身は弓矢で武装し朝から夕まで謹んで仕えよ。主の要望によって任命せよ。また勤務評定によって昇進できるものとする。惣管が事情で支配下の地域を巡視することがあれば騎兵三十人を従えることを許可する。」

また、「惣管・鎮撫使の職務は京や畿内の兵馬を動員し、徒党を組み集団の勢いをかりて老人・年少の者や貧しく賎しい者を脅したり圧迫して物品を奪い取る者や、時の政治の善し悪しを言い人物の善悪を論じる者、邪なことや冤罪に関することを捜査し犯人を捕まえること、また盗賊行為をしたり怪しい噂を撒き散らし、衛府に属していないのに武器を身に付けるといった類の者を処断することである。適当な時に国内を巡って國郡司等の治績を視察し、もし彼等の善悪について知り得たならば直ちに報告せよ。もし罪を犯した者があれば杖百以下の場合は、先に判決を下し、その後報告せよ。但し、鎮撫使は兵馬を動員してはいけない。」

十二月丙子。甲斐國獻神馬。黒身白髦尾。乙酉。令大宰府始補壹伎對馬医師。庚寅。定武散位定額員二百人。乙未。詔曰。朕君臨九州。字養万姓。日昃忘膳。夜寐失席。粤得治部卿從四位上門部王等奏稱。甲斐國守外從五位下田邊史廣足等所進神馬。黒身白髦尾。謹検符瑞圖曰。神馬者河之精也。援神契曰。徳至山陵則澤出神馬。實合大瑞者。斯則宗廟所輸。社稷所貺。朕以不徳何堪獨受。天下共悦。理允恒典。宜大赦天下。賑給孝子順孫。高年。鰥寡惸獨。不能自存者。其獲馬人進位三階。免甲斐國今年庸。及出馬郡庸調。其國司史生以上并獲瑞人。賜物有差。

十二月二日に甲斐國が「神馬」を献上している。身は黒く、「髦」と尾は白い・・・と読める。「髦」=「前髪」であり、馬の”たてがみ”は「鬣」である。すんなり読んでは落とし穴に嵌るようだが、それとも誤字と読み飛ばすか?…勿論、開拓地の献上であろう。下記で詳細を述べる。十一日に大宰府に命じて、初めて壹伎・對馬の医師を任命させている。十六日に武官の散位の定員を二百人と定めている。些か増え過ぎたきらいがあったのであろう。

二十一日に以下のように詔されている。「朕は君主として天下に臨み、全ての民をはぐくみ育て、日が傾くまで食事を摂ることも忘れ、夜は寝るのに席(敷物)を忘れるほどである。ここに治部卿の門部王等が奏上して言うには、[甲斐國の守で外従五位下の田邊史廣足等の進上した神馬は、身体は黒で、”髦尾”は白である。そこで謹んで『符瑞図』を検索すると、<神馬は河の精である>とあり、また『援神契』には<徳が山や陵にまで至ると、その沢で神馬を出す>とある。真に大瑞に合致する。]これはとりもなおさず祖先や地の神が賜ったのである。天下の民と共に悦べば道理は不変の法則に叶うであろう。そこで天下に大赦して孝子・順孫、高齢者、鰥・寡・惸・獨で自活できない者に物を恵み与えよ。馬を捉えた人には位を三階昇進させよ。甲斐國の今年の庸と、馬を出した郡の今年の庸・調を免じる。國司の史生以上と瑞を得た人にはそれぞれ物を与える。」

<甲斐國:神馬>
甲斐國:神馬

さて、甲斐國、本著では紀伊國の東隣にあった國と定めたのだが、何とも山稜に挟まれた峡谷のような地に馬は棲息しているのであろうか?…やはり、「鬣」ではなく、「髦」を用いたことに着目すべきであろう。

「髦」=「髟(長+彡)+毛」と分解される。「髟」=「生え出て延びている様」を表すと解説されている。それに「毛」が付加され、”たれがみ”(額に垂れた前髪)と訓される。

一方の「鬣」は”たてがみ”(動物の首筋の毛)と訓される。勿論、この二文字が表す毛が「尾」にあることはあり得ないことになる。通常の解釈とすれば、”たてがみ”と”尾”が白い、と読んでいるようである。でなければ、全くの誤用とせざるを得ない記述であろう。

地形象形的には「髦」=「髟+毛」=「生え出た山稜が[鱗]のような様」と解釈する。古事記を通じて續紀も「毛」=「鱗のような様」である。直近では、周防國熊毛郡に用いられていた。また、頻出の「黑」=「囗+米+灬(炎)」=「谷間で山稜が[炎]のように延びている様」とすると、神馬の容姿解説、「黒身白髦尾」を解釈することが可能となったようである。

黒身白髦尾=山稜が馬の形した尾根から谷間に[炎]のような延びている山稜と[鱗]のように生え出た尾のような山稜がくっ付いている(白)ところと読み解ける。上図を参照すると、この場所以外にはあり得ないほどに特定されるところであることが解る。図中「神馬」と記載した谷間は、現在は樹木に覆われているが、かつてはかなり広い範囲で開拓されていたようである。大きく変化した地域であろう。

「獲瑞人」は三階級も特進されたのだが、名前は記載されず、である。重要な場所情報をもたらす人名なのだが、ここはそれが無くても十分であった。大赦も行われたが、元号に採用するほどでもなかった、流石に天王貴平知百年の「龜」に「神馬」は叶わず、だったのかもしれない。

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四年春正月乙巳朔。御大極殿受朝。天皇始服冕服。左京職獻白雀。甲子。正四位上鈴鹿王。正四位下葛城王並授從三位。无位小治田王從五位下。從四位下榎井朝臣廣國從四位上。從五位下石上朝臣乙麻呂。藤原朝臣豊成並從五位上。」以從三位多治比眞人縣守爲中納言。以從五位下角朝臣家主爲遣新羅使。丙寅。新羅使來朝。

天平四年(西暦732年)正月一日に天皇は大極殿に出御され、朝賀を受けられている。初めて冕服(ベンプク、大儀の際につける儀礼用の冠と衣服。冕冠[ベンカン]と袞龍[コンリョウ]の服)を着用されたと記している。また左京職が「白雀」を献上している。神龜四(727)年正月に続いて二度目の白雀(王多寳に併記)の献上であるが、多分、引用図に記載した西側の谷間と思われる。

二十日に鈴鹿王葛城王に從三位、「小治田王」に從五位下、榎井朝臣廣國に從四位上、石上朝臣乙麻呂藤原朝臣豊成に從五位上を授けている。多治比眞人縣守を中納言、角朝臣家主(角兄麻呂に併記)を遣新羅使に任じている。二十二日に新羅使が来朝している。

● 小治田王 出自に関連する情報は見当たらないのだが、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)と豐御食炊屋比賣命(推古天皇)との間に誕生した小治田王の場所を出自とした人物ではなかろうか。勿論、その後に小治田朝臣一族蔓延った地である。

二月甲戌朔。日有蝕之。戊子。故太政大臣職田。位田并養戸。並收於官。乙未。中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也。庚子。遣新羅使等拜朝。
三月戊申。召新羅使韓奈麻金長孫等於大宰府。乙丑。散位從四位下日下部宿祢老卒。己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。

二月一日に日蝕があったと記している。十五日に故太政大臣(藤原朝臣不比等)に与えてあった職田・位田並びに養戸(封戸)を官に回収している。二十二日に中納言で催造宮長官であり知河内和泉等國事を兼ねる阿倍朝臣廣庭(首名に併記)が亡くなっている。右大臣の「御主人」の子であった。二十七日に遣新羅使等が朝廷を拝している。

三月五日に新羅使を大宰府から招いている。二十二日に散位の日下部宿祢老が亡くなっている。二十六日に知造難波宮事の藤原朝臣宇合等より以下、仕丁以上の者にそれぞれ物を賜っている。「難波宮」は、難波長柄豐碕宮跡地に造られた。

夏五月壬寅朔。正六位下物部依羅連人會賜朝臣姓。壬子。新羅使金長孫等卌人入京。庚申。金長孫等拜朝。進種々財物。并鸚鵡一口。鴝鵒一口。蜀狗一口。獵狗一口。驢二頭。騾二頭。仍奏請來朝年期。壬戌。饗金長孫等於朝堂。詔。來朝之期。許以三年一度。宴訖。賜新羅王并使人等祿各有差。甲子。遣使者于五畿内。祈雨焉。乙丑。對馬嶋司。例給年粮。秩滿之日。頓停常粮。比還本貫。食粮交絶。又薩摩國司停止季祿。衣服乏少。並依請給之。
六月丁酉。新羅使還蕃。己亥。此夏陽旱。百姓不佃。雖數雩祭。遂不得雨。

五月一日に「物部依羅連人會」に朝臣姓を賜っている。十一日に新羅使等四十人が入京し、十九日に種々の財物、並びに鸚鵡一羽・鴝鵒(八哥鳥)一羽・蜀狗(狆?)一匹・獵狗(猟犬)一匹・驢二頭・騾二頭と記されている。そして朝貢の間隔について裁可を仰いでいる。二十一日に新羅使を朝堂に招いて饗応し、来朝は三年に一度で良いと告げいてる。新羅王並びに使人等に、それぞれ禄を賜っている。

二十三日に使者を五畿内(大倭[和]・河内・攝津・山背・和泉?)に遣わして雨乞いをさせている。二十四日に對馬嶋司には、年間の粮(食料)を支給することを例としている。ところが任期満了になった日を以って常々与えられていた粮が急に停止されため本籍地に帰るころになって絶えてしまう。また薩摩國司は季禄の支給を停止したため衣服が乏しくなっている。いずれも請求によって支給することになった、と記している。

六月二十六日に新羅使が帰国している。二十八日、この夏は日照りで人々は田を耕作できず、しばしば雨乞い(雩)の祭りを行ったが、遂に雨を得られなかった、と記載している。

<物部依羅連人會>
● 物部依羅連人會

「物部」の周辺の地を出自とする人物と思われる。南側は既に埋まっている感じであるから、多分北側の地域と推測される。既出では、置始連殖栗物部の人物が幾人か登場していた。

先ずは、この人物の名前を読み解いてみよう。頻出の「依」=「人+衣」=「谷間で端に三角州がある山稜が延びている様」、「羅」=「連なる様」から依羅=谷間に延び出た山稜の端の三角州が連なり並んでいるところと読み解ける。

すると殖栗物部名代の北側の谷間がその地形を示していることが解る。ありがちなように思えるが、かなり特徴的な地形である。それを実に的確に表記していると思われる。

人會の「人」=「谷間」、「會」=「亼+曾」=「重なるように寄り集まっている様」と解釈すると、人會=谷間が重なるように寄り集まっているところと読み解ける。多くの谷間が、即ち川が寄り集まった地である。尚、「物部依羅朝臣人會」として、この後も幾度か登場される。通常、「物部依網」と解釈されているようだが、その一族の出自の場所ではないであろう。

秋七月丙午。令兩京四畿内及二監依内典法以請雨焉。詔曰。從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀稍彫。實以朕之不徳所致也。百姓何罪燋萎之甚矣。宜令京及諸國。天神地祇名山大川。自致幣帛。又審録寃獄。掩骼埋胔。禁酒斷屠。高年之徒及鰥寡惸獨。不能自存者。仍加賑給。其可赦天下。自天平四年七月五日昧爽已前。流罪已下。繋囚見徒。咸從原免。其八虐劫賊。官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者。不在此例。如以贓入死。降一等。竊盜一度計贓。三端以下者入赦限。丁未。詔。和買畿内百姓私畜猪卌頭。放於山野令遂性命。丙辰。地震。

七月五日に両京・四畿内(大倭・山背・攝津・河内)及び二監(和泉・芳野)に仏教の方式によって雨乞いさせている。以下のように詔されている。「春より日照りが激しく夏までに雨が降らなかった。多くの川は水が減り、五穀は傷んだ。真に朕の不徳のせいである。こんなに作物が甚だしく焼け萎えるのは、人々に何の罪もない。京や諸國に命じて。天神・地祇・名山・大川に長官が自らが を奉らせよ。また、よく調べて無実の罪で獄舎にいる者を記録し、野ざらしの骨や腐った死体を土に埋め、飲酒や屠殺を禁止し、高年の者や鰥・寡・惸・獨で自活できない者に物を恵み与えよ。天下に赦を行え。天平四年七月五日の夜明け以前に、流罪以下の罪に服している者、現に獄につながれている囚人は、全て許す。但し、八虐や劫賊、法を枉げて収賄した官人、監督・支配して物資を補完すべき地位にある者で盗みを働いた者、自己の管理下にある物を盗んだ者、強盗・窃盗、故意の殺人、贋金作りなど、普通の赦で許されないものは、今回の対象に入れない。もし盗品の量が死罪に相当する者があれば、罪一等を減じ、窃盗は犯行を合計して一度とし、その盗品を計り、布三端以下であれば赦の範囲に入れよ。」

六日に詔して、畿内の人々が私的に飼育している猪四十頭を合意の上で買い取り、山野に放って、その生命を全うさせている。十五日に地震があったと記している。