2021年10月18日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(14) 〔551〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(14)


天平三年(西暦731年)十一月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

冬十一月丁未。太政官處分。武官醫師使部。及左右馬監馬醫帶仗者考選。及武官解任者。先例並属式部。於事不便。自今以後。令兵部掌焉。但正身依舊在寮上下。庚戌。冬至。天皇御南樹苑。宴五位已上。賜錢親王三百貫。大納言二百五十貫。正三位二百貫。自外各有差。辛酉。先是。車駕巡幸京中。道經獄邊。聞囚等悲吟叫呼之聲。天皇憐愍。遣使覆審犯状輕重。於是。降恩咸免死罪已下。并賜衣服令其自新。丁夘。始置畿内惣管。諸道鎭撫使。以一品新田部親王。爲大惣管。從三位藤原朝臣宇合爲副惣管。從三位多治比眞人縣守爲山陽道鎭撫使。從三位藤原朝臣麻呂爲山陰道鎭撫使。正四位下大伴宿祢道足爲南海道鎭撫使。癸酉。制。大惣管者。帶劔待勅。副惣管者。与大惣管同。判史二人。主事四人。鎭撫使掌与惣管同。判官一人。主典一人。其抽内外文武官六位已下。解兵術文筆者充。仍給大惣管儀仗十人。副惣管六人。鎭撫使三位隨身四人。四位二人。並負持弓箭。朝夕祇承。隨主願充。令得入考。惣管如有縁事入部者。聽從騎兵卅疋。其職掌者。差發京及畿内兵馬。搜捕結徒集衆。樹黨假勢。劫奪老少。壓略貧賎。是非時政。臧否人物。邪曲寃枉之事。又斷盜賊妖言。自非衛府執持兵刄之類。取時巡察國郡司等治績。如得善惡即時奏聞。不須連延日時令會恩赦。其有犯罪者。先决杖一百已下。然後奏聞。但鎭撫使不得差發兵馬。

十一月二日に太政官は次のような処分を下している。概略は、「武官である医師や使部、及び左右の馬監の馬医で武器を携行する者の評定・叙位と、武官の解任とは、先例では式部省の管轄となっているが、事において不便である。従って今後は兵部省に管轄させよ。」

五日(冬至)に天皇は南樹苑に出御して。五位以上の者と宴を行い、銭を賜っている。親王三百貫、大納言二百五十貫、正三位二百貫で、その他の者は、それぞれ地位に応じている。

十六日、これに先立って天皇が京内を巡幸し、途中で牢獄の近くを通った時に、囚人達が悲しげにうめき、大声で叫んでいるのを聞いた。天皇は哀れに思い、使者を派遣して犯した罪の軽重を再び審査させた。その結果、恵みを下して死罪以下の罪を全て免じ、併せて衣服を与えて行いを改めさせている。

二十二日に畿内の惣管と諸道の鎭撫使を初めて設置し、新田部親王を大惣管、藤原朝臣宇合を副惣管、多治比眞人縣守を山陽道鎭撫使、藤原朝臣麻呂(萬里)を山陰道鎭撫使、大伴宿祢道足を南海道鎭撫使に任じている。

二十八日に、以下のように制定している。「大惣管は剣を帯びて勅命に備えよ。副惣管は大惣管と同じである。判史二人・主事四人を付属させる。鎮撫使の職掌は惣管と同じである。判官一人・主典一人を付属させる。判史・主事・判官・主典には、内外の文官・武官で六位以上の者の内、兵衛や文筆に素養のある者をぬき出して任命せよ。大惣管に儀仗十人、副惣管には六人を与える。鎮撫使で三位の者には、随身四人、四位の者には二人を与える。儀仗・随身は弓矢で武装し朝から夕まで謹んで仕えよ。主の要望によって任命せよ。また勤務評定によって昇進できるものとする。惣管が事情で支配下の地域を巡視することがあれば騎兵三十人を従えることを許可する。」

また、「惣管・鎮撫使の職務は京や畿内の兵馬を動員し、徒党を組み集団の勢いをかりて老人・年少の者や貧しく賎しい者を脅したり圧迫して物品を奪い取る者や、時の政治の善し悪しを言い人物の善悪を論じる者、邪なことや冤罪に関することを捜査し犯人を捕まえること、また盗賊行為をしたり怪しい噂を撒き散らし、衛府に属していないのに武器を身に付けるといった類の者を処断することである。適当な時に国内を巡って國郡司等の治績を視察し、もし彼等の善悪について知り得たならば直ちに報告せよ。もし罪を犯した者があれば杖百以下の場合は、先に判決を下し、その後報告せよ。但し、鎮撫使は兵馬を動員してはいけない。」

十二月丙子。甲斐國獻神馬。黒身白髦尾。乙酉。令大宰府始補壹伎對馬医師。庚寅。定武散位定額員二百人。乙未。詔曰。朕君臨九州。字養万姓。日昃忘膳。夜寐失席。粤得治部卿從四位上門部王等奏稱。甲斐國守外從五位下田邊史廣足等所進神馬。黒身白髦尾。謹検符瑞圖曰。神馬者河之精也。援神契曰。徳至山陵則澤出神馬。實合大瑞者。斯則宗廟所輸。社稷所貺。朕以不徳何堪獨受。天下共悦。理允恒典。宜大赦天下。賑給孝子順孫。高年。鰥寡惸獨。不能自存者。其獲馬人進位三階。免甲斐國今年庸。及出馬郡庸調。其國司史生以上并獲瑞人。賜物有差。

十二月二日に甲斐國が「神馬」を献上している。身は黒く、「髦」と尾は白い・・・と読める。「髦」=「前髪」であり、馬の”たてがみ”は「鬣」である。すんなり読んでは落とし穴に嵌るようだが、それとも誤字と読み飛ばすか?…勿論、開拓地の献上であろう。下記で詳細を述べる。十一日に大宰府に命じて、初めて壹伎・對馬の医師を任命させている。十六日に武官の散位の定員を二百人と定めている。些か増え過ぎたきらいがあったのであろう。

二十一日に以下のように詔されている。「朕は君主として天下に臨み、全ての民をはぐくみ育て、日が傾くまで食事を摂ることも忘れ、夜は寝るのに席(敷物)を忘れるほどである。ここに治部卿の門部王等が奏上して言うには、[甲斐國の守で外従五位下の田邊史廣足等の進上した神馬は、身体は黒で、”髦尾”は白である。そこで謹んで『符瑞図』を検索すると、<神馬は河の精である>とあり、また『援神契』には<徳が山や陵にまで至ると、その沢で神馬を出す>とある。真に大瑞に合致する。]これはとりもなおさず祖先や地の神が賜ったのである。天下の民と共に悦べば道理は不変の法則に叶うであろう。そこで天下に大赦して孝子・順孫、高齢者、鰥・寡・惸・獨で自活できない者に物を恵み与えよ。馬を捉えた人には位を三階昇進させよ。甲斐國の今年の庸と、馬を出した郡の今年の庸・調を免じる。國司の史生以上と瑞を得た人にはそれぞれ物を与える。」

<甲斐國:神馬>
甲斐國:神馬

さて、甲斐國、本著では紀伊國の東隣にあった國と定めたのだが、何とも山稜に挟まれた峡谷のような地に馬は棲息しているのであろうか?…やはり、「鬣」ではなく、「髦」を用いたことに着目すべきであろう。

「髦」=「髟(長+彡)+毛」と分解される。「髟」=「生え出て延びている様」を表すと解説されている。それに「毛」が付加され、”たれがみ”(額に垂れた前髪)と訓される。

一方の「鬣」は”たてがみ”(動物の首筋の毛)と訓される。勿論、この二文字が表す毛が「尾」にあることはあり得ないことになる。通常の解釈とすれば、”たてがみ”と”尾”が白い、と読んでいるようである。でなければ、全くの誤用とせざるを得ない記述であろう。

地形象形的には「髦」=「髟+毛」=「生え出た山稜が[鱗]のような様」と解釈する。古事記を通じて續紀も「毛」=「鱗のような様」である。直近では、周防國熊毛郡に用いられていた。また、頻出の「黑」=「囗+米+灬(炎)」=「谷間で山稜が[炎]のように延びている様」とすると、神馬の容姿解説、「黒身白髦尾」を解釈することが可能となったようである。

黒身白髦尾=山稜が馬の形した尾根から谷間に[炎]のような延びている山稜と[鱗]のように生え出た尾のような山稜がくっ付いている(白)ところと読み解ける。上図を参照すると、この場所以外にはあり得ないほどに特定されるところであることが解る。図中「神馬」と記載した谷間は、現在は樹木に覆われているが、かつてはかなり広い範囲で開拓されていたようである。大きく変化した地域であろう。

「獲瑞人」は三階級も特進されたのだが、名前は記載されず、である。重要な場所情報をもたらす人名なのだが、ここはそれが無くても十分であった。大赦も行われたが、元号に採用するほどでもなかった、流石に天王貴平知百年の「龜」に「神馬」は叶わず、だったのかもしれない。

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四年春正月乙巳朔。御大極殿受朝。天皇始服冕服。左京職獻白雀。甲子。正四位上鈴鹿王。正四位下葛城王並授從三位。无位小治田王從五位下。從四位下榎井朝臣廣國從四位上。從五位下石上朝臣乙麻呂。藤原朝臣豊成並從五位上。」以從三位多治比眞人縣守爲中納言。以從五位下角朝臣家主爲遣新羅使。丙寅。新羅使來朝。

天平四年(西暦732年)正月一日に天皇は大極殿に出御され、朝賀を受けられている。初めて冕服(ベンプク、大儀の際につける儀礼用の冠と衣服。冕冠[ベンカン]と袞龍[コンリョウ]の服)を着用されたと記している。また左京職が「白雀」を献上している。神龜四(727)年正月に続いて二度目の白雀(王多寳に併記)の献上であるが、多分、引用図に記載した西側の谷間と思われる。

二十日に鈴鹿王葛城王に從三位、「小治田王」に從五位下、榎井朝臣廣國に從四位上、石上朝臣乙麻呂藤原朝臣豊成に從五位上を授けている。多治比眞人縣守を中納言、角朝臣家主(角兄麻呂に併記)を遣新羅使に任じている。二十二日に新羅使が来朝している。

● 小治田王 出自に関連する情報は見当たらないのだが、古事記の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)と豐御食炊屋比賣命(推古天皇)との間に誕生した小治田王の場所を出自とした人物ではなかろうか。勿論、その後に小治田朝臣一族蔓延った地である。

二月甲戌朔。日有蝕之。戊子。故太政大臣職田。位田并養戸。並收於官。乙未。中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也。庚子。遣新羅使等拜朝。
三月戊申。召新羅使韓奈麻金長孫等於大宰府。乙丑。散位從四位下日下部宿祢老卒。己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。

二月一日に日蝕があったと記している。十五日に故太政大臣(藤原朝臣不比等)に与えてあった職田・位田並びに養戸(封戸)を官に回収している。二十二日に中納言で催造宮長官であり知河内和泉等國事を兼ねる阿倍朝臣廣庭(首名に併記)が亡くなっている。右大臣の「御主人」の子であった。二十七日に遣新羅使等が朝廷を拝している。

三月五日に新羅使を大宰府から招いている。二十二日に散位の日下部宿祢老が亡くなっている。二十六日に知造難波宮事の藤原朝臣宇合等より以下、仕丁以上の者にそれぞれ物を賜っている。「難波宮」は、難波長柄豐碕宮跡地に造られた。

夏五月壬寅朔。正六位下物部依羅連人會賜朝臣姓。壬子。新羅使金長孫等卌人入京。庚申。金長孫等拜朝。進種々財物。并鸚鵡一口。鴝鵒一口。蜀狗一口。獵狗一口。驢二頭。騾二頭。仍奏請來朝年期。壬戌。饗金長孫等於朝堂。詔。來朝之期。許以三年一度。宴訖。賜新羅王并使人等祿各有差。甲子。遣使者于五畿内。祈雨焉。乙丑。對馬嶋司。例給年粮。秩滿之日。頓停常粮。比還本貫。食粮交絶。又薩摩國司停止季祿。衣服乏少。並依請給之。
六月丁酉。新羅使還蕃。己亥。此夏陽旱。百姓不佃。雖數雩祭。遂不得雨。

五月一日に「物部依羅連人會」に朝臣姓を賜っている。十一日に新羅使等四十人が入京し、十九日に種々の財物、並びに鸚鵡一羽・鴝鵒(八哥鳥)一羽・蜀狗(狆?)一匹・獵狗(猟犬)一匹・驢二頭・騾二頭と記されている。そして朝貢の間隔について裁可を仰いでいる。二十一日に新羅使を朝堂に招いて饗応し、来朝は三年に一度で良いと告げいてる。新羅王並びに使人等に、それぞれ禄を賜っている。

二十三日に使者を五畿内(大倭[和]・河内・攝津・山背・和泉?)に遣わして雨乞いをさせている。二十四日に對馬嶋司には、年間の粮(食料)を支給することを例としている。ところが任期満了になった日を以って常々与えられていた粮が急に停止されため本籍地に帰るころになって絶えてしまう。また薩摩國司は季禄の支給を停止したため衣服が乏しくなっている。いずれも請求によって支給することになった、と記している。

六月二十六日に新羅使が帰国している。二十八日、この夏は日照りで人々は田を耕作できず、しばしば雨乞い(雩)の祭りを行ったが、遂に雨を得られなかった、と記載している。

<物部依羅連人會>
● 物部依羅連人會

「物部」の周辺の地を出自とする人物と思われる。南側は既に埋まっている感じであるから、多分北側の地域と推測される。既出では、置始連殖栗物部の人物が幾人か登場していた。

先ずは、この人物の名前を読み解いてみよう。頻出の「依」=「人+衣」=「谷間で端に三角州がある山稜が延びている様」、「羅」=「連なる様」から依羅=谷間に延び出た山稜の端の三角州が連なり並んでいるところと読み解ける。

すると殖栗物部名代の北側の谷間がその地形を示していることが解る。ありがちなように思えるが、かなり特徴的な地形である。それを実に的確に表記していると思われる。

人會の「人」=「谷間」、「會」=「亼+曾」=「重なるように寄り集まっている様」と解釈すると、人會=谷間が重なるように寄り集まっているところと読み解ける。多くの谷間が、即ち川が寄り集まった地である。尚、「物部依羅朝臣人會」として、この後も幾度か登場される。通常、「物部依網」と解釈されているようだが、その一族の出自の場所ではないであろう。

秋七月丙午。令兩京四畿内及二監依内典法以請雨焉。詔曰。從春亢旱。至夏不雨。百川減水。五穀稍彫。實以朕之不徳所致也。百姓何罪燋萎之甚矣。宜令京及諸國。天神地祇名山大川。自致幣帛。又審録寃獄。掩骼埋胔。禁酒斷屠。高年之徒及鰥寡惸獨。不能自存者。仍加賑給。其可赦天下。自天平四年七月五日昧爽已前。流罪已下。繋囚見徒。咸從原免。其八虐劫賊。官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜。故殺人。私鑄錢。常赦所不免者。不在此例。如以贓入死。降一等。竊盜一度計贓。三端以下者入赦限。丁未。詔。和買畿内百姓私畜猪卌頭。放於山野令遂性命。丙辰。地震。

七月五日に両京・四畿内(大倭・山背・攝津・河内)及び二監(和泉・芳野)に仏教の方式によって雨乞いさせている。以下のように詔されている。「春より日照りが激しく夏までに雨が降らなかった。多くの川は水が減り、五穀は傷んだ。真に朕の不徳のせいである。こんなに作物が甚だしく焼け萎えるのは、人々に何の罪もない。京や諸國に命じて。天神・地祇・名山・大川に長官が自らが を奉らせよ。また、よく調べて無実の罪で獄舎にいる者を記録し、野ざらしの骨や腐った死体を土に埋め、飲酒や屠殺を禁止し、高年の者や鰥・寡・惸・獨で自活できない者に物を恵み与えよ。天下に赦を行え。天平四年七月五日の夜明け以前に、流罪以下の罪に服している者、現に獄につながれている囚人は、全て許す。但し、八虐や劫賊、法を枉げて収賄した官人、監督・支配して物資を補完すべき地位にある者で盗みを働いた者、自己の管理下にある物を盗んだ者、強盗・窃盗、故意の殺人、贋金作りなど、普通の赦で許されないものは、今回の対象に入れない。もし盗品の量が死罪に相当する者があれば、罪一等を減じ、窃盗は犯行を合計して一度とし、その盗品を計り、布三端以下であれば赦の範囲に入れよ。」

六日に詔して、畿内の人々が私的に飼育している猪四十頭を合意の上で買い取り、山野に放って、その生命を全うさせている。十五日に地震があったと記している。