2022年3月27日日曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(42) 〔579〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(42)


天平十八年(西暦746年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

十八年春正月癸丑朔。廢朝。丙寅。地震。己夘。正三位牟漏女王薨。贈從二位栗隈王之孫。從四位下美努王之女也。庚辰。右京人上部乙麻呂之妻大辛刀自賣一産三女。給正税四百束。辛巳。地震。夜亦震。壬午。地震。
二月己丑。改騎舍人爲授刀舍人。

正月一日の朝賀を廃している。十四日に地震が起きている。二十七日に牟漏女王が亡くなっている。栗隈王(栗前王)の孫で美努王の娘(橘宿祢諸兄の妹)であった。二十八日に右京人の「上部乙麻呂」の妻の「大辛刀自」が三つ子の女子を産んだので、正税の稲四百束を支給している(夫妻の出自は上部眞善に併記)。二十九日に地震があり、夜になって再び地震が起きている。三十日に、またも地震があった、と記している。

二月七日に騎舎人を授刀舎人と改称している。

三月丁巳。以正四位上藤原朝臣仲麻呂爲式部卿。從四位下紀朝臣麻呂爲民部卿。外從五位上秦忌寸朝元爲主計頭。己未。外從七位下出雲臣弟山授外從六位下爲出雲國造。」勅曰。朕君臨四海。憂勞兆民。未致隆平。稍有慙徳。粤得治部卿從四位上石上朝臣乙麻呂等奏稱。正五位下河内國守大伴宿祢古慈斐解稱。於所部古市郡内。右京人尾張王獲白龜一頭。長闊短小。形象異常者。謹検瑞圖及援神契云。王者徳澤洽則神龜來。孝道行則地龜出。實合大瑞者。斯蓋乾坤垂福。宗社降靈。河洛呈祥。幽明恊度。祗對天貺喜懼交懷。孤以薄徳何堪忝受。百官共悦。良當朕意。宜天下六位以下皆加一級。孝子順孫。義夫節婦及力田者二級。唯正六位上免當戸今年租。其進龜人特叙從五位下。賜物准例。出龜郡者免今年租調。壬戌。以正五位上平群朝臣廣成爲式部大輔。正五位上橘宿祢奈良麻呂爲民部大輔。正五位下石川朝臣麻呂爲宮内大輔。從五位下大伴宿祢家持爲少輔。丁夘。勅曰。興隆三寳國家之福田。撫育万民先王之茂典。是以爲令皇基永固。寳胤長承。天下安寧。黎元利益。仍講仁王般若經。於是伏聞其教。以慈爲先。情感寛仁事深隱惻。宜天平十八年三月十五日昧爽以前大辟以下罪無輕重。未發覺。已發覺。未結正。已結正。繋囚見徒。咸赦除之。但八虐。故殺人。謀殺殺訖。私鑄錢。強竊二盜。常赦所不免者。不在赦限。戊辰。太政官處分。凡寺家買地。律令所禁。比年之間占買繁多。於理商量。深乖憲法。宜令京及畿内嚴加禁制。」以從四位上三原王爲大藏卿。丙子。常陸國鹿嶋郡中臣部廿烟。占部五烟。賜中臣鹿嶋連之姓。

三月五日に藤原朝臣仲麻呂を式部卿、紀朝臣麻呂(麻路)を民部卿、秦忌寸朝元を主計頭に任じている。七日に出雲臣弟山(果安・廣嶋に併記)に外従六位下を授け、出雲國造に任じている。

この日に以下のように勅されている・・・朕は天下に君主として臨み、万民のことに心配して心を痛めて来たけれども、未だ太平の世を実現することができず、次第に德が至らないのではないかと恥じる気持ちになっていたが、ここに治部卿の石上朝臣乙麻呂等の奏上文をみると、河内國守の大伴宿祢古慈斐(祜信備)が上申して[所管の古市郡内において、右京の人の尾張王白龜一頭を獲た。その龜は長さ・幅ともに小型ではあるが、その形・姿が普通のものとは異なっている]と述べている。治部省が謹んで『瑞図』及び『援神契』に照らして検べたところ[王者の德が広く行き渡って時には神龜が出現し、孝行の道徳が行われている時には地の龜が出現すとあり、この龜は実に大瑞に相当するものと判明した]と述べている。<続>

これはおそらく、天地が福をお恵みになり、祖先と社稷の神(土地の穀物の神)が霊験を下され、黄河や洛水が祥瑞をあらわし、神の世界と人の世界が調和していることをあらわすものである。慎んでこの天が賜った祝福に対して、喜びと懼れの気持ちをこもごもに抱いている。德が薄く、どうしてうやうやしく受けることができようか。しかし全ての官人等が共に悦ぶものであれば、それはまことに朕の思いに叶うものである。そこで天下の六位以下の者に対しては全員位階を一級昇らせ、孝子・順孫・義夫・節婦及び農耕によく努めている人には位階を二級昇らせるようにせよ。但し、正六位上の者については昇級せずに該当する戸の今年の田租を免除することとする。その龜を進上した人には特に従五位下に叙し、賜物は例に准じて賜え、また龜を出した郡は今年の田租と調を免除する・・・。

十日に平群朝臣廣成(平羣朝臣)を式部大輔、橘宿祢奈良麻呂を民部大輔、石川朝臣麻呂(君子に併記)を宮内大輔、大伴宿祢家持を宮内少輔に任じている。

十五日に以下のように勅されている・・・三宝(仏教)を興隆させることは国家の繁栄のもとであり、万民を慈しみ治めることは、昔の優れた天子の残された優れた手本である。そこで皇室の基盤を永く堅固にし、天皇の子孫がとこしえにそれを継承して、天下が平穏となり万民に利益を蒙らせるため、ここに仁王般若経を講義させるのである。ここに謹んでその教義を聞くと、慈しみの心を第一とし、心は寛大で情け深いことに敏感で、事については憐れみの気持ちをもつように、と言う。そこで天平十八年三月十五日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽い重いにかかわりなく、未だ発覚していない罪、既に発覚した罪、未だ罪名の定まっていない者、既に罪名の定まった者、獄に繋がれ服役している徒刑者など、悉く赦免する。但し、八虐を犯した者、故意の殺人、人を殺そうと謀り実行し終わった者、贋金作り、強盗・窃盗を犯した者など、常の赦では免されない者については赦免の範囲には含めない・・・。

十六日に太政官が次のように処分している・・・およそ寺院が土地を買い取ることは、律令によって禁止されている。にもかかわらず、近頃では土地を買い占めることが盛んに行われている。これは道理に照らして検討してみるに、憲法(人として則るべき道徳)にも深く背いている。これに対しては、京職及び畿内の司に厳しく取締り、禁止する措置をとらせることとする・・・。

二十四日に「常陸國鹿嶋郡」の「中臣部」二十戸と「占部」五戸の者等に「中臣鹿嶋連」の氏姓を賜っている。

<常陸國:鹿嶋郡中臣部・久慈郡占部>
常陸國:鹿嶋郡中臣部・久慈郡占部

常陸國は、早期に郡建てが行われ、また、地元の人物も幾人かを登場させている。書紀の天智天皇紀に「常陸國、貢中臣部若子、長尺六寸、其生年丙辰至於此歲十六年也」と記載されている。

勿論、中臣一族とは無縁であり、その人物の出自の場所をこちらに求めた。書紀における「常陸國」の名称は、天智天皇紀(671年)が初見であり、勿論、その地の郡名はなかったのであろう。

ぐっと時代が過ぎて、元正天皇紀(715年)に「常陸國久慈郡人占部御蔭女一産三男」と記載され、久慈郡占部が登場する。更に常陸國多珂郡・那賀郡・鹿嶋郡(菊多郡は石城國に割譲)と立て続けに登場し、狭い國土ながら、郡割されていたことを伝えている(こちら参照)。

今回、氏姓を賜った中臣鹿嶋連は、図に示したように「鹿嶋郡」に属していることが解る。「久慈郡占部」は、この「鹿嶋郡」との郡境に存在していたことも解った。そして、「占部」の一部の戸を「鹿嶋郡中臣部」と見做した結果を述べていると思われる。微妙な表現ではあるが、上図の配置から極めて容易に續紀が伝えんとするところが納得できるのである。

夏四月己酉。以從五位下甘南備眞人神前爲刑部大輔。外從五位下犬養徳宿祢小東人爲攝津亮。從五位下百濟王敬福爲上総守。從四位上石上朝臣乙麻呂爲常陸守。正五位下石川朝臣年足爲陸奧守。丙戌。以左大臣從一位橘宿祢諸兄爲兼大宰帥。中納言從三位藤原朝臣豊成爲兼東海道鎭撫使。參議式部卿正四位上藤原朝臣仲麻呂爲兼東山道鎭撫使。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂爲兼北陸山陰兩道鎭撫使。參議從三位大伴宿祢牛養爲兼山陽西海兩道鎭撫使。參議從四位下紀朝臣麻呂爲兼南海道鎭撫使。壬辰。以正五位下百濟王孝忠爲左中弁。從四位下大市王爲内匠頭。從五位下紀朝臣廣名爲大學頭。從四位上安宿王爲治部卿。從五位下多治比眞人土作爲民部少輔。從四位下多治比眞人廣足爲刑部卿。從四位上船王爲彈正尹。外從五位下大伴宿祢三中爲長門守。從五位下紀朝臣男楫爲大宰少貳。庚子。以從五位下小田王爲因幡守。壬寅。以從五位下依羅王爲大炊頭。外從五位下鴨朝臣石角爲主殿頭。外從五位下小野朝臣綱手爲上野守。癸夘。授正四位上藤原朝臣仲麻呂從三位。正四位下智努王正四位上。從四位上三原王正四位下。從四位下諱從四位上。從五位下小田王從五位上。无位額田部王。伊香王。山村王並從五位下。從四位上石上朝臣乙麻呂正四位下。從四位下紀朝臣麻呂從四位上。正五位上多治比眞人占部。阿倍朝臣沙弥麻呂。藤原朝臣清河。正五位下大伴宿祢兄麻呂並從四位下。正五位下石川朝臣年足正五位上。從五位上多治比眞人國人正五位下。從五位下粟田朝臣馬養從五位上。外從五位下大伴宿祢麻呂。田口朝臣三田次。爲奈眞人馬養。粟田朝臣堅石。當麻眞人廣名。紀朝臣可比佐。大伴宿祢三中。大伴宿祢名負。大伴宿祢百世。路眞人宮守。引田朝臣虫麻呂。下毛野朝臣稻麻呂。太朝臣徳足。路眞人野上。車持朝臣國人。高橋朝臣國足。鴨朝臣石角。穗積朝臣老人。布勢朝臣多祢。大伴宿祢犬養。笠朝臣蓑麻呂。小野朝臣東人。小野朝臣綱手。紀朝臣必登。鴨朝臣角足。正六位下藤原朝臣宿奈麻呂。正六位上阿倍朝臣毛人。波多朝臣足人。佐伯宿祢濱足。坂合部宿祢金綱。采女朝臣人。阿曇宿祢大足。中臣朝臣益人。縣犬養宿祢古麻呂。正六位下巨勢朝臣君成。正六位上大神朝臣麻呂。佐伯宿祢全成。大養徳忌寸佐留並從五位下。正六位上津史馬人。大鳥連大麻呂。船連吉麻呂。土師宿祢牛勝。壬生使主宇太麻呂。中臣丸連張弓。出雲臣屋麻呂。清原連清道並外從五位下。己酉。勅。一位以下初位以上馬從。多數甚無制度。其一位十二人。二位十人。三位八人。四位六人。五位四人。六位以下二人。自今已後。永爲恒式。但職事一位二位不在此例。

四月四日(乙酉?)に甘南備眞人神前(神前王)を刑部大輔、大養徳宿祢小東人(大倭忌寸小東人)を攝津亮、百濟王敬福()を上総守、石上朝臣乙麻呂を常陸守、石川朝臣年足を陸奥守に任じている。五日に左大臣の橘宿祢諸兄を大宰帥、中納言の藤原朝臣豊成を東海道鎭撫使、參議・式部卿の藤原朝臣仲麻呂を東山道鎭撫使、中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂を北陸山陰兩道鎭撫使、參議の大伴宿祢牛養を山陽西海兩道鎭撫使、參議の紀朝臣麻呂(麻路)を南海道鎭撫使に兼任させている。

十一日に以下の人事を行っている。百濟王孝忠()を左中弁、大市王を内匠頭、紀朝臣廣名(宇美に併記)を大學頭、安宿王を治部卿、多治比眞人土作(家主に併記)を民部少輔、多治比眞人廣足(廣成に併記)を刑部卿、船王を彈正尹、大伴宿祢三中を長門守、紀朝臣男楫(小楫)を大宰少貳に任じている。十九日に小田王を因幡守に任じている。二十一日に依羅王(久勢女王に併記)を大炊頭、鴨朝臣石角(治田に併記)を主殿頭、小野朝臣綱手を上野守に任じている。

二十二日に以下の叙位を行っている。藤原朝臣仲麻呂に從三位、智努王(文室淨三)に正四位上、三原王(御原王)に正四位下、諱(白壁王、後の光仁天皇)に從四位上、小田王に從五位上、「額田部王」・「伊香王」・「山村王」に從五位下、石上朝臣乙麻呂に正四位下、紀朝臣麻呂(麻路)に從四位上、多治比眞人占部阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)藤原朝臣清河大伴宿祢兄麻呂に從四位下、石川朝臣年足に正五位上、多治比眞人國人(家主に併記)に正五位下、粟田朝臣馬養に從五位上、大伴宿祢麻呂(兄麻呂に併記)・田口朝臣三田次爲奈眞人馬養(猪名眞人馬養)粟田朝臣堅石(必登に併記)當麻眞人廣名(東人に併記)紀朝臣可比佐(飯麻呂に併記)大伴宿祢三中大伴宿祢名負・大伴宿祢百世(美濃麻呂に併記)路眞人宮守(麻呂に併記)引田朝臣虫麻呂下毛野朝臣稻麻呂(信に併記)太朝臣徳足(遠建治に併記)路眞人野上車持朝臣國人(益に併記)高橋朝臣國足鴨朝臣石角(治田に併記)穗積朝臣老人布勢朝臣多祢大伴宿祢犬養(三中に併記)笠朝臣蓑麻呂小野朝臣東人(馬養に併記)小野朝臣綱手紀朝臣必登鴨朝臣角足(治田に併記)藤原朝臣宿奈麻呂(良繼)阿倍朝臣毛人(廣庭の子。粳虫に併記)・「波多朝臣足人」・「佐伯宿祢濱足」・「坂合部宿祢金綱」・「采女朝臣人」・阿曇宿祢大足(刀に併記)・「中臣朝臣益人」・「縣犬養宿祢古麻呂」・「巨勢朝臣君成」・大神朝臣麻呂(通守に併記)・「佐伯宿祢全成」・大養徳忌寸佐留(廣庭に併記)に從五位下、「津史馬人」・「大鳥連大麻呂」・「船連吉麻呂」・「土師宿祢牛勝」・壬生使主宇太麻呂(壬生直國依に併記)・「中臣丸連張弓」・出雲臣屋麻呂(出雲國楯縫郡に併記)・清原連清道(高祿德に併記)に外從五位下を授けている。

二十八日に以下のように勅されている・・・一位以下初位以上の者が持っている馬従(騎馬の従者)の人数が甚だ多数に上っているが、その制度がなかった。そこでそれぞれの限度を一位は十二人、二位は十人、三位は八人、四位は六人、五位は四人、六位以下は二人とする。この法を永く不変の制度とせよ。但し、正規の官職に就いている一位・二位の官人についてはこの法を適用しない・・・。

● 額田部王 元明天皇紀の和銅五(712)年正月に無位から従五位下に叙爵された同一名の王が記載されていた(こちら参照)。今回も無位から同位であり、別人で同じ場所を出自に持つ王だったと思われる。

<伊香王・文成王>
● 伊香王

数年後になるが、臣籍降下して「甘南備眞人」姓を賜っている。この姓は、既に神前王が同じく降下して賜ったと記載されていた。栗前(隈)王の孫であり、敏達天皇の後裔である。

調べると、この系列とは異なるが、やはり敏達天皇の子孫であり、父親が「弟野王」であったと知られていることが分かった。と言うことで、彼等は元を質せば同じ系譜であり、「甘南備」の地が出自であると思われる。

頻出の文字である「伊」=「人+尹(|+又)」=「谷間で区切られた山稜が延びている様」、「香」=「禾(黍)+曰」=窪んだ地から山稜がしなやかに曲がって延びている様」と解釈した。纏めると伊香=谷間で区切られた山稜にある窪んだ地から山稜がしなやかに曲がって延びているところと読み解ける。

図に示した場所、「甘南備」の北側の山稜の形を表していることが解る。別称に伊吉王があったと知られている。これも頻出の吉=蓋+囗=蓋のような様であり、「香」の山稜を表しているが、万葉歌人でもあるこの王は、蓋をされたような谷間が出自であることを示していると思われる。

父親の弟野王は、弟=ギザギザとした様として、西側の谷間を挟んだ場所、また二人の息子達、高城王池上王は、図に示したところが出自と推定される。詳細はご登場の時に述べることにする。

後(孝謙天皇紀)に文成王が「甘南備眞人」姓を賜ったと記載されている。系譜は定かではないようである。文成=平らに盛り上がった地が交差するようなところと読むと、図に示した辺りが出自と推定される。

<山村王>
● 山村王

後(称徳天皇紀)に薨じられた時、來目皇子(古事記では久米王)の子孫であると記載されている。ならば、現地名の田川市夏吉と田川郡福智町伊方との境と思われる。

簡単に見出せるかと思いきや、「山村」の「山」の解釈に些か戸惑わさせられたようである。頻出の村=木+寸=山稜が指を開いた手のような様であり、先ずは、その地形らしきところを探すと、「來目」の谷間の北側の山稜が見出せる。

すると、この山稜の他に二本の山稜が、「山」の字形のように延び出ている様を表現したのでは、と気付かされた。図に示した通り、この王の出自は、その”右手”の場所にあったと推定される。「山」を地形象形に用いた珍しい例のように思われる。

一説に父親が筒城王であったとのことであるが、筒=竹+同=真っ直ぐに延びた筒状の様と解釈すると、西側の山稜を表しているのではなかろうか。配置的には、親子関係として、差支えの無い状況かと思われる。最終官位従三位・参議となったと伝えられている。

● 藤原朝臣宿奈麻呂 藤原朝臣宇合(式家)の次男(良繼)の初見である(こちら参照)。初名が宿奈麻呂であり、後に「良繼」と改名したとのことである。頻出の宿奈=谷間で小高い地が連なって高台となっているところ、そして、良繼=なだらかに受け継ぐところ、と曖昧な表記にしている。反逆者「廣嗣」の弟として、思うところがあったのではなかろうか。

藤原朝臣仲麻呂の「南家」の隆盛の陰で「式家」没落の憂き目に合い、自らも配流されたのだが、最終従二位・内大臣(贈正一位・太政大臣)と活躍されたとのことである。

波多朝臣足人 波多朝臣一族は、文武天皇紀以降でも多くの人物が登場している。廣麻呂僧麻呂安麻呂古麻呂、そして聖武天皇紀には孫足天平九(737)年九月に外従五位下に叙爵されていた。彼等の出自の場所は、現地名の北九州市門司区大里東(一)に隈なく広がっていたと推定した(こちら参照)。

最後の孫(子+系)足=生え出た山稜に連なっている山稜があるところは、外従五位下に叙爵されて以降に再登場することはない。足人=谷間に山稜が延びているところは、内位の従五位下に叙爵されていることからすると、おそらく、同一人物ではなかろうか。後者の地形象形表記の方が適切なように思われる。

<佐伯宿禰濱足-大成>
● 佐伯宿祢濱足

佐伯宿禰一族も絶えることなく登場している。今回も二名であり、さて、あの狭い谷間に、その出自の場所を求めることになるが、續紀で記載されるのは、これが最初で最後のようである。

また、系譜も不詳であり、名前が示す地形のみから推定することになる。「濱」=「氵+賓」=「水辺で広がった様」であり、濱足=山稜が長く延びて水辺で広がっているところと読み解ける。

佐伯宿禰の谷間は、急峻であり、「濱」の様相の場所は極めて限られていると思われる。それを念頭にして探すと、「豐人」の南側の地形を表していることが解る。前出の「兒屋麻呂」とは、川を挟んだ対岸ある場所と思われる(こちら参照)。

後(孝謙天皇紀)に佐伯宿祢大成が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であり、名前が示す地形で探索すると、上図の場所辺りと推定される。その後、丹後守に任じられている。

<坂合部宿祢金綱-斐太麻呂>
坂合部宿祢金綱

「坂合部(連)」は、書紀の雄略天皇紀に初見され、斉明天皇紀に最も多くの登場人物が見られる一族である。坂合=境と解釈するが、坂合=麓で延びた山稜の端が出合うところの地形象形表記である(こちら参照)。

両脇から山稜が延びて、谷間が区切られたような地形、即ち境(堺)となる。古事記は「境(堺)」と表記する。例えば大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の輕之堺原宮、男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)の子、境之黑日子王など)。

『八色之姓』で宿祢姓を賜り、文武天皇紀には坂合部宿祢大分・三田麻呂などが登場していた。今回の人物の金綱の文字列は、書紀の天武天皇紀に記載された金綱井に含まれている。金綱=先が三角形(金)の細長い岡(綱)と解釈した。図に示した場所の地形を表していると思われる。

後(淳仁天皇紀)に坂合部宿祢斐太麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である斐太=狭い谷間が折れ曲がった傍らで平らに広がったところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。「金綱」の南側に位置するところが出自と推定されるが、”外”が付くことから、別の系列だったのであろう。

<采女朝臣人>
采女朝臣人

「采女朝臣」は、采女朝臣枚夫(比良夫)が元明天皇紀以来となった采女朝臣若等が登場していた。古事記が伝える邇藝速日命を遠祖に持つ一族である。現在は広大な宅地に変化しているが、さて、本人物は何処の出自か?・・・。

の文字は、人物名に実に多く用いられているが、単独は希少である。これだけで場所が特定されるのだから、人=[人]の形をした谷間明確な地形が見られるところなのであろう。

「比等、必登」などの別名が存在したかは定かではないが、その谷間を探すと、図に示した場所が見出せる。もっと早期に登場してもよいように思われるが、「采女」の地からすると辺境だったのかもしれない。現地名も、北九州市小倉南区長行・德吉ではなく合馬となっている。以後續紀に登場されることはないようである。

<中臣朝臣益人>
中臣朝臣益人

調べると、「垂」の一家で「嶋麻呂」の孫、「人足」の子であったことが分かった。叔父に「名代」がいる系譜となる(こちら参照)。現地名は北九州市國南区大字蒲生と大字長行(住居表示は高野)との境の場所である。

益人の「益」=「八+八+一+皿」=「谷間に挟まれた一様に平らな様」と解釈したが、図に示したように「人足」の両脇の谷間で挟まれた場所と推定される。

それが谷間()にあることから益人と名付けられたのであろう。三つの谷間が寄り集まった地形と見做せるところである。神祇伯であった父親は、元正天皇紀の養老元(717)年十月の記事以降に登場することはなく、天平十七(745)年九月に叔父の「名代」が亡くなっている。内位の従五位下での初爵の”欠員補充”は頷けるところであろう。

<縣犬養宿禰古麻呂>
縣犬養宿祢古麻呂

縣犬養一族を調べた時に古麻呂は、「東人」の末っ子、即ち「三千代」(橘宿祢)等の兄弟であることが分かっていた。いずれご登場されると思い、今日に至った次第である。

理由は、古=丸く小高い様が一見では見出せず、先延ばしにしていたのが実情である。と言うことで、東人の周辺の地形の詳細をあらためて調べた結果を述べる。

結論は、図に示した場所、東人の直ぐ東隣の地が出自と推定された。国土地理院航空写真1961~9を参照すると、地形図では微かに小高い地がより鮮明になる。また、現在のGoogle Mapでも同様な地表の有様を伺うことができる。

「縣犬養氏」に関するWikipediaを引用すると・・・犬養部は宮門、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であり、県犬養は、稚犬養、阿曇犬養、海犬養、辛犬養連、阿多御手犬養とともにこれを統率した伴造6氏族の一つである。「県」は朝廷直轄地を意味すると考えられるが定かでない・・・。坂上忌寸犬養は、如何に解釈するのであろうか?…皇統に絡む一族の素性が殆ど未解明なのである。息長一族と同様であり、日本の古代は、ロマンの塊と言える。

<巨勢朝臣君(公)成-公足>
巨勢朝臣君成

巨勢朝臣一族であるが、系譜は不詳である。名前を頼りに出自の場所を求めることになる。それにしても、この一族からの登用は凄まじいくらいに頻出であり、如何に多くの人々が住まっていた地であったことが伺える。

古事記の建内宿禰の子、許勢小柄宿禰を遠祖に持つ一族である。既に書紀がその出自の場所を暈した、と述べた。間違いなく、”淡海”が関係する地だったからである。

既出の文字である君=尹(|+又)+囗=山稜が区切られている様成=丁+戊=平らに突き固められた様、また、別名の公成の表記も知られている。公=八+ム=谷間に丸く区切られた地がある様と解釈した。これらの地形要素が示す場所が、前出の少麻呂の谷間の北側に見出せる。この近津川沿いの地域からの人材の輩出は、実に多いことが分かる。地方官を歴任されたとのことである。

ずっと後(光仁天皇紀)になるが、巨勢朝臣公足が従五位下を叙爵されて登場する。公足=谷間に丸く区切られた地にある足の形のように山稜が延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自だったのではなかろうか。

<佐伯宿祢全成-乙首名-靺鞨-美努麻女>
佐伯宿祢全成

もう一人の佐伯宿祢である。この人物は、この後も幾度か登場し、政争に巻き込まれて波乱の生涯を送ったように思われる。

名前に含まれる「全」は、初見であろう。文字解釈をすると、「全」=「入+玉」と分解され、「象嵌をする際、玉をびっしりとはめ込む情景」を表す文字と解説されている。「栓」が日常に用いられる文字として、その情景を示している。

地形象形的には全=谷間に玉のような地がすっぽりと収まっている様と読み解ける。書紀に記載される『乙巳の変』の功労者、佐伯連子麻呂の地形を表したいることが解る。上記でも用いられている成=丁+戊=平らに突き固められた様については、国土地理院航空写真1961~9を参照すると、谷間が台地になっていることが確認され、上記の場所が出自と推定される。

少し後に佐伯宿祢乙首名・佐伯宿祢靺鞨が、それぞれ従五位下を叙爵されるが、共に系譜及びこの後の消息も知られていない人物のようである。乙首名=山稜の端にある首の付け根のような地の前で[乙]の形になっているところの文字列は、初出であろう。それを頼りに出自の場所を求めると、図に示した「式麻呂」の東側辺りと推定される(上記の国土地理院写真参照)。

次の「靺鞨」の名称は、実は既出であり、元正天皇紀に肅愼國の更に先にある靺鞨國へ使者を派遣して、その地に風俗などを調べさせたと記載されていた。靺鞨=毛皮を広げたような山稜の端にある閉じ込められたところと解釈した。類似の地形より求めると、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。「首名」は蝦夷討伐で功績を上げた記載されていた。武人で知られる佐伯宿祢一族は、敵の名前を譲り受けたような命名のようでもある。

更に後に佐伯宿祢美努麻女が從五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳であるが、やはりこの佐伯の谷間を出自とする女官だったと推測される。美努麻=谷間が広がった地に山稜が嫋やかに延びて擦り潰したように平らになったところと読み解ける。「靺鞨」の北側の場所と推定される。尚、「首麻呂・智連・式麻呂」についてはこちらを参照。

<津史馬人-秋主・船連吉麻呂-夫子>
● 津史馬人・船連吉麻呂

元正天皇紀に「津史主治麻呂」が遣新羅使に任じられて登場している。そこでも述べたように、「津史」と「船連(史)」とは同族であり、出自の場所も隣接していたと推定した(こちら参照)。

今回も仲良く二名、馬人吉麻呂が外従五位下に叙爵されたと記載されている。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保の図師である。

馬人の「馬」は、若干崩れた様相であるが、「主治麻呂」の上手の山稜を[馬]の形に見做した命名と思われる(馬の古文字形)。馬人=[馬]の傍らに谷間があるところと読めば、図に示した辺りが出自と思われる。

少し後に津史秋主が同じく外従五位下を叙爵されて登場する。秋主=山稜が[火]のような形で並び真っ直ぐに延びた山稜があるところと読み解くと、「馬人」の谷間の奧に当たる場所が出自と推定される。尚、「津史」一族は、後(淳仁天皇紀)に「秋主」が船連と同じく連姓を願い出て、津連の氏姓を賜っている。

「津史」の東側の谷間が船連一族の居処であり、吉=蓋+囗=蓋をしているような様から吉麻呂の出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。また後(孝謙天皇紀)に船連夫子が登場する。大唐学問生であったが出家するため、外従五位下の叙爵を受けなかった、と記載されている。「吉麻呂」の北側に隣接する場所が出自と推定される。

この地もかなりの数の人物が登場して来たが、全ての谷間に配置される様相である。残り少なくなって来ているが・・・。

<大鳥連大麻呂・河俣連人麻呂>
● 大鳥連大麻呂

「大鳥連」は、河内國(後に和泉監)大鳥郡に関わる氏姓であろう。この地を出自に持つ人物は極めて少ないが、今を時めく大僧正行基法師が生まれ育った地である。

漸く真面な氏姓を持つ人物の登場なのである。名前は、如何にも平凡で特定するには不向きであるが、麻呂=萬呂と解釈すると、「鳥」の脚の部分の地形を表していると思われる。

ここは、書紀の持統天皇紀に幾つかの禁漁の地名として挙げられた内の一つ、高脚海に接する場所である。禁漁の地には守護人が置かれていたと記載されていたが、それに任じられた一族かもしれない。後に内位の従五位下に叙爵されている。

少し後に河内國人の河俣連人麻呂が銭一千貫を廬舎那仏に寄進して外従五位下を賜っている。「行基法師」と関りあったようで、この寄進は法師の土木事業の成果だったのかもしれない。河俣=水辺の谷間の入口で山稜が二つに岐れたところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。

<土師宿祢牛勝-弟(乙)勝>
土師宿祢牛勝

土師宿祢には、幾つかの系列があって、少し前では、弟麻呂・百村の系列から多くの子孫が登場していた(こちら参照)。また、富杼・祖父麻呂の系列も記載されて、実に多彩な人材輩出となっていた。

身・根麻呂の系列では、最近になって御目が登場していた。天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天之菩卑能命が切り拓いた地、正に古豪一族は絶えることなく続いていたことを伝えているのである。

古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に「大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部」と簡単に記載されている。書紀は、殉死の立花(橘)を回避するために、野見宿祢が身代わりの埴輪を造ったなど、詳細に述べている。史書における「橘」の解釈、真面に読み解けているのであろうか?・・・。

横道に逸れるので・・・調べると牛勝は「甥」の子、「根麻呂」の孫であると分かった。些か地形変形が見られるが、「甥」の山稜の西麓が牛の頭部の形()に小高くなっている()ところを表していることが解る。まだまだ、系譜は途切れることなく続くようである。

後(孝謙天皇紀)に土師宿祢弟勝が外従五位下を叙爵されて登場する。同じく「甥」の子と知られている。別名に乙勝、多くの場合そうであるように、があったことも伝えられている。弟(乙)勝=ギザギザとした(乙の字形のように)盛り上がった地があるところと解釈すると、図に示した場所、些か変形しているが、見出せる。

<中臣丸連張弓>
● 中臣丸連張弓

「中臣」一族の複姓表記である。既に多くの「中臣」の谷間に蔓延った連中が登場していたが、そろそろ谷間も埋まったきた様相である。

予測の通りに、「丸」が示す地形を求めると、何と、「中臣」の谷間をぐるりと一周して、いよいよ「飯高」の地に届く谷間の出口であることが解った。

張弓=弓が張ったようなところであり、図に示した場所が出自と推定される。最終官位は正五位下であった、それほど高位に達するわけではないようだが、續紀に登場される回数は極めて多い。あまり長生きされなかったのかもしれない。”複姓”の中臣一族、これで終わりか?…いや、余談は許されないであろう。

出雲臣屋麻呂 余談ぽくなるが、この時点では、まだ臣姓をたまわっていなかった出雲屋麻呂(別名:屋滿・屋萬里)の地は、速須佐之男命の子、八嶋士奴美神が娶った木花知流比賣の出自の場所と推定した。別名が表す山稜の端が岐れて広がった様子は、木花知流(山稜の端[木花]の鏃のような地[]が連なり延びた[]ところ)そのものであろう。

大年神の領域に侵出した八嶋士奴美神、この異母兄弟間の確執が出雲を舞台とした戦乱を巻き起こしたのである。歴史の表舞台から抹消された地が漸く迫(セリ)で押し上げられ、光が当てられたように感じられる(こちら参照)。











 

2022年3月20日日曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(41) 〔578〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(41)


天平十七年(西暦745年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋七月庚申。遣使祈雨焉。壬申。地震。癸酉。地震。戊寅。典侍從四位上大宅朝臣諸姉卒。
八月己丑。給大宰府管内諸司印十二面。甲午。從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋除中臣爲熊凝朝臣。庚子。設無遮大會於大安殿焉。己酉。地震。壬子。正三位山形女王薨。淨廣壹高市皇子之女也。癸丑。行幸難波宮。以中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。藤原朝臣豊成爲留守。甲寅。地震。

七月五日に使者を派遣して降雨を祈らせている。十七日、十八日と続けて地震が起こっている。二十三日に典侍の大宅朝臣諸姉(金弓に併記)が亡くなっている。

八月四日に大宰府管内の各役所に印を十二面授けている。中臣熊凝朝臣五百嶋(古麻呂に併記)の中臣を除いて熊凝朝臣としている。十五日に大安殿において無遮大会(五年に一回、貴賤の別なく、一切平等に財施と法施とを行ずる法会)を行っている。二十四日に地震が起こっている。二十七日に山形女王が亡くなっている。高市皇子の娘であった。

二十八日に難波宮(難波長柄豐碕宮、以下同様)に行幸されている。中納言の巨勢朝臣奈弖麻呂藤原朝臣豊成を留守官に任じている。二十九日に地震が起こっている。

九月丙辰。地震。戊午。知太政官事兼式部卿從二位鈴鹿王薨。高市皇子之子也。」以正五位上橘宿祢奈良麻呂爲攝津大夫。正五位下百濟王全福爲尾張守。外從五位下田邊史高額爲參河守。民部卿正四位上藤原朝臣仲麻呂爲兼近江守。從五位下縣犬養宿祢須奈保爲丹後守。從五位下大原眞人麻呂爲美作守。外從五位下井上忌寸麻呂爲紀伊守。正五位下紀朝臣宇美爲讃岐守。外從五位下車持朝臣國人爲伊豫守。外從五位上文忌寸馬養爲筑後守。丁夘。以從五位上巨勢朝臣堺麻呂爲式部少輔。己巳。禁斷三年之内天下殺一切宍。辛未。勅。朕頃者枕席不安。稍延旬日。以爲。治道有失。民多罹罪。宜可大赦天下。常赦所不免咸赦除之。其年八十以上。及鰥寡惸獨。并疹疾之徒不能自存者。量加賑恤。壬申。從五位下藤原朝臣乙麻呂爲兵部少輔。從五位上佐味朝臣虫麻呂爲越前守。癸酉。散位從四位下中臣朝臣名代卒。」天皇不豫。勅平城恭仁留守固守宮中。悉追孫王等詣難波宮。遣使取平城宮鈴印。又令京師畿内諸寺及諸名山淨處行藥師悔過之法。奉幣祈祷賀茂松尾等神社。令諸國所有鷹鵜並以放去。度三千八百人出家。甲戌。令播磨守正五位上阿倍朝臣虫麻呂奉幣帛於八幡神社。令京師及諸國寫大般若經合一百部。又造藥師佛像七躯高六尺三寸。并寫經七卷。丙子。中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂等言。巨勢朝臣等久時所訴奴婢二百三人。今既停訴。請欲從良。許之。丁丑。平城中宮請僧六百人令讀大般若經。己夘。車駕還平城。是夕。宿宮池驛。庚辰。至平城宮。

九月二日、地震が起こっている。四日に知太政官事兼式部卿の鈴鹿王が亡くなっている。高市皇子の子であった。また、以下の人事を行っている。橘宿祢奈良麻呂を攝津大夫、百濟王全福()を尾張守、田邊史高額(史部虫麻呂に併記)を参河守、民部卿の藤原朝臣仲麻呂を兼近江守、縣犬養宿祢須奈保を丹後守、大原眞人麻呂を美作守、井上忌寸麻呂を紀伊守、紀朝臣宇美を讃岐守、車持朝臣國人(益に併記)を伊豫守、文忌寸馬養を筑後守に任じている。

十三日に巨勢朝臣堺麻呂を式部少輔に任じている。十五日に三年間、全国において一切の鳥獣の殺生を禁止している。十七日に以下のように勅されている・・・朕は最近病気がちで。不安な容態が十日以上に及んでいる。思うにこれは天下を治める上で過失があり。人民が多く法にふれ、難儀していることによるのであろう。そこで天下に大赦を行うが、平常の赦では許されない者も悉く赦免することとする。また八十歳以上の高齢者、及び鰥寡惸獨並びに病人で自活してゆくことが困難な人々については、その程度によって物を恵み与えるように・・・。

十八日に藤原朝臣乙麻呂を兵部少輔、佐味朝臣虫麻呂を越前守に任じている。十九日に散位の中臣朝臣名代(人足に併記)が亡くなっている。依然として天皇は病気であるので、平城・恭仁両宮の留守官に「宮中を固く守れ」と勅し、孫王等を召して悉く難波宮に参集させている。難波宮から使者を派遣して、鈴と印とを取り寄せている。

また、都と畿内では諸寺及び諸々の名高い山の浄らかな場所において薬師悔過(薬師如来を本尊として、その仏前で罪過を懺悔して薬師経を講讚する行事)の法会を行わせ、「賀茂・松尾」等の神社には幣帛を奉って祈らせている。諸國に対しては、所有している鷹と鵜を共に放たしめている。三千八百人を得度して出家させている。

二十日に播磨守の阿倍朝臣虫麻呂に命じて幣帛を八幡神社(筑紫八幡社)に奉り、京師(京職)及び諸國司に命じて大般若経を都合一百部写経させ、また、高さ六尺三寸の薬師仏像を七体作らせ、薬師経を七巻書写させている。二十二日に中納言の巨勢朝臣奈氐麻呂等は[巨勢朝臣等は長い間、奴婢二百三人の身分について訴訟を起こしていたが、この度その訴えを取り下げ、良民としたいと請う次第である]と言上したので、許可している。

二十三日に平城宮の中宮に僧六百人を招いて大般若経を読経させている。二十五日に天皇が平城宮に還幸することになり、この夕べ、「宮池駅」に宿泊している。二十六日に平城宮に到着している。

賀茂神社・松尾神社 賀茂神社の賀茂については、文武天皇即位二(698)年三月の記事に山背國賀茂祭が記載されていた。その地にあった神社を中心とした祭だったと思われるが、後に発展して現在の葵祭に繋がると言われている。賀茂(神)社と解釈するのではなく、賀茂の(にある)神社が適切なように思われる。

同様に松尾神社の松尾については、古事記の葛野之松尾と思われる。その松尾の(にある)神社となろう。大寶元(701)年四月に山背國葛野郡月讀神・樺井神・木嶋神・波都賀志神があったと述べている。それらの神稻を中臣氏所管としたと記載されている。「松尾」の場所にあったと推定した「樺井神・波都賀志神」を示しているように思われる。

<宮池驛>
宮池驛

難波宮から平城宮への行程は、古事記に幾度か記載された大坂越であろう。御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に謀反人の建波邇安王を征伐する時に、大毘古命が通過した山代之幣羅坂と記載されている。

この難所の峠を越えるために麓に”驛”が設けられていたのであろう。すると、「近飛鳥宮」(現在の飯嶽神社)の近辺にあったと推測される。宮=近飛鳥宮池=氵+也=水辺が曲がりくねっている様と解釈すると、図に示した辺りに宮池驛があったと思われる。

難波宮から宮池驛まで、地図上の概算で10km弱、驛から平城宮まで15km前後と求められる。一泊二日の行程であろう。驛からの道筋は、現在の県道204号線ではなく、前出の大友史斐太の谷間を通過して丸邇(現在の田川郡香春町柿下)に抜けたと推測される(山代之幣羅坂参照)。

古事記に記載された”幣羅坂”を漸くにして突き止めることができたようである。山稜の端が幾つも寄り集まった峠の道、それに伴って谷間が曲がりくねった様となる。実に特異な谷間の道となったのであろう。古代の人々の地形認識の確からしさを、あらためて感じさせられたようである。

冬十月戊子。論定諸國出擧正税。毎國有數。但多褹對馬兩嶋者。並不入限。辛亥。河内國司言。右京人尾張王。於部内古市郡古市里田家庭中。得白龜一頭。長九分。闊七分。兩目並赤。

十月五日に諸國が出挙する正税(稲)の額を論定している。その定数は國の等級によって定められるが、多褹・對馬の両島については、この規定を適用しない、としている。二十八日に河内國司が[右京人の「尾張王」が、管内の古市郡古市里に所有している田家(田舎の家)の庭において、「白龜一頭」を捕獲した。長さは九分、横幅は七分で、両目は共に赤色をしている]と言上している。

<尾張王>
● 尾張王

この王は二度目のご登場である。前回(天平九[737]年九月)では、全く出自の情報が得られず、書紀で記載された敏達天皇の子、尾張皇子の場所ではないか、と推察した。

そして今回は「右京人」と付加されたことにより、前回の推察通りの場所であったことが解った。かつての皇子の場所に住まっていたわけで、以前にも類似する例があった。

図に示した通り、大安寺があった山稜を表し、既に幾人かの渡来系の人々が住まっていた地でもある(例えば支半于刀)。参考に尾張皇子及びその娘(厩戸皇子の妃)の出自の場所を引用するが(こちら参照)、とりわけ娘の名前は、彼等の出自の場所を確定的にしているように思われる。

大安寺は、厩戸皇子が建立した熊凝精舎を受け継いだと言われる。皇子が活発に動かれた地域だったのであろう。勿論、その当時には”右京”ではなかったのであるが・・・。

<田家・白龜一頭>
田家・白龜一頭

久々に祥瑞の登場である。田家は、「田舎の家」を意味すると辞書に解説されているが、そのままの意味でよいのか?…白龜一頭とは?…龜は”頭”で数えるのか?…などなど腑に落ちない記述であることには違いない。

と言うことは、地形を表すために工夫された表記と思われる。頻出の白龜=龜の形をした地がくっ付いているところと解釈した。龜は二匹いる筈である。

一頭=一つの頭と読むと、二匹の龜がいるが、一匹の頭のような地だけが見える地形を表しているのではなかろうか。田家=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになっている前に田があるところと読み解く。すると、二匹の龜と一つの頭、そして豚口の山稜が寄り集まっている場所が見出せる。

正に古市郡の古市里(丸く小高い地が寄り集まった里)の様相を示す地であることが解る。最も東側の、現在の春日神社がある小高いところは、龜の甲羅にように見えるが、”頭”が見えない。西側の龜は、少々地形が崩れてはいるが、しっかりと”頭”が確認される。

更に極めつけは、その頭が「火」の文字形をしていると見做せることが解り、その文字の両脇の二点が目の位置にあるのを赤=大+火=平らで[火]の形をしている様と表記してと解釈される。紛うことなく瑞祥であろう。褒賞は、後に記載されることになるのかもしれない。「長九分。闊七分」は、また、後日に読み解いてみよう。

十一月乙夘。遣玄昉法師造筑紫觀世音寺。己巳。宴五位已上於内裏。賜祿有差。但年七十以上別加賜被。庚午。收僧玄昉封物。庚辰。制。諸國公廨。大國卌万束。上國卅万束。中國廿万束。就中。大隅薩摩兩國各四万束。下國十万束。就中。飛騨。隱伎。淡路三國各三万束。志摩國。壹伎嶋各一万束。若有正税數少。及民不肯擧者。不必滿限。其官物欠負未納之類。以茲令填。不許更申。又令諸國停止仕丁之廝。
十二月戊戌。運恭仁宮兵器於平城。

十一月二日に玄昉法師を派遣して筑紫の觀世音寺の造営に当たらせている。十六日に五位以上の官人を内裏に集めて宴を催し、それぞれに授け物を与えている。但し七十歳以上の者には、それに加えて別に被(夜具)も与えられている。十七日に僧玄昉に与えられていた封戸と財物を没収している。

二十七日に次のように制している・・・諸國における公廨稲に当てるべき稲の限度を、大國は四十万束、上國は三十万束、中國は二十万束、そのうち大隅・薩摩の両國は各々四万束、下國は十万束、そのうち飛騨隠岐淡路の三國は各々三万束、志摩國・壹伎嶋は各々一万束と定める。もし正税の数量が少ない場合や民衆が出挙に応じない時には、必ずしもその限度額を満たす必要はない。官物の不足の分が未だ収納されていないような場合は、公廨稲(出挙)の利息をもって補填せしめ、これ以後は申告することは許されない・・・。また諸國に命じて仕丁の(身辺の世話をする者)を停止させている。

十二月十五日に恭仁宮の兵器を平城宮に運んでいる。

藤原朝臣廣嗣が叛逆するほどに権勢を振るった「玄昉法師」が失脚したのであろう。当然、主役の橘宿祢諸兄の権勢も急激に衰えたと推測される。後に藤原朝臣仲麻呂が台頭して来ることを思えば、藤原朝臣一族の復活と言えそうである。尚、僧玄昉は、この後半年余り過ぎた翌年の天平十八(746)年六月に亡くなっている。

「觀世音寺」に”筑紫”が冠されている。筑紫を分割して筑前・筑後としたのならば、そのどちらかか?…大宰府に関わるなら、何故筑前と記さないのか?…多くの不確かなことが浮かんで来るが、通説は、スルーである。勿論、大宰府も含めて”筑紫”の地(現地名は北九州市小倉北区足原)にあった寺である。

知太政官事の「鈴鹿王」が亡くなったり、政権の主要人物が様変わりしつつあることを告げているように伺える。世は止まることなく変化して行ったのであろう。