2017年7月31日月曜日

須佐之男命:高天原から出雲国に降臨 〔073〕

須佐之男命:高天原から出雲国に降臨


天照大神と須佐之男命、二人の誓約、兄弟喧嘩みたいなもので、どちらがどうこうと言うこともなく決着をみるのであるが、どうも須佐之男命は分が悪い。高天原を去るしか道はなかったのであろう。しっかり身削ぎをされて、亡き母の国に向かうのである。

「食」の話になるといつものことながら穢い比喩となる。「食」=「生」と「排泄」=「死」の対立概念を同一化しているような記述である。こんな視点から古事記を読み解していないが、いずれ重要な意味を示してくれるのではと思うが…。

いずれにせよ大氣津比賣神から様々な植物などが生えて来る。目敏く神巢日御祖命が集めて種にするのである。造化三神、古事記の主役達にとってはなくてはならない存在、いや、いい脇役である。種は蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆である。「高天原」から須佐之男命が持参した食物である。

蚕は食べ物?…極めて貴重な動物性蛋白源である。勿論幼虫。絹糸も取れるし、古代は真に貴重な生き物であったことを記している。山中で遭難した時は草ではなく虫を食え、鉄則である。草には毒を持つものが多い。生死の境目に追い込まれたら…が、なかなか食えないものであるが・・・。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故、所避追而、降出雲國之肥河上・名鳥髮地。此時箸從其河流下、於是須佐之男命、以爲人有其河上而、尋覓上往者、老夫與老女二人在而、童女置中而泣、爾問賜之「汝等者誰。」故其老夫答言「僕者國神、大山津見神之子焉、僕名謂足上名椎、妻名謂手上名椎、女名謂櫛名田比賣。」亦問「汝哭由者何。」答白言「我之女者、自本在八稚女。是高志之八俣遠呂智毎年來喫、今其可來時、故泣。」爾問「其形如何。」答白「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾、亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也。」此謂赤加賀知者、今酸醤者也。[かくてスサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥の河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸がその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになって尋ねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか」とお尋ねになったので、その老翁が、「わたくしはこの國の神のオホヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか」とお尋ねになったので「わたくしの女はもとは八人ありました。それをコシの八俣の大蛇が毎年來て食べてしまいます。今またそれの來る時期ですから泣いています」と申しました。「その八俣の大蛇というのはどういう形をしているのですか」とお尋ねになつたところ、「その目は丹波酸漿のように眞赤で、身體一つに頭が八つ、尾が八つあります。またその身體には蘿だの檜・杉の類が生え、その長さは谷八つ峰八つをわたつて、その腹を見ればいつも血が垂れて爛ただれております」と申しました]

出雲國之肥河上・名鳥髮*


須佐之男命が向かった出雲国、その中の地を述べている。いろんな文字使いで困惑させられている感じであるが、紛う事無く、以下のように特定できる。いつの間にか伊邪那岐・伊邪那美の国生み直後に生まれた大山津見神がこの地に来ていた。

「肥河」は「肥(フトル)河」=「太(フトル=オオキイ)河」=「大川」である。現在の北九州市門司区の中を、東部山地の複数の谷間から流れ出て永黒辺りで合流し、大里東の傍を流れて関門海峡に注ぐ川である。国土地理院地図で確認できる支流の数は十を超える。豊な水源であったと推測される。


今は治水され決して大きな川のようには見えないが、とりわけ河口部の標高から推測されるように古代では現在の河口付近に大きな入江を形成していたと思われる。ネット検索で過去の大川を回想され、昔はもっと大きな川であったというブログもある。半世紀も経たない期間の変化も加わっているようである。

「鳥髪(トリカミ)」=「鳥()の髪(カミ)=「戸ノ上」である。既に紐解いた「鳥取(トトリ)」であり、また邇藝速日命が落ち着いた「鳥見(トミ=登美)の白庭山」に通じる。降臨のイメージからその主体を「鳥」に見立て「ト」の音に「鳥」を用いたのであろう。「ト」は「斗」に由来すると帰結されよう。

「肥国」=「出雲国」と解釈してきたが、あらためてそれを確信する。通説は「肥国」を律令制によって制定された「肥前」「肥後」佐賀、熊本県辺りを示し、出雲国は島根県を示す、拡大と分割を行うのである。そして現存する地名のみからその場所を比定しているのである。意味不明な話になると神話・伝説の世界に古事記を落とし込んできた、何度も述べてきたように…続く説話「八岐大蛇」も紛れもなく該当する。

高志之八俣遠呂智


古事記の中で最も印象的な説話の一つであろう。がしかし、合理的な解釈を目にしたことがない。「八俣遠呂智」は一体何を比喩するのか?…これは決して難しいものではない。多くの頭と尻尾を持って身体には木が生えている、これだけで「八俣遠呂智」=「河」であろう。毎年訪れるのは季節に従って氾濫する河の様子である。

だが、この比喩が王道を歩かない。引っ掛かるのが「高志」である。島根と越は河では繋がらないのである。決定的と思われ、納得のいく比喩の最後が空間をワープする、又は日本海で交流があった証拠などと有耶無耶な世界に入り込んでいく。これが現状である。八俣遠呂智」を紐解くと…、
 
八(谷)|俣(分岐)|遠(果てしなく)|呂(連なる)|智(場所)


…「分岐した谷が果てしなく連なるところ」となる。「呂」は背骨の象形から連なった地形を示し、「智」は場所・方角を意味する接尾語と解釈する。

須佐之男命が「肥河」の氾濫を見事なまでに食い止めたのである。多くの逆巻く波頭を堰き止めて鎮めたと記述されている。「肥河」の源流は「鳥髪」の山にある。そこを「越」えると「高志」である。前記した「上菟上(トのカミ)國造・下菟上(トのカミ)國造・伊自牟國造」である。全てが繋がり、全てが合理的に理解でき、この説話の重要性も伝わってくる。

調べると強調された「丹波酸漿のように眞赤」「草那藝之大刀」は砂鉄及びその酸化物を示すと解釈されているようである。さもありなんである。「高志」に住まう人々の技術力の高さは古事記が幾度となく記述するところである。通説の「八俣遠呂智」の伝説は、読み手が勝手に作り上げた伝説である。

須賀


やんちゃが治まった須佐之男命は出雲の地で英雄となる。亡き母に会いに行ったかどうか古事記は語らないが、宮まで造ることになる。その場所に選定したのが「清々しい」駄洒落をした「須賀」の地である。何処であろうか?…、

須賀=須(州)|賀(入江)

…「州のある入江」と解釈できる。「肥河」が谷から流れ出たところの「州(川中島)であろう。彼が治水した川の河口付近である。現在の同市門司区寺内・上二十町辺りと思われる。ならば「須賀宮」は上二十町にある観音山団地の高台にであったと推定される。上記の「八俣遠呂智」の解釈と繋がる記述と思われる。

そして「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐・・・」と詠われる。「八雲」=「多くの雲」「八」が多い説話である。何故、八雲?…「斗」である。淡海の湿った空気が「柄杓」の「煙突効果」で山の斜面に沿って上昇気流となり、そして断熱膨張の結果温度が降下、露点を過ぎると凝集して雲となる。「出雲国」が「柄杓()の地」であったことを自然現象的に伝え、そして正に「雲を出(イズ)る国」と表現しているのである。


古事記が伝える事柄の自然との関わりの深さ、大きさ、強さ…それをしみじみと噛締める日々である。地形象形の巧みさはそんな深い関わり方であったからこそ為し得たことであろう。現代人に欠けた大きな課題である。と同時に現在に残る地名の由来を訳の分からないようにしてしまった知を持つと言われる輩の責任は重いと断じる。

最後に大国主命の誕生に関連するところを抜粋してみると…

兄八嶋士奴美神、娶大山津見神之女・名木花知流比賣、生子、布波能母遲久奴須奴神。此神、娶淤迦美神之女・名日河比賣、生子、深淵之水夜禮花神。此神、娶天之都度閇知泥神生子、淤美豆奴神。此神、娶布怒豆怒神之女・名布帝耳神生子、天之冬衣神。此神、娶刺國大神之女・名刺國若比賣、生子、大國主神・亦名謂大穴牟遲神・亦名謂葦原色許男神*・亦名謂八千矛神・亦名謂宇都志國玉神、幷有五名。[兄のヤシマジヌミの神はオホヤマツミの神の女の木の花散る姫と結婚して生んだ子は、フハノモヂクヌスヌの神です。この神がオカミの神の女のヒカハ姫と結婚して生んだ子がフカブチノミヅヤレハナの神です。この神がアメノツドヘチネの神と結婚して生んだ子がオミヅヌの神です。この神がフノヅノの神の女のフテミミの神と結婚して生んだ子がアメノフユギヌの神です。この神がサシクニオホの神の女のサシクニワカ姫と結婚して生んだ子が大國主の神です。この大國主の神はまたの名をオホアナムチの神ともアシハラシコヲの神ともヤチホコの神ともウツシクニダマの神とも申します。合わせてお名前が五つありました]

「天之」と付く神の名前が登場する。その名前から「天」の場所まで特定するには至らないが、実在性のあることを示す例であろう。「天」から「出雲」へいよいよ古事記の舞台が移動する前触れである。上記の中に「刺国」という記載がある。「大国主神」の母親の出自の場所である。

「刺」=「棘」と解釈する。「刺国」=「棘のような国」一見で特定できる。国生みされた島、「佐度嶋」、現在の小呂島(福岡市西区)である。


「棘」=「小さな尖った突起」の地形象形である。興味のある方はとあるサイトに挙げられた写真を参照願う。


国生みされた島々、いつかは全て登場するのであろうが、小呂島がこんな形で登場するとは驚きであった。

しかし「渡を佐る」島、しかも壱岐から出雲に向かうには通過する主要拠点であったろう。ともあれ再見できて、感謝である。

…と、まぁ、いよいよ大国主命の出番である・・・。

2017年7月30日日曜日

天照大神と須佐之男命の誓約:天津日子根命 〔072〕

天照大神と須佐之男命の誓約:天津日子根命


引き続きもう一人の命、天津日子根命について祖となった場所を紐解いてみよう。

天津日子根命


前記でわかったことの一つに後に登場する国名とは異なるものが多々あること、また、消滅してしまったと思える地域名があるようで、その変遷も興味深いものがある。

古事記原文[武田祐吉訳]

天津日子根命者。凡川內國造・額田部湯坐連・茨木國造・倭田中直・山代國造・馬來田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稻寸・三枝部造等之祖也。[アマツヒコネの命は、凡川内の國の造・額田部の湯坐の連・木の國の造・倭の田中の直・山代の國の造・ウマクタの國の造・道ノシリキベの國の造・スハの國の造・倭のアムチの造・高市の縣主・蒲生の稻寸・三枝部の造たちの祖先です]

1.凡川內國造=オオシコウチのコクゾウ

「川()内国」は近淡海国の西、豊国の北に当たるところ。現在の長峡川と小波瀬川に挟まれた場所で、現地名は京都郡みやこ町となる。「凡」が付くのは河内としてはかなり大きな面積を有していたからではなかろうか。いずれ頻度高く登場するに連れて「河()内」と簡略化され、むしろ「日下」の河内のようにより具体的な地名表示となったと推測される。通説は大阪難波の河内、譲れません。

2.額田部湯坐連=ヌカタベユエのムラジ

「額田」もいくつか登場した。地形象形として「山の斜面が額のように突き出たところの麓」を表すと解釈した。急斜面で「ヒタイ」があるところはいくつか候補となるが、「湯坐」は何を示しているのであろうか?…その突き出た額から急勾配で流れる川があるところ、と紐解ける。

香春岳の近隣に「湯山」「湯無田」という地名が残っている。後に「山辺」と言われるところ、現在の田川郡香春町高野である。気付けば大坂山からの稜線に複数の山(コブ)があり、正に「額」の様相である。「国譲り」されずに残っていた地名であろう。

3.茨木國造=ウバラキのコクゾウ

「木」を使った地形象形であろう。「茨木」=「茨(積み重ねる)(山の稜線)」いくつもに延びた山の稜線が重なり合った高台と解釈する。また「木=紀」も掛け合わさっているであろう。倭建命が訪れた東方十二道の端の国である「邇比婆理」「都久波」の地と紐解ける。現在の北九州市門司区吉志辺りである。

この地形象形は見事である。前記では「茨木」の記述はなく「邇比婆理(新治)」「都久波(筑波)」であった。「木」を使った象形記述、伊豫の四つの木、師木等、にまた一つ加えることにする。ともあれ、現在の茨城、決して「イバラ」の意味ではないことをお伝えしたい。

4.倭田中直=ワのタナカのアタエ

これほど手掛かりの無い言葉は無い。困り果てて倭国をウロウロしていると、神は存在した。香春一ノ岳の南西麓に「中組」という地名が残っていた。検証の手立てがないので、当面これで良しとしよう。現地名は田川郡香春町香春である。

5.山代國造=ヤマシロのコクゾウ

多数出現の「山代国」である。「山代之大国」と「大国」との関係、未だ闇の中である。関係ないのかもしれない…現地名は京都郡みやこ町犀川大村・木山等の辺りである。

6.馬來田國造=ウマクタのコクゾウ

「馬」とくれば「馬ヶ岳」そんなに単純にはいかないように…では、どうして「馬ヶ岳」?…「馬」の姿をしているからである。しかも足が付いていかにも歩きそうな…。冗談ぽくなってるが、関連する記述がある。「宇沙」の「足一騰宮」は馬ヶ岳の稜線を馬の足に見立てた表現であった。足の先が少し小高くなってところ、である。

「馬來田國」は現在の行橋市大谷辺りと特定できる。その範囲を知る術がなく、天生田、西谷辺りまで含むかもしれない。豊国の東辺を指していると思われる。「宇沙」の地も早くから統治の範囲に入れていたのである。勿論古事記には二度と登場しない国名である。

7.道尻岐閇國造=ミチのシリのキベのコクゾウ

初見での解釈は応神天皇紀の仁徳天皇の歌にある「美知能斯理」=「道の尻」=「道の後方」=「日向国」に見事に引き摺られてしまった。ここでは道が「岐閇」することはない。その後に神八井耳命が祖となった「道奧石城國」が出現し、東方十二道の行き着く果てであると紐解けた。「茨木国」近隣の地である。現地名は北九州市門司区畑辺りと思われる。

8.周芳國造=スハorスホウorスワのコクゾウ

これだけ簡単な記述だと様々な解釈が発生する。上記の建比良鳥命が祖となった地域、また茨木国が既に登場したことなどを併せると「科野国」に関連すると思われる。「周芳」=「スワ()」であろう。その意味は何と読み解すことができるのであろうか?

少し先の古事記記述「葦原中國の平定」の段に「科野國之州羽海」と記載される。「州羽海」=「中州が羽のような形をした海」現在地名は北九州市小倉南区葛原辺りである。曽根平野を竹馬川が流れる地形であるが当時はその大部分が海面下であり、大きな干潟を形成していたものと推測される。

現存する地形から推測するのみであるが、河川が運んできた土砂が堆積して出来上がった州ではなく、河水と海水によって浸食された凹凸のある州の形状を表現したものであろう。「州羽」の出現もこれのみであり、類推するのが難しい言葉である。通説の諏訪湖は全く無関係とされた方がよろしいかと…。

9.倭淹知造=ワのアムチのミヤツコ

「淹知」=「広く治水のできたところ」と思われる。これもこの情報からでは特定し辛いものであるが、倭の中心地と解釈すれば「倭淹知」=「師木」であろう。現在の田川郡香春町中津原・大任町今任原辺りである。天津日子根命の系譜は知る術がなく、祖となった経緯は不明である。

10.高市縣主=タケチのアガタヌシ

古事記中「高市」の出現はこれのみ。関連しそうな記述がある。雄略天皇紀の長谷にある大きな槻の下で酒宴を開いた時、三重の采女の歌に対する后の返歌に纏向日代宮の場所を「多氣知」と表現している。この地はその後も種々名前を変えたように思われるが、この日代宮があった場所の古名とも言うべきものではなかろうか。現地名は田川郡香春町鏡山である。

11.蒲生稻寸=カモウのイナキ

これは由緒ある蒲生八幡神社がある場所であろう。後の「伊勢国」になる。現在地は北九州市小倉南区蒲生である。

12.三枝部造=サキクサベのミヤツコ

垂仁天皇紀の「大中津日子命」が獅子奮迅の働きで「三枝之別」の祖となったと記載される。三枝の地が発展したのであろうか…。現地名は京都郡みやこ町犀川喜多良である。犀川を遡って倭の都、又は師木などに向かうバイパスルート上にあり、その中間点として重要な位置にあったと思われる。

また英彦山信仰が盛んになるに従ってこの地を経由する人々の往来も盛んであったろう。現在はのどかな農村風情を醸し出しているように感じられるが、時のベールに包まれた地としてみるべきであろう。「三枝」=「三つの枝」=「三叉路」を示すと推察される。師木方面と英彦山方面の追分である。

「天津日子根命」と「大中津日子命」の類似性も気に掛かるところである。「根」がつくのは「根本」を意味するのであろうか…また、調べてみたいテーマである。

前記の建比良鳥命が祖となった場所を併せて示すと…、


こうして眺めてみると、後の神倭伊波礼比古以降の天皇達が「言向和」する地の有様を示しているものと思われる。彼らが支配、統治する国々の「古代」である。まだまだその体制は脆弱であり、欠けているところを埋めながら雄略天皇の雄叫びに達するまで多くの時間を要したという、その経緯を述べるのが古事記である。

筑紫嶋の出雲国を出発点として、その周辺への拡大、そして「畝火山=香春岳」の麓が、それは高天原の「天香山=神岳」に擬したところとして、後に倭国の中心となる。それを暗示する記述である。この四つの山の名前に「香」が共通する。偶然であろうか…。

地名と思しき言葉を紐解いてきた本ブログは、天空を思わせる「天」及び地下の世界を匂わせる「黄泉国」を地上に引下げ及び引上げた。神話・伝説の奇想天外な記述を現実的な時空として浮かび上がらせることができたと思われる。止まれ、まだ少々残りの部分がある。感想はその後にしよう・・・。

…と、まぁ、古事記の古代はやたらややこしい命名、後付けかな?・・・。

2017年7月29日土曜日

天照大神と須佐之男命の誓約:天菩比命之子・建比良鳥命 〔071〕

天照大神と須佐之男命の誓約:天菩比命之子・建比良鳥命


さてさて「天」の場所探しであちこち動き回って疲れ果てたところだが、「誓約」はまだまだ終わっていない。天照大神が三女神を霧の中から生んだのは前回に少し記述したが、今度は須佐之男命の番である。天照大神が身に着けているものから、同様に「天之眞名井」の水を使って霧発生…すると今度は五男神が生まれた。

正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命である。一番目の天之忍穂耳命は幾度か古事記に登場する。また邇藝速日命の父親ということになっている。前記したように現在の福岡県田川郡赤村に関連する「吾勝」「葛野」の出自であろう。が、古事記は語らない。

宗像三女神について触れて、二番目、三番目の天之菩卑能命、天津日子根命の語りに進む。これが難解、というか通説、宣長くんが根源なんだろうが、奇想天外?な地名比定を行っているようで、神話と割り切るなら比定しなければ良いものを・・・。ともあれ愚痴るところではないので、一つ一つ丁寧に…A首相の国民の皆様への国会答弁ではありません。

古事記原文[武田祐吉訳]

此後所生五柱子之中、、建比良鳥命此出雲國造・无邪志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等之祖也。 [この後でお生まれになった五人の子の中に、アメノホヒの命の子のタケヒラドリの命、これは出雲の國の造・ムザシの國の造・カミツウナカミの國の造・シモツウナカミの國の造・イジムの國の造・津島の縣直・遠江の國の造たちの祖先です]

建比良鳥命


本来は父親の「天菩比命」が出雲国に遣わされて「祖」となる筈なのだが、少々曰くがあって息子になってしまった。後日に記述することになろうが、神話なのだが、俗ぽくって面白いところ。いや、神話ではないかもしれない…。因みに天菩比(全てに秀でた)命=天穂日命である。名前の長さ、長男との格差大である。

1.出雲國造=イズモのコクゾウ

既に頻出の国である。現在の北九州市門司区大里、行政区分上はより細かく分かれているが、代表的な地名で表す。「意富」「大」「多」などと表記されるが、ネット検索でもこの地に特定した例が見当たらない。どうやら全くの的外れか、核心をついているかになってるようである。勿論後者として話を進めることとする。

2.无邪志國造=ムザシのコクゾウ

邪心の無い国、良き命名なのかも?…倭建命の東方十二道に登場した「相武国」が該当すると思われる。現在の同市小倉南区沼である。これも細かな行政区分ではなく代表的な地名である。建比良鳥命あるいはその末裔が統治していたのであろうが、倭建命の時期には、やや、反抗的?…時の権力は流動的であろう。

3.上菟上國造・4.下菟上國造=カミツウナカミ・シモツウナカミのコクゾウ

見慣れぬ文字「菟上(ウナカミ)」が現れた。で、チラッと通説を眺めると「上総」「下総」の各々にある「海上郡」のこととある。千葉県の登場である。何故東方十二道にも入ってない国がシャシャリでるのか?…宣長くんが古文書眺めて見つけた言葉をそのまま持ってきた、それだけのことであろう。前後の脈略皆無である。

と、偉そうなことを言って、何と解釈する?…「菟上(トガミ、トノウエ)」と読む。漸くにしてこの地の「ト」という表現の由来を語る時が来たようである。「戸ノ上山」勿論、同根である。造化三神を含む五つの別天神に続いて生まれた神々、伊邪那岐・伊邪那美と同世代の神に「意富斗能地神」、妹の「大斗乃辨神」の二神がいる。

この二神に共通する「斗」の文字の紐解きが全てを明らかにすることになる。既に幾度か解釈したように「斗」=「柄杓」である。柄杓のよう地形を示す。「由良能斗」「伊斗村」「利波(柄杓田)」が挙げられる。その最も典型的で尚且つ大きな「斗」が「大(意富)斗」=「出雲国」なのである。これは地形象形そのものの表現である。「大」の由来は「大斗」にあった。

山に囲まれて凹になった地形、それは古代においては最も好ましい住環境を提供してくれる場所であり、近隣の自然環境と異なり穏やかな佇まいを示す処なのである。その地を「ト」と表した。そしてその地の上方にあるところを「トのウエ」と表現したのである。

「戸ノ上山」=「斗()の上にある山」そのものを表している。その「戸ノ上」にある国とは?…大長谷、現在の門司区奥田を通り淡島神社の脇を通り過ぎると、行き当たるのが「上菟上國」、少々下ると「下菟上國」となる。「上」は現在の同市門司区伊川、「下」は同市門司区柄杓田・喜多久となる。

彼らの視点は常に淡海から眺めているのである。柄杓の底から山を上がり、その上がった先にある国々を表した国名である。都の位置など無関係、実際の行動に全てが準拠している。単純であり、明快であると思われる。これらの国は高志道に含まれる。高志に禊に行くなど、気安く言えるのは既にその祖が居たからである。

命が移動するにはそれなりの準備が整ってからである。突然現れるなど実際にはあり得ない。神話・伝説に言い逃れるのは古事記を閉じてからにするべきであろう。いや、もしくは全編神話・伝説にしてしまうか、である。

5.伊自牟國造=イジムのコクゾウ

なんじゃこれは、という命名であるが、わかると面白い。「自牟」=「自ら大きくなる」となるとしよう。「猿喰新田」である。僅かな耕作地を巧みな水門を作って水田となしたところ、である。やはりこの地の水門は目を見張るものがあったのであろう。

驚嘆すべき技だった。だから敢えてこんな名前にしたのではなかろうか。また、「喰」にも掛けてあるような気もする。「牟」=「貪る」という意味もある。安萬侶くんの戯れ、かな?…上記と併せて後の「高志国」の全てが揃ったことになる。現地名は同市門司区猿喰、何度眺めても良くぞ残したものである。

6.津嶋縣=ツシマのアガタ

これは動かしようがところ、対馬である。この島は平地が殆どなく住環境的には最悪の場所であったと思われる。交通の要所としての役割、勿論極めて重要なものであろうが、前記したように「天之狹手依比賣」の名称は言い得て妙である。言いづらいことを名前に変えて言う、人麻呂くんに劣らずの安萬侶くんである。現地名は長崎県対馬市である。

7.遠江國造=オンガのコクゾウ

勿論律令制後の国ではない。古遠賀湾の河口付近に位置する国であろう。古事記に出現するのはこれのみである。位置的には日向国と被るところもある。かなり後に「淡海国」という表現が登場する。決して「遠江」=「浜名湖」ではない。日本書紀における「淡海+近淡海」⇒「近江」の無節操な置換えを見逃して日本の古代は紐解けない。

後の「日向国」が遠賀湾西岸となる。律義に邇邇芸命が降臨するまでは「日向」名前は登場させないのであろう。一応その東岸に位置付けてみた(後の淡海之久多綿之蚊屋野辺り)。おそらく「遠江國」としてみたものの、所詮は住環境的に無理があって消滅したのではなかろうか。現地名は福岡県遠賀郡水巻町辺りである。

そんなわけで、「天津日子根命」は次回にして、本日のところを地図に示してみると…



…斗、まぁ、祖の紐解きは手間が掛かる・・・。


2017年7月28日金曜日

高天原:天安河・天香山・天之眞名井・天石屋 〔070〕

高天原:天安河・天香山・天之眞名井・天石屋


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
いよいよ三貴神中の二貴神の物語の始り、行き着くところは一貴神の天照大神が主役を演じるのだが、何故か造化三神中の高御產巢日神(高木神の名前で)がしゃしゃり出て来る。この辺りの登場人物のキャラクター設定にやや首を傾げるところだが、裏を勘ぐるのは後日としよう。

伊邪那岐大神に見捨てられて黄泉国に向かおうとするのだが、天照大神に一言声を掛けてからと、「天」に参上した。世間は騒がしくなるは、天照大神は超が付く完全武装で待ち構えるは、トンデモナイ状況になってしまったとのこと。信用を取り戻すには、如何すべきとなって・・・

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命、亦御名、謂奧津嶋比賣命。次市寸嶋上比賣命、亦御名、謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命。[スサノヲの命は「誓約を立てて子を生みましょう」と申されました。よって天のヤスの河を中に置いておいて誓約を立てる時に、天照大神はまずスサノヲの命の佩いている長い劒をお取りになって三段に打ち折って、音もさらさらと天の眞名井の水で滌そそいで囓みに囓んで吹き棄てる息の霧の中からあらわれた神の名はタギリヒメの命またの名はオキツシマ姫の命でした。次にイチキシマヒメの命またの名はサヨリビメの命、次にタギツヒメの命のお三方でした]

「宇氣比」は「誓約」と訳される。生まれる子供で身の潔白を証明するとは、なかなか理解し辛いところではある。男女の違い?総数?…ルールの理解も難しい。言葉で発したものがそのまま実現すること、それが誓約の結果のように思われるが、「盟神探湯(クカタチ)」もこれの一種だとか…。

それで勝負が始まり先ずは須佐之男命の剣から三人の比賣が生まれた。宗像三女神と呼ばれる、世界遺産の女神達である。霧の中から現れる、なんとも幻想的な設定である。美しい三姉妹の誕生を祝そう。

そんな舞台が「天」である。黄泉国が現実なら「天」も現実であろう。そう勢い込んで「天」の紐解きに入る。今まで行ってきた地形象形を信じて安萬侶くんが伝える「天」の在処を突止めてみよう。上記の説話に登場するのは「天安河」「天之眞名井」である。

天安河


「天」とは何を意味するのであろうか?…天空ではない。「天」がついた言葉は既に何度もお目に掛かっている。伊邪那岐・伊邪那美の十六島の国生みに「天」が登場する。大八嶋国で四島、六嶋で三島である。生まれた順に…

①隱伎之三子嶋、亦名天之忍許呂別 ②伊伎嶋、亦名謂天比登都柱 ③津嶋、亦名謂天之狹手依比賣 ④大倭豐秋津嶋、亦名謂天御虛空豐秋津根別 ⑤女嶋、亦名謂天一根 ⑥知訶嶋、亦名謂天之忍男 ⑦兩兒嶋、亦名謂天兩屋、

である。古事記の舞台がこの「国生み」の島であるなら、天照大神や須佐之男命が誓約した場所もこの七つの島の中にあると推測される。①天之忍許呂別:ひどくコロコロとしたところ ③天之狹手依比賣:狭い土地が頼りの比賣 ④天御虛空豐秋津根別:天が御する虚空の豊秋津嶋 ⑤天一根:一本の根っこ* ⑥天之忍男:目立たない男 ⑦天兩屋:二つ並んだ島

既に特定したように島の面積からでも①地島、⑤女島、⑥男島、⑦蓋井島は対象外であろう。また④は「天」がこれから統治するところである。「天」の本拠地は、②伊伎嶋、亦名謂天比登都柱と結論される。「天」の中心となる「一つ柱」と言われる「伊伎嶋」=「壱岐島」である。「天安河」「天之眞名井」はこの島にある。

では「天安河」の「安」は何と解釈すれば良いであろうか?…「安」は既に登場した。「近淡海之安国」である。この地は現在の福岡県京都郡苅田町上・下片島にあったとした。根拠は高城山山塊の西麓の谷間が作る古事記の三つの地名には、「八田(ヤタ)」「八瓜(ヤカ)」「安(ヤス)」の「ヤ」という共通の語幹を持った地名と紐解いたことにある。

「ヤ」=「谷」である。「安(ヤス)」=「谷州(ヤス)」として、吉野河(現在の小波瀬川)の河口付近にあった「州」を表すと解釈された。この三つの地名の比定は「八田」が神倭伊波礼比古の東行に再現(八咫烏)したことからも確度の高いものと思われる。

「安河」=「谷州河」とは一体、壱岐の何処にあるのだろうか?…この島は岳ノ辻の噴火によって形成された溶岩台地である。およそ標高200m以下の楯を並べたような凹凸のある地形を示している。当時とも基本的には大きな差はないものであろう。山塊と呼べる場所が見つからないのである。

が、「近淡海之安国」とは非なるが似ている場所、しかも極めて特徴的なところが見出せた。現在の壱岐市勝本町にある勝本ダムから南北の山に挟まれた谷を流れる後川川は蛇行しながら初尾川と、更に谷江川と合流する。これらの川によって、多くの「州=川中島」が形成されていたと思われる。

  
「谷江川」は芦辺町の河口まで標高100m前後の台地の谷間を約3km強の区間流れる。全体的には高低差の少ない溶岩台地の中をその窪みの谷間を縫うように走る川である。現存する名前の中の「谷」でその地形を象形していると思われる。極めて特異な地形であることを古事記は伝えている。

「天」の中心は何処であろうか?…まさか河口ではあるまい。この川の上流、その畔にあったと思われるが、上記の説話では不詳である。「天之眞名井」は後述するとして先に進む。かの有名な天照大神が須佐之男命の態度に激怒されて天の岩戸にお隠れになる段である。そこに「豊かな情報」が隠されていたのである。

天香山


於是萬神之聲者、狹蠅那須此二字以音滿、萬妖悉發。是以八百萬神、於天安之河原、神集集而訓集云都度比、高御產巢日神之子・思金神令思訓金云加尼而、集常世長鳴鳥、令鳴而、取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅、科伊斯許理度賣命、令作鏡、科玉祖命、令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而、召天兒屋命・布刀玉命布刀而、內拔天香山之眞男鹿之肩拔而、取天香山之天之波波迦、令占合麻迦那波而、天香山之五百津眞賢木矣・・・[こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天のヤスの河の河原にお集まりになってタカミムスビの神の子のオモヒガネの神という神に考えさせてまず海外の國から渡って來た長鳴鳥を集めて鳴かせました。次に天のヤスの河の河上にある堅い巖を取って來、また天の金山の鐵を取って鍛冶屋のアマツマラという人を尋ね求め、イシコリドメの命に命じて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に命じて大きな勾玉が澤山ついている玉の緒の珠を作らしめ、アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿の肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取ってその鹿の肩骨を燒いて占なわしめました。次に天のカグ山の茂った賢木を・・・]

というわけで世間は大騒ぎになって、どんなことがあっても挫けない思金神くんが登場。いろんな案が出て来るので情報満載、余分なものが多いけど…。それで現れ出でたるのが「天香山」。倭と同様に「天」の中心に存在する山と想定できる。

あらためて「香」の文字解釈をしてみると、目から鱗で反省するところもある。「香」は「黍(キビ)」と「曰(モウス)」からなる文字で、神に黍を供えて祝詞を捧げることに語源があるとのこと。良い匂い、優雅で美しいさまを表現する。キーワードは「神」である。

「安河」の上流に「神岳(カミオカ)」という山の名前が現存する。「天香山」は現在の長崎県壱岐市勝本町新城西触にある「神岳」と特定することができる。そして数本の川が「谷江川」に合流するところ、そこに「天」の人々(神々)が集まり「触=村」を作っていたのであろう。「高天原」の中心に「天香山=神岳」があった。

驚くべきことには「倭」に酷似した地形である。逆に古代の都はこの酷似する場所にこそ存在し得た、と言える。邇藝速日命が「虚空見日本国」と叫んだ中に酷似する地形を目の当たりにしたから、と言っても良いであろう。新天地の発見はいつの時代でも感動的、拡大解釈のフラクタルに驚くのである。

ついでにもう一つの山「天金山」がある。鉄が採れるところ、これだけではなんともであるが、芦辺町箱崎「釘ノ尾触」、また壱岐の南方に郷ノ浦町「釘山触」がある。更にカラカミ遺跡」(勝本町立石東触)での弥生時代の鉄精錬跡が見つかっている。その後の関連情報は見つからないが・・・。

精錬から鍛治職人まで「天の金山」だから鉄鉱石が採れたのだろう。日本の製鉄史もかなり怪しい。下関市の「吉見」が全く顔を見せない。大量生産だけがモノづくりではない。その視点を外さない限り何も見えない、悲しい現実である。「金山」の場所探しは別途…思金神くんが奇想天外な提案したのではなかったことで…。

さて、残りの「天之眞名井」そして天照大神がお隠れになった「天石屋」に話を進めよう。

天之眞名井


「天之眞名井」の「真名」は幾度か目にした文字である。また現在も引き継がれて使われる言葉でもある。諸説があるが、概ね山深いところにある神社に関連するようである。「名=命」として「真名」=「真命」=「真に一番大切なもの」となり、「神」に通じる。現在の「神岳」から流れ出る浄水の「井=水汲み場」と解釈される。

「神岳」の東南麓を流れる小川にあった「井」が「天之眞名井」=「天の神の井」と呼んだのだろう。壱岐島四国八十八カ所霊場を開くのに努めた方々といたとのこと。その一番札所が「神岳」にあった本宮寺(現在は麓に移転)だとか。日本の神社仏閣、ともあれ由緒正しく、いつまでも残して置きたいものである。

「誓約」の場所は「眞名井」の川と後川川が合流する地点であったのではなかろうか。「神岳」の麓であり谷間の開けた場所でもあり、神聖な水が流れるところである。「天安之河原」と推定される。

天石屋


「天石屋」は何と紐解く?…「石()屋」とくれば何度も古事記に出現した。神倭伊波礼比古の「忍坂大室」「葛城室之秋津嶋宮」の「室」が「岩屋」を意味する。これらは山合の谷間を流れる川の両岸にそそり立つ山の斜面にある洞窟である。

地形的類似性からすると、後川川(谷江川支流)が勝本ダムに向かう、「神岳」とその北方の同じ程度の高さの山が作る谷間の斜面にあったと推察される。現地名は勝本町新城西触である。「岩屋」ができるところは限定される。深い谷間の地、それ以外は特異、例えばカルスト台地、なところであろう。


多くの神々が集まり無い知恵を絞って天宇受賣命の大胆なダンスに繋がる。そこは、やはり都の雰囲気を醸しだしているように思うが、どうであろうか・・・。天照大神の拗ね方は女性っぽいが、果たしてそうなのか…壱岐も真に興味溢れる地となったが、長崎大学の方がその地形を調査されている、興味のある方はこちらを参照願う。

古事記はズンズンと話を進める。途中省略した部分を含めて、次回に…。

…と、まぁ、「天」が少しは見えたところで・・・。


2017年7月26日水曜日

伊邪那岐命:禊祓と三貴神 〔069〕

伊邪那岐命:禊祓と三貴神*


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
伊邪那岐・伊邪那美が神技を使ったかと思うと俗世間の人々のように、いや、もっと明け透けに立ち振る舞う、これが最古の記録された日本の神話である。神への親近感をこれほどまでに高める書物を知らない。また、生物としての「生と死」について、その概念を抽象的でなく描いた記述も驚きに値する。

黄泉国の、伝承地もさることながら、真にその地があからさまになったとしたら、きっとより多く古事記が伝えたかったことに気付かされるのではなかろうか。そんな気がしてならない・・・。

伊邪那岐は黄泉国から逃げ帰り「禊祓」を行う。古事記が記述する出来事が必ず伴うテーマである。全ての出来事は「禊祓」をもって完結するのである。重要な儀式であり、そして人々が繰り返す生き様を受け入れるための最も有効な手段である。善悪を超越した歴史の重みを感じる。

古事記原文[武田祐吉訳]

是以、伊邪那伎大神詔「吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理。故、吾者爲御身之禊」而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。[イザナギの命は黄泉の國からお還りになって「わたしは隨分厭な穢ない國に行ったことだった。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになって禊をなさいました]

伊邪那美に会いたくて行ったのは良かったが、余計なことをしでかして追い払われる羽目になる。這う這うの体で逃げての「禊祓」の場面となる。その場所が「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」と記載される。黄泉国と同じく不詳である。勿論現存する地名から伝承の地として知られているのみである。

暇が取り柄の老いぼれにすれば、当然の結果であろうと…前記で紐解くまで世間では「橘」の意味が解けていないからである。勿論「竺紫日向」も解けているわけでもなく雑多の候補地をウロウロするのが落ちである。だが、解けたのである、「橘」の地形象形が・・・。

竺紫日向之橘小門之阿波岐原


「竺紫日向」は邇邇芸命が天孫降臨した「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」中の「竺紫日向」である。現在の福岡県遠賀郡岡垣町と同県宗像市との境にある孔大寺山系に関連する場所である。では「橘」の地形は?…山の斜面に多くの支流を持ち、それらが集まって一本の川となる、そんな谷筋を持つ山の麓である。

孔大寺山及び金山の斜面に源流を持ち、高倉神社の脇を通り、「吉木」に至り、そして松原海岸に抜けて響灘に達する。川の名前は「汐入川」正に「橘」の絵柄を示している。これほどまでに多くの支流を持つ川は稀有であろう。その「橘」の「小門」とは?

その川が海と混じるところ…松原海岸ではない。「吉木」を過ぎれば海であった。現在の標高からも松原海岸の川の開口部から海水が逆流して混じり合う「汽水湖」と言われる状態であったと推測される。「汐入川」の名称が示す通りである。東西の高台に挟まれて「吉木」の丘を流れるところ、それが「小門」と言われたのであろう。

「阿波岐原」は見事な表現である。逆流する海水の流れによって川の流れが分断される様子を表わす。「阿()・波(川の流れ)・岐(分かれる)・原」河口付近で観察されるよく知られた様相である。伊邪那岐の禊の場所、一に特定できる。岡垣町吉木以外の選択の余地は皆無ではなかろうか。

余談になるが、「汐入川」という名称は全国に数か所ある。「汐」と共にやって来る魚類の豊かな、遠浅の優れた漁場を形成していたところである。多くは地形の変化、というか生活及び工業排水の影響でその環境は激変した。東にある洞海湾と同じく様々な変遷をして今の姿になったのであろう。

古事記に登場する主要な場所は類稀な地形を有しているところである。だから記述したのである。古代の地形、それを克服して生きて来た人々、その視点に絞って紐解いても極めて有意な、次世代に伝えておくべき内容を示している・・・と、脇道に逸れ過ぎるので…。

黄泉国近隣(北九州市門司区藤松)からこの「阿波岐原」(遠賀郡岡垣町吉木)までは、淡海→洞海湾→古遠賀湾を経て上陸し、到達することができる。海士族達にとっては決して困難な経路ではなかったと思われる。時空をワープした神話ではない、と解釈される。



「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」を探し疲れたのであろうか、これは「場所」を示す言葉ではないという説もある。いや、それが多数であろう。では何の為に場所を暗示する言葉を五つも並べたのであろうか…この五つの文字が示す場所以外の意味の解釈が求められるであろう。

説話は更に多くの神を生んだという。その後にも登場する海の神、航海に関する神が三神セットで登場する。古事記の記述パターンの上・中・下である。その中に「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神」が現れる。神功皇后が新羅を訪れた時に随行?した神様達である。

「墨江之三前大神」の中の「墨江」は現在の同県行橋市上・中・下津熊とした。「熊」=「隈」=「隅」=「墨」と置換えられる。長峡川の蛇行が産んだ「熊」、上・中・下のセットも合わせてとは些か驚きである。神が生まれるほど「志賀=之江」の蛇行は激しかったのであろう。蛇行は河川の氾濫で生じる、夥しい洪水を乗越えるのにも神様の助けが必要だった、というわけかもしれない。「墨江之三前大神」の修正はこちら

三貴神の誕生


そうして、主役の三貴神が誕生する。「於是、洗左御目時、所成神名、天照大御神。次洗右御目時、所成神名、月讀命。次洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。」

古事記では「月讀命」の登場はここのみ。新月の状態であろうか…この命が主役となった物語があるのかもしれない。本編はお構いなしに今後暫しの間主役となる「須佐之男命」が駄々を捏ねて伊邪那岐を怒らせてしまい「妣國根之堅洲國」へ追い払われてしまう。

「根之堅洲國」=「黄泉国」であろう。「妣國(ヒコク)」=「亡母の国」となるが、「妣」=「肥」を掛けているようでもある。古事記の中では伊邪那美が母とは記述していない。「須佐之男命」が出雲に行く理由付けがなかったからかもしれない。月読命の件と言い、数少ない歯切れの悪さの安萬侶くんである。

一気に伊邪那岐大神の引退説話に入る。坐したところが「淡海之多賀」とある。通説は島根から宮崎の日向に行ったり、近江の多賀大社に行ったりで大忙しなのだが・・・。

「多賀」=「多くの入江」として、山塊から延びる複数の稜線が淡海に接するところと思われる。この入江を望む場所、同県門司区羽山にある羽山神社辺りが伊邪那岐大神のシニアライフの場所ではなかろうか。


国生みから始まった古事記の記述は筑紫嶋を中心とした舞台を示す。だが、現在の地形から推察するのみであるが、当時は今よりも更に急傾斜の山麓の地であり、平地は極僅か、出雲国のみが辛うじて平坦な地形を有していたと思われる。そこに古事記の物語は集中するのである。

伊邪那岐達の第一陣部隊はこの地に降下した。多くの人の生と死を乗越え、生きるために不可欠な様々なものを整える為には、また、多くの犠牲を払ったのである。ともあれ三貴神、約一名には気掛かりなところもあるのだが、に後を託して勇退した、と言うことであろう…。

…と、まぁ、神話の紐解きも漸くにして本格始動である・・・。

2017年7月25日火曜日

伊邪那岐命・伊邪那美命:伯伎国と黄泉国 〔068〕

伊邪那岐命・伊邪那美命:伯伎国と黄泉国


古事記創世の記、既に一部を紐解いていきたが、振り返りながら記述してみたい。高天原において造化三神から伊邪那岐・伊邪那美までの神々が誕生する。古事記の中で彼ら二人の活躍が物語の始まりである。

「国生み」神話については既に紐解き「大八嶋」「六嶋」併せて十四の島々、それらは響灘、玄界灘に浮かぶ島々であった。現在の企救半島が「筑紫嶋」、若松半島(北九州市若松区)が「伊豫之二名嶋」と解釈された。そして大倭豊秋津嶋は現在の貫山・福智山山塊を中心としたところであり、遠賀川、犀川(今川)の古代の川で遮られた「嶋」という認識であった。

「吉備兒嶋」のとは「兒嶋」=「嶋に成り切ってない嶋」と解釈し、現在の山口県下関市吉見近隣の半島を特定した。「国生み」神話の意味するところは「縄文海進」と呼ばれる地球規模の海面上昇現象であろう、と推察した。

言い換えると大地が海面下に沈み、残った「山々」が点在する「嶋」となったと思われる。現在の本州、九州(筑紫嶋、秋津嶋を除く)等を生まないのは、「既に陸地()となっていた=海進によって変化の()ない」大地だから、である。

古事記の記述の中に「国生み」の詳細を伺うことは不可であるが、この海面の変化を常に考慮した紐解きが重要であることを示している。通説のように「児島半島、かつては島であった」という解釈は全ての「嶋」に適用されるべきであろう。

伊邪那岐・伊邪那美の二神は次々と神様を生んでいくが、火之迦具土神を伊邪那美が産んだことで事態は急転する。亡くなった伊邪那美を手厚く葬ったとのこと。

伯伎國


古事記原文[武田祐吉訳]

故爾伊邪那岐命詔之「愛我那邇妹命乎那邇」謂「易子之一木乎」乃匍匐御枕方、匍匐御足方而哭時、於御淚所成神、坐香山之畝尾木本、名泣澤女神。故、其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。[そこでイザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這はい臥ふしてお泣きになった時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女の神です。このお隱れになったイザナミの命は出雲の國と伯耆の國との境にある比婆の山にお葬り申し上げました]

「香山之畝尾」の「香山」は後に登場する「天香山」であろう。天照大神と須佐之男命の説話の中で幾度も登場する。現在の長崎県壱岐市にある「神岳」と比定した。

更にほぼ北側からの神岳の俯瞰図である。なだらかで、いくつかの山頂からなる山…丘陵に近い…であることが判る。これを「畝」と表現したのであろう。そして「畝尾木本」と記述されるが、下図左端の辺りを指し示しているのではなかろうか。


伊邪那岐の涙で誕生した「泣澤女神」死者を送る時に不可欠な神であったようである。後々まで続いた儀式であるとのこと。

上図二つを合せると「泣澤」は「天之真名井」と連なることが判る。

「真名井」=「神の水」と解釈すればそれらが示す意味が整合するのである。

この水から多くの命が誕生することも後に記述されるが「命の泉」として位置付けられているようである。突然の「香山」の出現の理由は定かでない。奈良の「香具山」に「畝」はない。

葬ったのが「出雲國與伯伎國堺比婆之山」と記述される。出雲国と接する「伯伎国」とは?…「伯」→「白」、「伎」→「支」=「別」と分解して、纏めると「伯伎国」=「白()別」と繋げることができる。「国生み」に記載される「筑紫嶋」に面四があって「肥国」に隣接するのが「筑紫国謂白日別」である。

「肥国=出雲国」から選択の余地なく「伯伎国」=「筑紫国」と紐解ける。出雲と接するのだからわかるでしょ…なんて言われているようである。文字使いの戯れである。「伯耆国」と繋げられる根拠は希薄である。よって現在も候補が多くあって、それも良し?…「伯」を使っての遊びに惑わされては不甲斐なし、である。

この「境」にある山は一に特定できる。企救半島の足立山~戸ノ上山主稜線から北九州市小倉北区赤坂方面に向かう稜線の山である。現在も小倉北区と同市門司区の境界と記されている。「比婆之山」=「肥端之山」出雲の端にある山と解釈できるであろう。



「比婆」=「肥の端」と「並ぶ端」の二つの意味に解釈できる。古事記中に出現する「比」=「並ぶ」である。出雲の端にある二つ並んだ山稜と紐解ける。修正した図を下に示した。伊邪那美を葬った場所は「黄泉国」である。この二つの山稜に挟まれたところを示している。(2018.03.26)


古事記は「国生み」された島々の物語である。されていない島は「筑紫嶋」という「羅針盤」と「登場人物の名前」を使ってその在処、少なくともその方向、を示す。これが古事記の「ルール」である。誰一人として読み解せなかった古事記が伝えたかった最も大切な事柄である。

伊邪那岐の怒りは収まらずおどろおどろしい記述が続く。「建御雷之男神」など度々登場の神も誕生する。更に諦めきれない伊邪那岐は伊邪那美に会いに「黃泉國」に向かう。一日必千人死・一日必千五百人生、というやりとりを経て逃げ帰るという設定である。

黄泉國


「黄泉国」は何処?…どうやら現実の世界から長い坂を通って行くことができるようである。

古事記原文…

以其追斯伎斯而、號道敷大神。亦所塞其黃泉坂之石者、號道反大神、亦謂塞坐黃泉戸大神。故、其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。

「黃泉比良坂」=「出雲國之伊賦夜坂」黄泉()にとっては「比良」、出雲国にとっては「伊賦夜」の関係。「伊賦夜」=「夜を与える」日没時の山影を意味し、出雲国の西端にある山並みの東麓の坂に付けた命名であろう。比良坂の「比良」の意味は何であろうか?…

「比良=平」と置き換えられるであろうが、「平らな」ではなく「盆地」に通じる意味を持つと思われる。「掌=手のひら」であって、周囲を取り囲まれた窪んだ地形を表している。そんな場所があるのか?…下図を参照願う。出雲国と黄泉国はその坂を挟んで東と西に位置する二つの国だ、と述べている。


伊邪那美を葬った「比婆之山」の東麓にある坂道と推定される。

「道敷大神」「道反大神」と「道」が強調される。

後代の意富富杼王が祖となる「山道君」との関連が浮かぶ。

神話・伝説の記述と現実の世界との接点である。

正に古事記の「グルグル」は黄泉と現実の世界との「グルグル」でもある。

しばし、これとのお付き合いであろう。
…と、本日はこの辺りで・・・。




2017年7月20日木曜日

吉備兒嶋=建日方別 〔067〕

吉備兒嶋=建日方別


古事記の中をグルグル回って、何回目かの創世の記、やはり古事記の神髄は神代かな?…と思いながら神話・伝説に陥れないように読み解そうとし始めた。なんとかなりそう、いや、皆目見当もつかない・・・とグルグル回ってる間に見落としの記述を発見。本日は短く、タイトルのことについて…。

伊邪那岐・伊邪那美がグルグル回って国生みの説話、大八嶋で2回、最後の3回目の巡回の最初の嶋、というか成りかけの嶋である「吉備兒嶋」の別名が「建日方別」との記載があった。その直前の記述…

筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥、熊曾國謂建日別

に「建日別」がある。前記「天孫降臨の地:日向」で紐解いたように上記の四つの「日別」はそれぞれ「方位」を表すものであった。概略を記すと、「白日別」=「西」、「豐日別」=「南」、「建日向日豐久士比泥」=「西北」、「建日別」=「北」である。筑紫嶋を中心として、東を除く「西、南、北」の文字の字源が「白、豊、建」に対応している。

「豊国」の場所は筑紫嶋の南方にあり、「豐日別」=「南」と紐解ける。同様にして「筑紫の日向国」は「白日別」=「西」にあることを示すものと解釈された。これが天孫降臨の地、日向国に聳える高千穂の久士布流多氣の場所を表し、その地を具体的に示している。

「建日別」=「北」の例が「吉備兒嶋」に当たることがわかった。「建日方別」の「方」の表現は微妙な誤差を表すのであろうか。下図を参照されたい。


他の記述に「吉備之臣建日子」とあり、吉備国が熊曾国の北方にあることを補足している。前記した通りに筑紫嶋を羅針盤とした方位の表現であることが確信できる。通説に従うと筑紫嶋は「九州」であり、建日別の熊曾国は現在の熊本・鹿児島県である。また「吉備兒嶋」は岡山県の吉備半島に当て嵌める。

「九州」を中心として「日別」したとしても全く「建日別」の意味は繋がらない位置関係である。吉備兒嶋、亦名謂建日方別」の吉備は熊曾国なの?…とすると、大混乱である。古事記が懸命に示す「座標」を活用して神話・伝説の世界を紐解こうとするが、「座標」のない通説は単なる文字の羅列に過ぎないことを、併せて紐解くことになろう、古を未来に取り戻すために…。

…と、まぁ、こんな調子で先に進もう・・・。


2017年7月17日月曜日

大倭国の天皇:清寧~推古天皇 〔066〕

大倭国の天皇:清寧~推古天皇


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
雄略天皇は天下人として満足いく人生であったと思う。国の拡張は止まった。即ち遠賀川西岸に横たわる山稜の「西」については全く語ろうとしない。既に幾度か述べたことではあるが、「言向和」した東方十二道の国々で統治がほぼ達成されるような記述では、例えあったとしても「西」の国々の数は僅かであろう。

序文の「遠飛鳥」「近淡海国」の統治報告書であるとの記述に頭を傾げながら今日まで進んで来たが、真に違いはなかった。そのものであった。今回で神代の記述を除きほぼ概略を読んできたことになるが、結論には変わりはないであろう。また、あらためて考察を加えてみよう。

グッと、記述が簡単になったので、纏めて地名ピースを求めてみる。最後の推古天皇まで十二代の天皇に関するものである。

清寧天皇


雄略天皇の御子であるが、早くに亡くなられた。后はなく、御子もない。急遽、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女(亦名飯豐王)が「葛城忍海之高木角刺宮」で執政した。他の人選もあったのであろうが、不明である。葛城氏がしっかり国政に関わっていたことが伺える。

「葛城忍海之高木角刺宮」の場所について紐解いてみよう。「忍海」=「海を忍ばせている」ところである。市邊忍齒別王が居た「市辺」は現在の福岡県田川郡福智町市場辺りとしたが、その近辺であろう。


高木|角刺=高木(高い山=福智山)|角(山稜)|刺(棘)

と紐解けば、福智山から延びた山稜にある棘のような形をしているところを示していると思われる。現地名は福智町上野上里の福智下宮神社辺り(下図)と推定される。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ佐度嶋にあった「刺国」を棘の地形象形として紐解いた。類似する表現と思われる。


葛城の地名については、海と川との混在の場所との表記が再現よく繰り返される。また、この地が「欠史八代」の天皇達によって開拓された地であること、当然それを援助した葛城氏の権勢は揺るぎ難いものであったろう。建内宿禰の子孫達の活躍も見逃せないものである。

日嗣が途切れて、針間に逃げた市邊忍齒別王の御子達の説話に入る。事の真偽は別としても皇統存続の危機的状況には変わりはない。継続するには大変な力が要る、ということである。志毘臣を排除する説話もこれまでの古事記の記述とは、少々感じが異なる。が、今は先に進めよう。

顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇


兄弟で譲り合って結局弟が即位する。「袁祁之石巢別命」顕宗天皇、近飛鳥宮に坐した。久々にお目に掛かった「近飛鳥」場所は元のままでよいであろう。大坂山山口である。「石巢別」と修飾される。「石巣」の統治権を獲得した、ということであろう。

「石・巣」=「石()・巣(多く集まってるところ)」ある意味一般的な表現であるが、それを特徴とするなら、現在の同郡添田町辺り、岩石山という岩の塊のような山がある場所ではなかろうか。この地は多くの伝説を有するところであるが、古事記には今まで出現しなかった。

曾褒里山の別称があるとのこと。「ソウル」の転化したものとか、古代の名称を今に伝えるところである。古事記の「闇」の一つである。神武天皇が畝火山の麓に坐する以前からの人々、師木の兄弟とも関連するのであろうか…。ここに来て登場?…これ以上は考察不可である。課題としよう。


「淡海國賤老媼」の説話に進む。その老婆が語るには、事件の発端に絡んだ「韓帒」の子が「市邊王之御骨」を「蚊屋野之東山」に埋めて御陵を守ってきた、という耳よりな情報を得た、と始まる。「淡海国」実はこれが初出である。

「近淡海国」では、決して、ない。既に「蚊屋野」は「淡海之久多綿之蚊屋野」として登場した。「国」となったのであろう。「伊豫之二名嶋」の呼称が消えるのと同じ、河口付近の地形、古遠賀湾の変化に基づくのであろう。地形の変化及びその年代の特定、この研究は重要であるが、実施されているのだろうか・・・。

「東山」=「この地の東方にある山」と理解される。現在の皿倉山山塊であろう。陵はその麓とすると現在の同県北九州市八幡西区市瀬辺りにあったのではなかろうか。「置目老媼」と名前を授けて報いたとのことである。この墓に「仇」を討って終わる。


また、針間逃亡の際に食料を奪われた「猪甘老人」を見つけ出して「飛鳥河之河原」で成敗をする。「飛鳥河」とは光栄な命名であるが、「近飛鳥」の近く、現在の同県京都郡みやこ町犀川大坂を流れる「大坂川」と思われる。犀川(現今川)に合流する。その河原を「志米須」と命名したそうだが、特定には至らない(上記犀川大坂の地理院タイル参照)。


八年足らずの治世で終わり、陵が「片岡之石坏岡上」とある。

「片岡之石坏」=「不完全な丘の盃のようなところ」で探すと、現在の同町犀川大村にある丘ではなかろうか。

尚、武烈天皇も同じところと記載される。

仁賢天皇は「石上廣高宮」に坐した。現在の同県田川市夏吉にある山麓から少し上がった場所ではなかろうか。ロマンスヶ丘と呼ばれているところである。


武烈天皇は「長谷之列木宮」に坐した。例の「長谷」にある。「列木」は並木と訳されるようであるが、「木」=「山」であろう。障子ヶ岳から竜ヶ鼻に連なる山が並ぶところを背後に持つ、現在の同県田川郡香春町採銅所の黒中辺りと思われる。


天皇に御子はなく、近淡海国から応神五世の継体天皇を迎えることになる。

継体天皇


「袁本杼命」という諡号であり、調べると「意富本杼王」出雲の国境を固めた王の三世とある。「意富多多泥古」「河內之美努村」住んでいた記述もあった。近淡海国の出雲系の人材であったのだろう。皇統からすればかなり離れた位置ではあるが、人材を抽出する場所としては繰返し記述されているところでもある。

娶り関連では「三尾」が目立つ。現在の同県京都郡みやこ町吉岡・築上郡築上町船迫に跨るところ。垂仁天皇が山代大国之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って産まれた石衝別王が祖となったところである。生まれた御子に「大」「出雲」などが付く。

継体天皇の出自に関連すると思えるが、山代大国に基づくかもしれない。あるいは、山代大国は元々「出雲」との関係があるのかもしれない。これまでに記述されてなかったことのようであり、いずれ調べてみよう。<追記:後に大物主大神と関連あることが判明>

一気に御子の名前の命名が違った風になる。これも少し気になるところである。また「竺紫君石井」がサラリと述べられている。纏めて調査、である。

安閑天皇・宣化天皇<追記>・欽明天皇


廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した「勾之金箸宮」は、現在の同県田川郡香春町中津原にある鶴岡八幡神社近隣であろう。勾った丘に勾金中学校などの名前が残る。現住所は同町高野となっている。建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した「檜坰之廬入野宮」。文字の意味からではなかろうが…。

「檜」「入」は、先が尖がった地形象形、「坰」は「境」である。現在の同郡福智町金田の菅原神社近隣、彦山川と中元寺川の合流地点と思われる。天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が坐した師木嶋大宮。師木の中で離島のようになってるところ、現在の同県田川市糒にある日吉神社近隣と推定される。


この天皇は25人の御子を得たが内4王子が皇位に就くがその他は不明である。

敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇


沼名倉太玉敷命(敏達天皇)が坐した他田宮。何の修飾もなく、であるから倭の近隣であろう。何と読む?…「タタ」「オサダ」・・・「意富多多泥古」の「タタ」を連想する。ならば同県京都郡みやこ町勝山箕田の扇八幡神社辺りではなかろうか<追記>橘豐日命(用明天皇)が坐した池邊宮。同様に池が強調されているところを見ると、同県行橋市入覚にある五社八幡神社辺りと思われる。


長谷部若雀天皇(崇峻天皇)が坐した倉椅柴垣宮は、女鳥王の倉椅山経由の逃避行で紐解いたところ。詳細を求めるには情報が少ないが、川辺に近いところとして、現在の同県田川郡香春町香春にある大岩弘法院辺りではなかろうか<追記>

豐御食炊屋比賣命(推古天皇)が坐した小治田宮については、「小治田」は既に紐解いた。現在の同県京都郡苅田町鋤崎である。宮の場所はおそらく貴船神社辺りかと思われる。用明天皇と推古天皇に「豊」が付く。「豊日別」の方位にある場所で坐したことを示しているのであろう。合致する結果である<追記>

地図に未記載の宮の場所についてはこちらを参照願う。

御陵の場所に「科長」という表記が多くを占める。「科野国」と同じように考ええると急勾配の山の斜面であり、しかも長いとくれば、上記の行橋市入覚の西側の山の斜面が該当すると思われる。またいずれ特定していきたく思う。

記述中に「上宮之厩戸豐聰耳命」など気に掛かる名前もあるが、簡明過ぎる記述では如何ともし難いものである。古事記は唐突にその記述を終える。地名ピースは些か増えたが、拡大ではなかった。いよいよ、神代も含めた古事記全体を見ていくことにしようかと思う…。

…と、まぁ、漸くにして尻に到着である・・・。

…本投稿については多くの修正あり。「古事記新釈」清寧天皇~推古天皇の項を参照願う。

<追記>

2018.01.13
「上宮之厩戸豐聰耳命」の詳細。こちらを参照願う。
②「宣化天皇」后と御子については、こちらを参照願う。

2018.01.18
「他」を分解する。異字体「佗」=「イ+它」と分けると「它」=「蛇の象形」であることが判る。即ち「他」は「人と蛇」の会意から生まれた文字であると解説されている。現在用いられている意味とはかなり離れた字源ではあるが、字形そのものの解釈はその通りであろう。古事記はこれを使っていると思われる。


他田=他(蛇のように畝って細長い)|田

と紐解ける。「長田」は「長い」の意味を抽出し「蛇のようなうねり」を避けたものであろう。肝心の「うねる」ことが欠落した表現である。この特徴的な地形は、現在の京都郡みやこ町勝山矢山・岩熊の谷間にある畝って続く田を指し示していると思われ、「他田宮」は勝山矢山にある龍王宮辺りにあったと推定される。詳細はこちらを参照。



2018.01.24
宮、御陵など修正を含めて再投稿。こちらを参照願う。








2017年7月16日日曜日

大倭国の天皇:雄略天皇 〔065〕

大倭国の天皇:雄略天皇


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
雄略天皇紀、仁徳天皇に次ぐ説話の豊富さであるが、かなり趣を異にする。確かなことは邇藝速日命が「虚空見津日本国」と叫んで以来それを実現したのが雄略天皇の時代である。ただ古事記は多くは語らない。大倭豊秋津嶋の謂れを述べるに止める。

邇藝速日命及びそれに伴った多くの者が降臨した筈であるが、これも古事記は全く語らず闇の中にある。前記の「日下(ヒノモト)」=「クサカ」のようにその存在を残していることは疑えないが、垣間見る状況には変わりはない。彼らの存在を止揚し、古事記の中に浮かび上がらせることは可能なのか、大きな課題となった。が、それが歴史の紐解きなのだ、と信じる。

現在の福岡県田川郡香春町を流れる呉川、呉ダム、住所表示は同町鏡山呉及び小呉など今も残る地名は、「呉人」がその地の開発・開拓に果たした役割の大きさを物語るものであろう。大坂山山塊から流れ出す川の氾濫など決して穏やかな地ではなかったろう。

現在から百年ばかり遡るだけでも開拓(移民)の話が出現する。それと古代の開拓とを同じように扱うつもりはないが、携わる人々の心根に変わりはないように思う。「生きる」という最低限の存在価値と明日への不安を少しでも解消したいという欲求が人を動かす要因であろう。それが、つい最近までの日本の姿であった、としみじみ思う。

この地は仲哀天皇の穴門之豐浦宮があったところでもある。勿論通説はこんなところにある筈もない、というが暇が取り柄の老いぼれの紐解きは、複層的な歴史の変遷を指し示して止まない。自然の営みの中に人は存在するのであって、人の歴史も自然の営みの中に存在する、と思う。

最近の北九州集中豪雨の復旧状況を見て、古代の重機のない時代には自然との折り合いの付け方にどれだけ知恵を縛らねばならなかったかと思う。それにしても被害に遭われた方々の体調を祈るばかりである。

都夫良意富美


話を元に戻して、雄略天皇の娶り関連を見直してみよう。二人の比賣を娶る。一人は大日下王之妹・若日下部王、御子はなし。もう一人は都夫良意富美之女・韓比賣、御子は白髮命(後の清寧天皇)と若帶比賣命である。なんとも因縁めいた比賣ばかりでるあるが、一族の中心人物が殺害された者達の救済でもあったのかも? 他に居ないわけでもなかったであろうが、結果的に日嗣の候補が激減する。

安康天皇紀に記述された説話であるが、この天皇を殺害した目弱王の逃亡先が「都夫良意富美」のところであった。事件の場所を考察していなかったので、あらためて行うと、「大日下王」=「波多毘能大郎子」で、「波多毘」は現在の福岡県北九州市門司区城山町辺り、鹿喰峠に向かう入口に当たるところと推定した。

殺害された大日下王の后、長田大郎女(同母姉?)を安康天皇が大后とし「波多毘」の場所で、すっかり入替った様子である。やはり姉及王の一族の救済のような感じがするのだが、法律で禁じられているわけでもなし・・・。根臣の仕業とわかったからか?…ちょいとややこしい。

目弱王が逃げ込んだ「都夫良意富美」に関する記述はなく、ネットで検索である。祖父が葛城長江曾都毘古であり、立派な葛城一族であった。家を包囲されて差し出すのが比賣と葛城の五屯宅。合点がいく。その地の重臣となり、大日下王及び御子との関係も深いものであったろう。いや、王家に深く入り込んでいたのであろう。

葛城一族の広範囲に及ぶ勢力の拡大をそれとなく示し、重大事件としての性格を露わにしたものであろう…と、納得しかけてもどこか霧がかかったようでもある。後日の話としよう・・・。

目弱王は「波多毘」の宮から「都夫良」に逃げたということになる。「都夫良」も紐解けていない言葉の一つである。幼い御子の逃亡、決して遠くではないと推測する。関東在住の方ならすぐに「都夫良野トンネル」を連想されることであろうが、本「都夫良」は足柄の先にあるところではない。あ、いや、そんなに離れていないかも?

東から進むと神奈川県足柄上郡山北町辺りから谷蛾辺りまでの東名高速「都夫良野トンネル」である。まさかこの名前を紐解くことになるとは、不思議な感じでもある。この辺りを徘徊していた時が懐かしい。

「都夫良」=「螺羅(ツブラ)」=「小さな巻貝のような様」である。羅は状態を表す。「つぶらな瞳」である。「都夫良野トンネル」が横たわる山の上が「都夫良野」という地名である。丹沢山系大野山から南に延びる稜線を横切る「峠」にある公園からの展望良く、足柄が丸見えである。巻貝のような小高く盛り上がった地形の象形である。

この地形に酷似した場所が「鹿喰峠」である、というか、であった。採石場に隣接し、地形の変化が大きいが、当時を想起させるには十分である。ということで、「都夫良野トンネル」は「つぶら(な瞳)のトンネル」だった。

<鹿喰峠>

<神奈川県足柄上郡山北町>

少々遡るが反正天皇が丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女を娶って生まれた御子に「都夫良郎女」がいた。おそらくこの都夫良の地で育てられ、姉は「甲斐郎女」で、こちらは酒折宮がある甲斐、ということなのだろう。この天皇は在位期間も短く、御子達も各地に分散したようである。

王子とその庇護者を滅ぼした大長谷命は韓比賣を娶る。どうやら娶ることによって比賣を含めたその一族の生活が保障されることになったのであろう。しっかり葛城の五屯宅は天皇の手に…。王の御子を庇って憤死した父の仇ではあるが、一族の延命が最優先であることは理解できる。後代に、おそらく、この地の王が継体天皇として招聘されるが、繋がりは不詳である。

説話は続き、「日下」の意味を教えてくれる。前記したように「邇藝速日命」に深く関連することであった。毎度のことながら古事記は「櫛玉命」について記述しない。その真意などいずれ紐解ければと思う。「引田部赤猪子」の説話になるが、この説話の挿入の背景などなかなか推し量り難いものである。雄略天皇の一側面などと言われてもなんともし難い感じである。

美和河・引田部


一応、出現する地名関連、「美和河」「引田部」について。「美和河」は現在の金辺川(清瀬川)であろう。「美和」は「美和山=畝火山」を根拠としてその傍を流れる川である。「引田部」は一般的な名称で特定は難しいが、「赤猪子」が「美和河」に衣を洗濯に来る場所、「引田」=「田を拡げる」と解釈すれば、現在の同県田川郡香春町長畑辺りではなかろうか。前記で「許呂母」と呼ばれた場所である。<追記>

更に説話は続き、「葛城山」の件となるが、「葛城山」は現在の福智山であろう。「博多之山」と呼ばれたりしているが、同一場所かと思われる。一言主大神*との遭遇、会話で「葛城」一族との融和などと読めるかもしれないが、それはまた後日のこととしよう。

そして吉野に出向いて「蜻蛉嶋」と雄叫びを上げるのである。大倭国の統治者としての宣言、万葉集の冒頭に飾られる歌と関連して感動溢れる場面である。邇邇芸命一派の成果として認知して良い出来事であろう。古事記の説話は身近な出来事に移って行くことになる。

最後の「伊勢國之三重婇」の説話について紐解いてみよう。これも通説ではどこかの出来事の挿入らしき解釈、一つには、この説話の場所と挿入歌が示す場所との相違などから、真実味に欠けるもののように扱われている。が、果たしてそうであろうか?

長谷朝倉宮・纏向日代宮


ちょっと長いが古事記原文[武田祐吉訳]

又天皇、坐長谷之百枝槻下、爲豐樂之時、伊勢國之三重婇、指擧大御盞以獻。爾其百枝槻葉、落浮於大御盞。其婇不知落葉浮於盞、猶獻大御酒。天皇看行其浮盞之葉、打伏其婇、以刀刺充其頸、將斬之時、其婇白天皇曰「莫殺吾身、有應白事。」卽歌曰、[また天皇が長谷の槻の大樹の下においでになって御酒宴を遊ばされました時に、伊勢の國の三重から出た采女が酒盃を捧げて獻りました。然るにその槻の大樹の葉が落ちて酒盃に浮びました。采女は落葉が酒盃に浮んだのを知らないで大御酒を獻りましたところ、天皇はその酒盃に浮んでいる葉を御覽になって、その采女を打ち伏せ御刀をその頸に刺し當ててお斬り遊ばそうとする時に、その采女が天皇に申し上げますには「わたくしをお殺しなさいますな。申すべき事がございます」と言って、歌いました歌、]
麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比傳流美夜 由布比能 比賀氣流美夜 多氣能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 夜本爾余志 伊岐豆岐能美夜 麻紀佐久 比能美加度 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 毛毛陀流 都紀賀延波 本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 斯豆延能 延能宇良婆波 阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾 宇岐志阿夫良 淤知那豆佐比 美那許袁呂許袁呂爾 許斯母 阿夜爾加志古志 多加比加流 比能美古 許登能 加多理碁登母 許袁婆[纏向の日代の宮は朝日の照り渡る宮、夕日の光のさす宮、竹の根のみちている宮、木の根の廣がつている宮です。多くの土を築き堅めた宮で、りっぱな材木の檜ひのきの御殿です。その新酒をおあがりになる御殿に生い立っている一杯に繁った槻の樹の枝は、上の枝は天を背おっています。中の枝は東國を背おっています。下の枝は田舍を背おっています。その上の枝の枝先の葉は中の枝に落ちて觸れ合い、中の枝の枝先の葉は下の枝に落ちて觸れ合い、下の枝の枝先の葉は、衣服を三重に著る、その三重から來た子の捧げているりっぱな酒盃に浮いた脂あぶらのように落ち漬かって、水音もころころと、これは誠に恐れ多いことでございます。尊い日の御子樣]

「長谷朝倉宮」に坐す雄略天皇は「長谷」に聳える大きな槻の下で酒宴を開いた、と記述される。歌は「纏向」に立つ大きな槻(都紀)について語る。景行天皇の「纏向日代宮」のことを延々と述べる? 何故なら「長谷」の槻が「纏向日代宮」の傍に立つ槻であるから。

本ブログの「長谷朝倉宮」と「纏向日代宮」とは直線距離で1km弱しか離れていない(下図参照、宮原と鏡山)。収穫を祝うなら倭の中心で、ということなのである。

十代前の天皇の館が現存していたと述べている。そんなに昔からずっと変わらずにこの国を治めてきた。勿論傍で大きくなった槻も百枝だと。西に東にと「言向和」し(実行は倭建命)、大国への道を開いた天皇の宮を見守ってきた、それを見守ってきた槻の木の下で豊かな収穫を祝おうとしている時の出来事を述べている。

歌の内容は古事記が得意とする上・中・下である。それそれが繋がってるいるが、それぞれが異なる役割を果たす、今回も同様である。より強調されているのが下の枝、雄略天皇を比喩する。三重だというから全てを背負ってるとも解釈されよう。まぁ、これ以上の賛辞はない、かもしれない…。

ここに登場する言葉は全て繋がりをもっている。離れた場所にあって繋がりが無ければ、それは場所の設定が怪しいからである。「国譲り」で拡大膨張させてしまった後始末、如何される? 決して古事記の齟齬ではない。地名ピースは、物事の視点を決める、と同時に紐解くこの老いぼれの視点も、である。

これに続いて…

故獻此歌者、赦其罪也。爾大后歌、其歌曰、[そこで皇后樣のお歌いになりました御歌は]
夜麻登能 許能多氣知爾 古陀加流 伊知能都加佐 爾比那閇夜爾 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 曾賀波能 比呂理伊麻志 曾能波那能 弖理伊麻須 多加比加流 比能美古爾 登余美岐 多弖麻都良勢 許登能 加多理碁登母 許袁婆[大和の國のこの高町で小高くある市の高臺の、新酒をおあがりになる御殿に生い立っている廣葉の清らかな椿の樹、その葉のように廣らかにおいで遊ばされその花のように輝いておいで遊ばされる尊い日の御子樣に御酒をさしあげなさい]

歌の内容はともかく「纏向日代宮」の場所の情報である。「高町の小高くある市の高台」なんだか持って回ったような訳ではあるが、高いところにあったことは間違いないであろう。既に特定した「日代」=「日が背にある」と併せて田川郡香春町鏡山にある四王寺辺り(下図右下の卍)としたことと合致する表現である。


帝位の期間が短くなってるなかで二十数年を過ごしたのは立派だが、如何せん御子が少ないことは後に大きな影響を及ぼすことになる。古事記もいよいよ最終章を迎えることになる。

…と、まぁ、もう拡大膨張の時代ではなくなったようで・・・。