2017年9月3日日曜日

大物主大神の正体 〔093〕

大物主大神の正体


大物主大神、見えたり…>を参照願う。
天皇一家の草創期、その直前及び直後も含めて、影の主役は何と言っても「大物主大神」であろう。トンデモナイ災難を起こしてみたり、赤い矢に変身してみたり。ご自分は御諸山に鎮座して、祭祀しろ、と言い付ける。それに従うと事件が治まるから、正にチョイ悪の神とでも名付けられそうな性質を示している。

前記したように突然現れては消えるこの謎の神様の正体、安萬侶くんは語らず、勿論世間は神話の中に閉じ込めて、精々御霊の現れでそれ以上のものでもなし、と決めつけているようである。とは言え、彼の赤い矢に変身したところから比賣が生まれ、初代の神武天皇の后になり、その御子が日嗣となる。

神話化された記述に具体的な彼の出自を求めることは到底不可能であろう。しかしその神話の中に潜められた何かを探り出すことであろう。暈されたところを何とか紐解いてその後に続く天皇家の生立ちを考えてみるのも大切であろう。結論は無いかもしれないが、今のところ解けた「正体」である*

「物」とは?

「大物」何となくわかったような気分で理解してきた。おそらく多くの人が「大物」=「その方面で大きな勢力・影響力をもっている人物。また、器量の大きい、すぐれた人物」とし、どの辞書も似たり寄ったりの解説であろう。確かに大物主大神の行動は「大物」風である。赤い矢は別として・・・。

大国主神が国造りで悩んだ時崇神天皇が疫病で苦しんだ時垂仁天皇の無口な御子(記述は出雲大神)の説話に登場、天皇は素直に従ってこの「大物」に尽くすのである。結果オーライで目出度し、目出度し、の結末を迎える。大物風ではなく、正に大物なのである。

こんな大物なのに出自を記載しない。引っ掛かるところであろう。何を隠そうとしているのか、はたまた、そもそも出自が知られていないのか、知られて拙いことでもあるのか、憶測は拡散するばかりで収束する気配がない状況である。やはり御霊で過ごそうかと思う気持ちも…しかし可能な限りで問い詰めてみよう。

「物」から解釈する。この文字の成り立ちは「角のある牛」+「弓の両端に張る糸を弾く=悪い物を払い清める」会意文字の一種とある。直接的には


清められた生贄の牛

である。通常に使われる意味とはかなり掛離れたところからの意味合いとなる。文字そのものはその通りの成立ちを示している。

通常の使い方に加えて「物故」という言葉がある。「故」=「過ぎ去った古いこと」この時の


(ブツ)=亡くなる、死ぬ

と解釈されている。「佛/(ブツ):ほのか、かすか」に繋がるのかもしれない。実は「物」の意味の中に「死」という概念を含めていて、しかもそれを現在も使っているのである。

そうなると


大物主大神=大の死者の主の大神

と読み解ける。肉体が滅び去っても「霊=魂」は消滅しないという考えになる。そのために「黄泉国」を作ったのであろう。高天原一族が葬り去った荒ぶる神々の霊を纏めて弔う、あるいは閉じ込めておくために作り上げた観念を現実の空間の中に置いたのである。

人々が生きる過程で発生する汚く穢れたものを一手に引き受けてくれる場所、それが「黄泉国」であった。また実際には肉体そのものも葬り去られることなく黄泉国に向かう者も居たのではなかろうか。そこは逃げ込める場所、一時の逃避場所でもあり、現実の世界と行き来できるところでもあった。

未知のものへの恐怖と畏敬が入り混じった場所と理解できる。その場所のことは知っていても知らない、とすること、霊の世界として扱い、畏敬することが優先し、語らないのであろう。古事記の神話化された箇所は、まだまだこれからの読み解きになる。何かを伝えようとする気配はしっかり受け止められたが・・・。

意富多多泥古の出自

崇神天皇紀の疫病対策に登場する「意富多多泥古」の素性を問うと大物主大神の後裔と言わしめる。「赤い矢」になって、ではなかろう、陶津耳命之女・活玉依毘賣を「正式」に娶ったのである。勿論多多泥古の口から「赤い矢」は出る筈もないが…。彼の後裔も知りたいところではあるが・・・。

古事記原文…

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」

「陶津耳命」とは?…「陶津」=「末津」と読むと「筑紫之末多」を連想できる。現在の


北九州市門司区藤松辺りを流れる「村中川」の河口付近

と推定される。その「耳」=「縁(ヘリ)」とあるから陶津耳命は同区光町にある光町緑地辺りに居たのではなかろうか(図の上)。<追記>


村中川の源流は?…


「比良坂=伊賦夜坂」を通って「黄泉国」

への入り口に届くところである。大物主大神が佇んでいたところと考察した場所に当たる。不遇?を託っていた頃の彼が真面目に娶った…通った?…相手、活玉依毘賣が住んでいた地とは近接する。



大物主大神は「黄泉国の力」を借りて天皇達に警告を発するのである。そして彼らの祖先が葬り去った人々を代表して「我らを祭祀しろ」と宣ったのである。「禊祓」の代償をしっかり払って国の礎を築いたのだと古事記は述べている。

まだまだ釈然としないところもある大物主大神、その素性の一端を伺うことはできたように思われる。その神懸かりな行動は、神話化された表現と理解しつつ、古事記の中における大物主大神「キャスティング」の真意を推測することができた。

ところで、説話には続きがあり、大物主大神が活玉依毘賣のところに通ったエピソードが記述される。心配した毘賣の両親が不審な男の素性を調べたら…麻糸作戦…美和山の神様だったという件である。「三(ミワ)」残しで「美和(ミワ)」の由来と記載される。既に紐解いて「美和山」=「畝火山」としたが・・・。

修正である。色々引っ掛かるところがあったが、通説と同じく、倭の中心にあるとする「三輪山」⇔「畝火山」の対置に引き摺られたと思われる。「出雲の神」が関連するところ、唐突に倭の中心に進出できるものか、不審であってもそれ以上の追及を怠った…赤い矢だから生尾人も騙せる、なんて猛省である。

後日に改めて書こうかと思うが、結論のみ…

①「美和山」=「足立山(竹和山)」(北九州市小倉)
②「麻紐の先の神社」=「妙見宮上宮」(妙見山)
③「畝火山=美和山」の重複回避
④「御諸山」=「谷山」(足立山~戸ノ上山稜線上の複数の頂を持つ山:下図の右上△403.9)・・・投稿ブログに修正箇所が幾つかあるが順次で。
参照:美和山・御諸山


大物主大神は出雲国の南端、伯伎国との境辺りに棲息していたのである。倭国の中心に坐していたのではなく、出雲から出歩いていたのである。三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、なんとも美人好みで困った神様なのだが、やはり生まれる比賣も神に近い人に見染められる運命にあった。

美和山付近から出向き、多多泥古(河內之美努村)のところにでも遊びに行ったのであろうか…隣の三嶋にちょっと立ち寄り…それにしては時代が違うが、神様には時間がない、とでも考えておこうか・・・。まぁ、ひょんなところから引っ掛かりが解けたものである。

さて、「耳」を幾つか紐解いてきたが、それが付く命名が目立つ。纏めて、次回あたりに…天忍穂耳命が居た高天原に飛ぼう・・・。

…と、まぁ、こんな調子でのらりくらり、である・・・。

<PS>
余談だが北九州市門司区藤松の「藤松」=「藤の末」=「藤(山)の裾」であろう。竹和山は「フジヤマ」と呼ばれていた時期があった。この時期を突止めるのも本ブログの目的の一つかも・・・。

*さらなる正体の紐解きは「大物主大神、見えたり」を参照願う。

<追記>

2018.03.09
陶津耳命関連の紐解きを行った。詳細は後日とするが、結果のみ図に示す。
「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古」



<意富多多泥古の系譜>
2018.03.23
多多泥古

「多多」は複数の解釈があるが、古事記では後に登場する丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」=「真直ぐな州の道」と解釈に類似すると思われる。「多多泥古」は…、


多多(真直ぐ)|泥(水田)|古(固:定める)

…「真直ぐに水田を定める」命と紐解ける。長峡川、初代川に挟まれたところで治水を行っていたのであろう。