2018年3月9日金曜日

大物主大神、見えたり… 〔183〕

大物主大神、見えたり… 


些か大げさなタイトルにしてしまったが、どうしてもこの神の正体が知りたい…誰しも思うところであろう。だが古事記の記述は極めて曖昧模糊としており、掴みどころのない有様である。


彼の登場の仕方は天神達にとって敵対的でもあり、また一方で頼りになる助っ人的役柄でもある。

故に一層の彼の出自、その背景を何と伝えようとしているのか、あからさまにしたい欲求に駆られるのであろう。

右図に示したように大国主命の幸魂、奇魂とされているようである。要するに大国主命と同一と見做すのであるが、前記したように古事記は「魂」を語らない。

国譲りさせられた恨み辛みなどが彼の起こす騒動の源のような記述もあるが、もっともらしいようで、これも取り違えている。大国主命は彼の満足がいく待遇で引退したのである。

ともあれ、大国主命の国作りを助けたり、疫病を流行らせたりすることはさて置き、彼が皇統に関わって来ることなのである。「欠史八代」を横道に追いやっても、事情は変わらない。

さて、大物主大神の素性を突き止める作業は前記(大物主大神の正体)である程度進捗したと思われる。概略を記すと…、

崇神天皇紀の疫病対策に登場する「意富多多泥古*の素性に大物主大神が登場する。陶津耳命之女・活玉依毘賣を娶って誕生した御子の後裔に当たると告げるのである。

古事記原文…

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」

ここに登場する命の居場所を紐解いた(櫛御方命、飯肩巢見命、建甕槌命については後日詳細を述べる)。結果を図に示す。


大物主大神には「美和」(現在の足立山)が付く。そして「御諸山」(現在の谷山)に坐していたと記述される。「陶津耳」の比賣を娶ることは十分に受け入れられる出来事と思われる。ここまでは前記で追い詰めたところであるが、更にその出自を推測してみよう。

その後登場する出雲の神々のほぼ全てを紐解いた。関連する場所を下図に示す。



上図は速須佐之男命の御子「大年神」の系列を示したものである。もう一方の「八嶋士奴美神」が支配した東の肥河(現在の大川)流域と対比される場所である。繰り返しになるが、上図のように「大年神」の系列は大きくこの地を開拓し大きな財力を蓄えることに成功したが、後者の「八嶋士奴美神」系列は出雲を去ったのである。

図に示したように「陶津耳命」は「聖神」の場所と重なる。後裔がしっかりと根付いたことを告げているのであろう。「大年神」が配置した他の神の場所も同じように、それなりの繁栄を享受していたものと思われる。ならば「大物主大神」は「大年神」系列に出自を持つ神と推測することができる。

そんな状況の中で騒動が起こる。「大国主命」の闖入した「宇都志国」(上図「宇迦」と一部重なる)事件である。既出であるが、再掲すると…、

故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。[そこで黄泉比良坂まで追っておいでになって、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになったには、「そのお前の持っている大刀や弓矢を以って、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬に追い撥って、自分で大國主の命となってそのわたしの女のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住めよ、この奴」と仰せられました。そこでその大刀弓を持ってかの大勢の神を追い撥う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥って國を作り始めなさいました]

「其八十神」は「大年神」系列の神々である。刺客として送り込まれた大国主命に勝ち目はなく、やはり東の肥河流域に去ることになったのである。ここで発生した軋轢は深く、そして後々まで続くことになったと推測される。

大国主命が国作りに困惑している時に現れる大物主大神は、融和策の一つであり、また出雲の主権が西に移る切掛を目論んだものであったのだろう。だがしかし、それは天神が許さない。建御雷之男神を遣わしての「言向和」は出雲は天神が支配・統治する地であることを知らしめるためのものであろう。天之菩比神の子、建比良鳥神が出雲国造の祖となったと伝えるが、上記の状況の中で誕生し、目付け役を担ったと推測される。

速須佐之男命の御子「大年神」系列は立派に天神族である。だが「大国主命」による主権奪取に際して発生した敵対関係は「羽山戸神」のような出雲極東の系列しか掌握できていなかったのであろう。また、こうも考えられる・・・上図の曾富理神、韓神などの後裔はその諍いに巻き込まれて大きな被害を被ったのかもしれない。

八上比賣の御子、御井神(韓神と重なる地)も木の股に挟まれ放置されたという記述は、その争いの犠牲になったと解釈することもできそうである。故に「御諸山に坐す神」として扱い、その出自を遡ることができなかったのではなかろうか。常に皇統が圧倒的に勝利する…当然のことだが…大国主命の「宇都志国」事件のその後は、何とか天神がシャシャリ出て丸く収めたことを示していると推測される。

古事記の性格からして情報が揃ってればあからさまに記述したであろう。得意の捻られた表現で…。「大物主大神、見えたり…」と謳っても所詮はこの程度の紐解きで終わりそうである。

「年」=「穀物、稲(トシ)」が語源とある。前記で「物」=「亡くなる、死ぬ」と解釈した。「死者の主」のような意味合いとしたが、敵対関係にあった時の結末を示していて納得である。常に「祭祀しろ!」という発言とも合致する。また、「物=穀物」と読めば…、


大|物|主大神=大|年|主大神

…と読み解くことができる。安萬侶くんのことだから、きっと両者を掛けているような気もするのだが・・・。

古事記における「大年神」関連の記述は系譜の羅列であり、且つ又その名前が捻れていることから殆ど読み解かれて来なかった。「穀物神」と簡単に片付けられているようである。古事記は、編者らにとっても不確かだが、この系列は皇統に確実に繋がっていることを告げていたのである。
意富多多泥古*
多多泥古

「多多」は複数の解釈があるが、古事記では後に登場する丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須美知」=「真直ぐな州の道」と解釈に類似すると思われる。「多多泥古」は…、


多多(真直ぐ)|泥(水田)|古(固:定める)

…「真直ぐに水田を定める」命と紐解ける。長峡川、初代川に挟まれたところで治水を行っていたのであろう。