2021年9月27日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(9) 〔546〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(9)


神龜五年(西暦728年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

八月甲午。詔曰。朕有所思。比日之間。不欲養鷹。天下之人。亦宜勿養。其待後勅。乃須養之。如有違者。科違勅之罪。布告天下。咸令聞知。是日。勅始置内匠寮。頭一人。助一人。大允二人。少允二人。大属一人。少属二人。史生八人。使部已下雜色匠手各有數。」又置中衛府。大將一人。〈從四位上。〉少將一人。〈正五位上。〉將監四人。〈從六位上。〉將曹四人。〈從七位上〉府生六人。番長六人。中衛三百人。〈號曰東舍人。〉使部已下亦有數。其職掌常在大内。以備周衛。事並在格。」正五位下守部連大隅上書乞骸骨。優詔不許。仍賜絹一十疋。絁一十疋。綿一百屯。布卌端。甲申。勅。皇太子寢病。經日不愈。自非三寳威力。何能解脱患苦。因茲。敬造觀世音菩薩像一百七十七躯并經一百七十七卷。礼佛轉經。一日行道。縁此功徳。欲得平復。又勅。可大赦天下。以救所患。其犯八虐及官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜得財。常赦所不免者。並不在赦限。壬申。太政官議奏。改定諸國史生博士醫師員并考選叙限。史生大國四人。上國三人。中下國二人。以六考成選。滿即与替。博士醫師以八考。成選。但補博士者。惣三四國而一人。醫師毎國補焉。選滿与替。同於史生。語並在格。丙戌。天皇御東宮。縁皇太子病。遣使奉幣帛於諸陵。丁夘。太白經天。

八月一日(甲子朔の誤りか?)に以下のように詔されている。朕は思うところがあって鷹を飼うことに気が進まない。天下の人もまた、鷹を飼わないようにすべきと思う。鷹の飼育は勅が出るまで待つことにせよ。もし違反者が出れば違勅の罪を科せ。全国に布告して知らしめよ、と述べている。

この日、勅を下して初めて内匠寮を設置し、頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大属一人、少属二人、史生八人と定めている。使部伊以下、各種の匠手(技術者)も置かれている。また、中衛府を新設し、大将(従四位上)一人、少将(正五位上)一人、将監(従六位上)四人、将曹(従七位上)四人、府生六人、番長六人、中衛三百人(東舎人とも言う)を置いている。使部以下も若干名置かれている。その職掌は常に内裏にあって天皇の周囲を護衛することである。詳細は挌に記載されている。

「守部連大隅」が書状を奉って引退を願い出ているが、天皇の手厚い詔があって許されず、絹・絁・真綿・麻布を賜っている。前記で「守部連」姓は、明經第一博士の鍛冶造大隅(鍜造大角)が賜っている。

二十一日に以下のように勅されている。皇太子の病気は日数を経ても平穏しない。仏法僧の三宝の力を頼らなければならない。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体を造り、併せて経典を転読して一日行道を行いたいと思う。この功徳によって恢復期待したい。

また、全国に大赦の令を下して病気を癒すようにしたい。但し、八虐を犯した者、官人にして収賄して法を曲げた者、監督して支配管理する立場にある者が自ら盗みを犯した者、監督下にある者を盗んだ場合、強盗と窃盗により財物を得た場合、常の恩赦では許されない犯罪等は、いずれも赦しの適用から除外する、と勅されている。

九日に太政官の審議・上奏により、諸國の史生・博士・医師の定員と、昇進に必要な審査の年限を改定している。史生は大國に四人、上國に三人、中・下國に二人を置き、六年間の勤務成績をみて昇進の可否を審査し、六年を過ぎれば解職交替させる。また博士と医師は、八年間の成績をみて昇進の可否を審査する。但し、博士は三、四ヶ國に一人を任命し、医師は國ごとに任じる。八年経過すれば解任交替させることは、史生と同じである。詳細は挌に記載されている。

二十三日に天皇が東宮に出御している。諸陵に使者を派遣して幣帛を献じさせている。四日に太白(金星)が天を渡っている。本条、日付の混乱が頻発しているようである。皇太子の病状が思わしくなく、天皇家の狼狽え振りを映しているのか?・・・。

九月丙午。皇太子薨。壬子。葬於那富山。時年二。天皇甚悼惜焉。爲之廢朝三日。爲太子幼弱。不具喪禮。但在京官人以下及畿内百姓素服三日。諸國郡司。各於當郡擧哀三日。壬戌。夜流星。長可二丈。餘光照赤。四斷散墮宮中。

九月十三日に皇太子が亡くなっている。十九日、「那富山」に葬っている。年齢は二歳であった。天皇はたいそう悼み愛惜し、そのため朝務廃止が三日に及んでいる。皇太子は幼少であったので、通常の葬儀は行われていない。ただ在京の官人以下朝廷に仕える人らと畿内の百姓等は白い喪服を三日間つけた。諸國の郡司等はそれぞれの郡で哀しみの声を挙げる礼を三日間行っている。二十九日の夜、流星が見え、長さ二丈余りで赤く光る尾を引き、最後に四つに切れて散り散りになって宮中に落ちている。

<那富山>
那富山

何の修飾もなく記載された山の名前であるが、おそらく平城宮を取り囲む山々の一つではなかろうか。既出では、宮の鬼門、東北の方角に当たると推定した盖山があった。

また、記紀・續紀ではないが、持統天皇の万葉歌に登場する香來山、藤原宮の東の山稜にあったと読んだ山が思い出せる。

頻出の「那」=「冄+邑」=「しなやかに曲がる様」と解釈した。那賀などで用いられている。「富」=「宀+畐」と分解される。古事記では頻出の文字であり、「富」=「國境に向かう谷間の坂」と紐解いた。

これは古事記独特の解釈であって、勿論重要な根拠があるのだが、やはり、素直に地形象形表記として解釈するべきであろう。ならば、「富」=「谷間にある酒樽のような様」となる。類似の文字では福草に含まれる「福(示+畐)」などがあった。

纏めると那富山=谷間にあるしなやかに曲がる酒樽のような山と読み解ける。上記の「盖山」と「香來山」の間にある山の地形を表していることが解る。前記で白龜を見つけた「紀朝臣家」の「朝」が示す場所でもあり、「朝」に含まれる「太陽」の地形である。

横道に逸れるが、古事記は那良と記載するが、大和では「奈良」となる。「奈」=「木+示」=「山稜が高台となっている様」となり、「那」=「しなやかに曲がる様」を暈した表記となる。上記の「那富山」も「奈保山」(参考資料では「那保山」)に換えられているようである。上図に示したように”酒樽がしなやかに曲がっている”という極めて特徴的な地形表現が曖昧にされたまま現在に至っているのである。

冬十月壬午。僧正義淵法師卒。遣治部官人監護喪事。又詔賻絁一百疋。絲二百絇。綿三百屯。布二百端。
十一月癸巳朔。雷。乙未。以從四位下智努王。爲造山房司長官。壬寅。制。衛府府生者兵部省補焉。乙巳。冬至。御南苑。宴親王已下五位已上。賜絁有差。庚辰。擇智行僧九人。令住山房焉。
十二月己丑。金光明經六十四帙六百卌卷頒於諸國。國別十卷。先是。諸國所有金光明經。或國八卷。或國四卷。至是寫備頒下。隨經到日。即令轉讀。爲令國家平安也。

十月二十日に僧正の義淵法師が亡くなっている。治部官人を遣わして喪事を監督・護衛させている。また絁などを贈り弔っている。「義淵法師」の補足だが、「龍」が付く名称の寺を創建し、平安時代には『龍調伏伝説』が広く流布していたとのことである。現在も多くの「龍▢寺」があるが、由来に関連するのかもしれない。

十一月一日に雷が鳴っている。三日に智努王を造山房司(皇太子のための山寺造営)の長官に任命している。十日に衛府の府生は兵部省が補選する、と制定している。十三日は冬至であり、南苑に出御されて親王以下五位以上と宴を行い、それぞれに絁を賜っている。二十八日に知恵と戒行に優れた僧九人を山房に住まわせている。

十二月二十八日に金光明經六十四部計六百四十巻を諸國に配布している。元々諸國にある金光明經は八巻であったり、四巻であったりしたが、写経をして備えさせている。經の到着次第に転読させ、國家平安とするためである。

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天平元年春正月壬辰朔。宴羣臣及内外命婦於中宮。賜絁有差。戊戌。饗五位以上於朝堂。壬寅。正四位上六人部王卒。丁未。勅。孟春正月。万物和悦。宜給京及畿内官人已下酒食價直。并餔一日。壬子。詔。五位以上高年不堪朝者。遣使就第慰問兼賜物。八十已上者。絁十疋。綿廿屯。布卅端。七十已上者。絁六疋。綿十屯。布廿端。

天平元年(西暦729年)正月一日に群臣及び内外の命婦を中宮に招いて宴を行い、それぞれに絁を賜っている。七日に五位以上の官人を朝堂に招き、饗宴を行っている。十一日、六人部王が亡くなっている。十六日に、春の初めの正月は万物が和合し喜悦に溢れている。朕は京と畿内の官人以下の人々に酒食の代価を与え、併せて一日おおいに飲食させるであろう、と勅されている。

二十一日に以下のように詔されている。概略は、五位以上の官人で高齢のため参朝できない者については、その邸に使者を派遣して慰問し、併せて、八十歳以上の者、七十歳以上の者にそれぞれ絁・真綿・麻布を与えている。

二月辛未。左京人從七位下漆部造君足。无位中臣宮處連東人等告密。稱左大臣正二位長屋王私學左道。欲傾國家。其夜。遣使固守三關。因遣式部卿從三位藤原朝臣宇合。衛門佐從五位下佐味朝臣虫麻呂。左衛士佐外從五位下津嶋朝臣家道。右衛士佐外從五位下紀朝臣佐比物等。將六衛兵。圍長屋王宅。壬申。以大宰大貳正四位上多治比眞人縣守。左大辨正四位上石川朝臣石足。彈正尹從四位下大伴宿祢道足。權爲參議。巳時。遣一品舍人親王。新田部親王。大納言從二位多治比眞人池守。中納言正三位藤原朝臣武智麻呂。右中弁正五位下小野朝臣牛養。少納言外從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等。就長屋王宅窮問其罪。癸酉。令王自盡。其室二品吉備内親王。男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自經。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士兵衛等府。甲戌。遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山。仍勅曰。吉備内親王者無罪。宜准例送葬。唯停鼓吹。其家令帳内等並從放免。長屋王者依犯伏誅。雖准罪人莫醜其葬矣。長屋王天武天皇之孫。高市親王之子也。吉備内親王日並知皇子尊之皇女也。丙子。勅曰。左大臣正二位長屋王。忍戻昏凶。觸途則著。盡慝窮姦。頓陷踈網。苅夷姦黨。除滅賊惡。宜國司莫令有衆。仍以二月十二日依常施行。戊寅。外從五位下上毛野朝臣宿奈麻呂等七人。坐与長屋王交通並處流。自餘九十人悉從原免。己夘。遣左大辨正四位上石川朝臣石足等。就長屋王弟從四位上鈴鹿王宅。宣勅曰。長屋王昆弟姉妹子孫及妾等合縁坐者。不問男女。咸皆赦除。是日。百官大祓。壬午。曲赦左右京大辟罪已下。并免縁長屋王事徴發百姓雜徭。又告人漆部造君足。中臣宮處連東人並授外從五位下。賜食封卅戸。田十町。漆部駒長從七位下。並賜物有差。丁亥。長屋王弟姉妹并男女等見存者。預給祿之例。

二月十日に左京の住人である「漆部造君足」と「中臣宮處連東人」等が「左大臣の長屋王は密かに左道(不正の道、妖術)を修得し、それにより国家を倒そうとしている」と密告している。その夜、使者を三關(鈴鹿不破愛發)に派遣して固守させている。また、このために式部卿の藤原朝臣宇合、衛門佐の佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐の津嶋朝臣家道、右衛士佐の紀朝臣佐比物(雜物)等を派遣し、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸宅を包囲させている。

十一日に大宰大弐の多治比眞人縣守、左大弁の石川朝臣石足、弾正尹の大伴宿祢道足の三人を仮に参議に任じている。巳の時(午前十時前後)に、舎人親王新田部親王、大納言の多治比眞人池守、中納言の藤原朝臣武智麻呂、右中弁の小野朝臣牛養(毛野に併記)、少納言の巨勢朝臣宿奈麻呂(少麻呂)等を長屋王の邸宅に派遣して、その罪を追求し尋問させている。

<膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王>

十二日に長屋王を自殺させている。その妻で吉備内親王、息男(子息)の「膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王」(左図参照)等も、長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。

そこで邸宅に残る人々をみな捕らえて左右の衛士府や兵衛府などに監禁している。尚、長屋王の他の息男についてはこちら参照。

十三日に使者を派遣して長屋王吉備内親王の遺骸を「生馬山」(書紀の膽駒山、下図参照)に葬っている。通常は、二つ合わせて(?)、大阪府と奈良県の境の生駒山地にある”生駒山”とされているが・・・。

そこで以下のように勅されている。吉備内親王には罪がないから前例により送葬せよ。ただ太鼓や笛は止めよ。長屋王の家令・帳内等は共に放免する。長屋王は犯した罪により誅罰を受けたのであるから罪人に准じるとはいえ、皇族である以上その葬り方を醜いものにしてはならない、と述べている。長屋王は天武天皇の孫、高市親王の子である。吉備内親王は日並知皇子尊(草壁皇子)の皇女である。

十五日に、以下のように勅されている。左大臣の長屋王は、残忍凶悪な人柄であったが、その穢れがそのまま表れ、邪なことをやりつくして、にわかに法網にかかった。そこで王にくみする悪党を除去し姦賊を滅ぼそうと思う。國司はその一味を見逃してはならない、と述べている。そこで二月十二日付で常例に従って上記のことを行わせている。

十七日に上毛野朝臣宿奈麻呂等七人は、長屋王と意志を通じていたことを咎められ、いずれも流罪に処せられている。その他の九十人は皆放免されている。十八日に左大弁の石川朝臣石足等を、長屋王の弟の鈴鹿王の邸宅に遣わし、以下のように勅を述べさせている。「長屋王の兄弟姉妹と子・孫、それに妾等のうち、連座して罰せられるべき者たちは、男女を問わずすべて赦免する。」この日、百官等は大祓を行っている。

二十一日に左京・右京の死罪以下の罪人を赦免している。併せて長屋王事件のために動員された百姓の雜徭を免除している。また、告発した「漆部造君足」と「中臣宮處連東人」に外従五位下を授け、封戸三十戸、田十町を賜っている。「漆部駒長」には従七位下を授けている。いずれも身分に応じて物を賜っている。二十六日、長屋王の弟・姉妹と子供等のうち生存する者には、禄を給することが認められている。

<漆部造君足・漆部駒長>
● 漆部造君足・漆部駒長

左京人と中臣一族の密告者二名と、後の褒賞から、その一味と思われる計三名の名前が挙げられている。先ずは、左京人、おそらく北部と思われるが、先ずは、名前から読み解いてみよう。

「漆部」は、直近では元正天皇紀に「漆部司」で登場し、保管されている「漆」を盗んで流罪となった父親、丈部路忌寸石勝を幼い子等が救った逸話が記載されていた。

明らかに「漆」そのものを示すのだが、「漆部司」に勤めているから名前に「漆部」とする、のではないことも判る。

従来より記紀・續紀を通じて、「〇〇部」の名前は〇〇部所属の人と解釈されているが、全くの誤りであることを、実にさりげなく記述しているのである。『朝日日本歴史人物事典』にある漆部の解説は、混乱を記しているだけであろう。

前置きが長くなったが、「漆部」は既出の文字列であって、書紀に漆部諸兄・友背が登場している。物部一族であり、その地に彼等の出自の場所を求めることができる。「漆」=「氵+桼」と分解し、「桼」=「漆を採取する様」を象った文字と知られている。漆部=長い谷間に山稜が交差するように延び出ているところと解釈した。

漆部造君足の「漆部」は、勿論、物部の地ではなく、左京の北部、図に示した谷間と推定される。君足=山稜が区切られて小高く延びているところと読み解ける。谷間の南端に突き出た山稜を表していると思われる。駒長の「駒」は「馬の古文字の地形」と解釈される。それが長く延びたように見える谷間の奥と思われる。駒長=馬の形の山稜が長く延びたところと読み解ける。

また、この馬の頭部は、書紀で登場した膽駒山となる。上記では「生馬山」と記述されている。即ち、この「駒」が延びたところと解釈することも可能であろう。重ねた表記でこの人物の所在を表していると思われる。

<中臣宮處連東人>
● 中臣宮處連東人

「中臣〇〇連」(複姓と言われている)は、既に幾つかの例があり、直近では「中臣熊凝連」が登場していた(こちら参照)。中臣の北側の谷間の奥深くに棲息していた一族である。

宮處に含まれる幾度か登場の宮=宀+呂=谷間が奥深い様と解釈した。「處」=「虍+几+夂(足)」と分解される。地形象形的に読み解くと、「處」=「[几]形の谷間に虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいる様」と解釈される。古事記の穴穗命(安康天皇)紀に登場した五處之屯宅などで用いられた文字である。

纏めると宮處=谷間が[几]形をして奥深く虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいるところと読み解ける。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、実に懇切丁寧な表記であることが解る。図に示した場所が出自と推定される。「中臣」の隆盛にあやかって、冠したのであろうか・・・。

ところで、この人物は九年後に再び登場し、長屋王に仕えていた人物と囲碁に興じていた時に話題が本事変となり、憤慨した相手に殺害されている。續紀は上記の密告は「誣告」と記している。「中臣」の端くれ者が操られた事件だったのかもしれない。

前年の九月に皇太子が亡くなり、皇統の乱れが生じる危機感に満ちていたのであろう。勿論、藤原朝臣一族にとっても由々しきことであり、黙って見過ごすわけには行かなかった・・・こやつが暴露する危険もあった?…と憶測できる状況と思われる。いずれにしても悲惨な出来事であったに違いない。


















 

2021年9月23日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(8) 〔545〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(8)


神龜五年(西暦728年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月戊戌朔。廢朝。雨也。庚子。天皇御大極殿。王臣百寮及渤海使等朝賀。甲辰。天皇御南苑。宴五位已上。賜祿有差。甲寅。天皇御中宮。高齊徳等上其王書并方物。其詞曰。武藝啓。山河異域。國土不同。延聽風猷。但増傾仰。伏惟大王。天朝受命。日本開基。奕葉重光。本枝百世。武藝忝當列國。濫惣諸蕃。復高麗之舊居。有扶餘之遺俗。但以天崖路阻。海漢悠悠。音耗未通。吉凶絶問。親仁結援。庶叶前經。通使聘隣。始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義。游將軍果毅都尉徳周。別將舍航等廿四人。齎状。并附貂皮三百張奉送。土宜雖賎。用表獻芹之誠。皮幣非珍。還慚掩口之誚。主理有限。披瞻未期。時嗣音徽。永敦隣好。」於是高齊徳等八人並授正六位上。賜當色服。仍宴五位已上及高齊徳等。賜大射及雅樂寮之樂。宴訖賜祿有差。

正月一日は雨のため朝賀を廃止している。三日に大極殿に出御されて、親王・諸臣・百寮及び渤海の使者等の朝賀を受けられている。七日、南苑に出御されて、五位以上の者と宴を行い、それぞれに禄を賜っている。

十七日に中宮に出御され、高斉德等が渤海王の書状と土地の産物を進上している。書状には以下のように記されていた。主旨は、武芸(第二代の王、大武芸)が申し上げる。山河はところを異にし国土は遠く離れているが、政教のはかりごとを聴き、ただ心を傾けて欽仰の念を増すばかりである。恐れながら考えるには、大王は中国の朝廷より命を受けて、日本の国に王朝の基を開かれ、代々栄光を重ね、祖先より百代にも及んでいる。武芸は、ありがたいことに隣り合わせの国であり、分不相応にも諸蕃民を支配し、旧高麗の土地を回復し、扶余の古い風俗を保っている。しかしながら遥かに遠く隔たり、その間には海や河が広々と広がっているため、音信は通じず慶弔を問う由もなかった。今後は相互に親しみ助け合って、歴史に叶うようにしたいと願う。使者を遣わし仲の良い隣国としての交わりを結ぶことを今日から始めたく思う。そこで謹んで寧遠将軍郎将の高仁義、游將軍果毅都尉の徳周、別將の舍航等二十四人を派遣して書状を進上し、併せて貂の皮三百枚を持たせてお送りする。土地の産物はつまらぬものだが、献上して誠意を示す。皮革は珍しい物ではなく、かえって失笑を買って責められることを恥じ恐れる。使者が伝えられることには限りがあり、誠意が十分に打ち明けられるとは思わないが、機会あるごとに音信を継続して永く隣国としての手厚い交わりを結びたく思う。

そこで高斉德等八人に正六位上を授け、位階に応じた服装を賜り、五位以上の官人と共に宴会に招いている。射術の大会と雅楽寮の音楽でもてなし、ぞれぞれに禄を与えている。

二月壬午。以從六位下引田朝臣虫麻呂。爲送渤海客使。癸未。勅正五位下鍛冶造大隅。賜守部連姓。

二月十六日に「引田朝臣虫麻呂」を渤海使を送る使者としている。十七日、鍛冶造大隅に「守部連」姓を賜っている(鍜造大角、こちら参照)。

<引田朝臣蟲麻呂>
● 引田朝臣虫麻呂

勿論、阿部引田臣比羅夫の一族である。その子孫は、連綿として登場している。直近では引田朝臣眞人が従五位上に叙爵されたと記載されていた。

頻出の蟲=山稜の端が三つに岐れている様と解釈したが、この地形が見られるのは、引田朝臣一族の中で爾閇等の出自の場所と推定した最奥の谷間と思われる。

すると、「爾閇」の南側、また船人の北側の山稜の端に所望の地形が見出せる。現在の真迫の上池は、当時はもっと小さな池、あるいは池そのものが存在していなかったのではなかろうか。

大納言の阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が一族纏めて「阿倍朝臣」と名乗るよう言上したが(こちら参照)、既に遠い昔の出来事になってしまったのであろう。それにしても一族の系譜情報が極めて少ない。余りにも明白で記録するのも憚れたのかもしれない。

三月己亥。天皇御鳥池塘。宴五位已上。賜祿有差。又召文人。令賦曲水之詩。各齎絁十疋。布十端。内親王以下百官使部已上賜祿亦有差。辛丑。二品田形内親王薨。遣正四位下石川朝臣石足等。監護喪事。天渟中原瀛眞人天皇之皇女也。丁未。制。選叙之日。宣命以前。諸宰相等。出立廳前。宣竟就座。自今以後。永爲恒例。甲子。勅定外五位位祿蔭階等科。」又勅。補事業位分資人者。依養老三年十二月七日格。更無改張。雖然。資人考選者。廻聽待滿八考始選當色。外位資人十考成選。並任主情願。通取散位勳位位子及庶人。簡試後請。請後犯罪者。披陳所司。推問得實。决杖一百。追奪位記。却還本色。其三關。筑紫。飛騨。陸奥。出羽國人。不得補充。餘依令。」勅京官文武職事。五位以上給防閤者。人疲道路。身逃差課。公私同費。彼此共損。自今以後。不須更然。其有官人重名。特給馬料。給式有差。事並在格。

三月三日に天皇は鳥池(宮中にあった池?)の堤に出御し、五位以上の官人を招き、それぞれに禄を賜っている。また文人を召して曲水の宴(こちら参照)を催し詩を作らせ、それぞれに絁・真綿を賜っている。内親王以下、百官の使部以上の者に、それぞれ禄を与えている。五日に田形内親王(母親は石川夫人、穂積皇子の妹)が亡くなっている。石川朝臣石足等を遣わして葬儀を執り行わせている。天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)の皇女であった。

十一日に、位階を授ける日には、宣命が宣される以前に参議以上の者は太政官の庁の前に出て立ち、宣命終了後に座に就くこと。今日より以降永く恒例とせよ、と制している。二十八日に勅して外五位の禄と蔭位(父祖のお蔭の叙位)の位階の等級を定めている。

この日に以下のように勅されている。事業の位階に応じて賜われる資人の任命については、養老三年十二月七日の格によって行い、改めることはない。但し資人の位階昇進の査定は、八年間の成績全てを勘案して、初めてその人に相応しい位階に付けることを許す。外位の位を持つ資人は十年間の成績を勘案して査定せよ。いずれの場合も資人は本主の請願により、散位・勲位者・位子・庶民から選び、試験した後に資人とすることを申請せよ。申請後に罪を犯した時には所司に申し出、尋問し、事実であるならば杖で百回打つ罰とし、位記を剥奪し、元の身分に戻せ。三關(鈴鹿不破愛發)・筑紫・飛騨・陸奥・出羽の國の人を資人に採用してはならない。その他は令の条文に従え、と述べている。

また、次のように勅されている。中央の官人で現に文武の官に任じている五位以上の者には防閤(五衛の従者)が与えられているが、従者は出京の旅に疲れ、一方その者の課役は免除されている。これでは公私ともに費用をかけて、両者ともに損害を受けることになる。今後はこの制度を廃止する。しかし官職に在る者は、名誉を重んじるので、防閤の代わりに馬料(飼育料、銭で支給)を賜うことにする。支給はそれぞれであり、詳細は挌に記載されている、と述べている。

夏四月丁夘朔。日有蝕之。丁丑。陸奧國請新置白河軍團。又改丹取軍團爲玉作軍團。並許之。辛巳。太政官奏曰。美作國言。部内大庭眞嶋二郡。一年之内。所輸庸米八百六十餘斛。山川峻遠。運輸大難。人馬並疲。損費極多。望請。輸米之重。換綿鐵之輕。又諸國司言。運調行程遥遠。百姓勞幣極多。望請。外位位祿。割留入京之物。便給當土者。臣等商量。並依所請。伏聽天裁。奏可之。」是時。諸國郡司及隼人等授外五位。並以位祿便給當土也。壬午。齊徳等八人。各賜綵帛綾綿有差。仍賜其王璽書曰。天皇敬問渤海郡王。省啓具知。恢復舊壤。聿修曩好。朕以嘉之。宜佩義懷仁監撫有境。滄波雖隔。不斷往來。便因首領高齊徳等還次。付書并信物綵帛一十疋。綾一十疋。絁廿疋。絲一百絇。綿二百屯。仍差送使發遣歸郷。漸熱。想平安好。辛夘。勅曰。如聞。諸國郡司等。部下有騎射相撲及膂力者。輙給王公卿相之宅。有詔搜索。無人可進。自今以後。不得更然。若有違者。國司追奪位記。仍解見任。郡司先加决罸。准勅解却。其誂求者。以違勅罪罪之。但先充帳内資人者。不在此限。凡如此色人等。國郡預知。存意簡點。臨勅至日。即時貢進。宜告内外咸使知聞。

四月一日に日蝕があったと記している。十一日、陸奥國が白河軍團(石背國白河郡)を新たに設置し、また丹取軍團(陸奥國丹取郡)を玉作軍團に改称する、と申請し、許されている。

ーーー「白河」は、石背國に属した郡であったが、多分、石背國が廃止されて元の陸奥國となっていたのであろう。「丹取」を「玉作」に置き換えたのは、この郡の「玉作」の地形の北部が中心であり、南部の地形を示す「丹取」が適切ではない、と判断されたのであろう。ーーー

十五日に太政官が以下のように上奏している。概略は、「美作國」が言上するには、「大庭・眞嶋」の二郡が一年間に上納する庸米は八百六十余斛である。この二郡は都と山河に隔てられて遠く離れ、運送は大いに困難で、輸送の人馬が共に疲労し、出費は極めて多い。どうか上納するのに重い米を軽量の真綿や鉄に換えて頂きたい、と述べている。また、諸國の國司等が言上するには、調物を運送するのに京までの旅程は遠く、百姓等の疲労は極めて多い状況である。外位の官人の位禄は、京に輸送すべきものの一部を留め置き、便宜をはかってその地の外位の官人に給与することを要望する、と述べている。我が臣下の者が検討すると、いずれも申請の通りとしたい。天皇の決裁をお願いする、と奏上し、許されている。

この時から諸國の郡司と隼人等が外五位を授かった場合、その位禄は、京ではなく、居住地で与えられることになった、と記載している。

十六日、高斉德等八人に各々色どりのある絹や綾、真綿を与えている。また、渤海郡王に書状を賜っている。概略は、天皇は謹んで渤海郡王に尋ねる。朕は王の書状を読み、旧の領土を恢復し、昔時のような修好を望んでいることを具に知った。王は君臣の道に従い仁慈の心をもって国内を監督し撫育し、我が国とは遠く海を隔てていても、往来を絶たぬよう努めるべきである。そこで高斉德等が帰国するついでに朕の書状と贈物(綵帛・綾・絁など)を託す。故に一行を送り届ける使者を任命し、帰郷させるようにする。漸く夏に入って暑くなってきたが、想うに王の身辺は平安順調であろう、と記載されていた。

二十五日に以下のように勅されている。概略は、聞くところによれば諸國郡司等は管轄区域内に騎射や相撲に有能な者、または力自慢の者がいると、彼等を簡単に王族や公卿・宰相の宅に送り込んでしまう。このため詔があって捜し求めても奉るべき人材がない。今後はこのようなことがあってはならない。もし違反者があれば、國司は位記を剥奪、現職を解任し、郡司は、先ず罰を与えた上で勅に準拠して現職を解任せよ。有能者を誘いかけて求めようとする者は、違勅の罪として罰せよ。但し、既に有能者を帳内・資人に任じた場合は、この限りではない。およそこうした種類の有能者は國郡司があらかじめ知って、よく心がけて選定・指名しておき、勅が到来した時には即時に貢進するようにせよ。以上のことを全国に告げ、ことごとくに知らしめるようにせよ、と述べている。

<備前國・美作國>
美作國:大庭郡・眞嶋郡

今一度、美作國が設置された時の本文を引用してみよう・・・「割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國」と記載されていた。

通説は、備前國のこれら六郡を美作國と改称したように解釈されている。しかしながら、素直に読み下せば、備前國を六郡に分割して、別に美作國を置いたのである。左図を再掲したが、備前國の入口の谷間を美作國と表記しているのである。

美作=ギザギザとした谷間の先が広がっているところであり、文武天皇紀に記載された侏儒備前國侏儒=長くしなやかに延び広がった谷間に断ち切られたような山稜があるところなのである。まるで魏志倭人伝(侏儒國)を熟知しているかのような表現だったのである。そして、その特徴的な地形を有する國に上記の六郡を当て嵌めることは到底不可能であることも解る。

今回の記述は、元来備前国に属していた大庭郡眞嶋郡を美作國に属させていることになる。転属の記述が省略されているのである。おそらく、備前國は、北へ北へとその統治領域を拡大し、藤原郡(前記で藤野郡に改称)などが登場していた(こちら参照)。これに伴って東南部の二郡が美作國へと転属されたと推測される。

ところで、美作國の申し出が許されるなら、備前國も…と言いたいところだが、おそらく上記の二郡の庸米量は甚だしく大量(八百六十余斛)だったのではなかろうか。この二郡は、現在の水田の様子からしてもかなりの生産量だったと思われる。さり気なく「鐵」が記載されている。吉備國にある鬼ヶ城周辺は、その産地だったのである。

五月辛亥。左右京百姓遭澇被損七百餘烟。賜布穀鹽各有差。乙夘。太白晝見。丙辰。授正五位上門部王從四位下。正四位下石川朝臣石足正四位上。正五位上大宅朝臣大國。阿倍朝臣安麻呂並從四位下。從五位上小野朝臣牛養正五位下。從五位下多治比眞人占部從五位上。正七位上阿倍朝臣帶麻呂。正六位下巨勢朝臣少麻呂。從六位下中臣朝臣名代。正六位上高橋朝臣首名。大伴宿祢首麻呂。正六位下紀朝臣雜物。正六位上坂本朝臣宇頭麻佐。田口朝臣年足。正七位下笠朝臣三助。下毛野朝臣帶足。外正六位上津嶋朝臣家道。從六位上上毛野朝臣宿奈麻呂。正六位上若湯坐宿祢小月。葛野臣廣麻呂。丸部臣大石。葛井連大成並外從五位下。是日。始授外五位。仍勅曰。今授外五位人等。不可滞此階。隨其供奉。將叙内位。宜悉茲努力莫怠。

五月十六日、左右京の百姓が長雨で浸水被害を被った七百余戸に布・穀・塩をそれぞれ賜っている。二十日に太白(金星)が昼に見えている。

二十一日に、門部王に從四位下、石川朝臣石足に正四位上、大宅朝臣大國(金弓に併記)阿倍朝臣安麻呂に從四位下、小野朝臣牛養(毛野に併記)に正五位下、多治比眞人占部に從五位上、「阿倍朝臣帶麻呂」・「巨勢朝臣少麻呂」・中臣朝臣名代(人足に併記)・高橋朝臣首名(若麻呂に併記)・大伴宿祢首麻呂(山守に併記)・「紀朝臣雜物」・坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)・田口朝臣年足(家主に併記)・「笠朝臣三助」・下毛野朝臣帶足(信に併記)・「津嶋朝臣家道」・上毛野朝臣宿奈麻呂(小足に併記)若湯坐宿祢小月(若湯坐連家主に併記)・「葛野臣廣麻呂」・丸部臣大石(父親君手に併記)・「葛井連大成」に外從五位下の位階を授けている。

この日初めて外五位の位を授けている。そして次のように勅されている。いま外五位を授けられた人らは、いつまでもこの位階に滞まってはいけない。今後の勤務の内容により昇進させて内位に叙するつもりであるから、みな努力して怠らないようにせよ、述べている。

● 阿倍朝臣帶麻呂 父親が阿倍引田臣比羅夫の子、船守と知られている。現地名の北九州市門司区大里の大久保貯水池の東端と推定した。国土地理院写真(1961~9年)でも既にこの池が大きく広がっていて、「船守」周辺の地形は不明の有様である。兄の「仲麻呂」も含めて、池に埋没した地となってしまったと推測される(こちら、更に年代を遡った地形図より求めた詳細は、こちら参照)。

<巨勢朝臣少麻呂・奈氐麻呂・又兄・首名>
● 巨勢朝臣少麻呂

出自の系譜は、全く不詳のようである。「巨勢朝臣」、現在の直方市の金剛山・雲取山の谷間で探索することになる。頼りは「少」の一文字である。

少=小+ノ=山稜の端が削り取られて尖がっている様と解釈した。と言うことは、彦山川の畔ではなく、山に近い場所と推測すると、それらしき地形が見出せる。

役君小角の出自の場所と推定した「角」の東側の山稜の端が「少」の地形を示していることが解った。その東側は『壬申の乱』後、子孫共々流罪に処せられた近江朝大納言であった比等(人、毘登)の出自の場所である。

そして、この直後に配流された子の一人である巨勢朝臣奈氐麻呂が外従五位下を授けられて登場する。「奈」=「木+示」=「山稜が高台のようになっている様」であり、「氐」=「氏+一」=「匙のような地が区切られている様」と解釈すると、奈氐=山稜が区切られた匙のような高台と読み解ける。配流された後に何度か行われた大赦で元の住処に戻されていたのかもしれない。最終従二位・大納言にまで昇進されたようである。

更にその後に巨勢朝臣又兄・巨勢朝臣首名が、同様に外従五位下を授けられて登場する。残念ながらこの二人の系譜は定かではないようで、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。又兄=広がった谷間の奥が積み重なっているところと読み解けるが、要するに広がった谷間の奥が二段になっている地形と思われる。すると「少麻呂」の谷間がそれらしき様子であることが解る。

また頻出の首名=山稜の端の三角州が首の付けのようになっているところと解釈されるが、「少麻呂」の山稜の端かと思われる。三人は、何だか兄弟のような雰囲気ではあるが、それも定かではない。

<紀朝臣雜物・意美奈>
● 紀朝臣雜物

この人物も、名門「紀朝臣」であり、父親が「弓張」、祖父が「大口」という名門中の名門と知られいるようである(こちら参照)。がしかし、「弓張」の近隣は海であり、子を養うのは難しい地と思われる。

更に「物」は、物部に含まれている文字であり、山深い谷間の様子を表す文字と解釈して来た。そんな背景で、どうやら母方の地が出自としたと推測され、名前を頼りに探索することにした。それにしても今では、とても名付けられるような名前ではないのだが・・・別名の佐比物が通称だったのかもしれない。

「雜」=「衣+集」と分解されると解説されている。端切れを寄せ集めた衣を意味するのだそうだが、地形象形的には雜=山稜の端の三角州(衣)が寄り集まった様と解釈される。頻出の物=牛+勿=谷間に多くの山稜が延び出ている様であるが、「勿」の文字形を象った、「物部」の表記と解釈される。

「紀朝臣」の山側を探索すると、それらしき場所が見出せる。『壬申の乱』で天武天皇側の主力部隊を率いた阿閉麻呂の出自の東隣と推定される。何だか、『壬申の乱』繋がりの叙爵の様相である。上記の「丸部臣大石」も同様である。尚、別名の佐比物佐比=谷間にある左手のような山稜が並んでいるところと読み解ける。「物」の谷間を挟んでいる山稜を表していると思われる。

後に紀朝臣意美奈が無位から従五位下を叙爵されて登場する。十年後には”外”の叱咤激励は、やや下火になったようである。意=音+心=内に閉じ込められた様美=羊+大=谷間が広がった様奈=木+示=山稜が高台になっている様と解釈した。すると「雜物」の南側の尾根近傍に、その地形を見出せる。紀朝臣は、途切れれることなく人材輩出のようである。

<笠朝臣三助・道引>
● 笠朝臣三助

「笠朝臣」は、現在の下関市吉見の吉見下、竜王山西麓の地であり、限られた地域でもある。寶皇女(後の皇極/斉明天皇)の出身地が含まれていると推定した。

三助の解釈に些か戸惑うのであるが、助=且+力=山稜が押し積み重ねられた様と解釈すると、三段になったいるように見える地形を表しているのではなかろうか。

すると「垂」一族の南側にある丸く小高くなった山稜の端の形を示していると思われる。現在は樹木が茂り段差の確認は、少々難しいようだが、少なくとも二段目と三段目の境が見られたのであろう。出自の場所は、その南麓の谷間と推定される。

また、調べると息子に笠朝臣道引がいたと知られていることが分かった。道引=首の付け根のような地が引き延ばされているところと読めば、図に示した父親の南側の当たる場所と思われる。續紀中には、ずっと後に従五位下を叙爵されて登場している。

<津嶋朝臣家道-家虫-雄子>
● 津嶋朝臣家道

「津嶋朝臣」については、和銅七(714)年正月に津嶋朝臣眞鎌が従五位下に叙爵され、その後伊勢守に任じられている。津嶋(対馬)も、しっかりと天皇家の支配下に組み込まれたのであろう。

そんな背景で、多分、今回も「眞鎌」の近隣の地からの叙位と推測されるが、結論としては、正にその東隣の地が出自の人物であったことが解った。

頻出の家=宀+豕=谷間にある山稜の端が豚の口のようになっている様、上記と同じの道=辶+首=首の付け根のような様と解釈すると、図に示した場所と推定される。

何故に「家」、「道(首)」を含む名前が多いかが、納得されるところであろう。山稜の端が豚の口になるのは、端が広がって周辺がなだらかになる地形であり、「首」は背後を囲まれて住処として都合が良いからであろう。これらの文字の使用が減じた時が史書の語る舞台が暗転した時と憶測される。

後に津嶋朝臣家虫が従五位下を叙爵されて登場する。虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れている様と解釈すると、「家道」の西側の谷間を表していることが解る。「眞鎌」も含めて親子・兄弟の関係であったと思われるが、記録に残っていないようである。

更に後に津嶋朝臣雄子従五位下を叙爵されて登場する。雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様と解釈した。子=生え出た様であり、図に示した「家道」の北側の山稜の端を表していると思われる。

<葛野臣廣麻呂>
● 葛野臣廣麻呂

「葛野臣」の「葛野」は、勿論地形象形表記であって、その文字が示す地形の場所に基づく名称であろう。山背國の葛野郡ではない、と思われるが、関連情報を少し述べてみよう。

調べると、”左京葛野”と言うのが、この「葛野臣」の本来の名称のようである。となると左京の地にあった「葛野」となり、その地形を探索することになる。

また、左京に「野」と名付けられる地は、限定的であり、新益京のあった、即ち首皇子や井上・阿倍内親王の出自の台地と思われる。

葛=艸+曰+兦+勹=遮られて閉じ込められたような様の地形が、現在の地形図からでも台地の南側に伺えるが、更に航空写真(1961~9年)からより明確に確認される。

廣=四方に広がった様であり、当該の人物の出自は、図に示した辺りと思われる。「葛野臣」としても續紀中に記載されるのは、これが最初で最後であり、伝えられていることは極めて少ないようである。

<葛井連大成・諸會>
● 葛井連大成

「葛井連」は、元は白猪史であり、養老四(720)年に「葛井連」姓を賜っている。寶然(骨)、その後阿麻留が遣唐使、廣成は遣新羅使と大陸との繋がりが深い一族と記載されていた。

今回も、出来の良い人材として叙爵されたのであろう。左図には前出の人物も含めて纏めてみた。

殆ど系譜が知られていないのであるが、父親が道麻呂であった言われている。山麓に道=辶+首=首の付け根のような様の地があり、それを少し下ったところがこの人物の出自の場所と思われる。

更にその先に成=丁+戊=平らに盛り上げられた様の台地が見出せる。大=平らな頂の山麓とすると、図では省略されているが、竜王山が西側に稜線を延ばした地形を表しているのであろう。父親の麓が息子の大成の出自の場所と推定される。

後に葛井連諸會が登場する。職務怠慢でお咎めを受けるが、許されたと記載される(外従五位下を叙爵)。系譜は定かではないようで、名前から出自の場所を求めてみると、諸會=耕地が交差するような地で寄り集まって盛り上がったところと読み解けることから、図に示した場所辺りと推定される。

六月庚午。送渤海使使等拜辞。壬申。水手已上惣六十二人。賜位有差。
秋七月癸丑。從四位下河内王卒。乙夘。勅三品大將軍新田部親王授明一品。

六月五日に渤海の使節を送ってい行く使者等が暇乞いをしている。七日、水手(水夫)以上、全部で六十二人に、それぞれ位階を授けている。

七月十九日に河内王が亡くなっている。二十一日、大将軍の新田部親王に明一品(皇族に与えられる冠位名)を授けている。本記述は、神龜元(724)年二月に「二品新田部親王授一品」と記載されていて、矛盾するように思われるが、詳細は不明である。




 

2021年9月19日日曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(7) 〔544〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(7)


神龜四年(西暦727年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月甲戌朔。廢朝。雨也。丙子。天皇御大極殿受朝。是日。左京職獻白雀。河内國獻嘉禾異畝同穗。庚辰。宴五位已上於朝堂。壬午。御南苑宴五位已上。賚帛有差。乙未。夜。月犯心大星。庚子。授正三位多治比眞人池守從二位。正五位上高安王。正五位下佐爲王。无位船王並從四位下。无位池邊王從五位下。正五位下榎井朝臣廣國正五位上。從五位下平羣朝臣豊麻呂從五位上。正六位上柿本朝臣建石。阿曇宿祢刀。錦部連吉美並從五位下。

正月一日、雨天のため朝賀は廃止されている。三日に大極殿で朝賀を受け、この日、左京職が白雀(王多寳に併記)、河内國が「異畝同穗」の「嘉禾」を献上している。七日に朝堂で五位以上の者と宴を行っている。九日、南苑に出御して五位以上の者と宴を行い、それぞれに帛(絹布)を与えている。二十二日の夜に月が心大星(星座心宿の中央星)を犯している。

二十七日に多治比眞人池守に從二位、高安王佐爲王(狹井王。葛木王に併記)船王(兄弟の御原王・三嶋王に併記)に從四位下、池邊王(父親の葛野王に併記)に從五位下、榎井朝臣廣國に正五位上、平羣朝臣豊麻呂(平父親の平群朝臣子首に併記)に從五位上、柿本朝臣建石(父親の佐留、人麻呂に併記)・「阿曇宿祢刀」・「錦部連吉美」に從五位下を授けている。

<河内國:嘉禾異畝同穗>
河内國:嘉禾異畝同穗

既に「異畝同穗」の瑞祥は、幾度か登場している。文武天皇紀に近江國が献上した例があり、書紀の天武天皇紀では、類似の意味をしめす縵造忍勝が献上した異畝同頴」などがあった。

畝って延びる尾根から二つの山稜が重なるように延び出ている様子を表していると解釈した。その地形を河内國で探すと、図に示した場所が必要な要件を満たしていることが解った。

嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と解釈すると、三つの山稜が寄り集まっている谷間、その地を嘉禾異畝同穗と述べていると思われる。

元正天皇紀に女王を筆頭に多くの女性が叙爵された記事に登場する他田舎人直刀賣の南側に位置する谷間である。谷間の奥深くまで開拓が進展していたことを伝えているように思われる。「他田」の文字列は、古事記で用いられるが、書紀には見当たらない。世間では『六國史』として総称されているようだが、少なくとも日本書紀は外すべきであろう。

<阿曇宿禰刀-大足-石成-夷女>
● 阿曇宿祢刀

「阿曇宿禰」は、直近では養老七(723)年正月に阿曇宿祢坂持が従五位下を叙爵されていた。更に神龜二(725)年六月に関連する和德史龍麻呂が大縣史姓を賜ったと言う記事が載せられていた。

書紀の皇極天皇紀以降に活躍した阿曇連比羅夫などの居処を既に求めたが、左図に示した谷間ではなく、東側の古遠賀湾に面する場所と推定した(こちら参照)。

古事記の伊邪那岐命が禊祓で誕生させた、阿曇連の祖となる墨江之三前大神の場所を出自に持つ人物は登場していなかったようである。それは、三つの揃って並ぶ山稜に挟まれた谷間は、当時は海(汽水)であって、住環境的には厳しい状態であったと推測される。

図に示したように阿曇宿祢刀、後に阿曇宿祢大足、更に後(淳仁天皇紀)に安曇宿祢石成及び安曇連夷女が従五位下を叙爵されて登場する。[炎]のように延びた三つの山稜の西端が「夷女」、真ん中が「刀・大足」、そして東端が「石成」の出自の場所と推定される。

續紀の時代になって漸く人々が住まうことができるようになったのではなかろうか。古事記の”神話”のような記述が次第に現実の世界へと広がって行く様子が伺える、かのようである。

<錦部連吉美-男笠・錦部河内>
● 錦部連吉美

「錦部連」については、文武天皇紀の遣唐使節団の一員として錦部連道麻呂が登場し、後の元明天皇紀に従五位下に叙爵されていた。

「錦」が現在の行橋市にある幸ノ山を表し、その近傍として「部」が付加された名称と解釈した。椿市小学校の南側に位置する場所と推定された。

吉美もその近隣と思われるが、採石によって地形が大きく変化していることが分った。と言うことで、国土地理院写真(1961~9年)から当時の地形を推測してみることにした。

すると道麻呂の南側は、深い谷間となっていたことが分った。現在は、山林が広がった様相なのであるが、年度別写真を見ると、1970~80年代にかけて盛んに採石され、その後終息したように伺える。

昭和三十年代後半からの高度成長期と言われる時代の前後の地形変化は、凄まじかったのであろう。正に国土が変形した時である。国土地理院写真(1961~9年)は、極めて貴重な記録である。

ともあれ、頻出の吉=蓋+囗=山稜が蓋をするように延びている様美=羊+大=谷間が広がる様であり、写真から分かるように谷間の出口辺りに蓋のように延びる山稜が確認される。近淡海の取り巻く地域の中で早くから開けた地だったと思われる。

後に錦部連男笠が登場する。態度が不遜とされて解職されている。その後の消息は不明のようであるが、出自の場所は、すっかり山が削られて抹消されてしまった感じである。航空写真で辛うじて、男=男のような地形、その先端がのような形をしていたと推測される。

更に後(孝謙天皇紀)に踏歌の歌頭を務めた錦部連河内が外従五位下を叙爵されて登場する。續紀には、その後も幾度か登場し(連姓)、最終内位の従五位上を授けられている。河=氵+可=水辺の谷間の出口と解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。

二月壬子。造難波宮雇民免課役并房雜徭。丙辰。夜雷雨大風。兵部卿正四位下阿倍朝臣首名卒。辛酉。請僧六百。尼三百於中宮。令轉讀金剛般若經。爲銷災異也。甲子。天皇御内安殿。詔召入文武百寮主典已上。左大臣正二位長屋王宣勅曰。比者咎徴荐臻。災氣不止。如聞。時政違乖。民情愁怨。天地告譴。鬼神見異。朕施徳不明。仍有懈缺耶。將百寮官人不勤奉公耶。身隔九重。多未詳委。宜令其諸司長官精擇當司主典已上。勞心公務清勤著聞者。心挾姦僞不供其職者。如此二色。具名奏聞。其善者量与昇進。其惡者隨状貶黜。宜莫隱諱副朕意焉。是日。遣使於七道諸國。巡監國司之治迹勤怠也。丙寅。詔曰。時臨東作。人赴田疇。膏澤調暢。春事既起。思九農之方茂。冀五稼之有饒。順是令節。仁及黎元。宜賜京邑六位已下至庶人戸頭人塩一顆。穀二斗。

二月九日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)の造営に動員された雇役の民には、課役と房(戸)の雑徭を免じている。十三日の夜に雷雨と大風があった。この日、阿倍朝臣首名が亡くなっている。十八日、災異を防ぐために僧六百人と尼三百人を中宮に招いて、金剛般若經を転読させている。

二十一日に天皇が内安殿に出御して、文武の百寮の主典以上を招き入れている。左大臣の長屋王が次のように勅を述べている。此の頃天の咎めの印が頻りに至り、災いの気配が止まらない。聞くところによれば時の政治が道理に背き、民の心が愁い怨むようになると、天地は譴責の意を表し、鬼神は異常を表すと言う。朕が德を施すことが顕著でなく、そのために怠りを欠くことがあるためであろうか。または百寮の官人が奉公に勤めない為であろうか。朕は九重の奥に離れて暮らしているので、未だ理由を詳らかにしえない事が多い。諸司の長官に命じて、各官司の主典以上について、心を公務にくだき勤務状況の善い者と、心に偽りを抱いてその職務を全うしない者との二種類を選び、その名を記して奏上させることとする。その上で良い者は功績をはかって昇進させ、悪い者は、その行状に応じて官位を下降させるであろう。各長官は状況を隠しはばかることなく、朕の意にそうように努めよ、と述べている。この日、使者を七道諸國に遣わして、國司の治政・勤務状況とを巡監させている。

二十三日に以下のように詔されている。概略は、時候は春の農事に当たり、人々は田畑に赴いている。気候は調和してのどかであり、春の農事は既に行われている。朕は、九農(郡司や里長)の仕事の繁忙を思いやり、かつ五穀の豊作を願っている。この良い季節に同調して仁慈を民に及ぼそうと思う。京都の六位以下の官人から庶民の戸主に至るまで、各人に塩・穀を賜うようにせよ、と述べている。

三月乙亥。百官奉勅。上官人善惡之状。乙酉。天皇御正殿。詔賜善政官人物。最上二位絁一百疋。五位已上絁卌疋。六位已下廿疋。次上五位以上廿疋。六位以下一十疋。其中等不在賜例。下等皆解黜焉。甲午。天皇御南苑。參議從三位阿倍朝臣廣庭宣勅云。衛府人等。日夜宿衛闕庭。不得輙離其府散使他處。因賜五衛府及授刀寮醫師已下至衛士布。人有差。丁酉。熒惑入東井西亭間。
夏四月乙巳。散位從四位下上道王卒。

三月三日に百官は上記の勅に従って、官人の善悪に関する報告書を奉っている。十三日に天皇は正殿に出御して、善政を施した官人に禄物を与えている。最上と判定された二位の者、五位以上の者、六位以下の者、次上と判定された五位以上の者、六位以下の者に、それぞれ絁を賜っている。中等と判定された者は禄物を賜う扱いには入れられなかった。下等と判定された者は、全て職を解き放たれている。

二十二日に天皇は南苑に出御し、参議の阿倍朝臣廣庭(首名に併記)が勅して、五衛府に勤める人々は日夜宮廷を宿衛するため、たやすく衛府を離れて他処に使役されてはならない。そういう激務であるから五衛府と授刀寮の医師以下、衛士に至るまで人々に麻布を、それぞれに与えることにする、と述べている。二十五日、熒惑(火星)が東井(二十八宿の一つである現ふたご座の東方部)の西亭の門に入っている。

四月三日に散位の上道王(穂積親王の子)が亡くなっている。

五月壬申朔。日有蝕之。乙亥。幸甕原離宮。丙子。天皇御南野榭。觀餝騎騎射。丁丑。車駕至自甕原宮。辛夘。從楯波池。飄風忽來。吹折南苑樹二株。即化成雉。
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。
八月壬戌。補齋宮寮官人一百廿一人。
九月壬申。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉。庚寅。渤海郡王使首領高齊徳等八人。來着出羽國。遣使存問。兼賜時服。
閏九月丁夘。皇子誕生焉。

五月一日に日蝕があったと記している。四日、甕原離宮に行幸され、五日に宮の南の野にある屋根のある高台で飾りを付けた騎兵の騎射を観覧している。六日に甕原宮から帰還されている。二十日、楯波池(元正天皇の和風諡号に併記)からつむじ風がにわかに吹き寄せて、南苑の樹木二本が折れ、そのまま化して雉となった、と記載している。

「楯波」(谷間を塞ぐように延びた山稜の端)の「波(ナミ)」と読んで、「多多那米弖 伊那佐」(”楯を並べたような”は伊那佐に掛かる枕詞)と解釈したくなるのだろうが、肝心の「伊那佐」が浮かばず、ってところであろう。波=端(水辺で山稜の端が覆い被さるように延びている様)を表す地形象形表記である。南苑で倒れた木が矢のような鳥に見えたのであろうか?・・・。

七月二十七日に「筑紫諸國」の庚午の年の戸籍七百七十巻に、太政官の印を捺している。「筑紫諸國」は前出の筑紫七國を引き継いだ表記であろう。ただ、その後幾つかの國が加えられているが、曖昧な部分を「諸」で表現したように思われる。

八月二十三日に齋宮寮に勤務すべき官人百二十一人を任命している。

九月三日に「井上内親王」(聖武天皇の皇女、母親は縣犬養廣刀自)を派遣し、齋宮として伊勢大神宮に侍らせている。二十一日に「渤海郡王」の使者、高斉德等八人が「出羽國」に来着している。朝廷は使者を派遣して慰問し、また時節に合った服装を賜っている。

「渤海郡王」については、Wikipediaに…現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家(698-926年)・・・「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった…と記載されている。

出羽國に来着したとは、一見、日本海を挟んで対岸にあるから、と錯覚させられるが、海上千キロ余りを無寄港で使者を送れたとは、あり得ないことであろう。現中国東北部からは”朝鮮半島東岸”に沿って南下するならば、新羅の案内人を雇ったのではなかろうか。新羅の正使以外は、肅愼國へのルート、即ち関門海峡を通ることになる。その途中の出雲國(現北九州市門司区大里)上陸を経て、現在の鹿喰峠を越えれば出羽國に届く。二百年余り存続した国で、その後も頻繁に来朝している。興味深いところではあるが、いずれまた調べてみよう(下記参照)。

閏九月二十九日に皇子が誕生している。一歳未満で夭逝したと伝えられている。名前は「基王」と言われるが、「親王」とされていないことから誤りとの説もあるとのこと。「基」=「其+土」の地形も見当たらず、のようである。

● 井上内親王・阿倍内親王 文武天皇の皇子である首皇子の出自の場所は、既に下図の左側のように求めた。新益京の台地の端に窪んだところが一ヶ所見出せたのであるが、些か「首」の地形とは異なるかも、と思いながら他に適当な地形は確認されなかった(こちら参照)。そうこうする内に、いよいよ天皇として即位したわけで、后、御子が登場する時代になったようである。

<首皇子・井上-阿倍内親王>

最初に「井上内親王」(後に光仁天皇の皇后)、その後に孝謙天皇(重祚して偁徳天皇)として即位する「阿倍内親王」が登場することになる。彼女等の出自の場所は如何?…やはり国土地理院写真(1961~9年)の参照すると、全く地形が変わってしまっていることが分った。「首」の形は明確であり、前記で「首」らしきとした場所は「井」(四角く取り囲まれた様)であり、その上の台地が井上(イガミ)内親王の出自の場所と推定される。

阿倍内親王に含まれる頻出の倍=人+咅=谷間にある咅(花のつぼみ)のような様であり、三つに岐れた真ん中の膨らんだ山稜を表していると解釈した。「首」の西側の山稜を示している。尚、阿部内親王の母親は縣犬養宿禰美千代の安宿媛(光明子、光明皇后)である。

後に即位して「孝謙天皇」、更に重祚して「称徳天皇」と称されるのであるが、續日本紀では高野天皇と表記される。高野=皺が寄ったように山稜が広がっているところと読み解ける。「阿倍」の別表記である。

冬十月庚午。安房國言。大風抜木發屋。損破秋稼。上総國言。山崩壓死百姓七十人。並加賑恤。癸酉。天皇御中宮。爲皇子誕生。赦天下大辟罪已下。又賜百官人等物。及天下与皇子同日産者。布一端。綿二屯。稻廿束。甲戌。王臣以下。至左右大臣舍人。兵衛。授刀舍人。中宮舍人。雜工舍人。太政大臣家資人。女孺。賜祿各有差。」以從三位阿倍朝臣廣庭爲中納言。

十月二日に安房國が、「大風が吹いて樹木を倒し家屋を破壊した。秋の収穫に損害を与えた」、また上総國が、「山崩れによる圧死者が七十人を数えた」と言上している。両國に物を恵み与えている。五日に天皇が中宮に出御して、皇子誕生を祝って大辟罪(死罪)以下の罪を免じている。また百官の人らに物を賜り、更に皇子と同日に生まれた者全てに麻布・真綿・稲を与えている。

文武天皇即位二(698)年にも、下総國が大風で被害にあったことが記載されていた。風の通り道の地形では?…と考察したが、確かに忘れた頃にやって来る災害だったのであろう(こちら参照)。

六日に親王以下、左右の大舎人、兵衛、授刀舎人、中宮舎人、雑工舎人、太政大臣家の資人、女孺(後宮の雑事担当)に至るまで、それぞれに物を賜っている。この日、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)を中納言に任じている。

十一月己亥。天皇御中宮。太政官及八省各上表。奉賀皇子誕育。并獻玩好物。是日。賜宴文武百寮已下至使部於朝堂。五位已上賜綿有差。累世之家嫡子身帶五位已上者。別加絁十疋。但正五位上調連淡海。從五位上大倭忌寸五百足。二人年齒居高。得入此例焉。詔曰。朕頼神祇之祐。蒙宗廟之靈。久有神器。新誕皇子。宜立爲皇太子。布告百官。咸令知聞。庚子。僧綱及僧尼九十人上表。奉賀皇子誕生。施物各有差。乙巳。南嶋人百卅二人來朝。叙位有差。辛亥。大納言從二位多治比眞人池守引百官史生已上。拜皇太子於太政大臣第。丙辰。賜宴於五位已上并无位諸王。祿各有差。戊午。賜從三位藤原夫人食封一千戸。

十一月二日に天皇が中宮に出御している。太政官と八省は書状を進めて皇子の誕生と生育を祝賀し、併せて皇子のための玩具を献じている。この日、文武の百官から使部までを朝堂に招き宴を行い、五位以上の者にはそれぞれ真綿を賜っている。代々の名家の嫡子で五位以上の位を帯びる者には、別に絁を加賜している。ただ、調連淡海(調首淡海)大倭忌寸五百足の二人は高年齢のため、名家ではないが、加賜の例に預かっている。

天皇は以下のように詔されている。朕は神の助けにより、また祖宗の霊のおかげを蒙り、久しく皇位のしるしの神器を保持しており、新たに皇子の誕生に恵まれた。この皇子を皇太子に立てることにする。このことを百官に布告して皆に知らしめよ、と述べられている。

三日に僧綱と僧尼九十人が書状を進めて皇子の誕生を祝賀し、それぞれに物を賜っている。八日に南嶋(多褹・夜久・菴美・度感等)の人、百三十人が来朝し、それぞれに位階を授けている。十四日に大納言の多治比眞人池守は、百官の史生以上の者を率いて太政大臣の邸宅(故不比等の邸、光明皇后はここで出産した)に赴き、皇太子を拝している。十九日、五位以上の官人と無位の諸王との宴を行い、それぞれに禄を与えている。二十一日に藤原夫人(光明皇后、藤原朝臣不比等と橘宿禰三千代との子)に食封一千戸を賜っている。

十二月丁丑。勅曰。僧正義淵法師。〈俗姓市往氏也。〉禪枝早茂。法梁惟隆。扇玄風於四方。照惠炬於三界。加以。自先帝御世。迄于朕代。供奉内裏。無一咎愆。念斯若人。年徳共隆。宜改市往氏。賜岡連姓。傳其兄弟。」正三位縣犬養橘宿祢三千代言。縣犬養連五百依。安麻呂。小山守。大麻呂等。是一祖子孫。骨肉孔親。請共沐天恩。同給宿祢姓。詔許之。丁亥。先是遣使七道。巡検國司之状迹。使等至是復命。詔依使奏状。上等者進位二階。中等者一階。下等者破選。其犯法尤甚者。丹後守從五位下羽林連兄麻呂處流。周防目川原史石庭等除名焉。授正六位上背奈公行文從五位下。」渤海郡王使高齊徳等八人入京。丙申。遣使賜高齊徳等衣服冠履。渤海郡者舊高麗國也。淡海朝廷七年冬十月。唐將李勣伐滅高麗。其後朝貢久絶矣。至是渤海郡王遣寧遠將軍高仁義等廿四人朝聘。而着蝦夷境。仁義以下十六人並被殺害。首領齊徳等八人僅免死而來。

十二月十日に以下のように詔されている。概略は、僧正の「義淵法師」は、若くして仏法の奥義を究め、僧中の棟梁となった。深遠なる道を四方の人に勧め、法の炬(ともしび)を三界に流転する人々に示し、先帝の御世より朕の代に至るまで内裏に仕えて一の咎、誤りもなかった。思うにこのような人は、年をとると共に人徳も増している。人の師として賞すべきであり、「市往」氏を改めて「岡連」姓を賜い、兄弟等にその姓を伝えさせよ、と述べている。

この日、縣犬養橘宿祢三千代が次のように言上している。「縣犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂」等は祖先を同じくする子孫であり近親者である。そこで天皇の御恩より宿祢姓を賜りたく思う、と述べ、これが許されている。なんたって、皇太子を出産した皇后の母親、無敵であろう。

二十日、以前に使者を七道諸國に派遣して、國司の治政状況を監察させた。使者等がその報告書を提出している。天皇は詔して、使者の報告に随い、上等の者は二階、中等の者は一階を進ませ、下等の者は、当期の昇進査定を破棄することにしている。最も甚だしく法を犯した丹後守の羽林連兄麻呂(角兄麻呂)を流罪に処し、周防國の目の川原史石庭(河原史子虫に併記)等は除名(官職位階の剥奪)に処せられた。この日、背奈公行文(高麗系渡来人)従五位下を授けている。また渤海郡王の使者等が入京している。

二十九日に使者を遣わして高斉德等に衣服と冠・履物を賜っている。渤海郡は元の高麗國である。淡海朝廷(天智天皇)の七(668)年十月、唐の将軍李勣は高麗を打ち滅ぼした。その後この國の朝貢が久しく途絶えていた。ここに至って渤海郡王は、寧遠將軍の高仁義等二十四人を朝廷に派遣したが、蝦夷との境の地に到着したため仁義等十六人が殺害され、首領(身分の一つ)の高斉德等八人がようやく死を免れて来朝した、と記載している。

蝦夷が殺害したように錯覚させられる記述であるが、上記したルートで侵入したなら、出雲國辺りで迎え撃ちにあったのかもしれない。谷間の奥に逃げ延びた先が出羽國となる。季節に合った衣服、と言うよりも身包み剥がされていたのかもしれない。出雲の住人にすれば、あわや敵襲であり、言葉も通じない異人の侵入事件だったのであろう。

● 義淵法師 義淵法師は、文武天皇即位三(699)年十一月の記事に「施義淵法師稻一万束。襃學行也」として登場していた。情報少なく、その出自の場所を求めていなかったが、ここで他の情報も調べ直して述べることにする。上記にもあるように俗姓は「市往」、また「阿刀」(高市郡)とも言われている。幼少期は、岡本宮で天武天皇の皇子等と共に過ごし、庶民の子としては恵まれた環境だったのであろう。

<義淵法師・岡連>

俗姓の市往に含まれる「市」=「山稜が寄り集まっている様」は頻出であるが、「往」は、多分、初登場であろう。「往」=「彳+王+止(足)」と分解されると解説されている。音の「オウ」からも「王」が根幹となる文字と思われる。「王」=「大きく広がった様」と解釈して来たことから「往」=「大きく広がった山稜が延びている様」と解釈される。纏めると市往=大きく広がった山稜が延びて寄り集まったところと読み解ける。

すると、書紀に登場した穴戸國司草壁連醜經の居処近隣、あるいは『壬申の乱』で大将軍吹負が苦い敗戦を味わった後、軍勢を立て直した高市縣の北辺に当たる金綱井と記載された場所を表していることが解る。上図の右側の国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、「市往」の地形がより明確であると思われる。更に、異説にある俗姓阿刀も中央の山稜の形を示していて、この一族は二つの俗姓を用いていたのではなかろうか。

賜った岡連岡=网+山=谷間に囲われた山稜が延びている様と解釈したが、「市往」の地形そのものを表している名称と思われる。また幼少期を過ごした「岡本宮」の「岡」も重ねられていたのであろう。また、金綱井が登場した時には、「金綱」の傍らに「井」があるところと読んだが、地形図と写真を見合わせると、「綱」に「井」があったことが解った。その特徴的な地形を捉えていたのである。

更に綱=糸+岡と分解して解釈したが、「岡」の文字が含まれていたのである。地形と、それを表す漢字の対応は、想像を遥かに超えた精緻さを有していたことが分る。事情によって、それを有耶無耶にしなければならなかった。何とも悲しい現実が待ち受けているようである。

最後になったが、義淵義=羊+我=谷間がギザギザとしている様と解釈した。「刀」の西側の谷間を表していると思われる。その谷間の先が現在の金辺川が大きく蛇行してを形成していたのであろう。法師の出自の場所と推定される。

<縣犬養連五百依-安麻呂-小山守-大麻呂>
● 縣犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂

縣犬養橘宿禰三千代の父親、東人の谷間を出自に持つ人物は登場していなかったが、ここで一気にお目見えの様相である。勿論、祖先を同じくする子孫であろう。

五百依五百=小高いところが交差するような様依=人+衣=谷間にある山稜の端の三角州と解釈した。図に示したように小高い山稜の端が交差するようになっているところを表していると思われる。

頻出の安麻呂は、その谷間の奥を示していると思われる。小山守の小山は、図に示した三角形の頂を持つ山を表し、その麓が守=宀+寸=谷間で肘を張ったように山稜で囲まれた様の場所が出自と思われる。大麻呂は、大=平らな頂の麓と解釈すると「小山守」の南側の谷間辺りと推定される。

何とも、すっぽりと収まった感じである。「橘」(橘大郎女)の地からは、かなり奥まった谷間となる。地図では確認し辛いが、この地そのものが橘=多くの谷間(川)が寄り集まる様の地形を有していたように思われる(こちら参照)。目出度し、であろう。