天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(9)
神龜五年(西暦728年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
八月甲午。詔曰。朕有所思。比日之間。不欲養鷹。天下之人。亦宜勿養。其待後勅。乃須養之。如有違者。科違勅之罪。布告天下。咸令聞知。是日。勅始置内匠寮。頭一人。助一人。大允二人。少允二人。大属一人。少属二人。史生八人。使部已下雜色匠手各有數。」又置中衛府。大將一人。〈從四位上。〉少將一人。〈正五位上。〉將監四人。〈從六位上。〉將曹四人。〈從七位上〉府生六人。番長六人。中衛三百人。〈號曰東舍人。〉使部已下亦有數。其職掌常在大内。以備周衛。事並在格。」正五位下守部連大隅上書乞骸骨。優詔不許。仍賜絹一十疋。絁一十疋。綿一百屯。布卌端。甲申。勅。皇太子寢病。經日不愈。自非三寳威力。何能解脱患苦。因茲。敬造觀世音菩薩像一百七十七躯并經一百七十七卷。礼佛轉經。一日行道。縁此功徳。欲得平復。又勅。可大赦天下。以救所患。其犯八虐及官人枉法受財。監臨主守自盜。盜所監臨。強盜竊盜得財。常赦所不免者。並不在赦限。壬申。太政官議奏。改定諸國史生博士醫師員并考選叙限。史生大國四人。上國三人。中下國二人。以六考成選。滿即与替。博士醫師以八考。成選。但補博士者。惣三四國而一人。醫師毎國補焉。選滿与替。同於史生。語並在格。丙戌。天皇御東宮。縁皇太子病。遣使奉幣帛於諸陵。丁夘。太白經天。
八月一日(甲子朔の誤りか?)に以下のように詔されている。朕は思うところがあって鷹を飼うことに気が進まない。天下の人もまた、鷹を飼わないようにすべきと思う。鷹の飼育は勅が出るまで待つことにせよ。もし違反者が出れば違勅の罪を科せ。全国に布告して知らしめよ、と述べている。
この日、勅を下して初めて内匠寮を設置し、頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大属一人、少属二人、史生八人と定めている。使部伊以下、各種の匠手(技術者)も置かれている。また、中衛府を新設し、大将(従四位上)一人、少将(正五位上)一人、将監(従六位上)四人、将曹(従七位上)四人、府生六人、番長六人、中衛三百人(東舎人とも言う)を置いている。使部以下も若干名置かれている。その職掌は常に内裏にあって天皇の周囲を護衛することである。詳細は挌に記載されている。
「守部連大隅」が書状を奉って引退を願い出ているが、天皇の手厚い詔があって許されず、絹・絁・真綿・麻布を賜っている。前記で「守部連」姓は、明經第一博士の鍛冶造大隅(鍜造大角)が賜っている。
二十一日に以下のように勅されている。皇太子の病気は日数を経ても平穏しない。仏法僧の三宝の力を頼らなければならない。そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体を造り、併せて経典を転読して一日行道を行いたいと思う。この功徳によって恢復期待したい。
また、全国に大赦の令を下して病気を癒すようにしたい。但し、八虐を犯した者、官人にして収賄して法を曲げた者、監督して支配管理する立場にある者が自ら盗みを犯した者、監督下にある者を盗んだ場合、強盗と窃盗により財物を得た場合、常の恩赦では許されない犯罪等は、いずれも赦しの適用から除外する、と勅されている。
九日に太政官の審議・上奏により、諸國の史生・博士・医師の定員と、昇進に必要な審査の年限を改定している。史生は大國に四人、上國に三人、中・下國に二人を置き、六年間の勤務成績をみて昇進の可否を審査し、六年を過ぎれば解職交替させる。また博士と医師は、八年間の成績をみて昇進の可否を審査する。但し、博士は三、四ヶ國に一人を任命し、医師は國ごとに任じる。八年経過すれば解任交替させることは、史生と同じである。詳細は挌に記載されている。
二十三日に天皇が東宮に出御している。諸陵に使者を派遣して幣帛を献じさせている。四日に太白(金星)が天を渡っている。本条、日付の混乱が頻発しているようである。皇太子の病状が思わしくなく、天皇家の狼狽え振りを映しているのか?・・・。
九月丙午。皇太子薨。壬子。葬於那富山。時年二。天皇甚悼惜焉。爲之廢朝三日。爲太子幼弱。不具喪禮。但在京官人以下及畿内百姓素服三日。諸國郡司。各於當郡擧哀三日。壬戌。夜流星。長可二丈。餘光照赤。四斷散墮宮中。
九月十三日に皇太子が亡くなっている。十九日、「那富山」に葬っている。年齢は二歳であった。天皇はたいそう悼み愛惜し、そのため朝務廃止が三日に及んでいる。皇太子は幼少であったので、通常の葬儀は行われていない。ただ在京の官人以下朝廷に仕える人らと畿内の百姓等は白い喪服を三日間つけた。諸國の郡司等はそれぞれの郡で哀しみの声を挙げる礼を三日間行っている。二十九日の夜、流星が見え、長さ二丈余りで赤く光る尾を引き、最後に四つに切れて散り散りになって宮中に落ちている。
何の修飾もなく記載された山の名前であるが、おそらく平城宮を取り囲む山々の一つではなかろうか。既出では、宮の鬼門、東北の方角に当たると推定した盖山があった。
また、記紀・續紀ではないが、持統天皇の万葉歌に登場する香來山、藤原宮の東の山稜にあったと読んだ山が思い出せる。
頻出の「那」=「冄+邑」=「しなやかに曲がる様」と解釈した。那賀などで用いられている。「富」=「宀+畐」と分解される。古事記では頻出の文字であり、「富」=「國境に向かう谷間の坂」と紐解いた。
これは古事記独特の解釈であって、勿論重要な根拠があるのだが、やはり、素直に地形象形表記として解釈するべきであろう。ならば、「富」=「谷間にある酒樽のような様」となる。類似の文字では福草に含まれる「福(示+畐)」などがあった。
纏めると那富山=谷間にあるしなやかに曲がる酒樽のような山と読み解ける。上記の「盖山」と「香來山」の間にある山の地形を表していることが解る。前記で白龜を見つけた「紀朝臣家」の「朝」が示す場所でもあり、「朝」に含まれる「太陽」の地形である。
横道に逸れるが、古事記は那良と記載するが、大和では「奈良」となる。「奈」=「木+示」=「山稜が高台となっている様」となり、「那」=「しなやかに曲がる様」を暈した表記となる。上記の「那富山」も「奈保山」(参考資料では「那保山」)に換えられているようである。上図に示したように”酒樽がしなやかに曲がっている”という極めて特徴的な地形表現が曖昧にされたまま現在に至っているのである。
冬十月壬午。僧正義淵法師卒。遣治部官人監護喪事。又詔賻絁一百疋。絲二百絇。綿三百屯。布二百端。
十一月癸巳朔。雷。乙未。以從四位下智努王。爲造山房司長官。壬寅。制。衛府府生者兵部省補焉。乙巳。冬至。御南苑。宴親王已下五位已上。賜絁有差。庚辰。擇智行僧九人。令住山房焉。
十二月己丑。金光明經六十四帙六百卌卷頒於諸國。國別十卷。先是。諸國所有金光明經。或國八卷。或國四卷。至是寫備頒下。隨經到日。即令轉讀。爲令國家平安也。
十月二十日に僧正の義淵法師が亡くなっている。治部官人を遣わして喪事を監督・護衛させている。また絁などを贈り弔っている。「義淵法師」の補足だが、「龍」が付く名称の寺を創建し、平安時代には『龍調伏伝説』が広く流布していたとのことである。現在も多くの「龍▢寺」があるが、由来に関連するのかもしれない。
十一月一日に雷が鳴っている。三日に智努王を造山房司(皇太子のための山寺造営)の長官に任命している。十日に衛府の府生は兵部省が補選する、と制定している。十三日は冬至であり、南苑に出御されて親王以下五位以上と宴を行い、それぞれに絁を賜っている。二十八日に知恵と戒行に優れた僧九人を山房に住まわせている。
十二月二十八日に金光明經六十四部計六百四十巻を諸國に配布している。元々諸國にある金光明經は八巻であったり、四巻であったりしたが、写経をして備えさせている。經の到着次第に転読させ、國家平安とするためである。
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天平元年春正月壬辰朔。宴羣臣及内外命婦於中宮。賜絁有差。戊戌。饗五位以上於朝堂。壬寅。正四位上六人部王卒。丁未。勅。孟春正月。万物和悦。宜給京及畿内官人已下酒食價直。并餔一日。壬子。詔。五位以上高年不堪朝者。遣使就第慰問兼賜物。八十已上者。絁十疋。綿廿屯。布卅端。七十已上者。絁六疋。綿十屯。布廿端。
天平元年(西暦729年)正月一日に群臣及び内外の命婦を中宮に招いて宴を行い、それぞれに絁を賜っている。七日に五位以上の官人を朝堂に招き、饗宴を行っている。十一日、六人部王が亡くなっている。十六日に、春の初めの正月は万物が和合し喜悦に溢れている。朕は京と畿内の官人以下の人々に酒食の代価を与え、併せて一日おおいに飲食させるであろう、と勅されている。
二十一日に以下のように詔されている。概略は、五位以上の官人で高齢のため参朝できない者については、その邸に使者を派遣して慰問し、併せて、八十歳以上の者、七十歳以上の者にそれぞれ絁・真綿・麻布を与えている。
二月辛未。左京人從七位下漆部造君足。无位中臣宮處連東人等告密。稱左大臣正二位長屋王私學左道。欲傾國家。其夜。遣使固守三關。因遣式部卿從三位藤原朝臣宇合。衛門佐從五位下佐味朝臣虫麻呂。左衛士佐外從五位下津嶋朝臣家道。右衛士佐外從五位下紀朝臣佐比物等。將六衛兵。圍長屋王宅。壬申。以大宰大貳正四位上多治比眞人縣守。左大辨正四位上石川朝臣石足。彈正尹從四位下大伴宿祢道足。權爲參議。巳時。遣一品舍人親王。新田部親王。大納言從二位多治比眞人池守。中納言正三位藤原朝臣武智麻呂。右中弁正五位下小野朝臣牛養。少納言外從五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等。就長屋王宅窮問其罪。癸酉。令王自盡。其室二品吉備内親王。男從四位下膳夫王。无位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自經。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士兵衛等府。甲戌。遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山。仍勅曰。吉備内親王者無罪。宜准例送葬。唯停鼓吹。其家令帳内等並從放免。長屋王者依犯伏誅。雖准罪人莫醜其葬矣。長屋王天武天皇之孫。高市親王之子也。吉備内親王日並知皇子尊之皇女也。丙子。勅曰。左大臣正二位長屋王。忍戻昏凶。觸途則著。盡慝窮姦。頓陷踈網。苅夷姦黨。除滅賊惡。宜國司莫令有衆。仍以二月十二日依常施行。戊寅。外從五位下上毛野朝臣宿奈麻呂等七人。坐与長屋王交通並處流。自餘九十人悉從原免。己夘。遣左大辨正四位上石川朝臣石足等。就長屋王弟從四位上鈴鹿王宅。宣勅曰。長屋王昆弟姉妹子孫及妾等合縁坐者。不問男女。咸皆赦除。是日。百官大祓。壬午。曲赦左右京大辟罪已下。并免縁長屋王事徴發百姓雜徭。又告人漆部造君足。中臣宮處連東人並授外從五位下。賜食封卅戸。田十町。漆部駒長從七位下。並賜物有差。丁亥。長屋王弟姉妹并男女等見存者。預給祿之例。
二月十日に左京の住人である「漆部造君足」と「中臣宮處連東人」等が「左大臣の長屋王は密かに左道(不正の道、妖術)を修得し、それにより国家を倒そうとしている」と密告している。その夜、使者を三關(鈴鹿・不破・愛發)に派遣して固守させている。また、このために式部卿の藤原朝臣宇合、衛門佐の佐味朝臣虫麻呂、左衛士佐の津嶋朝臣家道、右衛士佐の紀朝臣佐比物(雜物)等を派遣し、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸宅を包囲させている。
十一日に大宰大弐の多治比眞人縣守、左大弁の石川朝臣石足、弾正尹の大伴宿祢道足の三人を仮に参議に任じている。巳の時(午前十時前後)に、舎人親王と新田部親王、大納言の多治比眞人池守、中納言の藤原朝臣武智麻呂、右中弁の小野朝臣牛養(毛野に併記)、少納言の巨勢朝臣宿奈麻呂(少麻呂)等を長屋王の邸宅に派遣して、その罪を追求し尋問させている。
そこで邸宅に残る人々をみな捕らえて左右の衛士府や兵衛府などに監禁している。尚、長屋王の他の息男についてはこちら参照。
そこで以下のように勅されている。吉備内親王には罪がないから前例により送葬せよ。ただ太鼓や笛は止めよ。長屋王の家令・帳内等は共に放免する。長屋王は犯した罪により誅罰を受けたのであるから罪人に准じるとはいえ、皇族である以上その葬り方を醜いものにしてはならない、と述べている。長屋王は天武天皇の孫、高市親王の子である。吉備内親王は日並知皇子尊(草壁皇子)の皇女である。
十五日に、以下のように勅されている。左大臣の長屋王は、残忍凶悪な人柄であったが、その穢れがそのまま表れ、邪なことをやりつくして、にわかに法網にかかった。そこで王にくみする悪党を除去し姦賊を滅ぼそうと思う。國司はその一味を見逃してはならない、と述べている。そこで二月十二日付で常例に従って上記のことを行わせている。
十七日に上毛野朝臣宿奈麻呂等七人は、長屋王と意志を通じていたことを咎められ、いずれも流罪に処せられている。その他の九十人は皆放免されている。十八日に左大弁の石川朝臣石足等を、長屋王の弟の鈴鹿王の邸宅に遣わし、以下のように勅を述べさせている。「長屋王の兄弟姉妹と子・孫、それに妾等のうち、連座して罰せられるべき者たちは、男女を問わずすべて赦免する。」この日、百官等は大祓を行っている。
二十一日に左京・右京の死罪以下の罪人を赦免している。併せて長屋王事件のために動員された百姓の雜徭を免除している。また、告発した「漆部造君足」と「中臣宮處連東人」に外従五位下を授け、封戸三十戸、田十町を賜っている。「漆部駒長」には従七位下を授けている。いずれも身分に応じて物を賜っている。二十六日、長屋王の弟・姉妹と子供等のうち生存する者には、禄を給することが認められている。
● 漆部造君足・漆部駒長
左京人と中臣一族の密告者二名と、後の褒賞から、その一味と思われる計三名の名前が挙げられている。先ずは、左京人、おそらく北部と思われるが、先ずは、名前から読み解いてみよう。
「漆部」は、直近では元正天皇紀に「漆部司」で登場し、保管されている「漆」を盗んで流罪となった父親、丈部路忌寸石勝を幼い子等が救った逸話が記載されていた。
明らかに「漆」そのものを示すのだが、「漆部司」に勤めているから名前に「漆部」とする、のではないことも判る。
従来より記紀・續紀を通じて、「〇〇部」の名前は〇〇部所属の人と解釈されているが、全くの誤りであることを、実にさりげなく記述しているのである。『朝日日本歴史人物事典』にある漆部の解説は、混乱を記しているだけであろう。
前置きが長くなったが、「漆部」は既出の文字列であって、書紀に漆部諸兄・友背が登場している。物部一族であり、その地に彼等の出自の場所を求めることができる。「漆」=「氵+桼」と分解し、「桼」=「漆を採取する様」を象った文字と知られている。漆部=長い谷間に山稜が交差するように延び出ているところと解釈した。
漆部造君足の「漆部」は、勿論、物部の地ではなく、左京の北部、図に示した谷間と推定される。君足=山稜が区切られて小高く延びているところと読み解ける。谷間の南端に突き出た山稜を表していると思われる。駒長の「駒」は「馬の古文字の地形」と解釈される。それが長く延びたように見える谷間の奥と思われる。駒長=馬の形の山稜が長く延びたところと読み解ける。
また、この馬の頭部は、書紀で登場した膽駒山となる。上記では「生馬山」と記述されている。即ち、この「駒」が延びたところと解釈することも可能であろう。重ねた表記でこの人物の所在を表していると思われる。
● 中臣宮處連東人
「中臣〇〇連」(複姓と言われている)は、既に幾つかの例があり、直近では「中臣熊凝連」が登場していた(こちら参照)。中臣の北側の谷間の奥深くに棲息していた一族である。
宮處に含まれる幾度か登場の宮=宀+呂=谷間が奥深い様と解釈した。「處」=「虍+几+夂(足)」と分解される。地形象形的に読み解くと、「處」=「[几]形の谷間に虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいる様」と解釈される。古事記の穴穗命(安康天皇)紀に登場した五處之屯宅などで用いられた文字である。
纏めると宮處=谷間が[几]形をして奥深く虎の縞模様のように幾筋もの山稜が並んでいるところと読み解ける。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、実に懇切丁寧な表記であることが解る。図に示した場所が出自と推定される。「中臣」の隆盛にあやかって、冠したのであろうか・・・。
ところで、この人物は九年後に再び登場し、長屋王に仕えていた人物と囲碁に興じていた時に話題が本事変となり、憤慨した相手に殺害されている。續紀は上記の密告は「誣告」と記している。「中臣」の端くれ者が操られた事件だったのかもしれない。
前年の九月に皇太子が亡くなり、皇統の乱れが生じる危機感に満ちていたのであろう。勿論、藤原朝臣一族にとっても由々しきことであり、黙って見過ごすわけには行かなかった・・・こやつが暴露する危険もあった?…と憶測できる状況と思われる。いずれにしても悲惨な出来事であったに違いない。