2021年9月23日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(8) 〔545〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(8)


神龜五年(西暦728年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

五年春正月戊戌朔。廢朝。雨也。庚子。天皇御大極殿。王臣百寮及渤海使等朝賀。甲辰。天皇御南苑。宴五位已上。賜祿有差。甲寅。天皇御中宮。高齊徳等上其王書并方物。其詞曰。武藝啓。山河異域。國土不同。延聽風猷。但増傾仰。伏惟大王。天朝受命。日本開基。奕葉重光。本枝百世。武藝忝當列國。濫惣諸蕃。復高麗之舊居。有扶餘之遺俗。但以天崖路阻。海漢悠悠。音耗未通。吉凶絶問。親仁結援。庶叶前經。通使聘隣。始乎今日。謹遣寧遠將軍郎將高仁義。游將軍果毅都尉徳周。別將舍航等廿四人。齎状。并附貂皮三百張奉送。土宜雖賎。用表獻芹之誠。皮幣非珍。還慚掩口之誚。主理有限。披瞻未期。時嗣音徽。永敦隣好。」於是高齊徳等八人並授正六位上。賜當色服。仍宴五位已上及高齊徳等。賜大射及雅樂寮之樂。宴訖賜祿有差。

正月一日は雨のため朝賀を廃止している。三日に大極殿に出御されて、親王・諸臣・百寮及び渤海の使者等の朝賀を受けられている。七日、南苑に出御されて、五位以上の者と宴を行い、それぞれに禄を賜っている。

十七日に中宮に出御され、高斉德等が渤海王の書状と土地の産物を進上している。書状には以下のように記されていた。主旨は、武芸(第二代の王、大武芸)が申し上げる。山河はところを異にし国土は遠く離れているが、政教のはかりごとを聴き、ただ心を傾けて欽仰の念を増すばかりである。恐れながら考えるには、大王は中国の朝廷より命を受けて、日本の国に王朝の基を開かれ、代々栄光を重ね、祖先より百代にも及んでいる。武芸は、ありがたいことに隣り合わせの国であり、分不相応にも諸蕃民を支配し、旧高麗の土地を回復し、扶余の古い風俗を保っている。しかしながら遥かに遠く隔たり、その間には海や河が広々と広がっているため、音信は通じず慶弔を問う由もなかった。今後は相互に親しみ助け合って、歴史に叶うようにしたいと願う。使者を遣わし仲の良い隣国としての交わりを結ぶことを今日から始めたく思う。そこで謹んで寧遠将軍郎将の高仁義、游將軍果毅都尉の徳周、別將の舍航等二十四人を派遣して書状を進上し、併せて貂の皮三百枚を持たせてお送りする。土地の産物はつまらぬものだが、献上して誠意を示す。皮革は珍しい物ではなく、かえって失笑を買って責められることを恥じ恐れる。使者が伝えられることには限りがあり、誠意が十分に打ち明けられるとは思わないが、機会あるごとに音信を継続して永く隣国としての手厚い交わりを結びたく思う。

そこで高斉德等八人に正六位上を授け、位階に応じた服装を賜り、五位以上の官人と共に宴会に招いている。射術の大会と雅楽寮の音楽でもてなし、ぞれぞれに禄を与えている。

二月壬午。以從六位下引田朝臣虫麻呂。爲送渤海客使。癸未。勅正五位下鍛冶造大隅。賜守部連姓。

二月十六日に「引田朝臣虫麻呂」を渤海使を送る使者としている。十七日、鍛冶造大隅に「守部連」姓を賜っている(鍜造大角、こちら参照)。

<引田朝臣蟲麻呂>
● 引田朝臣虫麻呂

勿論、阿部引田臣比羅夫の一族である。その子孫は、連綿として登場している。直近では引田朝臣眞人が従五位上に叙爵されたと記載されていた。

頻出の蟲=山稜の端が三つに岐れている様と解釈したが、この地形が見られるのは、引田朝臣一族の中で爾閇等の出自の場所と推定した最奥の谷間と思われる。

すると、「爾閇」の南側、また船人の北側の山稜の端に所望の地形が見出せる。現在の真迫の上池は、当時はもっと小さな池、あるいは池そのものが存在していなかったのではなかろうか。

大納言の阿倍朝臣宿奈麻呂(少麻呂)が一族纏めて「阿倍朝臣」と名乗るよう言上したが(こちら参照)、既に遠い昔の出来事になってしまったのであろう。それにしても一族の系譜情報が極めて少ない。余りにも明白で記録するのも憚れたのかもしれない。

三月己亥。天皇御鳥池塘。宴五位已上。賜祿有差。又召文人。令賦曲水之詩。各齎絁十疋。布十端。内親王以下百官使部已上賜祿亦有差。辛丑。二品田形内親王薨。遣正四位下石川朝臣石足等。監護喪事。天渟中原瀛眞人天皇之皇女也。丁未。制。選叙之日。宣命以前。諸宰相等。出立廳前。宣竟就座。自今以後。永爲恒例。甲子。勅定外五位位祿蔭階等科。」又勅。補事業位分資人者。依養老三年十二月七日格。更無改張。雖然。資人考選者。廻聽待滿八考始選當色。外位資人十考成選。並任主情願。通取散位勳位位子及庶人。簡試後請。請後犯罪者。披陳所司。推問得實。决杖一百。追奪位記。却還本色。其三關。筑紫。飛騨。陸奥。出羽國人。不得補充。餘依令。」勅京官文武職事。五位以上給防閤者。人疲道路。身逃差課。公私同費。彼此共損。自今以後。不須更然。其有官人重名。特給馬料。給式有差。事並在格。

三月三日に天皇は鳥池(宮中にあった池?)の堤に出御し、五位以上の官人を招き、それぞれに禄を賜っている。また文人を召して曲水の宴(こちら参照)を催し詩を作らせ、それぞれに絁・真綿を賜っている。内親王以下、百官の使部以上の者に、それぞれ禄を与えている。五日に田形内親王(母親は石川夫人、穂積皇子の妹)が亡くなっている。石川朝臣石足等を遣わして葬儀を執り行わせている。天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)の皇女であった。

十一日に、位階を授ける日には、宣命が宣される以前に参議以上の者は太政官の庁の前に出て立ち、宣命終了後に座に就くこと。今日より以降永く恒例とせよ、と制している。二十八日に勅して外五位の禄と蔭位(父祖のお蔭の叙位)の位階の等級を定めている。

この日に以下のように勅されている。事業の位階に応じて賜われる資人の任命については、養老三年十二月七日の格によって行い、改めることはない。但し資人の位階昇進の査定は、八年間の成績全てを勘案して、初めてその人に相応しい位階に付けることを許す。外位の位を持つ資人は十年間の成績を勘案して査定せよ。いずれの場合も資人は本主の請願により、散位・勲位者・位子・庶民から選び、試験した後に資人とすることを申請せよ。申請後に罪を犯した時には所司に申し出、尋問し、事実であるならば杖で百回打つ罰とし、位記を剥奪し、元の身分に戻せ。三關(鈴鹿不破愛發)・筑紫・飛騨・陸奥・出羽の國の人を資人に採用してはならない。その他は令の条文に従え、と述べている。

また、次のように勅されている。中央の官人で現に文武の官に任じている五位以上の者には防閤(五衛の従者)が与えられているが、従者は出京の旅に疲れ、一方その者の課役は免除されている。これでは公私ともに費用をかけて、両者ともに損害を受けることになる。今後はこの制度を廃止する。しかし官職に在る者は、名誉を重んじるので、防閤の代わりに馬料(飼育料、銭で支給)を賜うことにする。支給はそれぞれであり、詳細は挌に記載されている、と述べている。

夏四月丁夘朔。日有蝕之。丁丑。陸奧國請新置白河軍團。又改丹取軍團爲玉作軍團。並許之。辛巳。太政官奏曰。美作國言。部内大庭眞嶋二郡。一年之内。所輸庸米八百六十餘斛。山川峻遠。運輸大難。人馬並疲。損費極多。望請。輸米之重。換綿鐵之輕。又諸國司言。運調行程遥遠。百姓勞幣極多。望請。外位位祿。割留入京之物。便給當土者。臣等商量。並依所請。伏聽天裁。奏可之。」是時。諸國郡司及隼人等授外五位。並以位祿便給當土也。壬午。齊徳等八人。各賜綵帛綾綿有差。仍賜其王璽書曰。天皇敬問渤海郡王。省啓具知。恢復舊壤。聿修曩好。朕以嘉之。宜佩義懷仁監撫有境。滄波雖隔。不斷往來。便因首領高齊徳等還次。付書并信物綵帛一十疋。綾一十疋。絁廿疋。絲一百絇。綿二百屯。仍差送使發遣歸郷。漸熱。想平安好。辛夘。勅曰。如聞。諸國郡司等。部下有騎射相撲及膂力者。輙給王公卿相之宅。有詔搜索。無人可進。自今以後。不得更然。若有違者。國司追奪位記。仍解見任。郡司先加决罸。准勅解却。其誂求者。以違勅罪罪之。但先充帳内資人者。不在此限。凡如此色人等。國郡預知。存意簡點。臨勅至日。即時貢進。宜告内外咸使知聞。

四月一日に日蝕があったと記している。十一日、陸奥國が白河軍團(石背國白河郡)を新たに設置し、また丹取軍團(陸奥國丹取郡)を玉作軍團に改称する、と申請し、許されている。

ーーー「白河」は、石背國に属した郡であったが、多分、石背國が廃止されて元の陸奥國となっていたのであろう。「丹取」を「玉作」に置き換えたのは、この郡の「玉作」の地形の北部が中心であり、南部の地形を示す「丹取」が適切ではない、と判断されたのであろう。ーーー

十五日に太政官が以下のように上奏している。概略は、「美作國」が言上するには、「大庭・眞嶋」の二郡が一年間に上納する庸米は八百六十余斛である。この二郡は都と山河に隔てられて遠く離れ、運送は大いに困難で、輸送の人馬が共に疲労し、出費は極めて多い。どうか上納するのに重い米を軽量の真綿や鉄に換えて頂きたい、と述べている。また、諸國の國司等が言上するには、調物を運送するのに京までの旅程は遠く、百姓等の疲労は極めて多い状況である。外位の官人の位禄は、京に輸送すべきものの一部を留め置き、便宜をはかってその地の外位の官人に給与することを要望する、と述べている。我が臣下の者が検討すると、いずれも申請の通りとしたい。天皇の決裁をお願いする、と奏上し、許されている。

この時から諸國の郡司と隼人等が外五位を授かった場合、その位禄は、京ではなく、居住地で与えられることになった、と記載している。

十六日、高斉德等八人に各々色どりのある絹や綾、真綿を与えている。また、渤海郡王に書状を賜っている。概略は、天皇は謹んで渤海郡王に尋ねる。朕は王の書状を読み、旧の領土を恢復し、昔時のような修好を望んでいることを具に知った。王は君臣の道に従い仁慈の心をもって国内を監督し撫育し、我が国とは遠く海を隔てていても、往来を絶たぬよう努めるべきである。そこで高斉德等が帰国するついでに朕の書状と贈物(綵帛・綾・絁など)を託す。故に一行を送り届ける使者を任命し、帰郷させるようにする。漸く夏に入って暑くなってきたが、想うに王の身辺は平安順調であろう、と記載されていた。

二十五日に以下のように勅されている。概略は、聞くところによれば諸國郡司等は管轄区域内に騎射や相撲に有能な者、または力自慢の者がいると、彼等を簡単に王族や公卿・宰相の宅に送り込んでしまう。このため詔があって捜し求めても奉るべき人材がない。今後はこのようなことがあってはならない。もし違反者があれば、國司は位記を剥奪、現職を解任し、郡司は、先ず罰を与えた上で勅に準拠して現職を解任せよ。有能者を誘いかけて求めようとする者は、違勅の罪として罰せよ。但し、既に有能者を帳内・資人に任じた場合は、この限りではない。およそこうした種類の有能者は國郡司があらかじめ知って、よく心がけて選定・指名しておき、勅が到来した時には即時に貢進するようにせよ。以上のことを全国に告げ、ことごとくに知らしめるようにせよ、と述べている。

<備前國・美作國>
美作國:大庭郡・眞嶋郡

今一度、美作國が設置された時の本文を引用してみよう・・・「割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國」と記載されていた。

通説は、備前國のこれら六郡を美作國と改称したように解釈されている。しかしながら、素直に読み下せば、備前國を六郡に分割して、別に美作國を置いたのである。左図を再掲したが、備前國の入口の谷間を美作國と表記しているのである。

美作=ギザギザとした谷間の先が広がっているところであり、文武天皇紀に記載された侏儒備前國侏儒=長くしなやかに延び広がった谷間に断ち切られたような山稜があるところなのである。まるで魏志倭人伝(侏儒國)を熟知しているかのような表現だったのである。そして、その特徴的な地形を有する國に上記の六郡を当て嵌めることは到底不可能であることも解る。

今回の記述は、元来備前国に属していた大庭郡眞嶋郡を美作國に属させていることになる。転属の記述が省略されているのである。おそらく、備前國は、北へ北へとその統治領域を拡大し、藤原郡(前記で藤野郡に改称)などが登場していた(こちら参照)。これに伴って東南部の二郡が美作國へと転属されたと推測される。

ところで、美作國の申し出が許されるなら、備前國も…と言いたいところだが、おそらく上記の二郡の庸米量は甚だしく大量(八百六十余斛)だったのではなかろうか。この二郡は、現在の水田の様子からしてもかなりの生産量だったと思われる。さり気なく「鐵」が記載されている。吉備國にある鬼ヶ城周辺は、その産地だったのである。

五月辛亥。左右京百姓遭澇被損七百餘烟。賜布穀鹽各有差。乙夘。太白晝見。丙辰。授正五位上門部王從四位下。正四位下石川朝臣石足正四位上。正五位上大宅朝臣大國。阿倍朝臣安麻呂並從四位下。從五位上小野朝臣牛養正五位下。從五位下多治比眞人占部從五位上。正七位上阿倍朝臣帶麻呂。正六位下巨勢朝臣少麻呂。從六位下中臣朝臣名代。正六位上高橋朝臣首名。大伴宿祢首麻呂。正六位下紀朝臣雜物。正六位上坂本朝臣宇頭麻佐。田口朝臣年足。正七位下笠朝臣三助。下毛野朝臣帶足。外正六位上津嶋朝臣家道。從六位上上毛野朝臣宿奈麻呂。正六位上若湯坐宿祢小月。葛野臣廣麻呂。丸部臣大石。葛井連大成並外從五位下。是日。始授外五位。仍勅曰。今授外五位人等。不可滞此階。隨其供奉。將叙内位。宜悉茲努力莫怠。

五月十六日、左右京の百姓が長雨で浸水被害を被った七百余戸に布・穀・塩をそれぞれ賜っている。二十日に太白(金星)が昼に見えている。

二十一日に、門部王に從四位下、石川朝臣石足に正四位上、大宅朝臣大國(金弓に併記)阿倍朝臣安麻呂に從四位下、小野朝臣牛養(毛野に併記)に正五位下、多治比眞人占部に從五位上、「阿倍朝臣帶麻呂」・「巨勢朝臣少麻呂」・中臣朝臣名代(人足に併記)・高橋朝臣首名(若麻呂に併記)・大伴宿祢首麻呂(山守に併記)・「紀朝臣雜物」・坂本朝臣宇頭麻佐(宇豆麻佐。鹿田に併記)・田口朝臣年足(家主に併記)・「笠朝臣三助」・下毛野朝臣帶足(信に併記)・「津嶋朝臣家道」・上毛野朝臣宿奈麻呂(小足に併記)若湯坐宿祢小月(若湯坐連家主に併記)・「葛野臣廣麻呂」・丸部臣大石(父親君手に併記)・「葛井連大成」に外從五位下の位階を授けている。

この日初めて外五位の位を授けている。そして次のように勅されている。いま外五位を授けられた人らは、いつまでもこの位階に滞まってはいけない。今後の勤務の内容により昇進させて内位に叙するつもりであるから、みな努力して怠らないようにせよ、述べている。

● 阿倍朝臣帶麻呂 父親が阿倍引田臣比羅夫の子、船守と知られている。現地名の北九州市門司区大里の大久保貯水池の東端と推定した。国土地理院写真(1961~9年)でも既にこの池が大きく広がっていて、「船守」周辺の地形は不明の有様である。兄の「仲麻呂」も含めて、池に埋没した地となってしまったと推測される(こちら、更に年代を遡った地形図より求めた詳細は、こちら参照)。

<巨勢朝臣少麻呂・奈氐麻呂・又兄・首名>
● 巨勢朝臣少麻呂

出自の系譜は、全く不詳のようである。「巨勢朝臣」、現在の直方市の金剛山・雲取山の谷間で探索することになる。頼りは「少」の一文字である。

少=小+ノ=山稜の端が削り取られて尖がっている様と解釈した。と言うことは、彦山川の畔ではなく、山に近い場所と推測すると、それらしき地形が見出せる。

役君小角の出自の場所と推定した「角」の東側の山稜の端が「少」の地形を示していることが解った。その東側は『壬申の乱』後、子孫共々流罪に処せられた近江朝大納言であった比等(人、毘登)の出自の場所である。

そして、この直後に配流された子の一人である巨勢朝臣奈氐麻呂が外従五位下を授けられて登場する。「奈」=「木+示」=「山稜が高台のようになっている様」であり、「氐」=「氏+一」=「匙のような地が区切られている様」と解釈すると、奈氐=山稜が区切られた匙のような高台と読み解ける。配流された後に何度か行われた大赦で元の住処に戻されていたのかもしれない。最終従二位・大納言にまで昇進されたようである。

更にその後に巨勢朝臣又兄・巨勢朝臣首名が、同様に外従五位下を授けられて登場する。残念ながらこの二人の系譜は定かではないようで、名前が示す地形から出自の場所を求めることになる。又兄=広がった谷間の奥が積み重なっているところと読み解けるが、要するに広がった谷間の奥が二段になっている地形と思われる。すると「少麻呂」の谷間がそれらしき様子であることが解る。

また頻出の首名=山稜の端の三角州が首の付けのようになっているところと解釈されるが、「少麻呂」の山稜の端かと思われる。三人は、何だか兄弟のような雰囲気ではあるが、それも定かではない。

<紀朝臣雜物・意美奈>
● 紀朝臣雜物

この人物も、名門「紀朝臣」であり、父親が「弓張」、祖父が「大口」という名門中の名門と知られいるようである(こちら参照)。がしかし、「弓張」の近隣は海であり、子を養うのは難しい地と思われる。

更に「物」は、物部に含まれている文字であり、山深い谷間の様子を表す文字と解釈して来た。そんな背景で、どうやら母方の地が出自としたと推測され、名前を頼りに探索することにした。それにしても今では、とても名付けられるような名前ではないのだが・・・別名の佐比物が通称だったのかもしれない。

「雜」=「衣+集」と分解されると解説されている。端切れを寄せ集めた衣を意味するのだそうだが、地形象形的には雜=山稜の端の三角州(衣)が寄り集まった様と解釈される。頻出の物=牛+勿=谷間に多くの山稜が延び出ている様であるが、「勿」の文字形を象った、「物部」の表記と解釈される。

「紀朝臣」の山側を探索すると、それらしき場所が見出せる。『壬申の乱』で天武天皇側の主力部隊を率いた阿閉麻呂の出自の東隣と推定される。何だか、『壬申の乱』繋がりの叙爵の様相である。上記の「丸部臣大石」も同様である。尚、別名の佐比物佐比=谷間にある左手のような山稜が並んでいるところと読み解ける。「物」の谷間を挟んでいる山稜を表していると思われる。

後に紀朝臣意美奈が無位から従五位下を叙爵されて登場する。十年後には”外”の叱咤激励は、やや下火になったようである。意=音+心=内に閉じ込められた様美=羊+大=谷間が広がった様奈=木+示=山稜が高台になっている様と解釈した。すると「雜物」の南側の尾根近傍に、その地形を見出せる。紀朝臣は、途切れれることなく人材輩出のようである。

<笠朝臣三助・道引>
● 笠朝臣三助

「笠朝臣」は、現在の下関市吉見の吉見下、竜王山西麓の地であり、限られた地域でもある。寶皇女(後の皇極/斉明天皇)の出身地が含まれていると推定した。

三助の解釈に些か戸惑うのであるが、助=且+力=山稜が押し積み重ねられた様と解釈すると、三段になったいるように見える地形を表しているのではなかろうか。

すると「垂」一族の南側にある丸く小高くなった山稜の端の形を示していると思われる。現在は樹木が茂り段差の確認は、少々難しいようだが、少なくとも二段目と三段目の境が見られたのであろう。出自の場所は、その南麓の谷間と推定される。

また、調べると息子に笠朝臣道引がいたと知られていることが分かった。道引=首の付け根のような地が引き延ばされているところと読めば、図に示した父親の南側の当たる場所と思われる。續紀中には、ずっと後に従五位下を叙爵されて登場している。

<津嶋朝臣家道-家虫-雄子>
● 津嶋朝臣家道

「津嶋朝臣」については、和銅七(714)年正月に津嶋朝臣眞鎌が従五位下に叙爵され、その後伊勢守に任じられている。津嶋(対馬)も、しっかりと天皇家の支配下に組み込まれたのであろう。

そんな背景で、多分、今回も「眞鎌」の近隣の地からの叙位と推測されるが、結論としては、正にその東隣の地が出自の人物であったことが解った。

頻出の家=宀+豕=谷間にある山稜の端が豚の口のようになっている様、上記と同じの道=辶+首=首の付け根のような様と解釈すると、図に示した場所と推定される。

何故に「家」、「道(首)」を含む名前が多いかが、納得されるところであろう。山稜の端が豚の口になるのは、端が広がって周辺がなだらかになる地形であり、「首」は背後を囲まれて住処として都合が良いからであろう。これらの文字の使用が減じた時が史書の語る舞台が暗転した時と憶測される。

後に津嶋朝臣家虫が従五位下を叙爵されて登場する。虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れている様と解釈すると、「家道」の西側の谷間を表していることが解る。「眞鎌」も含めて親子・兄弟の関係であったと思われるが、記録に残っていないようである。

更に後に津嶋朝臣雄子従五位下を叙爵されて登場する。雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様と解釈した。子=生え出た様であり、図に示した「家道」の北側の山稜の端を表していると思われる。

<葛野臣廣麻呂>
● 葛野臣廣麻呂

「葛野臣」の「葛野」は、勿論地形象形表記であって、その文字が示す地形の場所に基づく名称であろう。山背國の葛野郡ではない、と思われるが、関連情報を少し述べてみよう。

調べると、”左京葛野”と言うのが、この「葛野臣」の本来の名称のようである。となると左京の地にあった「葛野」となり、その地形を探索することになる。

また、左京に「野」と名付けられる地は、限定的であり、新益京のあった、即ち首皇子や井上・阿倍内親王の出自の台地と思われる。

葛=艸+曰+兦+勹=遮られて閉じ込められたような様の地形が、現在の地形図からでも台地の南側に伺えるが、更に航空写真(1961~9年)からより明確に確認される。

廣=四方に広がった様であり、当該の人物の出自は、図に示した辺りと思われる。「葛野臣」としても續紀中に記載されるのは、これが最初で最後であり、伝えられていることは極めて少ないようである。

<葛井連大成・諸會>
● 葛井連大成

「葛井連」は、元は白猪史であり、養老四(720)年に「葛井連」姓を賜っている。寶然(骨)、その後阿麻留が遣唐使、廣成は遣新羅使と大陸との繋がりが深い一族と記載されていた。

今回も、出来の良い人材として叙爵されたのであろう。左図には前出の人物も含めて纏めてみた。

殆ど系譜が知られていないのであるが、父親が道麻呂であった言われている。山麓に道=辶+首=首の付け根のような様の地があり、それを少し下ったところがこの人物の出自の場所と思われる。

更にその先に成=丁+戊=平らに盛り上げられた様の台地が見出せる。大=平らな頂の山麓とすると、図では省略されているが、竜王山が西側に稜線を延ばした地形を表しているのであろう。父親の麓が息子の大成の出自の場所と推定される。

後に葛井連諸會が登場する。職務怠慢でお咎めを受けるが、許されたと記載される(外従五位下を叙爵)。系譜は定かではないようで、名前から出自の場所を求めてみると、諸會=耕地が交差するような地で寄り集まって盛り上がったところと読み解けることから、図に示した場所辺りと推定される。

六月庚午。送渤海使使等拜辞。壬申。水手已上惣六十二人。賜位有差。
秋七月癸丑。從四位下河内王卒。乙夘。勅三品大將軍新田部親王授明一品。

六月五日に渤海の使節を送ってい行く使者等が暇乞いをしている。七日、水手(水夫)以上、全部で六十二人に、それぞれ位階を授けている。

七月十九日に河内王が亡くなっている。二十一日、大将軍の新田部親王に明一品(皇族に与えられる冠位名)を授けている。本記述は、神龜元(724)年二月に「二品新田部親王授一品」と記載されていて、矛盾するように思われるが、詳細は不明である。