2021年9月19日日曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(7) 〔544〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(7)


神龜四年(西暦727年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

四年春正月甲戌朔。廢朝。雨也。丙子。天皇御大極殿受朝。是日。左京職獻白雀。河内國獻嘉禾異畝同穗。庚辰。宴五位已上於朝堂。壬午。御南苑宴五位已上。賚帛有差。乙未。夜。月犯心大星。庚子。授正三位多治比眞人池守從二位。正五位上高安王。正五位下佐爲王。无位船王並從四位下。无位池邊王從五位下。正五位下榎井朝臣廣國正五位上。從五位下平羣朝臣豊麻呂從五位上。正六位上柿本朝臣建石。阿曇宿祢刀。錦部連吉美並從五位下。

正月一日、雨天のため朝賀は廃止されている。三日に大極殿で朝賀を受け、この日、左京職が白雀(王多寳に併記)、河内國が「異畝同穗」の「嘉禾」を献上している。七日に朝堂で五位以上の者と宴を行っている。九日、南苑に出御して五位以上の者と宴を行い、それぞれに帛(絹布)を与えている。二十二日の夜に月が心大星(星座心宿の中央星)を犯している。

二十七日に多治比眞人池守に從二位、高安王佐爲王(狹井王。葛木王に併記)船王(兄弟の御原王・三嶋王に併記)に從四位下、池邊王(父親の葛野王に併記)に從五位下、榎井朝臣廣國に正五位上、平羣朝臣豊麻呂(平父親の平群朝臣子首に併記)に從五位上、柿本朝臣建石(父親の佐留、人麻呂に併記)・「阿曇宿祢刀」・「錦部連吉美」に從五位下を授けている。

<河内國:嘉禾異畝同穗>
河内國:嘉禾異畝同穗

既に「異畝同穗」の瑞祥は、幾度か登場している。文武天皇紀に近江國が献上した例があり、書紀の天武天皇紀では、類似の意味をしめす縵造忍勝が献上した異畝同頴」などがあった。

畝って延びる尾根から二つの山稜が重なるように延び出ている様子を表していると解釈した。その地形を河内國で探すと、図に示した場所が必要な要件を満たしていることが解った。

嘉=壴+加=鼓のような湾曲した地を押し開く様と解釈すると、三つの山稜が寄り集まっている谷間、その地を嘉禾異畝同穗と述べていると思われる。

元正天皇紀に女王を筆頭に多くの女性が叙爵された記事に登場する他田舎人直刀賣の南側に位置する谷間である。谷間の奥深くまで開拓が進展していたことを伝えているように思われる。「他田」の文字列は、古事記で用いられるが、書紀には見当たらない。世間では『六國史』として総称されているようだが、少なくとも日本書紀は外すべきであろう。

<阿曇宿禰刀-大足-石成-夷女>
● 阿曇宿祢刀

「阿曇宿禰」は、直近では養老七(723)年正月に阿曇宿祢坂持が従五位下を叙爵されていた。更に神龜二(725)年六月に関連する和德史龍麻呂が大縣史姓を賜ったと言う記事が載せられていた。

書紀の皇極天皇紀以降に活躍した阿曇連比羅夫などの居処を既に求めたが、左図に示した谷間ではなく、東側の古遠賀湾に面する場所と推定した(こちら参照)。

古事記の伊邪那岐命が禊祓で誕生させた、阿曇連の祖となる墨江之三前大神の場所を出自に持つ人物は登場していなかったようである。それは、三つの揃って並ぶ山稜に挟まれた谷間は、当時は海(汽水)であって、住環境的には厳しい状態であったと推測される。

図に示したように阿曇宿祢刀、後に阿曇宿祢大足、更に後(淳仁天皇紀)に安曇宿祢石成及び安曇連夷女が従五位下を叙爵されて登場する。[炎]のように延びた三つの山稜の西端が「夷女」、真ん中が「刀・大足」、そして東端が「石成」の出自の場所と推定される。

續紀の時代になって漸く人々が住まうことができるようになったのではなかろうか。古事記の”神話”のような記述が次第に現実の世界へと広がって行く様子が伺える、かのようである。

<錦部連吉美-男笠・錦部河内>
● 錦部連吉美

「錦部連」については、文武天皇紀の遣唐使節団の一員として錦部連道麻呂が登場し、後の元明天皇紀に従五位下に叙爵されていた。

「錦」が現在の行橋市にある幸ノ山を表し、その近傍として「部」が付加された名称と解釈した。椿市小学校の南側に位置する場所と推定された。

吉美もその近隣と思われるが、採石によって地形が大きく変化していることが分った。と言うことで、国土地理院写真(1961~9年)から当時の地形を推測してみることにした。

すると道麻呂の南側は、深い谷間となっていたことが分った。現在は、山林が広がった様相なのであるが、年度別写真を見ると、1970~80年代にかけて盛んに採石され、その後終息したように伺える。

昭和三十年代後半からの高度成長期と言われる時代の前後の地形変化は、凄まじかったのであろう。正に国土が変形した時である。国土地理院写真(1961~9年)は、極めて貴重な記録である。

ともあれ、頻出の吉=蓋+囗=山稜が蓋をするように延びている様美=羊+大=谷間が広がる様であり、写真から分かるように谷間の出口辺りに蓋のように延びる山稜が確認される。近淡海の取り巻く地域の中で早くから開けた地だったと思われる。

後に錦部連男笠が登場する。態度が不遜とされて解職されている。その後の消息は不明のようであるが、出自の場所は、すっかり山が削られて抹消されてしまった感じである。航空写真で辛うじて、男=男のような地形、その先端がのような形をしていたと推測される。

更に後(孝謙天皇紀)に踏歌の歌頭を務めた錦部連河内が外従五位下を叙爵されて登場する。續紀には、その後も幾度か登場し(連姓)、最終内位の従五位上を授けられている。河=氵+可=水辺の谷間の出口と解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。

二月壬子。造難波宮雇民免課役并房雜徭。丙辰。夜雷雨大風。兵部卿正四位下阿倍朝臣首名卒。辛酉。請僧六百。尼三百於中宮。令轉讀金剛般若經。爲銷災異也。甲子。天皇御内安殿。詔召入文武百寮主典已上。左大臣正二位長屋王宣勅曰。比者咎徴荐臻。災氣不止。如聞。時政違乖。民情愁怨。天地告譴。鬼神見異。朕施徳不明。仍有懈缺耶。將百寮官人不勤奉公耶。身隔九重。多未詳委。宜令其諸司長官精擇當司主典已上。勞心公務清勤著聞者。心挾姦僞不供其職者。如此二色。具名奏聞。其善者量与昇進。其惡者隨状貶黜。宜莫隱諱副朕意焉。是日。遣使於七道諸國。巡監國司之治迹勤怠也。丙寅。詔曰。時臨東作。人赴田疇。膏澤調暢。春事既起。思九農之方茂。冀五稼之有饒。順是令節。仁及黎元。宜賜京邑六位已下至庶人戸頭人塩一顆。穀二斗。

二月九日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)の造営に動員された雇役の民には、課役と房(戸)の雑徭を免じている。十三日の夜に雷雨と大風があった。この日、阿倍朝臣首名が亡くなっている。十八日、災異を防ぐために僧六百人と尼三百人を中宮に招いて、金剛般若經を転読させている。

二十一日に天皇が内安殿に出御して、文武の百寮の主典以上を招き入れている。左大臣の長屋王が次のように勅を述べている。此の頃天の咎めの印が頻りに至り、災いの気配が止まらない。聞くところによれば時の政治が道理に背き、民の心が愁い怨むようになると、天地は譴責の意を表し、鬼神は異常を表すと言う。朕が德を施すことが顕著でなく、そのために怠りを欠くことがあるためであろうか。または百寮の官人が奉公に勤めない為であろうか。朕は九重の奥に離れて暮らしているので、未だ理由を詳らかにしえない事が多い。諸司の長官に命じて、各官司の主典以上について、心を公務にくだき勤務状況の善い者と、心に偽りを抱いてその職務を全うしない者との二種類を選び、その名を記して奏上させることとする。その上で良い者は功績をはかって昇進させ、悪い者は、その行状に応じて官位を下降させるであろう。各長官は状況を隠しはばかることなく、朕の意にそうように努めよ、と述べている。この日、使者を七道諸國に遣わして、國司の治政・勤務状況とを巡監させている。

二十三日に以下のように詔されている。概略は、時候は春の農事に当たり、人々は田畑に赴いている。気候は調和してのどかであり、春の農事は既に行われている。朕は、九農(郡司や里長)の仕事の繁忙を思いやり、かつ五穀の豊作を願っている。この良い季節に同調して仁慈を民に及ぼそうと思う。京都の六位以下の官人から庶民の戸主に至るまで、各人に塩・穀を賜うようにせよ、と述べている。

三月乙亥。百官奉勅。上官人善惡之状。乙酉。天皇御正殿。詔賜善政官人物。最上二位絁一百疋。五位已上絁卌疋。六位已下廿疋。次上五位以上廿疋。六位以下一十疋。其中等不在賜例。下等皆解黜焉。甲午。天皇御南苑。參議從三位阿倍朝臣廣庭宣勅云。衛府人等。日夜宿衛闕庭。不得輙離其府散使他處。因賜五衛府及授刀寮醫師已下至衛士布。人有差。丁酉。熒惑入東井西亭間。
夏四月乙巳。散位從四位下上道王卒。

三月三日に百官は上記の勅に従って、官人の善悪に関する報告書を奉っている。十三日に天皇は正殿に出御して、善政を施した官人に禄物を与えている。最上と判定された二位の者、五位以上の者、六位以下の者、次上と判定された五位以上の者、六位以下の者に、それぞれ絁を賜っている。中等と判定された者は禄物を賜う扱いには入れられなかった。下等と判定された者は、全て職を解き放たれている。

二十二日に天皇は南苑に出御し、参議の阿倍朝臣廣庭(首名に併記)が勅して、五衛府に勤める人々は日夜宮廷を宿衛するため、たやすく衛府を離れて他処に使役されてはならない。そういう激務であるから五衛府と授刀寮の医師以下、衛士に至るまで人々に麻布を、それぞれに与えることにする、と述べている。二十五日、熒惑(火星)が東井(二十八宿の一つである現ふたご座の東方部)の西亭の門に入っている。

四月三日に散位の上道王(穂積親王の子)が亡くなっている。

五月壬申朔。日有蝕之。乙亥。幸甕原離宮。丙子。天皇御南野榭。觀餝騎騎射。丁丑。車駕至自甕原宮。辛夘。從楯波池。飄風忽來。吹折南苑樹二株。即化成雉。
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。
八月壬戌。補齋宮寮官人一百廿一人。
九月壬申。遣井上内親王。侍於伊勢大神宮焉。庚寅。渤海郡王使首領高齊徳等八人。來着出羽國。遣使存問。兼賜時服。
閏九月丁夘。皇子誕生焉。

五月一日に日蝕があったと記している。四日、甕原離宮に行幸され、五日に宮の南の野にある屋根のある高台で飾りを付けた騎兵の騎射を観覧している。六日に甕原宮から帰還されている。二十日、楯波池(元正天皇の和風諡号に併記)からつむじ風がにわかに吹き寄せて、南苑の樹木二本が折れ、そのまま化して雉となった、と記載している。

「楯波」(谷間を塞ぐように延びた山稜の端)の「波(ナミ)」と読んで、「多多那米弖 伊那佐」(”楯を並べたような”は伊那佐に掛かる枕詞)と解釈したくなるのだろうが、肝心の「伊那佐」が浮かばず、ってところであろう。波=端(水辺で山稜の端が覆い被さるように延びている様)を表す地形象形表記である。南苑で倒れた木が矢のような鳥に見えたのであろうか?・・・。

七月二十七日に「筑紫諸國」の庚午の年の戸籍七百七十巻に、太政官の印を捺している。「筑紫諸國」は前出の筑紫七國を引き継いだ表記であろう。ただ、その後幾つかの國が加えられているが、曖昧な部分を「諸」で表現したように思われる。

八月二十三日に齋宮寮に勤務すべき官人百二十一人を任命している。

九月三日に「井上内親王」(聖武天皇の皇女、母親は縣犬養廣刀自)を派遣し、齋宮として伊勢大神宮に侍らせている。二十一日に「渤海郡王」の使者、高斉德等八人が「出羽國」に来着している。朝廷は使者を派遣して慰問し、また時節に合った服装を賜っている。

「渤海郡王」については、Wikipediaに…現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家(698-926年)・・・「渤海」の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである。初代国王大祚栄が、この渤海の沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった…と記載されている。

出羽國に来着したとは、一見、日本海を挟んで対岸にあるから、と錯覚させられるが、海上千キロ余りを無寄港で使者を送れたとは、あり得ないことであろう。現中国東北部からは”朝鮮半島東岸”に沿って南下するならば、新羅の案内人を雇ったのではなかろうか。新羅の正使以外は、肅愼國へのルート、即ち関門海峡を通ることになる。その途中の出雲國(現北九州市門司区大里)上陸を経て、現在の鹿喰峠を越えれば出羽國に届く。二百年余り存続した国で、その後も頻繁に来朝している。興味深いところではあるが、いずれまた調べてみよう(下記参照)。

閏九月二十九日に皇子が誕生している。一歳未満で夭逝したと伝えられている。名前は「基王」と言われるが、「親王」とされていないことから誤りとの説もあるとのこと。「基」=「其+土」の地形も見当たらず、のようである。

● 井上内親王・阿倍内親王 文武天皇の皇子である首皇子の出自の場所は、既に下図の左側のように求めた。新益京の台地の端に窪んだところが一ヶ所見出せたのであるが、些か「首」の地形とは異なるかも、と思いながら他に適当な地形は確認されなかった(こちら参照)。そうこうする内に、いよいよ天皇として即位したわけで、后、御子が登場する時代になったようである。

<首皇子・井上-阿倍内親王>

最初に「井上内親王」(後に光仁天皇の皇后)、その後に孝謙天皇(重祚して偁徳天皇)として即位する「阿倍内親王」が登場することになる。彼女等の出自の場所は如何?…やはり国土地理院写真(1961~9年)の参照すると、全く地形が変わってしまっていることが分った。「首」の形は明確であり、前記で「首」らしきとした場所は「井」(四角く取り囲まれた様)であり、その上の台地が井上(イガミ)内親王の出自の場所と推定される。

阿倍内親王に含まれる頻出の倍=人+咅=谷間にある咅(花のつぼみ)のような様であり、三つに岐れた真ん中の膨らんだ山稜を表していると解釈した。「首」の西側の山稜を示している。尚、阿部内親王の母親は縣犬養宿禰美千代の安宿媛(光明子、光明皇后)である。

後に即位して「孝謙天皇」、更に重祚して「称徳天皇」と称されるのであるが、續日本紀では高野天皇と表記される。高野=皺が寄ったように山稜が広がっているところと読み解ける。「阿倍」の別表記である。

冬十月庚午。安房國言。大風抜木發屋。損破秋稼。上総國言。山崩壓死百姓七十人。並加賑恤。癸酉。天皇御中宮。爲皇子誕生。赦天下大辟罪已下。又賜百官人等物。及天下与皇子同日産者。布一端。綿二屯。稻廿束。甲戌。王臣以下。至左右大臣舍人。兵衛。授刀舍人。中宮舍人。雜工舍人。太政大臣家資人。女孺。賜祿各有差。」以從三位阿倍朝臣廣庭爲中納言。

十月二日に安房國が、「大風が吹いて樹木を倒し家屋を破壊した。秋の収穫に損害を与えた」、また上総國が、「山崩れによる圧死者が七十人を数えた」と言上している。両國に物を恵み与えている。五日に天皇が中宮に出御して、皇子誕生を祝って大辟罪(死罪)以下の罪を免じている。また百官の人らに物を賜り、更に皇子と同日に生まれた者全てに麻布・真綿・稲を与えている。

文武天皇即位二(698)年にも、下総國が大風で被害にあったことが記載されていた。風の通り道の地形では?…と考察したが、確かに忘れた頃にやって来る災害だったのであろう(こちら参照)。

六日に親王以下、左右の大舎人、兵衛、授刀舎人、中宮舎人、雑工舎人、太政大臣家の資人、女孺(後宮の雑事担当)に至るまで、それぞれに物を賜っている。この日、阿倍朝臣廣庭(首名に併記)を中納言に任じている。

十一月己亥。天皇御中宮。太政官及八省各上表。奉賀皇子誕育。并獻玩好物。是日。賜宴文武百寮已下至使部於朝堂。五位已上賜綿有差。累世之家嫡子身帶五位已上者。別加絁十疋。但正五位上調連淡海。從五位上大倭忌寸五百足。二人年齒居高。得入此例焉。詔曰。朕頼神祇之祐。蒙宗廟之靈。久有神器。新誕皇子。宜立爲皇太子。布告百官。咸令知聞。庚子。僧綱及僧尼九十人上表。奉賀皇子誕生。施物各有差。乙巳。南嶋人百卅二人來朝。叙位有差。辛亥。大納言從二位多治比眞人池守引百官史生已上。拜皇太子於太政大臣第。丙辰。賜宴於五位已上并无位諸王。祿各有差。戊午。賜從三位藤原夫人食封一千戸。

十一月二日に天皇が中宮に出御している。太政官と八省は書状を進めて皇子の誕生と生育を祝賀し、併せて皇子のための玩具を献じている。この日、文武の百官から使部までを朝堂に招き宴を行い、五位以上の者にはそれぞれ真綿を賜っている。代々の名家の嫡子で五位以上の位を帯びる者には、別に絁を加賜している。ただ、調連淡海(調首淡海)大倭忌寸五百足の二人は高年齢のため、名家ではないが、加賜の例に預かっている。

天皇は以下のように詔されている。朕は神の助けにより、また祖宗の霊のおかげを蒙り、久しく皇位のしるしの神器を保持しており、新たに皇子の誕生に恵まれた。この皇子を皇太子に立てることにする。このことを百官に布告して皆に知らしめよ、と述べられている。

三日に僧綱と僧尼九十人が書状を進めて皇子の誕生を祝賀し、それぞれに物を賜っている。八日に南嶋(多褹・夜久・菴美・度感等)の人、百三十人が来朝し、それぞれに位階を授けている。十四日に大納言の多治比眞人池守は、百官の史生以上の者を率いて太政大臣の邸宅(故不比等の邸、光明皇后はここで出産した)に赴き、皇太子を拝している。十九日、五位以上の官人と無位の諸王との宴を行い、それぞれに禄を与えている。二十一日に藤原夫人(光明皇后、藤原朝臣不比等と橘宿禰三千代との子)に食封一千戸を賜っている。

十二月丁丑。勅曰。僧正義淵法師。〈俗姓市往氏也。〉禪枝早茂。法梁惟隆。扇玄風於四方。照惠炬於三界。加以。自先帝御世。迄于朕代。供奉内裏。無一咎愆。念斯若人。年徳共隆。宜改市往氏。賜岡連姓。傳其兄弟。」正三位縣犬養橘宿祢三千代言。縣犬養連五百依。安麻呂。小山守。大麻呂等。是一祖子孫。骨肉孔親。請共沐天恩。同給宿祢姓。詔許之。丁亥。先是遣使七道。巡検國司之状迹。使等至是復命。詔依使奏状。上等者進位二階。中等者一階。下等者破選。其犯法尤甚者。丹後守從五位下羽林連兄麻呂處流。周防目川原史石庭等除名焉。授正六位上背奈公行文從五位下。」渤海郡王使高齊徳等八人入京。丙申。遣使賜高齊徳等衣服冠履。渤海郡者舊高麗國也。淡海朝廷七年冬十月。唐將李勣伐滅高麗。其後朝貢久絶矣。至是渤海郡王遣寧遠將軍高仁義等廿四人朝聘。而着蝦夷境。仁義以下十六人並被殺害。首領齊徳等八人僅免死而來。

十二月十日に以下のように詔されている。概略は、僧正の「義淵法師」は、若くして仏法の奥義を究め、僧中の棟梁となった。深遠なる道を四方の人に勧め、法の炬(ともしび)を三界に流転する人々に示し、先帝の御世より朕の代に至るまで内裏に仕えて一の咎、誤りもなかった。思うにこのような人は、年をとると共に人徳も増している。人の師として賞すべきであり、「市往」氏を改めて「岡連」姓を賜い、兄弟等にその姓を伝えさせよ、と述べている。

この日、縣犬養橘宿祢三千代が次のように言上している。「縣犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂」等は祖先を同じくする子孫であり近親者である。そこで天皇の御恩より宿祢姓を賜りたく思う、と述べ、これが許されている。なんたって、皇太子を出産した皇后の母親、無敵であろう。

二十日、以前に使者を七道諸國に派遣して、國司の治政状況を監察させた。使者等がその報告書を提出している。天皇は詔して、使者の報告に随い、上等の者は二階、中等の者は一階を進ませ、下等の者は、当期の昇進査定を破棄することにしている。最も甚だしく法を犯した丹後守の羽林連兄麻呂(角兄麻呂)を流罪に処し、周防國の目の川原史石庭(河原史子虫に併記)等は除名(官職位階の剥奪)に処せられた。この日、背奈公行文(高麗系渡来人)従五位下を授けている。また渤海郡王の使者等が入京している。

二十九日に使者を遣わして高斉德等に衣服と冠・履物を賜っている。渤海郡は元の高麗國である。淡海朝廷(天智天皇)の七(668)年十月、唐の将軍李勣は高麗を打ち滅ぼした。その後この國の朝貢が久しく途絶えていた。ここに至って渤海郡王は、寧遠將軍の高仁義等二十四人を朝廷に派遣したが、蝦夷との境の地に到着したため仁義等十六人が殺害され、首領(身分の一つ)の高斉德等八人がようやく死を免れて来朝した、と記載している。

蝦夷が殺害したように錯覚させられる記述であるが、上記したルートで侵入したなら、出雲國辺りで迎え撃ちにあったのかもしれない。谷間の奥に逃げ延びた先が出羽國となる。季節に合った衣服、と言うよりも身包み剥がされていたのかもしれない。出雲の住人にすれば、あわや敵襲であり、言葉も通じない異人の侵入事件だったのであろう。

● 義淵法師 義淵法師は、文武天皇即位三(699)年十一月の記事に「施義淵法師稻一万束。襃學行也」として登場していた。情報少なく、その出自の場所を求めていなかったが、ここで他の情報も調べ直して述べることにする。上記にもあるように俗姓は「市往」、また「阿刀」(高市郡)とも言われている。幼少期は、岡本宮で天武天皇の皇子等と共に過ごし、庶民の子としては恵まれた環境だったのであろう。

<義淵法師・岡連>

俗姓の市往に含まれる「市」=「山稜が寄り集まっている様」は頻出であるが、「往」は、多分、初登場であろう。「往」=「彳+王+止(足)」と分解されると解説されている。音の「オウ」からも「王」が根幹となる文字と思われる。「王」=「大きく広がった様」と解釈して来たことから「往」=「大きく広がった山稜が延びている様」と解釈される。纏めると市往=大きく広がった山稜が延びて寄り集まったところと読み解ける。

すると、書紀に登場した穴戸國司草壁連醜經の居処近隣、あるいは『壬申の乱』で大将軍吹負が苦い敗戦を味わった後、軍勢を立て直した高市縣の北辺に当たる金綱井と記載された場所を表していることが解る。上図の右側の国土地理院写真(1961~9年)を参照すると、「市往」の地形がより明確であると思われる。更に、異説にある俗姓阿刀も中央の山稜の形を示していて、この一族は二つの俗姓を用いていたのではなかろうか。

賜った岡連岡=网+山=谷間に囲われた山稜が延びている様と解釈したが、「市往」の地形そのものを表している名称と思われる。また幼少期を過ごした「岡本宮」の「岡」も重ねられていたのであろう。また、金綱井が登場した時には、「金綱」の傍らに「井」があるところと読んだが、地形図と写真を見合わせると、「綱」に「井」があったことが解った。その特徴的な地形を捉えていたのである。

更に綱=糸+岡と分解して解釈したが、「岡」の文字が含まれていたのである。地形と、それを表す漢字の対応は、想像を遥かに超えた精緻さを有していたことが分る。事情によって、それを有耶無耶にしなければならなかった。何とも悲しい現実が待ち受けているようである。

最後になったが、義淵義=羊+我=谷間がギザギザとしている様と解釈した。「刀」の西側の谷間を表していると思われる。その谷間の先が現在の金辺川が大きく蛇行してを形成していたのであろう。法師の出自の場所と推定される。

<縣犬養連五百依-安麻呂-小山守-大麻呂>
● 縣犬養連五百依・安麻呂・小山守・大麻呂

縣犬養橘宿禰三千代の父親、東人の谷間を出自に持つ人物は登場していなかったが、ここで一気にお目見えの様相である。勿論、祖先を同じくする子孫であろう。

五百依五百=小高いところが交差するような様依=人+衣=谷間にある山稜の端の三角州と解釈した。図に示したように小高い山稜の端が交差するようになっているところを表していると思われる。

頻出の安麻呂は、その谷間の奥を示していると思われる。小山守の小山は、図に示した三角形の頂を持つ山を表し、その麓が守=宀+寸=谷間で肘を張ったように山稜で囲まれた様の場所が出自と思われる。大麻呂は、大=平らな頂の麓と解釈すると「小山守」の南側の谷間辺りと推定される。

何とも、すっぽりと収まった感じである。「橘」(橘大郎女)の地からは、かなり奥まった谷間となる。地図では確認し辛いが、この地そのものが橘=多くの谷間(川)が寄り集まる様の地形を有していたように思われる(こちら参照)。目出度し、であろう。