天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(6)
神龜三年(西暦726年)五月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。
夏五月辛丑。新羅使薩飡金造近等來朝。
六月辛亥。天皇臨軒。新羅使貢調物。壬子。饗金造近等於朝堂。賜祿有差。庚申。詔曰。夫百姓或染沈痼病。經年未愈。或亦得重病。晝夜辛苦。朕爲父母。何不憐愍。宜遣醫藥於左右京。四畿及六道諸國。救療此類。咸得安寧。依病輕重。賜穀振恤。所司存懷。勉稱朕心焉。辛酉。太上天皇不豫。令天下諸國放生焉。丁夘。奉爲太上天皇。度僧廿八人尼二人等。
五月二十四日に新羅の使者の金造近等が来朝している。
六月五日、天皇は宮殿の端近くに出御し、新羅の使者が調物を貢上している。六日に金造近等と朝堂で宴を行い、それぞれに禄を賜っている。十四日に以下のように詔されている。概略は、民の中には長患いにかかり年月を経て未だに癒えない者、あるいは重病にかかって昼夜苦しんでいる者がいる。朕は民の父母として、どうして憐れまずにおられようか。医者と薬を左右京・四畿内及び六道の諸國に送り、病に苦しむ者を救け治療して安らぎを得させ、その軽重に応じて穀を賜って恵みを与えよ。所司は、意図するところを心掛け、努力して朕の心に叶うようにせよ、と述べている。
十五日、太上天皇(元正天皇)が病気になり、天下諸國に放生(仏教思想により功徳を積むため生物を放つこと)をさせている。二十一日に太上天皇を奉るために僧二十八人、尼二人を得度させている。
秋七月戊子。金奏勳等歸國。賜璽書曰。勅。伊飡金順貞。汝卿安撫彼境。忠事我朝。貢調使薩飡金奏勳等奏稱。順貞以去年六月卅日卒。哀哉。賢臣守國。爲朕股肱。今也則亡。殲我吉士。故贈賻物黄絁一百疋。綿百屯。不遺尓績。式獎遊魂。癸巳。詔曰。太上天皇不豫。稍經二序。宜大赦天下。□疾之徒量給湯藥。甲午。度僧十五人。尼七人。乙未。遣使奉幣帛於石成。葛木。住吉。賀茂等神社。
七月十三日に新羅の使者が帰国している。その時賜った璽書(天皇の印を捺した文書)に…伊飡(官位十七の第二位)の金順貞卿は新羅国内を安らに治め、我が朝廷にも真心をこめて仕えたが、この度の使者が去年の六月三十日に卒したと伝えた。哀しいことである。卿は賢臣であり、朕が最も頼りとする大切な臣であった。ここに黄絁・真綿を贈って弔う。その功績を忘れず、遊魂(肉体を離れた魂)に進呈する…と記されていた。
十八日に以下のように詔されている。太上天皇が病気になられて二序(夏と秋)が経過した。天下に大赦を行い、病気で苦しむ人々に煎じ薬を病状に応じて量り支給せよ、と述べらている。十九日、僧十五人、尼七人を得度させている。二十日に使者を遣わして「石成」・葛木・住吉・賀茂等の神社に幣帛を奉納している。
石成
「石成」の地名は、記紀及びこれまでの續紀には全く出現することがなかった地のようである。また、関連する情報も見当たらず、通説も不詳としている。
残りの三つの地の現地名を記すと、葛木(直方市)、住吉(京都郡苅田町)、賀茂(田川郡福智町)と推定した。
即ち、それぞれ大倭國の中で、葛木:北方、住吉:東方、賀茂:西方の配置を示しているのではなかろうか。残りの南方に該当するのは添上・下郡となる。現地名では田川郡添田町である。
元明天皇紀に春日離宮(上図再掲)に行幸され、添上・下二郡の調を免じた、と記載されていた。その離宮があった地形は、正に石成=崖下で平らに盛り上げられているところである。また神叡法師が『大乗法苑義林章』七巻を独学した觀世音寺も近隣にあったと推定した地でもある。多分、”海石榴”の「石」と重ねられた表記と思われる。
八月癸丑。奉爲太上天皇。造寫釋迦像并法華經訖。仍於藥師寺設齋焉。壬戌。定鼓吹戸三百戸。鷹戸十戸。乙亥。太政官處分。新任國司向任之日。伊賀。伊勢。近江。丹波。播磨。紀伊等六國不給食馬。志摩。尾張。若狹。美濃。參川。越前。丹後。但馬。美作。備前。備中。淡路等十二國並給食。自外諸國。皆給傳符。但大宰府并部下諸國五位以上者。宜給傳符。自外隨使駕船。縁路諸國。依例供給。史生亦准此焉。
八月八日に太上天皇の為に釋迦像を造り、法華経の書写が終えている。そこで藥師寺で齋会を行ている。十七日、鼓吹戸(儀式などで鼓笛を担当する部署)を三百戸、鷹戸(鷹の飼育を担当する部署)を十戸設定している。
三十日に太政官が以下のように処分している。新任の國司が任地に出発する日、伊賀・伊勢・近江・丹波・播磨・紀伊などの六ヶ國の場合は、食料と馬は支給しない。志摩・尾張・若狹・美濃・參川・越前・丹後・但馬・美作・備前・備中・淡路 などの十二ヶ國についてはいずれも食料を支給する。その他の諸國の場合には、全て伝符(伝馬利用資格の証明書)を支給する。但し、大宰府並びにその管内諸國と五位以上の官人には伝符を支給する。その他の者は便宜に従って利用せよ。また路次に当たる諸國は例に従って飲食を供給せよ。史生はこれに準拠せよ、と定めている。
九月丁丑。令京官史生及坊令。始着朝服把笏。己夘。停安房國安房郡。出雲國意宇郡采女。令貢兵衛。丁亥。天皇臨軒。詔曰。今秋大稔。民産豊實。思与天下共茲歡慶。宜免今年田租。庚寅。内裏生玉棗。勅令朝野道俗等作玉棗詩賦。壬寅。文人一百十二人上玉棗詩賦。隨其等第。賜祿有差。一等絁廿疋。綿卅屯。布卅端。二等絁十疋。綿廿屯。布廿端。三等絁六疋。綿六屯。布八端。四等絁四疋。綿四屯。布六端。不第絁一疋。綿一屯。布三端。」以正四位上六人部王。藤原朝臣麻呂。正五位下巨勢朝臣眞人。從五位下縣犬養宿祢石次。大神朝臣道守等廿七人。爲裝束司。以從四位下門部王。正五位下多治比眞人廣足。從五位下村國連志我麻呂等一十八人。爲造頓宮司。爲將幸播磨國印南野也。
九月二日に京官の史生と坊令に初めて朝服を着させて笏を持たせている。四日、安房國安房郡(上総國)・出雲國意宇郡の采女を停止し、兵衛を貢上させている。十二日に天皇は宮殿の端近くに出御し次のように詔している。「今年の秋は大豊作となり民の暮らしも豊かになった。天下とよろこびを共にしたいと思う。今年の田租を免除せよ」
十五日に内裏に玉棗(ナツメ、服用すれば神仙に。瑞祥とされた)が生じた。朝廷及び民間の僧侶・俗人等に玉棗の詩賦(中国の韻文)を作るよう、勅されている。二十七日に文人百十二人が玉棗の詩賦を献上している。出来栄えに従って、一等から四等まで絁・真綿・麻布の禄を賜っている。
この日、六人部王・藤原朝臣麻呂(萬里)・巨勢朝臣眞人・縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)・大神朝臣道守(通守)等廿七人を裝束司に任じている。また、門部王・多治比眞人廣足(廣成に併記)・村國連志我麻呂(小依の子、等志賣に併記)等一十八人を、「播磨國印南野」に行幸する為に造頓宮司に任じている。
冬十月辛亥。行幸播磨國印南野。甲寅。至印南野邑美頓宮。辛酉。從駕人及播磨國郡司百姓等。供奉行在所者。授位賜祿各有差。又行宮側近。明石賀古二郡百姓。高年七十已上。賜穀各一斛。曲赦播磨堺内大辟已下罪。癸亥。行還至難波宮。庚午。以式部卿從三位藤原朝臣宇合。爲知造難波宮事。陪從无位諸王。六位已上才藝長上并雜色人。難波宮官人。郡司已上賜祿各有差。癸酉。車駕至自難波宮。
十月七日に「播磨國印南野」に行幸され、十日に印南野の「邑美頓宮」に到着されている。十七日、従駕人及び播磨國郡司・百姓等、行在所に供奉する者、それぞれに授位し、禄を与えている。また行宮に近い「明石・賀古二郡」の百姓で七十歳以上の者に穀を各々一斛、更に播磨國内で大辟(死罪)以下の者を赦している。十九日に帰途について、難波宮に至っている。
二十六日、藤原朝臣宇合を知造難波宮事(造営の総監督)に任じている。行幸に随っている無位の王たち、六位以上の才能技芸により長上官(日々官司に出勤する者)となっている者、及び雑色人、難波宮に勤務する官人、攝津國の郡司以上の官人にそれぞれ禄を与えている。二十九日、難波宮から帰還している。
播磨國印南野:邑美頓宮
「播磨國」は、前記の播磨直弟兄が居処ではなく、本来の國名が示す場所、現地名の築上郡築上町椎田辺りであろう。先ずは印南野の場所を求めてみよう。
「印」=「爪+卩」と分解される。指先でうずくまっているものを押し付ける様を表す文字と知られる。地形象形としては、印=三つ並んだ山稜の先が小高く広がっている様と解釈される。
「南」の文字解釈は、少々難解であって、木が多くの枝を延ばして繁る様を象ったと言われている。地形象形としては、木を山稜に置換えて解釈することもできるが、それでは汎用的で地形の特定には不向きであろう。とすると、「南」の古文字形を地形に当て嵌めたのではなかろうか。文字で表現すると南=大きな谷間が真ん中から延び出た山稜で二つに岐れている様となる。
これらの地形を満たす場所を探すと、極楽寺川と真如寺川に挟まれた山稜の形を表していることが解った。印南野は、岩丸川が山稜の隙間を出て大きく谷間が広がったところと推定される。邑美頓宮の邑=囗+巴=丸く渦巻くように盛り上がった様、美=羊+大=谷間が広がった様であり、おそらく、図に示した辺りにあった行宮と思われる。
明石郡、賀古郡が隣接していたと記載している。明=日+月=三日月の形の地で炎ような山稜が延び出ている様、石=厂+囗=崖下で区切られた様と解釈すると、図に示した山稜の端がそれらの地形を示していることが解る(輕嶋之明宮参照)。賀=谷間が押し広げられている様、古=丸く小高い様であり、すると谷間を少し奥に向かった場所と推定される。現地名の奈古の「古」に繋がっているのかもしれない。
通説では、兵庫県にある地名、稲美町・明石市・加古郡(加古川市)に関連すると言われる。そっくりそのまま国譲りされているようである。何と、邑美郷までも・・・印南野は、畿内の西限とされる「赤石櫛淵」があった地ともされている(畿内の東西南北限についてはこちら参照)。畿内に大阪湾がすっぽりと収まる?…とても尋常な空間感覚とは思えない解釈が、通説のようである。
十一月己亥。改備前國藤原郡名。爲藤野郡。己丑。五位郡司身卒。始賜賻物。又勳九等以下。任長上官者免課役。
十二月乙夘。太白犯填星。丁夘。尾張國民惣二千二百卌二戸。稼傷飢饉。遠江國五郡被水害。並限三年。令加賑貸。壬申。太政官處分。東文忌寸等自今以後。令任辨官人。上大祓刀。
十一月二十六日に備前國の藤原郡を「藤野郡」に改名している。「藤原朝臣」からの”異議申立”があったのかも?…。十六日に五位の位階を持つ郡司が卒した時には、初めて物を贈って弔うことにしている。また、勲九等以下の者が長上官に任じた時には調・庸などを免除することにしている。
十二月十二日、太白(金星)が填星(土星)を犯している。二十四日に尾張國の民、合わせて二千二百四十二戸の収穫が損なわれ飢饉となっている。また、遠江國の五郡が水害を被っている(七郡の中の上流域か?)。両國に三年間を限度として無利息の貸出しを行わせている。二十九日、太政官が以下のように処分している。東文忌寸(東漢一族)等が今後弁官に任ぜられた時には、大祓の刀を奉ること。
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『續日本紀』巻九巻尾