2021年9月11日土曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(5) 〔542〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(5)


神龜三年(西暦726年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀1(直木考次郎他著)を参照。

三年春正月辛巳。京職獻白鼠。大倭國獻白龜。庚子。天皇臨軒。授從四位下鈴鹿王從四位上。无位石川王從四位下。從四位上藤原朝臣麻呂正四位上。正五位上阿倍朝臣駿河。正五位下石川朝臣君子並從四位下。正五位下中臣朝臣東人正五位上。從五位上多治比眞人廣足。巨勢朝臣眞人。大伴宿祢邑治麻呂。忍海連人成。鍛冶造大隅。從五位下佐伯宿祢沙美麻呂並正五位下。從五位下石上朝臣勝雄。笠朝臣御室。大倭忌寸五百足。置始連秋山並從五位上。正六位上路眞人虫麻呂。阿倍朝臣粳虫。大宅朝臣廣麻呂。粟田朝臣馬養。田口朝臣家主。紀朝臣宇美。秦忌寸足國。葛井連毛人。從六位上縣犬養宿祢大唐並從五位下。正六位上多胡吉師手外從五位下。

正月一日に京職が「白鼠」、大倭國が「白龜」を献上している。「白龜」は、元号の由来となって地を示していると思われる。由緒ができたので、その周辺を含めて整地したのではなかろうか。「白鼠」については下記で詳細を述べる。

二十一日に天皇は宮殿の端近くで位階を授けている。詳細は、鈴鹿王(高市皇子の子)に從四位上、石川王(長皇子の子、栗栖王に併記)に從四位下、藤原朝臣麻呂(萬里、藤原四家の京家)に正四位上、阿倍朝臣駿河石川朝臣君子に從四位下、中臣朝臣東人に正五位上、多治比眞人廣足(廣成に併記)巨勢朝臣眞人大伴宿祢邑治麻呂(祖父麻呂、牛養に併記)忍海連人成(押海連)鍛冶造大隅(鍜造大角)佐伯宿祢沙美麻呂(沙弥麻呂)に正五位下、石上朝臣勝雄(勝男、堅魚)笠朝臣御室(麻呂[滿誓]に併記)大倭忌寸五百足置始連秋山に從五位上、路眞人虫麻呂(麻呂に併記)・「阿倍朝臣粳虫」・「大宅朝臣廣麻呂」・「粟田朝臣馬養」・「田口朝臣家主」・「紀朝臣宇美」・「秦忌寸足國」・葛井連毛人(白猪史阿麻留に併記)・縣犬養宿祢大唐(唐)に從五位下、「多胡吉師手」に外從五位下、と記載されている。

<京職:白鼠>
京職:白鼠

ハツカネズミでも献上したのであろうか?…何と大黒天の使者とされて、古来より吉兆とされている、と辞書に記載されている。「ちゅう」の鳴き声から”忠”実な家来を表すとか、最近はとんと見かけなくなったが、人にとって実に身近な小動物なのである。

冗談はさて置いて、「鼠」は、古事記の天宇受賣命と「海鼠」との説話の中で登場していた・・・「諸魚」が皆「仕奉」と返事をしたのに、「海鼠」だけが答えない。それで、その口を切ったので、今でも口が裂けている・・・何とも不思議な物語である。

何を伝えたかったのか、と紐解いた結果は、現在の北九州市若松区と八幡西区の境辺りを流れる江川のことを表していた。「若松区」が江川と洞海湾によって島であったことを伝えていたのである。伊豫之二名嶋である。

では「鼠」は如何なる地形を表しているのか?…「鼠」は、その姿を象形した文字と知られる。雉、烏、鳩などに類するのか?…ではなく、古来より「穴蟲の総名」の認識であったことを地形象形に用いていると読み解いた(こちら参照)。

通常の国土地理院地図では判り辛いが、年代別(1961~9年)の航空写真から、前記で登場した右京人支半于刀の山稜に小ぶりな谷間がずらりと並んで棚田にされているのが確認される。これをと表記しているのである。

その谷間の対岸にも「穴」が一部確認される(全体は地形変形のため不可)。谷間の両側に「穴」が並んでいる様をとしている。古事記の解釈をものの見事に踏襲した表現であることが解る。

左右京(職)として、左・右をきっちりと区別した記述を行っているのに、ここではそれを省略している。書き漏らしたか?…図から判るように、「穴」が左・右に跨っていて、左京職の領域は、些か曖昧な状態なのである。右京職なのだが、左京職も絡んでないこともない・・・正史とするには、「左右」を省こう、だったのかもしれない。当時の官人達の生真面目さが伝わる記述かと思われる。

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余談だが、江川については、Wikipediaに…東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川河口に合流する感潮河川である。全区間で潮位の影響を受ける。人工開削による運河ではなく、元々は洞海湾と響灘を結ぶ海峡であった事から、水源の無い両側に河口があるという珍しい河川となった…と記載されている。

江川の名称の由来は不詳のようだが、江=氵+工=水辺が刃物で抉られた様と解釈される。正に天宇受賣命の仕業だったことを今に伝える名称なのかもしれない。天神の一振りで”海峡”ができた、わけである。僭越ながら”猨女海峡”と名付けさせて頂こう。

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<鍜造大角(鍛冶造大隅)>
● 鍛冶造大隅

少々補足説明を行ってみる(再掲した左図参照)。この人物は、文武天皇紀に鍜造大角」で初登場し元明天皇紀に登場した際には「鍜師造大隅」と記載されている。

微妙に文字使いが変化している。「鍜」が示す意味に含まれる[兜]を伏せたような形で角を突き出した様から、それが寄り集まった()状態となり、管轄域が拡大していることを暗示している。

さらに「兜」の様は一つの山稜のみであるから「鍛」とし、冶=冫+台=二つ並ぶ耜のような様に一層具体的な表記へと進化しているように伺える。明経第一博士として活躍されたのであろう。同一人物の名前の変遷は、実に興味深いところであろう。書紀に類似の記述があったことが思い起こされる。

<阿倍朝臣粳虫・繼麻呂>
● 阿倍朝臣粳虫

この「阿倍朝臣」は、元は「布勢朝臣」の系列だったようで、御主人の系譜に関わる人物と知られている。現地名の北九州市門司区寺内の高台の麓が出自の場所として求めてみよう。

粳虫(蟲)の「粳」は既出であって、粳=米+丙+攴=山稜が二つに岐れた地に米粒のような小高いところがある様と解釈した。例によって国土地理院年代別写真(1961~9年)のこちらを参照しながら探すと、図に示した谷間を見出せる。

更にその谷間を観察すると丸く小高いところが確認される。蟲=山稜の端が三つに細かく岐れた様であるが、やはり、そこまでの解像度がない、あるいは宅地開発によって判別不可の様子だが、辛うじて麓が幾つかに岐れている地形は伺える。

この地は「廣庭」の場所の北側に隣接していることが解る。おそらく、その息子だったのであろう。「廣庭」には、二人の息子、阿倍朝臣毛人阿倍朝臣嶋麻呂がいたことが知られている。毛=鱗の形をしている様嶋=山+鳥=山稜が鳥の形をしている様と解釈され、図に示した場所が出自と推定される。

未だご登場の機会を得ないが、何故か、残存する系図には「粳虫」が「嶋麻呂」の子と記載されているそうである。尚、「嶋麻呂」の場所は大年神が娶った伊怒比賣の居処と推定した。はるか遠い昔のことであった。

後に阿倍朝臣繼麻呂が従五位下に叙爵されて登場する。遣新羅大使に任命されるが、新羅との関係が悪化した時期であり、また疫病のために対馬で客死するという悲運な生涯だったと伝えられている。出自の場所は、繼=糸+㡭=山稜が途切れかかった様と解釈すると、図に示した辺りと推定される。

<大宅朝臣廣麻呂-賀是麻呂-君子>
<大宅朝臣人成-宅女-廣人>
● 大宅朝臣廣麻呂

「大宅朝臣」一族もかなりの人物がこれまでに登場している。その中で「鎌柄」の系譜が記録されている。左図に前記した各々の配置を示したが、今回登場の廣麻呂の出自は不明のようであり、また、續紀にこの後記載されることもない。

ただ、息子の賀是麻呂(續紀には登場しない)が居たことが知られているとのことである。この人物も含めて出自の場所を求めてみよう。

左図の上部を見ると、山稜の中腹が整地されて広々と開かれた場所がある。国土地理院写真(1961~1年)を見ると、山林に覆われて、所々に谷間が見える地形となっている。

地形そのものは不明なのだが、現在平らに開拓されているように以前もなだらかな地形だったと推測される。その地を廣麻呂の出自の場所と思われる。

息子の賀是麻呂賀=加+貝=押し広げたような谷間是=匙のような様と解釈すると、父親の東側の細長い谷間を示していると思われる。現在では全く埋められてしまってその痕跡も見出すことは叶わないようである。

後に大宅朝臣君子が外従五位下を叙爵されて登場する。既出の文字列である君子=区切られた山稜が高台となって生え出たところと解釈すると、「廣麻呂」の西側の台地を表していると思われる。系譜は不詳のようである。

更に後(孝謙天皇紀)に大宅朝臣人成が従五位下を叙爵されて登場する。同様に系譜不詳であるが、人成=[人]の形をした平らに整えられた台地があるところと解釈される。また称徳天皇紀に大宅朝臣宅女が従五位下を叙爵されて登場する。宅=宀+乇=谷間に山稜が延び出ている様であり、「是」の先端部を示していると思われる。

同じく称徳天皇紀に大宅朝臣廣人が従五位下を叙爵されて登場する。廣人=谷間が広がっているところと解釈すると、「廣麻呂」の西側の谷間が出自と推定される。併せて図にそれぞれの出自場所を示した。

<粟田朝臣馬養-人成-諸姉>
● 粟田朝臣馬養

「粟田朝臣」一族も途切れることなく人材を供給している一族である。その中の新人として叙爵されている。

ところが、「粟田」の地に馬養が全く影も形もない有様であることが解った。果たして、違う場所なのか、それとも・・・ここでも国土地理院写真にお世話になることになった。

すると、元に地形とは全く異なるように開拓されていることが判った。そして元の地形では馬養=馬の形の山稜の傍らにあるなだらかな谷間を見出すことができる。地形の変形部に出自を持つ、ある意味当然の結果であろう。古事記の時代から多くの人材を輩出した地では避けては通れない、これが引き続いて生じて来ると、覚悟を決めよう。

後(孝謙天皇紀)になるが、粟田朝臣人成が従五位下を叙爵されて登場する。航空写真からでは地形の微妙な変化を読み取り辛いが、人成=谷間にある平らに盛り上げられたところを馬養の西側に見出せる。上図に併せて記載した。

更に後に粟田諸姉が登場する。元は藤原朝臣眞從の妻であったが、「眞從」が亡くなって、その後大炊王(舎人親王の子、後の淳仁天皇)に嫁いだと知られている。藤原朝臣仲麻呂の策略の中で翻弄された生涯だったのかもしれない。諸姉=嫋やかに曲がる谷間が寄り集まって耕地が交差しているところと読み解くと、図に示した場所が出自と思われる。

<田口朝臣家主・年足>
● 田口朝臣家主

「田口朝臣」も既に幾人かの人物が登場していたが、文武天皇紀の「益人」ついて、その出自の場所を現地名の京都郡苅田町下片島に求めた。父親が孝徳天皇紀に倉山田大臣謀反に連座させられた「筑紫」(一説)であり、家主等の息子達が記録されていた。

「家」が付く三兄弟の出自の場所を纏めて求めた結果を図に示した。少々悩まされたのが、この家=宀+豕=山稜に囲まれた豚の口のような様の場所が何処であるか?…であった。

三兄弟個別に「家」に関わる地形の場所とも思われるが、主=真っ直ぐに延びた山稜人=谷間守=肘を張ったような山稜に囲まれた地の地形も併せて満足するわけには行かず、やはり、「家」の地形の上に三兄弟が乗っかっていると解釈するのが妥当であろう。

すると、「田口」の「口」の地形、あるいは、その一部を「豚口」と見做していると気付かされた。更に、もう少し上流域ですでに「口」の形状を示す地形が見出せた。結果、家主家人家守のそれぞれの場所を容易に求められることが解った。現在もそれらの地が居住区となっているようで、古から変わらぬ人々の佇まいを示していると思われる。

この二年後に田口朝臣年足が”外従五位下”で叙爵されている。天皇の叱咤激励だとか・・・若者は鍛えないと、なのかもしれない。久々に出現の年=人+禾=谷間に山稜が稲穂のように延びている様と解釈した。更に足=山稜がなだらかに延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。系譜は不詳のようである。

<紀朝臣宇美-廣名-廣庭>
● 紀朝臣宇美

正に頻出の「紀朝臣」であるが、珍しく系譜が知られている人物である。「大口」、「大人」の嫡流の「麻呂」の子であった(こちら参照)。既出の兄弟、「男人」、「麻路」も併せて右図に、その出自の場所を示した。

宇美とは、実に懐かしい名称である。古事記の帶中津日子命(仲哀天皇)紀に后の息長帶日賣命が新羅から帰国して筑紫で品陀和氣命(応神天皇)を産んだ場所として記載されていた(こちら参照)。

宇美=産み=海と重ねられた表記と紐解いた。古事記が記す最も重要なキーワードの一つでもある。勿論、地形象形表記である。今一度振り返ると、宇=宀+于=谷間に山稜が延びている様美=羊+大=谷間が大きく広がっている様と解釈した。

かなりの小ぶりな地形なのだが、谷間が広がった地に山稜が延び出ている場所が見出せる。「麻呂」や兄弟の東側の谷間を表していることが解る。「麻呂」の事績を引き継いだのは長男の「麻路」で従三位中納言となっている。「宇美」は最終従四位下にまで昇進したとのことである。

後に「麻路」の子、紀朝臣廣名が外従五位下を叙爵されて登場する。廣名=山稜の端の三角州が広がったところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。更に後(淳仁天皇紀)に「廣名」の弟の紀朝臣廣庭が従五位下を叙爵されて登場する。廣庭=囲まれた地が広がっているところと解釈すると図に示した場所が出自と推定される。

<秦忌寸足國>
秦忌寸足國

葛野秦造河勝以来、この一族も多くの人材を輩出して来ているが、それなりに系譜は知られているようである。また、直近では、「河勝」の孫とされる牛麻呂の系列が一部登場している。

これで葛野に広がった秦忌寸一族の主要な人物が記載された感じであるが、足國は、一体どちらの系列なのかは、全く不詳のようである。

足=山稜がなだらかに延びている様であり、その典型的な地形が、上記の二つの系列の間に延びているのが分る。この地形は、極めて人々が住まうには適した場所であり、「河勝」が開拓する以前からの住人も多く存在していたのではなかろうか。そう思えば、むしろ開拓に時間が掛かったように推測される。

出自の場所は、広大な故に、特定するのが難しいが、多分、図に示した辺りと推測される。記紀・續紀は、先・住民を記述しない。奴婢の者の中に埋もれているのでろうが、垣間見せる記述から、その”実態”を想像することも可能かもしれない。

<多胡吉師手>
多胡吉師手

「多胡」は、元明天皇紀に「上野國」の三つの郡を纏めて多胡郡とした、と言う記述の中で登場していた。些か紛らわしいのが、「上野國」であり、この國名は別に存在する。所謂「下野國」に隣接する國であって、現地名は北九州市門司区吉志と推定した(こちら参照)。

ここで用いられた「上野國」は、「上毛野」に隣接する地であり、「毛」の地形が抜けた命名となっている、と解釈した。續紀では、地形に忠実に基づいて名付ける故に同一の名称が発生する例の一つであろう。

背景はそんな具合で、今回も追加される地名・人名が、この國に存在するかで、より確度の高い場所となろう。頻出の吉=蓋+囗=蓋をするような様師=𠂤+帀=積み重なった地が寄り集まった様手=山稜が手のように延びている様と解釈される。

すると「山等六郷」の山稜の端がのように延びて谷間を蓋()するようなところが見出せる。また、そのは小高くなった地が寄り集まって連なっている様子()が認められる。実に地形の特徴を寄せ集めた名前であることが解る。外從五位下を授けられたと記載しているが、渡来系で「山等六郷」の谷間を開拓した功績に基づくのではなかろうか。

二月庚戌朔。制。五位已上薨卒之後。例限六年。勿收其位田。辛亥。出雲國造從六位上出雲臣廣嶋。齋事畢。獻神社劔鏡并白馬鵠等。廣嶋并祝二人並進位二階。賜廣嶋絁廿疋。綿五十屯。布六十端。自餘祝部一百九十四人祿各有差。庚申。制。内命婦身帶五位。任六位以下官者。自今以後。給正六位官祿。己巳。太政官奏。諸選人於官引唱不到者。明日引唱。亦不到者後日引唱不到者。不在重引之限。當年若与上考。降爲中等。若居中考。減一年勞。即減勞年亦居中等。更復減一年勞。兩年考第。頻注中等者。惣除前勞。自今以後。永爲恒例。奏可之。
三月辛巳。宴五位已上於南苑。但六位已下官人及大舍人。授刀舍人。兵衛等皆喚御在所。給塩鍬。各有數。

二月一日に、五位以上の者が薨じたり卒したりした場合。原則として、その後六年間は位田を収公してはならない、と制定している。二日、出雲國造の出雲臣廣嶋(父親果安に併記)は、斎事(出雲國造の代替わり毎に朝廷に出仕して行う儀式)が終わった後に神社の剣・鏡と、並びに白馬・鵠(コウノトリ)などを献上している。「廣嶋」と祝(神職)二人に位を二階進め、「廣嶋」には絁などを賜っている。その他の祝部百九十四人にも、それぞれ禄を与えている。

十一日に、内命婦(五位以上の位階を持つ婦人)が五位以上の位階を持ちながら六位以下に相当する官職に任じられた場合、今後は正六位相当の俸禄を支給する、と制定されている。

二十日、太政官が以下のように奏している。概略は、選人(評定の結果位階を授けられる人)の中で、太政官が召集して氏名を読み上げる際、不在の者は、翌日に召集して名を読み上げるが、それでも不在の場合は、後日に召集するが、来なければ重ねては召集しないことにする。その年に上等の考課を与えられることになっていても、降ろして中等とし、もし中等の考課であるならば一年分の勤務をご破算にして、評定の年限を一年延長する。また、勤務を減じられた年の考課が中等であれば、さらに一年の勤務を減じることにする。そして両年の考課がいずれも中等と記されていれば、全ての以前の年の勤務を除くことにする。今後はこれを恒例としたい、述べている。これが許されている。

三月三日に南苑(平城宮内の庭園)で五位以上の者と宴を行っている。但し六位以下の官人及び大舎人・授刀舎人・兵衛等は、それぞれに塩と鍬を与えれている。