2023年5月25日木曜日

高野天皇:称徳天皇(11) 〔635〕

高野天皇:称徳天皇(11)


神護景雲元(西暦767年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二月甲申。幸東大寺。授正五位下國中連公麻呂從四位下。從五位下佐伯宿祢眞守從五位上。外從五位下美努連奥麻呂。桑原公足床並外從五位上。造寺工正六位上猪名部百世外從五位下。丁亥。幸大學釋奠。座主直講從八位下麻田連眞淨授從六位下。音博士從五位下袁晋卿從五位上。問者大學少允從六位上濃宜公水通外從五位下。賛引及博士弟子十七人賜爵人一級。戊子。幸山階寺。奏林邑及呉樂。奴婢五人賜爵有差。辛夘。淡路國頻旱乏種稻。轉播磨國加古印南等郡稻四万束。出擧百姓。」左京人正六位上大伴大田連沙弥麻呂賜姓宿祢。甲午。幸東院。出雲國造外從六位下出雲臣益方奏神賀事。仍授益方外從五位下。自餘祝部等。叙位賜物有差。丙午。淡路國飢。賑給之。丁酉。山背國飢。賑給之。庚子。伊豫國越智郡大領外正七位下越智直飛鳥麻呂。獻絁二百卅疋。錢一千二百貫。授外從五位下。壬寅。和泉國五穀不登。民無種稻。轉讃岐國稻四万餘束以充種子。癸夘。賜左右大臣近江國穀各二千斛。丁未。近衛將監從五位下吉備朝臣泉爲兼大學員外助。從五位下吉備朝臣眞事爲鑄錢員外次官。戊申。從四位下阿倍朝臣毛人爲大藏卿。從五位下藤原朝臣乙繩爲大輔。從五位上奈貴王爲大膳大夫。侍從正親正如故。從五位下石川朝臣人麻呂爲彈正弼。從四位下佐伯宿祢今毛人爲造西大寺長官。右少弁正五位上大伴宿祢伯麻呂爲兼次官。左中弁侍從内匠頭武藏介正五位下藤原朝臣雄田麻呂爲兼右兵衛督。從四位下藤原朝臣楓麻呂爲大宰大貳。

二月四日に東大寺に行幸され、國中連公麻呂(國君麻呂)に従四位下、佐伯宿祢眞守に従五位上、美努連奥麻呂桑原公足床(桑原連足床)に外従五位上、造寺工の「猪名部百世」に外従五位下を授けている。七日に大学に行幸され、釈奠(孔子の祭)を行っている。座主である直講の麻田連眞淨(金生に併記)に従六位下、音博士の「袁晋卿」(李元環の東隣)に從五位上、問者を勤めた大学少允の「濃宜公水通」に外従五位下を授けている。先導役と博士の弟子十七人に皆位階を一級ずつ賜っている。

八日に山階寺(興福寺)に行幸され、林邑楽呉楽が演奏されている。演奏に加わった奴婢五人にそれぞれ位階を賜っている。十一日、淡路國でしばしば旱魃が起こり、種籾が欠乏した。そこで播磨國加古・印南郡などの稲四万束を転送して人民に出挙している。また、左京の人である「大伴大田連沙弥麻呂」に宿祢姓を賜っている。

十四日に東院に行幸され、出雲國造の出雲臣益方が神賀事を奏上している。そこで「益方」に外従五位下を授けている。その他の祝部などにもそれぞれ位を授け、物を賜っている。二十六日に淡路國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。十七日に山背國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

二十日に伊豫國越智郡の大領である「越智直飛鳥麻呂」が、絁二百三十匹、銭千二百貫を献上し、外従五位下を授けている。二十二日に和泉國の五穀が不作のため、民衆は種籾がなくなってしまった。そこで讃岐國の稲四万束を転送して、種籾に当てている。二十三日に左大臣・右大臣に近江國の籾米をそれぞれ二千石ずつ賜っている。

二十七日に近衛将監の吉備朝臣泉(眞備の長男)に大学寮の員外助を兼任させている。また、吉備朝臣眞事を鋳銭司の員外次官に任じている。二十八日に阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を大藏卿、藤原朝臣乙縄(縄麻呂に併記)を大輔、侍従正親正の奈貴王(石津王に併記)を兼務で大膳大夫、石川朝臣人麻呂を弾正弼、佐伯宿祢今毛人を造西大寺長官、右少弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)を兼務で次官、左中弁・侍従・内匠頭・武藏介の藤原朝臣雄田麻呂を兼務で右兵衛督、藤原朝臣楓麻呂(千尋に併記)を大宰大貮に任じている。

<猪名部百世>
● 猪名部百世

氏名「猪名部」については、書紀の応神天皇の記述と根拠として「猪名部は木工を専業とした職業部(品部)」として解釈されている。既に幾度も述べたように「部=職業部」と解釈してしまっては、肝心なことが見落としてしまうことになる。

たった一度の記述で決め付ける解釈、一度しか用いられないのに枕詞とする解釈と同様であろう。要するに文字列の意味が不明なだけであろう。

流石に「造寺工」の関連情報は、殆ど得られることはなく、辛うじて、『東大寺要録』に引用されている「大仏殿碑文」に「伊賀国人大工従五位下」の記述があると伝えられている。具体的な名前があるわけではなく、爵位が従五位下(本文は外位)となっていることからの推測となる。

ともあれ、伊賀國の地でこの人物の名前が表す地形を探すことにしよう。勿論、既に多くの「采女朝臣」一族が蔓延った場所を除いて、であろう。猪名=平らな頂の山稜の端が交差するように延びているところと解釈する。幾度か登場の文字列である。

部=近隣であり、百世=途切れずに丸く小高い地が連なっているところと読み解ける。これらの地形を満足する場所を図に示した。見事に谷間の奥がすんなりと埋められたようである。それが目的で登場させた、のかもしれない。

<濃宜公水通>
● 濃宜公水通

「濃宜公」は、記紀・續紀を通じて初見であり、また、関連する情報も皆無のようである。唯一、この後に信濃介に任じられたと記載されている。

名前が示す地形から、その出自の場所を求める試みを行ってみよう。「濃」=「氵+農(臼+囟+辰)」と分解される。かなり複雑に文字要素が組合わされた文字である。それを地形象形的には、「濃」=「二枚貝が舌を出したような様」と解釈した。

美濃國信濃國などに用いられ、馴染みの多い文字である。勿論、それぞれに立派な「濃」の地形を有している國なのである。何らの補足情報もないのなら、この二國のうちのどちらか、ではなかろうか。上記したように後に信濃介となることからすると、美濃國の出身だったと推測される。

さて、濃宜=積み重なった高台の前に二枚貝が舌を出したような地があるところと読み解ける。確かに地図を確認すると、「濃」の背後に高台がくっ付ている地形であることが解る。水通=川が突き抜けるように流れているところと読み解くと、出自の場所を図に示したところに求めることができる。

古事記の記述でも、かなり古い時代に登場する地であり、「國造」の居処の近隣と推定される。がしかし、その後に歴史の表舞台に現れる人物がなかったのである。またもや、續紀が埋もれた人材を引き摺り出したような記述を思われる。

<大伴大田連沙弥麻呂>
● 大伴大田連沙弥麻呂

「大伴大田連」に関しては、上記と同様に情報は極めて限られたもののようである。調べると、どうやら紀伊國に関わる一族であったことが分かった。

頻出の大伴=平らな頂の山稜を谷間が真っ二つに区切るところと解釈した。すると、古事記の倭建命が東方征圧を命じられて、足柄から東國に抜け、そして甲斐國の酒折宮に向かう山越えの行程が思い起こされる(こちら参照)。

大田=平らな頂の麓で平らに整えられたところと読むと、紀伊國伊都郡の谷間に広がる場所を示していることが解る。幾度か登場の沙弥麻呂沙弥(彌)=三角に尖った山稜の傍らで弓なりに広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

国土地理院航空写真1961~9年では棚田が広々と開拓されているが、当時は、まだまだ狭い谷間が並ぶ有様であったように推測される。いやはや、埋もれた人材を強引に引っ張り出している様相である。今後も引き続き・・・なのであろう。

<越智直飛鳥麻呂-國益-蜷淵>
● 越智直飛鳥麻呂

「越智直」の氏姓を持つ人物である「廣江」は、元正天皇紀に明經第一博士として褒賞され、後に従五位下を叙爵されていた。その出自を伊豫國として求めた(こちら参照)。

今回は伊伊豫國越智郡と具体的に記載され、「廣江」の系列とは異なるが、「飛鳥麻呂」も同族の一人であったと推測される。

飛鳥麻呂飛鳥=山稜が飛んでいる鳥のような形をしているところと解釈する。記紀・續紀を通じて不変の解釈である。羽を長く延ばしている様子を捉えた表記と思われる。

麻呂=萬呂とすると、図に示した場所が出自と推定される。古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子、大雀命・根鳥命と併せて三羽の鳥が並んでいる地形である。また、文武天皇紀に伊豫國が白燕を献上したと記載されていた。まさに鳥尽くしである。

少し後に越智直國益物を献上し、外従五位下を叙爵されている。既出の文字列である國益(益)=区切られた地が谷間に挟まれて平らに広がって盛り上がっているところと解釈すると、出自場所の詳細は不明であるが、おそらく現在の二島中学校辺りと推定される。

更に後に越智直蜷淵が同様に貢献をして外従五位下を叙爵されている。蜷淵=山稜の端が握り拳のように丸まっている麓に淵があるところと解釈したが、その地形を図に示した場所に見出せる。現在の二島小学校辺りを開拓したのではなかろうか。

三月庚戌朔。日有蝕之。辛亥。幸元興寺。捨綿八千屯。商布一千段。賜奴婢爵有差。壬子。幸西大寺法院。令文士賦曲水。賜五位已上及文士祿。乙夘。左京人正六位上上毛野坂本公男嶋。上野國碓氷郡人外從八位下上毛野坂本公黒益。賜姓上毛野坂本朝臣。同國佐位郡人外從五位上桧前君老刀自上毛野佐位朝臣。戊午。幸大安寺。授造寺大工正六位上輕間連鳥麻呂外從五位下。癸亥。幸藥師寺。捨調綿一万屯。商布一千段。賜長上工以下奴婢已上廿六人爵各有差。放奴息麻呂賜姓殖栗連。婢清賣賜姓忍坂。常陸國筑波郡人從五位下壬生連小家主女賜姓宿祢。乙丑。阿波國板野名方阿波等三郡百姓言。己等姓。庚午年籍被記凡直。唯籍皆著費字。自此之後。評督凡直麻呂等披陳朝庭。改爲粟凡直姓。已畢。天平寳字二年編籍之日。追注凡費。情所不安。於是改爲粟凡直。丙寅。勅。近衛將曹從六位下勳六等間人直足人等十九人。感會風雲。奮激忠勇。超群抜衆。斬寇滅凶。朕以嘉其武節。賞此高勳。宜令美服光榮。容儀標異。自今以後。諸勳六等已上身。有七位而帶職事者。許執牙笏并用銀裝刀帶等。及元日等節。著當階色。己巳。從五位下巨勢朝臣苗麻呂爲少納言。從四位下阿倍朝臣息道爲中務大輔。侍從如故。從五位下石川朝臣清麻呂爲少輔。從五位下賀茂朝臣大川爲大監物。從五位下文屋眞人忍坂麻呂爲右大舍人頭。從五位下石上朝臣眞足爲内匠助。從五位下粟田朝臣公足爲員外助。從五位下淨原王爲内礼正。從五位下紀朝臣廣名爲式部大輔。從五位下藤原朝臣小黒麻呂爲少輔。從五位下皇甫東朝爲雅樂員外助兼花苑司正。正五位上淡海眞人三船爲兵部大輔。從五位下百濟王三忠爲少輔。從五位下榎井朝臣祖足爲木工助。外從五位下津連眞麻呂爲攝津大進。從五位上佐伯宿祢三野爲下野守。從五位下縣犬養大宿祢内麻呂爲介。外從五位下利波臣志留志爲越中員外介。從五位下阿部朝臣許智爲丹波介。從五位下紀朝臣古佐美爲丹後守。從三位藤原朝臣藏下麻呂爲伊豫土左二國按察使。近衛大將左京大夫如故。從五位下藤原朝臣雄依爲右衛士督。從五位下田口朝臣安麻呂爲佐。」始置法王宮職。以造宮卿但馬守從三位高麗朝臣福信爲兼大夫。大外記遠江守從四位下高丘連比良麻呂爲兼亮。勅旨大丞從五位上葛井連道依爲兼大進。少進一人。大属一人。少属二人。」授外從五位下利波臣志留志從五位上。以墾田一百町獻於東大寺也。庚午。左京人從七位上前部虫麻呂賜姓廣篠連。乙亥。常陸國新治郡大領外從六位上新治直子公獻錢二千貫。商布一千段。授外正五位下。丙子。河内國古市郡人從四位下高丘連比良麻呂賜姓宿祢。

三月一日に日蝕が起こっている。二日に元興寺に行幸されて、真綿八千屯・商布(交易用の麻布)千段を喜捨し、寺の奴婢にそれぞれ位を賜っている。三日に西大寺法院に行幸されて、文人を集めて曲水の宴で詩を作らせ、五位以上の者や文人に禄を賜っている。

六日に左京の人である上毛野坂本公男嶋(石上部男嶋)、上野國碓氷郡の人である「上毛野坂本公黒益」に「上毛野坂本朝臣」の氏姓を、また、同國佐位郡の人である桧前君老刀自に「上毛野佐位朝臣」の氏姓を賜っている。九日に大安寺に行幸されて、寺を造営する大工の「輕間連鳥麻呂」に外従五位下を授けている。

十四日に藥師寺に行幸されて、調の真綿一万屯・商布一千段を喜捨し、常勤の大工以下奴婢までの二十六人に、それぞれ位を賜っている。また、奴の息麻呂(咋麻呂に併記)を解放して「殖栗連」の氏姓を、婢の「清賣」には「忍坂」(忍坂淸賣。依智王等に併記)の氏を賜っている。また、「常陸國筑波郡」の人である「壬生連小家主」に宿祢姓を賜っている。

十六日に「阿波國板野郡・名方郡・阿波郡」の人民が以下のように言上している・・・自分達の姓は、庚午(670)年の戸籍に”凡直”と記載された。ただ籍には”直”の字がみな”費”の字で書かれていた。それから後になって評督の「凡直麻呂」等が朝廷に申し立てて、既に粟”凡直”姓に改められている。ところが天平字二(758)年に戸籍を作る時、遡って”凡費”と注記されてしまった。自分達の心中は落ち着かない・・・。そこで”凡費”を改めて粟”凡直”に改姓している。

十七日に次のように勅されている・・・近衛将曹・勲六等の「間人直足人」等十九人は、天下の変動に際会したのに感激し、忠義武勇を奮い起こし、他の人々を超え抜きんでて、仇敵を斬り凶賊を滅ぼした。朕はこの武勇・忠節を喜んで、この大きな手柄に褒賞を与える。そこで立派な服を支給してこの栄誉を輝かし、姿形を他の人々と違っていることを明瞭にさせるべきである。今後は、勲六等以上の者で、七位を持っていて定まった職掌のある者は象牙の笏を持たせ、銀装の刀と腰帯などを用いることを許可する。但し、元日などの節会の時には、本来の位階に対応する種類のものを着用するように・・・。

二十日、巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)を少納言、侍從の阿倍朝臣息道を兼務で中務大輔、石川朝臣清麻呂(眞守に併記)を少輔、賀茂朝臣大川を大監物、文屋眞人忍坂麻呂(水通に併記)を右大舍人頭、石上朝臣眞足を内匠助、粟田朝臣公足(黒麻呂?)を員外助、淨原王(長嶋王に併記)を内礼正、紀朝臣廣名(宇美に併記)を式部大輔、藤原朝臣小黒麻呂を少輔、「皇甫東朝」(居処は李元環の谷間?)を雅樂員外助兼花苑司正、淡海眞人三船を兵部大輔、百濟王三忠()を少輔、榎井朝臣祖足を木工助、津連眞麻呂を攝津大進、佐伯宿祢三野(今毛人に併記)を下野守、縣犬養大宿祢内麻呂(八重に併記)を介、利波臣志留志(砺波臣)を越中員外介、阿部朝臣許智(駿河に併記)を丹波介、紀朝臣古佐美を丹後守、近衛大將左京大夫の藤原朝臣藏下麻呂(廣嗣に併記)を兼務で伊豫土左二國按察使、藤原朝臣雄依(小依)を右衛士督、田口朝臣安麻呂(大戸に併記)を佐に任じている。

また、初めて法王宮職を置いている。造宮卿・但馬守の高麗朝臣福信に大夫を兼任させ、大外記・遠江守の高丘連比良麻呂(比枝麻呂)に亮を、勅旨大丞の葛井連道依(立足に併記)に大進を兼任させている。少進一人、大属一人、少属二人を配属させている。この日、利波臣志留志(砺波臣)に従五位上を授けている。墾田百町を東大寺に献上したことによる。

二十一日に左京の人である前部虫麻呂(選理に併記)に「廣篠連」の氏姓を賜っている。二十六日に「常陸國新治郡」大領の「新治直子公」が銭二千貫・商布一千段を献上し、外従五位下を授けている。二十七日に河内國古市郡の人である高丘連比良麻呂(比枝麻呂)に宿祢姓を賜っている。

<上毛野坂本公黒益>
● 上毛野坂本公黒益

「上毛野坂本公」の氏姓については、天平勝寶五(753)年七月に左京の人である石上部男嶋が・・・本来の戸籍名は「上毛野坂本君(公)」である筈だから訂正願いたい・・・と言上し、許可されたことで登場している。

上記の記述で、「男嶋」の出自の地は上野國碓氷郡であったことを伝えていて、既に前記でその場所を求めた。「上野≠上毛野」であることも追記した。類似の文字列を用いて、恣意的に混乱させるような感じであるが、編者等のちょっとした戯れとしておこう。

既出の文字列である黒益(益)=二つの谷間に挟まれて平らに区切られた地に[炎]のような山稜が谷間へ延びているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。配置からすると「諸弟」に繋がる人物だったようにも思われるが、定かではない。

尚、彼等の東側が上野國佐位郡の桧前君老刀自の居処と推定した。同様に「上毛野佐位朝臣」の氏姓を賜った、と記載されている。「朝臣」姓授与が、やや濫発気味のような感じもするが・・・。

<輕間連鳥麻呂>
● 輕間連鳥麻呂

「輕間連」は、記紀・續紀を通じて初見である。しかも大安寺造営(修理?)の大工としての役割であり、些か、その出自を推定するのに情報が少ないような気配である。

ところが、調べてみると、何とれっきとした物部一族であることが分かった。「目・荒山」の系列、とすれば「伊莒弗」から繋がった系譜に属する人物だったようである(こちらこちら参照)。

輕間連の「輕」=「車+坙」=「突き通すように延びている様」、「間」=「門+日(月)」=「門のようになった地に山稜の端が挟まれている様」と解釈した。纏めると、輕間=門のようになった地に挟まれている山稜の端が突き通すように延びているところと読み解ける。図に示した場所の地形を表していることが解る。

鳥麻呂の「鳥」の地形は、その突き通すような山稜の端が、何となく鳥の頭部のように思われるが、現在の航空写真を参照すると、見事な鳥(ペリカン?)が横たわっているように見受けられる。いやはや、壮大な名前であろう。「鳥麻呂」は、後に修理次官に任じられている。

「物部」一族は、大連系列の「守屋」が失脚した後、「麻呂」の石上系列が主たる人材を輩出して来た。本来は嫡流のように思われる「伊莒弗・目」の麓に広がる地からは殆ど見られずの状態であった。邇藝速日命の子孫、天皇家に媚び諂う気分ではなかったのかもしれない。一族の中で奔流ではない系列がしゃしゃり出るのは、歴史が示すところでもあろう。

<常陸國:筑波郡・新治郡>
<壬生連小家主・新治直子公>
常陸國:筑波郡・新治郡

「筑波郡・新治郡」は、續紀本文における初見であるが、元正天皇紀に鹿嶋郡が登場した時に、これ等の郡を含めて、常陸國の郡割を求めた(こちら参照)。

郡名の由来については、勿論、地形象形表記であるが、詳細を述べてはいなかったので、ここであらためてそれぞれの郡名が表す地形を読み解いてみよう。

筑波の頻出の「筑」=「竹+工+丮」=「両腕を延ばしたような谷間を突き通すように山稜が延びている様」と解釈した。地形としては「谷間が[凡]の文字形のような様」である。「凡」に含まれる「、」が突き通す山稜を表している。「筑紫」などは、地名・人名に共に用いられているのである。また「波」=「氵+皮」=「覆い被さる様/傾いている様」と解釈したが、前者を用いる。

纏めると筑波=[凡]の文字形のような谷間が覆い被さるように広がり延びているところと読み解ける。図に示した場所が筑波郡と名付けられた場所と推定される。山麓と現在の長谷川との間の細長い地であったようである。二つに岐れた山頂は、現在の筑波山の男体山・女体山に対応するかのようで、何とも愉快である。

頻出の文字列である新治=切り分けられた山稜が水辺で耜のような形をしているところと読み解ける。図に示した山稜の形を、そのまま郡名に用いたのであろう。久慈郡・鹿嶋郡とせめぎ合うような配置となっている。

尚、古事記の倭建命の東方征伐記で邇比婆理(ニイハリ)・都久波(ツクハ)が登場する。読みは、そのものであるが、全く異なる場所を表していると解釈した。それを十分に承知の上で名付けられた郡名であろう。

● 壬生連小家主 「筑波郡」の住人に宿祢姓を賜ったと記載されている。実は、既に「壬生連小家主女」が『仲麻呂の乱』で外従五位下・勲五等を授かっていた。あらためて出自の場所を求めてみよう。

既出の文字列である壬生=生え出た地が弓なりに曲がっているところと解釈した。図に示した「筑波」のそのまた端にその地形を見出せる。小家主=三角に尖った豚の口のような山稜の後が真っ直ぐに延びているところと読むと、出自の場所を表していることが解る。

● 新治直子公 新治は、郡名そのものである。名前の「子公」は既出の文字列ではあるが、少々変わった用い方をされている。構わず読むと、子公=生え出た山稜の傍らの谷間に丸く小高い地があるところとなり、出自の場所を図に示した。些か鹿嶋郡との郡境が曖昧であったが、この人物の登場で明瞭になったように思われる。

<阿波國:板野郡・名方郡・阿波郡>
<粟凡直麻呂>
阿波國:板野郡・名方郡・阿波郡

常陸國に続いて阿波國の郡割が記載されている。勿論、これが全てか否かは不明であるが、先ずは各郡の配置を行ってみよう。

「板野郡」の板野=山稜が手のような形をして延びている麓に野があるところ、「名方郡」の名方=山稜の端が耜のように延びて広がっているところ、「阿波郡」の阿波=台地が覆い被さるように延びて広がっているところと読み解ける。

図に示したように各郡の配置が、すんなりと求められる。「阿波」は、上記の「筑波」と同様に解釈すると、単に「端」とするよりも実態に即した地形象形表記であることが解る。そもそも古事記で用いられた國名の「粟」ではなく、「阿波」の表記も國全体が覆い被さるような地形であり、極めて適切な表現となっているのである。

尚、少し後に麻殖郡が登場する。上図に示した場所と推定されるが、詳細は後に述べることにする。通常、徳島県麻植郡(平成の大合併で消滅)とされるが、「殖」と「植」は全く異なる地形を表す文字である。

● 粟凡直麻呂 「粟凡直」の氏姓を持つ人物は、聖武天皇紀に粟凡直若子が、多くの女官の一人として外従五位下を叙爵されて登場していた。麻呂=萬呂として解釈すると、図に示した「板野郡」の場所が出自と推定される。

古事記の品陀和氣命(応神天皇)の子が多数住まっていた地域と推定した場所である(こちら参照)。しかしながら、その子孫が皇統に絡んだり、官吏に登用されることはなく、埋もれた一族の様相である。洞海湾がもたらす豊かさに支えられた國だったと推測される。

<間人直足人>
● 間人直足人

「間人直」の氏姓は、記紀・續紀を通じて初見のようである。「間人」の文字列は、間人皇女(天智天皇の妹)や中臣間人などで用いられているが、直接的な関連は見受けられない。

調べると丹波(後)國が出自であったらしいことが分かった。不確かな情報なのであるが、その地で間人=門のように延びた山稜に挟まれた谷間に三日月の形の地があるところを探すことにした。

すると、古事記の旦波之由碁理、後に三尾と呼称された山稜が、その地形を示していると気付かされる。この地には、多くの人物が登場し、『壬申の乱』においても三尾城があった場所と記載されていた。

足人=足のような谷間があるところと読むと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。些か変わった褒賞を授かったようである。この後に登場されることはなく、消息は不明である。











 
 

2023年5月17日水曜日

高野天皇:称徳天皇(10) 〔634〕

高野天皇:称徳天皇(10)


神護景雲元(西暦767年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

神護景雲元年春正月己未。勅。畿内七道諸國。一七日間。各於國分金光明寺。行吉祥天悔過之法。因此功徳。天下太平。風雨順時。五穀成熟。兆民快樂。十方有情。同霑此福。」」尚膳從三位小長谷女王薨。三品忍壁親王之女也。己巳。御東院。詔曰。今見諸王。年老者衆。其中或勤勞可優。或朕情所憐。故隨其状。並賜爵級。宜告衆諸令知此意焉。无位依智王。篠嶋王。廣河王。淨水王。名方王。調使王。飯野王。鴨王。壹志濃王。田中王。八上王。津守王。名草王。春階王。中村王。池原王。積殖王。高倉王。礒部王。長尾王。淨名王並授從五位下。」從五位上百濟王理伯正五位上。外正五位下大原連家主。外從五位下池原公禾守。正六位上弓削御淨朝臣廣方。大野朝臣石本。文屋眞人忍坂麻呂。三嶋眞人嶋麻呂。藤原朝臣雄依。藤原朝臣長道。石川朝臣眞人。石川朝臣名繼。石上朝臣眞足。大原眞人年繼。石川朝臣人麻呂。巨勢朝臣苗麻呂。當麻眞人永嗣。從六位上安倍朝臣草麻呂。正六位上佐伯宿祢家主。川邊朝臣東人。吉備朝臣眞事。笠朝臣乙麻呂並從五位下。正六位上林連雑物。船連庭足。堅部使主人主。從六位上昆解沙弥麻呂。正六位上高屋連赤麻呂。秦忌寸蓑守。品治部公嶋麻呂。難破連足人並外從五位下。」從四位下藤原朝臣家子正四位下。庚午。无位廣田王。三笠王。神王並授從五位下。從五位下大伴宿祢益立正五位下。從五位下多治比眞人小耳從五位上。正六位上中臣朝臣子老。巨勢朝臣池長。石川朝臣清麻呂。上毛野朝臣稻人。榎井朝臣祖足。阿倍朝臣小東人。從六位上大春日朝臣五百世。大宅朝臣廣人並從五位下。正六位上土師宿祢位。土師宿祢田使並外從五位下。癸酉。授正六位上阿倍小殿朝臣人麻呂從五位下。復无位上毛野公眞人本位外從五位下。正六位上上部木。甲眞高。從七位下丹比宿祢眞嗣並外從五位下。己夘。尾張國飢。賑給之。

神護景雲元年正月八日に次のように勅されている・・・畿内及び七道の諸國は、七日の間、各々の國分寺である金光明寺で吉祥天悔過の法を行え。この功徳によって天下が太平になり天候が順調で、五穀が成熟し万民は快く楽しく暮らして、諸方の生き物が、同じようにこの福徳をこうむることができるであろう。尚膳の小長谷女王が亡くなっている。三品の忍壁親王の娘であった。

十八日に東院に出御されて、次のように詔されている・・・今、諸王を見てみると、年老いた者が多い。その中には働きを誉めるべき者や、或いは朕が心中、憐れに思っている者がいる。そこでその状態に従って、それぞれに位階を授ける。諸々の人々に告げてこの意図を知らせるように・・・。

「依智王・篠嶋王・廣河王・淨水王・名方王・調使王・飯野王・鴨王・壹志濃王・田中王・八上王・津守王・名草王・春階王・中村王・池原王・積殖王・高倉王・礒部王・長尾王・淨名王」に從五位下、百濟王理伯()に正五位上、大原連家主(大原史遊麻呂に併記)・池原公禾守・「弓削御淨朝臣廣方」・大野朝臣石本(眞本に併記)・文屋眞人忍坂麻呂(水通に併記)・「三嶋眞人嶋麻呂」・藤原朝臣雄依(小依。家依に併記)・「藤原朝臣長道・石川朝臣眞人」・石川朝臣名繼(眞守に併記)・「石上朝臣眞足・大原眞人年繼・石川朝臣人麻呂」・巨勢朝臣苗麻呂(堺麻呂に併記)・當麻眞人永嗣(得足に併記)・安倍朝臣草麻呂(弥夫人に併記)・佐伯宿祢家主(眞守に併記)・「川邊朝臣東人」・吉備朝臣眞事笠朝臣乙麻呂(不破麻呂に併記)に從五位下、「林連雑物・船連庭足」・堅部使主人主(田邊公吉女に併記)・昆解沙弥麻呂(宮成に併記)・高屋連赤麻呂(並木に併記)・秦忌寸蓑守(秦勝古麻呂に併記)・「品治部公嶋麻呂」・難破連足人(難波藥師惠日に併記)に外從五位下、藤原朝臣家子(百能に併記)に正四位下を授けている。

十九日に「廣田王・三笠王・神王」に從五位下、大伴宿祢益立に正五位下、多治比眞人小耳に從五位上、「中臣朝臣子老」・巨勢朝臣池長(巨勢野に併記)・石川朝臣清麻呂(眞守に併記)・上毛野朝臣稻人(馬長に併記)・「榎井朝臣祖足・阿倍朝臣小東人・大春日朝臣五百世」・大宅朝臣廣人(廣麻呂に併記)に從五位下、「土師宿祢位・土師宿祢田使」に外從五位下を授けている。

二十二日に阿倍小殿朝臣人麻呂(淨足に併記)に従五位下を授けている。無位の上毛野公眞人に本位である外従五位下に復させている。「上部木甲眞高・丹比宿祢眞嗣」に外従五位下を授けている。二十八日に尾張國で飢饉が起こったので物を与えて救っている。

<依智王・篠嶋王・廣河王・淨水王・名方王>
<調使王・飯野王・廣田王・三笠王・忍坂清賣>
● 依智王・篠嶋王・廣河王・淨水王・名方王・調使王・飯野王・廣田王・三笠王

年老いたり、憐れに思う諸王を一挙に登場させている。当然ながら今では、系譜不詳となって出自場所の推定に難儀することになる。

そんな状況で系譜が知られている王等を調べてみると、施基皇子・舎人親王(和氣王)・長屋王の後裔等が含まれいていることが分かった。

和氣王・長屋王系列は、憐れに思う諸王なのであろう。これ以外に挙げられた諸王を未だ登場していない谷間に当て嵌めてみることにする。前記で、現在の味見峠に向かう谷間を、『仲麻呂の乱』に対する褒賞で登場した多くの諸王・諸女王の出自場所と推定した(こちらこちら参照)。

この谷間の北側、古事記の小長谷若雀命(武烈天皇)で記載された”小長谷”の場所であり、書紀の天武天皇の紀皇女(續紀では紀朝臣竃門娘)の出自の谷間がすっぽりと空いていることに気付かされる。と言うことで、各王の名前が表す地形を求めると・・・、

❶依智王:依智=谷間にある山稜の端が鏃と炎の形になっているところ
❷篠嶋王:筋になっている山稜が鳥のような形になっているところ
❸廣河王:水辺で谷間の出口が広がっているところ
❹淨水王:水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる麓を川が流れているところ
❺名方王:山稜の端が四角く広がっているところ
❻調使王:谷間で耕地に囲まれた地を突き通すように山稜が延びているところ
❼飯野王:なだらかに延びた山稜の麓に野が広がっているところ
❽廣田王:平らに整えられた地が広がっているところ
❾三笠王:笠のような山稜が三つ重なっているところ

・・・と読み解ける。上図に示したように、これらの諸王の出自場所を配置できることが解る。谷間の入口辺りには、既に臣籍降下した常陸王・平群王(志紀眞人)等が登場し、その谷奥にひっそりと暮らしていた王等、及び谷間を出た場所として求められたように思われる。最後の「三笠王」の地形象形は、実に明瞭であろう。

ところで、上記の王等の配置を求めている時に、左上の隅にある谷間は、未だ誰も出自の場所としていないかも、と眺めていたのだが・・・直後に婢の清賣を解放して忍坂の氏を授けたと記載されている。間違いなく、王等の西側の谷間は「忍坂」であろう。

「清(淸)」=「水辺で四角く区切られた様」、「賣」=「出+网+貝」=「出口が塞がった谷間から出ている様」とすると、淸賣=出口が塞がった谷間から出ている水辺で四角く区切られたところと読み解ける。この地が出自だったのであろう。

<鴨王・壹志濃王・神王・田中王・八上王>
● 鴨王・壹志濃王・神王・田中王・八上王

これ等の王等は、系譜が知られていて施基皇子の後裔であったようである。但し、「田中王」については、調べた範囲で素性は定かではなくが、列挙された中に入っていることから、この仲間に入れることにした。

既に山部王を筆頭にして九名の王が登場していたが(こちらこちら参照)、系譜が知られている王は少なかったのだが、何故かご本人の登場は殆ど見られない「湯原王」の系列がここで記載されている。と言うことで、各王の名前が表す地形を求めると・・・、

❶鴨王:鴨=甲羅のように盛り上がった地が鳥の形をしているところ
❷壹志濃王:壹志濃=蓋をするように延びる山稜の麓を蛇行してい流れる川の先で二枚貝が舌を出した形をしたところ
❸神王:神=高台が長く延びているところ
❹田中王:田中=平らに整えられた地に突き通すように山稜が延びているところ
❺八上王:八上=山稜の端が二つに岐れた谷間で盛り上がっているところ

・・・と読み解ける。図に示した場所が、各々の王等の出自と推定される。尚、「高田王」ついては、施基皇子の子と推定したが(一説では「春日王」の子)、上記の配置に従うと「鴨王」の父親だったと思われる。地形象形表記が正確であり、間違いないであろう。

<津守王・名草王・春階王・中村王>
● 津守王・名草王・春階王・中村王

「津守王」は、「船王」の孫(父親は葦田王。船王の山稜の北側の谷間が出自)であり、『仲麻呂の乱』に連座して配流(丹後國)されたと知られている。

「名草王」については、後の寶龜二(771)年九月に「和氣王男女大伴王。⾧岡王。名草王。山階王。采女王並復属籍」と記載されていて、「和氣王」の子であることが分かる。

「春階王」は、上記に含まれる「山階王」の別名ではなかろうか。最後の「中村王」は、関連する情報もなく、この後に登場されることはないが、「船王・和氣王」に関わる人物かと思われる。

津守王津守=水辺で筆のような山稜の麓にある両肘を張ったような形をしたところと読み解ける。津守連一族で用いられた文字列である。推定した出自場所を図に示した。「船」の地形を「津」で言い換えた表記であろう。

名草王名草=山稜の端に丸く小高い地があるところと読むと、図に示した場所が見出せる。春階王春階=[炎]のように山稜が延び出た地が段々に連なっているところと読み解ける。別名の山階王は、「山」=「炎」を表していると思われる。「和氣王」の男として申し分のない配置であることが解る。

中村王中村=手のような山稜が突き通すように延びているところと解釈すると、現在の須佐神社がある山稜の端辺りを表している思われる。位置的には細川王の子だったのかもしれない。ここで登場した各王は、草壁皇子及びその子の輕皇子の出自に隣接する場所を居処としていたのである(こちら参照)。がしかし、決して重なることはないように思われる。

<池原王・積殖王・高倉王>
● 池原王・積殖王・高倉王

関連する情報は全く見当たらず状況であるが、「池原王」の「池原」については、天武天皇の忍壁(刑部)皇子の子である「山前(隈)王」の娘に「栗前枝女」がいたことが知られている(こちら参照)。

續紀では、後の寶龜十一(780)年八月に「池原女王」と改名されて従五位下を授けられたと記載されている。即ち、池原王は、この「栗前枝女」の近隣を出自としていたのではなかろうか。

すると積殖王積殖=山稜が真っ直ぐに延びて尽きる地が積み重なって小高くなっているところの地形を図に示した場所に見出せる。書紀の天武天皇紀に登場した積殖山口の解釈そのものである。多分、栗前(連)一族の娘に産ませた王であろう。高倉王高倉=皺が寄ったように山稜が延びている谷間が奥まったところと読み解ける。古事記の高倉下(書紀では倉歷道)に用いられた文字列である。

「忍壁皇子」の後裔等の活躍は、短命であったことも加えて、華々しくはなかったようである。「山前王」の子、「葦原王」は暴挙が過ぎて配流されたと記載されていた。高野天皇が不憫に思った諸王だったのであろう。

<礒部王・長尾王・淨名王>
● 礒部王・長尾王・淨名王

「礒部王」は、長屋王の孫、父親が桑田王であったことが知られている。『長屋王の変』で自死をした息子等、「膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王」の一人として名前が挙がっていた。

礒部王礒部=麓がギザギザとしている地の近隣のところと読み解くと、図に示した場所が出自と思われる。「桑田王」の西隣である。

淨名王長尾王については系譜不詳であるが、この周辺の地を出自としていたのではなかろうか。淨名=山稜の端が水辺で両腕のような山稜に取り囲まれているところ長尾=山稜が尾のように長く延びているところと解釈して、各々図に示した場所が出自と推定される。

「長屋王」の子である「安宿王」は、『長屋王の変』では藤原長娥子(宮子の妹)が母親であり、処罰されなかったが、後の『橘奈良麻呂の乱』では連座して佐渡國に配流されている。「淨名王」の配置は「桑田王」の子孫かもしれないが、「長尾王」は「安宿王」の子孫であった可能性が高い。いずれにしても、ここで挙げられた王等は、「長屋王」の後裔であり、やはり、不憫に思われたのであろう。

<弓削御淨朝臣廣方-廣田-廣津>
<-美夜治-等能治>
● 弓削御淨朝臣廣方

調べるまでもなく、道鏡の弟である「淨人」の子であろう。そして、二人の弟と共に三兄弟は父親の栄枯盛衰に従うことになったようである。

「弓削」の地形は起伏に富むが、変形も大きく、薩摩等が登場した時には、国土地理院航空写真を援用したが、陰影起伏図を拡大して出自の場所を求めてみよう。

二人の弟は、廣田廣津と知られている。三兄弟併せて、廣方=四角く区切られた地が広がっているところ廣田=平らに整えられた地が広がっているところ廣津=水辺の筆のような地が広がっているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。父親をぐるりと取り囲ん配置になっていることが解る。

称徳天皇の崩御後、「道鏡・淨人」は失脚し、この三兄弟も土左國へ配流される。後に赦免されて河内國若江郡に戻されるが、入京は許可されなかったとのことである。

少し後に弓削御淨朝臣美夜治弓削御淨朝臣等能治が従五位下を叙爵されたと記載されている。”御淨朝臣”故に「淨人」の近親者であり、共に女官として任用されたのであろう。女性の名前は、”古事記風”が多く見られる。端的な地形象形表記として、大歓迎である。

美夜治=谷間が広がった地(美)に曲がりくねっている谷間(夜)の傍に耜のような山稜(治)が延びているところと読み解ける。古事記で頻出の「夜」=「亦+夕」=「谷間に幾つかの山稜が延び出ている様」と解釈したが、結果として地形的には「谷間が曲がりくねる」ことになる。等能治=隅にある(能)並び揃った山稜(等)が耜のように(治)延びているところと読み解ける。それぞれの出自の場所を図に示した。

<三嶋眞人嶋麻呂>
● 三嶋眞人嶋麻呂

孝謙天皇紀に総勢二十名の王が一挙に「三嶋眞人」の氏姓を賜ったと記載されていた。彼等は、古事記に登場する三嶋湟咋の居処、現地名の京都郡みやこ町勝山箕田・宮原に広がる山稜に寄り添っていたと推定した(こちら参照)。

今回登場の人物は、それから十数年の月日が経ち、多分、その時には生まれていなかったのであろう。

嶋麻呂が表す地形は、嶋=山稜が鳥の形をしている様であり、麻呂=萬呂と解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。若干地形が変形しているが、読み取ることが可能のようである。前記したように、ほぼ全ての谷間に蔓延っていたわけで、彼等の中で最北の位置である。

任官された事例は極少なく、「嶋麻呂」はこの後何度か登場されるようである。また、幾人かの新人も見られるが、ご登場の時に出自場所を紐解くとして、上記の王等は、年老いていたように推測される。

<藤原朝臣長道-長山-長繼>
● 藤原朝臣長道

南家の人物であり、右大臣「豊成」の孫、「武良自」の子と知られている。「仲麻呂」一家が壊滅した後に復権した系列である(こちら参照)。

長道=首の付け根のような窪んだ地が長くなっているところと読み解くと、父親の南側の場所が出自と推定される。弟に藤原朝臣長山がいて、後に登場する。併せて図に示した。

「武良自」は「仲麻呂」の讒言で失脚した父親「豊成」と共に地方官に左遷されたままで過ごしたようであり、その息子も日の目を見る機会がなかったと推測される。骨肉の諍いほど非情なものはなかろう。

兄弟共にこの後に幾度か登場されるが、重用されたわけではないようである。一方、北家の「永手」一家が隆盛となる様相が伝えられている。後(光仁天皇紀)に藤原朝臣長繼が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であるが、長繼=[長]に連なるところと解釈すると、図に示した「長道・長山」の近隣が出自と推定される。「武良自」の子のようだが、記録がないのであろう。

<石川朝臣眞人-人麻呂-美奈伎麻呂>
● 石川朝臣眞人・石川朝臣人麻呂

凄まじいくらいに登場している「石川朝臣」一族だが、まだまだ埋もれている人材がいたのであろう。ここでも四名の人物の叙位が行われている(二名は既に併記した引用図を参照)。

四名共に、当然ながら系譜不詳であり、名前が表す地形から出自の場所を求めることになる。さて、決して広くはない地…現地地名は京都郡苅田町谷…に隙間が見つかるのか、些か杞憂するところではあるが・・・。

頻出の眞人=谷間が寄り集まっている窪んだところと解釈すると、図に示した場所が、その地形を表しているようでる。地形の凹凸が少なく、見辛くなっているが、三つの谷間が集まったように見える地形であろう。

人麻呂=「人」の形をした谷間にある「萬」の頭部のようなところと読み解ける。「眞人」の北側にある場所が出自と推定される。正に谷間の段差一つ一つに配置したような有様が伺える。共に今後幾度か登場されるようである。

後(光仁天皇紀)に石川朝臣美奈伎麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。古事記風の名前である美奈伎=高台の前で谷間が広がって岐れているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。その後に地方官に任じられたと記載されている。

<石上朝臣眞足-繼足>
● 石上朝臣眞足

「石上朝臣」一族は、主に麻呂から始まる系列の人物が登場し、その系譜は詳らかになっている場合が多い(こちらこちら参照)。

前記の女官の石上朝臣絲手が不詳となっているが、これは降って湧いたような聖武天皇の御落胤を自称する男が現れたことに起因するようであった(男の母親が石上朝臣志斐氐)。

そんな背景からすると眞足=足のような山稜が寄り集まっている窪んだところの系譜不詳は、やや奇妙な感じを受けるようでもある。配置的には「東人」の子と知られる「家成」の西隣であり、弟だったように思われる。

「東人」は、殆ど表舞台に登場する機会がなく、従って関連情報が少ないのであろう。いずれにせよ「石上朝臣」の氏姓は「麻呂・豊庭」及びその子孫に当て嵌まるものであり、それ以外には用いることは不可であろう(石上=磯の上)。

後(光仁天皇紀)に石上朝臣繼足が従五位下を叙爵されて登場する。繼足=[足]に連なるところと解釈すると、図に示した辺りが出自と思われる。この人物も系譜不詳であるが、「東人」の後裔だったように思われるが、定かではない。

<大原眞人年繼-室子>
● 大原眞人年繼

「大原眞人」は、百濟王の後裔である高安王等が賜った氏姓であり、系譜が定かでない場合も含めて多くの人物が登場している(こちらこちら参照)。

「年繼」も調べた範囲では、系譜不詳のようである。上記の夥しい数の王等と同様に、系譜が詳らかな皇族は、思いの外少なかったように思われる。臣籍降下しても状況は変わらずと言ったところであろう。

久々に登場の「年」=「禾+人」=「谷間に稲穂のような山稜が延びている様」と解釈した。古事記の大年神に用いられた文字である。纏めると、年繼=谷間で稲穂のように延びている山稜が連なっているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。配置からすると「櫻井」の子のようでもあるが、やはり記録に残っていないのであろう。この後續紀に登場されることはないようである。

後(光仁天皇紀)に大原眞人室子が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳であり、名前の室子=奥深い谷間から山稜が生え出ているところが示す地形を求めると、図に示した場所が見出せる。この人物も親の近隣のように思われるが、定かではない。後に幾度か登場され、十数年後に「命婦從四位下大原眞人室子卒」と記載されている。

<川邊朝臣東人-淨長・河邊朝臣嶋守>
● 川邊朝臣東人

「川邊朝臣」は、古事記の蘇賀石河宿禰が祖となった川邉臣の子孫であろう。書紀では欽明天皇紀以降に対外的な任務を与えられて活躍した事例が記載されている。

續紀では元明・元正天皇紀に「川邊朝臣母知」及び「河邊朝臣智麻呂」が登場し(こちら参照)、「川邊」と「河邊」が書き分けられていた。

「河」=「谷間の出口」を表す地形象形として、きちんと整理された結果であろう。今回登場の人物は、勿論、「川邊朝臣」一族であり、「母知」や「東女」の近隣が出自と思われる。

頻出の東人=谷間(の入口)を突き通すようなところと解釈すると、図に示した場所が出自と思われる。現在は谷間が開拓されて棚田が並んでいる様子だが、当時は狭い隙間だったのではなかろうか。「川邉」の川は、現在の小波瀬川であり、古事記の吉野河、書紀では息長横河と記載された川である。彼等は、その”河(川)尻”に住まっていたのである。

後(光仁天皇紀)に河邊朝臣嶋守が従五位下を叙爵されて登場する。頻出の文字列である嶋守=山稜が鳥の形をしている麓で両肘を張り出したように延びているところと解釈して出自場所を図に示したところと推定した。「河邊朝臣」一族としては、実に久々の登場なのだが、その後は全くの不詳のようである。

更に後に川邊朝臣淨長が従五位下を叙爵されて登場する。淨長=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地が長く延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。續紀中、その後昇進はないが、幾度か任官が記載されている。

<林連雑物-廣山>
● 林連雑物

「林連」については、孝謙天皇紀に久麻が外従五位下を叙爵されて登場している。前記でも述べたが、「久麻」には「廣山・雑物」の二名の息子がいたことが知られている。

また、後の神護景雲三(769)年二月に「外從五位下林連佐比物。廣山。正六位上日下部連意卑麻呂並賜姓宿祢」と記載されていて、「宿祢」姓を賜っている。「雑物」の別表記が「佐比物」であることも分かる。

雑(雜)物は、既出であるが、あらためて述べると、「雜」=「衣+集」と分解され、地形象形的には雜=山稜の端が寄せ集められたような様と読み解ける。頻出の物=[勿]の文字形のように谷間に山稜が延びている様と解釈した。それらの地形を図に示した場所に見出すことができる。

「物」の地形は地図の解像度では些か見辛いが、筋のように山稜が延びていることが確認される。佐比物=谷間にある左手のような山稜に「物」の地がくっ付いているところと読み解ける。納得の別表記であることが解る。兄の廣山=山が広がっているところと読むと、出自の場所を弟の南側に求めることができる。共に續紀での登場は限られているようである。

<船連庭足>
● 船連庭足

「船連」一族について、直近の淳仁天皇紀に腰佩が外従五位下を叙爵されて登場していた。今回も同様に内位ではない外従五位下の叙位であったと記載されている。

ともあれ、途切れることなく人材輩出の一族であり、”船”の周辺の谷間からの登用が行われてようである。がしかし、複数回の登場は見られず、多くの人物のその後は不明である。

既出の文字列である庭足=麓で囲まれた地から足のように山稜が延びているところと読み解ける。些か地形の凹凸が僅かになって判別が難しくなっているが、図に示した辺りにその地形を見出せると思われる。

「船連」の中では最も西側、「津連」の居処に近接する場所となっている。上記の「腰佩」が東側の端に対して西端の人物だったようである。「船・津」連一族が宿祢あるいは朝臣姓を賜るのは四半世紀後と伝えられている。

<品治部公嶋麻呂>
● 品治部公嶋麻呂

「品治部公」は、古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀に登場した息長日子王(息長帶比賣命の弟)が祖となった吉備品遲君に関わる地の近傍を居処とする人物と推測される。

直近では「吉備都彦之苗裔。上道臣息長借鎌」と記載され、古くは大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)の子、大吉備津日子命が祖となった吉備上道臣に繋がる人物、息長借鎌が住まっていた地であると伝えられている。

嶋麻呂の頻出の嶋=山稜が鳥の形をしているところ麻呂=萬呂として出自の場所を図に示した場所に見出せる。「部」=「近隣」であり、実にきめ細かい表記であることも解る。

續紀中、ここでの外従五位下を叙爵された以外には登場されることはないようである。「吉備上道」の谷間の最奥となるが、さて、更なる人物は現れるのであろうか・・・。

<中臣朝臣子老-繼麻呂-諸魚-宿奈麻呂>
● 中臣朝臣子老

後に右大臣となる「清麻呂」の次男と知られている。また、暫くして「大中臣朝臣」の氏姓を賜っている。「意美麻呂」の孫であり(こちら参照)、神祇伯を務める傍らで参議に列したと伝えられている。

幾度か登場の子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

この山稜の東側は、藤原朝臣の京家一族の居処であり、西側には「不比等」の娘である藤原朝臣吉日の場所である。その隙間の谷間に「意美麻呂」の子等が広がっていたと推定した。

上記にも少し触れたが、右大臣の父親(「子老」は次男)の威光もあってか、最終官位は正四位下・参議・宮内卿・神祇伯という要職に任じされていたとのことである。未だ登場されていない兄弟についても、併せてその出自の場所を求めることにした。

知られている全てではないが、後に續紀に記載される長男の宿奈麻呂、三男の繼麻呂、四男の諸魚は、図に示した場所が出自と推定される。宿奈=谷間に細長く区切られて小高くなっているところ繼=繋がっているところ諸魚=[魚]の形をした山稜の前で耕地が交差しているようなところと解釈される。彼等は、各々「大中臣朝臣」一族として活躍の場を得たようである。

<榎井朝臣祖足>
● 榎井朝臣祖足

「物部朴井連」から始まる「榎井朝臣」は、特異な地形の谷間に蔓延った一族と推測した。現地地名は、北九州市小倉南区市丸である。

何と言っても彼等が歴史の表舞台で活躍するようになったのは、天武天皇が吉野を脱出する時、麓に住まう朴井連雄君がその手助けをしたことからである。

物部守屋大連一族が失脚した後、石上朝臣麻呂(物部連麻呂)が台頭するまで本家の「物部」の肩代わりをする役割だったようである。

既出の文字列である祖足=積み重なった高台に足のような山稜が延び出ているところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。前記で小祖父が登場していたが、「祖」は共通であろう。また弄麻呂の「弄」もこの「祖」を表している。「榎井」の中央にある山稜に着目した命名であることが解る。

<阿倍朝臣小東人-船道>
● 阿倍朝臣小東人

相変わらず頻出の「阿倍朝臣」一族であるが、やはり系譜不詳の人物であったようである。前出の阿倍(引田)朝臣東人の近隣ではないかと、出自場所を探索すると、図に示した場所が見出せる。

小東人=三角に尖った山稜の傍らで谷間を突き通すようなところと解釈する。左図に示したように、阿倍(部)朝臣の中で引田系の人材登用もかなり多くになり、ほぼ谷間を埋め尽くしたように見受けられる。

おそらく現在の”真迫の上池”は、当時は存在しておらず、埋没した地を出自とする人物がこの後に登場するかもしれないが、目下のところではその気配を感じることはないようである。「小東人」は、この後幾度か任用されて登場するが、従五位下のままで最後に伯耆守となっている。その後の消息は定かではないようである。

後(光仁天皇紀)に阿倍朝臣船道が従五位下を叙爵されて登場する。上図にも示されているが、前出の船人の「船」に関わる人物と思われる。道=辶+首=首に付け根のように窪んだ様であり、船の西側の谷間を表していることが解る。その後に登場されることはなく、消息不明である。

<大春日朝臣五百世-清足-諸公>
● 大春日朝臣五百世

「大春日朝臣」一族は、元明天皇紀に「赤兄」が登場し、その後、元明天皇紀に「家主」、聖武天皇紀に「果安」と続いていた(こちら参照)。古事記の天押帶日子命が祖となった壹比韋臣の後裔と推測された。

周辺には邇藝速日命命の子孫である穂積朝臣、皇別系の内眞人、及び渡来系とされる山田史(一部は山田三井宿祢)、李元環など多彩な素性の持ち主がひしめき合っていた場所と思われる。現地名は田川郡赤村内田山の内である。

既出の文字列である五百世=連なっている丸く小高い地が交差するように並んで(五百)途切れずに繋がっている(世)ところと読み解ける。図に示した「赤兄」の西側、「李元環」の北側に当たる場所と推定される。

後に大春日朝臣清足大春日朝臣諸公が登場する。詳細は後に述べるとして出自の場所を求めておこう。清(淸)足=足のような山稜の前に四角く窪んだ地があるところ諸公=斜めに耕地が交差する地で谷間にある区切られた小高いところと読み解ける。各々の場所を図に示した。「壹比韋」の地がすっかり埋まったようである。

<土師宿祢位-田使-眞月>
● 土師宿祢位・土師宿祢田使

多くの人物が登場している「土師宿祢」一族であるが、流石に埋もれた人材を登用する主旨に沿った人選なのであろう、系譜は全く定かではないようである。

と言うことで、名前が示す地形を読み解いてみよう。位=人+立=谷間に山稜が並んでいる様と解釈される。幾度か用いられた文字であるが、立=竝と読む。

田使=谷間にある真ん中を突き通すように延びた山稜(使)の前に平らに整えられた地(田)があるところと読み解ける。これらの地形を未だ登場人物の居処でない「土師宿祢」の場所を探しても全く手掛かりが得られなかった。

そうこうする内に、直近で登場した贄土師連沙弥麻呂の東側の谷間に目が止まった。その東側は、『壬申の乱』で活躍した大分君惠尺・稚見等の出自の場所と推定した谷間となる。「土師宿祢」一族の東北端に位置する場所である。

少し後に土師宿祢眞月が外従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳で名前が表す地形のみで出自の場所を求めると、図に示した辺りと推定される。眞月=山稜の端の三角に地が寄り集まった窪んだところと解釈する。この後續紀での登場は見られないようである。

実に古い話であるが、古事記の「大國主神」の後裔が娶った日名照額田毘道男伊許知邇神の居処と推定した地である。古事記は、その後裔達が彷徨って朝鮮半島の新羅へ移り、更に壱岐に舞い戻ったと記載している。こんなところで再びお目に掛かれるとは・・・。

<上部木甲眞高>
● 上部木甲眞高

「上部」一族は、聖武天皇紀に上部眞善・乙麻呂が登場したのが初見であろう。淳仁天皇紀には更に多くの人物が上部(王)を名乗り、彼等にそれぞれ和風の氏姓を賜ったと記載されていた(こちら参照)。

「上部」は、古事記の石上廣高宮の麓に位置する場所を示すと解釈した。この場所には、長谷部の氏名を持つ人物が登場しているが、古事記の長谷部若雀天皇(崇峻天皇)にも含まれている。要するに天神系及び別途に渡来した人々が混在している地域だったようである。

尚、古事記と續紀は「長谷部」であるが、書紀は「泊瀬部」と表記する。「大長谷・小長谷」との混乱を助長するかのような表現を行っているのである。「長谷」は固有の地名ではない。「長谷(ハセ)」と読んでは、古代は見えて来ないであろう。

さて、木甲=山稜が甲羅のようになっているところと解釈すると、「鵤」の地形を異なる視点で表現したのであろう。眞高=皺が寄ったような山稜が寄り集まった窪んだところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。「長谷部」と言うには、少々離れて、「上宮」と名乗るのはおこがましい、と言う思いであったのかもしれない。

話しが少し余談ぽくなるが、法隆寺の名称の由来を述べてみよう・・・法隆=水辺で四角く窪んだ地の先で小高く盛り上がったところと読み解ける。図に示した場所が「法隆寺」の”本貫”の地と推定される(こちら参照)。

<丹比宿祢眞嗣-眞淨-乙女>
● 丹比宿祢眞嗣

「丹比宿祢」は、直近では聖武天皇紀に人足が外従五位下を叙爵されて登場していた。現在の御所ヶ岳山塊の北麓であり、人材輩出の「多治比眞人」一族の背後の場所が出自と推定した。

古事記では「多治比」、書紀では「丹比」と表記され、續紀では「多治比」と「丹比」を使い分けている様子である。「眞人」と「宿祢」の姓が異なることから、全く別系統であることを示している。

そんな訳で、残された空白の地は極めて少ないのであるが、今回登場の人物の出自場所を求めてみよう。既出の文字列である、眞嗣=山稜に挟まれて狭まった谷間が寄り集まって窪んだところと読み解ける。地形の変形が見られるが、何とかそれらしき場所を見出せる。

ずっと後になるが、息子の丹比宿祢眞淨が登場する。眞淨=[眞]の傍らにある水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと解釈する。出自の場所を併せて図に示した。また、丹比宿祢乙女が登場するが、図に示した場所が出自であろう。それぞれご登場の時にもう少し詳しく述べることにする。