2023年4月29日土曜日

高野天皇:称徳天皇(8) 〔632〕

高野天皇:称徳天皇(8)


天平神護二年(西暦766年)七月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

秋七月乙丑。以中律師圓興爲大僧都。乙亥。出雲國按察使從三位文室眞人大市。外衛大將兼丹波守從四位下藤原朝臣田麻呂。右大弁兼越前守從四位下藤原朝臣繼繩並爲參議。授從五位下菅生王從五位上。正六位上石川朝臣眞守從五位下。爲近江介。從五位下太朝臣犬養爲信濃守。從五位下國見眞人安曇爲越中介。從五位下賀茂朝臣淨名爲紀伊守。丙子。遣使造丈六佛像於伊勢大神宮寺。己夘。近江國志賀團大毅少初位上建部公伊賀麻呂賜姓朝臣。」散位從七位上昆解宮成得似白鑞者以獻。言曰。是丹波國天田郡華浪山所出也。和鑄諸器。不弱唐錫。因呈以眞白鑞所鑄之鏡。其後。授以外從五位下。復興役採之。單功數百。得十餘斤。或曰。是似鉛非鉛。未知所名。時召諸鑄工。与宮成雜而練之。宮成途窮无所施姦。然以其似白鑞。固爭不肯伏。寳龜八年。入唐准判官羽栗臣翼齎之以示楊州鑄工。僉曰。是鈍隱也。此間私鑄濫錢者。時或用之。庚辰。詔賜三衛衛士諸司直丁直本司而經廿年已上者。爵人一級。」多褹嶋飢賑給之。

七月十二日に中律師の圓興(俗姓賀茂、道鏡の弟子。田守に併記)を大僧都に任じている。二十二日に出雲國の按察使文室眞人大市、外衛大将兼丹波國守の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)、右大弁兼越前守の藤原朝臣繼縄(縄麻呂に併記)をそれぞれ参議に任じている。菅生王に従五位上を授け、「石川朝臣眞守」に従五位下を授けて近江介に任じている。太朝臣犬養(多朝臣)を信濃守、國見眞人安曇(阿曇。眞城に併記)を越中介、賀茂朝臣淨名を紀伊守に任じている。

二十三日に使者を派遣して「伊勢大神宮寺」に丈六の仏像を造らせている。二十六日に近江國志賀団(志賀郡)の大毅(軍団の長官)の建部公伊賀麻呂(人上に併記)に朝臣姓を賜っている。

散位の「昆解宮成」は「白鑞」(錫)に似た鉱物を入手して献上し、以下のように言上している・・・これは「丹波國天田郡華浪山」より出土したものである。いろいろの器物を鋳造したところ、唐の錫に劣っていない・・・。そこで真の「白鑞」で鋳造した鏡を呈上した。その後、「宮成」に外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人で十斤余りを得ている。ある人は[これは鉛(鑞鑛)に似ているが、「鉛」ではない。どういう名前かは知らない]と言っている。

その時、鋳工たちを召して「宮成」と一緒になってこれを精錬させたところ、「宮成」はどうすることもできず、悪い企みをなすことができなかった。しかし、それが白鑞に似ていることを根拠に、強く言い張って屈伏しなかった。寶龜八年、遣唐使准判官の羽栗臣翼(父親の吉麻呂[阿倍仲麻呂に随行]の長男。弟の翔[在唐]に併記)がこれを持って行って、揚州の鋳工に見せたところ、みな[これは鈍隱(不詳)だ。こちらで贋金を作る者は時々これを使っている]と言った。

<石川朝臣眞守-名繼-清麻呂>
二十七日に詔されて、三衛(左右衛士府と衛門府)の衛士と諸司の直丁で本司に二十年以上勤務している者に、位階を一級授けている。多褹嶋で飢饉が起こったので物を与えて救っている。

● 石川朝臣眞守

凄まじい数の登場人物である「石川朝臣」一族、直近でも今紀に望足(垣守に併記)が従五位下を叙爵されている。一見、佐伯宿祢眞守と見間違えそうな感じであるが、全く異なる一族である。

眞守=両肘を張り出したように腕に囲まれた地が寄り集まって窪んでいるところと読み解いた。その地形を「石川朝臣」の地で探索することになる。

すると、「名人」の東側の山稜にその地形を見出すことができる。膨大な人物を配置して来たが、この山稜に関わる人物は初見である。彼等の祖先となる蘇賀連子大臣の出自の場所が山稜の端にあったと推定した場所である。尚、「眞守」は最終正四位上・参議となり、「石川朝臣」出身の最後の公卿となったようである。

少し後に石川朝臣名繼石川朝臣清麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。系譜不詳のようなので、名前が表す地形から出自の場所を求めると、図に示したように推定することができる。名繼=山稜の端のが連なって延びているところ、頻出の清麻呂=水辺で四角く囲まれたところと解釈する。後に「淨麻呂」とも表記される。

伊勢大神宮寺 「神宮寺」の表記は初見である。思い起こせば、文武天皇紀に多氣大神宮度會郡(外宮之度相神)に遷したという記事があった。調べるとこれが「神宮寺」を示すと解釈されているが、”寺”がなく、定かではないようである。確かに「度會郡」には「外宮」があり、そこに「大神宮」を遷すことはないかもしれない。

更に関連する後の記述を見てみると、当初「度會郡」にあった「神宮寺」は、祟りがあって飯高郡(度瀬山房)に遷されたが、祟りが止まず、またもや遷された、と記載されている。右往左往の有様を述べているようである。また、後日に詳細を紐解いてみよう。尚、「神宮寺」の場所は、「度會郡」ではこちら、「飯高郡」ではこちら、かもしれない。

<昆解宮成-沙弥麻呂>
● 昆解宮成

「昆解」に関して、この人物については上記本文に記載された内容以上には殆ど得られることはないようなのだが、後に登場する昆解沙弥麻呂(佐美麻呂)については多くの情報があることが分かった。

延暦四(785)年五月に「右京人從五位下昆解宿祢沙弥麻呂等。改本姓賜鴈高宿祢」と記載されている。早速に右京の地で「鴈高」の地形を求めてみよう。

「鴈」=「厂+人+鳥」と分解される。「雁」の異字体でもある。文字要素は全て地形象形表記で用いられている。即ち、鴈=山麓の谷間で鳥のような形をした山稜が延びている様と解釈される。頻出の高=皺が寄ったような様であり、それらの地形要素を満たす場所を図に示したところに見出すことができる。

沙弥麻呂の頻出の沙弥=水辺で削られて先が尖ったようなった山稜が広がっているところと解釈すると出自の場所は「鳥」の足元辺りと思われる。すると、宮成=山稜に挟まれた谷間の奥まで広がった地で平らに盛り上げられたところと読み解くと、図に示した場所が「宮成」の出自と推定される。

「沙弥麻呂」に関する情報では、百濟貴首王の後裔である百濟系渡来人と称していたと知られる。上図に示した谷間は全て渡来系の人々によって開拓されていたようである。ところで昆解は地形象形しているのであろうか?…意外にもそのように思えて来た。

昆=日+比=太陽のような大きく丸い地に山稜が寄り集まっている様解=ばらばらに岐れている様と解釈される。彼等の居処は、書紀の皇極天皇に登場した膽駒山(イコマヤマ)の麓に当たる。「膽」=「三日月の形をした山稜(月)の傍らで頂上から多くの山稜が連なり広がっている(詹)様」と解釈した。「膽」の異字体は「胆」である。胆=月+旦=三日月の形をした山稜の傍らで太陽のような山稜が頭を出している様と解釈される。「昆解」は「膽駒山」の麓を表していたのである。

<丹波國天田郡華浪山・奄我社>
丹波國天田郡華浪山

元明天皇紀の和銅六(713)年四月に「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國」と記載されている。丹波國を五郡に割って、”丹”の背後に「丹後國」を設置したと解釈した。決して五郡を丹後國に配属したのではない(こちら参照)。

それはそれとして、ここに「天田郡」の名称は見られない。おそらく、備前國で藤原郡を設置したように隣郡の一部を分割して新たに設置したものと推察される。

天田郡天田=一様に平らな頂の山稜が広がった地を整えたところと解釈される。ところが、その地形は與佐郡・竹野郡を除く残りの三郡の地形に似て非なる有様と思われる。また、加佐郡・熊野郡は、ほぼ全域が同じような地形を示し、分割する動機が見当たらないとも思われる。残る丹波郡が対象となるようであるが、ここで華浪山の登場となる。

華浪=山稜の端にある花のような地が水辺でなだらかになっているところと読み解ける。この地形を図に示した場所に見出せる。古の息長一族発祥の山塊である。この山を含む地域、それを「天田郡」としたのであろう。「丹波郡」とは現在の長野間川で区切られた場所となる。確かにこの地は”丹波”でも”與佐”でもない地形であろう。

後に奄我社があったと記載される。奄我=平らな頂で延び広がった山稜にギザギザとした地があるところと解釈される。図に示した現在の立山大師がある小高い場所にあったのではなかろうか。また、「丹波郡」の人物も登場する。即ち、丹波郡も天田郡も併存していたことを伝えていることが分かる。

續紀は丹波郡分割を一切伝えることはしない。がしかし、上記の説話を挿入することによってその存在場所を明らかにしているのである。いや、当時の人々にとっては、当たり前過ぎるくらい常識だったのかもしれない。この地に蔓延った一族なのだが、現在は”謎の氏族:息長”としてロマン化されている。

八月壬寅。授從五位上石川朝臣名足正五位下。乙巳。散事從三位神社女王薨。庚戌。左京人從五位上桑内連乙虫女等三人賜姓桑内朝臣。

八月十九日に石川朝臣名足に正五位下を授けている。二十二日に散事(散位)で従三位の神社女王が亡くなっている。二十七日に左京の人である「桑内連乙虫女」等三人に「桑内朝臣」の氏姓を賜っている。

<桑内連乙虫>
● 桑内連乙虫女

「桑内連」に関する情報は極めて限られているように思われる。また、記紀・續紀に登場することもなく、今回が初見である。

「桑」が用いられていることから、おそらく”春日”の地に関係する一族だったかと思われるが、邇藝速日命の後裔との記録が残されているようである。

そんな背景で”春日”の地を探索する。とは言っても「桑」だらけの地で乙虫女が見出せるか?…いや、杞憂であることが分かった。

乙虫(蟲)=乙の形の山稜の麓が細かく岐れているところと読み解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。山田御(三)井宿祢の東側の谷間と推定される。この地は、阿閇朝臣一族の居処の奥に当たる。『八色之姓』にも記載された古豪であろう。

彼等は、古事記の大毘古命の後裔氏族と知られている。邇藝速日命の子孫が蔓延った地の一角に侵出した一族であったと推測される。「桑内連」は、そんな時代の流れの中で、ひっそりと住まっていたのではなかろうか。またもや、續紀が埋もれた氏族を歴史の表舞台に引き摺り出した様相であろう。

九月戊午。勅。比見伊勢美濃等國奏。爲風被損官舍數多。非但毀頽。亦亡人命。昔不問馬。先達深仁。今以傷人。朕甚悽歎。如聞。國司等朝委未稱。私利早著。倉庫懸磬。稻穀爛紅。已忘暫勞永逸之心。遂致雀鼠風雨之恤。良宰莅職。豈如此乎。自今以後。永革斯弊。宜令諸國具録歳中修理官舍之數。付朝集使。毎年奏聞。國分二寺亦宜准此。不得假事神異驚人耳目。己未。賜助官軍近江國僧沙弥。及錦部蒿園二寺檀越。諸寺奴等物。各有差。」山背國人堅井公三立等十一人賜姓諸井公。丙寅。伊豫國人大直足山。私稻七萬七千八百束。鍬二千四百卌口。墾田十町。獻當國國分寺。授其男外少初位下氏山外從五位下。丁夘。從五位下佐伯宿祢家繼爲防人正。庚午。志摩國飢。賑給之。壬申。授從六位下息長眞人淨繼外從五位下。修行進守大禪師基眞正五位上。」攝津國武庫郡大領從六位上日下部宿祢淨方獻錢百万。椙榑一千枚。授外從五位下。丙子。以從四位下阿倍朝臣毛人爲五畿内巡察使。從五位下紀朝臣廣名爲東海道使。正五位上淡海眞人三船爲東山道使。從五位上豊野眞人出雲爲北陸道使。從五位上安倍朝臣御縣爲山陰道使。正五位下藤原朝臣雄田麻呂爲山陽道使。從五位下高向朝臣家主爲南海道使。採訪百姓疾苦。判斷前後交替之訟。并検頃畝損得。其西海道者。便令大宰府勘検。

九月五日に次のように勅されている・・・このごろ伊勢・美濃國等からの上奏をみると、風のため損壊した官舎が多く、ただ壊れるだけでなく、人命を奪っている。昔、馬のことを聞かなかったというが、それは先達の深い思いやりの現れである(孔子が廐が焼けた時、人に怪我がなかったと聞いた)。今風の被害が人を傷付けているので朕は大いに痛み嘆いている。---≪続≫---

聞くところによると國司等は、朝廷の委任に添わず、私利を求めていることは一早く現れ、倉庫は空っぽで稲穀は腐敗して赤くなっている。人民は既に少しの間の苦労で永く楽しもうという気持ちを忘れて、ついには米穀を雀や鼠や風雨に与えてしまうありさまになっている。どうしてこのようなことになるであろうか。---≪続≫---

今後は、永久にこの弊害を改めよう。そこで諸國に命じて、その年のうちに修理した官舎の数をもれなく書き上げて、朝集使に授け、毎年奏上せよ。國分寺と國分尼寺の修理もこれに准ずるようにせよ。神による異変のためであるなどと言って、人々の耳目を驚かすことがあってはならない・・・。

六日に『仲麻呂の乱』に際し、官軍を助けた近江國の僧・沙弥、及び「錦部・蒿園二寺」の檀越や、寺々の奴等に身分に応じて物を与えている。山背國の人である「堅井公三立」等十一人に「諸井公」の氏姓を与えている。十三日に伊豫國の人である「大直足山」が私稲七万七千八百束、鍬二千四百四十口、墾田十町を同國の國分寺に献上している。その息子の「氏山」に外従五位下を授けている。十四日に佐伯宿祢家繼を防人正に任じている。十七日に志摩國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。

十九日に息長眞人淨繼(廣庭に併記)に外従五位下、修行進守で大禅師の「基眞」に正五位上を授けている。攝津國武庫郡の大領の「日下部宿祢淨方」が銭百万文と椙榑(皮付きの杉材)一千枚を献上したので外従五位下を授けている。

二十三日に各巡察使として、阿倍朝臣毛人(粳虫に併記)を五畿内、紀朝臣廣名(宇美に併記)を東海道、淡海眞人三船を東山道、豊野眞人出雲(出雲王)を北陸道、安倍朝臣御縣を山陰道、藤原朝臣雄田麻呂を山陽道、高向朝臣家主を南海道に任じ、人民の悩みや苦しみを問い、前後の國司の交替に伴う訴えの是非を判断し、併せて田地の稔りの善し悪しを検べさせている。西海道については大宰府に取調べさせている。

<錦部寺・基眞禅師・物部伊賀麻呂>
錦部寺

『仲麻呂の乱』において、逃げまどう彼等を追い詰めて行く過程で官軍に協力した者へ褒賞したと記載されている。逃亡行程上もしくはその近隣にあった寺であろう。

「錦部」の文字列は既出であり、河内國錦部郡で用いられている。錦部=山稜の端が小高く盛り上がって三角に尖った形をしているところと解釈した。それに酷似した地形を図に示した場所に見出せる。

「坂田郡」の「坂」に該当する山稜である。多分、寺はその山稜の東南麓にあったと推定され、「淺井郡」に属する地であったと思われる。「仲麻呂」一味が彷徨って上陸した淺井郡塩(鹽)津の近辺に位置する場所である。

一味は、上陸した後に再度北方にある愛發關方面に向かったと記載され、それを追跡した官軍に塩津周辺の在所に住まう寺の檀越や奴が協力したのであろう。極めて合理的な配置となっていることが解る。

直ぐ後に基眞禅師正四位上に叙爵され、法参議・大律師に任じられている。「法参議」は特例であり、道鏡の側近として、法臣圓興禅師の次ぐ処遇をしたと記載されている。また、俗姓として物部淨之朝臣の氏姓も賜っており、全てが異例尽くめであったようである。

「賀茂朝臣」出身の「圓興」と比肩するできるように出自を誂えたように思われる。調べると近江國の出自と知られている。頻出の物部の地形に類似した場所であろう。淨之=蛇行する川辺で両腕のような山稜が取り囲んでいるところと読み解くと、図に示した場所が見出せる。

既出の「基」=「其+土」=「箕のように山稜が延びている様」と解釈した。基眞=箕のように延びた山稜が寄り集まって窪んでいるところと解釈される。「物」の山稜の別表記であろう。要するに「仲麻呂」が頼りとする近江國、そこにも居場所がなかったことを告げているようである。

後に高野天皇が崩御され、道鏡が失脚してしまう。それに伴って弓削一族や取巻き連中も左遷されることになる。「基眞」は、暴挙が過ぎて既に飛騨國に配流されていたが、その出身地の一族である物部宿祢伊賀麻呂の宿祢姓も取り上げた、と記載されている。

伊賀=谷間に区切られた山稜が谷間を押し開くように延びているところと解釈されるが、残念ながら地形変形が凄まじく詳細を特定することが叶わないようである。およその場所を図に示した。

<蒿園寺>
蒿園寺

本寺も上記と同じく逃亡行程上もしくは近隣にあった寺であろう。「仲麻呂」一味は淺井郡・坂田郡で散々な目に遭って、また元来た道を引き返して高嶋郡に戻り、その地にあった三尾埼で致命的な敗北を喫し、そして勝野鬼江で非業の最後を迎えたと記載されていた。

「蒿」=「艸+高」=「二つの山稜に挟まれて皺が寄ったような様」と解釈される。纏めると蒿園=二つの山稜に挟まれて皺が寄ったような地にある取り囲まれたところと読み解ける。その地を三尾埼の北側の谷間に見出すことができる。

上記と同様に追い詰めた官軍に檀越・奴連中が加勢したのであろう。逆賊一味は戦意喪失、「仲麻呂」は無念にも戦線離脱をせざるを得ない状況になっていたと思われる。未曾有の権勢を誇った姿は、敢え無く消失してしまったわけである。

<堅井公三立>
● 堅井公三立

『仲麻呂の乱』における褒賞の件に山背國の住人が登場しているが、乱中に山背國は無縁であった。事後処理の記述に、連座し遠流の罪に問われた和氣王(舎人親王の孫)の最後が山背國相樂郡狛野であったと告げている。

既に捕らわれの身であり、官軍との戦闘が発生するわけもなく、「三立」等は何の協力をしたのであろうか?…多分、遺体の処理に関わった人達だったのではなかろうか。また、奔流の王であり、その墓所を見守る役目を仰せつかっていたのかもしれない。

堅井公の既出である堅=臣+又+土=小ぶりな谷間に手のような山稜が延びている様と解釈した。この地も多くの山稜が重なるように延びている地であり、一に特定することが難しい。名前の三立=三段に並んでいるところと解釈される。それらの地形を満たす場所を図に示した。「狛野」の東側に当たる場所である。

賜った諸井公の氏姓に含まれる諸井=耕地が交差するような地で四角く区切られているところと読み解ける。「狛野」と彼等の居処の谷間が交差している様子を表現したものであろう。以前にも述べたが、実に残酷な処罰であった。手厚く弔う気持ちが生じたのかもしれない。皇統は、とんでもない方向に流れようとしていた時である。

<大直足山-氏山>
● 大直足山・氏山

伊豫國でこの人物等の出自を探せ!…と記載している。伊豫國で「大」とくれば、前記の大山積神の「大」に繋がる場所を示しているのではなかろうか。

すると、同じく従四位下を叙爵された伊曾乃神が鎮座する背後の山、現在名白山も平らな頂を持つ山であることに気付かされる。

その西麓の地形を眺めると、どうやらそれらしき場所が見出せるようである。足山=山の前で足のような山稜が延びているところ氏山=山の前で匙のような山稜が延びているところと読み解ける。図に示した場所が、それぞれの出自と推定される。

孝謙天皇紀に賀茂伊豫朝臣の氏姓を賜った神野郡の賀茂直馬主等の南に接する地であり、この時代になって財を成して豊かさを享受できるようになったのであろう。息子の「氏山」に外従五位下を叙爵しているが、「馬主」等とは氏族が異なり、氏姓を賜ったという記事はないようである。

<攝津國武庫郡:日下部宿祢淨方>
● 日下部宿祢淨方

攝津國武庫郡大領を務めていると記載されている。通常からすると地元採用のように思われるが、名士日下部宿祢の氏姓となっている。

勿論日下部は固有の名称ではなく、他にも登場していたが(日下部深淵日下部直益人など)、「姓」まで同じなのには、戸惑わせる記述である。外従五位下の叙位であるからには、別の氏族であることには違いないであろう。

攝津國武庫郡は、續紀中の初見、かつ二度と記載されることはないようである。書紀では、応神天皇紀に「武庫水門」、孝徳天皇紀に「武庫行宮」、持統天皇紀に「武庫海」として記載されるが(こちら参照)、「武庫郡」の記述は見当たらないようである。いずれにしてもこれ等を含む、及び近隣の地域だったと推定される。

武庫=戈のような山稜の麓が延びて連なっているところと解釈される。延びた先は些か曖昧だが、図に示したような範囲と思われる。この武庫の地の西側は当時は海面下にあったと推測され、持統天皇が「武庫海」と呼び、更にこの入江に入る場所を「武庫水門」と応神天皇紀に呼称されていたのであろう。

日下部=太陽ような地の麓近くにあるところと解釈した。「戈」の山稜の端が、その地形をしていることが分かる。既出の文字列である淨方=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる地の傍にある四角く区切られたところと読み解くと、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。

上記の「大直足山・氏山」と同様に水辺が広がり水田稲作の範囲を拡大したのではなかろうか。山間の谷間を開拓する時代から、次第に水辺、海辺の平坦な地域が米の生産に寄与するようになって来た、と推測される。





































 

2023年4月21日金曜日

高野天皇:称徳天皇(7) 〔631〕

高野天皇:称徳天皇(7)


天平神護二年(西暦766年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月壬辰。大宰府言。防賊戍邊。本資東國之軍。持衆宣威。非是筑紫之兵。今割筑前等六國兵士以爲防人。以其所遺分番上下。人非勇健。防守難濟。望請。東國防人依舊配戍。勅。修理陸奥城柵。多興東國力役。事須彼此通融各得其宜。今聞。東國防人多留筑紫。宜加検括。且以配戍。即隨其數簡却六國所點防人。具状奏來。計其所欠。差點東人。以填三千。斯乃東國勞輕。西邊兵足。丙申。奉八幡比咩神封六百戸。以神願也。」淡路。石見二國飢。賑給之。己亥。和泉國飢。賑給之。甲辰。伊豫國神野郡伊曾乃神。越智郡大山積神並授從四位下。充神戸各五烟。久米郡伊豫神。野間郡野間神並授從五位下。神戸各二烟。丁未。勅。比日之間。縁有所念。歸依三寳。行道懴悔。泣罪解網。先聖仁迹。冀施恩恕。盡洗瑕穢。宜可大赦天下。自天平神護二年四月廿八日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。私鑄錢及八虐。受財枉法。監臨自盜。盜所監臨。強盜竊盜。常赦所不免者咸悉赦除。但先後逆黨不在赦原。普告天下知朕意焉。」攝津國人正七位下甘尾雪麻呂賜姓井於連。甲寅。有一男子。自稱聖武皇帝之皇子。石上朝臣志斐氏之所生也。勘問果是誣罔。詔配遠流。」大和國人高志毘登久美咩等十七人。被諸陵寮寃枉。沒爲陵戸。至是。披訴得雪。除陵戸籍。

四月七日に大宰府が以下のように言上している・・・賊の侵入を防ぎ辺境を守備することは、本来東國の軍隊に頼っており、民衆を守り武威を示すのは筑紫の兵士ではなかった。今筑前などの六國の兵士を割いて防人とし、その残りの兵士を上下二班に分けているが、兵士となる人が勇健でなければ防衛を全うすることは困難である。東國の防人を以前のように守備に配置するよう要望する・・・。

次のように勅されている・・・陸奥の城柵を修理するのに、東國の力役が多く徴集されている。東國と西辺の兵士や人夫を融通しあって、都合好く取り計らうべきである。今聞くところでは、東國の防人が廃止後も多く残留しているという。それらを取調べて召集し、守備に配置すべきである。そしてその数の分だけ六國で徴兵する防人を削減し、その状況を詳しく書き出して奏上せよ。不足があれば、東國の人を指名して三千の兵員を満たそう。このようにすれば、東國での人民の労役は軽くなり、西辺の國では兵員が十分備わることになろう・・・。

十一日に八幡比咩神に封戸を六百戸奉っている。神の願いによるものである。淡路・石見の二國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。十四日に和泉國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。

十九日に伊豫國神野郡伊曾乃神、「越智郡大山積神」に共に従四位下を授け、神戸をそれぞれ五戸支給している。「久米郡伊豫神」、「野間郡野間神」に共に従五位下を授け、神戸をそれぞれ二戸支給している。

二十二日に次のように勅されている・・・このごろ、思うところがあって、仏法に帰依して自ら仏の道を行い悔い改めている。罪を泣いて歎き、法の網を緩めることは、昔の聖人の行った慈しみある事蹟である。どうか恵みある思いやりを施して彼等の傷と穢れを全て洗い流してやりたい。天下に大赦を行うことにする。---≪続≫---

天平神護二年四月二十八日の夜明けより以前、死罪以下の罪は軽重に関わりなく、既に、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、罪名のまだ定まらないもの、獄に繋がれている囚人、贋金作り及び八虐、財物を受け取って法を枉げたもの、保管の責任者でありながら自ら盗みをしたもの、強盗や窃盗、平常の赦では許されないとしている罪を犯したものなど、これらの全て赦す。---≪続≫---

但し、先と後の逆党(橘奈良麻呂・藤原仲麻呂の乱)は、この限りではない。普く天下に告げて朕の意図を知らせよ・・・。この日、攝津國の人である「甘尾雪麻呂」に「井於連」の氏姓を賜っている。

二十九日に一人の男子が現れて、自分は聖武皇帝の皇子で、「石上朝臣志斐氐」の産んだ者であると称している。問い質してみると、果たして詐欺であった。そこで詔して遠流に処している。大和國の人である「高志毘登久美咩」等十七人は、諸陵寮によって無実の罪を着せられ、公民の身分を失い陵戸とされたが、ここで訴え出て、認められて無実の罪をそそぎ、陵戸の戸籍から除かれている。

伊豫國:越智郡大山積神・久米郡伊豫神・野間郡野間神

<伊豫國:越智郡大山積神・久米郡伊豫神>
<野間郡野間神>
神野郡伊曾乃神については、既にその場所を求めた。現在の北九州市若松区小竹にある白山の西麓、「伊曾乃神」は白山の西南麓に鎮座する神と推定した。

また、「周敷郡」については、周敷伊佐世利宿祢(多治比連眞國)が登場し、その居処として同区有毛と推定した。

伊豫國については、その東部からの人材登用が進んでいたが、西部地方からは極めて少なく、未開の地のような状況であった。そして、漸くその地の詳細が、とは言え、”神様”のご登場なのである。

「越智郡」の越智は、書紀の天武天皇紀に「後岡本天皇陵」(斉明天皇陵)がある場所として記載されている。越智は、鉞・鏃・炎の地形が寄り集まった地形を表しているとして解読した結果であった。些か地形の変形が見られるが、極めて類似した地形を示す場所が見出せる。図に示した岩尾山の西麓である。

「大山積神」の大山積=平らな頂の山の麓で山稜の端が積み上げられたところと読み解ける。岩尾山の麓、おそらく図に示した辺りに鎮座していたのであろう。「大山」は、古事記の大山守命の「大山」に繋がる山稜を表していると思われる。

「久米郡」に含まれる頻出の久米=山稜の端が並んでいる谷間が[く]の字形に曲がって延びているところと解釈した。その地形が「周敷郡」の南側に確認される。古事記の五百木之入日子命の居処と推定した地である。現地名は同区有毛である。

「伊豫神」の「伊豫」は、伊豫國を代表する名称と読めるかもしれないが、やはり、「伊豫」の地形を表していると思われる。伊豫=谷間に区切られた山稜が横切るように大きく延びているところと解釈する。鎮座の場所は、多分、図に示した辺りであろう。

「野間郡」の野間=二つの山稜に挟まれたもう一つの山稜が三角州になっているところと読み解ける。図に示した場所、同区竹並・蜑住辺りと推定される。「野間神」は、その三角州に鎮座してのではなかろうか。

<甘尾雪麻呂(井於連)>
● 甘尾雪麻呂

いつものことながら唐突に賜姓の記述である。攝津國人をそのまま受け取って、出自場所を求めるのであるが、珍しい「雪」の文字を名前に用いている。

既出の文字列である甘尾=山稜が延びた端が舌を出したような形をしているところと読み解ける。標高差が殆どなく「師」の地形ではあるが、それらしき場所を図に示した。

問題の「雪」については、文武天皇紀に登場した伊吉連古麻呂の別称に「伊吉」=「雪」と表記していたこと知られている。あらためて述べると、「雪」の古文字は「䨮」=「雨+彗」と分解され、更に「彗」=「甡+又」から成る文字である。

地形象形的には「彗」=「手(腕)のような山稜の先が細かく枝分かれした様」と解釈される。「雨」=「平らな頂から複数の山稜が延びる様」と解釈すると、雪=平らな頂の手のような山稜の端が細かく枝分かれしている様と読み解ける。図に示したように「舌」の先が幾つかに岐れた地形であることが解る。

賜った井於連井於=四角く区切られた地がある旗をなびかせているようなところと解釈される。雪麻呂の居処の別称として違和感なく受け入れられる表記と思われる。

<石上朝臣志斐氐>
● 石上朝臣志斐氐

何とも胡散臭い話ではあるが、天皇及び道鏡等の側近は意表を突かれて大騒ぎ、だったかもしれない。話の信憑性に関わる「志斐氐」なる女性は、勿論、聖武天皇の御落胤を身籠る機会が想定される環境にいたことであろう。

石上朝臣一族の名称としては、珍しい古事記風である。先ずは、その名前が示す場所を求めてみよう。志斐氐=蛇行する川に挟まれている匙のような地が折れ曲がっているところと読み解ける。

すると、淳仁天皇紀に多くの女官と共に従五位下を叙爵された石上朝臣絲手の出自場所を表していることが解る。「豊庭」の子らしき場所なのだが、系譜は不詳のようである。また、石上朝臣一族の女官は、極めて珍しいように思われる。

續紀本文は、これは誣罔であって、当の男子を遠流したと記載している。事の真偽は闇の中であるが、遠流という重罪に処したことも併せて、実は御落胤説は本当だったのかもしれない。天皇等にとっては、不都合な出来事となったようである。おそらく、遠流と称して、例によって殺害されたのではなかろうか。

<高志毘登久美咩>
● 高志毘登久美咩

「高志毘登」の氏姓は、既出であるが和泉國の住人であった。現地名は行橋市入覚・下崎との境界辺りと推定した。現在は大きな貯水池の底となってしまっている(こちら参照)。

同名の氏姓であるが、大和國の住人と記載されている。これだけの情報で、出自場所を求めることになる。いや、これで辿り着けると、續紀編者等は考えていたのであろう。

高志=皺が寄ったような山稜の間を蛇行する川が流れているところであるが、一に特定することは叶わず、少々特徴のある「久美咩」の名前に注目する。「久美/咩」と区切ってみると、久美=谷間が広がった地が[く]の形に曲がっているところと解釈される。「咩」=「口+羊」と分解される。それをそのまま用いたとすると、咩=羊の口のように山稜が延びているところとなる。

求めた結果を図に示した。確かに特徴のある地形であることが解る。傍証がなく、名前からだけの推定場所、また、後日に修正があるかもしれないが・・・この地も歴史の表舞台から遠ざかって来たようである。

五月丁巳。授正五位下津連秋主從四位下。始令七道諸國。采女養物。不論存亡。並全納采女司。戊午。大納言正三位吉備朝臣眞備奏。樹二柱於中壬生門西。其一題曰。凡被官司抑屈者。宜至此下申訴。其一曰。百姓有寃枉者。宜至此下申訴。並令彈正臺受其訴状。壬戌。在上野國新羅人子午足等一百九十三人賜姓吉井連。癸亥。主殿助從五位下下道臣色夫多賜姓朝臣。甲子。以從五位下百濟王三忠爲民部少輔。從五位下百濟王文鏡爲出羽守。從五位下坂上忌寸石楯爲介。從五位上佐伯宿祢美濃麻呂爲能登員外介。乙丑。太政官奏曰。准令。諸國史生。博士。醫師。國无大小。一立定數。但據神龜五年八月九日格。史生之員。隨國大小。各有等差。其博士者惣三四國一人。醫師者毎國一人。今經術之道。成業者寡。空設職員。擢取乏人。繕寫之才。堪任者衆。人多官少。莫能遍用。朝議平章。博士惣國。一依前格。醫師兼任。更建新例。職田。事力。公廨之類。並給正國。不給兼處。有料之國。名爲正任。無料之國。名爲兼任。其史生者。博士。醫師。兼任之國。國別格外加置二人。庶令經術之士周遍宣揚。功勞之人普蒙霑潤。奏可。辛未。奉幣帛於大和國丹生川上神。及五畿内群神。以祈注雨也。甲戌。上野國甘樂郡人外大初位下礒部牛麻呂等四人賜姓物部公。丙子。大和國人從七位下寺間臣大虫等四人賜姓大屋朝臣。丁丑。太政官奏曰。備前國守從五位上石川朝臣名足等解稱。藤野郡者。地是薄塉。人尤貧寒。差科公役。觸途怱劇。承山陽之驛路。使命不絶。帶西海之達道。迎送相尋。馬疲人苦。交不存濟。加以。頻遭旱疫。戸纔三郷。人少役繁。何能支辨。伏乞。割邑久郡香登郷。赤坂郡珂磨。佐伯二郷。上道郡物理。肩背。沙石三郷隷藤野郡。」又美作國守從五位上巨勢朝臣淨成等解稱。勝田郡塩田村百姓。遠闊治郡。側近他界。差科供承。極有艱辛。望請。隨所住處。便隷備前國藤野郡者。奏可。

五月三日に津連秋主に従四位下を授けている。この日、初めて七道の諸國に命じて、采女を資養するための物資は、生死に関わらず全て宮内省の采女司に納めさせている。四日に大納言の吉備朝臣眞備の奏上によって、二つの柱を「中壬生門」の西に建てている。その一つには[宮司から圧迫されている者は、この柱の下に来て訴え出よ]と記し、もう一つには[人民の中で無実の罪を押し付けられている者は、この柱の下に来て訴え出よ]とし、いずれについても弾正台にその訴状を受け取らせている。

八日に上野國に住む新羅人の「子午足」等百九十三人に「吉井連」の氏姓を賜っている。九日に主殿助の下道臣色夫多に朝臣姓を賜っている。十日に百濟王三忠()を民部少輔、百濟王文鏡(武鏡)を出羽守、坂上忌寸石楯(石村村主)を介、佐伯宿祢美濃麻呂を能登員外介に任じている。

十一日に太政官が以下のように奏上している・・・職員令によると、諸國の史生、博士、医師の定員は國の大小に関係なく等しく定数を決めてある。ただ神龜五(728)年八月九日の格によると、史生の定員は國の大小に随って差別が付けられており、博士の定員は三、四ヶ國に一人、医師の定員は國ごとに一人である。今檮学と医術の道は学業を成就した者が少ないので、ただむなしく職員の枠を設けているだけで、選んで採用するにたる人物に乏しい。

文書を整理して書き記す才能については、任務に堪える者は多いので、人が多いのに比べて官職は少なく、あまねく採用することができない。そこで朝廷で審議したところ、博士が数國を惣べる方式は全て前格によるものとし、医師がいくつかの國を兼任することは、一國一医師の規定に関わらず、あらたに新例をたてる。兼任した博士や医師が支給される職田、事力、公廨の類は、みな正任の國において支給するようにし、兼任の分は支給しない。

俸禄を支給する國を正任の國と名付け、俸禄を支給しない國を兼任の國と名付ける。史生の定員は、博士や医師の兼任している國については、格の他に二人増員する。このようにして儒学と医術に通じた者をあまねく天下に広く知らせ、功労のある人物は全て潤うようにして頂きたいと思う・・・。奏上の通りに許可している。

十七日に幣帛を大和國丹生川上神(芳野水分峰神)と畿内五ヶ國の神々に奉っている。雨が程よく降ることを祈ってである。二十日に上野國甘楽郡の人である磯部牛麻呂(物部蜷淵に併記)等四人に「物部公」の氏姓を賜っている。二十二日に大和國の人である「寺間臣大虫」等四人に「大屋朝臣」の氏姓を賜っている。

二十三日に太政官が以下のように上奏している・・・備前國守の石川朝臣名足等が[藤野郡は、土地痩せていて人も一際貧しいが、公の力役の徴発は、各種様々で忙しく慌ただしい状態である。山陽道の駅路を担当しているので使者が絶えることがなく、西海への道が通じているので使者の送迎が相次いである<下記参照>。馬は疲れ人は苦しみ、どちらも生きていけない。それだけでなく、頻りに日照りや疫病の流行にあい、戸数もわずかに三郷(百五十戸)であって、人が少ないのに労役が多いのである。どうして務めを果たすことができようか。伏してお願いする。即ち「邑久郡」の「香登郷」、「赤坂郡」の「珂磨・佐伯」の二郷、「上道郡」の「物理・肩背・沙石」の三郷を割き取って藤野郡に編入願う・・・。

また、美作國守の巨勢朝臣淨成等が以下のように上申している・・・「勝田郡塩田村」の人民は郡の役所から遠く隔っていて、他郡との界近くに位置している。そのため労役に徴発されたり課税の物を出すことに、はなはだ苦しんでいる。そこで住んでいる所に従って、備前國の藤野郡に編入されるように願う・・・。奏上の通りに許可している。

中壬生門 壬生=ふっくらと膨らんだ地が生え出ているところと解釈すると、平城宮のこの辺りに建てられたのかもしれない。参考にしている資料によると、直木幸次郎氏が、訴状の対象は官人であったと推論されているが、その通りのように思われる。

<子午足>
● 子午足(吉井連)

上野國在住の新羅人およそ二百人、かなりの人数の集団であろう。淳仁天皇紀に武藏國閑地に新羅人を移住させて新羅郡を設置したと記載されていた。その後に具体的な人物も登場していた(こちら参照)。

それでも不足の「子午足」等が上野國に住まっていたことを伝えている。多分、”子/午足”と区切るのであろう。「午」は「馬」と読みたくなるが、幾度か名前に用いられたように「午」=「杵」と解釈する。

子=山稜が生え出ている様午足=杵のような山稜から足が延びているところと読み解くと、図に示した「碓氷郡」の地にその地形を見出せる。前出の石上部諸弟の西側に当たる場所である。賜った吉井連吉井=四角く区切られた地が蓋をされたようになっているところと解釈される。「午足」を「吉」と見做した表記であろう。

上記本文の直後に甘樂郡の住人、磯部牛麻呂が「物部公」の氏姓を賜っている。石上部諸弟との位置関係も、極めて妥当なものとなっていることが分かる。

<寺間臣大虫>
● 寺間臣大虫

「寺間臣」は、記紀・續紀を通じて初見である。地名「寺間」ならば、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の太后氷羽州比賣命の陵、狹木之寺間に用いられた文字列が思い出せる。

「賢帝垂仁」に勝るとも劣らぬ太后であったと、古事記が伝えているように伺えた。何とも懐かしい文字列である。それは兎も角として、果たしてその地を出自とする人物なのかを検証してみよう。

その前に「寺間」をあらためて確認すると、寺間=蛇行する川に挟まれて延びる山稜の端にあるところと解釈した。「寺」=「之+寸」=「大きく蛇行する川」を表す文字としている古事記の表記を、そのまま受け継いだ續紀と思われる。漢字の成立ち、その根源に遡って理解していることが分かる重要な例であろう。これらの編者等は、漢字を万葉仮名として用いるような”邪道”には目もくれていないのである。

さて、「狹木」の先端を眺めると、虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れている様の地形が見出せる。大=山稜が平らな頂となっている様とすると、この人物の出自場所は図に示した辺りと推定される。賜った大屋朝臣大屋=平らな頂の山稜が延び至ったところと読み解ける。素直な表記であろう。どうやら、間違いなく、古事記の「寺間」を引き継いでいることが確認されたようである。

<備前國藤野郡再編>
備前國藤野郡再編

備前國の藤野郡は、幾たびも変遷を繰り返すようである。元正天皇紀に初めて邑久郡・赤坂郡の二郷を割いて藤原郡として設置されたが、後に「藤野郡」への名称変更もあった。

これらは文武天皇紀に初めて設置された備前國の領域を北へ北へと拡張し、その領域そのものが変動していた経緯に由来するものであろう。「藤野郡」は、後に「和氣郡」と呼称され、目まぐるしい有様だったようである。

要するに國名・郡名は、時代と共に変化し、決して固定されたものではないことを表していると思われる。それらの名称を固有と解釈しては、とんでもない誤りを犯すことになろう。

ともあれ、今回の再編劇を再現してみよう。記載された順に各郡の各郷の場所を求めることにする。「邑久郡」の香登郷香登=窪んだ地から延び出た山稜に挟まれた谷間の奥が小高いなっているところと読み解ける。その地形を図に示した邑久郡の最南部見出すことができる。

「赤坂郡」からは二郡拠出である。珂磨郷の「珂」=「玉+可」=「谷間が玉のように丸くなっている様」、「磨」=「平らなに整えられた様」とすると、珂磨=谷間が玉のように丸く広がって平らに整えられているところと解釈される。図に示した藤野郡に接する場所と推定される。佐伯郷佐伯=谷間にある左手のような山稜の傍らで谷間がくっ付いているところである。”佐伯宿祢”で用いられた場合と何ら変わることはない。

上道郡からは三郡である。残った郷は”上道”そのものに限られたようである。物理郷物理=「勿」の形に延びる山稜の麓が区分けされているところと読み解ける。いやぁ~、”物理”を地形象形で読み解くことになるとは・・・その地形を図に示した場所、美作國久米郡との端境に見出せる。

肩背郷肩背=肩のようになった山稜が背後にあるところと読み解ける。図に示した場所と思われる。沙石郷沙石=麓の台地が水辺で端が三角に尖ったようになっているところと読み解ける。図に示した場所に、その地形を確認することができる。

最後に美作(旧備前)國勝田郡塩田村まで拠出している。塩(鹽)田=平らに四角く区切られて整えられた窪んだところと解釈される。「勝田郡」の最北部の地形を表していると思われる。図に示した場所と推定される。上図から分かるように、藤野郡を取り囲む各郡の郷を転属したようである。これらの郷名から求められた場所は、全く無理のない配置となっている。

ところで、本文中に藤野郡を重点化する理由の一つとして、「承山陽之驛路。使命不絶。帶西海之達道」と記載されている。「山陽の驛路を承る」は、そのまま読み下すことができそうだが、「帶西海之達道」は、曖昧な表現となっている。訳せば「西海が達する道に帯びる(繋がる)」となろう。決して”西海道”を一意的に示しているわけではない。

即ち、図に示したように、藤野郡を通過する谷間の峠道が備前國の西方にある西海に繋がる道であることを表していると思われる。山稜の東側は、備中國の奥であり、未だ登場していない國となる。発展途上國の人々が往来する重要な道筋に藤野郡があったことを述べているものと思われる。

六月乙酉朔。授正六位上中臣習宜朝臣阿曾麻呂從五位下。丁亥。日向。大隅。薩摩三國大風。桑麻損盡。詔勿收柵戸調庸。己丑。大隅國神造新嶋。震動不息。以故民多流亡。仍加賑恤。乙未。河内國飢。賑給之。丙申。勅。去二月廿日。令募運近江國近郡稻穀五萬斛。貯納於松原倉。其酬叙法者。下勅既畢。而經旬月。未見一人運送。誠是階級有卑。人情不勸。宜運滿一萬斛者超授外從五位下。丁酉。丹波國人家部人足。以私物資養飢民五十七人。賜爵二級。庚戌。勅。如聞。左右京及大和國天平神護元年田租。未全輸了。誠爲頻年不登。百姓乏絶。宜除輸了外悉原免。壬子。刑部卿從三位百濟王敬福薨。其先者出自百濟國義慈王。高市岡本宮馭宇天皇御世。義慈王遣其子豊璋王及禪廣王入侍。洎于後岡本朝廷。義慈王兵敗降唐。其臣佐平福信尅復社稷。遠迎豊璋。紹興絶統。豊璋纂基之後。以譛横殺福信。唐兵聞之復攻州柔。豊璋与我救兵拒之。救軍不利。豊璋駕船遁于高麗。禪廣因不歸國。藤原朝廷賜号曰百濟王。卒贈正廣參。子百濟王昌成。幼年隨父歸朝。先父而卒。飛鳥淨御原御世贈小紫。子郎虞。奈良朝廷從四位下攝津亮。敬福者即其第三子也。放縱不拘。頗好酒色。感神聖武皇帝殊加寵遇。賞賜優厚。時有士庶來告清貧。毎假他物。望外与之。由是。頻歴外任。家无餘財。然性了辨。有政事之量。天平年中。仕至從五位上陸奥守。時聖武皇帝造盧舍那銅像。冶鑄云畢。塗金不足。而陸奥國馳驛。貢小田郡所出黄金九百兩。我國家黄金從此始出焉。聖武皇帝甚以嘉尚。授從三位。遷宮内卿。俄加河内守。勝寳四年拜常陸守。遷左大弁。頻歴出雲。讃岐。伊豫等國守。神護初。任刑部卿。薨時年六十九。

六月一日に中臣習宜朝臣阿曾麻呂(山守に併記)に従五位下を授けている。三日に日向・大隅・薩摩の三國で大風が吹き、桑・麻が悉く損害を被った。詔されて、柵戸の民から調・庸を収納することのないように命じている。五日、大隅國の神が新嶋を造り、地が震動して止まなかった。そのため人民の多くが住居を定めず彷徨ったので、物を与えて救っている。・・・<天平字八[764]年の暮れに大隅國麑嶋信尓村の海に三つの嶋が生まれたと記載されていた。海底火山の活動が継続していたのであろう。現在の桜島?…無縁の出来事である>・・・。

十一日に河内國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。十二日に次のように勅されている・・・去る二月二十日に、近江國の都に近い郡から籾米五万石を徴集し運んで、「松原倉」(松林宮近隣?)に納め貯えさせることとした。その際、米を出した者に報いるための叙位の法については既に勅を下している。ところが十日一月経っても運送する者が一人も現れない。真にこれは授ける位が低いので、人の気持ちをかきたてるに至らないからでろう。そこで一万石を運び満たす者には、外従五位下を授けるようにせよ・・・。

十三日に丹波國の人である「家部人足」は、私物で五十七人の飢民を助け養ったので、位階を二級(少初位上)を賜っている。二十六日に次のように勅されている・・・聞くところによると、左右京と大和國の天平神護元年の田租は、まだ全部の納入が終わっていない。それは連年で穀物が稔らず、人民が極めて貧しいためであるということである。従って納入し終わった田租を除き、他は全て免除するようにせよ・・・。

二十八日に刑部卿の百濟王敬福()が亡くなっている。その祖先は百濟國の義慈王より出ている。高市岡本宮で天下を統治された天皇(舒明天皇)の御世(書紀では舒明即位三年三月)に、義慈王は、その子の豊璋王と禅廣王(百濟王善光)を日本に遣わして天皇の側近に侍らせた。後岡本の朝廷(斉明朝)に及んで、義慈王は戦いに敗れて唐に降伏した。その臣下の佐平福信(鬼室福信)は、よく国家を再建して。遠く「豊璋」を迎え、絶えていた王統を再興して盛んにした。

「豊璋」は王位を継いで後、讒言に基づいて無道にも「福信」を殺した。唐兵はこのことを聞いて、また州柔を攻撃した。「豊璋」は日本の救援の兵と共に防戦したが、戦いに敗れ、「豊璋」は船に乗って高句麗に逃走した。「禅廣」はそのため百濟には帰らなかった。藤原の朝廷(持統朝)は「禅廣」に百濟王という称号を賜り、没した時(持統即位七[693]年)、「禅廣」に正廣参(正三位相当)を贈った。子の百濟王昌成()は、幼年の時父と共に日本に入朝し、父より先に没した。飛鳥淨御原の御世(天武朝)に小紫(従三位相当)を贈られた。

「昌成」の子の「郎虞()」は、奈良朝廷(元明~元正朝。記録が定かでないからか?)で従四位下の攝津亮になった。「敬福()」は、「郎虞」の第三子である。「敬福」の性格は気儘で規則にとらわれず、酒色を特に好んだ。感神聖武皇帝は特に手厚く待遇し、恩賞や賜り物が特に厚かった。官人や人民がやって来て、まじめに勤めて貧しいことを告げた時には、その都度他人の物を借りて、思いの外に物を与えた。このために、しばしば地方官に任用されても財産が蓄積されず、家に余分の財産がなかった。しかしその性分は理解力に富み、政治を行う度量があった。

天平年中に朝廷に仕えて陸奥守になった。その当時、聖武皇帝は廬舎那仏の銅像を造っており、鋳造は既に終わったものの、渡金のための黄金が不足していた。ところが陸奥國から駅馬を馳せて、小田郡より出土した黄金九百両を貢進した(天平勝寶元[749]年四月)。我が國で黄金が出たのはこの時が初めてである。聖武皇帝は大いに喜んで褒め称えて、従三位を授け、宮内卿に転任させた。天平勝寶四年に常陸守に任じられ左大弁に転任した。次々と出雲・讃岐・伊豫等の國守を歴任し、天平神護の初めに刑部卿に任ぜられた。享年六十九歳であった。

<家部人足>
● 家部人足

丹波國の人物の登場は、息長・氷上一族を除くと極めて少ない。実に古くから皇統に絡む地なのだが、官吏を輩出する土地柄ではなかったのかもしれない。

「家部」は、文武天皇紀に對馬嶋國で金を採取した人の家部宮道に含まれていた。上記本文で陸奥國小田郡で「我國家黄金從此始出焉」の「我國家」には對馬嶋は含めていない、のかもしれない。

それは兎も角として、家部=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになっている地の近くにあるところの地形を丹波國で探すことになる。結果を図に示したが、思いの外、判別に難儀する羽目になった。

人足=谷間が人の足のようになっているところと解釈すると、この人物の出自を求めることができる。他に情報もなく、地形だけからの推定である。勿論、この谷間からの既出の人物は見当たらないようである。古の古事記で登場した息長水依比賣の谷間の奥を開拓して財を成したのであろう。







 

2023年4月13日木曜日

高野天皇:称徳天皇(6) 〔630〕

高野天皇:称徳天皇(6)


天平神護二年(西暦766年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月甲子。詔曰。今勅〈久〉掛畏〈岐〉近淡海〈乃〉大津宮〈仁〉天下所知行〈之〉天皇〈我〉御世〈尓〉奉侍〈末之之〉藤原大臣復後〈乃〉藤原大臣〈尓〉賜〈天〉在〈留〉志乃比己止〈乃〉書〈尓〉勅〈天〉在〈久〉子孫〈乃〉淨〈久〉明〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朝庭〈尓〉奉侍〈牟乎波〉必治賜〈牟〉其繼〈方〉絶不賜〈止〉勅〈天〉在〈我〉故〈尓〉今藤原永手朝臣〈尓〉右大臣之官授賜〈止〉勅天皇御命〈遠〉諸聞食〈止〉宣。」以大納言從二位藤原朝臣永手爲右大臣。中納言正三位諱。藤原朝臣眞楯並爲大納言。參議正三位吉備朝臣眞備爲中納言。右大弁從四位上石上朝臣宅嗣爲參議。庚午。正六位上伊吉連眞次獻錢百萬。授外從五位下。癸酉。幸右大臣第授正二位。其室正五位上大野朝臣仲智從四位下。丁丑。授從五位下息長丹生眞人大國從五位上。外從五位下葛井連道依從五位下。己夘。授外正六位上桑原毘登安麻呂外從五位下。

正月八日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・いま仰せなるには、口に出して申すのも恐れ多い近江大津宮で天下を統治された天皇(天智天皇)の時代にお仕えした藤原大臣(鎌足)や後の藤原大臣(不比等)に賜っている書(誄)に、[藤原大臣の子孫であって、浄く明るい真心をもって朝廷にお仕え申し上げる者を、必ずそれ相応に処遇しよう。跡継ぎを絶えさせはしない]と述べられているので、いま藤原永手朝臣に右大臣の官職を授けようと仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

大納言の藤原朝臣永手を右大臣、中納言の諱(白壁王、後の光仁天皇)・藤原朝臣眞楯を大納言、参議の吉備朝臣眞備を中納言、右代弁の石上朝臣宅嗣を参議に任じている。

十四日に伊吉連眞次(益麻呂に併記)が銭百万を献上したので、外従五位下を授けている。十七日に右大臣の邸宅に行幸されて大臣に正二位を、その妻の大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に従四位下を授けている。二十一日に息長丹生眞人大國(國嶋に併記)に従五位上を、葛井連道依(立足に併記)に従五位下を授けている。二十三日に桑原毘登安麻呂(宅持に併記)に外従五位下を授けている。

二月庚寅。外從八位下橘戸高志麻呂獻錢百萬。授外從五位下。甲午。授正六位上白猪与呂志女從五位下。入唐學問僧普照之母也。己亥。授從四位下道嶋宿祢嶋足正四位下。壬寅。授從五位上藤原朝臣是公從四位下。外正六位上山背忌寸諸上外從五位下。丙午。勅。夫蓄貯者爲國之本。宜令募運近江國近郡稻穀五萬斛。貯納於松原倉。白丁運五百斛叙一階。毎加三百五十斛進一階。有位毎三百斛加叙一階。並勿過正六位上。丁未。命婦外從五位下水海毘登清成等五人賜姓水海連。」賜從三位山村王功田五十町。從四位上日下部宿祢子麻呂。從四位下坂上大忌寸苅田麻呂。佐伯宿祢伊多知。正五位上淡海眞人三船。從五位上佐伯宿祢三野五人。各廿町。從五位下紀朝臣船守。外從五位下民忌寸総麻呂二人各八町。並傳其子。癸丑。右京人從六位下私眞繩。河内國人少初位上私吉備人等六人賜姓會賀臣。乙夘。左京人從八位下桑原連眞嶋。右京人外從五位下桑原村主足床。大和國人少初位上桑原村主岡麻呂等卌人。賜姓桑原公。

二月四日に「橘戸高志麻呂」が銭百万を献上したので、外従五位下を授けている。八日に「白猪与呂志女」に従五位下を授けている。入唐学問僧の「普照」(業行)の母である。十三日に道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)に正四位下を授けている。十六日に藤原朝臣是公(黒麻呂)に従四位下、「山背忌寸諸上」に外従五位下を授けている。

二十日に次のように勅されている・・・貯蓄することは國を治めるための基本であるので、近江國の都に近い郡から籾米五万石を募って運送し、「松原倉」(松林宮近隣?)に納め貯蔵させよ。無位の人民で五百石を運んだ者には位を一階授け、三百五十石を加えるごとに更に位を一階昇進させよ。位階を持つ者は、三百石ごとに位を一階昇叙せよ。ともに正六位上を越えてはならない・・・。

二十一日に命婦の水海毘登清成(淨成)等五人に「水海連」の姓を賜っている。山村王に功田五十町、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)佐伯宿祢伊多知(智、治)・淡海眞人三船佐伯宿祢三野(今毛人に併記)の五人に二十町、紀朝臣船守民忌寸総麻呂(眞楫に併記)等二人に八町を賜わり、それぞれの子に伝領させている。

二十七日に右京の人である「私眞縄」、河内國の人である「私吉備人」等六人に「會賀臣」の氏姓を賜っている。二十九日に左京の人である「桑原連眞嶋」、右京の人である「桑原村主足床」、大和國の人である「桑原村主岡麻呂」等四十人に「桑原公」の姓を賜っている(こちら参照)。

<橘戸高志麻呂・毘登戸東人>
● 橘戸高志麻呂

「橘戸」の氏名は、初見である。また、後に續紀中に「橘部越麻呂」と記載された人物であろう。備後介に任じられてもいる。しかしながら、それ以上の記述は見られず、他の情報を探すと、「河内國高安郡」の住人だったことが分かった。

とは言え、「高安郡」そのものが未出であって、登場するのが寶龜十一(780)年五月である。かなり先走りになるが、先ずはその地を求めることにする。

「高安」の文字列は、記紀・續紀を通じてかなり多くの場所を表して来た。幾度も述べたように固有の地名ではない。高安=皺が寄ったような山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっているところの地形と解釈した。

その地形を河内國で探すと、図に示した場所、現地名では京都郡みやこ町勝山浦河内に見出すことができる。何度も引用している味見峠北側の山塊の東麓に当たる場所である。この人物の名前、高志麻呂高志=皺が寄ったような地で川が蛇行して流れているところに繋がっていることが解る。

些か唐突な文字列である「橘戸」は、古事記の「橘」に類似する表現であろう。即ち、「橘」=「多くの谷間が寄り集まっている様」である。すると守部連一族の近隣の地形を示していると思われる。纏めると橘戸=多くの谷間が集まっている地を塞ぐような山稜が延びているところと読み解ける。

少し後に河内國の人である毘登戸東人等が高安造の氏姓を賜ったと記載されている。「毘登戸」の「毘登」は史・首姓の置換えではなく、地形象形表記であろう。毘登=小高い地から山稜が岐れた谷間(登)に窪んだ地がくっ付いて並んでいる(毘)ところと解釈される。橘戸の北側の地形を表していることが解る。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した場所が出自と推定される。

少し前に百濟から渡来した調阿氣麻呂等廿人に「豊田造」の氏姓を授けたと記載されていた。正に”高安”の谷間一つ一つに住まう一族を記載しているようである。帰化し、そして同化していった様子を伝えているのであろう。

<白猪与呂志女・普照>
● 白猪与呂志女・普照

「白猪」の氏名は、書紀の欽明天皇紀に白猪史の氏姓を賜り、天武天皇紀にはその子孫の寶然が大唐留学生として登場していた。その後に「葛井連」の氏姓を賜り、多くの人材が登用されて来ている。

対外折衝の役割を担う人物が多く見られ、有能な一族であったと思われる。「普照(業行)」は、唐に留まること十年の歳月を要したが、中国の高僧である鑑眞招聘という大役を果たしたと記載されていた。

その母へ従五位下を叙爵した、と記している。既出の文字列である与呂志=ギザギザと噛み合うような段々に積み重なった地に蛇行する川が流れているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。葛井連一族(こちらこちら参照)の北側に当たる場所である。

母親の出自が明らかになれば普照もこの地に生まれたのであろう。地名・人名にはあまり用いられていない「普」=「竝+日」と分解すると、地形象形表記として、普=[炎]のような地が次々に広がって行く様と解釈される。照=日+召+灬=太陽のような地の周りに[炎]のような山稜が延び出ている様と解釈した。古事記の天照大御神に用いられた文字である。出自の場所を図に示した。

尚、別表記の業行=ギザギザとした地が交差するところと読むと、母親のとの接点が出自だったことが解る。なかなかに面白い表現であろう。この後に續紀に登場されることはなく、帰朝した後は東大寺及び西大寺(こちら参照)に住まっていたとのことである。

余談だが、「普照」は井上泰著『天平の甍』の主人公、映画化もされて、日中国交正常化の機会を得て、現地ロケが敢行されている。若い留学僧達の国を思う心、また、それに応えた鑑眞の不撓の精神が観る者に蘇ったであろう。

<山背忌寸諸上>
<私眞縄・私吉備人(會賀臣)>
● 山背忌寸諸上

「山背忌寸」は、孝謙天皇紀に河内國石川郡の漢人廣橋・刀自賣の二名に授けられていた。その後は音沙汰なくであったが、称徳天皇の記憶に残っていたのかもしれない。

諸上=盛り上がっている地の前で耕地が交差するように延びているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。決して広くはない石川郡ではあるが、ここでも谷間が埋まって行く様相である。

● 私眞縄・私吉備人(會賀臣) 「私」の氏名は、文武天皇紀に私小田等が登場し、称徳天皇紀になって「私朝臣」姓(私朝臣長女)を賜っていた。その一族の居処は攝津國、現在の行橋市矢留の矢留山の東麓辺りと推定した。今回登場の「私」は、河内國が出自及びその地の住人だと記載されている。

勿論、「私」は固有の地名ではなく、私=禾+ム=稲穂のように延びている山稜に囲まれた様と解釈する。すると、図に示した、五社八幡神社がある山稜などに囲まれた地域の地形を表していることが解る。河内國交野郡に属する一帯と思われる。眞繩=繩のような山稜が寄り集まった窪んだところ吉備人=[吉備]の地形が谷間にあるところと読み解くと、ぞれぞれの出自の場所を求めることができる。「吉備」の文字列は、実に多用されているわけである。

賜った會賀臣會賀=押し開かれた谷間が出会うところと読むと、彼等一族の出所の地形を的確に表現していることになる。「交野郡」の別表記とも言えるものであろう。また、臣=目のように窪んだ様を表す文字と解釈したが、これも適切な姓名であろう。

上図に示したように河内國の谷間に隈なく人々が住まっていた状況が再現されているように思われる。”天神族”も含めて、全て大陸・朝鮮半島からの渡来人達が住み着いた倭國、凄まじいばかりの人々を受け入れた極東の地だったのである。

三月戊午。伊豫國人從七位上秦毘登淨足等十一人賜姓阿陪小殿朝臣。淨足自言。難破長柄朝廷。遣大山上安倍小殿小鎌於伊豫國。令採朱砂。小鎌便娶秦首之女。生子伊豫麻呂。伊豫麻呂不尋父祖。偏依母姓。淨足即其後也。丁夘。大納言正三位藤原朝臣眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝寵遇特渥。詔特令參奏宣吐納。明敏有譽於時。從兄仲滿心害其能。眞楯知之。稱病家居。頗翫書籍。天平末出爲大和守。勝寳初授從四位上。拜參議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶朝礼云畢。欲歸本蕃。眞楯設宴餞焉。承慶甚稱歎之。寳字四年授從三位。更賜名眞楯。本名八束。八年至正三位勳二等兼授刀大將。神護二年拜大納言兼式部卿。薨時年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍從勳三等藤原朝臣繩麻呂。右少辨從五位上大伴宿祢伯麻呂弔之。是日。以中納言正三位吉備朝臣眞備爲大納言。壬申。右京人正七位上四比河守賜姓椎野連。從七位上科野石弓石橋連。大初位上支母末吉足等五人城篠連。乙亥。左京人從七位下春日藏毘登常麻呂等廿七人賜姓春日朝臣。辛巳。從五位下佐伯宿祢助爲山背介。近衛將監從五位下賀茂朝臣諸雄爲兼伊勢員外介。左衛士佐外從五位下民忌寸総麻呂爲兼參河掾。外從五位下高屋連並木爲遠江大掾。從五位下巨勢朝臣公成爲武藏守。從五位下大野朝臣眞本爲下総介。參議民部卿正四位下勅旨大輔侍從藤原朝臣繩麻呂爲兼近江守。從五位下太朝臣犬養爲介。勅旨少丞從五位下葛井連道依爲兼員外介。從五位下百濟王利善爲飛騨守。外正五位下大原連家主爲但馬員外介。從五位上海上眞人清水爲豊前守。乙酉。左京人正五位下中臣丸連張弓等廿六人賜姓朝臣。

三月三日に伊豫國の人である「秦毘登淨足」等十一人に「阿陪小殿朝臣」の氏姓を賜っている。「淨足」は自ら以下のように述べている・・・難波長柄朝廷(孝徳天皇)は、大山上の「安倍小殿小鎌」を伊豫國に遣わして、朱砂を採掘させたが、そこで「小鎌」は「秦首」の娘を娶って、子の「伊豫麻呂」が生まれた。「伊豫麻呂」は父の祖(の姓)を継ぐことなく、母の姓ばかりを名乗っていたが、「淨足」はその子孫である・・・。

十二日に大納言の藤原朝臣眞楯(鳥養[第一子]に併記)が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)に正一位・太政大臣を贈られた「房前」の第三子であった。「眞楯」は度量が広く深く、宰相として天子を補佐するに足る才能を備えていた。最初春宮大進に任官し、次第に転任して、正五位上・式部大輔兼左衛士督に至ったが、官職にあっては公平で行いが潔く、思慮においても私情に流されることはなかった。

感神聖武皇帝は寵臣としてあつく待遇し、詔して特に天皇への奏上と勅旨の伝達にあたらせた。明敏で当時において誉れが高かった。従兄の「仲麻呂」は心の中で、その才能をそねんでいた。これを知った眞楯は、病気と称して家に引き籠り、ひたすら書籍を相手にして過ごした。

天平の末に、京官から出て大和守に任ぜられ、天平勝寶の初年に従四位上を授けられて参議に任ぜられ、ついで信部卿(中務卿)兼大宰帥に任ぜられた。渤海使の楊承慶が朝廷への儀礼をまさに終えて帰ろうとした時に、「眞楯」は、はなむけの宴を設けた。「承慶」は大いにこのことに感心して褒め称えた。

天平字四年に従三位を授けられ、「眞楯」という名を賜った。本名は「八束」である。同八年正三位・勲二等兼授刀大将になり、天平神護二年に大納言兼式部卿に任ぜられた。甍じた時は五十二歳であった。大臣としての葬儀を賜った。民部卿・勅旨大輔・侍従・勲三等の藤原朝臣縄麻呂と右少弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に弔わせている。この日、中納言の吉備朝臣眞備を大納言に任じている。

十七日に右京の人である四比河守(椎野連忠勇に併記)に椎野連、「科野石弓」に「石橋連」、「支母末吉足」等五人に「城篠連」の氏姓をそれぞれ賜っている。二十日に左京の人である「春日藏毘登常麻呂」等二十七人に「春日朝臣」の氏姓を賜っている。二十六日に佐伯宿祢助を山背介、近衛将監の賀茂朝臣諸雄(田守に併記)を兼任で伊勢員外介、左衛士佐の民忌寸総麻呂(眞楫に併記)を兼任で参河掾、高屋連並木を遠江大掾、巨勢朝臣公成(君成)を武藏守、大野朝臣眞本を下総守、参議・民部卿・勅旨大輔・侍従の藤原朝臣縄麻呂を兼任で近江守、太朝臣犬養を介、勅旨少丞の葛井連道依(立足に併記)を兼任で近江員外介、百濟王利善()を飛騨守、大原連家主を但馬員外介、海上眞人清水(清水王)を豊前守に任じている。三十日に左京の人である中臣丸連張弓等二十六人に朝臣姓を賜っている。

<秦毘登淨足>
<阿倍小殿朝臣人麻呂>
● 秦毘登淨足(阿陪小殿朝臣)

伊豫國で「秦」の地形を示す場所が「淨足」の居処である。あらためて頻出の「秦」=「艸+屯+禾」に分解してみると、地形象形的には、「二つ並んで稲穂のような山稜が延び出ている様」を表す文字と解釈した。

全てこの解釈で「秦」の文字を含む地名・人名の場所を求めることができる。ある意味で実に”重宝な”文字なのである。

それを念頭にして探索すると、いや、探索するまでもなく、立派な「秦」を見出せる。伊豫國宇和郡の東端に、全く登場人物の影も見せなかった地域である。その東側は讚岐國山田郡となり、國境の地であることが解る。

「淨足」の言によると、秦首の娘が産んだ子、秦伊豫麻呂が「淨足」等の祖先となったようである。首=首の付け根のように窪んだところ伊豫=谷間に区切られた山稜が大きく横に広がったところと解釈される。伊豫國生まれだから、では決してない。彼等の出自を図に示した。

既出の文字列である淨足=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる麓に足のような山稜が延びているところと読み解ける。「首」の西側の谷間と推定される。「秦」の穂先に多くの人々が住まっていたのであろう。

少し後に阿倍小殿朝臣人麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。人=谷間が[人]の形をしている様であり、麻呂=萬呂と解釈すると、「淨足」の西隣の谷間が出自と推定される。「阿倍」一族と認知されたら”外”は付かない、であろう。

<安倍小殿小鎌>
● 安倍小殿小鎌

孝徳天皇に伊豫國で朱砂を探せ、と命じられた「安倍小殿小鎌」、勿論、書紀に登場していない人物である。その当時では、天皇の寵愛を受けた阿倍小足媛、その父親である阿倍内(倉梯)麻呂大臣が歴史を彩っていた(こちら参照)。

蘇我氏が没落した『乙巳の変』を経て新しい時代が開かれようとしつつあった時でもあったと伝えられている。そんな背景でこの人物の出自を求めてみよう。

「安倍小殿」は、その後に阿倍一族を代表する阿倍引田臣一族と同様に複姓表記と思われる。「阿倍内麻呂」も”阿倍内”の複姓とされている。『八色之姓』が制定されるまでは分派ごとの名称を用い、”一族”意識が低かった、とも言えるであろう。

小殿=山稜が大きく広がった端が三角に尖っているところと読み解ける。「阿倍内麻呂」の西側の山稜を示していると思われる。小鎌=先が三角に尖った鎌のように山稜が延びているところと読むと、出自を図に示した場所に求めることができる。朱砂を見つけろ、の勅命は果たせなかったようである。現地調達の嫁に子を産ませたが、善き父親ではなかったのであろう。

持統天皇即位五(691)年六月に伊豫國司が「宇和郡御馬山」産の白銀・𨥥(荒金)を献上したと記載されている。推定した御馬山の場所は、彼等「秦」一族の奥に位置する山である(上図参照)。朱砂を探し求めた結果が銀の採掘に繋がったと言えるかもしれない。悲喜交々のドラマが垣間見えるような気分である。

少々余談ぽくなるが・・・賜った阿陪小殿朝臣に「倍」ではなく、「陪」が用いられている。誤字とされているようだが、全くの見当違いであろう。「倍」=「人+咅」であり、地形的には「二つに岐れた山稜に谷間が挟まれている様」を表す文字である。谷間にある「阿(安)」の地形である(こちら参照)。

一方「陪」=「阝(阜)+咅」と分解され、「二つに岐れた山稜が段々に積み重なっている様」となる。即ち、「安倍小殿」を引き継ぐのだが、彼等の居処は「倍」とは異なる地形であることを、几帳面に、表記しているのである。古代史学、意味不明ならば、相変わらずの”誤字”とする、その態度は傲慢以外の何ものでもなかろう。

<科野石弓(石橋連)・支母末吉足(城篠連)
● 科野石弓(石橋連)・支母末吉足(城篠連)

ここに来て續紀本文の記載が極めて複雑さを示すようになって来た。即ち、氏名・姓名は出自場所に基づくのであるが、”出自場所=現住所”か否かの検討を要することになる。

「右京人」とされている、この両名の直前で椎野連を賜った「四比河守」については、既に椎野連(四比)忠勇が登場していて、出自場所を同じくする同族であることが分かる。

それを念頭に置いて、「石弓・吉足」の二人は、「右京」が”出自場所=現住所”として読み解くことにする。「右京人」と言う貴重な情報を頂いた、と素直に感謝すべきなのかもしれない。

科野石弓の「科野」は科野國に含まれる文字列であるが、その地が出自ではなかろう。科野=山稜が段々になっている地に野原があるところと解釈した。すると久米王(書紀では來目皇子)や久米朝臣一族の居処である山稜にその地形を見出すことができる。現在は大きく地形が変形しているが、おそらく「科野」が表す地形であったと思われる。

石弓=山麓の小高い地が弓の形をしているところと読むと、図に示した、最も小高い地が出自と推定される。賜った石橋連橋=木+喬=山稜の端が小高く曲がって延びている様と解釈した。幾つかの例があるが、最も古めかしい古事記の天浮橋を挙げておこう。「弓」の端が大きく曲がっている地形に基づいた名称であろう。

支母末吉足は「支母末/吉足」と区切るのであろう。右京人の支半于刀が思い起こされる。地形象形表記に用いられる文字列、支母末=母が子を抱くような地から岐れた山稜の末端にあるところと読み解ける。名前の吉足=蓋をするように延びた山稜に足の形の地があるところと解釈する。これ等の地形を満たす場所を図に示した。六人部連の地を「母」と見做した表記である。

賜った城篠連城篠=平らに整えられた台地が細長く連なって延びているところを表わしている。上図に示したように右京には実に多くの渡来系の人物が蔓延っていたことを伝えている。上記でも述べたように、天神族も含めて大陸・朝鮮半島から渡来人が九州島の東北の片隅を占拠した歴史を記紀・續紀が記述しているのである。

春日藏毘登常麻呂・春日朝臣方名>
● 春日藏毘登常麻呂(春日朝臣)

「春日藏毘登」は、文武天皇紀に春日倉首老が登場していた。僧「弁紀」が還俗して賜った氏姓と記載されていた。大和國添下郡、現地名の田川郡添田町添田が出自と推定した。

「春日」の表記に戸惑いながらであったが、その後元明天皇紀に春日離宮が登場し、この地が春日の名称であることが確認された。

常麻呂に含まれる頻出の常=尚(向+八)+巾=北向きに山稜が延びて広がった様と解釈した。現在までに例外なく”北向き”なのである。その谷間を「老」等の北側に見出すことができる。賜った春日朝臣の氏姓は、そのまま受け入れられるものであろう。

後(光仁天皇紀)に春日朝臣方名が従五位下を叙爵されて登場する。やや地形変形が見られるが、方名=山稜の端が広がり延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

既に大春日朝臣一族が登場していたが、彼等は古事記の天押帶日子命が祖となった壹比韋臣の流れを汲む一派と思われる。「大」は”大きい”ではなく、”大坂”に由来することを表しているのである。

とある資料では・・・添上郡に進出した諸氏族集団が、地縁的関係に基づいて春日臣を中心にまとまったものと理解されている・・・と述べられている。古代の闇を晴らそうとする気概は、微塵も感じられない有様であろう。