2023年4月13日木曜日

高野天皇:称徳天皇(6) 〔630〕

高野天皇:称徳天皇(6)


天平神護二年(西暦766年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

二年春正月甲子。詔曰。今勅〈久〉掛畏〈岐〉近淡海〈乃〉大津宮〈仁〉天下所知行〈之〉天皇〈我〉御世〈尓〉奉侍〈末之之〉藤原大臣復後〈乃〉藤原大臣〈尓〉賜〈天〉在〈留〉志乃比己止〈乃〉書〈尓〉勅〈天〉在〈久〉子孫〈乃〉淨〈久〉明〈伎〉心〈乎〉以〈天〉朝庭〈尓〉奉侍〈牟乎波〉必治賜〈牟〉其繼〈方〉絶不賜〈止〉勅〈天〉在〈我〉故〈尓〉今藤原永手朝臣〈尓〉右大臣之官授賜〈止〉勅天皇御命〈遠〉諸聞食〈止〉宣。」以大納言從二位藤原朝臣永手爲右大臣。中納言正三位諱。藤原朝臣眞楯並爲大納言。參議正三位吉備朝臣眞備爲中納言。右大弁從四位上石上朝臣宅嗣爲參議。庚午。正六位上伊吉連眞次獻錢百萬。授外從五位下。癸酉。幸右大臣第授正二位。其室正五位上大野朝臣仲智從四位下。丁丑。授從五位下息長丹生眞人大國從五位上。外從五位下葛井連道依從五位下。己夘。授外正六位上桑原毘登安麻呂外從五位下。

正月八日に次のように詔されている(以下宣命体)・・・いま仰せなるには、口に出して申すのも恐れ多い近江大津宮で天下を統治された天皇(天智天皇)の時代にお仕えした藤原大臣(鎌足)や後の藤原大臣(不比等)に賜っている書(誄)に、[藤原大臣の子孫であって、浄く明るい真心をもって朝廷にお仕え申し上げる者を、必ずそれ相応に処遇しよう。跡継ぎを絶えさせはしない]と述べられているので、いま藤原永手朝臣に右大臣の官職を授けようと仰せになる御言葉をみな承れと申し渡す・・・。

大納言の藤原朝臣永手を右大臣、中納言の諱(白壁王、後の光仁天皇)・藤原朝臣眞楯を大納言、参議の吉備朝臣眞備を中納言、右代弁の石上朝臣宅嗣を参議に任じている。

十四日に伊吉連眞次(益麻呂に併記)が銭百万を献上したので、外従五位下を授けている。十七日に右大臣の邸宅に行幸されて大臣に正二位を、その妻の大野朝臣仲智(仲仟。廣言に併記)に従四位下を授けている。二十一日に息長丹生眞人大國(國嶋に併記)に従五位上を、葛井連道依(立足に併記)に従五位下を授けている。二十三日に桑原毘登安麻呂(宅持に併記)に外従五位下を授けている。

二月庚寅。外從八位下橘戸高志麻呂獻錢百萬。授外從五位下。甲午。授正六位上白猪与呂志女從五位下。入唐學問僧普照之母也。己亥。授從四位下道嶋宿祢嶋足正四位下。壬寅。授從五位上藤原朝臣是公從四位下。外正六位上山背忌寸諸上外從五位下。丙午。勅。夫蓄貯者爲國之本。宜令募運近江國近郡稻穀五萬斛。貯納於松原倉。白丁運五百斛叙一階。毎加三百五十斛進一階。有位毎三百斛加叙一階。並勿過正六位上。丁未。命婦外從五位下水海毘登清成等五人賜姓水海連。」賜從三位山村王功田五十町。從四位上日下部宿祢子麻呂。從四位下坂上大忌寸苅田麻呂。佐伯宿祢伊多知。正五位上淡海眞人三船。從五位上佐伯宿祢三野五人。各廿町。從五位下紀朝臣船守。外從五位下民忌寸総麻呂二人各八町。並傳其子。癸丑。右京人從六位下私眞繩。河内國人少初位上私吉備人等六人賜姓會賀臣。乙夘。左京人從八位下桑原連眞嶋。右京人外從五位下桑原村主足床。大和國人少初位上桑原村主岡麻呂等卌人。賜姓桑原公。

二月四日に「橘戸高志麻呂」が銭百万を献上したので、外従五位下を授けている。八日に「白猪与呂志女」に従五位下を授けている。入唐学問僧の「普照」(業行)の母である。十三日に道嶋宿祢嶋足(丸子嶋足)に正四位下を授けている。十六日に藤原朝臣是公(黒麻呂)に従四位下、「山背忌寸諸上」に外従五位下を授けている。

二十日に次のように勅されている・・・貯蓄することは國を治めるための基本であるので、近江國の都に近い郡から籾米五万石を募って運送し、「松原倉」(松林宮近隣?)に納め貯蔵させよ。無位の人民で五百石を運んだ者には位を一階授け、三百五十石を加えるごとに更に位を一階昇進させよ。位階を持つ者は、三百石ごとに位を一階昇叙せよ。ともに正六位上を越えてはならない・・・。

二十一日に命婦の水海毘登清成(淨成)等五人に「水海連」の姓を賜っている。山村王に功田五十町、日下部宿祢子麻呂(大麻呂に併記)坂上大忌寸苅田麻呂(犬養に併記)佐伯宿祢伊多知(智、治)・淡海眞人三船佐伯宿祢三野(今毛人に併記)の五人に二十町、紀朝臣船守民忌寸総麻呂(眞楫に併記)等二人に八町を賜わり、それぞれの子に伝領させている。

二十七日に右京の人である「私眞縄」、河内國の人である「私吉備人」等六人に「會賀臣」の氏姓を賜っている。二十九日に左京の人である「桑原連眞嶋」、右京の人である「桑原村主足床」、大和國の人である「桑原村主岡麻呂」等四十人に「桑原公」の姓を賜っている(こちら参照)。

<橘戸高志麻呂・毘登戸東人>
● 橘戸高志麻呂

「橘戸」の氏名は、初見である。また、後に續紀中に「橘部越麻呂」と記載された人物であろう。備後介に任じられてもいる。しかしながら、それ以上の記述は見られず、他の情報を探すと、「河内國高安郡」の住人だったことが分かった。

とは言え、「高安郡」そのものが未出であって、登場するのが寶龜十一(780)年五月である。かなり先走りになるが、先ずはその地を求めることにする。

「高安」の文字列は、記紀・續紀を通じてかなり多くの場所を表して来た。幾度も述べたように固有の地名ではない。高安=皺が寄ったような山稜に挟まれた谷間が嫋やかに曲がっているところの地形と解釈した。

その地形を河内國で探すと、図に示した場所、現地名では京都郡みやこ町勝山浦河内に見出すことができる。何度も引用している味見峠北側の山塊の東麓に当たる場所である。この人物の名前、高志麻呂高志=皺が寄ったような地で川が蛇行して流れているところに繋がっていることが解る。

些か唐突な文字列である「橘戸」は、古事記の「橘」に類似する表現であろう。即ち、「橘」=「多くの谷間が寄り集まっている様」である。すると守部連一族の近隣の地形を示していると思われる。纏めると橘戸=多くの谷間が集まっている地を塞ぐような山稜が延びているところと読み解ける。

少し後に河内國の人である毘登戸東人等が高安造の氏姓を賜ったと記載されている。「毘登戸」の「毘登」は史・首姓の置換えではなく、地形象形表記であろう。毘登=小高い地から山稜が岐れた谷間(登)に窪んだ地がくっ付いて並んでいる(毘)ところと解釈される。橘戸の北側の地形を表していることが解る。頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した場所が出自と推定される。

少し前に百濟から渡来した調阿氣麻呂等廿人に「豊田造」の氏姓を授けたと記載されていた。正に”高安”の谷間一つ一つに住まう一族を記載しているようである。帰化し、そして同化していった様子を伝えているのであろう。

<白猪与呂志女・普照>
● 白猪与呂志女・普照

「白猪」の氏名は、書紀の欽明天皇紀に白猪史の氏姓を賜り、天武天皇紀にはその子孫の寶然が大唐留学生として登場していた。その後に「葛井連」の氏姓を賜り、多くの人材が登用されて来ている。

対外折衝の役割を担う人物が多く見られ、有能な一族であったと思われる。「普照(業行)」は、唐に留まること十年の歳月を要したが、中国の高僧である鑑眞招聘という大役を果たしたと記載されていた。

その母へ従五位下を叙爵した、と記している。既出の文字列である与呂志=ギザギザと噛み合うような段々に積み重なった地に蛇行する川が流れているところと読み解くと、図に示した場所が出自と推定される。葛井連一族(こちらこちら参照)の北側に当たる場所である。

母親の出自が明らかになれば普照もこの地に生まれたのであろう。地名・人名にはあまり用いられていない「普」=「竝+日」と分解すると、地形象形表記として、普=[炎]のような地が次々に広がって行く様と解釈される。照=日+召+灬=太陽のような地の周りに[炎]のような山稜が延び出ている様と解釈した。古事記の天照大御神に用いられた文字である。出自の場所を図に示した。

尚、別表記の業行=ギザギザとした地が交差するところと読むと、母親のとの接点が出自だったことが解る。なかなかに面白い表現であろう。この後に續紀に登場されることはなく、帰朝した後は東大寺及び西大寺(こちら参照)に住まっていたとのことである。

余談だが、「普照」は井上泰著『天平の甍』の主人公、映画化もされて、日中国交正常化の機会を得て、現地ロケが敢行されている。若い留学僧達の国を思う心、また、それに応えた鑑眞の不撓の精神が観る者に蘇ったであろう。

<山背忌寸諸上>
<私眞縄・私吉備人(會賀臣)>
● 山背忌寸諸上

「山背忌寸」は、孝謙天皇紀に河内國石川郡の漢人廣橋・刀自賣の二名に授けられていた。その後は音沙汰なくであったが、称徳天皇の記憶に残っていたのかもしれない。

諸上=盛り上がっている地の前で耕地が交差するように延びているところと読むと、図に示した場所が出自と推定される。決して広くはない石川郡ではあるが、ここでも谷間が埋まって行く様相である。

● 私眞縄・私吉備人(會賀臣) 「私」の氏名は、文武天皇紀に私小田等が登場し、称徳天皇紀になって「私朝臣」姓(私朝臣長女)を賜っていた。その一族の居処は攝津國、現在の行橋市矢留の矢留山の東麓辺りと推定した。今回登場の「私」は、河内國が出自及びその地の住人だと記載されている。

勿論、「私」は固有の地名ではなく、私=禾+ム=稲穂のように延びている山稜に囲まれた様と解釈する。すると、図に示した、五社八幡神社がある山稜などに囲まれた地域の地形を表していることが解る。河内國交野郡に属する一帯と思われる。眞繩=繩のような山稜が寄り集まった窪んだところ吉備人=[吉備]の地形が谷間にあるところと読み解くと、ぞれぞれの出自の場所を求めることができる。「吉備」の文字列は、実に多用されているわけである。

賜った會賀臣會賀=押し開かれた谷間が出会うところと読むと、彼等一族の出所の地形を的確に表現していることになる。「交野郡」の別表記とも言えるものであろう。また、臣=目のように窪んだ様を表す文字と解釈したが、これも適切な姓名であろう。

上図に示したように河内國の谷間に隈なく人々が住まっていた状況が再現されているように思われる。”天神族”も含めて、全て大陸・朝鮮半島からの渡来人達が住み着いた倭國、凄まじいばかりの人々を受け入れた極東の地だったのである。

三月戊午。伊豫國人從七位上秦毘登淨足等十一人賜姓阿陪小殿朝臣。淨足自言。難破長柄朝廷。遣大山上安倍小殿小鎌於伊豫國。令採朱砂。小鎌便娶秦首之女。生子伊豫麻呂。伊豫麻呂不尋父祖。偏依母姓。淨足即其後也。丁夘。大納言正三位藤原朝臣眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝寵遇特渥。詔特令參奏宣吐納。明敏有譽於時。從兄仲滿心害其能。眞楯知之。稱病家居。頗翫書籍。天平末出爲大和守。勝寳初授從四位上。拜參議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶朝礼云畢。欲歸本蕃。眞楯設宴餞焉。承慶甚稱歎之。寳字四年授從三位。更賜名眞楯。本名八束。八年至正三位勳二等兼授刀大將。神護二年拜大納言兼式部卿。薨時年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍從勳三等藤原朝臣繩麻呂。右少辨從五位上大伴宿祢伯麻呂弔之。是日。以中納言正三位吉備朝臣眞備爲大納言。壬申。右京人正七位上四比河守賜姓椎野連。從七位上科野石弓石橋連。大初位上支母末吉足等五人城篠連。乙亥。左京人從七位下春日藏毘登常麻呂等廿七人賜姓春日朝臣。辛巳。從五位下佐伯宿祢助爲山背介。近衛將監從五位下賀茂朝臣諸雄爲兼伊勢員外介。左衛士佐外從五位下民忌寸総麻呂爲兼參河掾。外從五位下高屋連並木爲遠江大掾。從五位下巨勢朝臣公成爲武藏守。從五位下大野朝臣眞本爲下総介。參議民部卿正四位下勅旨大輔侍從藤原朝臣繩麻呂爲兼近江守。從五位下太朝臣犬養爲介。勅旨少丞從五位下葛井連道依爲兼員外介。從五位下百濟王利善爲飛騨守。外正五位下大原連家主爲但馬員外介。從五位上海上眞人清水爲豊前守。乙酉。左京人正五位下中臣丸連張弓等廿六人賜姓朝臣。

三月三日に伊豫國の人である「秦毘登淨足」等十一人に「阿陪小殿朝臣」の氏姓を賜っている。「淨足」は自ら以下のように述べている・・・難波長柄朝廷(孝徳天皇)は、大山上の「安倍小殿小鎌」を伊豫國に遣わして、朱砂を採掘させたが、そこで「小鎌」は「秦首」の娘を娶って、子の「伊豫麻呂」が生まれた。「伊豫麻呂」は父の祖(の姓)を継ぐことなく、母の姓ばかりを名乗っていたが、「淨足」はその子孫である・・・。

十二日に大納言の藤原朝臣眞楯(鳥養[第一子]に併記)が亡くなっている。平城朝(聖武天皇)に正一位・太政大臣を贈られた「房前」の第三子であった。「眞楯」は度量が広く深く、宰相として天子を補佐するに足る才能を備えていた。最初春宮大進に任官し、次第に転任して、正五位上・式部大輔兼左衛士督に至ったが、官職にあっては公平で行いが潔く、思慮においても私情に流されることはなかった。

感神聖武皇帝は寵臣としてあつく待遇し、詔して特に天皇への奏上と勅旨の伝達にあたらせた。明敏で当時において誉れが高かった。従兄の「仲麻呂」は心の中で、その才能をそねんでいた。これを知った眞楯は、病気と称して家に引き籠り、ひたすら書籍を相手にして過ごした。

天平の末に、京官から出て大和守に任ぜられ、天平勝寶の初年に従四位上を授けられて参議に任ぜられ、ついで信部卿(中務卿)兼大宰帥に任ぜられた。渤海使の楊承慶が朝廷への儀礼をまさに終えて帰ろうとした時に、「眞楯」は、はなむけの宴を設けた。「承慶」は大いにこのことに感心して褒め称えた。

天平字四年に従三位を授けられ、「眞楯」という名を賜った。本名は「八束」である。同八年正三位・勲二等兼授刀大将になり、天平神護二年に大納言兼式部卿に任ぜられた。甍じた時は五十二歳であった。大臣としての葬儀を賜った。民部卿・勅旨大輔・侍従・勲三等の藤原朝臣縄麻呂と右少弁の大伴宿祢伯麻呂(小室に併記)に弔わせている。この日、中納言の吉備朝臣眞備を大納言に任じている。

十七日に右京の人である四比河守(椎野連忠勇に併記)に椎野連、「科野石弓」に「石橋連」、「支母末吉足」等五人に「城篠連」の氏姓をそれぞれ賜っている。二十日に左京の人である「春日藏毘登常麻呂」等二十七人に「春日朝臣」の氏姓を賜っている。二十六日に佐伯宿祢助を山背介、近衛将監の賀茂朝臣諸雄(田守に併記)を兼任で伊勢員外介、左衛士佐の民忌寸総麻呂(眞楫に併記)を兼任で参河掾、高屋連並木を遠江大掾、巨勢朝臣公成(君成)を武藏守、大野朝臣眞本を下総守、参議・民部卿・勅旨大輔・侍従の藤原朝臣縄麻呂を兼任で近江守、太朝臣犬養を介、勅旨少丞の葛井連道依(立足に併記)を兼任で近江員外介、百濟王利善(①-)を飛騨守、大原連家主を但馬員外介、海上眞人清水(清水王)を豊前守に任じている。三十日に左京の人である中臣丸連張弓等二十六人に朝臣姓を賜っている。

<秦毘登淨足>
<阿倍小殿朝臣人麻呂>
● 秦毘登淨足(阿陪小殿朝臣)

伊豫國で「秦」の地形を示す場所が「淨足」の居処である。あらためて頻出の「秦」=「艸+屯+禾」に分解してみると、地形象形的には、「二つ並んで稲穂のような山稜が延び出ている様」を表す文字と解釈した。

全てこの解釈で「秦」の文字を含む地名・人名の場所を求めることができる。ある意味で実に”重宝な”文字なのである。

それを念頭にして探索すると、いや、探索するまでもなく、立派な「秦」を見出せる。伊豫國宇和郡の東端に、全く登場人物の影も見せなかった地域である。その東側は讚岐國山田郡となり、國境の地であることが解る。

「淨足」の言によると、秦首の娘が産んだ子、秦伊豫麻呂が「淨足」等の祖先となったようである。首=首の付け根のように窪んだところ伊豫=谷間に区切られた山稜が大きく横に広がったところと解釈される。伊豫國生まれだから、では決してない。彼等の出自を図に示した。

既出の文字列である淨足=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる麓に足のような山稜が延びているところと読み解ける。「首」の西側の谷間と推定される。「秦」の穂先に多くの人々が住まっていたのであろう。

少し後に阿倍小殿朝臣人麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。人=谷間が[人]の形をしている様であり、麻呂=萬呂と解釈すると、「淨足」の西隣の谷間が出自と推定される。「阿倍」一族と認知されたら”外”は付かない、であろう。

<安倍小殿小鎌>
● 安倍小殿小鎌

孝徳天皇に伊豫國で朱砂を探せ、と命じられた「安倍小殿小鎌」、勿論、書紀に登場していない人物である。その当時では、天皇の寵愛を受けた阿倍小足媛、その父親である阿倍内(倉梯)麻呂大臣が歴史を彩っていた(こちら参照)。

蘇我氏が没落した『乙巳の変』を経て新しい時代が開かれようとしつつあった時でもあったと伝えられている。そんな背景でこの人物の出自を求めてみよう。

「安倍小殿」は、その後に阿倍一族を代表する阿倍引田臣一族と同様に複姓表記と思われる。「阿倍内麻呂」も”阿倍内”の複姓とされている。『八色之姓』が制定されるまでは分派ごとの名称を用い、”一族”意識が低かった、とも言えるであろう。

小殿=山稜が大きく広がった端が三角に尖っているところと読み解ける。「阿倍内麻呂」の西側の山稜を示していると思われる。小鎌=先が三角に尖った鎌のように山稜が延びているところと読むと、出自を図に示した場所に求めることができる。朱砂を見つけろ、の勅命は果たせなかったようである。現地調達の嫁に子を産ませたが、善き父親ではなかったのであろう。

持統天皇即位五(691)年六月に伊豫國司が「宇和郡御馬山」産の白銀・𨥥(荒金)を献上したと記載されている。推定した御馬山の場所は、彼等「秦」一族の奥に位置する山である(上図参照)。朱砂を探し求めた結果が銀の採掘に繋がったと言えるかもしれない。悲喜交々のドラマが垣間見えるような気分である。

少々余談ぽくなるが・・・賜った阿陪小殿朝臣に「倍」ではなく、「陪」が用いられている。誤字とされているようだが、全くの見当違いであろう。「倍」=「人+咅」であり、地形的には「二つに岐れた山稜に谷間が挟まれている様」を表す文字である。谷間にある「阿(安)」の地形である(こちら参照)。

一方「陪」=「阝(阜)+咅」と分解され、「二つに岐れた山稜が段々に積み重なっている様」となる。即ち、「安倍小殿」を引き継ぐのだが、彼等の居処は「倍」とは異なる地形であることを、几帳面に、表記しているのである。古代史学、意味不明ならば、相変わらずの”誤字”とする、その態度は傲慢以外の何ものでもなかろう。

<科野石弓(石橋連)・支母末吉足(城篠連)
● 科野石弓(石橋連)・支母末吉足(城篠連)

ここに来て續紀本文の記載が極めて複雑さを示すようになって来た。即ち、氏名・姓名は出自場所に基づくのであるが、”出自場所=現住所”か否かの検討を要することになる。

「右京人」とされている、この両名の直前で椎野連を賜った「四比河守」については、既に椎野連(四比)忠勇が登場していて、出自場所を同じくする同族であることが分かる。

それを念頭に置いて、「石弓・吉足」の二人は、「右京」が”出自場所=現住所”として読み解くことにする。「右京人」と言う貴重な情報を頂いた、と素直に感謝すべきなのかもしれない。

科野石弓の「科野」は科野國に含まれる文字列であるが、その地が出自ではなかろう。科野=山稜が段々になっている地に野原があるところと解釈した。すると久米王(書紀では來目皇子)や久米朝臣一族の居処である山稜にその地形を見出すことができる。現在は大きく地形が変形しているが、おそらく「科野」が表す地形であったと思われる。

石弓=山麓の小高い地が弓の形をしているところと読むと、図に示した、最も小高い地が出自と推定される。賜った石橋連橋=木+喬=山稜の端が小高く曲がって延びている様と解釈した。幾つかの例があるが、最も古めかしい古事記の天浮橋を挙げておこう。「弓」の端が大きく曲がっている地形に基づいた名称であろう。

支母末吉足は「支母末/吉足」と区切るのであろう。右京人の支半于刀が思い起こされる。地形象形表記に用いられる文字列、支母末=母が子を抱くような地から岐れた山稜の末端にあるところと読み解ける。名前の吉足=蓋をするように延びた山稜に足の形の地があるところと解釈する。これ等の地形を満たす場所を図に示した。六人部連の地を「母」と見做した表記である。

賜った城篠連城篠=平らに整えられた台地が細長く連なって延びているところを表わしている。上図に示したように右京には実に多くの渡来系の人物が蔓延っていたことを伝えている。上記でも述べたように、天神族も含めて大陸・朝鮮半島から渡来人が九州島の東北の片隅を占拠した歴史を記紀・續紀が記述しているのである。

春日藏毘登常麻呂・春日朝臣方名>
● 春日藏毘登常麻呂(春日朝臣)

「春日藏毘登」は、文武天皇紀に春日倉首老が登場していた。僧「弁紀」が還俗して賜った氏姓と記載されていた。大和國添下郡、現地名の田川郡添田町添田が出自と推定した。

「春日」の表記に戸惑いながらであったが、その後元明天皇紀に春日離宮が登場し、この地が「春日」の名称であることが確認された。

常麻呂に含まれる頻出の常=尚(向+八)+巾=北向きに山稜が延びて広がった様と解釈した。現在までに例外なく”北向き”なのである。その谷間を「老」等の北側に見出すことができる。賜った春日朝臣の氏姓は、そのまま受け入れられるものであろう。

後(光仁天皇紀)に春日朝臣方名が従五位下を叙爵されて登場する。やや地形変形が見られるが、方名=山稜の端が広がり延びているところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。

既に大春日朝臣一族が登場していたが、彼等は古事記の天押帶日子命が祖となった壹比韋臣の流れを汲む一派と思われる。「大」は”大きい”ではなく、”大坂”に由来することを表しているのである。

とある資料では・・・添上郡に進出した諸氏族集団が、地縁的関係に基づいて春日臣を中心にまとまったものと理解されている・・・と述べられている。古代の闇を晴らそうとする気概は、微塵も感じられない有様であろう。