2023年4月21日金曜日

高野天皇:称徳天皇(7) 〔631〕

高野天皇:称徳天皇(7)


天平神護二年(西暦766年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月壬辰。大宰府言。防賊戍邊。本資東國之軍。持衆宣威。非是筑紫之兵。今割筑前等六國兵士以爲防人。以其所遺分番上下。人非勇健。防守難濟。望請。東國防人依舊配戍。勅。修理陸奥城柵。多興東國力役。事須彼此通融各得其宜。今聞。東國防人多留筑紫。宜加検括。且以配戍。即隨其數簡却六國所點防人。具状奏來。計其所欠。差點東人。以填三千。斯乃東國勞輕。西邊兵足。丙申。奉八幡比咩神封六百戸。以神願也。」淡路。石見二國飢。賑給之。己亥。和泉國飢。賑給之。甲辰。伊豫國神野郡伊曾乃神。越智郡大山積神並授從四位下。充神戸各五烟。久米郡伊豫神。野間郡野間神並授從五位下。神戸各二烟。丁未。勅。比日之間。縁有所念。歸依三寳。行道懴悔。泣罪解網。先聖仁迹。冀施恩恕。盡洗瑕穢。宜可大赦天下。自天平神護二年四月廿八日昧爽已前大辟已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。私鑄錢及八虐。受財枉法。監臨自盜。盜所監臨。強盜竊盜。常赦所不免者咸悉赦除。但先後逆黨不在赦原。普告天下知朕意焉。」攝津國人正七位下甘尾雪麻呂賜姓井於連。甲寅。有一男子。自稱聖武皇帝之皇子。石上朝臣志斐氏之所生也。勘問果是誣罔。詔配遠流。」大和國人高志毘登久美咩等十七人。被諸陵寮寃枉。沒爲陵戸。至是。披訴得雪。除陵戸籍。

四月七日に大宰府が以下のように言上している・・・賊の侵入を防ぎ辺境を守備することは、本来東國の軍隊に頼っており、民衆を守り武威を示すのは筑紫の兵士ではなかった。今筑前などの六國の兵士を割いて防人とし、その残りの兵士を上下二班に分けているが、兵士となる人が勇健でなければ防衛を全うすることは困難である。東國の防人を以前のように守備に配置するよう要望する・・・。

次のように勅されている・・・陸奥の城柵を修理するのに、東國の力役が多く徴集されている。東國と西辺の兵士や人夫を融通しあって、都合好く取り計らうべきである。今聞くところでは、東國の防人が廃止後も多く残留しているという。それらを取調べて召集し、守備に配置すべきである。そしてその数の分だけ六國で徴兵する防人を削減し、その状況を詳しく書き出して奏上せよ。不足があれば、東國の人を指名して三千の兵員を満たそう。このようにすれば、東國での人民の労役は軽くなり、西辺の國では兵員が十分備わることになろう・・・。

十一日に八幡比咩神に封戸を六百戸奉っている。神の願いによるものである。淡路・石見の二國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。十四日に和泉國に飢饉が起こったので、物を与えて救っている。

十九日に伊豫國神野郡伊曾乃神、「越智郡大山積神」に共に従四位下を授け、神戸をそれぞれ五戸支給している。「久米郡伊豫神」、「野間郡野間神」に共に従五位下を授け、神戸をそれぞれ二戸支給している。

二十二日に次のように勅されている・・・このごろ、思うところがあって、仏法に帰依して自ら仏の道を行い悔い改めている。罪を泣いて歎き、法の網を緩めることは、昔の聖人の行った慈しみある事蹟である。どうか恵みある思いやりを施して彼等の傷と穢れを全て洗い流してやりたい。天下に大赦を行うことにする。---≪続≫---

天平神護二年四月二十八日の夜明けより以前、死罪以下の罪は軽重に関わりなく、既に、既に発覚した罪、まだ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、罪名のまだ定まらないもの、獄に繋がれている囚人、贋金作り及び八虐、財物を受け取って法を枉げたもの、保管の責任者でありながら自ら盗みをしたもの、強盗や窃盗、平常の赦では許されないとしている罪を犯したものなど、これらの全て赦す。---≪続≫---

但し、先と後の逆党(橘奈良麻呂・藤原仲麻呂の乱)は、この限りではない。普く天下に告げて朕の意図を知らせよ・・・。この日、攝津國の人である「甘尾雪麻呂」に「井於連」の氏姓を賜っている。

二十九日に一人の男子が現れて、自分は聖武皇帝の皇子で、「石上朝臣志斐氐」の産んだ者であると称している。問い質してみると、果たして詐欺であった。そこで詔して遠流に処している。大和國の人である「高志毘登久美咩」等十七人は、諸陵寮によって無実の罪を着せられ、公民の身分を失い陵戸とされたが、ここで訴え出て、認められて無実の罪をそそぎ、陵戸の戸籍から除かれている。

伊豫國:越智郡大山積神・久米郡伊豫神・野間郡野間神

<伊豫國:越智郡大山積神・久米郡伊豫神>
<野間郡野間神>
神野郡伊曾乃神については、既にその場所を求めた。現在の北九州市若松区小竹にある白山の西麓、「伊曾乃神」は白山の西南麓に鎮座する神と推定した。

また、「周敷郡」については、周敷伊佐世利宿祢(多治比連眞國)が登場し、その居処として同区有毛と推定した。

伊豫國については、その東部からの人材登用が進んでいたが、西部地方からは極めて少なく、未開の地のような状況であった。そして、漸くその地の詳細が、とは言え、”神様”のご登場なのである。

「越智郡」の越智は、書紀の天武天皇紀に「後岡本天皇陵」(斉明天皇陵)がある場所として記載されている。越智は、鉞・鏃・炎の地形が寄り集まった地形を表しているとして解読した結果であった。些か地形の変形が見られるが、極めて類似した地形を示す場所が見出せる。図に示した岩尾山の西麓である。

「大山積神」の大山積=平らな頂の山の麓で山稜の端が積み上げられたところと読み解ける。岩尾山の麓、おそらく図に示した辺りに鎮座していたのであろう。「大山」は、古事記の大山守命の「大山」に繋がる山稜を表していると思われる。

「久米郡」に含まれる頻出の久米=山稜の端が並んでいる谷間が[く]の字形に曲がって延びているところと解釈した。その地形が「周敷郡」の南側に確認される。古事記の五百木之入日子命の居処と推定した地である。現地名は同区有毛である。

「伊豫神」の「伊豫」は、伊豫國を代表する名称と読めるかもしれないが、やはり、「伊豫」の地形を表していると思われる。伊豫=谷間に区切られた山稜が横切るように大きく延びているところと解釈する。鎮座の場所は、多分、図に示した辺りであろう。

「野間郡」の野間=二つの山稜に挟まれたもう一つの山稜が三角州になっているところと読み解ける。図に示した場所、同区竹並・蜑住辺りと推定される。「野間神」は、その三角州に鎮座してのではなかろうか。

<甘尾雪麻呂(井於連)>
● 甘尾雪麻呂

いつものことながら唐突に賜姓の記述である。攝津國人をそのまま受け取って、出自場所を求めるのであるが、珍しい「雪」の文字を名前に用いている。

既出の文字列である甘尾=山稜が延びた端が舌を出したような形をしているところと読み解ける。標高差が殆どなく「師」の地形ではあるが、それらしき場所を図に示した。

問題の「雪」については、文武天皇紀に登場した伊吉連古麻呂の別称に「伊吉」=「雪」と表記していたこと知られている。あらためて述べると、「雪」の古文字は「䨮」=「雨+彗」と分解され、更に「彗」=「甡+又」から成る文字である。

地形象形的には「彗」=「手(腕)のような山稜の先が細かく枝分かれした様」と解釈される。「雨」=「平らな頂から複数の山稜が延びる様」と解釈すると、雪=平らな頂の手のような山稜の端が細かく枝分かれしている様と読み解ける。図に示したように「舌」の先が幾つかに岐れた地形であることが解る。

賜った井於連井於=四角く区切られた地がある旗をなびかせているようなところと解釈される。雪麻呂の居処の別称として違和感なく受け入れられる表記と思われる。

<石上朝臣志斐氐>
● 石上朝臣志斐氐

何とも胡散臭い話ではあるが、天皇及び道鏡等の側近は意表を突かれて大騒ぎ、だったかもしれない。話の信憑性に関わる「志斐氐」なる女性は、勿論、聖武天皇の御落胤を身籠る機会が想定される環境にいたことであろう。

石上朝臣一族の名称としては、珍しい古事記風である。先ずは、その名前が示す場所を求めてみよう。志斐氐=蛇行する川に挟まれている匙のような地が折れ曲がっているところと読み解ける。

すると、淳仁天皇紀に多くの女官と共に従五位下を叙爵された石上朝臣絲手の出自場所を表していることが解る。「豊庭」の子らしき場所なのだが、系譜は不詳のようである。また、石上朝臣一族の女官は、極めて珍しいように思われる。

續紀本文は、これは誣罔であって、当の男子を遠流したと記載している。事の真偽は闇の中であるが、遠流という重罪に処したことも併せて、実は御落胤説は本当だったのかもしれない。天皇等にとっては、不都合な出来事となったようである。おそらく、遠流と称して、例によって殺害されたのではなかろうか。

<高志毘登久美咩>
● 高志毘登久美咩

「高志毘登」の氏姓は、既出であるが和泉國の住人であった。現地名は行橋市入覚・下崎との境界辺りと推定した。現在は大きな貯水池の底となってしまっている(こちら参照)。

同名の氏姓であるが、大和國の住人と記載されている。これだけの情報で、出自場所を求めることになる。いや、これで辿り着けると、續紀編者等は考えていたのであろう。

高志=皺が寄ったような山稜の間を蛇行する川が流れているところであるが、一に特定することは叶わず、少々特徴のある「久美咩」の名前に注目する。「久美/咩」と区切ってみると、久美=谷間が広がった地が[く]の形に曲がっているところと解釈される。「咩」=「口+羊」と分解される。それをそのまま用いたとすると、咩=羊の口のように山稜が延びているところとなる。

求めた結果を図に示した。確かに特徴のある地形であることが解る。傍証がなく、名前からだけの推定場所、また、後日に修正があるかもしれないが・・・この地も歴史の表舞台から遠ざかって来たようである。

五月丁巳。授正五位下津連秋主從四位下。始令七道諸國。采女養物。不論存亡。並全納采女司。戊午。大納言正三位吉備朝臣眞備奏。樹二柱於中壬生門西。其一題曰。凡被官司抑屈者。宜至此下申訴。其一曰。百姓有寃枉者。宜至此下申訴。並令彈正臺受其訴状。壬戌。在上野國新羅人子午足等一百九十三人賜姓吉井連。癸亥。主殿助從五位下下道臣色夫多賜姓朝臣。甲子。以從五位下百濟王三忠爲民部少輔。從五位下百濟王文鏡爲出羽守。從五位下坂上忌寸石楯爲介。從五位上佐伯宿祢美濃麻呂爲能登員外介。乙丑。太政官奏曰。准令。諸國史生。博士。醫師。國无大小。一立定數。但據神龜五年八月九日格。史生之員。隨國大小。各有等差。其博士者惣三四國一人。醫師者毎國一人。今經術之道。成業者寡。空設職員。擢取乏人。繕寫之才。堪任者衆。人多官少。莫能遍用。朝議平章。博士惣國。一依前格。醫師兼任。更建新例。職田。事力。公廨之類。並給正國。不給兼處。有料之國。名爲正任。無料之國。名爲兼任。其史生者。博士。醫師。兼任之國。國別格外加置二人。庶令經術之士周遍宣揚。功勞之人普蒙霑潤。奏可。辛未。奉幣帛於大和國丹生川上神。及五畿内群神。以祈注雨也。甲戌。上野國甘樂郡人外大初位下礒部牛麻呂等四人賜姓物部公。丙子。大和國人從七位下寺間臣大虫等四人賜姓大屋朝臣。丁丑。太政官奏曰。備前國守從五位上石川朝臣名足等解稱。藤野郡者。地是薄塉。人尤貧寒。差科公役。觸途怱劇。承山陽之驛路。使命不絶。帶西海之達道。迎送相尋。馬疲人苦。交不存濟。加以。頻遭旱疫。戸纔三郷。人少役繁。何能支辨。伏乞。割邑久郡香登郷。赤坂郡珂磨。佐伯二郷。上道郡物理。肩背。沙石三郷隷藤野郡。」又美作國守從五位上巨勢朝臣淨成等解稱。勝田郡塩田村百姓。遠闊治郡。側近他界。差科供承。極有艱辛。望請。隨所住處。便隷備前國藤野郡者。奏可。

五月三日に津連秋主に従四位下を授けている。この日、初めて七道の諸國に命じて、采女を資養するための物資は、生死に関わらず全て宮内省の采女司に納めさせている。四日に大納言の吉備朝臣眞備の奏上によって、二つの柱を「中壬生門」の西に建てている。その一つには[宮司から圧迫されている者は、この柱の下に来て訴え出よ]と記し、もう一つには[人民の中で無実の罪を押し付けられている者は、この柱の下に来て訴え出よ]とし、いずれについても弾正台にその訴状を受け取らせている。

八日に上野國に住む新羅人の「子午足」等百九十三人に「吉井連」の氏姓を賜っている。九日に主殿助の下道臣色夫多に朝臣姓を賜っている。十日に百濟王三忠()を民部少輔、百濟王文鏡(武鏡)を出羽守、坂上忌寸石楯(石村村主)を介、佐伯宿祢美濃麻呂を能登員外介に任じている。

十一日に太政官が以下のように奏上している・・・職員令によると、諸國の史生、博士、医師の定員は國の大小に関係なく等しく定数を決めてある。ただ神龜五(728)年八月九日の格によると、史生の定員は國の大小に随って差別が付けられており、博士の定員は三、四ヶ國に一人、医師の定員は國ごとに一人である。今檮学と医術の道は学業を成就した者が少ないので、ただむなしく職員の枠を設けているだけで、選んで採用するにたる人物に乏しい。

文書を整理して書き記す才能については、任務に堪える者は多いので、人が多いのに比べて官職は少なく、あまねく採用することができない。そこで朝廷で審議したところ、博士が数國を惣べる方式は全て前格によるものとし、医師がいくつかの國を兼任することは、一國一医師の規定に関わらず、あらたに新例をたてる。兼任した博士や医師が支給される職田、事力、公廨の類は、みな正任の國において支給するようにし、兼任の分は支給しない。

俸禄を支給する國を正任の國と名付け、俸禄を支給しない國を兼任の國と名付ける。史生の定員は、博士や医師の兼任している國については、格の他に二人増員する。このようにして儒学と医術に通じた者をあまねく天下に広く知らせ、功労のある人物は全て潤うようにして頂きたいと思う・・・。奏上の通りに許可している。

十七日に幣帛を大和國丹生川上神(芳野水分峰神)と畿内五ヶ國の神々に奉っている。雨が程よく降ることを祈ってである。二十日に上野國甘楽郡の人である磯部牛麻呂(物部蜷淵に併記)等四人に「物部公」の氏姓を賜っている。二十二日に大和國の人である「寺間臣大虫」等四人に「大屋朝臣」の氏姓を賜っている。

二十三日に太政官が以下のように上奏している・・・備前國守の石川朝臣名足等が[藤野郡は、土地痩せていて人も一際貧しいが、公の力役の徴発は、各種様々で忙しく慌ただしい状態である。山陽道の駅路を担当しているので使者が絶えることがなく、西海への道が通じているので使者の送迎が相次いである<下記参照>。馬は疲れ人は苦しみ、どちらも生きていけない。それだけでなく、頻りに日照りや疫病の流行にあい、戸数もわずかに三郷(百五十戸)であって、人が少ないのに労役が多いのである。どうして務めを果たすことができようか。伏してお願いする。即ち「邑久郡」の「香登郷」、「赤坂郡」の「珂磨・佐伯」の二郷、「上道郡」の「物理・肩背・沙石」の三郷を割き取って藤野郡に編入願う・・・。

また、美作國守の巨勢朝臣淨成等が以下のように上申している・・・「勝田郡塩田村」の人民は郡の役所から遠く隔っていて、他郡との界近くに位置している。そのため労役に徴発されたり課税の物を出すことに、はなはだ苦しんでいる。そこで住んでいる所に従って、備前國の藤野郡に編入されるように願う・・・。奏上の通りに許可している。

中壬生門 壬生=ふっくらと膨らんだ地が生え出ているところと解釈すると、平城宮のこの辺りに建てられたのかもしれない。参考にしている資料によると、直木幸次郎氏が、訴状の対象は官人であったと推論されているが、その通りのように思われる。

<子午足>
● 子午足(吉井連)

上野國在住の新羅人およそ二百人、かなりの人数の集団であろう。淳仁天皇紀に武藏國閑地に新羅人を移住させて新羅郡を設置したと記載されていた。その後に具体的な人物も登場していた(こちら参照)。

それでも不足の「子午足」等が上野國に住まっていたことを伝えている。多分、”子/午足”と区切るのであろう。「午」は「馬」と読みたくなるが、幾度か名前に用いられたように「午」=「杵」と解釈する。

子=山稜が生え出ている様午足=杵のような山稜から足が延びているところと読み解くと、図に示した「碓氷郡」の地にその地形を見出せる。前出の石上部諸弟の西側に当たる場所である。賜った吉井連吉井=四角く区切られた地が蓋をされたようになっているところと解釈される。「午足」を「吉」と見做した表記であろう。

上記本文の直後に甘樂郡の住人、磯部牛麻呂が「物部公」の氏姓を賜っている。石上部諸弟との位置関係も、極めて妥当なものとなっていることが分かる。

<寺間臣大虫>
● 寺間臣大虫

「寺間臣」は、記紀・續紀を通じて初見である。地名「寺間」ならば、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の太后氷羽州比賣命の陵、狹木之寺間に用いられた文字列が思い出せる。

「賢帝垂仁」に勝るとも劣らぬ太后であったと、古事記が伝えているように伺えた。何とも懐かしい文字列である。それは兎も角として、果たしてその地を出自とする人物なのかを検証してみよう。

その前に「寺間」をあらためて確認すると、寺間=蛇行する川に挟まれて延びる山稜の端にあるところと解釈した。「寺」=「之+寸」=「大きく蛇行する川」を表す文字としている古事記の表記を、そのまま受け継いだ續紀と思われる。漢字の成立ち、その根源に遡って理解していることが分かる重要な例であろう。これらの編者等は、漢字を万葉仮名として用いるような”邪道”には目もくれていないのである。

さて、「狹木」の先端を眺めると、虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れている様の地形が見出せる。大=山稜が平らな頂となっている様とすると、この人物の出自場所は図に示した辺りと推定される。賜った大屋朝臣大屋=平らな頂の山稜が延び至ったところと読み解ける。素直な表記であろう。どうやら、間違いなく、古事記の「寺間」を引き継いでいることが確認されたようである。

<備前國藤野郡再編>
備前國藤野郡再編

備前國の藤野郡は、幾たびも変遷を繰り返すようである。元正天皇紀に初めて邑久郡・赤坂郡の二郷を割いて藤原郡として設置されたが、後に「藤野郡」への名称変更もあった。

これらは文武天皇紀に初めて設置された備前國の領域を北へ北へと拡張し、その領域そのものが変動していた経緯に由来するものであろう。「藤野郡」は、後に「和氣郡」と呼称され、目まぐるしい有様だったようである。

要するに國名・郡名は、時代と共に変化し、決して固定されたものではないことを表していると思われる。それらの名称を固有と解釈しては、とんでもない誤りを犯すことになろう。

ともあれ、今回の再編劇を再現してみよう。記載された順に各郡の各郷の場所を求めることにする。「邑久郡」の香登郷香登=窪んだ地から延び出た山稜に挟まれた谷間の奥が小高いなっているところと読み解ける。その地形を図に示した邑久郡の最南部見出すことができる。

「赤坂郡」からは二郡拠出である。珂磨郷の「珂」=「玉+可」=「谷間が玉のように丸くなっている様」、「磨」=「平らなに整えられた様」とすると、珂磨=谷間が玉のように丸く広がって平らに整えられているところと解釈される。図に示した藤野郡に接する場所と推定される。佐伯郷佐伯=谷間にある左手のような山稜の傍らで谷間がくっ付いているところである。”佐伯宿祢”で用いられた場合と何ら変わることはない。

上道郡からは三郡である。残った郷は”上道”そのものに限られたようである。物理郷物理=「勿」の形に延びる山稜の麓が区分けされているところと読み解ける。いやぁ~、”物理”を地形象形で読み解くことになるとは・・・その地形を図に示した場所、美作國久米郡との端境に見出せる。

肩背郷肩背=肩のようになった山稜が背後にあるところと読み解ける。図に示した場所と思われる。沙石郷沙石=麓の台地が水辺で端が三角に尖ったようになっているところと読み解ける。図に示した場所に、その地形を確認することができる。

最後に美作(旧備前)國勝田郡塩田村まで拠出している。塩(鹽)田=平らに四角く区切られて整えられた窪んだところと解釈される。「勝田郡」の最北部の地形を表していると思われる。図に示した場所と推定される。上図から分かるように、藤野郡を取り囲む各郡の郷を転属したようである。これらの郷名から求められた場所は、全く無理のない配置となっている。

ところで、本文中に藤野郡を重点化する理由の一つとして、「承山陽之驛路。使命不絶。帶西海之達道」と記載されている。「山陽の驛路を承る」は、そのまま読み下すことができそうだが、「帶西海之達道」は、曖昧な表現となっている。訳せば「西海が達する道に帯びる(繋がる)」となろう。決して”西海道”を一意的に示しているわけではない。

即ち、図に示したように、藤野郡を通過する谷間の峠道が備前國の西方にある西海に繋がる道であることを表していると思われる。山稜の東側は、備中國の奥であり、未だ登場していない國となる。発展途上國の人々が往来する重要な道筋に藤野郡があったことを述べているものと思われる。

六月乙酉朔。授正六位上中臣習宜朝臣阿曾麻呂從五位下。丁亥。日向。大隅。薩摩三國大風。桑麻損盡。詔勿收柵戸調庸。己丑。大隅國神造新嶋。震動不息。以故民多流亡。仍加賑恤。乙未。河内國飢。賑給之。丙申。勅。去二月廿日。令募運近江國近郡稻穀五萬斛。貯納於松原倉。其酬叙法者。下勅既畢。而經旬月。未見一人運送。誠是階級有卑。人情不勸。宜運滿一萬斛者超授外從五位下。丁酉。丹波國人家部人足。以私物資養飢民五十七人。賜爵二級。庚戌。勅。如聞。左右京及大和國天平神護元年田租。未全輸了。誠爲頻年不登。百姓乏絶。宜除輸了外悉原免。壬子。刑部卿從三位百濟王敬福薨。其先者出自百濟國義慈王。高市岡本宮馭宇天皇御世。義慈王遣其子豊璋王及禪廣王入侍。洎于後岡本朝廷。義慈王兵敗降唐。其臣佐平福信尅復社稷。遠迎豊璋。紹興絶統。豊璋纂基之後。以譛横殺福信。唐兵聞之復攻州柔。豊璋与我救兵拒之。救軍不利。豊璋駕船遁于高麗。禪廣因不歸國。藤原朝廷賜号曰百濟王。卒贈正廣參。子百濟王昌成。幼年隨父歸朝。先父而卒。飛鳥淨御原御世贈小紫。子郎虞。奈良朝廷從四位下攝津亮。敬福者即其第三子也。放縱不拘。頗好酒色。感神聖武皇帝殊加寵遇。賞賜優厚。時有士庶來告清貧。毎假他物。望外与之。由是。頻歴外任。家无餘財。然性了辨。有政事之量。天平年中。仕至從五位上陸奥守。時聖武皇帝造盧舍那銅像。冶鑄云畢。塗金不足。而陸奥國馳驛。貢小田郡所出黄金九百兩。我國家黄金從此始出焉。聖武皇帝甚以嘉尚。授從三位。遷宮内卿。俄加河内守。勝寳四年拜常陸守。遷左大弁。頻歴出雲。讃岐。伊豫等國守。神護初。任刑部卿。薨時年六十九。

六月一日に中臣習宜朝臣阿曾麻呂(山守に併記)に従五位下を授けている。三日に日向・大隅・薩摩の三國で大風が吹き、桑・麻が悉く損害を被った。詔されて、柵戸の民から調・庸を収納することのないように命じている。五日、大隅國の神が新嶋を造り、地が震動して止まなかった。そのため人民の多くが住居を定めず彷徨ったので、物を与えて救っている。・・・<天平字八[764]年の暮れに大隅國麑嶋信尓村の海に三つの嶋が生まれたと記載されていた。海底火山の活動が継続していたのであろう。現在の桜島?…無縁の出来事である>・・・。

十一日に河内國に飢饉が起こったので物を与えて救っている。十二日に次のように勅されている・・・去る二月二十日に、近江國の都に近い郡から籾米五万石を徴集し運んで、「松原倉」(松林宮近隣?)に納め貯えさせることとした。その際、米を出した者に報いるための叙位の法については既に勅を下している。ところが十日一月経っても運送する者が一人も現れない。真にこれは授ける位が低いので、人の気持ちをかきたてるに至らないからでろう。そこで一万石を運び満たす者には、外従五位下を授けるようにせよ・・・。

十三日に丹波國の人である「家部人足」は、私物で五十七人の飢民を助け養ったので、位階を二級(少初位上)を賜っている。二十六日に次のように勅されている・・・聞くところによると、左右京と大和國の天平神護元年の田租は、まだ全部の納入が終わっていない。それは連年で穀物が稔らず、人民が極めて貧しいためであるということである。従って納入し終わった田租を除き、他は全て免除するようにせよ・・・。

二十八日に刑部卿の百濟王敬福()が亡くなっている。その祖先は百濟國の義慈王より出ている。高市岡本宮で天下を統治された天皇(舒明天皇)の御世(書紀では舒明即位三年三月)に、義慈王は、その子の豊璋王と禅廣王(百濟王善光)を日本に遣わして天皇の側近に侍らせた。後岡本の朝廷(斉明朝)に及んで、義慈王は戦いに敗れて唐に降伏した。その臣下の佐平福信(鬼室福信)は、よく国家を再建して。遠く「豊璋」を迎え、絶えていた王統を再興して盛んにした。

「豊璋」は王位を継いで後、讒言に基づいて無道にも「福信」を殺した。唐兵はこのことを聞いて、また州柔を攻撃した。「豊璋」は日本の救援の兵と共に防戦したが、戦いに敗れ、「豊璋」は船に乗って高句麗に逃走した。「禅廣」はそのため百濟には帰らなかった。藤原の朝廷(持統朝)は「禅廣」に百濟王という称号を賜り、没した時(持統即位七[693]年)、「禅廣」に正廣参(正三位相当)を贈った。子の百濟王昌成()は、幼年の時父と共に日本に入朝し、父より先に没した。飛鳥淨御原の御世(天武朝)に小紫(従三位相当)を贈られた。

「昌成」の子の「郎虞()」は、奈良朝廷(元明~元正朝。記録が定かでないからか?)で従四位下の攝津亮になった。「敬福()」は、「郎虞」の第三子である。「敬福」の性格は気儘で規則にとらわれず、酒色を特に好んだ。感神聖武皇帝は特に手厚く待遇し、恩賞や賜り物が特に厚かった。官人や人民がやって来て、まじめに勤めて貧しいことを告げた時には、その都度他人の物を借りて、思いの外に物を与えた。このために、しばしば地方官に任用されても財産が蓄積されず、家に余分の財産がなかった。しかしその性分は理解力に富み、政治を行う度量があった。

天平年中に朝廷に仕えて陸奥守になった。その当時、聖武皇帝は廬舎那仏の銅像を造っており、鋳造は既に終わったものの、渡金のための黄金が不足していた。ところが陸奥國から駅馬を馳せて、小田郡より出土した黄金九百両を貢進した(天平勝寶元[749]年四月)。我が國で黄金が出たのはこの時が初めてである。聖武皇帝は大いに喜んで褒め称えて、従三位を授け、宮内卿に転任させた。天平勝寶四年に常陸守に任じられ左大弁に転任した。次々と出雲・讃岐・伊豫等の國守を歴任し、天平神護の初めに刑部卿に任ぜられた。享年六十九歳であった。

<家部人足>
● 家部人足

丹波國の人物の登場は、息長・氷上一族を除くと極めて少ない。実に古くから皇統に絡む地なのだが、官吏を輩出する土地柄ではなかったのかもしれない。

「家部」は、文武天皇紀に對馬嶋國で金を採取した人の家部宮道に含まれていた。上記本文で陸奥國小田郡で「我國家黄金從此始出焉」の「我國家」には對馬嶋は含めていない、のかもしれない。

それは兎も角として、家部=谷間に延びた山稜の端が豚の口のようになっている地の近くにあるところの地形を丹波國で探すことになる。結果を図に示したが、思いの外、判別に難儀する羽目になった。

人足=谷間が人の足のようになっているところと解釈すると、この人物の出自を求めることができる。他に情報もなく、地形だけからの推定である。勿論、この谷間からの既出の人物は見当たらないようである。古の古事記で登場した息長水依比賣の谷間の奥を開拓して財を成したのであろう。