2020年4月29日水曜日

吉野生尾人:國神の井氷鹿と石押分之子 〔409〕

吉野生尾人:國神の井氷鹿と石押分之子


少々時代を遡って、紐解き不十分なところを補ってみよう。あまりに明々白々なので、詳細を省略していた場所、「吉野」の地について、さてどのルートを使って登ったのか、広い草原の中で何処を中心としていたのかなど、現在の国道、登山道とは異なっているように思われる。それを読み解くキーマンがちゃんと記載されていたのである。

神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の一行が「吉野」に向かう直前から述べてみることにする。現在日本書紀の読み解きが進行しているが、古事記と書紀の記述に大きな齟齬が見られる場面の一つである。初代天皇は奈良吉野に来た、そう読むように仕掛けられた記述である。仕掛けが、やや稚拙なために、この天皇の実在まで疑われる羽目になったようである。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是亦、高木大神之命以覺白之「天神御子、自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、從其立後應幸行。」故隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。
[ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏やたがらすをよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌うえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光っております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖の祖先です。]

不慣れな山越えルートを選択した伊波禮毘古命、見るに見兼ねた高木御大からの「八咫烏」の支援である。なんとルートガイドまで提供される。奥には行くな…そうです、その山塊はとても危険…初めに言ってよ…なんて馬鹿なことは言わずに素直に後をついて行くこと。
 
<熊野村から吉野へ>
日本で最も有名な烏「八咫烏」…と言って、勿論鳥ではない。この後、ちゃんと交渉事もこなせるお方である。

初見では「八咫烏=八田(ヤタ)の烏(住人)」であり、「現地の道案内ができる熊の毛皮を着た山男」と読み解いた。

彷徨した山中を抜けたところを「八田」と後に古事記が述べる。現在も「八田山」の地名がある(福岡県京都郡苅田町山口八田山)。

この地は後に建内宿禰の御子、蘇賀石河宿禰が開き、更に宗賀稲目一族(石河宿禰が祖となった蘇我臣)が強大な勢力を張る場所なのである。

これが読み取れず神の使いの烏になってしまい、挙句には足が三本になってしまう。重要な地名には一捻りした命名がなされる。それを読み解けなければ古事記が伝えることの理解はあり得ないであろう。

と言い放ってはみたものの「八咫」は何を意味しているのであろうか?…天照大御神が天石屋にお隠れになった時に登場した八尺勾璁八尺鏡に関連すると読み取れる。後者は「訓八尺云八阿多」と注記される。即ち「尺」=「咫」であり、文字形そのものが地形象形していると紐解いた。

 
<八咫烏>
自天遣八咫烏」とは、「八尺鏡」が作られたような場所に住まう「烏」=「その辺りをうろつく人」と解釈すると、「八咫烏」は…、

[八咫]の地形をよく知っている人

…と読み解ける。「尺」と「只」が表す地形、図に示した通りに八田の山麓に見出せる。「尺」「咫」は長さを示すのではなく見事なまでに地形を象っていたのである。

伊波禮毘古命は「熊野村」から徘徊しながら山越えで「八田」に降りた…「蘇賀」の北端に辿り着いたと述べている。

現地名では京都郡苅田町馬場・南原辺りから京都峠を越えるルートを通り同町山口八田山の豊前平野北部に下る。彼らは少々正規ルートからは外れたことも併せて…。

そこから「蘇賀」を南下すれば行き着いたところは「吉野河之河尻」=「小波瀬川下流」当時は現在の苅田町岡崎(岬を意味する)近くまで海であったろう。そこに辿り着いた。この川は後の雄略天皇紀の「吉野」の探索で比定する川である。要するに河口付近に出合ったのである。通説が全く説明できない箇所であり、引いては伊波禮毘古命が奈良大和に向かったのではないことが示されているのである。

そこで「阿陀の鵜飼」の祖に出会う…、
 
阿(台地)|陀(崖)

…である。吉野河(小波瀬川)の上流にある「平尾台」(北九州市小倉南区)を示していることが解る。「鵜飼」は、そのまま読むとこの人物は鵜匠であった、で済まされるところであるが、古事記は重ねた表記をしているであろう。

「鵜」=「弟+鳥」と分解される。「弟」=「段々になった様」を意味する。すると「鵜」=「段々になった[鳥]の地形」と読み解ける。「飼」=「食+司」と分解される。「食」=「山麓のなだらかな様」であり、「司」=「人+口」=「狭い隙間を出入りする様」を表す文字と解説される。「鵜飼」は…、

 
なだらかな山麓で段々になった[鳥]の地の傍に狭い谷間があるところ

…と紐解ける。図に示した現地名行橋市高来にある興隆寺の北側辺りの谷間と推定される。抜け目なく、そして確実に彼らの足取りを示していると思われる。ところでこの「鵜飼」は「僕者國神、名謂贄持之子。」と言う。
 
<阿陀之鵜飼(贄持)>
「贄」=「幸+丸+貝」と分解される。「幸」=「手錠」を象った文字である。「丸」は「〇」ではなく「丮(ケキ)」=「両手で持つ様」と解説される。

要するに「執」=「両手を合わせて差し出す様」を表す文字と言われる。

それに「貝」を加えれば、「お宝を差し出す様」=「神などに捧げる様」と解釈されている。生贄である。

「持」=「手+寺」と分解される。地形象形的には「手」=「山稜」である。また「寺」=「蛇行する川」と読み解いた。

「之(進む)+止(止まる)」の二つの矛盾する構成要素を合わせた文字であり、「蛇行」=「進みつつ止まる」という概念を表していると読み解いた。伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神などに登場した。纏めると「贄持」は…、

 
両手を合わせて差出した様な山稜の隙間を川が蛇行しているところ

…と紐解ける。正に「別名」のような表記となっている。そしてこの地が「吉野」に向かう登り口に当たる場所を表しているのである。

次に登場するのが「生尾人、自井出來」、「井」から「生尾人」である。平尾台に無数に存在する「井」=「カルスト台地のドリーネ」であろう。水汲みの「井戸」ではない。ドリーネとは石灰質の岩がすり鉢状に溶食された凹地あるいは内部が空洞化した後陥没して形成される。「生尾人」は毛皮を着した姿の表現であろう。

 
吉野=カルスト台地

神様の話ではなく、生身の人、だからこの地、吉野の首等あるいは國巢の祖となる。後に応神天皇紀の洞穴で醸したお酒を献上した人々である。吉野の大吟醸である。後には雄略天皇が「蜻蛉野」と叫んぶところである。
 
國神:井氷鹿(吉野首等)

さて、平尾台に到着した一行は不動洞・千仏鍾乳洞がある谷筋へと向かったと思われる。そこで生尾人「井氷鹿」と出会う。「井(ケイ)」=「四角く囲まれた様」を表す。井戸ではない。
 
<井氷鹿(吉野首等)・石押分(吉野國巢)>
「氷」=「冫+水」と分解される。氷が割れる状態を表した文字と解説される。

「氷」=「二つに割れた川」と解釈する。後の垂仁天皇紀に氷羽州比賣命が登場する。「二つに分かれた羽のような州」と解釈される。

「鹿」=「山麓」とすると、「井氷鹿」は…、

 
四角く囲まれた地で二つに分かれた川がある山麓

…と紐解ける。

「吉野首等」の「首」=「首の付け根のように凹んだところ」として、頻出する表記であることが解る。

更に「等」=「竹+寺」と分解され、「山麓に蛇行する川が流れるところ」と読み解ける。「寺」は上記の「持」に含まれていた。「井氷鹿」と「首等」の表記は、この地形を相補って表記していることが解る。

 
國神:石押分之子(吉野國巢)

「石押分」は、そのまま読み取れるであろう。「石」=「岩」=「山」として…、
 
山が押し分けられたところ

…と読める。そして、その結果が「吉野國巢」の「國巢」=「大地が巣のように丸く窪んだ形のところ」と紐解ける。上記と同様に相補って、極めて正確に精緻に平尾台の地形を表していることが解る。ここが、日本の古代における「吉野」である。

 
宇陀之穿

更に進んで、この台地の端、尾根のように連なるところが切り通された場所、それを「宇陀之穿」と名付けたと読み取れる。「穿つ」=「穴をあける、突き抜けて進む」などの意味を表す文字を使ったのは、周囲を山稜に囲まれた「巢」の底から抜け出る状況を伝えたかったのであろう。

「吉野」=「野に満ちたところ」ではあるが、併せてその地形を如実に語る表現であると思われる。漢語(字)を同化した日本語が、年を重ねてすっかりその本来の意味を問わなくなった今、益々古事記、日本書紀、そして中国史書の解読は難しくなるのではなかろうか・・・。

また、既に述べたが、ドリーネに住む人々、その”事実”を古事記が記述した。貴重な「文献」であろう。驚くのは、次の一文「其井有光」数ある鍾乳洞の中に「光水鍾乳洞」がある。今、一般公開はされていないようであるが、極めて重要な「証言」ではなかろうか・・・。平尾台カルスト台地、大切に保存することと、より詳細な調査研究が行われることを期待したい・・・あらためて、その思いに変わりはない。


2020年4月26日日曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅷ) 〔408〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅷ)


蝦夷大臣及び入鹿臣親子の振舞いは、大王=天皇のそれであって、彼らを遮る者はいなくなったようである。蘇我一族の範囲を越えて、使役やら番兵などに使う者の範疇は広がっていたと伝えている。同族支配からの逸脱、これはもう一豪族ではなく、天皇であろう・・・と書紀は告げている。

と言う訳で、クライマックス直前まで物語は進行したようである。即位四年(西暦645年)正月から続けられている。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

四年春正月。或於阜嶺、或於河邊、或於宮寺之間、遙見有物而聽猨吟。或一十許、或廿許。就而視之物便不見、尚聞鳴嘯之響、不能獲覩其身。(舊本云。是歲、移京於難波、而板蓋宮爲墟之兆也。)時人曰、此是伊勢大神之使也。

夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言。同學鞍作得志、以虎爲友學取其術、或使枯山變爲靑山、或使黃地變爲白水、種々奇術不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知、以此治之病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎、折其柱取針走去。高麗國、知得志欲歸之意、與毒殺之。


正月早々に山の峰やら川辺などあちこちで猿のうめき声が何度も聞こえたが、姿を確認することはできず、従って捕えることも事もできなかったと記されている。人は、これは伊勢大神の使いではないかと噂したと伝えている。天皇家の守り神の使者が出回ってるとは、何か不吉なことがおこる予兆か?…と述べているようでもある。詳細は不明だが、旧本でこの年に宮を移したとも記載されているとのこと。

四月になってのこと、百濟の学問僧が日本人の鞍作得志の件を告げたと述べている。余り真面目に読み取るのは無駄なような記述なのだが、この鞍作は結果的に毒殺されたと言う。教えを守らぬ輩は、そうなる定め・・・件の鞍作もそうなる運命、とでも言いたかったのかもしれない。

そして、漸くにしてクライマックスに辿り着いたようである・・・。

六月丁酉朔甲辰。中大兄、密謂倉山田麻呂臣曰、三韓進調之日必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀、麻呂臣奉許焉。戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄、卽自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田、曰、努力努力、急須應斬。子麻呂等、以水送飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。卽共子麻呂等出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。(蘇我臣入鹿、更名鞍作。)天皇卽起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。

粗筋を述べると・・・、

「中大兄皇子」は味方に引き込んだ「倉山田麻呂臣」に大極殿で三韓からの「調の表」を読んで貰うが、その時に「蘇我入鹿臣(鞍作臣)」を斬る計画だと明かした。当然のことながら実行役の名前も告げたであろう。

いざ本番では、先ずは「入鹿臣」が帯びている剣を方便で解かせて丸腰にし、門を全て閉じて密室にした。そこで「中大兄」及び「中臣鎌子連」は武器を準備し、「海犬養連勝麻呂」が実行役の「佐伯連子麻呂」及び「葛城稚犬養連網田」に武器を持たせた。

がしかし「山田麻呂臣」、「子麻呂」、「網田」は、極度に緊張した態度を露わにして事が発覚しそうになったところで、空かさず「中大兄」が一気に斬りつけ、「入鹿臣」の頭と肩を割った。驚いた天皇は即退去し、その後に「子麻呂」と「網田」が「入鹿臣」を斬った。

・・・と言う事件であった。今に伝えられる「乙巳の変」(乙巳:西暦645年)である。

是日、雨下潦水溢庭、以席障子覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。卽入臥內、杜門不出。中大兄、卽入法興寺爲城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造國造、悉皆隨侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是、漢直等、總聚眷屬、擐甲持兵、將助大臣處設軍陣。中大兄、使將軍巨勢德陀臣、以天地開闢君臣始有、說於賊黨令知所赴。於是、高向臣國押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、應當被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則爲誰空戰、盡被刑乎。言畢解劒投弓、捨此而去。賊徒亦隨散走。

事件発生からの後日談が語られている。それを目の当たりにした「古人大兄皇子」は、自分の宮に逃げて、「韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。」と告げた。一方の「中大兄」は法興寺を城とし、およその皇子、諸王などを従えた。「蝦夷大臣」を護衛する「漢直等」は軍の準備を行ったが、「中大兄」の使者「巨勢德陀臣」のよって説き伏せられた。「入鹿臣」が「山背大兄王」を討伐する時にも従わなかった「高向臣國押」の言によって軍は解かれたと告げている。

「古人大兄」は、その場で立ち向かわなわず、逃げたのである。ここが歴史のターニングポイントであって、勿論武器もないわけだが、命懸けの抵抗はできた筈、また逃げた後も「杜門不出」では、後に些か抵抗を試みるようであるが、歴史の表舞台から降りることになったのであろう。
 
● 海犬養連勝麻呂

さて本事件を通じて既出ではない人物が一人登場している。「海犬養連勝麻呂」で、実行役に剣を渡す役目となっている。Wikipediaによると…「犬養部は宮門、大和朝廷の直轄領である屯倉などの守衛に当たる品部であり、県犬養は、稚犬養、阿曇犬養、海犬養とともにこれを統率した伴造4氏族の一つである」と記されている。前記の葛城稚犬養連網田もその氏族の一つであったことが分る。

上記の事件のキャストであることは「宮門」の守衛であったことと辻褄が合うわけである。「中臣鎌子」、「中大兄」の周到な人選であったことが伺える。更に重要なことに、「〇〇〇犬養」の「〇〇〇」が地名を示すと気付かされる。同様の任務を各地の「屯倉」において担っていたことに関連している。
 
<海犬養連勝麻呂>
すると海犬養連勝麻呂」の「海」は地名を表していると読み取れる。古事記で登場した、海原宇美、そして隋書俀國伝の海岸が示す地であろう。
 
古事記・中国史書・日本書紀の表記が繋がった。

また「海」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった筑紫三家連の地、もしくはその近隣と思われる。

即ち「屯倉=三家(ミヤケ)」とすれば、「海犬養」は筑紫の地にあったことを表していることが解る。

「犬養」は前記と同様に紐解けるであろう。「犬」=「平らな頂の山稜」として、「養」=「羊+良」と分解した。「宇美」の「美」=「羊+大」である。

「羊」の古文字が示す「「山稜に挟まれた谷間」の地であることを表している。図に示したように、その出口に小高くなった「麻呂」がある。そこから僅かに延びたところが「海犬養連勝麻呂」の出自の場所であると読み解ける。「縣犬養」、「阿曇犬養」については後日に紐解くことにする。「巨勢德陀臣」については既に読み解いたこちらを参照。
 
韓人

「古人大兄」が逃げ帰って「韓人殺鞍作臣」と言ったと記載されている。彼は現場に居てつぶさに事件の見たのだから、殺人犯は「中大兄」であり、止めを刺したのが「子麻呂」と「網田」であることは重々承知の筈であろう。何故「韓人」ち表現したのであろうか?…「謂因韓政而誅」と記載され、同席したと思われる「調」の提供者「三韓の人」を表すように読める。

通説でも種々語られているようであるが、「韓」が関わったならば、国として一大事である。やはり「韓人」=「中大兄」のことを示すと思われる。既に幾度か出現した地形象形の解釈であるが、「韓」=「兄」である。韓=周囲が高く囲まれた様を、兄=谷間の奥で広がった様を表すと読み解いた。異なる表現ではあるが、地形的に類似であることが分かる。

「古人大兄」は、直截に名前を言わなかったのである。自分も「韓人」であり、「三韓」も居た。何とでも受け取れるような表現を用いたのであろう。保身に徹した態度を露わにした、そんな人であったと伝えているように伺える。後に自身が「誅」されることになる。やはり「韓人」と叫んだのであろうか・・・。

己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・國記・珍寶。船史惠尺、卽疾取所燒國記、而奉獻中大兄。是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓、復許哭泣。於是、或人說第一謠歌曰、其歌所謂、波魯波魯儞、渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅、此卽宮殿接起於嶋大臣家、而中大兄與中臣鎌子連、密圖大義、謀戮入鹿之兆也。說第二謠歌曰、其歌所謂、烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須、此卽上宮王等性順、都無有罪、而爲入鹿見害。雖不自報、天使人誅之兆也。說第三謠歌曰、其歌所謂、烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母也、此卽入鹿臣、忽於宮中、爲佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、所誅之兆也。
庚戌、讓位於輕皇子。立中大兄、爲皇太子。

皇極天皇紀最後の段である。参照しているこちらのサイトの全文を、謝辞を込めて、引用する・・・、

天皇記、国記は、豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)二十八年是歳条に、聖徳太子と馬子が録せしめたとあった。しかし、何故それが蘇我氏の下に管理されてていたのか?…船史は、天国排開広庭天皇(欽明天皇)十四年七月条の「船の賦を数へ録す」王辰爾に始まる。

船史の中には、天皇記、国記の編纂に用いられることがあったのかもしれない。事の重大さを理解しており、焼かれる前に運び出したとみえる。6月12日に入鹿が、6月13日に蝦夷が殺され、即日二人は墓に葬られた。

三年六月、是月条の第一の謠歌は、中大兄が宮殿を嶋大臣の家に近接して建て、鎌足と入鹿を戮す密議をする兆し、第二の謠歌は、山背大兄等その性格が従順で無実であるのに入鹿に殺され、天がそれを咎め、入鹿を殺さしめた兆し、第三の謠歌は、入鹿が宮の中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田に殺される兆しであると解説した人が居た。

中大兄と鎌足は入鹿の家の動静を子細に調べあげ、行動パターン、出入りする人物を観察し、寝返る者を見極めんとしたのであろう。赤穂浪士が吉良邸の構造やそのスケジュールを調べあげたごときものである。反抗の意志もなく、無実である上宮の王等を殺したことを、天が許さなかった。入鹿を殺したのは、止めを刺した子麻呂と網田とした。

・・・と記載されている。

六月十二日に事件が起きて、十四日には譲位して「輕皇子」が即位し、「中大兄」が皇太子になったと述べる。事を為すにはこれくらいの用意周到であるべきなのかもしれない。「中臣鎌子連」なら当然、と言っているようである。

尚、2005年に奈良県高市郡明日香村の甘樫丘地区で遺構が発見され、蘇我入鹿の邸宅であった可能性があるとして、現在も発掘作業が継続されているとのことである。さて、思いのモノが出て来るのであろうか・・・。





2020年4月23日木曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅶ) 〔407〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅶ)


蘇我臣入鹿が山背大兄王を襲ったのは、確かに唐突感があり、入鹿の単独暴走のような記述である。蘇賀一族の内部抗争であって、他氏族から見れば潰し合ってくれて幸いのようにも思われる事件であろう。田村皇子との皇位争いの時には、執着心旺盛な山背大兄王と記述しながら入鹿との確執では真に真摯な人物のように語られている。

事件は事実としても、やや真相には程遠い感じがしないでもない。穿った見方をすれば、かつては田村皇子、今度は古人皇子と、山背大兄王にとっては執着する皇位への道程に常に邪魔者が現れると言った状況であり、水面下での画策があっても不思議ではない。書紀の記述は蘇我臣入鹿の横暴さを強調せんがためだけのシナリオのようである。

そこに登場した中臣鎌子連の深謀遠慮が露わになって来るのであろう。今暫く蘇我親子の動向に注目である。即位三年(西暦644年)夏六月からの物語である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏六月癸卯朔、大伴馬飼連、獻百合花。其莖長八尺、其本異而末連。乙巳、志紀上郡言、有人於三輪山、見猿晝睡、竊執其臂、不害其身。猿猶合眼歌曰、
武舸都烏爾、陀底屢制囉我、儞古泥舉曾、倭我底烏騰羅毎、拕我佐基泥、佐基泥曾母野、倭我底騰羅須謀野。
其人驚怪猿歌、放捨而去。此是、經歷數年、上宮王等、爲蘇我鞍作、圍於膽駒山之兆也。戊申、於劒池蓮中有一莖二𦹛者。豐浦大臣妄推曰、是蘇我臣將榮之瑞也。卽以金墨書、而獻大法興寺丈六佛。
 
大伴馬飼連(既に登場)が珍しい百合の花を献上した。根元は分かれているのに茎がくっ付いていたと言う。わざとらしく中臣鎌子連と中大兄皇子の姿を映しているようである。吉兆の花なのかもしれない。
 
<志紀上郡>
続けて何かを伝えようと歌が挿入される。
「志紀上郡」がそれを知らせた。「三輪山」の猿が詠ったと言う。

歌の訳は・・・「向つ嶺に立てる夫らが 柔手こそ 我が手)を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや」…であるが、数年後の蘇我臣入鹿による山背大兄王襲撃の予言だと解説している。・・・実はそんな噂があったんだと述べているのであろう。後付けである。

百合の花の件から数日後に、今度は蝦夷大臣が劔池の蓮が一つの茎に二つの花房があるのを見つけて、蘇我氏の繁栄を示す吉兆と見て、金墨書を法興寺の仏像に供えたと伝えている。

二つが一つに、一つから二つが・・・両陣営の思惑語りと言ったところであろう。いずれにせよそれぞれの思惑で進めば、衝突することになってわけである。

さて上記で登場した「志紀上郡」についてその場所を求めてみよう。「志紀」の文字列は、書紀中でも二度しか出現しない。数少ない情報なのであるが、実は、重要な意味を持っていたのである。

「志紀郡」として泊瀬部天皇(崇峻天皇)紀に現れる場面がある。蘇我馬子宿禰大臣が物部守屋大連を征伐するため、大部隊を引き連れ、仏様の力添えも得て、大連の家(澁河家)で勝利した、と伝える。

大軍団に加えて仏様まで引き摺り出さねばならないほど、物部守屋大連の力が強大であったようである。その時の行程が「志紀郡」から「澁河」の畔にある守屋の家に至ると記載されている。

物部守屋大連」の居場所を示す(下図参照)。「守」は、古事記の大山守命、直近では阿曇連のご近所津守連大海などに含まれている。岐れた山稜に囲まれた山麓の地形である。

守=肘を曲げたような(寸)山稜に囲まれた(宀)ところと解釈する。また屋=尾根(尸)が延びた末端(至)のところと読む。頻出であるが、直近では三輪文屋君に用いられていた。

すると上図に示したように「志紀郡」は、現在の北九州市小倉南区志井にあったと推定される。志紀=蛇行する川傍らにある[己]の形にくねって曲がる山稜の麓と読み解ける。「紀」は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場する紀國に含まれている。
 
<物部守屋大連・澁河>
詳細な地図を参照すると、現在の井手浦川、東谷川共に激しく蛇行していることが分る。

正に「澁」=「水+止+止+止」の川である。更に「守」の地も蛇行する、小ぶりな川があることも分る。実に丁寧な地形象形表記を行っていることが伺える。

この物部の地の更に谷奥を「志紀上郡」と名付けたのであろう。現地名は同区母原・新道寺・木下辺りと推定される。

古事記は、この地を「宇陀」と言う。該当する書紀の記述は「菟田」である。その地の北側を「志紀上郡」と称していたのである。「記紀」の記述が錯綜している箇所、いずれまた読み解してみようかと思う。

上記の猿の居場所を「三輪山」と記している。上図から明らかに、それは竜ヶ鼻から平尾台(古事記では吉野)を経て貫山に繋がる山塊を示していると思われる。困った時の「三輪山」であろう。書紀は改竄の手を入れたところ及びそれに関連するところを除けば、実に丁寧な地形象形表記をしていると思われる。換言すれば、個別の名称表現を全て書き換える暇はなかったのであろう。貴重な情報が埋もれている、のである。

因みに通説では、志紀郡:大阪府藤井寺市辺り、志紀上郡:奈良県天理市辺りとされているようである。「志」=「大和川」を示し、ちょっと離れ過ぎだが、上流部に「三輪山」がある。そもそも「志」=「蛇行する川」をあからさまにはできず、上手い具合に当て嵌めた”技”が認知されていない、勿体ないことでもある。

是月、國內巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺大臣渡橋之時、爭陳神語入微之說。其巫甚多、不可具聽。老人等曰、移風之兆也。于時、有謠歌三首。其一曰、
波魯波魯儞、渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅。
其二曰、
烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須。
其三曰、
烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母。

其の一:遥遥に 言そ聞ゆる 嶋の藪原
其の二:彼方の 浅野の雉 響さず 我は寝しかど 人そ響す
其の三:小林に 我を引きいれ 姧し人の 面も知らず 家も知らず

中臣鎌子連と中大兄皇子との密談を気に掛けているいる蘇我大臣蝦夷の気持ちを表しているような解説がある。そんな感じがしないでもない、ようである。

秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等、遂詐託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、
禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。
此蟲者、常生於橘樹、或生於曼椒。曼椒、此云褒曾紀。其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶。

東國の「不盡河」近くの住人、「大生部多」が常世の神である虫を祀ることを勧めた記している。私財を捨ててこの虫を祀れば新しい富を得ることができると吹聴したのだが、実現するわけはなく、大きな損害が出てしまった。それを聞きつけた「葛野秦造河勝」騒ぎを鎮めたとのことである。

歌の訳は…「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも」と解説される。この神の虫は、橘あるいは山椒の木に生息し、大きさ、色から蚕によく似ていると述べている。養蚕が盛んな地に、優れものの蚕を手に入れようと民が狂奔した状況を語っているように思われる。「葛野秦造河勝」の役割が明確ではないが、養蚕に深く関わっていたのかもしれない。

<東國不盡河・大生部多>
東國不盡河

「東國」が再び登場する。前記の深草屯倉(山背國紀郡深草里)で、現地名では京都郡みやこ町犀川木山以降の東側を示すと読み解いた。勿論周防灘に至るまでの地域を示していると思われる。

その地域に多くある川の中で「不盡河」はどの川を示しているのであろうか?…文字解釈を行うことにする。

不=咅=丸くふっくらとした様を象った文字と知られる。川の蛇行で形成される中州の形を表していると思われる。

盡=ことごとく(至るところ)の意味を示すとすると、不盡河=丸くふっくらとした中州が至るところにある川と読み解ける。これは現在の英彦山山系の奥深くから流れ出る祓川の姿を表していることが解る。即ち不盡河=祓川と推定される。

古事記の穴穗命(安康天皇)紀に意祁王・袁祁王(後の仁賢・顕宗天皇)が針間國への逃亡する途中で渡った川、玖須婆之河が登場する。[く]の字形に曲がった州の特徴を捉えて名付けた川名である。書紀はその形を「不(咅)」で表記したと解釈される。

大生部多」は一文字一文字を読み解いてみよう。「大」=「平らな頂の山稜」、「生」=「生え出る様」、「部」=「咅+邑」=「丸くふっくらとしたところが集まった様」、「多」=「山稜の端の三角州」である。纏めると大生部多=平らな頂(大)から生え出た(生)丸くふっくらとした(咅)山稜の端の三角州(多)が集まった(邑)ところと紐解ける。

図に示した山稜の端が幾つかに分かれて低く長く延び、その谷間に流れる川で三角州が形成された地形を表している。但し、祓川の氾濫などで何度も川は流路を変え、現在の状態になったものと思われる。古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、建豐波豆羅和氣王の出自の場所に重なる。この王は前出の「難波吉士」の地の祖となったと伝えている。多くの人が住みつき、そして開拓されて行ったのであろう。
 
<葛野秦造河勝>
● 葛野秦造河勝

「葛野」は古事記の品陀和氣命(応神天皇)が近淡海國行幸の時に宇遲野上に立って遠望し、国が栄えつつあることを確かめたところであった。現在の田川郡赤村赤と推定した。

古くは速須佐之男命の御子大年神、その御子の大山咋神が祖となった地に葛野之松尾が記されている。かなり早期に開かれた地であろう。

「秦造河勝」の「秦」=「艸+屯+禾」と分解され。秦=稲穂のような山稜が並び集まっている様を表すと読み解いた。直近では秦大津父があった。

古事記頻出であるが、あらためて「造」については「造」=「辶+牛+囗」と分解して、造=[牛]の古文字形を示す谷間を表す場所と紐解いた。通説の姓(カバネ)であるが、これも「宿禰」、「臣」、「連」、「縣」、「直」など、また書紀の「大宰」などと同じく居場所の地形に基づく名称で、後にその役割を表す名称となったと思われる。

河勝=河の傍らで盛り上がった地と読める。河の文字形が直角に曲がる犀川(現今川)の様子を表わしているようである。これらの要件が満たされるところを図に示した。現地名は赤村赤の道目木・常光辺りと思われる。「河勝」が何故討伐に向かったのか、「惡民所惑」では不確かである。ひょっとしたら「調」としての絹の管理(犀川・祓川流域)を担っていたのかもしれない。

通説では上記の不盡河は、富士山西方を南北に流れる大河の富士川と言われている。また葛野は京都山科辺りとされている。この空間感覚は書紀を神話と見做しているとしか考えようのない有様であろう。書紀編者が何を伝えようとしていたのか、と少しは考えてみては如何か・・・勿体ないこと極まりなし、である。

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ところで古事記の大雀命(仁徳天皇)紀の説話に筒木韓人奴理能美が登場する。大后石之日賣命が嫉妬に狂って山代(背)國を右往左往する物語である。この「奴理能美」が奇虫(三種虫)を飼っていて、それを天皇に知らせると、飛んでやって来たと言う顛末が記されている。しかも鼓型蚕である。この地で養蚕が行われるようになり、その後広がって行ったと思われる。書紀の記述と見事に符合するのである。

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冬十一月、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門、入鹿家曰谷宮門。谷、(此云波佐麻。)呼男女曰王子。家外作城柵、門傍作兵庫。毎門、置盛水舟一、木鉤數十、以備火災。恆使力人持兵守家。大臣、使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東、穿池爲城、起庫儲箭。恆將五十兵士、繞身出入。名健人曰東方儐從者。氏々人等入侍其門、名曰祖子孺者。漢直等、全侍二門。

またまた、蘇我大臣蝦夷と入鹿臣とが不遜なことをしでかしたと記される。今度は「甘檮岡」に宮殿仕様の家を「雙起」したと言う。防災設備、守衛兵も備えた立派な家と伝える。更に「丹穂山」に「桙削寺」と名付けられた寺まで造り、また更に「家於畝傍山東」を建て、まるで城のように門は兵士で固めてあったと告げている。
 
甘檮岡雙家・大丹穗山桙削寺

さて、これらは何処にあったかを探してみよう。「甘檮」の「檮」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)陵がある畝火山之北方白檮尾上、また男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に登場した味白檮之言八十禍津日に含まれ、共に現在の香春三ノ岳の東北麓に長く平たく延びた台地と推定した。

「甘」=「美味い」の意味を示す文字であり、「味白檮」の「味」に繋がる表記と思われる。勿論「味」の地形象形が示す意味は全く異なるのであるが、「甘」=「舌の上に物を乗せた様」を象っているのではなかろうか。すると甘檮=舌のように隙間から延び出たところを表していると読み解ける。その岡の上に蝦夷大臣の「上宮門」と入鹿臣の「谷宮門」を並べて造ったのであろう。
 
<甘檮岡上/谷宮門・大丹穂山桙削寺>
「上宮門」は谷の出口付近、現地名では田川郡香春町採銅所の長光にある神間歩公園辺りの高台と推定される。

「谷宮門」は「谷=波佐麻(ハサマ)」と注記されることから、この台地の端にあったのではなかろうか。

波佐麻=端にある(波)擦り潰された台地(麻)の下で支える(佐)ところと読める。

確かに天皇が宮を造って不思議ではない場所であり、台地一帯を造成するとなれば多くの労力を要したであろう。それが可能な程の財力を有していたことが伺える。

「大丹穂山」の「丹」の字源は「現れ出る」と解説される。地形象形に換言すると深い谷間に突出た山稜を表すと解釈される。

それに「穂」が付いていると述べている。「甘檮岡」の北に隣接する山稜が穂のような枝山稜を持つことが見出せる。大丹穂山=平らな頂の谷間(大)に突出た山稜(丹)の先に小ぶりで岐れた高台(穂)がある山と紐解ける。

その「穂」の高台の麓に造ったのが「桙削寺」と思われる。「桙」=「木+牟」と分解される。「牟」は「牛」の古文字の形を象った地形を示す。古事記頻出の地形象形である。上記の「造」と同じ解釈となる。即ち「穂」の山稜の分岐を別表現したものと思われる。「桙削寺」は現在の採銅所小学校辺りに建てられたと推定される。幾度も述べるように、書紀の表記もしっかりとした地形象形表記である。
 
● 東漢長直

寺造りを命じられたのが「長直」と記載されている。「東漢長直」のことと思われる。また畝傍山東の家(前記で蝦夷大臣の出自の場所近隣とした)を守らせた者の中に「漢直等」が登場する。古事記の品陀和氣命(応神天皇)に出現し漢直は、現地名田川郡赤村赤、犀川が東に直角に曲がるところと推定した。また本天皇紀に百濟宮・百濟寺造立(現地名田川市夏吉)を命じられた倭漢書直縣が記述されている。
 
<東漢長直及び東漢一族>
「漢」も幾つかの場所があることを示している。即ち「漢」(田川郡赤村赤)を中心にしてそれぞれの特徴を捉えた修飾が付加されていると思われる。


漢=大きく曲がる川の近傍と解釈して来たが、この地形に合致するところを「漢」とし、記述全体の中で位置付けたのであろう。

すると東漢=東にある漢の地となろう。上記で述べた「東國」、その内にある地と思われる。

山背國の東側、犀川の対岸にある広大な台地の場所と推定される。犀川はこの地の近傍で大きく流れを北に向ける。図の先は「難波津江口」である。

その台地を縦断するようにほぼ真っ直ぐな溝が走っている。これを「長直」と表記したと思われる。書紀に登場する「東漢一族」を全て当て嵌めてみた図である。詳細は省略するが、見事に登場人物名が収まっていることが解る。

古事記で伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が大國之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って誕生した石衝別王が羽咋君の祖になったと記載される。その後の発展がみられなかった地に、後に渡来した人々が住まったのであろう。未開、もしくは不十分な地を梃入れし、進展すると使役に活用する。極当然のことながら、そつのない戦略であろう。

どうやら書紀が記す「東」のイメージが固まりつつある。上記の東國不盡河はこの台地の東側を流れる川である。勿論現在の富士川にも多くの「漢」があろう。「東漢一族」を当て嵌めてみることも興味深いのだが・・・・

まだ、クライマックスに届かず、何としても次回には・・・。





2020年4月20日月曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅵ) 〔406〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅵ)


山背大兄王達は一旦は膽駒山に逃れ、再起を期すか、などと論議したのであるが、王たる者の覚悟ができたと伝えている。攻める側も宮を焼き払って、何と馬の骨を見間違って勝利に浸ったのであるが、山中に隠れているとの報告を受けた。一大事、再度軍を仕向けたわけである。

前記続き斑鳩での戦記である。皇極天皇即位二年(西暦643年)秋の出来事である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。(林臣、入鹿也。)以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。是歲、百濟太子餘豐、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息。

蘇我臣入鹿は、早々に山背大兄王を探して捕まえようとしたが、「高向臣國押」は拒否したと述べる。さりげなく挿入されているが、「蘇賀」の西側は、決して蘇我氏に好意的ではない。蘇賀石河宿禰を遠祖に持っ由緒正しき「高向臣」にはそんな矜持があったのであろう。そこで入鹿自身が乗り込もうとすると古人皇子が、鼠は住まいの穴が無くなると死ぬものだ。放っておけ!…と言い放ったと伝えている。

その通りになって山から下りて斑鳩寺(斑鳩宮の近隣と言われる)に入り、結局一族諸共に自決したと記している。これを聞いた蘇我大臣蝦夷は激怒し、因果応報、林臣(入鹿)、お前の命も危い、と述べたと言う。前記の童謡の解説がなされている。

<高向臣國押-麻呂-大足>
● 高向臣國押



「高向臣」は上記でも述べたように蘇賀石河宿禰が祖となった地であり、舒明天皇紀には高向臣宇摩が登場していた。

その近隣であろう。國押=大地が押し延ばされたところと読み解ける。山麓が「宇摩」に比べて長く延びているところと思われる。調べると父親が「宇摩」であると分かった。

蘇賀の地に住まう一族も決して一枚岩ではなく、思惑があって動いていたのであろう。当時としては、際立って豊かになった地だからこそ近隣間の確執が発生したのかもしれない。

後の天武天皇紀に高向臣麻呂が登場する。「國押」の子である。「高向臣」の最後の人物と思われる。「國押」の北側の小高いところの麓が出自の場所と推定される。併せて図に記載した。書紀に続く国史である『續日本紀』に「麻呂」の子の高向朝臣大足が登場する。多くはないが、途切れることなく重用された一族であったようである。大足=平たい山稜が延び出た様と解釈して図に示した場所と推定した。

「斑鳩寺」は、現在の法隆寺と言われ、知らない人がいないくらいに有名な世界最古の木造建築物である。がしかし本ブログでは、当該寺は福岡県田川市夏吉、ロマンスヶ丘の南西麓にあったとする。現在の姿、それはそれとして、本来の姿を明らかにする時ではなかろうか・・・日本書紀編纂、今から1,300年前である。

三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。謂充舍人爲駈使也。舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅。
 
中臣鎌子連

年が明けて即位三年(西暦644年)一月一日の物語となる。そして「中臣鎌子(足)連」後の「藤原鎌足」の登場となる。「中臣連」は既に登場しており、舒明天皇紀に中臣連彌氣が居た。その時にも「鎌子(足)」の出自の場所を示したが、あらためて述べてみようかと思う。尚、「鎌子」自身も欽明天皇紀に登場しているようである。何と言っても輕皇子との繋がりを印象付ける記述であり、互いに信頼し合う仲であったと記している。

邇邇藝命の降臨に随行した天兒屋命中臣連の祖であり、同じく随行した布刀玉命が祖となった忌部首と並んで伊勢神宮を祭祀する役目を仰せつかっていたと伝えれらている。どちらかと言えば、「忌部首」の方が主たる立場だったようであるが、「鎌子(足)」以降、藤原氏の興隆と共に立場が逆転したようである。古事記解釈で詳細に述べたが、伊勢神宮を中心にして「忌部首」が「表」、「中臣連」が「裏」の配置となっていることからも伺える。
 
<中臣鎌子(足)連>
いずれにしても「神祗」の職に留まらず、その先を見据えていた、と言うか、才気溢れる人物であったと思われる。


圧倒的な財力を背景にした蘇我一族に対して全く対照的な伊勢の入組んだ狭い谷間に出自を持つ人物が如何に中枢にのし上がって来たのか、これも解き明かしてみたい謎である。

谷の奥に横たわるのような山稜から、子=山稜が生え出た様が見出せる。図に示した場所が鎌子の出自の場所と推定される。現在では深い森に包まれている。

鎌足=山稜が鎌のように長く延びているところと読むと、「鎌子」とは、微妙に意味合いが異なって来る。権勢を大きくなって「鎌足」と呼ぶようになったのであろう。この地が「藤原鎌足」の出自の場所である。現地名は北九州市小倉南区大字長行である。

ところで彼の現住所は「三嶋」と記載されている。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した三嶋湟咋の居場所であろう。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。この地には御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に「意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖」と記述され、河内之美努村(同じく勝山箕田)の住人だったと伝えられている。「神」で繋がっていたのであろうか。
 
寵妃阿倍氏
 
<阿倍小足媛・阿倍内(倉梯)麻呂>
「阿倍小足媛」は、天萬豐日天皇(孝德天皇)紀に、正式にご登場なのであるが、ここで出自の場所を紐解いておこう。


絶えることなく阿倍一族は「記紀」に記載される一族である。この寵妃の父親が「阿倍内麻呂」、別名「阿倍倉梯麻呂」と知られる。

「阿倍」は古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀に記載された建沼河別命が祖となった地に変わりはないであろう。

小足=山稜が延びた端が三角に形になっているところを表すと解釈できる。古事記では「小」=「小さい」と解釈することはなく「小」の文字形の地形を表す。「倍」=「人+咅」と分解された谷間(人)にある子房のような地(咅)」に含まれる三つの山稜の中にある一つの端を表している

「内麻呂」の「内」=「入+冂」と分解され、そのものの地形が見出せる。角ばった谷間が二つに分かれている様であり、その分かれる場所にあるのが「麻呂」の小高いところと読み解ける。別名で「倉梯」と言われるのだが、谷間(倉)が段々(ギザギザ)とした(梯)を表したものであろう。「麻呂」の西麓の地形と思われる。視点を変えた表現である。

天皇の命令とは言え、出自の明確な后を登場させ、しかも天皇家の古来より重臣の家柄…阿倍氏、蘇我氏共に大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)を遠祖にする…であることを示し、台頭する一氏族への反感をも漂わせている。反蘇我氏一色の状況、ある意味わかり易い物語である。輕皇子、中臣鎌子、そして中大兄皇子の繋がりが次の出来事の伏線となって行くようである。

中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾𨶳𨵦社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、䟽然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而倶手把黃卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上、往還之間、並肩潛圖。無不相協。於是、中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請、納蘇我倉山田麻呂長女爲妃、而成婚姻之眤。然後陳說、欲與計事。成功之路、莫近於茲。中大兄、聞而大悅。曲從所議。中臣鎌子連、卽自往媒要訖。而長女、所期之夜、被偸於族。(族謂身狹臣也。)由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。少女怪父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由。少女曰、願勿爲憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悅、遂進其女。奉以赤心、更無所忌。中臣鎌子連、舉佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田於中大兄曰、云々。

中臣鎌子連と中大兄皇子との出会いの場面となる。鎌子連にすれば次期天皇は輕皇子としても、もう一人皇族の味方を引き摺り込む要があったのであろう。輕皇子を実行犯にするわけには行かなかったのである。そこに礼儀正しい皇子が存在した、という訳である。蹴鞠のエピソードから、くそ生意気な皇子ではなく、言うことを聞きそうに感じたのであろう。

その深謀遠慮の発端が蘇我の娘を娶れ、であった。一悶着あったが(結局長女ではなく妹となった)、何とか婚姻が成立したようである。「蘇我」と言っても「蘇賀」の西端も西端、極西端の人物名が表記される。彼らの住まう場所が明らかとなれば、その時の心情も伺えるようである。地位も財も成遂げた東端の「蘇我」とは異なるが、同族の連中を活用するのも鎌子連の深謀の一端かもしれない。
 
<法興寺>
法興寺

泊瀬部天皇(崇峻天皇)紀に飛鳥地起法興寺」と記載され、蘇我馬子宿禰によって建立されたと伝えれている。飛鳥寺、元興寺とも呼ばれる、と解説されている。

名前が示す通り「仏法興隆」の意味を表し、蘇我氏の氏寺と言われる。用明天皇二年(西暦587年)に発願し、推古天皇四年(西暦596年)十一月に完成したようである。

「法提郎媛」に含まれていた法=水辺で山稜が削り取られたような様として、「興」の文字解きを行ってみよう。

「興」=「手(左)+手(右)+同+廾(両手)」と分解される。正に「手」だらけの文字であって、多くの手で持ち上げる様を表している。「同」=「筒型に丸く穴を通す様」を象った文字であり、一様に揃っていることから通常使用される意味を示すと解説される。

この構成要素をそっくり地形に当て嵌めたものと思われる。興=多くの山稜に挟まれた筒型の谷間と読み解ける。合わせると法興=水辺で山稜が削り取られたような地が多くの山稜に挟まれた筒型の谷間にあるところと紐解ける。図に示した辺りにあったと推定される。重要な寺ではあるが、痕跡は見出せないようである。この程度であれば、名前が示す意味と地形象形表記を重ね合わせることは、簡単であっただろう・・・とは言え、実に良くできている。
 
<南淵先生(南淵漢人請安)>
南淵先生

「南淵先生」が登場する。推古天皇十六年(西暦608年)に「高向漢人玄理」等と共に唐(隋?)に留学生として派遣された「南淵漢人請安」のことである。帰国して「先生」になっていた、と記している。 

何とも戯れた表記なのであるが、古事記編者と同じように書紀編者も、である。先生=山稜の先端から生え出たところと読む。

図に示した山稜が西側に大きく張り出したところと思われる。そもそも本名の「南淵漢人請安」を読み解いてみよう。

「漢人」は上記の高向漢人玄理」と同様に漢人=谷間(人)で大きく川が蛇行する(漢)ところと読み解く。「請」=「言+青」と分解される。古事記で頻出する「言」=「辛(刃物)+囗(大地)」から成る文字であって、地形象形的には言=耕された地=耕地と紐解いた。すると請=耕地に成りかけ(青)のところと読み解ける。

現在でも水田とはなっておらず、急勾配の谷間で水田とするには極めて困難な地形であると思われる。池(沼)も造ることはなく現在の至っているのではなかろうか。書紀の表記は、実に辻褄の合った場所のようである。安=嫋やかに曲がる(女)山麓()である。これら要件を満たす地が上図に示した「南淵」の上にあることが解る。正に古事記を解読する気分である。
 
● 蘇我倉山田麻呂・蘇我(日向)身狹臣・佐伯連子麻呂

中臣鎌子連の権謀術数によって引き摺り出された人物である。先ずは彼らの居場所を求めてみよう。「蘇我」の「倉」(谷)に関連するのは、既に登場した蘇我倉麻呂臣、田村皇子か山背大兄王かの論議の際に保留した臣であった。蘇我馬子宿禰の子であり、更にその子が「蘇我倉山田麻呂」と伝えられている。すると名前が示す通り、この谷の上流部、現在の白山多賀神社・東伝寺辺りと思われる。地名は本谷と記載されている。
 
<蘇我倉山田麻呂/身狹臣・佐伯連子麻呂>
「倉山田麻呂」には兄弟があり、その一人が「蘇我身狹臣」、またの名「蘇我日向」と知られている。この名前は少々捻った命名のようである。


「身」=「弓+矢」とから成る文字で、弓に矢をつがえて張った状態を表す文字である。力が籠った状態で「中身」を表し、形状は「身籠る」を表すと解釈される。

「狹」は通常用いられる「狭い」としての解釈もできるが、原義に戻って紐解いてみよう。「狹」=「犬+夾」と分解される。すると「平らな頂の下で山稜に挟まれた様」を表している。

纏めてみると、身狭=弓状の地(身)が平らな頂の麓(犬)で山稜に挟まれた(夾)ところと読み解ける。別表記「身刺」については後に述べる。

別名で「日向」は古事記の竺紫日向に従って解釈すると、日向=炎のような山稜(日)が北を向かって延びているところとなる。その地形を示す場所を図に示した。「倉山田麻呂」の先、もっと山に入り込んで、実に狭い谷間と推定される。

この地を宛がわれたとすれば、自ずと何かを求めて徘徊することになるであろう。一人分の食い扶持もままならなかったのではなかろうか。

蘇我の比賣が天皇の御子を産み、その御子を蘇賀に宛がう。その他の者達にとって、厳しい環境に晒される運命を背負うことになろう。蘇我一族内部の軋轢の要因だったと推測される。膨張する御子の誕生が生んだ蘇賀内部の分断を明確に表していると思われる。古事記の記述だけでは読み取れなかった重要な結果である。そこに付け込んだのが中臣鎌子連である。

「倉山田麻呂」の長女の婚儀に横やりを入れた「蘇我身狹臣」、更に事件を起こすようであるが、彼の出自が物語るところと思われる。

更に「佐伯連子麻呂」も同じような境遇であろう。要するに中臣鎌子連は蘇我内部が燻っているところに火を注いだと解る。更に彼らは財と地位でどちらにも転ぶ輩であることも重々承知してのだから、怖いものであろう。忘れるところであった…「子麻呂」の子=山稜から生え出たところ、「鎌子」の解釈に類似する。
 
<葛城稚犬養連網田>
● 葛城稚犬養連網田

この段の最後に登場の「葛城」の人物である。「中大兄皇子」は「葛城皇子」とも言われたように顔見知りだったのかもしれない。

本番で失態を演じてしまいその後の登場は見当たらないようである。諸国に置かれた「犬養部」に関連する名称であろうが、後に述べることにして、本人の居場所を求めてみよう。

「稚」=「禾+隹」と分解される。これをそのまま稚=山稜の形が[稲穂]と[鳥]のところと読み解く。

「養」は既に登場し、犬養=平らな頂の麓の谷間がなだらかに広がっているところと読み解ける。既出の網=見えなくなった様である。纏めると稚犬養網田=山稜の形が[稲穂]と[鳥]をしている平らな頂の麓でなだらかに広がる谷間の地で田が見えなくなるまで奥に延びているところと紐解ける。

図に示した通り、この地は現在でもかなりの標高まで長く棚田が作られている場所である。中大兄皇子は一つ先の谷間が出自の場所と推定した。蘇賀石河宿禰の兄弟である葛城長江曾都毘古は祖となった地の外れに当たり、古事記では空白の地域であった。

後に上記の「稚犬養」に加えて、「縣犬養」、「阿曇犬養」及び「海犬養」について考察する予定である。「大宰」、「舎人」と同じような名称の由来を持つのであろう。

三月、休留(休留茅鴟也。)産子於豐浦大臣大津宅倉。倭國言、頃者、菟田郡人押坂直(闕名。)將一童子、欣遊雪上。登菟田山、便看紫菌挺雪而生、高六寸餘、滿四町許。乃使童子採取、還示隣家、總言不知、且疑毒物。於是、押坂直與童子、煮而食之、大有氣味。明日往見、都不在焉。押坂直與童子、由喫菌羹、無病而壽。或人云、蓋俗不知芝草、而妄言菌乎。

休留=梟(フクロウ)の古名だとか。閑話休題の物語の感じである。登場する「菟田郡人押坂直」及び「菟田山」については前記菟田諸石に関連して記述した。「豐浦大臣大津宅倉」及び後に記載される「家於畝傍山東」の場所を求めてみる。
 
<大津宅倉・家於畝傍山東>
大津=平らな山頂の麓にある津と読んで、豐浦大臣が居た場所の対岸にある地と推定した。宅倉=谷間(倉)が山麓(宀)で寄せ集められた(乇)ところと解釈する。

図に示した場所がその要件を満たしていると思われる。現地名の京都郡苅田町下片島の谷間がすっかり開拓されて、豊かな収穫をもたらしていたのであろう。古人大兄皇子の在所である。

「畝傍」は既出の畝傍家に関連し、「畝傍山」は古人大兄皇子の「古」に該当する山と思われる。城郭のような家だと記載されている。

「畝傍」の「傍」が表す地形について、あらためて述べてみよう。「傍」=「人+旁」と分解される。更に「旁」=「凡+方」から成る文字であることが知られている。これで地形象形的には「旁」=「凡の文字形に広がっている様」と解釈される。「傍」=「谷間が[凡]の形に広がっている様」と読み解ける。纏めると畝傍=畝っている地がある谷間が[凡]の形に広がっているところと解釈される。

中臣鎌子連(藤原鎌足)が、その存在を顕在化し始める場面であった。蘇我臣入鹿とは異なり、十分な戦略と根回しが行われたように記述されている。謀略家らしき片鱗を伺わせているが、更に盛り沢山となって行くのであろう。次回こそ、クライマックスに届くかもしれない・・・。





2020年4月16日木曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅴ) 〔405〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅴ)


蘇我入鹿(鞍作)臣は、かなり出来が良かったようで、蝦夷大臣にとっては自慢の跡取りだったのかもしれない。それに気を良くして葛城に宮を造って宴を開催したり、また自分と息子の墓所まで造ったと伝えている。傍若無人の態度のように記載されているが、真偽のほどは定かではない。彼ら蘇我一族が我が世の春を過ごしていたことには間違いがないようである。

天皇も種々の儀式を行い終えて念願の飛鳥板蓋宮を新造している。通説に捉われることなく香春一ノ岳の西麓の地に求めることができた。板葺きの屋根であったかどうかは不詳だが、「板蓋」の名称はその宮の在処を示していることが解った。現在は静かな佇まいの様相の地、かつては筑豊炭田の田川の街、いや、古代の日本の中心、「飛鳥」が聳える麓の地であったと読み解いて来た。

さて、いよいよ歴史が動き始める時が近付いたようである。引続き即位二年(西暦643年)五月以降の物語である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

五月庚戌朔乙丑、月有蝕之。六月己卯朔辛卯、筑紫大宰、馳譯奏曰、高麗遣使來朝。群卿聞而、相謂之曰、高麗、自己亥年不朝、而今年朝也。辛丑、百濟進調船、泊于難波津。秋七月己酉朔辛亥、遣數大夫於難波郡、檢百濟國調與獻物。於是、大夫問調使曰、所進國調、欠少前例。送大臣物、不改去年所還之色。送群卿物、亦全不將來。皆違前例、其狀何也。大使達率自斯・副使恩率軍善、倶答諮曰、卽今可備。自斯、質達率武子之子也。是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。

八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。(或本云、呼廣額天皇、爲高市天皇也。)丁亥、吉備嶋皇祖母命薨。癸巳、詔土師娑婆連猪手、視皇祖母命喪。天皇、自皇祖母命臥病、及至發喪、不避床側、視養無倦。乙未、葬皇祖母命于檀弓岡。是日、大雨而雹。丙午、罷造皇祖母命墓役。仍賜臣連伴造帛布、各有差。是月、茨田池水漸々變成白色。亦無臭氣。


六月になって筑紫大宰が高麗から使者が朝貢して来たと早馬で知らせたと述べている。賓客で訪れても貢ぎ物持参したのは久しぶりだったのかもしれない。同月には百濟も朝貢するのであるが、七月になって不足であったことが発覚したらしい。群卿への付け届けみたいなものも含まれる筈がなかったとのことで、百濟國の乱れを暗示しているのであろう。

この月に茨田池に虫が湧いて悪臭が漂ったようである。無臭になる九月まで二ヶ月間掛かったようである。原因は?…未記載である。皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母命が亡くなって、土師娑婆連猪手に命じて檀弓岡に埋葬したと伝える。

 
茨田池

「茨田」の名称を少し整理してみようかと思う。古事記で初めてこの名称が登場するのは、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、日子八井命が祖となった茨田連である。現地名は田川郡みやこ町勝山大久保とした。次いで大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子、櫛角別王が祖となった茨田下連であり、現地名は同町勝山松田の下田とした。

続いて大雀命(仁徳天皇)紀に茨田堤・茨田三宅が登場する。とりわけ前者は淀川の築堤と考えられて有名である。勿論未だにその痕跡も見出せていないものを当てにするわけには行かず、現地名行橋市前田辺りの長峡川の西岸を示すと解釈した。天皇の四男坊、男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)の名前に刻まれていると読み取った。

最後は橘豐日命(用明天皇)の御子の茨田王、上宮之厩戸豐聰耳命の弟、山背大兄皇子の叔父に当たり、後の事件に巻き込まれたと伝えられているようである。現地名は田川市夏吉の西端の地(葛城:現田川郡福智町との境)である。

 
<茨田池>
即ち、茨田=揃って並んだ田=棚田であり、谷間の形を松葉に象った「松田(マツタ)」と呼び変えられたと推察した。


「茨田(マッタ)」は「マンダ」と訓されるが、むしろ「松田(マツタ→マッタ)」が訛った呼び名であろう。故に様々な場所に出現するのである。

「茨田池」に関する通説は、相変わらずに「茨田堤」に関わる場所にあったと推定されている。まるで何かの呪縛に引っ掛かったような有様であろう。

「茨田」の表記は、日本における水田稲作の原風景であり、中国江南の倭人の創意と工夫によって切り開いた産業革命だったことを見逃してしまっているのである。

先記に登場した國勝吉士水鶏の別称「俱毗那」は「茨田」を示唆する表記であることを述べた。すると、その下にある「水鶏」の池を「茨田池」と称していたと推定される。現名称は矢留貯水池となっているが、国土地理院地図には「松田池」と記載されている。勿論、当時は今よりもかなり小ぶりであったと推測されるが。池の悪臭事件をわざわざ記載し、来客が着岸(難波津江口)する近隣の池であったことを示しているのではなかろうか。

ずっと後の天武天皇紀に槻本村主勝麻呂が登場する。『八色之姓』で「連」姓を授かったとの記事である。既出の「槻」=「山稜が丸く小高くなった様」であり、山腹で丸く盛り上がったところを表す文字と読み解いた。図に示した場所がそれを示し、その麓(本)の地が出自と推定される。

「押坂陵」及び「高市天皇」については、前記で述べたので割愛することにして、天皇の母親「吉備嶋皇祖母命」についての記述を読んでみよう。

 
吉備嶋皇祖母命:檀弓岡

既に母親の「吉備嶋皇祖母命」、即ち吉備姫王の出自の場所を求めたが、「吉備嶋」の名称は重要な情報であった。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「吉備兒嶋」ではない。立派な島状の地である。勿論現在の海水位ではなく、当時における状態を想定して、である。

古事記はこの地を神櫛王の地としたが、今から思うと何とも捻くれた表記のように感じられる。当然ながら櫛角別王の地が寶皇女の出自の場所に該当する。吉備姫王に関する史料が少ないせいかWikipediaの記述も簡単である。出自の場所もなく、専ら「檀弓岡」が主になっている。

とは言うものの、書紀の記述だけからではこの岡を求めることは不可で、少々関連情報を集めると、祖父の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)、いや実は、古事記ではこの天皇の墓所は銘記されていない。あらためて書紀風に天國排開廣庭天皇(欽明天皇)として、その場所は「檜隈坂合陵」と記載され、そこに吉備嶋皇祖母命」が合葬されたと言われている。

 
<檀弓岡・檜隈舍人造
「檜隈坂合陵」の「
檜」の文字は、古事記の建小廣國押楯命(宣化天皇)が坐した檜坰之廬入野宮に含まれている。

「檜」=「木(山稜)+會」と分解して、「會」の文字形が示す地形を三角州の先端部と推定した。文字解釈をすれば「會」=「亼+曾」と分解され、「三角の形に寄り集まる(積重なる)」と解説される。

坰」=「境」であり、「會」の形の三角州近傍の地を表す。現在の彦山川と中元寺川の合流地と推定した。

因みに、下流域の彦山川と遠賀川の合流地は「輕」で表されている。何故「會」を使ったかは、その文字に「日」が含まれているからである。即ち品陀和氣命(応神天皇)が坐した輕嶋之明宮がある三角州だからと推察した。

ここまで読み解けると檜隈=「會」の形の三角州の隅を表していることが解る。何と、段丘になったところが中元寺川の畔にある。檀弓(ダンキュウ)=山稜が弓状に盛り上がった平らなところと読める。「檀(マユミ)」と訓されるが、古代に弓の材料だったからだそうである。そしてこの隅の地は見事に川の流れに沿って「弓状」の形を示している。


現在は整地されて地形の詳細が判り辛いが、「檜隈坂合陵」は二つの山稜が寄り集まった場所を表していると思われる。中元寺川が丘陵に挟まれた地形である。
現在も林になって残された場所ではなかろうか。吉備嶋皇祖母命」が埋葬されたのは少し西側かと推測される。

古事記は天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)陵を記述しないが、川の氾濫で流されたのかもしれない。書紀は、お構いなしに記載、であろう、所詮大きく蛇行する川岸などに当てるつもりがない、と勘繰ってみたが、確かではない。

ずっと後の天武天皇紀に檜隈舍人造が登場する。「連」姓を授かったのであるが、併せて図に記載した。墓所の近隣で大河の中流域を開拓した人々だったと思われる。
 
● 土師娑婆連

「土師」は、書紀では早期に登場し、天穂日命が祖となった「出雲臣、土師連等」と記載されている。一方古事記では天之菩卑能命(天菩比命)の祖となった記述は無く、代わって息子の建比良鳥命が祖となった出雲國造、菟上國造、遠江國造などの記述が見られるが、「土師連」の名称は出現しない。

いずれにせよ「記紀」の記述から「土師」は出雲の地に関わるところと思われる。古事記の「菟上」、「遠江」の記述が都合が悪く、両書併せて曖昧な表現にした(させられた?)のではなかろうか。「出雲」に関連する記述は、実に”怪しい”もののように伺える。兎も角もその場所を探してみよう。


古事記の「土師」は、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀の「橘(タチバナ)」=「登岐士玖能迦玖能木實」を述べる段で天皇埋葬の際に「人柱」を添える風習を大后比婆須比賣命が止め、その代わりに埴輪を用いるようになったことを伝えるところで「土師部」として登場する。同時に「定石祝作」(石室・石棺作りの役目?)と記され、出雲之石𥑎之曾宮に絡めた表現と解釈した。

 
<土師娑婆連猪手>
これで漸く「土師」の場所が推定されることになった。
「石𥑎之曾宮」の近隣の場所が「土師部」であり、現地名は北九州市門司区松崎町辺りと推定した。

書紀の推古天皇紀に「土師連猪手」が登場するが、その孫を「娑婆連」と言う謂れが記されている。取って付けたような記述のようで、それはそれとして文字列を読み解いてみよう。

娑婆=水辺で嫋やかに曲がって三角に尖った山稜(娑)が覆い被さるように広がっている(婆)ところと読める。古事記の雄略天皇紀に登場する引田部赤猪子に含まれている。「猪」=「犬+者」と分解し、猪=平らな頂の山稜が交差するように寄り集まっている様と読み解いた。


些か見分け辛いが、図の場所がその地形を示していることが解る。盛り上がった台地を手=山稜の端が手の形と見るのも良し、また、手=周囲をぐるりと取り巻く様と解釈することもできる。「手が物を掴んでいる様」を表すと解説されている。「連」は麓が緩やかに延びた地形を表す。孫は麓から更に水辺の方に移って行ったのであろう。上記の謂れに関わりなく自然の成り行きで理解できる命名である。


冬十月丁未朔己酉、饗賜群臣伴造於朝堂庭、而議授位之事。遂詔國司。如前所勅、更無改換、宜之厥任、愼爾所治。壬子、蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。大臣之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。戊午、蘇我臣入鹿、獨謀、將廢上宮王等、而立古人大兄爲天皇。于時、有童謠曰、
伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。
(蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。)是月、茨田池水還淸。

蘇我大臣蝦夷は子の入鹿臣に「紫冠」を”私的”に授けた(私授)と述べている。またその弟を物部大臣と言わせたのだが、祖母が「物部弓削大連」の妹であって、財力が頗る豊かであったと伝えている。「物部」は邇藝速日命一族であり、皇統には関わらなかったのであるが、豪族間では繋がっていたことが伺える。元を質せば彼らも立派な天神一族の末裔である。

 
<物部弓削大連>
そんな背景で入鹿臣は、「上宮王」を廃して従兄妹を「古人大兄爲天皇」とする策謀を企てていたと述べる。
法提郎媛と蝦夷大臣の謀(大臣保有の地を古人皇子に譲渡)を踏まえた入鹿臣の戦略であろう。推古天皇で途切れた後の蘇我一族復権である。

それにしても法提郎媛は、なかなか強かな媛であって、天豐財重日足姬が最も恐れた相手だったのかもしれない。

「物部弓削大連」は「物部」の地であろう。弓=弓なり状頻出している。「削」=「肖+刀」と分解される。更に「肖」=「小+月」と分解すると、削=小さく切った(小・刀)ような山稜の端の三角州(月)と紐解ける。

図に示したように弓なりに広がった山稜が更に細かく分かれている場所と思われる。「大連」は「広く延びた山稜の端」と読める。現在の北九州市小倉南区木下辺り、かつては東谷村と呼ばれたところで川沿いに水田が広がる地である。邇藝速日命が渡って来て、早期に開拓された地でもある。神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が来る以前に兄・弟宇迦斯が住まって居たと古事記が伝えている。

挿入された童歌は、参考のサイトの訳は、「岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁」となっている。入鹿臣がせっせと企みを画している様を詠ったものであろう。「茨田池」は、すっかり元通りになったようである。

十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。(或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。)於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。 

即位二年十一月一日、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされた。蘇我臣入鹿は巨勢德太臣・土師娑婆連(一説では倭馬飼首)を派遣して斑鳩に居る山背大兄王等をふいに襲わせた()と述べている。長い記述ではあるが、登場人物名とその会話が載せられている。その他に地名として、膽駒山、深草屯倉が登場する。斑鳩の地を中心にして読み解いてみよう。

山背大兄王に王たる者のあるべき姿を語らせている。「万民のための一人たるべき」何とも持ち上げた表現であろう。当然下げるのは襲い掛かった蘇我臣入鹿となろう。ところで山背大兄王の軍勢が応戦した時に「奴三成」が獅子奮迅の戦いを行い、攻め手の大仁土師娑婆連が戦死するなど、挙句に王は山に逃げ延びることができたと記されている。

 
<倭馬飼首=大伴連馬飼>
余談だが・・・「石田三成」の旗印は「大一大万大吉」(天下のもとで、一人が万人のために、万民が一人のために命を注げば、すべての人間の人生は吉となり、太平の世が訪れる)だとか。何か関連があるのであろうか・・・。
 
● 倭馬飼首

蘇我臣入鹿に山背大兄王討伐を命じられた二人の内、巨勢德太臣は舒明天皇の葬儀に登場していた。もう一人については、一説によると土師娑婆連ではなく「倭馬飼首」だったとされる。

土師娑婆連は戦死するので、倭馬飼首もそうであったのか、詳細はここでは不明である。先ずは、この人物の出自の場所を求めてみよう。

「馬飼」の文字は「大伴連馬飼」に含まれていた。彼らの出自の場所の地形をよく見ると、倭=嫋やかに曲がりくねる地であり、そして谷間に大きく段差があって首=凹(窪)んだ地形であることが解る。これは間違いなく同一人物の別表記と見做せるであろう。

 
膽駒山

ふいに襲われた山背大兄王及びその従者達が落ち延びたのが「膽駒山(イコマヤマ)」と記載されている。先ずは文字を読み解いてみよう。「膽」=「月+詹」と分解される。「詹」の分解は簡単ではないが「詹」=「人+厂+ハ+言」を参考にしてみる。「人が崖の上から言葉を発する様」を表している。地形象形的には、頂上から大きく広がった山稜が多く連なっている様を示す文字と読み解ける。
 
<膽駒山>
膽」は「胆」の旧字体であって、重くずっしりとしたものがぶら下がった中心を表す「胆(キモ)」の意味を持つ。

同様に「担」(旧字体は「擔」)がある。解釈は上記のように合理的である。と言うことで…、

膽=三日月の形をした山稜(月)の傍らで頂上から多くの山稜が連なり広がっている(詹)

…と紐解ける。駒=馬の背の頂上である。図に示した通りにこの山から多くの大きな枝稜線が延び、主稜線の末端部にある峰を示している。

古事記の大雀命(仁徳天皇)紀の説話に速總別王・女鳥王とが駆落ちして逃亡する物語に記載された倉椅山に該当するところと思われる。当時の逃亡ルートとしてはメジャーなところだったのかもしれない。少々年代がことなるが・・・山背大兄王一行のルートを推測してみたが、上宮の崖下を迂回して乳部に至り、急勾配の山道を登ったのではなかろうか。

「膽駒山」は書紀では、神日本磐余彥天皇(神武天皇)が難波之碕から更に越えて行こうとした山として登場する。通説では、現在の生駒山とされているが、とても「膽」の状況ではないようである。詳細は、後日に・・・。

 
● 舍人田目連及其女

引続き従者達の出自の場所を求めてみよう。更に東國へ逃げましょうと進言した三輪文屋君三輪君小鷦鷯の子とのことである。彼らは美和山(現足立山、企救半島)の西麓に居た。前記の結果を参照。次に登場するのが「舍人田目連」である。「數十舍人」の中の一人であるが、一応名前が付加されている。

Wikipediaによると、「舎人(とねり/しゃじん)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職」と記載されている。古事記の大長谷若建命(雄略天皇)紀で舎人=谷間にある山稜の端が延びて残ったところの地形象形表記と読み解いた。そして後に警備や雑用の役職を表すようになったと推察した。前記の筑紫大宰で述べたことに類似する。

 
<舎人田目連>
では何の修飾もなく「舎人」と記されるのは一体何処を指すのであろうか?…古事記の本文ではないが、序文に登場する舎人稗田阿禮と関連すると思われる。

現地名の行橋市上・下稗田がある大きな「舎人」を表していると推定される。田目=田と田の隙間と読み取れる。

大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子、大碓命が祖となった「大田君」、「嶋田君」の居場所に”隙間”があることに気付かされる。

「舍人田目連」はこの端境に居たと思われる。古事記の雄略天皇紀でも述べたが、宮廷に奉仕させる「舎人」の食い扶持を提供する地が不可欠であって、また、そうでない者もいたかもしれないが、きちんと出自を有していたことになる。

更に二人の娘も奉仕させていたとのことである。「菟田諸石・伊勢阿部堅經」と記載された娘達の居場所を求めてみよう。「菟田諸石」の「菟田」は古事記に登場した菟田首等・大魚の場所と思われる。現地名は田川郡川崎町池尻である。

 
<菟田諸石・菟田郡人押坂直・菟田山>
「石」=「厂+囗」と分解して、「石」=「山麓の小高い地」と読み解く。すると諸石=山麓の小高い地が諸々集まったところと解釈される。

図に示した「菟田」の山稜の西麓にある場所を表していることが解る。娘は大石神社の麓を出自としていたのであろう。「石」は残存地名かもしれない。

また図には後に登場する「菟田郡人押坂直」及び「菟田山」の場所も併せて示した。郡=整えられた台地が集まったところと読み解いた。難波大郡などの例がある。

押坂=押し平らげた坂で、古事記の「忍坂」(一見坂に見えない坂)の意味を表している。直=真っすぐな隙間の地である。これらの要件を全て満たすところを見出すことができる。また「菟田山」はその北側にある、決して高くはない山であろう。

これらの登場人物、地名は「菟田」の地に見事に適合していることが解ったのであるが、書紀に登場する「菟田」は少々複雑である。初登場は神日本磐余彥天皇(神武天皇)の東行に際して兄猾及弟猾(古事記では兄/弟宇迦斯)と遭遇する地を「菟田縣」(古事記では「宇陀」)と表記している。

上記「膽駒山」でも述べたように書紀編者による恣意的な書換えのように見える。「菟(呉音:ズ、ツ)、漢音:ト」であって「ウ」の発音はない。「ウサギ」の「ウ」、あり得ない。古事記は「ト」の音を示していると思われる。書紀編者による、このワザとらしい書換えは、それを暗示するためであったと推測される。現地名では奈良県[宇陀]市[菟田]野となっている。「記紀」丸写(移)しの様相であろう。

 
<伊勢阿部堅經>
「伊勢阿部堅經」を伊勢の地で求めることになる。だが「阿部」の地形は簡単には見出せなかった。

漸く辿り着いたのが現地名の北九州市小倉南区辻三という場所である。かなり山深く立ち入ったところ、紫川の上流部で合流する合間川の、その上流域にある地である。

確かに古事記に登場の「阿倍」も山深いところである。書紀中でもここでの登場が唯一である。山間部であるが山稜の端が寄り集まっている地形であり、出雲近隣の阿多に類似するところと思われる。

例によって文字を紐解くと、阿倍=花の子房(倍)のような台地(阿)として、「堅」=「臣+又+土」と分解すると堅=谷間に延びた山稜の端が手のようなところと読み解ける。

經」=「糸+坙」と分解すると、經=山稜が真っ直ぐに延びている様を表している。文字が示す通りの場所を図に示した。「舎人田目連」はなかなかの精力的に活動して、各地で誕生させた娘を天皇の傍に奉仕させていたようである。それぞれの地は食い扶持を十分に供給できるところであったことが伺える。いや、それくらいの目先が利かなくては、天皇の傍にはおられなかったのかもしれない。古事記では語られない側面であろう。

 
深草屯倉

「三輪文屋君」の進言は、「先ずは深草屯倉に移り、乳部を元手にして東國で準備して戦いましょう」である。この箇所の表現も微妙である。「從茲乘馬、詣東國」(深草から馬に乗って東国に詣でる)遠いところで詳細は記さず、なのである。

古事記での「東國」の出現は倭建命(書紀では日本武尊)が東方十二道へ遠征時に「走水海」で遭難しそうになり、后の弟橘比賣命が身を挺してこれを収めた。その後この海を見下ろして「阿豆麻(吾妻)!」と叫んだことから「東國」と名付けたと記載されている。叫んだところが「足柄」であって、現在の静岡・神奈川県境とされている。「深草屯倉」は現在の京都市伏見区、直線距離でも300kmを越える。「從茲乘馬」あり得ないが、間違ってはいない?…の記述である。

「深草屯倉」は天國排開廣庭天皇(欽明天皇)紀冒頭の記述…「天皇、寵愛秦大津父者、及壯大必有天下。」寐驚、遣使普求、得自山背國紀郡深草里、姓字果如所夢。…で出現している。この屯倉は山背國(古事記では山代國)にあった。では「深草」とは?…文字解釈に入る。

 
<深草屯倉・秦大津父>
「深」=「水+罙」と分解される。更に「罙」=「穴+又(手)+火」から成る文字である。

見慣れた文字ではあるが、その字源は簡単ではないようである。胎内から赤子を取り出す様から導かれたとも言われる。

地形象形的には深=川が流れる(水)谷間(穴)に[]のように山稜が延びている(手)ところと紐解ける。

「草」=「艸+皁」と分解される。「艸」の文字形から草=山稜が並んでいる様を表していると読み取れる。

既出の屯倉=谷間を集めたところである。これも当初は地形から名付けられて、後にその役割を表す名称となったものであろう。「三宅」、「三家」なども類似する。

図に示した場所に屯倉があったと推定される。実に地形要件を満たしたところと思われる。この地は古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)紀及び伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)紀に登場する大筒木垂根王及びその比賣である迦具夜比賣命の居場所と推定した地である。急斜面の山麓に池(沼)を造り治水されていた。

「秦大津父」を大切にすると天下を治めることができる…と夢のお告げ聞いた。それほど豊かな土地であったと伝えている。秦=稲穂のような山稜が並んで集まっている様であり、大津=平らな頂の山麓にある津であり、父=交差するように寄り集まる様を表している。御所ヶ岳・馬ヶ岳山系の麓にある犀川(現今川)、高屋川、松坂川が一ヶ所に集中する、特徴的な場所を表記した名前と思われる。「人=地」であろう。

天下を治めることができる「深草」を抑えることが東國を、そして更に天下を手中にできることなのだと「三輪文屋君」が述べているのである。直線距離300kmを越えて離れている地のことでは、全くあり得ない。真に合理的な進言だったのだが、それではちょっと拙い・・・と言うことであろう。「斑鳩」から見て「山背(山代)」を含めた「東國」だ、と述べている。

古事記と書紀との齟齬が一気に噴き出したようである。書紀の記述に於いて素直に表現された部分とそうでない部分、後者に矛盾を曝け出すことが本著の目的になりそうである。今のところ、何となく可能なような気分である・・・長いので、次回へ・・・。