2020年4月23日木曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅶ) 〔407〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅶ)


蘇我臣入鹿が山背大兄王を襲ったのは、確かに唐突感があり、入鹿の単独暴走のような記述である。蘇賀一族の内部抗争であって、他氏族から見れば潰し合ってくれて幸いのようにも思われる事件であろう。田村皇子との皇位争いの時には、執着心旺盛な山背大兄王と記述しながら入鹿との確執では真に真摯な人物のように語られている。

事件は事実としても、やや真相には程遠い感じがしないでもない。穿った見方をすれば、かつては田村皇子、今度は古人皇子と、山背大兄王にとっては執着する皇位への道程に常に邪魔者が現れると言った状況であり、水面下での画策があっても不思議ではない。書紀の記述は蘇我臣入鹿の横暴さを強調せんがためだけのシナリオのようである。

そこに登場した中臣鎌子連の深謀遠慮が露わになって来るのであろう。今暫く蘇我親子の動向に注目である。即位三年(西暦644年)夏六月からの物語である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

夏六月癸卯朔、大伴馬飼連、獻百合花。其莖長八尺、其本異而末連。乙巳、志紀上郡言、有人於三輪山、見猿晝睡、竊執其臂、不害其身。猿猶合眼歌曰、
武舸都烏爾、陀底屢制囉我、儞古泥舉曾、倭我底烏騰羅毎、拕我佐基泥、佐基泥曾母野、倭我底騰羅須謀野。
其人驚怪猿歌、放捨而去。此是、經歷數年、上宮王等、爲蘇我鞍作、圍於膽駒山之兆也。戊申、於劒池蓮中有一莖二𦹛者。豐浦大臣妄推曰、是蘇我臣將榮之瑞也。卽以金墨書、而獻大法興寺丈六佛。
 
大伴馬飼連(既に登場)が珍しい百合の花を献上した。根元は分かれているのに茎がくっ付いていたと言う。わざとらしく中臣鎌子連と中大兄皇子の姿を映しているようである。吉兆の花なのかもしれない。
 
<志紀上郡>
続けて何かを伝えようと歌が挿入される。
「志紀上郡」がそれを知らせた。「三輪山」の猿が詠ったと言う。

歌の訳は・・・「向つ嶺に立てる夫らが 柔手こそ 我が手)を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや」…であるが、数年後の蘇我臣入鹿による山背大兄王襲撃の予言だと解説している。・・・実はそんな噂があったんだと述べているのであろう。後付けである。

百合の花の件から数日後に、今度は蝦夷大臣が劔池の蓮が一つの茎に二つの花房があるのを見つけて、蘇我氏の繁栄を示す吉兆と見て、金墨書を法興寺の仏像に供えたと伝えている。

二つが一つに、一つから二つが・・・両陣営の思惑語りと言ったところであろう。いずれにせよそれぞれの思惑で進めば、衝突することになってわけである。

さて上記で登場した「志紀上郡」についてその場所を求めてみよう。「志紀」の文字列は、書紀中でも二度しか出現しない。数少ない情報なのであるが、実は、重要な意味を持っていたのである。

「志紀郡」として泊瀬部天皇(崇峻天皇)紀に現れる場面がある。蘇我馬子宿禰大臣が物部守屋大連を征伐するため、大部隊を引き連れ、仏様の力添えも得て、大連の家(澁河家)で勝利した、と伝える。

大軍団に加えて仏様まで引き摺り出さねばならないほど、物部守屋大連の力が強大であったようである。その時の行程が「志紀郡」から「澁河」の畔にある守屋の家に至ると記載されている。

物部守屋大連」の居場所を示す(下図参照)。「守」は、古事記の大山守命、直近では阿曇連のご近所津守連大海などに含まれている。岐れた山稜に囲まれた山麓の地形である。

守=肘を曲げたような(寸)山稜に囲まれた(宀)ところと解釈する。また屋=尾根(尸)が延びた末端(至)のところと読む。頻出であるが、直近では三輪文屋君に用いられていた。

すると上図に示したように「志紀郡」は、現在の北九州市小倉南区志井にあったと推定される。志紀=蛇行する川傍らにある[己]の形にくねって曲がる山稜の麓と読み解ける。「紀」は古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場する紀國に含まれている。
 
<物部守屋大連・澁河>
詳細な地図を参照すると、現在の井手浦川、東谷川共に激しく蛇行していることが分る。

正に「澁」=「水+止+止+止」の川である。更に「守」の地も蛇行する、小ぶりな川があることも分る。実に丁寧な地形象形表記を行っていることが伺える。

この物部の地の更に谷奥を「志紀上郡」と名付けたのであろう。現地名は同区母原・新道寺・木下辺りと推定される。

古事記は、この地を「宇陀」と言う。該当する書紀の記述は「菟田」である。その地の北側を「志紀上郡」と称していたのである。「記紀」の記述が錯綜している箇所、いずれまた読み解してみようかと思う。

上記の猿の居場所を「三輪山」と記している。上図から明らかに、それは竜ヶ鼻から平尾台(古事記では吉野)を経て貫山に繋がる山塊を示していると思われる。困った時の「三輪山」であろう。書紀は改竄の手を入れたところ及びそれに関連するところを除けば、実に丁寧な地形象形表記をしていると思われる。換言すれば、個別の名称表現を全て書き換える暇はなかったのであろう。貴重な情報が埋もれている、のである。

因みに通説では、志紀郡:大阪府藤井寺市辺り、志紀上郡:奈良県天理市辺りとされているようである。「志」=「大和川」を示し、ちょっと離れ過ぎだが、上流部に「三輪山」がある。そもそも「志」=「蛇行する川」をあからさまにはできず、上手い具合に当て嵌めた”技”が認知されていない、勿体ないことでもある。

是月、國內巫覡等、折取枝葉、懸掛木綿、伺大臣渡橋之時、爭陳神語入微之說。其巫甚多、不可具聽。老人等曰、移風之兆也。于時、有謠歌三首。其一曰、
波魯波魯儞、渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅。
其二曰、
烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須。
其三曰、
烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母。

其の一:遥遥に 言そ聞ゆる 嶋の藪原
其の二:彼方の 浅野の雉 響さず 我は寝しかど 人そ響す
其の三:小林に 我を引きいれ 姧し人の 面も知らず 家も知らず

中臣鎌子連と中大兄皇子との密談を気に掛けているいる蘇我大臣蝦夷の気持ちを表しているような解説がある。そんな感じがしないでもない、ようである。

秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等、遂詐託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、
禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。
此蟲者、常生於橘樹、或生於曼椒。曼椒、此云褒曾紀。其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶。

東國の「不盡河」近くの住人、「大生部多」が常世の神である虫を祀ることを勧めた記している。私財を捨ててこの虫を祀れば新しい富を得ることができると吹聴したのだが、実現するわけはなく、大きな損害が出てしまった。それを聞きつけた「葛野秦造河勝」騒ぎを鎮めたとのことである。

歌の訳は…「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲ますも」と解説される。この神の虫は、橘あるいは山椒の木に生息し、大きさ、色から蚕によく似ていると述べている。養蚕が盛んな地に、優れものの蚕を手に入れようと民が狂奔した状況を語っているように思われる。「葛野秦造河勝」の役割が明確ではないが、養蚕に深く関わっていたのかもしれない。

<東國不盡河・大生部多>
東國不盡河

「東國」が再び登場する。前記の深草屯倉(山背國紀郡深草里)で、現地名では京都郡みやこ町犀川木山以降の東側を示すと読み解いた。勿論周防灘に至るまでの地域を示していると思われる。

その地域に多くある川の中で「不盡河」はどの川を示しているのであろうか?…文字解釈を行うことにする。

不=咅=丸くふっくらとした様を象った文字と知られる。川の蛇行で形成される中州の形を表していると思われる。

盡=ことごとく(至るところ)の意味を示すとすると、不盡河=丸くふっくらとした中州が至るところにある川と読み解ける。これは現在の英彦山山系の奥深くから流れ出る祓川の姿を表していることが解る。即ち不盡河=祓川と推定される。

古事記の穴穗命(安康天皇)紀に意祁王・袁祁王(後の仁賢・顕宗天皇)が針間國への逃亡する途中で渡った川、玖須婆之河が登場する。[く]の字形に曲がった州の特徴を捉えて名付けた川名である。書紀はその形を「不(咅)」で表記したと解釈される。

大生部多」は一文字一文字を読み解いてみよう。「大」=「平らな頂の山稜」、「生」=「生え出る様」、「部」=「咅+邑」=「丸くふっくらとしたところが集まった様」、「多」=「山稜の端の三角州」である。纏めると大生部多=平らな頂(大)から生え出た(生)丸くふっくらとした(咅)山稜の端の三角州(多)が集まった(邑)ところと紐解ける。

図に示した山稜の端が幾つかに分かれて低く長く延び、その谷間に流れる川で三角州が形成された地形を表している。但し、祓川の氾濫などで何度も川は流路を変え、現在の状態になったものと思われる。古事記の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の御子、建豐波豆羅和氣王の出自の場所に重なる。この王は前出の「難波吉士」の地の祖となったと伝えている。多くの人が住みつき、そして開拓されて行ったのであろう。
 
<葛野秦造河勝>
● 葛野秦造河勝

「葛野」は古事記の品陀和氣命(応神天皇)が近淡海國行幸の時に宇遲野上に立って遠望し、国が栄えつつあることを確かめたところであった。現在の田川郡赤村赤と推定した。

古くは速須佐之男命の御子大年神、その御子の大山咋神が祖となった地に葛野之松尾が記されている。かなり早期に開かれた地であろう。

「秦造河勝」の「秦」=「艸+屯+禾」と分解され。秦=稲穂のような山稜が並び集まっている様を表すと読み解いた。直近では秦大津父があった。

古事記頻出であるが、あらためて「造」については「造」=「辶+牛+囗」と分解して、造=[牛]の古文字形を示す谷間を表す場所と紐解いた。通説の姓(カバネ)であるが、これも「宿禰」、「臣」、「連」、「縣」、「直」など、また書紀の「大宰」などと同じく居場所の地形に基づく名称で、後にその役割を表す名称となったと思われる。

河勝=河の傍らで盛り上がった地と読める。河の文字形が直角に曲がる犀川(現今川)の様子を表わしているようである。これらの要件が満たされるところを図に示した。現地名は赤村赤の道目木・常光辺りと思われる。「河勝」が何故討伐に向かったのか、「惡民所惑」では不確かである。ひょっとしたら「調」としての絹の管理(犀川・祓川流域)を担っていたのかもしれない。

通説では上記の不盡河は、富士山西方を南北に流れる大河の富士川と言われている。また葛野は京都山科辺りとされている。この空間感覚は書紀を神話と見做しているとしか考えようのない有様であろう。書紀編者が何を伝えようとしていたのか、と少しは考えてみては如何か・・・勿体ないこと極まりなし、である。

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ところで古事記の大雀命(仁徳天皇)紀の説話に筒木韓人奴理能美が登場する。大后石之日賣命が嫉妬に狂って山代(背)國を右往左往する物語である。この「奴理能美」が奇虫(三種虫)を飼っていて、それを天皇に知らせると、飛んでやって来たと言う顛末が記されている。しかも鼓型蚕である。この地で養蚕が行われるようになり、その後広がって行ったと思われる。書紀の記述と見事に符合するのである。

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冬十一月、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門、入鹿家曰谷宮門。谷、(此云波佐麻。)呼男女曰王子。家外作城柵、門傍作兵庫。毎門、置盛水舟一、木鉤數十、以備火災。恆使力人持兵守家。大臣、使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東、穿池爲城、起庫儲箭。恆將五十兵士、繞身出入。名健人曰東方儐從者。氏々人等入侍其門、名曰祖子孺者。漢直等、全侍二門。

またまた、蘇我大臣蝦夷と入鹿臣とが不遜なことをしでかしたと記される。今度は「甘檮岡」に宮殿仕様の家を「雙起」したと言う。防災設備、守衛兵も備えた立派な家と伝える。更に「丹穂山」に「桙削寺」と名付けられた寺まで造り、また更に「家於畝傍山東」を建て、まるで城のように門は兵士で固めてあったと告げている。
 
甘檮岡雙家・大丹穗山桙削寺

さて、これらは何処にあったかを探してみよう。「甘檮」の「檮」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)陵がある畝火山之北方白檮尾上、また男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に登場した味白檮之言八十禍津日に含まれ、共に現在の香春三ノ岳の東北麓に長く平たく延びた台地と推定した。

「甘」=「美味い」の意味を示す文字であり、「味白檮」の「味」に繋がる表記と思われる。勿論「味」の地形象形が示す意味は全く異なるのであるが、「甘」=「舌の上に物を乗せた様」を象っているのではなかろうか。すると甘檮=舌のように隙間から延び出たところを表していると読み解ける。その岡の上に蝦夷大臣の「上宮門」と入鹿臣の「谷宮門」を並べて造ったのであろう。
 
<甘檮岡上/谷宮門・大丹穂山桙削寺>
「上宮門」は谷の出口付近、現地名では田川郡香春町採銅所の長光にある神間歩公園辺りの高台と推定される。

「谷宮門」は「谷=波佐麻(ハサマ)」と注記されることから、この台地の端にあったのではなかろうか。

波佐麻=端にある(波)擦り潰された台地(麻)の下で支える(佐)ところと読める。

確かに天皇が宮を造って不思議ではない場所であり、台地一帯を造成するとなれば多くの労力を要したであろう。それが可能な程の財力を有していたことが伺える。

「大丹穂山」の「丹」の字源は「現れ出る」と解説される。地形象形に換言すると深い谷間に突出た山稜を表すと解釈される。

それに「穂」が付いていると述べている。「甘檮岡」の北に隣接する山稜が穂のような枝山稜を持つことが見出せる。大丹穂山=平らな頂の谷間(大)に突出た山稜(丹)の先に小ぶりで岐れた高台(穂)がある山と紐解ける。

その「穂」の高台の麓に造ったのが「桙削寺」と思われる。「桙」=「木+牟」と分解される。「牟」は「牛」の古文字の形を象った地形を示す。古事記頻出の地形象形である。上記の「造」と同じ解釈となる。即ち「穂」の山稜の分岐を別表現したものと思われる。「桙削寺」は現在の採銅所小学校辺りに建てられたと推定される。幾度も述べるように、書紀の表記もしっかりとした地形象形表記である。
 
● 東漢長直

寺造りを命じられたのが「長直」と記載されている。「東漢長直」のことと思われる。また畝傍山東の家(前記で蝦夷大臣の出自の場所近隣とした)を守らせた者の中に「漢直等」が登場する。古事記の品陀和氣命(応神天皇)に出現し漢直は、現地名田川郡赤村赤、犀川が東に直角に曲がるところと推定した。また本天皇紀に百濟宮・百濟寺造立(現地名田川市夏吉)を命じられた倭漢書直縣が記述されている。
 
<東漢長直及び東漢一族>
「漢」も幾つかの場所があることを示している。即ち「漢」(田川郡赤村赤)を中心にしてそれぞれの特徴を捉えた修飾が付加されていると思われる。


漢=大きく曲がる川の近傍と解釈して来たが、この地形に合致するところを「漢」とし、記述全体の中で位置付けたのであろう。

すると東漢=東にある漢の地となろう。上記で述べた「東國」、その内にある地と思われる。

山背國の東側、犀川の対岸にある広大な台地の場所と推定される。犀川はこの地の近傍で大きく流れを北に向ける。図の先は「難波津江口」である。

その台地を縦断するようにほぼ真っ直ぐな溝が走っている。これを「長直」と表記したと思われる。書紀に登場する「東漢一族」を全て当て嵌めてみた図である。詳細は省略するが、見事に登場人物名が収まっていることが解る。

古事記で伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が大國之淵之女・弟苅羽田刀辨を娶って誕生した石衝別王が羽咋君の祖になったと記載される。その後の発展がみられなかった地に、後に渡来した人々が住まったのであろう。未開、もしくは不十分な地を梃入れし、進展すると使役に活用する。極当然のことながら、そつのない戦略であろう。

どうやら書紀が記す「東」のイメージが固まりつつある。上記の東國不盡河はこの台地の東側を流れる川である。勿論現在の富士川にも多くの「漢」があろう。「東漢一族」を当て嵌めてみることも興味深いのだが・・・・

まだ、クライマックスに届かず、何としても次回には・・・。