2020年4月20日月曜日

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅵ) 〔406〕

天豐財重日足姬天皇:皇極天皇(Ⅵ)


山背大兄王達は一旦は膽駒山に逃れ、再起を期すか、などと論議したのであるが、王たる者の覚悟ができたと伝えている。攻める側も宮を焼き払って、何と馬の骨を見間違って勝利に浸ったのであるが、山中に隠れているとの報告を受けた。一大事、再度軍を仕向けたわけである。

前記続き斑鳩での戦記である。皇極天皇即位二年(西暦643年)秋の出来事である。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。(林臣、入鹿也。)以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。是歲、百濟太子餘豐、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息。

蘇我臣入鹿は、早々に山背大兄王を探して捕まえようとしたが、「高向臣國押」は拒否したと述べる。さりげなく挿入されているが、「蘇賀」の西側は、決して蘇我氏に好意的ではない。蘇賀石河宿禰を遠祖に持っ由緒正しき「高向臣」にはそんな矜持があったのであろう。そこで入鹿自身が乗り込もうとすると古人皇子が、鼠は住まいの穴が無くなると死ぬものだ。放っておけ!…と言い放ったと伝えている。

その通りになって山から下りて斑鳩寺(斑鳩宮の近隣と言われる)に入り、結局一族諸共に自決したと記している。これを聞いた蘇我大臣蝦夷は激怒し、因果応報、林臣(入鹿)、お前の命も危い、と述べたと言う。前記の童謡の解説がなされている。

<高向臣國押-麻呂-大足>
● 高向臣國押



「高向臣」は上記でも述べたように蘇賀石河宿禰が祖となった地であり、舒明天皇紀には高向臣宇摩が登場していた。

その近隣であろう。國押=大地が押し延ばされたところと読み解ける。山麓が「宇摩」に比べて長く延びているところと思われる。調べると父親が「宇摩」であると分かった。

蘇賀の地に住まう一族も決して一枚岩ではなく、思惑があって動いていたのであろう。当時としては、際立って豊かになった地だからこそ近隣間の確執が発生したのかもしれない。

後の天武天皇紀に高向臣麻呂が登場する。「國押」の子である。「高向臣」の最後の人物と思われる。「國押」の北側の小高いところの麓が出自の場所と推定される。併せて図に記載した。書紀に続く国史である『續日本紀』に「麻呂」の子の高向朝臣大足が登場する。多くはないが、途切れることなく重用された一族であったようである。大足=平たい山稜が延び出た様と解釈して図に示した場所と推定した。

「斑鳩寺」は、現在の法隆寺と言われ、知らない人がいないくらいに有名な世界最古の木造建築物である。がしかし本ブログでは、当該寺は福岡県田川市夏吉、ロマンスヶ丘の南西麓にあったとする。現在の姿、それはそれとして、本来の姿を明らかにする時ではなかろうか・・・日本書紀編纂、今から1,300年前である。

三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。謂充舍人爲駈使也。舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅。
 
中臣鎌子連

年が明けて即位三年(西暦644年)一月一日の物語となる。そして「中臣鎌子(足)連」後の「藤原鎌足」の登場となる。「中臣連」は既に登場しており、舒明天皇紀に中臣連彌氣が居た。その時にも「鎌子(足)」の出自の場所を示したが、あらためて述べてみようかと思う。尚、「鎌子」自身も欽明天皇紀に登場しているようである。何と言っても輕皇子との繋がりを印象付ける記述であり、互いに信頼し合う仲であったと記している。

邇邇藝命の降臨に随行した天兒屋命中臣連の祖であり、同じく随行した布刀玉命が祖となった忌部首と並んで伊勢神宮を祭祀する役目を仰せつかっていたと伝えれらている。どちらかと言えば、「忌部首」の方が主たる立場だったようであるが、「鎌子(足)」以降、藤原氏の興隆と共に立場が逆転したようである。古事記解釈で詳細に述べたが、伊勢神宮を中心にして「忌部首」が「表」、「中臣連」が「裏」の配置となっていることからも伺える。
 
<中臣鎌子(足)連>
いずれにしても「神祗」の職に留まらず、その先を見据えていた、と言うか、才気溢れる人物であったと思われる。


圧倒的な財力を背景にした蘇我一族に対して全く対照的な伊勢の入組んだ狭い谷間に出自を持つ人物が如何に中枢にのし上がって来たのか、これも解き明かしてみたい謎である。

谷の奥に横たわるのような山稜から、子=山稜が生え出た様が見出せる。図に示した場所が鎌子の出自の場所と推定される。現在では深い森に包まれている。

鎌足=山稜が鎌のように長く延びているところと読むと、「鎌子」とは、微妙に意味合いが異なって来る。権勢を大きくなって「鎌足」と呼ぶようになったのであろう。この地が「藤原鎌足」の出自の場所である。現地名は北九州市小倉南区大字長行である。

ところで彼の現住所は「三嶋」と記載されている。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した三嶋湟咋の居場所であろう。現地名は京都郡みやこ町勝山箕田である。この地には御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に「意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖」と記述され、河内之美努村(同じく勝山箕田)の住人だったと伝えられている。「神」で繋がっていたのであろうか。
 
寵妃阿倍氏
 
<阿倍小足媛・阿倍内(倉梯)麻呂>
「阿倍小足媛」は、天萬豐日天皇(孝德天皇)紀に、正式にご登場なのであるが、ここで出自の場所を紐解いておこう。


絶えることなく阿倍一族は「記紀」に記載される一族である。この寵妃の父親が「阿倍内麻呂」、別名「阿倍倉梯麻呂」と知られる。

「阿倍」は古事記の大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)紀に記載された建沼河別命が祖となった地に変わりはないであろう。

小足=山稜が延びた端が三角に形になっているところを表すと解釈できる。古事記では「小」=「小さい」と解釈することはなく「小」の文字形の地形を表す。「倍」=「人+咅」と分解された谷間(人)にある子房のような地(咅)」に含まれる三つの山稜の中にある一つの端を表している

「内麻呂」の「内」=「入+冂」と分解され、そのものの地形が見出せる。角ばった谷間が二つに分かれている様であり、その分かれる場所にあるのが「麻呂」の小高いところと読み解ける。別名で「倉梯」と言われるのだが、谷間(倉)が段々(ギザギザ)とした(梯)を表したものであろう。「麻呂」の西麓の地形と思われる。視点を変えた表現である。

天皇の命令とは言え、出自の明確な后を登場させ、しかも天皇家の古来より重臣の家柄…阿倍氏、蘇我氏共に大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)を遠祖にする…であることを示し、台頭する一氏族への反感をも漂わせている。反蘇我氏一色の状況、ある意味わかり易い物語である。輕皇子、中臣鎌子、そして中大兄皇子の繋がりが次の出来事の伏線となって行くようである。

中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾𨶳𨵦社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、䟽然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而倶手把黃卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上、往還之間、並肩潛圖。無不相協。於是、中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請、納蘇我倉山田麻呂長女爲妃、而成婚姻之眤。然後陳說、欲與計事。成功之路、莫近於茲。中大兄、聞而大悅。曲從所議。中臣鎌子連、卽自往媒要訖。而長女、所期之夜、被偸於族。(族謂身狹臣也。)由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。少女怪父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由。少女曰、願勿爲憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悅、遂進其女。奉以赤心、更無所忌。中臣鎌子連、舉佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田於中大兄曰、云々。

中臣鎌子連と中大兄皇子との出会いの場面となる。鎌子連にすれば次期天皇は輕皇子としても、もう一人皇族の味方を引き摺り込む要があったのであろう。輕皇子を実行犯にするわけには行かなかったのである。そこに礼儀正しい皇子が存在した、という訳である。蹴鞠のエピソードから、くそ生意気な皇子ではなく、言うことを聞きそうに感じたのであろう。

その深謀遠慮の発端が蘇我の娘を娶れ、であった。一悶着あったが(結局長女ではなく妹となった)、何とか婚姻が成立したようである。「蘇我」と言っても「蘇賀」の西端も西端、極西端の人物名が表記される。彼らの住まう場所が明らかとなれば、その時の心情も伺えるようである。地位も財も成遂げた東端の「蘇我」とは異なるが、同族の連中を活用するのも鎌子連の深謀の一端かもしれない。
 
<法興寺>
法興寺

泊瀬部天皇(崇峻天皇)紀に飛鳥地起法興寺」と記載され、蘇我馬子宿禰によって建立されたと伝えれている。飛鳥寺、元興寺とも呼ばれる、と解説されている。

名前が示す通り「仏法興隆」の意味を表し、蘇我氏の氏寺と言われる。用明天皇二年(西暦587年)に発願し、推古天皇四年(西暦596年)十一月に完成したようである。

「法提郎媛」に含まれていた法=水辺で山稜が削り取られたような様として、「興」の文字解きを行ってみよう。

「興」=「手(左)+手(右)+同+廾(両手)」と分解される。正に「手」だらけの文字であって、多くの手で持ち上げる様を表している。「同」=「筒型に丸く穴を通す様」を象った文字であり、一様に揃っていることから通常使用される意味を示すと解説される。

この構成要素をそっくり地形に当て嵌めたものと思われる。興=多くの山稜に挟まれた筒型の谷間と読み解ける。合わせると法興=水辺で山稜が削り取られたような地が多くの山稜に挟まれた筒型の谷間にあるところと紐解ける。図に示した辺りにあったと推定される。重要な寺ではあるが、痕跡は見出せないようである。この程度であれば、名前が示す意味と地形象形表記を重ね合わせることは、簡単であっただろう・・・とは言え、実に良くできている。
 
<南淵先生(南淵漢人請安)>
南淵先生

「南淵先生」が登場する。推古天皇十六年(西暦608年)に「高向漢人玄理」等と共に唐(隋?)に留学生として派遣された「南淵漢人請安」のことである。帰国して「先生」になっていた、と記している。 

何とも戯れた表記なのであるが、古事記編者と同じように書紀編者も、である。先生=山稜の先端から生え出たところと読む。

図に示した山稜が西側に大きく張り出したところと思われる。そもそも本名の「南淵漢人請安」を読み解いてみよう。

「漢人」は上記の高向漢人玄理」と同様に漢人=谷間(人)で大きく川が蛇行する(漢)ところと読み解く。「請」=「言+青」と分解される。古事記で頻出する「言」=「辛(刃物)+囗(大地)」から成る文字であって、地形象形的には言=耕された地=耕地と紐解いた。すると請=耕地に成りかけ(青)のところと読み解ける。

現在でも水田とはなっておらず、急勾配の谷間で水田とするには極めて困難な地形であると思われる。池(沼)も造ることはなく現在の至っているのではなかろうか。書紀の表記は、実に辻褄の合った場所のようである。安=嫋やかに曲がる(女)山麓()である。これら要件を満たす地が上図に示した「南淵」の上にあることが解る。正に古事記を解読する気分である。
 
● 蘇我倉山田麻呂・蘇我(日向)身狹臣・佐伯連子麻呂

中臣鎌子連の権謀術数によって引き摺り出された人物である。先ずは彼らの居場所を求めてみよう。「蘇我」の「倉」(谷)に関連するのは、既に登場した蘇我倉麻呂臣、田村皇子か山背大兄王かの論議の際に保留した臣であった。蘇我馬子宿禰の子であり、更にその子が「蘇我倉山田麻呂」と伝えられている。すると名前が示す通り、この谷の上流部、現在の白山多賀神社・東伝寺辺りと思われる。地名は本谷と記載されている。
 
<蘇我倉山田麻呂/身狹臣・佐伯連子麻呂>
「倉山田麻呂」には兄弟があり、その一人が「蘇我身狹臣」、またの名「蘇我日向」と知られている。この名前は少々捻った命名のようである。


「身」=「弓+矢」とから成る文字で、弓に矢をつがえて張った状態を表す文字である。力が籠った状態で「中身」を表し、形状は「身籠る」を表すと解釈される。

「狹」は通常用いられる「狭い」としての解釈もできるが、原義に戻って紐解いてみよう。「狹」=「犬+夾」と分解される。すると「平らな頂の下で山稜に挟まれた様」を表している。

纏めてみると、身狭=弓状の地(身)が平らな頂の麓(犬)で山稜に挟まれた(夾)ところと読み解ける。別表記「身刺」については後に述べる。

別名で「日向」は古事記の竺紫日向に従って解釈すると、日向=炎のような山稜(日)が北を向かって延びているところとなる。その地形を示す場所を図に示した。「倉山田麻呂」の先、もっと山に入り込んで、実に狭い谷間と推定される。

この地を宛がわれたとすれば、自ずと何かを求めて徘徊することになるであろう。一人分の食い扶持もままならなかったのではなかろうか。

蘇我の比賣が天皇の御子を産み、その御子を蘇賀に宛がう。その他の者達にとって、厳しい環境に晒される運命を背負うことになろう。蘇我一族内部の軋轢の要因だったと推測される。膨張する御子の誕生が生んだ蘇賀内部の分断を明確に表していると思われる。古事記の記述だけでは読み取れなかった重要な結果である。そこに付け込んだのが中臣鎌子連である。

「倉山田麻呂」の長女の婚儀に横やりを入れた「蘇我身狹臣」、更に事件を起こすようであるが、彼の出自が物語るところと思われる。

更に「佐伯連子麻呂」も同じような境遇であろう。要するに中臣鎌子連は蘇我内部が燻っているところに火を注いだと解る。更に彼らは財と地位でどちらにも転ぶ輩であることも重々承知してのだから、怖いものであろう。忘れるところであった…「子麻呂」の子=山稜から生え出たところ、「鎌子」の解釈に類似する。
 
<葛城稚犬養連網田>
● 葛城稚犬養連網田

この段の最後に登場の「葛城」の人物である。「中大兄皇子」は「葛城皇子」とも言われたように顔見知りだったのかもしれない。

本番で失態を演じてしまいその後の登場は見当たらないようである。諸国に置かれた「犬養部」に関連する名称であろうが、後に述べることにして、本人の居場所を求めてみよう。

「稚」=「禾+隹」と分解される。これをそのまま稚=山稜の形が[稲穂]と[鳥]のところと読み解く。

「養」は既に登場し、犬養=平らな頂の麓の谷間がなだらかに広がっているところと読み解ける。既出の網=見えなくなった様である。纏めると稚犬養網田=山稜の形が[稲穂]と[鳥]をしている平らな頂の麓でなだらかに広がる谷間の地で田が見えなくなるまで奥に延びているところと紐解ける。

図に示した通り、この地は現在でもかなりの標高まで長く棚田が作られている場所である。中大兄皇子は一つ先の谷間が出自の場所と推定した。蘇賀石河宿禰の兄弟である葛城長江曾都毘古は祖となった地の外れに当たり、古事記では空白の地域であった。

後に上記の「稚犬養」に加えて、「縣犬養」、「阿曇犬養」及び「海犬養」について考察する予定である。「大宰」、「舎人」と同じような名称の由来を持つのであろう。

三月、休留(休留茅鴟也。)産子於豐浦大臣大津宅倉。倭國言、頃者、菟田郡人押坂直(闕名。)將一童子、欣遊雪上。登菟田山、便看紫菌挺雪而生、高六寸餘、滿四町許。乃使童子採取、還示隣家、總言不知、且疑毒物。於是、押坂直與童子、煮而食之、大有氣味。明日往見、都不在焉。押坂直與童子、由喫菌羹、無病而壽。或人云、蓋俗不知芝草、而妄言菌乎。

休留=梟(フクロウ)の古名だとか。閑話休題の物語の感じである。登場する「菟田郡人押坂直」及び「菟田山」については前記菟田諸石に関連して記述した。「豐浦大臣大津宅倉」及び後に記載される「家於畝傍山東」の場所を求めてみる。
 
<大津宅倉・家於畝傍山東>
大津=平らな山頂の麓にある津と読んで、豐浦大臣が居た場所の対岸にある地と推定した。宅倉=谷間(倉)が山麓(宀)で寄せ集められた(乇)ところと解釈する。

図に示した場所がその要件を満たしていると思われる。現地名の京都郡苅田町下片島の谷間がすっかり開拓されて、豊かな収穫をもたらしていたのであろう。古人大兄皇子の在所である。

「畝傍」は既出の畝傍家に関連し、「畝傍山」は古人大兄皇子の「古」に該当する山と思われる。城郭のような家だと記載されている。

「畝傍」の「傍」が表す地形について、あらためて述べてみよう。「傍」=「人+旁」と分解される。更に「旁」=「凡+方」から成る文字であることが知られている。これで地形象形的には「旁」=「凡の文字形に広がっている様」と解釈される。「傍」=「谷間が[凡]の形に広がっている様」と読み解ける。纏めると畝傍=畝っている地がある谷間が[凡]の形に広がっているところと解釈される。

中臣鎌子連(藤原鎌足)が、その存在を顕在化し始める場面であった。蘇我臣入鹿とは異なり、十分な戦略と根回しが行われたように記述されている。謀略家らしき片鱗を伺わせているが、更に盛り沢山となって行くのであろう。次回こそ、クライマックスに届くかもしれない・・・。