2022年11月30日水曜日

廢帝:淳仁天皇(11) 〔615〕

廢帝:淳仁天皇(11)


天平字五年(西暦761年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

夏四月癸亥。散位從三位巨勢朝臣關麻呂薨。難破長柄豊崎朝大臣大繍徳太古曾孫。從五位上小邑治之子也。其伯父中納言正三位邑治養之爲子。遂承其後。頻歴顯職。遂拜參議。以病歸休。假滿解任。乙亥。外從五位下稻蜂間連仲村賣。親族稻蜂間首醜麻呂等八人。賜姓稻蜂間連。辛巳。授正五位下石川朝臣豊成正五位上。

四月九日に散位の「巨勢朝臣關麻呂」(堺麻呂)が亡くなっている。難波長柄豐埼朝(孝徳天皇)の大臣「徳太古」(徳太)の曽孫で、「小邑治」(小祖父)の子であった。彼の伯父で中納言にまで進んだ「邑治」(祖父)が養子とし、跡を継いだ(こちら参照)。次々と顕職を歴任し、ついに参議に任じられた。病気のために休職したが、期間が満了したので職を解かれていた。

二十一日に「稻蜂間連仲村賣」の親族である「稻蜂間首醜麻呂」等八人に「稻蜂間連」の氏姓を与えている(山背國相樂郡。こちら参照)。二十七日に石川朝臣豊成に正五位上を授けている。

五月壬辰。從五位下高圓朝臣廣世爲攝津亮。從五位下紀朝臣伊保爲相摸守。丙申。左兵衛河内國志紀郡人正八位上達沙仁徳。散位正六位下達沙牛養二人賜姓朝日連。後改爲嶋野連。丙午。使散位外從五位下物部山背。正六位下曰佐若麻呂。行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜。

五月九日に高圓朝臣廣世(石川廣世)を攝津亮、紀朝臣伊保を相模守に任じている。十三日に左兵衛で河内國志紀郡の人、「達沙仁徳」、散位の「達沙牛養」の二人に「朝日連」の氏姓を与えたが、後に「嶋野連」に改めている(こちら参照)。二十三日に散位の物部山背と「曰佐若麻呂」を派遣して、畿内の溜池・弁堰・堤防・用水路に適したところを視察させている。

<曰佐若麻呂>
● 曰佐若麻呂

「曰佐(オサ)」は初見であり、関連する情報を収集すると、大友史一族(孝謙天皇紀に桑原直の氏姓を賜っている)であることが分かった(こちら参照)。

先祖は、後漢の時代に渡来して来たと記載されている。近江國野洲郡・神前(埼)郡に跨る地域に蔓延っていたようである。現地名は京都郡苅田町上/下片島・葛川である。

曰佐の「曰」=「口+一」=「口から漏れ出ている様」を表す文字であるが、地形象形的には「曰」=「谷間の奥から延び出ている様」と解釈する。頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」から、曰佐=谷間の奥から延び出ている山稜が左手のような形をしているところと読み解ける。

蘇我蝦夷の「蝦夷」の地形の別表記であろう。「野洲」(野洲頓宮)も同じ地形を表していて、同一地形を多様に表現していることが解る。ずっと後になるが、「大友民」と表記される。「民」も「蝦夷」の地形を表す文字である。詳細は登場の智機に述べる。

若麻呂若=叒+囗=多くの岐れた山稜が延び出ている様であり、些か地形の変形が見られるが、図に示した辺りが出自と推定される。「物部山背」と同様に、それぞれの地の中心から外れた場所に住まう人物を任用したようである。

六月庚申。設皇太后周忌齋於阿弥陀淨土院。其院者在法華寺内西南隅。爲設忌齋所造也。其天下諸國。各於國分尼寺。奉造阿弥陀丈六像一躯。脇侍菩薩像二躯。辛酉。於山階寺。毎年皇太后忌日。講梵網經。捨京南田卌町以供其用。又捨田十町。於法華寺。毎年始自忌日。一七日間請僧十人。礼拜阿弥陀佛。庚午。以從五位下大野朝臣廣立爲若狹守。」賜大和介從五位上日置造眞夘沒官稻一千束。賞廉勤也。己夘。賜正四位下文室眞人大市。從五位上國中連公麻呂。從五位下長野連公足爵人一級。從三位粟田女王。正四位上小長谷女王並進一階。從四位下紀女王授從三位。正五位下粟田朝臣深見從四位下。正五位下飯高公笠目。藏毘登於須美。從五位上熊野直廣濱。多氣宿祢弟女。多可連淨日並進一階。外從五位上錦部連河内。外從五位下忍海連致。尾張宿祢若刀自並從五位下。從七位上大鹿臣子虫外從五位下。以供奉皇太后周忌御齋也。辛巳。詔。供奉御齋雜工將領等。隨其勞効。賜爵与考各有差。其未出身者。聽預當官得考之例。

六月七日に光明皇太后の一周忌の齋会を「阿弥陀浄土院」で設けている。この院は法華寺(隅院近隣)内の西南の隅にあり、この齋会を行うために造営された。一方、天下の諸國に命じて、それぞれ國分尼寺で阿弥陀仏の丈六の像一軀・脇侍の菩薩像二軀を造らせている。

八日に山階寺(興福寺)で、毎年皇太后の忌日に『梵網経』を講じさせることにしている。平城京の南の田四十町を喜捨して、その費用に充てさせている。また「法華寺」に田十町を喜捨して、毎年、忌日から七日間、僧十人を招いて阿弥陀仏を礼拝させることにしている。十七日に大野朝臣廣立(廣言)を若狭守に任じている。大和介の日置造眞卯に、官に没収した稲一千束を賜っている。正直で潔白な勤務態度を賞したのである。

二十六日に以下の叙位を行っている。文室眞人大市國中連公麻呂(國君麻呂)・長野連公足(君足)にそれぞれ位階一級を賜っている。粟田女王小長谷女王にそれぞれ一階ずつ昇進させている。紀女王に從三位、粟田朝臣深見に從四位下、飯高公笠目(飯高君)・「藏毘登於須美」・熊野直廣濱多氣宿祢弟女(竹首乙女)・多可連淨日(高麗使主)にそれぞれ一階ずつ昇進させている。錦部連河内(吉美に併記)忍海連致(伊太須。伊賀虫に併記)・尾張宿祢若刀自(尾張連馬身に併記)に從五位下、「大鹿臣子虫」に外從五位下を授けている。皇太后の齋会に供奉したことによる。

二十八日に次のように詔されている・・・御齋会に供奉した各種工人の将領等は、その働きぶりに応じて位階を与え勤務評定の対象とする。また官人として登用されていない者は、今勤務している官司で勤務評定を受けられる地位にあることを認める・・・。

<藏毘登於須美>
● 藏毘登於須美

「藏毘登」は「藏人」と置き換えてみると、聖武天皇紀に外従五位下を叙爵された河内藏人首麻呂(河内手人刀子作廣麻呂に併記)の一族ではなかろうか。

「人」を比等・毘登必登で表記する例が思い起こされる。通常、「人」をその文字形を捩って「谷間」とするが、谷間の詳細な構造を表現していると解釈した。

あらためて「首麻呂」の谷間を眺めると、毘登=二つ並んだ窪んだ地から成る谷間の奥が小高くなっているところの地形であることが解る。地図上、最も明確に確認することができた例となったように思われる。”地形象形”の表記が一貫して用いられていることが解る。

名前の於須美は、既出の文字列であり、於須美=旗が棚引くように延びた山稜が州になっている傍らで谷間が広がったところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。尚、後に「春日藏毘登」氏名を持つ人物が登場するが、その時点で詳細を述べることにする。

<大鹿臣子虫>
● 大鹿臣子虫

「大鹿」の登場は、極めて希少であり、古事記で記載された伊勢大鹿首ぐらいであろう。その娘と敏達天皇との間に生まれた寶王(糠代比賣王)田村皇子(後の舒明天皇)を誕生させている。

正に古豪の様子であるが、聖武天皇の伊勢行幸の際に壹志郡(河口頓宮)鈴鹿郡(赤坂頓宮)が記載され、伊勢神宮周辺の地名(地形)が漸くにして明らかにされていた。

この地域を出自に持つ人物は、直近では神主首名・枚人が登場していたが、官司に登用されることがなかったようである。尚、既に述べた事ではあるが、書紀の天武天皇紀に登場する鈴鹿郡(關)と聖武天皇紀に記載される「鈴鹿郡」は別の場所であり、固有の地名と解釈しては、大混乱であろう。勿論、共に”鈴鹿”の地形である。

前書きが長くなったが、大鹿臣子虫子虫=生え出た山稜の端が三つに岐れているところと読めるが、残念ながら、詳細な場所を求めるには、地形が変わり過ぎて困難な状態と思われる。図にそれらしきところを示した。「赤坂頓宮」の近隣だったのではなかろうか。

秋七月癸未朔。日有蝕之。甲申。西海道巡察使武部少輔從五位下紀朝臣牛養等言。戎器之設。諸國所同。今西海諸國。不造年料器仗。既曰邊要。當備不虞。於是。仰筑前。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等國。造備甲刀弓箭。各有數。毎年送其樣於大宰府。辛丑。遠江國荒玉河堤决三百餘丈。役單功卅万三千七百餘人。充粮修築。

七月一日に地震があったと記している。二日、西海道巡察使・武部(兵部)少輔の紀朝臣牛養等が以下のように言上している・・・武器類の準備は、どの國も同じようにすることとなっている。ところが今西海道の諸國は年間の所定の武器を製作していない。これらの國は辺要と言われ、不慮の事態に備えるべきである・・・。

そこで「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向」などの國々(「豊前國・豊後國」については、こちら参照)に命じて、それぞれ一定数の甲・刀・弓・箭を製作して設置させ、毎年その見本を大宰府に送らさせるようにしている。

十九日に遠江國の荒玉河(麁玉河。靈龜元[715]年五月に地震で土砂崩れが発生し、川が堰き止められて氾濫、民家が水没したとの記載あり。通説は天竜川[馬込川]とされている)の堤が三百余丈にわたって決壊している。延べ三十万三千七百余人を使役し、食料を支給して修築させている。

八月癸丑朔。勅曰。頃見七道巡察使奏状。曾無一國守領政合公平。竊思貪濁人多。清白吏少。朕聞。授非賢哲。萬事咸邪。任得其材。千務悉理。上如國司。一色親管百姓籍。其獎導風俗字撫黎民。特須精簡。必合稱職。其居家無孝。在國無忠。見利行非。臨財忘恥。上交違礼。下接多謟。施政不仁。爲民苦酷。差遣邊要。詐稱病重。任使勢官。競欲自拜。匪聞教義。靡率典章。措意屬心。唯利是視。巧弄憲法。漸汚皇化。如此之流。傷風乱俗。雖有周公之才。朕不足觀也。自今已後。更亦莫任。還却田園。令勤耕作。若有悔過自新。必加褒賞。迷塗不返。永須貶黜。普告遐邇教喩衆諸。」美作介從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂。不經官長。恣行國政。獨自在舘。以印公文。兼復不據時價。抑買民物。爲守正四位上紀朝臣飯麻呂所告失官。甲子。高野天皇及帝幸藥師寺礼佛。奏呉樂於庭。施綿一千屯。還幸授刀督從四位上藤原朝臣御楯第。宴飮。授御楯正四位上。其室從四位下。藤原惠美朝臣兒從正四位下。甲子。迎藤原河清使高元度等至自唐國。初元度奉使之日。取渤海道。隨賀正使揚方慶等。往於唐國。事畢欲歸。兵仗樣。甲冑一具。伐刀一口。槍一竿。矢二隻分付元度。又有内使。宣勅曰。特進秘書監藤原河清。今依使奏。欲遣歸朝。唯恐殘賊未平。道路多難。元度宜取南路先歸復命。即令中謁者謝時和押領元度等向蘇州。与刺史李岵平章。造船一隻長八丈。并差押水手官越州浦陽府折衝賞紫金魚袋沈惟岳等九人水手。越州浦陽府別將賜緑陸張什等卅人送元度等歸朝。於大宰府安置。己夘。以今良三百六十六人。編附左右京。大和。山背。伊勢。參河。下総等職國。辛巳晦。大秡。以齋内親王將向伊勢也。
九月乙酉。命婦從三位曾祢連伊賀牟志薨。 

八月一日に次のように勅されている・・・このごろ七道の巡察使の奏状をみると、全く一國の守も公平に叶った政治を実行している者がいない。密かに欲深く心の濁った人が多く、清廉潔白の官吏は少ないと思っている。朕が聞くところでは、賢くて事態に明るい者に官を授けるのでなければ、全ては悉く邪となり、優れた人材を任ずれば、多くの政務も悉く治まるという。國司というような職は、もっぱら人民の戸籍を自ら管理し、その風俗を良き方に奨め導き、人民を育み労わるものであり、特にくわしく人選して、必ず職務に叶う人物を任命すべきである。---≪続≫---

家にいても孝行せず、國に対しても忠心がなく、自己の利益のために非違を行い、財物を前にして恥を忘れ、上の者に交わるに礼を失し、下の者に対しては疑ってダメを出すことが多く、政治を行えば、慈しみの心がなく、民をひどく苦しめ、辺境の要地に派遣しようとすると、偽って病気が重い称し、権勢のある官に任じる場合には、競って自分から拝命しようとする。---≪続≫---

聖人の教えの本義を聞こうとはせず、法令に従おうともせず、気持ちを傾けて心にかけるのは、ただ利を見ることのみである。巧みに国家の法律を弄んで、次第に天皇の徳による政治を汚している。このような手合は、風俗を傷付け混乱させるものである。かりに周公のような才能があったとしても、朕は評価できない。今後、決して任じないようにせよ。田園に追い帰して、耕作に従事させよ。もし過ちを悔いて心を新たにすることがれば、必ず褒賞を加えるであろう。道に迷ったまま返らなければ、永久に官位を下し、退けよ。以上のことを広く遠近に告げて、人々に教え諭せ・・・。

また、この日に美作介の縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂。天平字[759]三年五月に任官)は、長官の許可を得ることなく、好きなように國の政治を行い、ひとり館にいて公文書に公印を捺し、その上また時価を基準としないで、民間の物資を強制的に買い上げていた。このため美作守の紀朝臣飯麻呂によって告発されて、官職を失っている。

十二日(?)に高野天皇と淳仁天皇とは、藥師寺に行幸し礼拝している。呉楽(伎楽)を庭で演奏させ、真綿一千屯を施入している。その後授刀督の藤原朝臣御楯(千尋)の邸宅にまわって酒宴を催し、「御楯」に正四位上、その妻の藤原恵美朝臣兒從(眞從に併記)に正四位下を授けている。

十二日に「藤原河清」(藤原朝臣清河)を迎える使の高元度等が唐國から帰国している。初め、「元度」が使命を奉じて出掛けた時、渤海を渡る道を経て、渤海國の賀正使の揚方慶等に随って唐國に往った。使命を果たして帰国しようとしていた時、唐國は兵器の見本として、甲冑一具・代刀一口・槍一竿・矢二隻を「元度」に分け授けている。

また、内使(皇帝から直接派遣される使)が皇帝の勅を宣して以下のように述べている・・・特進で秘書監の「藤原河清」は、いま使(高元度)の奏上によって、帰朝させようと思う。ただ討ち漏らした反乱軍が未だ平定されていないので、道路は困難が多いであろう。「元度」は南路を採って、先に帰国して復命せよ・・・。

そして、中謁者(内侍者所属の宦官)の謝時和に命じて、「元度」等を引き連れて蘇州に向かわせ、刺史(州の長官)の李岵と相談して、長さ八丈の船一隻を造り、押水手官(水手の監督官)として越州浦陽府の折衝(府の武官)で賞紫金魚袋(朝服の装飾で地位を示す)の沈惟岳(戸淨道に併記)等九人と水手として越州浦陽府の別将で賜緑の陸張什等三十人を指名して、「元度」等の帰朝を送らせている。一行を大宰府に安置している。

二十七日に今良(官戸・官奴婢から良民になった雑役夫)三百六十六人を、左右京・大和・山背・伊勢・参河・下総などの國で、京職や國の戸籍に登録し、公民としている。二十九日に大祓を行っている。齋内親王(井上内親王)が伊勢に出発しようとしていたためである。

九月四日に命婦の曾祢連伊賀牟志(五十日虫)が亡くなっている。

冬十月壬子朔。以從五位下菅生王爲少納言。從五位下紀朝臣牛養爲信部少輔。從五位下尾張王爲大監物。從五位下石川朝臣弟人爲玄番頭。從五位上粟田朝臣人成爲仁部大輔。從五位下榎井朝臣小祖父爲少輔。從五位下柿本朝臣市守爲主計頭。明法博士外從五位下山田連銀爲兼助。從五位下大伴宿祢東人爲武部少輔。從五位下石川朝臣人成爲節部大輔。外從五位下陽侯毘登玲珍爲漆部正。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲大膳亮。從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲木工助。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲大炊頭。從五位下大坂王爲正親正。從五位下布施王爲内染正。正五位下國中連公麻呂爲造東大寺次官。從五位下高圓朝臣廣世爲尾張守。從五位下山口忌寸沙弥麻呂爲甲斐守。從五位下高麗朝臣大山爲武藏介。外從五位下上毛野公牛養爲能登守。外從五位下蜜奚野爲越中員外介。從五位上長野連公足爲丹後守。正四位上文室眞人大市爲出雲守。從五位上甘南備眞人伊香爲美作介。從五位上豊野眞人出雲爲安藝守。從五位上縣犬養宿祢古麻呂爲筑後守。從五位下池田朝臣足繼爲豊後守。辛酉。遣從五位上上毛野公廣濱。外從五位下廣田連小床。六位已下官六人。造遣唐使船四隻於安藝國。仰東海。東山。北陸。山陰。山陽。南海等道諸國。貢牛角七千八百隻。初高元度自唐歸日。唐帝語之曰。屬祿山乱離。兵器多亡。今欲作弓。交要牛角。聞道。本國多有牛角。卿歸國。爲求使次相贈。故有此儲焉。壬戌。内舍人正八位上御方廣名等三人賜姓御方宿祢。又賜大師稻一百万束。三品船親王。池田親王各十万束。正三位石川朝臣年足。文室眞人淨三各四万束。二品井上内親王十万束。四品飛鳥田内親王。正三位縣犬養夫人。粟田女王。陽侯女王各四万束。以遷都保良也。甲子。行幸保良宮。庚午。幸近江按察使御楯第。轉幸大師第。宴飮賜從官物有差。極歡而罷。癸酉。以右虎賁衛督從四位下仲眞人石伴爲遣唐大使。上総守從五位上石上朝臣宅嗣爲副使。以武藏介從五位下高麗朝臣大山爲遣高麗使。又以從四位下藤原惠美朝臣朝獵爲仁部卿。陸奥出羽按察使如故。從四位下和氣王爲節部卿。從五位下藤原惠美朝臣辛加知爲左虎賁衛督。從四位下仲眞人石伴爲播磨守。己夘。詔曰。爲改作平城宮。暫移而御近江國保良宮。是以。國司史生已上供事者。并造宮使藤原朝臣田麻呂等。加賜位階。郡司者賜物。免當國百姓。及左右京。大和。和泉。山背等國今年田租。又自天平寳字五年十月六日昧爽已前近江國雜犯死罪已下。咸悉赦除。」授正四位上藤原朝臣御楯從三位。從五位下藤原朝臣田麻呂。巨曾倍朝臣難波麻呂。中臣丸連張弓並從五位上。正六位上椋垣忌寸吉麻呂。葛井連根主並外從五位下。是日。勅曰。朕有所思。議造北京。縁時事由。暫移遊覽此土。百姓頗勞差科。仁恕之襟。何無矜愍。宜割近都兩郡。永爲畿縣。停庸輸調。其數准京。

十月一日に以下の人事を行っている。菅生王を少納言、紀朝臣牛養を信部(中務)少輔、尾張王を大監物、石川朝臣弟人を玄番頭、粟田朝臣人成(馬養に併記)を仁部(民部)大輔、榎井朝臣小祖父を少輔、柿本朝臣市守を主計頭、明法博士の山田連銀(古麻呂に併記)を兼務で助、大伴宿祢東人を武部(兵部)少輔、石川朝臣人成を節部(大蔵)大輔、陽侯毘登玲珍(陽侯史玲珎)を漆部正、縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂)を大膳亮、忌部宿祢鳥麻呂を木工助、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を大炊頭、大坂王(出雲王に併記)を正親正、布施王(布勢王)を内染正、國中連公麻呂(國君麻呂)を造東大寺次官、高圓朝臣廣世(石川廣世)を尾張守、山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)を甲斐守、高麗朝臣大山(背奈大山、巨萬朝臣大山)を武藏介、上毛野公牛養(眞人に併記)を能登守、蜜奚野を越中員外介、長野連公足(山田史君足)を丹後守、文室眞人大市を出雲守、甘南備眞人伊香(伊香王)を美作介、豊野眞人出雲(出雲王)を安藝守、縣犬養宿祢古麻呂を筑後守、池田朝臣足繼を豊後守に任じている。

十日に上毛野公廣濱(田邊史廣濱)、廣田連小床(辛小床)及び六位以下の官人六人を派遣して、遣唐使の船四隻を安藝國で建造させている。東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海道の諸國に命じて、牛角七千八百隻を貢上させている。先に高元度が唐から帰える日、唐帝が「元度」に対し[この頃安禄山の乱によって、兵器を多く失った。今弓を作ろうとして、かわるがわる諸方に牛角を求めている。聞くところによれと、汝の本国には牛角がたくさんあるという。卿が帰ったなら朕のために牛角を求めて、使者を派遣するついでに贈れ]と語っている。そのためにこの備蓄がなされたのである。

十一日に内舎人の御方廣名(父親大野に併記)等三人に御方宿祢の氏姓を賜っている。また、大師(恵美押勝)に稲一百万束、船親王池田親王に各々十万束、石川朝臣年足文屋眞人淨三(智努王)に各々四万束、井上内親王に十万束、飛鳥田内親王縣犬養夫人(聖武夫人の廣刀自)・粟田女王陽侯女王(陽胡女王。鹽燒王に併記)は各々四万束を賜っている。都を保良宮に遷すためである。

十三日に「保良宮」に行幸されている。十九日に近江按察使督の御楯の邸宅に行幸している。その後移動して大師(恵美押勝)の邸宅に行幸し、酒宴を開き、付き従ってきた官人それぞれに物を賜っている。宴会は歓を尽くして終わっている。二十二日に右虎賁衛督(右兵衛督)の仲眞人石伴(石津王)を遣唐大使、上総守の石上朝臣宅嗣を副使、武藏介の高麗朝臣大山を遣高麗(渤海)使に任じている。また、藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)陸奥出羽按察使兼務で仁部(民部)卿、和氣王を節度(大蔵)卿、藤原惠美朝臣辛加知(薩雄に併記)を左虎賁衛督(左兵衛督)、仲眞人石伴を播磨守に任じている。

二十八日に次のように詔されている・・・平城宮を改作するために、しばらく近江國保良宮に移る。このために近江國司の史生以上で近江遷幸に奉仕する者、並びに造営使の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)等に位階を昇進させ、郡司には物を賜わる。その國の人民や、左右京・大和・和泉・山背などの國の今年の田租を免ずる。また、天平寶字五年十月二十八日の夜明け以前の近江國内の各種の犯罪人で、死罪以下の者は、悉く赦免せよ・・・。

この日、藤原朝臣御楯(千尋)に従三位、藤原朝臣田麻呂巨曾倍朝臣難波麻呂(陽麻呂に併記)・中臣丸連張弓に従五位上、「椋垣忌寸吉麻呂」・葛井連根主(惠文に併記)に外従五位下を授けている。

また、この日に次のように勅されている・・・朕は思うところがあって、北京(保良宮を中心とする京)を造ろうとしている。その事情からしばらく移って彼の地を遊覧してみると、人民が頗る課役の徴発に疲れている。慈しみ思いやりの心を持つ者が、どうしてこれを恵み憐れまないでおられようか。そこで都に近い二郡を永久に畿縣として、庸を停止して調を納めさせるようにする。調の納入数は平城宮に準じることとする・・・。

<椋垣忌寸吉麻呂>
● 椋垣忌寸吉麻呂

「椋垣」の名称は、文武天皇紀に登場した倉垣連子人の「倉垣」を示すと解釈して来た。その後に「掠垣」、更に「椋垣」と表記されている。「子人」が最後に従五位上に叙爵された元明天皇紀では「倉垣忌寸子首」となっている。

名称の変遷が激しく、些か戸惑わされるのだが、同一地形の別称であることには違いないようである。その一族から実に久々の登場と言ったところであろう。

現地名は行橋市矢留、矢留山の東麓であり、裏ノ谷池との間の地と推定される。この池の状態は推測するしか手段はないが、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に記載された”依網池”の場所と思われ、既に池として存在していたのであろう。

幾度か登場の吉麻呂吉=蓋+囗=蓋をするように囲んでいる様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。出自は、少々谷間の奥側かと推定される。書紀の天武天皇紀に登場した功臣、「倉墻麻呂」の末裔だったのであろうか。

十一月癸未。授迎藤原河清使外從五位下高元度從五位上。其録事羽栗翔者留河清所而不歸。丁酉。以從四位下藤原惠美朝臣朝狩爲東海道節度使。正五位下百濟朝臣足人。從五位上田中朝臣多太麻呂爲副。判官四人。録事四人。其所管遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。安房。上総。下総。常陸。上野。武藏。下野等十二國。検定船一百五十二隻。兵士一万五千七百人。子弟七十八人。水手七千五百廿人。數内二千四百人肥前國。二百人對馬嶋。從三位百濟王敬福爲南海道使。從五位上藤原朝臣田麻呂。從五位下小野朝臣石根爲副。判官四人。録事四人。紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。播磨。美作。備前。備中。備後。安藝。周防等十二國。検定船一百廿一隻。兵士一万二千五百人。子弟六十二人。水手四千九百廿人。正四位下吉備朝臣眞備爲西海道使。從五位上多治比眞人土作。佐伯宿祢美濃麻呂爲副。判官四人。録事四人。筑前。筑後。肥後。豊前。豊後。日向。大隅。薩摩等八國。検定船一百廿一隻。兵士一万二千五百人。子弟六十二人。水手四千九百廿人。皆免三年田租。悉赴弓馬。兼調習五行之陳。其所遺兵士者。便役造兵器。

十一月三日に「藤原河清」を迎える使の高元度に従五位上を授けている。その録事の「羽栗翔」は、「河清」のところに留まって帰らなかった。

十七日に藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)を東海道節度使、百濟朝臣足人田中朝臣多太麻呂を副、判官は四人、録事四人を任じている。その所管は遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・武藏・下野などの十二ヶ國である。任務として船百五十二隻・兵士一万五千七百人・子弟(郡司)七十八人・水手七千五百二十人を徴発して検問し、用意をすることである。但し、その数の内、二千四百人は肥前國、二百人は對馬嶋から召集している。

また、百濟王敬福()を南海道節度使、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)小野朝臣石根を副、判官四人、録事四人を任じている。所管は紀伊・阿波・讃岐・伊予・土左・播磨・美作・備前・備中・備後・安藝・周防などの十二ヶ國である。船百二十一隻。兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検閲して用意する。

また、吉備朝臣眞備を西海道節度使、多治比眞人土作(家主に併記)佐伯宿祢美濃麻呂を副、判官四人、録事四人を任じている。所管は筑前・筑後・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩などの八ヶ國である。船百に十一隻・兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検閲して用意する。兵士等はみな三年間の田租を免じて悉く弓馬の訓練をさせ、五行に拠る陣の立て方を訓練して習わせている。残った兵士は兵器の製造に使役させている。

<羽栗翔-吉麻呂-翼>
● 羽栗翔

「羽栗」の文字列は、古事記にたった一度、天押帶日子命に関して、膨大な数の祖の記述の一つに挙げられた羽栗臣に含まれ、その後歴史の表舞台に登場することはなかった。

續紀は、古事記の記述が荒唐無稽ではなく、その時代から連綿と人々の生業が継続されていたことを顕わにしているように思われる。

羽栗=栗の枝のように延びた山稜の端が羽のように広がっているところを表していると解釈した。尾張國、現在の北九州市小倉南区長野・横代に跨る地である。この地には、既に尾治連若子麻呂丹羽臣眞咋等が登場していたが、「羽栗」の中心地ではなく、末端に位置する場所と推定した。

彼の出自を調べると、父親の羽栗吉麻呂阿倍仲麻呂の従者として唐に渡り、留まって唐人との間に二人の息子、を授かったと知られている。その後の遣唐使に随って帰朝していたようである。そんな訳で、「翔」は母親の元に身を寄せたのかもしれない。兄の「翼」は、際立つ才能を有し、この後幾度か登場されるようである。

彼等の出自場所を「吉麻呂」のそれとして、図に示した。頻出の吉=蓋+囗=山稜が蓋をするように延びている様の地形を見出すことができる。国土地理院航空写真1961~9年を参照したが、現在は宅地開発及び高速道路によって大きく地形が変形している場所である。

十二月戊午。授正五位上藤原朝臣家兒從四位下。无位大伴宿祢諸刀自從五位下。丙寅。唐人外從五位下李元環賜姓李忌寸。

<大伴宿禰諸刀自-田麻呂>
十二月八日に藤原朝臣家兒(家子。百能に併記)に従四位下、「大伴宿祢諸刀自」に従五位下を授けている。十六日に唐人の李元環(春日酒殿に併記)に李忌寸の氏姓を賜っている。

● 大伴宿祢諸刀自

凄まじい数の大伴宿祢一族であるが、この人物の素性は、全く不詳のようである。名前を頼りにその出自場所を求めると、図に示した辺りのように思われる。

既出の文字列である諸刀自=耕地が交差するように延びた先に山稜の端が刀の地形をしているところと読み解ける。「刀自」を敬称などと解釈しては、勿体ないであろう。續紀中に再登場はなく、確かめようもないが、馬來田・吹負の一族の女性だったのではなかろうか。

直後に大伴宿祢田麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく素性知れず、「諸刀自」の地形を眺めていると、図に示した場所が麻呂=萬呂として、それらしき地形のように思われる。この後幾度か地方官に任じられたようであるが、一度爵位剥奪の憂き目に合われた、と記載されている。

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『續日本紀』巻廿三巻尾


2022年11月23日水曜日

廢帝:淳仁天皇(10) 〔614〕

廢帝:淳仁天皇(10)


天平字五年(西暦761年)三月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。

三月丙戌朔。乾政官奏曰。外六位已下。不在蔭親之限。由此。諸國郡司承家者。已無官路。潜抱憂嗟。朝議平章。別許少領已上嫡子出身。遂使堂構無墜。永世繼宗。但貢兵衛者更不得重。奏可。乙未。參議正四位下安倍朝臣嶋麻呂卒。藤原朝右大臣從二位御主人之孫。奈良朝中納言從三位廣庭之子也。庚子。百濟人余民善女等四人賜姓百濟公。韓遠智等四人中山連。王國嶋等五人楊津連。甘良東人等三人清篠連。刀利甲斐麻呂等七人丘上連。戸淨道等四人松井連。憶頼子老等卌一人石野連。竹志麻呂等四人坂原連。生河内等二人清湍連。面得敬等四人春野連。高牛養等八人淨野造。卓杲智等二人御池造。延尓豊成等四人長沼造。伊志麻呂福地造。陽麻呂高代造。烏那龍神水雄造。科野友麻呂等二人清田造。斯﨟國足二人清海造。佐魯牛養等三人小川造。王寳受等四人楊津造。荅他伊奈麻呂等五人中野造。調阿氣麻呂等廿人豊田造。高麗人達沙仁徳等二人朝日連。上部王虫麻呂豊原連。前部高文信福當連。前部白公等六人御坂連。後部王安成等二人高里連。後部高呉野大井連。上部王弥夜大理等十人豊原造。前部選理等三人柿井造。上部君足等二人雄坂造。前部安人御坂造。新羅人新良木舍姓縣麻呂等七人清住造。須布呂比滿麻呂等十三人狩高造。漢人伯徳廣足等六人雲梯連。伯徳諸足等二人雲梯造。甲辰。京戸百姓規避課役。浮宕外國。習而爲常。其數實繁。各在所占著。給其口田。丁未。以外從五位下宍人朝臣和麻呂爲佐渡守。戊申。賜從六位下大神東女等十六人播磨國稻人六百束。優高年也。己酉。葦原王坐以刄殺人。賜姓龍田眞人。流多褹嶋。男女六人復令相隨。葦原王者。三品忍壁親王之孫。從四位下山前王之男。天性凶惡。喜遊酒肆。時与御使連麻呂。博飮忽發怒。刺殺屠其股完。便置胸上而膾之。及他罪状明白。有司奏請其罪。帝以宗室之故。不忍致法。仍除王名配流。

三月一日に乾政官(太政官)が以下のように奏上している・・・外六位以下の者は、蔭位の適用を受ける範囲に入っていない。このため諸國の郡司の家を嗣ぐ者は、官人として出仕する道がなく、密かに憂い嘆く気持ちを抱いている。朝廷で審議した結果、特別に少領以上の嫡子が官人として仕えることを許可し、かくて父の業が失うことなく、永世にわたって宗家を継がせるようにさせたいと思う。但し、既に兵衛を貢上している場合は、さらに重ねて適用しないようにする・・・。奏上の通りに許可されている。

十日に参議の「安倍朝臣嶋麻呂」(阿倍朝臣)が亡くなっている。藤原朝(文武天皇)の右大臣の「御主人」の孫で、奈良朝(聖武天皇)の中納言であった「廣庭」の子であった(こちら参照)。

十五日に、百濟人の「余民善女」等四人に百濟公、「韓遠智」等四人に中山連、「王國嶋」等五人に楊津連、「甘良東人」等三人に清篠連、「刀利甲斐麻呂」等七人に丘上連、「戸淨道」等四人に松井連、「憶頼子老」等四十一人に石野連、「竹志麻呂」等四人に坂原連、「生河内」等二人に清湍連、「面得敬」等四人に春野連、「高牛養」等八人に淨野造、「卓杲智」等二人に御池造、「延尓豊成」等四人に長沼造、「伊志麻呂」に福地造、「陽麻呂」に高代造、「烏那龍神」に水雄造、「科野友麻呂」等二人に清田造、「斯﨟國足」二人に清海造、「佐魯牛養」等三人に小川造、「王寳受」等四人に楊津造、「荅他伊奈麻呂」等五人に中野造、「調阿氣麻呂」等廿人に豊田造、高麗人の「達沙仁徳」等二人に朝日連、「上部王虫麻呂」に豊原連、「前部高文信」に福當連、「前部白公」等六人に御坂連、「後部王安成」等二人に高里連、「後部高呉野」に大井連、「上部王弥夜大理」等十人に豊原造、「前部選理」等三人に柿井造、「上部君足」等二人に雄坂造、「前部安人」に御坂造、新羅人の「新良木舍姓縣麻呂」等七人に清住造。「須布呂比滿麻呂」等十三人に狩高造、漢人の伯徳廣足等六人に雲梯連、伯徳諸足等二人に雲梯造を賜っている。

十九日に京戸の百姓は、巧みに課役を忌避して畿外の國に浮浪し、それに慣れて、常態としており、その数は実に多い。そこでそれぞれの所在地に定着させて、口分田を支給している。二十二日に宍人朝臣和麻呂(倭麻呂)を佐渡守に任じている。二十三日に大神東女(宅女・杜女に併記)等十六人に播磨國の稲をそれぞれ六百束賜っている。高齢者を優遇するためである。

二十四日、「葦原王」は、刃物で人を殺した罪によって「龍田眞人」の氏姓を賜って、多褹嶋(多禰)に流罪とされ、息子と娘の六人も随行させている。「葦原王」は、「刑部親王」(忍壁親王)の孫で、山前王の子である。天性凶悪で酒屋で遊ぶことを喜んだ。ある時、御使連麻呂(三使連人麻呂に併記)と賭けをしながら酒を飲んでいて、たちまち怒りだし、「麻呂」を刺殺してその太股の肉を切り裂き、そのまま胸の上で膾(なます)にした。他の罪状も明白であり、所管官庁は奏上して罪を決するよう申請している。天皇は皇族の一員であるため、法の通りに処罰するに忍びず、王の名を除いて流罪に処している。

<余民善女・百濟公秋麻呂>
● 余民善女(百濟公)

陰陽に長じた「余」一族は、元正天皇紀以来多くの人物が登場している。直近では、「余秦勝」の子の「益人」や「東人」に百濟朝臣氏姓を賜ったと記載されている(こちら参照)。

その少し前に余足人が陸奥國小田郡での金発掘に絡んで従五位下を叙爵され、その後に「百濟朝臣足人」と表記されて従五位上を授けられている。

彼等の居処は、現地名の田川郡苅田町新津・小波瀬・与原に跨る地域に蔓延っていたと推定した。「与原」の「与」は、残存地名であろう、と憶測したことが思い起こされる。

余民善女の「民」は、天武天皇紀に記載された民直(後に忌寸)氏姓に含まれていた。「民」の地形象形は、その古文字形(上図参照)に基づくと解釈した。それに類似する地形を二先山の北西麓に見出すことができる。「義仁」の北側の谷間となる。

後(称徳天皇紀)に百濟公秋麻呂が外従五位下を叙爵されて登場する。「善女等四人」に含まれていたのであろう。幾度か用いられて来た秋=禾+火=山稜が[火]の形に延びている様と解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。「義仁」と谷間を分け合うような配置となっている。

<韓遠智(中山連)>
<上部王蟲麻呂(豐原連)-彌夜大理(豐原造)>
<上部君足(雄坂造)>
既出の善=羊+言+言=山稜に挟まれた地に二筋の耕地にされた谷間が延びているところと解釈したが、その麓が出自と推定される。

頻出の「膳臣」(後の高橋朝臣)の文字要素でもある。賜ったのは百濟公の氏姓と記載されている。「義仁・足人」等とは同祖だが別の系列だったのであろう。

● 韓遠智(中山連)

関連する情報は皆無であり、唯一の手掛かりは賜った中山連の「中山」であろう。この文字列は、孝謙天皇紀に中山寺が雷火で全焼したと記載されていた。

韓=取り囲まれた様遠智=なだらかに山稜の端が延びて[鏃]と[炎]の形の地があるところと読むと、図に示した場所が見出せる。薩妙觀(河上忌寸)、後には川上忌寸宮主等の北に接する場所と推定される。

● 上部王虫麻呂(豊原連)-弥夜大理(豊原造)・上部君足(雄坂造)

「上部」は、前出の上部眞善・上部乙麻呂(妻:大辛刀自賣)に含まれていた。「上宮之廐戸豐聰耳命」の「上宮」に関わる名称と推察した。この地には多産で褒賞された右京人素性仁斯の居処と推定したように、渡来系と思しき人物が多数住まっていたことが伺える。

上部王虫麻呂の出自場所は、頻出の虫(蟲)=山稜の端が三つに細かく岐れて延びている様であり、図に示した辺りを示していると思われる。平らな地が段々になっていることから豐原連の名称を与えたのであろう。上部王彌夜大理は、既出の文字を並べたてたような名前であって、彌夜=谷間(夜)が弓なりに広がっている(彌)ところ大理=平らな頂の山稜と区分けされているところと解釈される。

図に示したように谷間の奥から大きく広がった地形を表していることが解る。豐原造の氏姓は、「虫麻呂」と同様の地形の基づくものと思われる。上部君足君足=小高くなった地が足のような形をしているところと解釈され、図に示した山稜の端辺りが出自と推定される。

<甘良東人(淸篠連)>
賜った雄坂造雄坂=山稜が羽を広げた鳥のような形(雄)をして麓に手のように延びている(坂)ところと読み解ける。周辺の地形に、極めて忠実な表記であることが解る。

● 甘良東人(清篠連)

元明天皇紀の和銅四(711)年三月に「割上野國甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡」と記載されていた(こちら参照)。

勿論、郡名であろうが人名であろうが、地形に基づく表記である。流石に郡名である以上、甘良=舌を出したような地がなだらかになっているところが幾つか見られるが、今回は東人=谷間を突き通すようなところが加わって、図に示した場所がこの人物の出自と定めることができる。

賜った清篠連清(淸)篠=水辺で四角く囲まれた地の傍に連なって延びる山稜があるところと解釈される。正にその場所を表していることが解る。尚、この地の名称を氏名に用いていた人物に多胡古麻呂が登場していた。渡来人にとって倭風の名前にする一つの方法だったのであろう。

<刀利甲斐麻呂(丘上連)・岡上連綱>
● 刀利甲斐麻呂(丘上連)

「刀利」の氏名を持つ人物は、元明天皇紀に康嗣・宣令の二名が登場していた。續紀は詳しく語ることはないが、共に大学博士の称号で、漢語に堪能な人物だったようである。

「宣令」が伊豫掾の役職に就いていたことから、伊豫國宇和郡の地に居処があったと推察した。現地名は北九州市若松区小竹である。

甲斐麻呂の甲斐=(亀の)甲羅のような山の傍らで谷間が斜めに交わるように延びているところと解釈すると図に示した場所の地形を表していることが解る。出自の場所は、その谷間の上、麻呂=萬呂が示す場所と推定される。地形的には極めて明瞭な場所であり、「甲斐」の表記によって確度の高い結果になったと思われる。賜った丘上連の「丘上」は、見たまんまの表記であろう。

情報が少ないながらも、三名の名前のよって渡来人「刀利」の居処を突き止められたと思われる。残念ながら續紀にはこれ以上の人物の登場はなく、「丘上連」が記載されることもないようである。

・・・と思われたが、後(光仁天皇紀)に岡上連綱が外従五位下を叙爵されて登場する。綱=糸+岡=山稜が細く筋張って延びている様と解釈するが、その地形を、その上に見出せる。「丘」を「岡」に換えているが、正に地形象形表記が忠実に行われていることが解る。彫の深い地形、また、時代の変遷が極少の場所故に彼等の出自場所を明瞭に求めることができたようである。

<戸淨道(松井連)>
<斯﨟國足-行麻呂(清海造)>
<沈惟岳(清海宿祢)>
● 戸淨道(松井連)・斯﨟國足(清海造)

前記で戸淨山戸憶志の二名が登場していた。後者は百濟の昆支王の子孫と言う立派な家柄と知られていて、「淨道」もその系列かと思う間もなく、前者に関わる人物であることが分かった。

賜った「松井連」を續紀中で調べると、後に「松井連淨山」が幾度か登場している。ここまで明らかならば、素直に「淨道」の系譜を記載してくれてもいいのでは、と愚痴るところである。

それは兎も角として、左京人の「淨山」の近隣の地形を調べると、淨道=両腕のような山稜が取り囲んでいる地の麓にある首の付け根のようなところが見出せる。「戸」と「淨」の間にある谷間である。

松井連松井=谷間に区切られた地がある麓に四角く囲まれたところと読むと、「淨」を含めての別表記であることが解る。「淨山」は陸奥國小田郡で産出した金鉱石の冶金を行ったと記載され、後に内匠助兼下総大掾に任じられている。

斯﨟國足についても後の記述で左京人であったことが分かった。それならそれと・・・やはり愚痴っぽくなるところである。地形象形した名前として「斯」=「其+斤」=「切り分けられている様」と解釈した。初見の「﨟」=「艸+月+曷」と分解する。地形象形的には「﨟」=「山稜の端で閉じ込められたような様」と解釈する。

纏めると斯﨟=山稜の端で閉じ込められたような地が切り分けられているところと読み解ける。「戸淨山」の北に接する場所の地形を表していることが解る。國足=囲まれた地で山稜が足の形をしているところと読むと図に示した場所が出自と推定される。

賜った清海造清(淸)海=母が両腕で抱えるように山稜が延びた水辺の地で四角く囲まれたところと読み解ける。「﨟」の地形を平易な文字で書換えた表記であろう。後(光仁天皇紀)に登場するのは﨟行麻呂と記載される。「國足」の西隣と思われる。行=真っ直ぐに横に山稜が延びている様と解釈する。

この後直ぐに、迎入唐大使使(藤原朝臣清河を迎える使者)に任じられた高元度の送使として登場する唐人の沈惟岳は、後(光仁天皇紀)に帰化して清海宿祢の氏姓を賜ったと記載されている。おそらく「行麻呂」の南隣の場所を与えられたのではなかろうか。

<憶賴子老-憶禮福留>
● 憶頼子老(石野連)

書紀の天智天皇紀に百濟からの亡命者の一人に「憶禮福留」がいた。兵法に優れ、筑紫國大野城椽城の築城に関わったと伝えている。

「憶禮」は「憶賴」とも表記されたようだが、亡命時の名前であって、勿論、百濟國における何処かの地形を象形したものであろうが、定住した場所の特定には至らなかった。

今回の「石野連」の氏姓を賜ったことから、一気に彼等の居処を突き止めることが可能となったと思われる。では、「石野」の場所は?…天武天皇紀に平石野が記述されている。現地名では京都郡みやこ町勝山長川・箕田の境辺りと推定した。

『壬申の乱』の一場面で、天武軍の一部隊(吹負将軍配下)が龍田(龍田立野)に赴き、その先の峠(現在の味見峠)を封鎖しようと「平石野」に差掛った時に耳よりの情報を得て行き先を変更した場所である。

憶禮福留の「憶」について、この地は古事記の意富多多泥古に含まれる「意富」の地形を示す場所である。偶々に「意」で繋がった、と言うよりも、本来の出自の地形に限りなく類似する場所を亡命者に与えたのであろう。即ち、憶禮=意富にある高台が揃って並んでいるところと解釈される。福留=酒樽のような高台が谷間から延び出ているところと読め、図に示した場所がこの人物の居処であったことが推定される。

憶頼子老に含まれる子老=生え出た山稜が海老のように曲がって延びているところであり、”福=酒樽”の先の山稜の形を表していることが解る。「賴」に変えたのは、賴=束+刀+貝=谷間にある束になった山稜を切り分ける様と読み解くと、「福+子老」の山稜が図にように剥がれた様を表していると解釈される。「禮」の表記では「子老」にとって具合が悪かった、のかもしれない。目出度く、石野連の氏姓を賜ったのである。

また、この地は三嶋眞人の氏姓を賜った臣籍降下の王等が多数住まっていた地域である。何故か、この特徴的な山稜(現在の扇八幡神社が鎮座)に関わる名前が登場していなかった。漸くにして納得の理由が得られたようである。

天智天皇紀の百濟からの亡命者に答㶱春初も含まれていた。この人物も兵法に長けていたようで築城に駆り出されている。そして倭國における居処は、「答㶱春初」の地形象形表記の場所と推定した。上記と同様の扱いだったのであろう。

<竹志麻呂(坂原連)>
● 竹志麻呂(坂原連)

情報の極めて少ない人物のようであるが、調べると正倉院文書に「竹志淨道年廿摂津職百済郡南部郷戸主正六位下竹志麻呂戸口」と記載されていることが分かった。

攝津國百濟郡に居処を構えていたのであるが、「百濟郡」そのものが初見である。續紀中でかなり後に記載されることが分かり、詳細はその時に述べるとして、百濟=小高い地が連なった三つの山稜が揃って並んでいるところと解釈した。その地形を有する地でこの人物の出自を求めてみよう。

現地名の行橋市南泉は、既に山稜が延びて標高差が少なくなり、地形の見極めが難しくなっているが、図に示した場所にその地形を見出せる。その山稜の先は、古事記の難波之堀江、また四天王寺於難波荒陵に届くところである。

竹志麻呂の出自は、竹志=竹のように延びた山稜の傍らを川が蛇行して流れているところと解釈される。麻呂=萬呂として求めた場所である。賜った坂原連坂原=盛り上がった大地から手のような山稜が延びた麓で平らに広がったところと読み解ける。背後の地形を表した名称であろう。息子の淨道は、父親の南隣と推定されるが、詳細は省略する。残念ながら、「竹志」、「坂原連」などの文字列は、この後續紀に記載されることはないようである。

<生河内(清湍連)・面得敬(春野連)
● 生河内(清湍連)・面得敬(春野連)

両者共に殆ど情報がない状況である。名前の含まれる「生」及び「面」の一文字で氏名を表すのも希少であり、過去に類似の例がないようである。

おそらく、それらの文字が示す地形がその地において極めて特徴的であることに基づくのであろう。「生」=「生え出る様」と解釈して来たが、改めて「生」=「屮(草)+土」と分解する。気付かされるのは、「屮」の地形象形表記、即ち、生=山稜が[屮]のように延びている様と解いてみる。

すると前出の「河内國更荒郡」と記載された地の山稜の形を表していることが解る。書紀の持統天皇紀に「刑部造韓國」が献上した「白山鶏」の地である(こちら参照)。生河内の「河内」は河内國を示すのではなく、河内=谷間の出口に入ったところと読む。

賜った清(淸)湍連湍=氵+山+而=川が山からしなやかに曲がって流れている様と解釈して、淸=水辺で囲まれた様の地形を示す場所がこの人物の出自と推定される。「白山鶏」の「山から流れる川」を「湍」で表現したのであろう。後に湍連雷が登場する。雷(靁)=雨+畾=丸く小高い地が三つ並んでいる様と解釈される。古事記の建御雷之男神等に用いられた文字である。図に示した場所が出自と思われる。

面得敬面=平らに広がった様であるが、一見平凡な地形のようではあるが、これも図に示した場所に見出せる。書紀の斉明天皇紀に近江之平浦と記載された地である。得=彳+貝+寸(又)=手を延ばして開いた隙間ような様敬=茍+攴=角のような地が岐れた様と解釈すると、「面」から延び出た山稜の形を表していると思われる。賜った春野連春=艸+屯+日=[炎]のように延びた山稜が寄り集まっている様と解釈される。別表記として妥当なものであろう。

河内國志紀郡及びその周辺には、多くの人物が、大半が渡来系だが、登場していた。彼等の配置を併せて図に示した。倭建命の白鳥御陵など、多くの天皇陵が造られた時代とは隔世の思いである。

<高牛養(淨野造)・伊志麻呂(福地造)>
● 高牛養(淨野造)・伊志麻呂(福地造)

「高」故に高麗系かと思いきや、百濟人と記載され、名前は、全くの倭風、と言うか、頻繁に登場する名称である。記述の流れからも河内國内が居処と推測して探索することにする。

高=皺が寄ったように山稜が延びている様牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところとすると、図に示した場所が見出せる。

河内國交野郡に属し、現在の行橋市にある幸ノ山の南麓である。賜った淨野造淨=水+爪+ノ+又=水辺で両腕のような山稜が取り囲んでいる様は、牛の頭部の前を表した表記であろう。

伊志麻呂伊志=谷間に区切られた山稜の傍らを川が蛇行して流れているところと読み解ける。これだけでは特定に至らないのであるが、賜った福地造が決め手となったようである。「福(福)」=「示+畐」=「高台が酒樽のような様」、「地」=「土+也」=「盛り上がった地が曲がって延びている様」と解釈する。どうやら、渡来人達の文字使いは、地形象形表記の原点に戻っている感じのようである。

纏めると福地=盛り上がった高台が酒樽のような形をして曲がって延びているところと読み解ける。古事記の神功皇后の狹城楯列陵があったと推定した山稜を示していることが解る。麻呂=萬呂と解釈して、出自の場所を図に示した。

● 卓杲智(御池造)・延尓豊成(長沼造)・陽麻呂(高代造)

<卓杲智(御池造)・延爾豐成(長沼造)>
<陽麻呂(高代造)>
上記の人物等と同様に関連する情報は皆無であり、續紀での登場も初見で最後の有様である。と言うことで、引き続き河内國内を探索する。

卓杲智の地名・人名に用いられることが殆どない卓=早+人=抜きんでる様杲=日+木=明らかに高い様と解釈すると、現在の観音山を表しているように思われる。

頻出の智=矢+口+日=鏃のような地の傍らに[炎]のような地があるところと解釈した。観音山の北西麓に出自の場所を求めることができる。

賜った御池造御池=曲がりくねって流れる川を束ねたところと読むと、その麓の地形を表していることが解る。

延尓豊成の既出の文字列である尓(爾)=山稜が延びて広がったところと解釈される。頻繁に名前に用いられる豊(豐)成=段差がある高台が平らに整えられているところとすると図に示した場所が出自と推定される。賜った長沼造長沼=長く延びる腕を曲げたような水辺があるところと読み解ける。高台の傍らの地に着目した表記であろう。

陽麻呂の何度か記載された陽=山稜が太陽のように丸く高くなっている様と解釈した。麻呂=萬呂(萬は省略)とすると、図に示した辺りが出自と推定される。賜った高代造高代=皺が寄ったような谷間にある[杙]の形の山稜が延びているところと読めて、「陽」の隣の山稜を表したものと思われる。

河内國若江郡と記載された地であるが、それほど多くの登場人物は見当たらずの地であった。がしかし、空白の地域ではなく、表舞台に登場することはないが、渡来人等が開拓して来た山間の場所だったのであろう。

● 烏那龍神(水雄造)・科野友麻呂(清田造)・調阿氣麻呂(豊田造)

<烏那龍神(水雄造)・科野友麻呂(清田造)>
<調阿氣麻呂(豊田造)>
上記と同様に名前及び賜った氏姓を頼りに河内國にあった彼等の出自場所を求めてみよう。更に西へと進むことになる。

烏那龍神に含まれる「龍」が注目される。上記の憶頼子老(石野連)で述べた書紀の天武天皇紀に記載された龍田立野である。

その龍の頭部を捉えて烏那=[烏]のような山稜がしなやかに曲がって延びたところ龍神=[龍]の頭部のような高台が延びているところと読み解ける。

賜った水雄造にも頻出の雄=厷+隹=羽を広げた鳥のような様と解釈される。何とも動物の姿を捩った名称のオンパレードと言った有様であろう。長峡川、矢山川に挟まれた水に溢れる地でもある。水雄の由来であろう。現地名は京都郡みやこ町勝山岩熊である。

科野友麻呂に含まれるよく知られた科野=山稜が段々になった麓に野があるところと解釈するが、それらしきところが散見されるようで、一には特定されない。名前の友麻呂友=又+又=山稜が二つ並んで延びている様であり、図に示した場所が求められる。現地名は京都郡みやこ町勝山矢山である。

賜った清田造の頻出の清(淸)=水辺で四角く区切られた様から、「友」の山稜の端辺りの地形を表していることが解る。関連情報を漁っていると、この人物の名前から信濃國にも渡来人が住まっていたなどと述べている方がおられるが、混迷の闇に入り込むばかりであろう。

調阿氣麻呂に含まれる文字列を一文字一文字読み解くと、調=言+周=耕地で周りが取り囲まれている様阿=阝+可=台地になっている様氣=しなやかに曲がって延びている様である。この地形要素が寄り集まった場所を求めると、図に示したところが見出せる。出自の場所は些か不鮮明ではあるが。現地名は京都郡勝山浦河内である。

賜った豊田造の頻出の豊(豐)田=高台に段差がある地が平らに整えられているところであり、取り巻く耕地の様子を表しているのであろう。珍しく後に豊田造信女が登場する。最終内位の従五位下に叙爵されたようである。信=人+言=谷間が耕地になっている様であり、近隣に住まっていたのであろう。

● 佐魯牛養(小川造)・王國嶋(楊津連)・王寳受(楊津造)・荅他伊奈麻呂(中野造)

<佐魯牛養(小川造)>
<王寳受(楊津造)・王國嶋(楊津連)>
<荅他伊奈麻呂(中野造)>
上記と同様に名前を頼りに河内國内を探索する。佐魯牛養佐魯=谷間にある左手の形をした山稜の麓に魚のような地があるところと解釈される。

頻出の牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところと読んだ。「魚」を図に示した形と見做すと、上図の「科野友麻呂」のもう少し北側、谷奥に見出せる。

賜った小川造の「小川」は、小さい川ではなく、小川=魚の頭部の三角に沿って流れている川と読み解ける。出自の場所は、矢山川辺ではなく、小高いところであったと推定される。

王寳受に含まれる文字列の「寶受」を如何に解釈するかであろう。既出の通りに訳すと寶受=谷間に[管]と[玉]のような形の山稜(寶)が窪んだ地に寄り集まっている(受)ところとなる。ややこしいように思われるが、実にそのものの地形を、上図の「龍田立野」の谷奥に確認することができる。

王國嶋國嶋=囲まれた地が[鳥]のような形をしているところと解釈すると図に示した山稜の端辺りを出自としていたのであろう。彼等が賜った楊津造楊津連楊津=細かく岐れた山稜(楊)の端が水辺で集まった(津)ところと解釈すると、背後の山稜の形を表していることが解る。

荅他伊奈麻呂の「荅他」の解釈については、既出である「荅」=「艸+合」=「山稜が蓋をするように被さっている様」、「他」=「人+也」=谷間が曲がりくねっている様」と解釈した。合わせると荅他=山稜が曲がりくねっている谷間に蓋をするように被さっているところと読み解ける。図に示した谷間の最奥部に当たる場所である。賜った中野造中野=野が真ん中を突き通すようになっているところと読むと、難しい文字を平易に置き換えた、のであろう。

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多くの百濟人の出自を求めたが、天智天皇紀に上記の「余」の居処である近江國に移住させたと記載されていた。大半を河内國に求めたが、近江國蒲生郡とすることもあり得たかもしれない。関連する他の情報を今後に期待するしか、目下のところは手がないようである。

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<達沙仁徳-牛養(朝日連→嶋野連)>
● 達沙仁徳(朝日連)

本文の記述が高麗からの渡来人に進む。前記で彼等を集めて武藏國に移住させたとあり、現地名の北九州市小倉南区沼周辺に居処を求めることになる・・・と早合点しそうになるが、直後に彼等は河内國志紀郡の住人と記載される。

達沙仁徳は、既出の一文字一文字を読み解いてみると、「達」=「辶+大+羊」=平らな頂の山稜が谷間に延びている様」、頻出の「沙」=「氵+少」=「水辺で山稜の端が平たく尖っている様」、「仁」=「人+二」=「谷間が二つ並んでいる様」、「德」=「彳+直+心」=「四角く取り囲まれた様」となる。

簡単に表現すると達沙仁徳=谷間に平らで先が尖った山稜が延びて谷間に挟まれた四角く取り囲まれたところと読み解ける。極めて特徴的な地形であり、図に示した場所を表していることが解る。上記の生河内(清湍連)・面得敬(春野連)に挟まれた地である。賜った朝日連は、「達沙」が生え出る元の山稜の地形を述べていると思われる。朝=谷間に挟まれた丸く小高い様日=炎のように延び出ている様である。

後に嶋野連に改姓したと記載されている。「朝日」の地形を嶋=山+鳥=山稜が鳥の形をしている様に置換えたのである。真っ当な表記であるが、より適切であろう。もう一人の人物名が達沙牛養と記されている。頻出の牛養=牛の頭部のような山稜に挟まれた谷間がなだらかに延びているところでと推定される。

<前部高文信(福當連)・前部白公(御坂連)>
● 前部高文信(福當連)・前部白公(御坂連)

彼らは、間違いなく武藏國に居処を構えた人物であろう。既に高麗朝臣の氏姓を賜った一族もあるが、一挙に詳細な配置が明らかにされることが期待される。

既出の例では、高金藏等前部寶公等、直近では高麗使主馬養・淨日(多可連)の出自場所を求めた。

前部高文信文信=谷間の耕地が交差するように並んでいるところと解釈すると、図に示した場所が出自と推定される。賜った福(福)當連の福當=酒樽のような高台が同じような形して寄せ合わされているところと読み解ける。この二文字は、極めて頻度高く用いられている。「當」の解釈ができなければ”當麻”の由来は意味不明となろう。

前部白公白公=谷間に区切られた地(小高い山稜)が並んでくっ付いているところである。図に示した場所がその地形を示していると思われる。賜った御坂連御坂=盛り上がった地の麓で手のように延びている山稜を束ねたところと解釈される。同一地形の別表記として申し分なしであろう。以上の三名は武藏國秩父郡を居処としていたと思われる。

<前部安人(御坂造)・前部選理(柿井造)>
<前部虫麻呂(廣篠連)>
● 前部選理(柿井造)・前部安人(御坂造)

「前部」は、聖武天皇紀に篤農家の前部寶公・久米舎人妹女の夫婦が叙爵されて登場していた。彼等渡来人達によって発展途上の武藏國の様子を伝えているのであろう。

前部選理の「選」は、名前に用いられた例は少ないが、勿論、地形象形として取り扱うことができる文字である。「選」=「辶+巽」と分解される。地形象形的には「巽」=「台地の上に二つの小高い地がある様」と解釈される。

選理=台地の上にある二つの小高い地が区分けされているところと読み解ける。図に示した場所を表してる。賜った柿井造柿井=山稜が寄せ集められ四角く囲まれたところとすると、「選理」の別表記となっていることが解る。

前部安人安人=嫋やかに曲がって延びる谷間の傍らで「人」の形をしたところと解釈すると、出自の場所を求めることができる。賜った御坂造の「御坂」は上記の「御坂連」に繋がる地形であることによるのであろう。

後(称徳天皇紀)に前部虫麻呂廣篠連の氏姓を賜ったと記載される。左京に住んでいるが故に賜氏姓が遅れたのかもしれない。頻出の虫(蟲)=山稜の端が細かく三つに岐れているいる様と解釈したが、その地形を二人の間で見出すことができる。賜った「廣篠連」の廣篠=筋状に延びる山稜の前が広がっているところと解釈すると、「虫麻呂」の出自場所の地形を表していることが解る。

<後部王安成(高里連)・後部高呉野(大井連)>
● 後部王安成(高里連)・後部高呉野(大井連)

高麗の「前部」に続いて「後部」からの渡来人を住まわせた地であろう。孝謙天皇紀に後部高笠麻呂が外従五位下を叙爵されていた。淳仁天皇紀になって高松連笠麻呂が備後介に任じられているが、高松連を賜ったと推測した。

後部王安成安成=嫋やかに曲がる谷間に平らになった地があるところと解釈すると、図に示した場所が見出せる。賜った高里連里=平らに整えられた様を表し、類似の地形を示している。

後部高呉野の既出の呉=夨+囗=交差するような様と解釈した。現在は大きな溜池(小倉池)となって当時の地形を確認することは叶わないが、多分、図に示した二つの山稜が延びて出くわした辺りを表してるのではなかろうか。国土地理院航空写真1961~9年でも既に池となっているようである。賜った大井連もそれらしき名称と思われる。

● 新良木舍姓縣麻呂-前麻呂(清住造)・須布呂比滿麻呂(狩高造)

<新良木舍姓縣麻呂・前麻呂(清住造)>
<須布呂比滿麻呂(狩高造)>
本紀になって高麗と同様に新羅からの帰化人を武藏國に移住させ、新羅郡を設置したと記載されている。その場所は”閑地”とされることから高麗郡の東側、埼玉郡の北側の谷間を推定した。

新良木舍姓縣麻呂の「新良木」(シラギ)と読めるが、新良木=切り分けられた山稜がなだらかに延びているところと解釈される。「羅」(連なる様)で幾重にも重なった地形を表しているが、この地には相応しくないと思ったのであろう。

「舎姓」は、名前に用いられることは殆どないのだが、舎姓=山稜が延びた先(舎)で嫋やかに曲がる地(姓)が生え出ているところと読み解ける。図に示したような地形を忠実に表現したものと思われる。

縣麻呂の頻出の縣=山稜が首をぶら下げたようになっている様であり、「舎姓」の地の別表記であろう。賜った清住造淸住=水辺で四角く区切られた地(淸)が谷間で真っ直ぐに延びる山稜(住)の傍らにあるところと解釈される。

一見、羅列された文字列のように思われるが、地形に忠実な表記であることが解る。後に清住造前麻呂が登場する。出自は図に示した辺りと推定される。

須布呂比滿麻呂も羅列された文字列からなるようであるが、須布呂=三角州(須)が積み重ねた(呂)布のように広がっている(布)ところと解釈される。比満=水辺で広がった地が並んでいるところと読み解ける。谷間の中央付近が出自だったことを表しているのであろう。賜った狩高造狩高=皺が寄ったような山稜の前に肘を張ったような平らな山稜があるところと読み解ける。

上記でも述べたように新羅人の移住先は”閑地”である。当初は現在の衣料田池辺りに閉じ込められたのかと思われたが、しっかりと居住域を拡大していたことを伝えている。残された荒野の開拓、天皇家の思惑通りだったのであろう。

<伯徳廣足-廣道(雲梯連)・伯徳諸足(雲梯造)>
● 伯徳廣足(雲梯連)・伯徳諸足(雲梯造)

漢人の二名が挙げられている。と言っても多くの場所に渡来していたと知られていることから全く見当のつかない有様であろう。

ところが賜った「雲梯」が貴重な情報をもたらしていることが分かった。いや、だから何も言わずとも明解だ、とされているのかもしれない。

天武天皇紀に記載された齋宮於倉梯河上に含まれる「梯」に着目することになる。直近では川上忌寸の出自場所に関連する記述ともしたところである。地図に示した通り、単なる「梯」ではなく、畝って曲がっている(雲)地形である。雲梯=山稜が畝って曲がりながらギザギザとしているところと読み解ける。

伯徳廣足伯德=谷間で四角く取り囲まれた地がくっ付いているところと読み解ける。谷間の地形を捉えた表記である。廣足は、その最も奥の場所を表していると思われる。後に伯徳廣道が同じく「雲梯連」を賜ったと記載されている。出自は、少々西側の場所であろう。

伯徳諸足諸=言+者=耕地が交差するように延びている様であり、図に示した場所が出自と推定される。支半于刀の「支半」の、正に”半分”の地に蔓延った一族であったことが解った。雲梯(ウナテ)と読むそうである。幾度も述べたように、読むことに注力しても、迷路に向かうばかりであろう。

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いやぁ~、凄まじいばかりの登場人物であった。九州東北部の空白の地が少しは埋まったような感じである。更に続くのであろう、最後までお付き合いのほどを・・・。

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<葦原王(龍田眞人)>
● 葦原王(龍田眞人)

何とも素行の悪い王だったようで、家族も悲惨な目に遭ったと記載している。何故か詳細な素性が述べられていて、刑部皇子の周辺の地の詳細が伺える記述となっている。

父親の山前王(別名山隈王)については、刑部皇子が娶った栗前氏(詳細不詳)が母親で、その栗前の地が出自と推定した。現地名は田川郡香春町谷口辺りである。

葦原王の見慣れた「葦」=「艸+韋」=「山稜に囲まれた様」と解釈した。葦原=山稜に囲まれた平らに広がったところと読み解ける。古事記の葦原中國葦原色許男で用いられた文字列である。由緒正しき名称・・・かなり小ぶりだが、地形象形的には問題なし、かもしれない。

賜った龍田眞人の「龍」は、「栗前」の山稜の端を”龍の頭部”と見做したものであろう。"忍坂”の谷奥の地形が、また一つ確定的になったようである。上記に述べた龍田立野に類する命名である。