廢帝:淳仁天皇(11)
天平寶字五年(西暦761年)四月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀3(直木考次郎他著)を参照。
夏四月癸亥。散位從三位巨勢朝臣關麻呂薨。難破長柄豊崎朝大臣大繍徳太古曾孫。從五位上小邑治之子也。其伯父中納言正三位邑治養之爲子。遂承其後。頻歴顯職。遂拜參議。以病歸休。假滿解任。乙亥。外從五位下稻蜂間連仲村賣。親族稻蜂間首醜麻呂等八人。賜姓稻蜂間連。辛巳。授正五位下石川朝臣豊成正五位上。
四月九日に散位の「巨勢朝臣關麻呂」(堺麻呂)が亡くなっている。難波長柄豐埼朝(孝徳天皇)の大臣「徳太古」(徳太)の曽孫で、「小邑治」(小祖父)の子であった。彼の伯父で中納言にまで進んだ「邑治」(祖父)が養子とし、跡を継いだ(こちら参照)。次々と顕職を歴任し、ついに参議に任じられた。病気のために休職したが、期間が満了したので職を解かれていた。
五月壬辰。從五位下高圓朝臣廣世爲攝津亮。從五位下紀朝臣伊保爲相摸守。丙申。左兵衛河内國志紀郡人正八位上達沙仁徳。散位正六位下達沙牛養二人賜姓朝日連。後改爲嶋野連。丙午。使散位外從五位下物部山背。正六位下曰佐若麻呂。行視畿内陂池堰堤溝洫之所宜。
五月九日に高圓朝臣廣世(石川廣世)を攝津亮、紀朝臣伊保を相模守に任じている。十三日に左兵衛で河内國志紀郡の人、「達沙仁徳」、散位の「達沙牛養」の二人に「朝日連」の氏姓を与えたが、後に「嶋野連」に改めている(こちら参照)。二十三日に散位の物部山背と「曰佐若麻呂」を派遣して、畿内の溜池・弁堰・堤防・用水路に適したところを視察させている。
● 曰佐若麻呂
「曰佐(オサ)」は初見であり、関連する情報を収集すると、大友史一族(孝謙天皇紀に桑原直の氏姓を賜っている)であることが分かった(こちら参照)。
先祖は、後漢の時代に渡来して来たと記載されている。近江國野洲郡・神前(埼)郡に跨る地域に蔓延っていたようである。現地名は京都郡苅田町上/下片島・葛川である。
曰佐の「曰」=「口+一」=「口から漏れ出ている様」を表す文字であるが、地形象形的には「曰」=「谷間の奥から延び出ている様」と解釈する。頻出の「佐」=「人+左」=「谷間にある左手のような様」から、曰佐=谷間の奥から延び出ている山稜が左手のような形をしているところと読み解ける。
蘇我蝦夷の「蝦夷」の地形の別表記であろう。「野洲」(野洲頓宮)も同じ地形を表していて、同一地形を多様に表現していることが解る。ずっと後になるが、「大友民」と表記される。「民」も「蝦夷」の地形を表す文字である。詳細は登場の智機に述べる。
若麻呂の若=叒+囗=多くの岐れた山稜が延び出ている様であり、些か地形の変形が見られるが、図に示した辺りが出自と推定される。「物部山背」と同様に、それぞれの地の中心から外れた場所に住まう人物を任用したようである。
六月庚申。設皇太后周忌齋於阿弥陀淨土院。其院者在法華寺内西南隅。爲設忌齋所造也。其天下諸國。各於國分尼寺。奉造阿弥陀丈六像一躯。脇侍菩薩像二躯。辛酉。於山階寺。毎年皇太后忌日。講梵網經。捨京南田卌町以供其用。又捨田十町。於法華寺。毎年始自忌日。一七日間請僧十人。礼拜阿弥陀佛。庚午。以從五位下大野朝臣廣立爲若狹守。」賜大和介從五位上日置造眞夘沒官稻一千束。賞廉勤也。己夘。賜正四位下文室眞人大市。從五位上國中連公麻呂。從五位下長野連公足爵人一級。從三位粟田女王。正四位上小長谷女王並進一階。從四位下紀女王授從三位。正五位下粟田朝臣深見從四位下。正五位下飯高公笠目。藏毘登於須美。從五位上熊野直廣濱。多氣宿祢弟女。多可連淨日並進一階。外從五位上錦部連河内。外從五位下忍海連致。尾張宿祢若刀自並從五位下。從七位上大鹿臣子虫外從五位下。以供奉皇太后周忌御齋也。辛巳。詔。供奉御齋雜工將領等。隨其勞効。賜爵与考各有差。其未出身者。聽預當官得考之例。
六月七日に光明皇太后の一周忌の齋会を「阿弥陀浄土院」で設けている。この院は法華寺(隅院近隣)内の西南の隅にあり、この齋会を行うために造営された。一方、天下の諸國に命じて、それぞれ國分尼寺で阿弥陀仏の丈六の像一軀・脇侍の菩薩像二軀を造らせている。
八日に山階寺(興福寺)で、毎年皇太后の忌日に『梵網経』を講じさせることにしている。平城京の南の田四十町を喜捨して、その費用に充てさせている。また「法華寺」に田十町を喜捨して、毎年、忌日から七日間、僧十人を招いて阿弥陀仏を礼拝させることにしている。十七日に大野朝臣廣立(廣言)を若狭守に任じている。大和介の日置造眞卯に、官に没収した稲一千束を賜っている。正直で潔白な勤務態度を賞したのである。
二十六日に以下の叙位を行っている。文室眞人大市・國中連公麻呂(國君麻呂)・長野連公足(君足)にそれぞれ位階一級を賜っている。粟田女王・小長谷女王にそれぞれ一階ずつ昇進させている。紀女王に從三位、粟田朝臣深見に從四位下、飯高公笠目(飯高君)・「藏毘登於須美」・熊野直廣濱・多氣宿祢弟女(竹首乙女)・多可連淨日(高麗使主)にそれぞれ一階ずつ昇進させている。錦部連河内(吉美に併記)・忍海連致(伊太須。伊賀虫に併記)・尾張宿祢若刀自(尾張連馬身に併記)に從五位下、「大鹿臣子虫」に外從五位下を授けている。皇太后の齋会に供奉したことによる。
二十八日に次のように詔されている・・・御齋会に供奉した各種工人の将領等は、その働きぶりに応じて位階を与え勤務評定の対象とする。また官人として登用されていない者は、今勤務している官司で勤務評定を受けられる地位にあることを認める・・・。
● 藏毘登於須美
「藏毘登」は「藏人」と置き換えてみると、聖武天皇紀に外従五位下を叙爵された河内藏人首麻呂(河内手人刀子作廣麻呂に併記)の一族ではなかろうか。
あらためて「首麻呂」の谷間を眺めると、毘登=二つ並んだ窪んだ地から成る谷間の奥が小高くなっているところの地形であることが解る。地図上、最も明確に確認することができた例となったように思われる。”地形象形”の表記が一貫して用いられていることが解る。
名前の於須美は、既出の文字列であり、於須美=旗が棚引くように延びた山稜が州になっている傍らで谷間が広がったところと読み解ける。図に示した場所が出自と推定される。尚、後に「春日藏毘登」氏名を持つ人物が登場するが、その時点で詳細を述べることにする。
● 大鹿臣子虫
この地域を出自に持つ人物は、直近では神主首名・枚人が登場していたが、官司に登用されることがなかったようである。尚、既に述べた事ではあるが、書紀の天武天皇紀に登場する鈴鹿郡(關)と聖武天皇紀に記載される「鈴鹿郡」は別の場所であり、固有の地名と解釈しては、大混乱であろう。勿論、共に”鈴鹿”の地形である。
前書きが長くなったが、大鹿臣子虫の子虫=生え出た山稜の端が三つに岐れているところと読めるが、残念ながら、詳細な場所を求めるには、地形が変わり過ぎて困難な状態と思われる。図にそれらしきところを示した。「赤坂頓宮」の近隣だったのではなかろうか。
秋七月癸未朔。日有蝕之。甲申。西海道巡察使武部少輔從五位下紀朝臣牛養等言。戎器之設。諸國所同。今西海諸國。不造年料器仗。既曰邊要。當備不虞。於是。仰筑前。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等國。造備甲刀弓箭。各有數。毎年送其樣於大宰府。辛丑。遠江國荒玉河堤决三百餘丈。役單功卅万三千七百餘人。充粮修築。
七月一日に地震があったと記している。二日、西海道巡察使・武部(兵部)少輔の紀朝臣牛養等が以下のように言上している・・・武器類の準備は、どの國も同じようにすることとなっている。ところが今西海道の諸國は年間の所定の武器を製作していない。これらの國は辺要と言われ、不慮の事態に備えるべきである・・・。
そこで「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向」などの國々(「豊前國・豊後國」については、こちら参照)に命じて、それぞれ一定数の甲・刀・弓・箭を製作して設置させ、毎年その見本を大宰府に送らさせるようにしている。
十九日に遠江國の荒玉河(麁玉河。靈龜元[715]年五月に地震で土砂崩れが発生し、川が堰き止められて氾濫、民家が水没したとの記載あり。通説は天竜川[馬込川]とされている)の堤が三百余丈にわたって決壊している。延べ三十万三千七百余人を使役し、食料を支給して修築させている。
八月癸丑朔。勅曰。頃見七道巡察使奏状。曾無一國守領政合公平。竊思貪濁人多。清白吏少。朕聞。授非賢哲。萬事咸邪。任得其材。千務悉理。上如國司。一色親管百姓籍。其獎導風俗字撫黎民。特須精簡。必合稱職。其居家無孝。在國無忠。見利行非。臨財忘恥。上交違礼。下接多謟。施政不仁。爲民苦酷。差遣邊要。詐稱病重。任使勢官。競欲自拜。匪聞教義。靡率典章。措意屬心。唯利是視。巧弄憲法。漸汚皇化。如此之流。傷風乱俗。雖有周公之才。朕不足觀也。自今已後。更亦莫任。還却田園。令勤耕作。若有悔過自新。必加褒賞。迷塗不返。永須貶黜。普告遐邇教喩衆諸。」美作介從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂。不經官長。恣行國政。獨自在舘。以印公文。兼復不據時價。抑買民物。爲守正四位上紀朝臣飯麻呂所告失官。甲子。高野天皇及帝幸藥師寺礼佛。奏呉樂於庭。施綿一千屯。還幸授刀督從四位上藤原朝臣御楯第。宴飮。授御楯正四位上。其室從四位下。藤原惠美朝臣兒從正四位下。甲子。迎藤原河清使高元度等至自唐國。初元度奉使之日。取渤海道。隨賀正使揚方慶等。往於唐國。事畢欲歸。兵仗樣。甲冑一具。伐刀一口。槍一竿。矢二隻分付元度。又有内使。宣勅曰。特進秘書監藤原河清。今依使奏。欲遣歸朝。唯恐殘賊未平。道路多難。元度宜取南路先歸復命。即令中謁者謝時和押領元度等向蘇州。与刺史李岵平章。造船一隻長八丈。并差押水手官越州浦陽府折衝賞紫金魚袋沈惟岳等九人水手。越州浦陽府別將賜緑陸張什等卅人送元度等歸朝。於大宰府安置。己夘。以今良三百六十六人。編附左右京。大和。山背。伊勢。參河。下総等職國。辛巳晦。大秡。以齋内親王將向伊勢也。
九月乙酉。命婦從三位曾祢連伊賀牟志薨。
八月一日に次のように勅されている・・・このごろ七道の巡察使の奏状をみると、全く一國の守も公平に叶った政治を実行している者がいない。密かに欲深く心の濁った人が多く、清廉潔白の官吏は少ないと思っている。朕が聞くところでは、賢くて事態に明るい者に官を授けるのでなければ、全ては悉く邪となり、優れた人材を任ずれば、多くの政務も悉く治まるという。國司というような職は、もっぱら人民の戸籍を自ら管理し、その風俗を良き方に奨め導き、人民を育み労わるものであり、特にくわしく人選して、必ず職務に叶う人物を任命すべきである。---≪続≫---
家にいても孝行せず、國に対しても忠心がなく、自己の利益のために非違を行い、財物を前にして恥を忘れ、上の者に交わるに礼を失し、下の者に対しては疑ってダメを出すことが多く、政治を行えば、慈しみの心がなく、民をひどく苦しめ、辺境の要地に派遣しようとすると、偽って病気が重い称し、権勢のある官に任じる場合には、競って自分から拝命しようとする。---≪続≫---
聖人の教えの本義を聞こうとはせず、法令に従おうともせず、気持ちを傾けて心にかけるのは、ただ利を見ることのみである。巧みに国家の法律を弄んで、次第に天皇の徳による政治を汚している。このような手合は、風俗を傷付け混乱させるものである。かりに周公のような才能があったとしても、朕は評価できない。今後、決して任じないようにせよ。田園に追い帰して、耕作に従事させよ。もし過ちを悔いて心を新たにすることがれば、必ず褒賞を加えるであろう。道に迷ったまま返らなければ、永久に官位を下し、退けよ。以上のことを広く遠近に告げて、人々に教え諭せ・・・。
また、この日に美作介の縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂。天平寶字[759]三年五月に任官)は、長官の許可を得ることなく、好きなように國の政治を行い、ひとり館にいて公文書に公印を捺し、その上また時価を基準としないで、民間の物資を強制的に買い上げていた。このため美作守の紀朝臣飯麻呂によって告発されて、官職を失っている。
十二日(?)に高野天皇と淳仁天皇とは、藥師寺に行幸し礼拝している。呉楽(伎楽)を庭で演奏させ、真綿一千屯を施入している。その後授刀督の藤原朝臣御楯(千尋)の邸宅にまわって酒宴を催し、「御楯」に正四位上、その妻の藤原恵美朝臣兒從(眞從に併記)に正四位下を授けている。
十二日に「藤原河清」(藤原朝臣清河)を迎える使の高元度等が唐國から帰国している。初め、「元度」が使命を奉じて出掛けた時、渤海を渡る道を経て、渤海國の賀正使の揚方慶等に随って唐國に往った。使命を果たして帰国しようとしていた時、唐國は兵器の見本として、甲冑一具・代刀一口・槍一竿・矢二隻を「元度」に分け授けている。
また、内使(皇帝から直接派遣される使)が皇帝の勅を宣して以下のように述べている・・・特進で秘書監の「藤原河清」は、いま使(高元度)の奏上によって、帰朝させようと思う。ただ討ち漏らした反乱軍が未だ平定されていないので、道路は困難が多いであろう。「元度」は南路を採って、先に帰国して復命せよ・・・。
そして、中謁者(内侍者所属の宦官)の謝時和に命じて、「元度」等を引き連れて蘇州に向かわせ、刺史(州の長官)の李岵と相談して、長さ八丈の船一隻を造り、押水手官(水手の監督官)として越州浦陽府の折衝(府の武官)で賞紫金魚袋(朝服の装飾で地位を示す)の沈惟岳(戸淨道に併記)等九人と水手として越州浦陽府の別将で賜緑(六・七品の服色)の陸張什等三十人を指名して、「元度」等の帰朝を送らせている。一行を大宰府に安置している。
二十七日に今良(官戸・官奴婢から良民になった雑役夫)三百六十六人を、左右京・大和・山背・伊勢・参河・下総などの國で、京職や國の戸籍に登録し、公民としている。二十九日に大祓を行っている。齋内親王(井上内親王)が伊勢に出発しようとしていたためである。
九月四日に命婦の曾祢連伊賀牟志(五十日虫)が亡くなっている。
冬十月壬子朔。以從五位下菅生王爲少納言。從五位下紀朝臣牛養爲信部少輔。從五位下尾張王爲大監物。從五位下石川朝臣弟人爲玄番頭。從五位上粟田朝臣人成爲仁部大輔。從五位下榎井朝臣小祖父爲少輔。從五位下柿本朝臣市守爲主計頭。明法博士外從五位下山田連銀爲兼助。從五位下大伴宿祢東人爲武部少輔。從五位下石川朝臣人成爲節部大輔。外從五位下陽侯毘登玲珍爲漆部正。從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲大膳亮。從五位下忌部宿祢鳥麻呂爲木工助。從五位下阿倍朝臣意宇麻呂爲大炊頭。從五位下大坂王爲正親正。從五位下布施王爲内染正。正五位下國中連公麻呂爲造東大寺次官。從五位下高圓朝臣廣世爲尾張守。從五位下山口忌寸沙弥麻呂爲甲斐守。從五位下高麗朝臣大山爲武藏介。外從五位下上毛野公牛養爲能登守。外從五位下蜜奚野爲越中員外介。從五位上長野連公足爲丹後守。正四位上文室眞人大市爲出雲守。從五位上甘南備眞人伊香爲美作介。從五位上豊野眞人出雲爲安藝守。從五位上縣犬養宿祢古麻呂爲筑後守。從五位下池田朝臣足繼爲豊後守。辛酉。遣從五位上上毛野公廣濱。外從五位下廣田連小床。六位已下官六人。造遣唐使船四隻於安藝國。仰東海。東山。北陸。山陰。山陽。南海等道諸國。貢牛角七千八百隻。初高元度自唐歸日。唐帝語之曰。屬祿山乱離。兵器多亡。今欲作弓。交要牛角。聞道。本國多有牛角。卿歸國。爲求使次相贈。故有此儲焉。壬戌。内舍人正八位上御方廣名等三人賜姓御方宿祢。又賜大師稻一百万束。三品船親王。池田親王各十万束。正三位石川朝臣年足。文室眞人淨三各四万束。二品井上内親王十万束。四品飛鳥田内親王。正三位縣犬養夫人。粟田女王。陽侯女王各四万束。以遷都保良也。甲子。行幸保良宮。庚午。幸近江按察使御楯第。轉幸大師第。宴飮賜從官物有差。極歡而罷。癸酉。以右虎賁衛督從四位下仲眞人石伴爲遣唐大使。上総守從五位上石上朝臣宅嗣爲副使。以武藏介從五位下高麗朝臣大山爲遣高麗使。又以從四位下藤原惠美朝臣朝獵爲仁部卿。陸奥出羽按察使如故。從四位下和氣王爲節部卿。從五位下藤原惠美朝臣辛加知爲左虎賁衛督。從四位下仲眞人石伴爲播磨守。己夘。詔曰。爲改作平城宮。暫移而御近江國保良宮。是以。國司史生已上供事者。并造宮使藤原朝臣田麻呂等。加賜位階。郡司者賜物。免當國百姓。及左右京。大和。和泉。山背等國今年田租。又自天平寳字五年十月六日昧爽已前近江國雜犯死罪已下。咸悉赦除。」授正四位上藤原朝臣御楯從三位。從五位下藤原朝臣田麻呂。巨曾倍朝臣難波麻呂。中臣丸連張弓並從五位上。正六位上椋垣忌寸吉麻呂。葛井連根主並外從五位下。是日。勅曰。朕有所思。議造北京。縁時事由。暫移遊覽此土。百姓頗勞差科。仁恕之襟。何無矜愍。宜割近都兩郡。永爲畿縣。停庸輸調。其數准京。
十月一日に以下の人事を行っている。菅生王を少納言、紀朝臣牛養を信部(中務)少輔、尾張王を大監物、石川朝臣弟人を玄番頭、粟田朝臣人成(馬養に併記)を仁部(民部)大輔、榎井朝臣小祖父を少輔、柿本朝臣市守を主計頭、明法博士の山田連銀(古麻呂に併記)を兼務で助、大伴宿祢東人を武部(兵部)少輔、石川朝臣人成を節部(大蔵)大輔、陽侯毘登玲珍(陽侯史玲珎)を漆部正、縣犬養宿祢沙弥麻呂(佐美麻呂)を大膳亮、忌部宿祢鳥麻呂を木工助、阿倍朝臣意宇麻呂(綱麻呂に併記)を大炊頭、大坂王(出雲王に併記)を正親正、布施王(布勢王)を内染正、國中連公麻呂(國君麻呂)を造東大寺次官、高圓朝臣廣世(石川廣世)を尾張守、山口忌寸沙弥麻呂(佐美麻呂。田主に併記)を甲斐守、高麗朝臣大山(背奈大山、巨萬朝臣大山)を武藏介、上毛野公牛養(眞人に併記)を能登守、蜜奚野を越中員外介、長野連公足(山田史君足)を丹後守、文室眞人大市を出雲守、甘南備眞人伊香(伊香王)を美作介、豊野眞人出雲(出雲王)を安藝守、縣犬養宿祢古麻呂を筑後守、池田朝臣足繼を豊後守に任じている。
十日に上毛野公廣濱(田邊史廣濱)、廣田連小床(辛小床)及び六位以下の官人六人を派遣して、遣唐使の船四隻を安藝國で建造させている。東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海道の諸國に命じて、牛角七千八百隻を貢上させている。先に高元度が唐から帰える日、唐帝が「元度」に対し[この頃安禄山の乱によって、兵器を多く失った。今弓を作ろうとして、かわるがわる諸方に牛角を求めている。聞くところによれと、汝の本国には牛角がたくさんあるという。卿が帰ったなら朕のために牛角を求めて、使者を派遣するついでに贈れ]と語っている。そのためにこの備蓄がなされたのである。
十一日に内舎人の御方廣名(父親大野に併記)等三人に御方宿祢の氏姓を賜っている。また、大師(恵美押勝)に稲一百万束、船親王・池田親王に各々十万束、石川朝臣年足・文屋眞人淨三(智努王)に各々四万束、井上内親王に十万束、飛鳥田内親王・縣犬養夫人(聖武夫人の廣刀自)・粟田女王・陽侯女王(陽胡女王。鹽燒王に併記)は各々四万束を賜っている。都を保良宮に遷すためである。
十三日に「保良宮」に行幸されている。十九日に近江按察使督の御楯の邸宅に行幸している。その後移動して大師(恵美押勝)の邸宅に行幸し、酒宴を開き、付き従ってきた官人それぞれに物を賜っている。宴会は歓を尽くして終わっている。二十二日に右虎賁衛督(右兵衛督)の仲眞人石伴(石津王)を遣唐大使、上総守の石上朝臣宅嗣を副使、武藏介の高麗朝臣大山を遣高麗(渤海)使に任じている。また、藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)を陸奥出羽按察使兼務で仁部(民部)卿、和氣王を節度(大蔵)卿、藤原惠美朝臣辛加知(薩雄に併記)を左虎賁衛督(左兵衛督)、仲眞人石伴を播磨守に任じている。
二十八日に次のように詔されている・・・平城宮を改作するために、しばらく近江國保良宮に移る。このために近江國司の史生以上で近江遷幸に奉仕する者、並びに造営使の藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)等に位階を昇進させ、郡司には物を賜わる。その國の人民や、左右京・大和・和泉・山背などの國の今年の田租を免ずる。また、天平寶字五年十月二十八日の夜明け以前の近江國内の各種の犯罪人で、死罪以下の者は、悉く赦免せよ・・・。
また、この日に次のように勅されている・・・朕は思うところがあって、北京(保良宮を中心とする京)を造ろうとしている。その事情からしばらく移って彼の地を遊覧してみると、人民が頗る課役の徴発に疲れている。慈しみ思いやりの心を持つ者が、どうしてこれを恵み憐れまないでおられようか。そこで都に近い二郡を永久に畿縣として、庸を停止して調を納めさせるようにする。調の納入数は平城宮に準じることとする・・・。
<椋垣忌寸吉麻呂> |
● 椋垣忌寸吉麻呂
「椋垣」の名称は、文武天皇紀に登場した倉垣連子人の「倉垣」を示すと解釈して来た。その後に「掠垣」、更に「椋垣」と表記されている。「子人」が最後に従五位上に叙爵された元明天皇紀では「倉垣忌寸子首」となっている。
名称の変遷が激しく、些か戸惑わされるのだが、同一地形の別称であることには違いないようである。その一族から実に久々の登場と言ったところであろう。
現地名は行橋市矢留、矢留山の東麓であり、裏ノ谷池との間の地と推定される。この池の状態は推測するしか手段はないが、古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に記載された”依網池”の場所と思われ、既に池として存在していたのであろう。
幾度か登場の吉麻呂の吉=蓋+囗=蓋をするように囲んでいる様であり、その地形を図に示した場所に見出せる。出自は、少々谷間の奥側かと推定される。書紀の天武天皇紀に登場した功臣、「倉墻麻呂」の末裔だったのであろうか。
十一月癸未。授迎藤原河清使外從五位下高元度從五位上。其録事羽栗翔者留河清所而不歸。丁酉。以從四位下藤原惠美朝臣朝狩爲東海道節度使。正五位下百濟朝臣足人。從五位上田中朝臣多太麻呂爲副。判官四人。録事四人。其所管遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。安房。上総。下総。常陸。上野。武藏。下野等十二國。検定船一百五十二隻。兵士一万五千七百人。子弟七十八人。水手七千五百廿人。數内二千四百人肥前國。二百人對馬嶋。從三位百濟王敬福爲南海道使。從五位上藤原朝臣田麻呂。從五位下小野朝臣石根爲副。判官四人。録事四人。紀伊。阿波。讃岐。伊豫。土左。播磨。美作。備前。備中。備後。安藝。周防等十二國。検定船一百廿一隻。兵士一万二千五百人。子弟六十二人。水手四千九百廿人。正四位下吉備朝臣眞備爲西海道使。從五位上多治比眞人土作。佐伯宿祢美濃麻呂爲副。判官四人。録事四人。筑前。筑後。肥後。豊前。豊後。日向。大隅。薩摩等八國。検定船一百廿一隻。兵士一万二千五百人。子弟六十二人。水手四千九百廿人。皆免三年田租。悉赴弓馬。兼調習五行之陳。其所遺兵士者。便役造兵器。
十七日に藤原恵美朝臣朝獵(薩雄に併記)を東海道節度使、百濟朝臣足人と田中朝臣多太麻呂を副、判官は四人、録事四人を任じている。その所管は遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・武藏・下野などの十二ヶ國である。任務として船百五十二隻・兵士一万五千七百人・子弟(郡司)七十八人・水手七千五百二十人を徴発して検問し、用意をすることである。但し、その数の内、二千四百人は肥前國、二百人は對馬嶋から召集している。
また、百濟王敬福(①-❽)を南海道節度使、藤原朝臣田麻呂(廣嗣に併記)と小野朝臣石根を副、判官四人、録事四人を任じている。所管は紀伊・阿波・讃岐・伊予・土左・播磨・美作・備前・備中・備後・安藝・周防などの十二ヶ國である。船百二十一隻。兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検閲して用意する。
また、吉備朝臣眞備を西海道節度使、多治比眞人土作(家主に併記)と佐伯宿祢美濃麻呂を副、判官四人、録事四人を任じている。所管は筑前・筑後・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩などの八ヶ國である。船百に十一隻・兵士一万二千五百人・子弟六十二人・水手四千九百二十人を検閲して用意する。兵士等はみな三年間の田租を免じて悉く弓馬の訓練をさせ、五行に拠る陣の立て方を訓練して習わせている。残った兵士は兵器の製造に使役させている。
● 羽栗翔
「羽栗」の文字列は、古事記にたった一度、天押帶日子命に関して、膨大な数の祖の記述の一つに挙げられた羽栗臣に含まれ、その後歴史の表舞台に登場することはなかった。
續紀は、古事記の記述が荒唐無稽ではなく、その時代から連綿と人々の生業が継続されていたことを顕わにしているように思われる。
羽栗=栗の枝のように延びた山稜の端が羽のように広がっているところを表していると解釈した。尾張國、現在の北九州市小倉南区長野・横代に跨る地である。この地には、既に尾治連若子麻呂や丹羽臣眞咋等が登場していたが、「羽栗」の中心地ではなく、末端に位置する場所と推定した。
彼の出自を調べると、父親の羽栗吉麻呂が阿倍仲麻呂の従者として唐に渡り、留まって唐人との間に二人の息子、翼・翔を授かったと知られている。その後の遣唐使に随って帰朝していたようである。そんな訳で、「翔」は母親の元に身を寄せたのかもしれない。兄の「翼」は、際立つ才能を有し、この後幾度か登場されるようである。
彼等の出自場所を「吉麻呂」のそれとして、図に示した。頻出の吉=蓋+囗=山稜が蓋をするように延びている様の地形を見出すことができる。国土地理院航空写真1961~9年を参照したが、現在は宅地開発及び高速道路によって大きく地形が変形している場所である。
十二月戊午。授正五位上藤原朝臣家兒從四位下。无位大伴宿祢諸刀自從五位下。丙寅。唐人外從五位下李元環賜姓李忌寸。
● 大伴宿祢諸刀自
凄まじい数の大伴宿祢一族であるが、この人物の素性は、全く不詳のようである。名前を頼りにその出自場所を求めると、図に示した辺りのように思われる。
既出の文字列である諸刀自=耕地が交差するように延びた先に山稜の端が刀の地形をしているところと読み解ける。「刀自」を敬称などと解釈しては、勿体ないであろう。續紀中に再登場はなく、確かめようもないが、馬來田・吹負の一族の女性だったのではなかろうか。
直後に大伴宿祢田麻呂が従五位下を叙爵されて登場する。上記と同じく素性知れず、「諸刀自」の地形を眺めていると、図に示した場所が麻呂=萬呂として、それらしき地形のように思われる。この後幾度か地方官に任じられたようであるが、一度爵位剥奪の憂き目に合われた、と記載されている。
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『續日本紀』巻廿三巻尾