2022年3月14日月曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(40) 〔577〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(40)


天平十七年(西暦745年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二月壬子。以從五位下佐伯宿祢毛人爲伊勢守。正五位下大伴宿祢兄麻呂爲美濃守。

二月二十四日に佐伯宿祢毛人を伊勢守、大伴宿祢兄麻呂を美濃守に任じている。

夏四月戊子朔。市西山火。庚寅。寺東山火。甲午。散位從四位下三室王卒。乙未。伊賀國眞木山火。三四日不滅。延燒數百餘町。即仰山背伊賀近江等國撲滅之。戊戌。宮城東山火。連日不滅。於是都下男女競徃臨川埋物焉。天皇備駕欲幸大丘野。庚子。夜微雨。火乃滅止。壬寅。徴鹽燒王令入京。庚戌。大藏卿從四位上大原眞人門部卒。壬子。正六位上託陀眞玉。養徳畫師楯戸弁麻呂。葛井連諸會。茨田宿祢枚麻呂。丹比間人宿祢和珥麻呂。正七位下國君麻呂並授外從五位下。甲寅。詔。依巡察使上奏。原免天下諸國去年田租。又縁有所念大赦天下。其自天平十七年四月廿七日昧爽以前大辟罪已下。罪無輕重。已發覺。未發覺。已結正。未結正。繋囚見徒。咸悉赦除。但犯八虐罪入死者。免死長禁。私鑄錢及從者。着釱長役鑄錢司。強盜竊盜。常赦所不免。不在赦限。其流人到配所者。准此簡擇。特令會恩。是日。通夜地震三日三夜。美濃國櫓舘正倉。佛寺堂塔。百姓廬舍觸處崩壊。乙夘。散位正四位下春日王卒。

四月一日に紫香樂宮の市の西の山で、また三日に寺(甲賀寺?)の東の山で火災があったと記している。七日に散位の三室王(御室王)が亡くなっている。八日に伊賀國の「眞木山」(采女朝臣枚夫に併記)で火災があり、三、四日を経ても鎮火せず、数百町に延焼している。山背・伊賀・近江などの國に命じ、火を撲って消させている。

十一日に宮城の東の山の火災が幾日も鎮火せず、都の人々は競って川辺に行き財物を埋めている。天皇も乗り物を用意して「大丘野」へ行幸しようとしている。十三日の夜になって小雨があり漸く火災が鎮火している。十五日、鹽燒王(天平十四[742]年十月に伊豆三嶋に配流)を召喚して入京させている。二十三日に大藏卿の大原眞人門部(門部王)が亡くなっている。

二十五日に「託陀眞玉」・「養徳畫師楯戸弁麻呂」・葛井連諸會(大成に併記)・茨田宿祢枚麻呂(弓束に併記)・「丹比間人宿祢和珥麻呂」・「國君麻呂」に外從五位下を授けている。

二十七日に以下のように詔されている・・・巡察使の奏上により天下諸國の去年の田租を免除する。また、想うところがあって全国に大赦を行う。天平十七年四月二十七日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく既に発覚した罪、未だ発覚していない罪、既に罪名の定まったもの、未だ定まらないもの、また獄に繋がれて服役して徒刑者も、悉く赦免する。但し、八虐の罪を犯して死罪とすべき者については、長期の禁固とし、贋金造りの首犯及び従犯は釱(鉄製の足枷)を着け、長く鋳銭司で使役することとし、強盗・窃盗、常の赦では許されない者は赦免の範囲に含めない。また、流刑者で配流地に到着している者については、この大赦の基準に照らして、適宜選択し、特別に恩赦が適用されるようにせよ・・・。

この日、一晩中地震があり、それが三昼夜続いている。そのため美濃國では國衙の櫓・館・正倉及び仏寺の堂や塔、人民の家屋が少しでも触れると倒壊した、と記載している。二十八に散位の春日王(壹志王に併記)が亡くなっている。

<大丘野>
大丘野

本文「天皇備駕欲幸大丘野」は、緊急時に備えている様子を物語っている。全く不詳の「大丘野」ではあるが、山裾にある宮から離れて川辺・海辺の避難場所と推測される。

と言うことで、宮の東~南の方角にあった場所と思われる。「大丘野」に用いられている「丘」の文字をあらためて読み解いてみよう。

古人は「丘は虚」と言い、「虚」の旧字体は「虛」であり、「虚」=「虍+丘」と分解される。地形象形的には丘=山に挟まれた小高い地を表すと解釈される。因みに「岡」=「网+山」=「山稜に囲まれた小高い地」であり、現在では、殆ど区別することなく用いられているが、地形象形としては、異なっているのである。

すると、大丘野=平らな[丘]がある野が表す場所は、図に示した現地名の行橋市須磨園にある飛松神社辺りではなかろうか。自然発火かもしれないが、急遽に宮が造られて、人々が侵入したことが失火の原因だったのかもしれない。

<託陀眞玉>
● 託陀眞玉

そらく、元正天皇紀に唱歌師として褒賞された記多眞玉の別称ではなかろうか。譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)の「幸玉宮」、現地名の京都郡みやこ町勝山矢山が出自の人物と推定した。

古事記では他田宮と記載された場所である。「記多」が「託陀」に置換えられているが、同一の場所を表しているのか、確かめてみよう。

既出の託=言+乇=耕地が曲がりながら長く延びている様、頻出の陀=阝+它=崖のような様と読むと、むしろ「託陀」の方が的確な表記であることが解る。地形象形表記が精錬されて来たのであろう。

更に「譯語」は、川が激しく蛇行し、その岸辺に造られた耕地が交差するような様子を表している。「記」も「己」が示す曲がりくねった様を表している。「託」は曲がりながら長く延びる様であり、時代と共に川の蛇行を抑えて耕地が造られて行ったことを表している。そして、「託陀(タダ)」は「他田(タダ)」に通じる読みとなる。実に興味深い表記と思われる。

<楯戸弁麻呂>
● 楯戸弁麻呂

養徳畫師」と付加されている。「養德」は「大倭國=大養德國」で出現した文字列とすると、養德=倭となる。そこまでは、容易に連想されるのであるが、氏名は、「倭」の何処を表しているのであろうか?・・・。

「倭」に関連する「楯」の文字は、古事記で二人の人物に用いられていた。大雀命(仁徳天皇)紀の「山部大楯連」と白髮大倭根子命(清寧天皇)紀の「山部連小楯」である(こちら参照)。

楯=山稜が谷間を塞ぐように延びている様を表すと解釈した。「小楯」は「夜麻登」の枕詞と解釈されているが、意味不明ゆえに枕詞とする安直な解釈である。図に示したように”小楯にある夜麻登”を表している。では、この人物の居処は「大楯」、「小楯」のどちらの「楯」であろうか?・・・。

楯戸=楯の戸のようなところと読むと、「山部大楯連」の先に小高いところが戸のように塞いでいる地形が見出せる。弁麻呂弁(辨)=花弁のように延びている様と解釈すると図に示した場所がこの畫師の出自のと推定される。書紀は、この「小楯」を「山部連先祖伊豫來目部小楯」とし、「夜麻登」との繋がりを忌避する記述を行っている。『日本紀』を改竄した書紀は、いつごろ出来上がったのか?…興味ある課題である。

<丹比間人宿祢和珥麻呂>
● 丹比間人宿祢和珥麻呂

「丹比間人」は文武天皇紀に従五位下を叙爵された丹比間人宿祢足嶋に含まれていた。「丹比」は、書紀に登場した文字列であり、古事記の「多治比」に該当する氏名と解釈した。

續紀は、より正確に地形に基づく表記として、「丹比」と「多治比」を区別して表記しているのである。即ち、「丹比」は延び出る山稜の付け根の辺り、「多治比」は、その山稜の先端部を示している。山稜が途切れ途切れに長く延びる地形に忠実に従っていることになる。

「和珥」は書紀で用いられた文字列で、古事記では「丸邇」となるが、和珥=しなやかに曲がる山稜の傍らで[玉]と[耳]の地形があるところと読み解いた。勿論、それぞれ表す地形は異なるが、ここでは図に示したように「和珥」の地形が見出せる。”外”と付けるのは、文武天皇紀以後の通常通りの処遇だったのであろう。

また、別名で若麻呂と表記されるようである。若=叒+囗=山稜が細かく岐れて延び出ている様と解釈したが、「和」から枝のように延び出ている地形を表していることが解る。

<國君麻呂>
● 國君麻呂

この人物については、世界大百科事典に以下のように記載されている・・・【国中公麻呂】663年(天智2)に日本に帰化した百済の技術者国骨富(くにのこつふ)の孫。大和国葛下(かつらきしも)郡国中村に住み,はじめ国君麻呂といった。745年(天平17)ころ,東大寺の前身に当たる大和金光明寺の造仏長官として,現在の東大寺法華堂諸像を造ったといわれる・・・。

「葛下郡」については、神龜元(724)年五月の記事に多くの渡来系の人々に氏姓を授けていた。その中で賓難大足(長丘連)・物部用善(物部射園連)の居処があったと推定した。現地名は田川郡福智町弁城・伊方である。

また天平六(734)年六月に大倭國葛下郡の「花口宮麻呂」(賓難等に併記)が私稲を投げうって貧乏な人々を救い養ったことから叙爵している。書紀には記載されていない「葛下郡」の初見である。鴨(賀茂)朝臣一族の南側の地域である。多くの渡来系の人々が住まっていた地だったと思われる。

國君麻呂では地形の特徴が掴めず、別称である國中(連)公麻呂から読み解くと、國中=大地が真ん中を突き通すところ公=[公]の文字形のような様と解釈すると、図に示した辺りが出自の場所と思われる。後に廬舎那仏の造仏長官として活躍されるようである。

五月戊午朔。地震。己未。地震。令京師諸寺限一七日轉讀最勝王經。筑前。筑後。豊前。豊後。肥前。肥後。日向七國。无姓人等賜所願姓。是日。太政官召諸司官人等問。以何處爲京。皆言。可都平城。庚申。地震。」遣造宮輔從四位下秦公嶋麻呂。令掃除恭仁宮。辛酉。地震。」遣大膳大夫正四位下栗栖王於平城藥師寺。請集四大寺衆僧。問以何處爲京。僉曰。可以平城爲都。壬戌。地震。日夜不止。是日。車駕還恭仁宮。以參議從四位下紀朝臣麻路爲甲賀宮留守。癸亥。地震。」車駕到恭仁京泉橋。于時。百姓遥望車駕拜謁道左。共稱万歳。是日。到恭仁宮。甲子。地震。」遣右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂。掃除平城宮。時諸寺衆僧率淨人童子等。爭來會集。百姓亦盡出。里無居人。以時當農要。慰勞而還。乙丑。地震。」於大安。藥師。元興。興福四寺。限三七日令讀大集經。」自四月不雨。不得種藝。因以奉幣諸國神社祈雨焉。丙寅。地震。」發近江國民一千人令滅甲賀宮邊山火。丁夘。地震。」讀大般若經於平城宮。是日。恭仁京市人徙於平城。曉夜爭行相接無絶。戊辰。奉幣帛於諸陵。」是時甲賀宮空而無人。盜賊充斥。火亦未滅。仍遣諸司及衛門衛士等令収官物。是日。行幸平城。以中宮院爲御在所。舊皇后宮爲宮寺也。諸司百官各歸本曹。癸酉。地震。乙亥。地震。天皇親臨松林倉廩。賜陪從人等穀有差。壬午。制。无位皇親給春秋服者。自今已後。上日不滿一百卌不在給例。〈計上日七十給春夏服。秋冬亦如之。〉但給乳母王不在此限。又據格。承嫡王者直得王名。不在給服之限。是月。地震異常。往々龜裂。水泉涌出。

五月一日に地震があったと記している。二日、また地震があり、都(平城宮)の諸寺院に命じて金光明最勝経を七日間に限って転読させている。筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七國において、無姓名の人々に対して願い出たところの姓名を賜っている。この日に太政官は諸司の官人たちを召集して、どこを京とすればよいかを問うたところ、全員が平城を宮とするべきである、と言上している。

三日に地震が起こっている。造宮輔の秦公嶋麻呂(秦下。太秦公を賜った)を恭仁宮に派遣して掃き清めさせている。四日、地震が起こっている。大膳大夫の栗栖王を「平城藥師寺」に派遣し、そこに四大寺(藥師・大安・元興・興福)の僧侶たちを集めて、どこを京とすればよいかを問わせたところ、全員、平城を都とするべきだ、と答えている。

五日に地震があって一昼夜止まなかったと記している。この日、天皇は恭仁宮に還幸し、参議の紀朝臣麻路(古麻呂に併記)を甲賀宮(紫香樂宮)の留守官に任じている。六日にも地震が起こっている。天皇が恭仁京の「泉橋」に差掛った時、人民ははるかに天皇を望み見て道の左側から拝謁し、”万歳”の声をあげている。

七日に地震が発生している。右代弁の紀朝臣飯麻呂を平城宮に派遣して掃き清めさせている。その時、諸寺の僧侶たちは浄人(寺男)や童子等を率い、争うようにして集まっている。人民もまた悉く出て来て、村里に人がいなくなる有様であったが、農繁期に当たっているので、労をねぎらった上で、里に帰らせている。

八日、またも地震。大安・藥師・元興・興福の四寺において、三七(二十一)日間、大集経(大乗経典の一つ。空思想に加えて密教的要素が濃厚)を読経させることにしている。四月以来雨が降らず、田植えをすることができず、そのため諸國の神社に幣を奉って、雨乞いをさせている。

九日にまたも地震。近江國の人民一千人を徴発して、甲賀宮(紫香樂宮)周辺の山火事の消火に当たらせている。十日、またも地震。平城宮に僧侶を招いて大般若経を読経させている。この日、恭仁京の市人達が平城に移転して来ている。その様子は朝早くから夜更けまで先を争って行き、行列は引き続いて絶えることがなかった、と記載している。

十一日に各地の天皇陵に幣帛を奉っている。この時、甲賀宮は、空っぽで無人の地となり、盗賊だけが充満し、火災も未だ鎮火していない。そこで各官司及び衛門府の衛士達を派遣して残されていた官物を収納させている。この日、平城に行幸され、中宮院を御在所とし、旧の皇后宮は宮寺としている。各官司の全ての役人もそれぞれ元の勤務していた役所に帰っている。

十六日及び十八日に地震が発生している。天皇は自ら松林宮(元興寺に併記、下図参照)の穀倉に赴き、陪従の人々に、それぞれ籾米を賜っている。

二十五日に以下のように制している・・・無位の皇親に春秋の時服料を支給する際、今後は上日(出勤日)数が年間百四十日に満ちていなければ支給しないこととする。七十日に達していれば、春夏の時服料を支給する。秋冬についても同様である。但し、乳母を支給されるような王にはこの規定は適用しない。また格によって、五世王の嫡系として跡を継ぐ王(六世王)は直ちに王名を得るが、時服料を支給する範囲には入らない・・・。

この月の地震の頻発は異常であって、各地において亀裂が生じ、泉水が湧出した、と記している。

<平城藥師寺>
平城藥師寺

「藥師寺」は、天武天皇が皇后の病気回復を祈願して設けた寺と書紀で記載された寺であった。即位九(680)年が初見である。その後、續紀になって文武天皇紀の大寶元(701)年に造藥師寺司が任命された記事が載せられている。

平城宮の設営が元明天皇紀の和銅元(708)年十月に始まり、遷都は710年頃であろう。藥師寺の移転は、その後となるが、具体的な記述は見当たらないようである。一方、元興寺(移転前は飛鳥の法興寺)は靈龜二(716)年五月「始徙建元興寺于左京六條四坊」と詳細に記述されている。

関連するところでは、元正天皇紀の養老三(719)年三月「始置造藥師寺司史生二人」と記載され、未完成ではあるが、設営が進んでいることが伺える。養老六(722)年七月には僧綱を常駐させたり、聖武天皇紀の神龜三(726)年八月では藥師寺で設齋が行われたと述べている。藥師寺移転は曖昧なのであるが、元興寺に若干遅れて行われたのではなかろうか。

法興寺の名称変更は、本寺が設置された場所の地形に依存すると解釈した。藥師寺は、何と、地形が極めて類似した場所に移転されたため、名称変更がなされなかったのである。尚、『薬師寺縁起』によれば養老二(718)年に移転されたとのことである。

<泉橋>
恭仁京泉橋

本文では「車駕到恭仁京泉橋。于時。百姓遥望車駕拜謁道左。共稱万歳」と記載されている。何だか余計な文字が含まれているようだが、少し背景から当時の状況を憶測してみよう。

紫香樂宮に腰を下ろしたのはいいが、火事やら地震やら災難続きの有様となっていた。そんな中で皆の意見は、やはり平城宮に戻るべきで一致したと伝えている。紫香樂宮は、方角が悪い、だったのであろう。

天皇も意を決して、紫香樂宮を発って平城宮に向かうか、と思えば、そうではなく恭仁宮に向かったと述べている。「共稱万歳」は、てっきり平城宮へ向かうと思われたのが、何と、恭仁宮に・・・地元の民は、平城宮ではなく、ここだった!…と歓喜したのである。

紫香樂宮から平城宮に直行するなら、恭仁宮は全くの迂回路となる。故に”万歳”をしたのである。通説の各宮の配置では、この”万歳”の意味が全く伝わって来ない。平城宮に向かう途中で立ち寄った、と見做せるからである。極めて重要なことをさらりと記載している。ならば、何としても泉橋の場所を求めてみたくなった。

紫香樂宮を出て山背國相樂郡に向かうとすると、間違いなく恭仁京の東北道から進入したと思われる。「泉橋」は、その谷合の道を抜けて、相樂の開けた地に出た場所と恭仁宮との間にあったと思われる。「泉」の地形象形は、図に示した甲骨文字形を地形が示すと解釈される。即ち、泉=窪んだところから水が流れ出る様である。ところがその地形は短い距離ではあるが、多くの場所が見出せる。

ならば「橋」も、単に川に掛かった橋ではなく、地形象形表記として用いているのではなかろうか。橋=木+喬(夭+高)=山稜の端がねじ曲がって小高くなっている様と解釈される。古事記の天浮橋の解釈に類似する。すると、図に示した場所を表していることが解る。確かに橋も架かっていたのであろうが、「泉橋」は、立派な地名であり、両意を重ねた表記と思われる。

本文に「百姓遥望車駕拜謁道左」と記載される。山辺の道の右側(進行方向。西方)は山腹であり、左側(東方)が開けた地形となっている。谷間の様子を伝えているのである。無駄で冗長な記述ではなく、全て重要な意味を含んでいることが解る。参考にしている資料(脚注)では、紫香樂宮から向かうと、泉橋の場所(現在の泉橋寺付近)が行程上合致しないとされている。上記の”万歳”及び”拜謁道左”の意味と合わせて、舞台は奈良大和ではない、と言えるであろう。

六月庚寅。遣左衛士督從四位下佐伯宿祢淨麻呂。奉幣帛于伊勢太神宮。辛夘。復置大宰府。以從四位下石川朝臣加美爲大貳。從五位上多治比眞人牛養。外從五位下大伴宿祢三中並爲少貳。庚子。筑前國宗形郡大領外從八位上宗形朝臣与呂志授外從五位下。是日。樹宮門之大楯。
 
六月四日に左衛士督の佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)を伊勢太神宮に派遣して幣帛を奉らせている。五日に大宰府を復置(元に戻す)している。これにより石川朝臣加美(賀美。枚夫に併記)を大弐に、多治比眞人牛養(犢養)大伴宿祢三中の二人を少弐に任じている。十四日に筑前國宗形郡の大領の「宗形朝臣与呂志」に外従五位下を授けている。この日、平城宮の門に大楯を樹てている。

<宗形朝臣与呂志>
● 宗形朝臣与呂志

筑前國宗形郡の登場人物には、大領の宗形朝臣等が元明天皇紀に外従五位下を叙爵されていた。現地名は宗像市田島・深田である。

聖武天皇紀では「宗形朝臣鳥麻呂」(等抒に併記)が宗形の神に仕えることになったと奏上し、外従五位下を授けられている。頻度は高くないが、連綿と登場し、宗形の神の存在を示す記述が見受けられる。

当該の人物も、この二人の近隣を出自としていたと思われる。「与」の本字は「與」であり、「與」=「左手+右手+与+廾(両腕)」と分解される。地形象形的には、與=両腕を延ばして両手を咬み合わせたような様と解釈される。頻出の呂=積み重なった様志=川が蛇行して流れている様とすると、図に示した場所が、それらの地形要素を有していることが解る。

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上記本文中で「筑前。筑後。豊前。豊後。肥前。肥後。日向七國」と記載されている。既に『廣嗣の乱』に関連して豊前・豊後國の詳細が述べられ、その地は現在の京都郡みやこ町上/下高屋及び同町伊良原辺りと推定した。その乱が鎮まった後になって登場する豊前・豊後國、とりわけ筑前・筑後國、肥前・肥後國及び日向國と並べて記述される場合は、異なった場所を示していると思われる。

詳細を考察するには、些か情報が不足しており、後日となるが、実は筑前國の東側の地がすっぽりと欠落していることに気付かされる。即ち、現在の宗像市を流れる釣川の沿岸部は「筑前國」であるが、孔大寺山西麓の伯耆國安木國との間の地域である(こちらの図を参照)。

上手い具合に「豐」の文字で地形象形される山稜の前後にあった國、となろう。幾度か述べたように同一名の國名が記載されているのである。若干恣意的な匂いも感じられるが、地形象形表記に忠実たれ!…に徹したのかもしれない。

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