天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(39)
天平十七年(西暦745年)正月の記事である。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。
十七年春正月己未朔。廢朝。乍遷新京。伐山開地以造宮室。垣牆未成。繞以帷帳。令兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。衛門督從四位下佐伯宿祢常人樹大楯槍。〈石上榎井二氏倉卒不及追集。故令二人爲之。〉是日。宴五位已上於御在所。賜祿有差。乙丑。天皇御大安殿。宴五位已上。詔授從四位上大伴宿祢牛養從三位。從五位下阿貴王從五位上。无位依羅王從五位下。從四位上藤原朝臣仲麻呂正四位上。正五位下阿倍朝臣沙弥麻呂。藤原朝臣清河並正五位上。從五位上石川朝臣麻呂。紀朝臣宇美並正五位下。從五位下三國眞人廣庭。多治比眞人屋主。藤原朝臣許勢麻呂並從五位上。外從五位下紀朝臣廣名。紀朝臣男楫。正六位上石川朝臣名人。縣犬養宿祢須奈保。大伴宿祢古麻呂。大伴宿祢家持並從五位下。外從五位上宗形朝臣赤麻呂外正五位上。外從五位下巨勢斐多朝臣嶋村。高丘連河内並外從五位上。正六位上路眞人野上。粟田朝臣堅石。大伴宿祢名負。太朝臣徳足。鴨朝臣石角。布勢朝臣多祢。難福子。田邊史高額。楢原造東人並外從五位下。又授无位衣縫女王。石川女王。秦女王並從四位下。无位久米女王。氷上女王。岡田女王。巨勢女王並從五位下。外從五位上佐味朝臣稻敷。外從五位下縣犬養宿祢八重。无位中臣朝臣眞敷並從五位下。外從五位上尾張宿祢小倉。黄文連許志。朝倉君時。小槻山君廣虫並外正五位下。无位中臣小殿連眞庭。外從五位下箭集宿祢堅石並外從五位上。正六位上槻本連若子。正六位下熊野直廣濱。粟凡直若子。若湯坐宿祢繼女。氣太十千代。飯高君笠目。无位大石村主廣嶋。古仁染思。上部眞善。忍海連伊賀虫。古仁虫名。栗栖史多祢女。茨田宿祢弓束並外從五位下。宴訖賜祿有差。百官主典已上。於朝堂賜饗。祿亦有差。己夘。詔以行基法師爲大僧正。
正月一日の朝賀が中止されている。にわかに新京(紫香樂宮)に遷都して、山を切り開き、平地を造成して皇居を造営したのであるが、垣や塀が未完成なので、代わりに幕の類を張り巡らせている。兵部卿の大伴宿祢牛養と衛門督の佐伯宿祢常人(豐人に併記)に命じて、大楯と槍を樹てさせている。本来の石上・榎井の二氏は、倉卒(にわかな)遷都で呼び集めることができなかったので、この二人に命じて樹てさせている。この日、五位以上の官人を御在所に集めて宴を催し、それぞれに禄を賜っている。
七日に大安殿に出御されて五位以上の者と宴をされ、以下のように叙位されている。大伴宿祢牛養に從三位、阿貴王(阿紀王)に從五位上、依羅王(久勢女王に併記)に從五位下、藤原朝臣仲麻呂に正四位上、阿倍朝臣沙弥麻呂(佐美麻呂)・藤原朝臣清河に正五位上、石川朝臣麻呂(君子に併記)・紀朝臣宇美に正五位下、三國眞人廣庭・多治比眞人屋主(家主に併記)・藤原朝臣許勢麻呂(巨勢麻呂。仲麻呂に併記)に從五位上、紀朝臣廣名(宇美に併記)・紀朝臣男楫(小楫)・石川朝臣名人(枚夫に併記)・「縣犬養宿祢須奈保」・大伴宿祢古麻呂(三中に併記)・「大伴宿祢家持」に從五位下、宗形朝臣赤麻呂(胸形朝臣)に外正五位上、巨勢斐多朝臣嶋村(巨勢斐太朝臣。大男に併記)・高丘連河内に外從五位上、路眞人野上・粟田朝臣堅石(必登に併記)・大伴宿祢名負(美濃麻呂に併記)・太朝臣徳足(遠建治に併記)・鴨朝臣石角(治田に併記)・「布勢朝臣多祢」・難福子(百濟系渡来の子孫か?)・田邊史高額(史部虫麻呂に併記)・「楢原造東人」に外從五位下、また、衣縫女王(海上女王に併記)・「石川女王」・秦女王(春日女王に併記)に從四位下、久米女王(星河女王に併記)・「氷上女王」・「岡田女王」・「巨勢女王」に從五位下、佐味朝臣稻敷(虫麻呂に併記)・縣犬養宿祢八重・「中臣朝臣眞敷」に從五位下、尾張宿祢小倉・黄文連許志・朝倉君時・小槻山君廣虫に外正五位下、「中臣小殿連眞庭」・箭集宿祢堅石(虫万呂に併記)に外從五位上、「槻本連若子」・「熊野直廣濱」・「粟凡直若子」・若湯坐宿祢繼女(若湯坐連家主に併記)・「氣太十千代」・飯高君笠目・「大石村主廣嶋」・「古仁染思」・「上部眞善」・「忍海連伊賀虫」・「古仁虫名」・「栗栖史多祢女」・「茨田宿祢弓束」に外從五位下を授けている。宴が終わった後、それぞれに禄を賜っている。全ての官人の主典以上の者を朝堂に招いて、それぞれに禄を賜っている。
二十一日に詔されて、行基法師を大僧正としている。「大僧正」は初出、僧綱の最上位。
● 縣犬養宿祢須奈保
「縣犬養宿祢五百依」の子と知らている。橘宿祢三千代が、我が一族故に宿祢姓を賜りたいと願い出て、五百依・安麻呂・小山守・大麻呂の四名の名前が記載されていた。
「三千代」の夫が藤原朝臣不比等であり、その娘が光明皇后という閨閥を背景にした出来事である。父親の「東人」の谷間を居処にしていた人々と推定した。
須奈保は既出の文字列であって、須=州、奈=木+示=山稜が高台になっている様、保=人+呆=谷間にある山稜の端が丸く小高くなっている様と解釈した。その地形を五百依の南隣に見出すことができる。後に丹後守に任じられるが、その後関連する記述は見られないようである。
後(淳仁天皇紀)に縣犬養宿祢吉男が従五位下を叙爵されて登場する。系譜は不詳のようであり、名前が表す場所を求めると、吉男=蓋をするように延びた山稜の先が[男]のようになっているところと読み解ける。図に示した通り、「須奈保」の山稜を「吉」と見做した命名と思われる。
<大伴宿禰家持> |
● 大伴宿祢家持
最終官位従三位・中納言となる高級官吏であるが、何といっても万葉歌人として高名な人物の初見である。勿論、父親は旅人である。
續紀にも、この後四十数回登場されるようで、時代を代表する人物であったことには違いない。
既出の文字列である家持の家=宀+豕=山稜の端が豚の口のような様、持=手+寺=山稜が手を曲げて囲むような様と解釈した。その地形を旅人の山稜の南麓に見出すことができる。
地方官として各地に赴任した経歴があり、現在では、JR高岡駅(越中國司)やらJR川内駅(薩摩國司)の駅前に銅像が建てられているそうである。万葉集に収録されている473首(万葉集全体の一割以上)のうちの半数近くが越中守赴任時に詠まれたとのことである。
● 布勢朝臣多祢
藤原(中臣)一族の隆盛の陰で、阿倍一族の拡大も一時期のような勢いが削がれて、本来の名称を名乗る連中が増えて来たのかもしれない。
頻出の多祢(禰)=山稜の端の高台が広がったところと解釈したが、前出の國足の先の地形を示していることが解る。系譜不詳であり、出自の地からして”外”が付くのも納得されるところであろう。暫くして、多くの”外”の人物が内位となるが、その中に含まれている。その後のご登場はないようである。
少し後に布勢朝臣宅主が従五位下を叙爵されて登場する。”外”が付かない故に、それなりの系譜を持つ人物だったようであるが、詳細は知られていない。既出の文字列である宅主=谷間に延びた山稜の端が真っ直ぐになっているところと読み解ける。「多祢」の南側に接する場所が出自と推定される。
● 楢原造東人
楢原の「楢」の文字は、記紀・續紀を通じての初見である。少々、背景を調べると、現在の長野県東御市新張奈良原あるいは奈良県御所市楢原だとかと言われているようである。
奈良県は論外として、長野県、即ち科野國辺りで探索してみよう。初見の「楢」=「木+酋」と分解される。更に「酋」=「八+酉」から成る文字と知られている。これで読み解けそうである。
地形象形的には楢原=山稜が二つに岐れた地にある酒樽のような山稜の麓が野原のようになっているところと解釈される。図に示した谷間の山稜がなだらかに延び広がっている地形を表していることが解る。実に特徴的な場所であり、見事な地形象形表現と思われる。現地名は北九州市小倉南区葛原高松である。
古事記の科野國(書紀では、一度だけ登場)であり、周辺諸國である相武國(書紀では、相摸國・武藏國・駿河國)及び參河國に挟まれた國である。国譲り後における位置関係から曖昧な表現を採用していることも伺える。関連する記述では、書紀の天武天皇紀に、南部の周芳國が赤龜献上の記事であろう。諏訪の北方の東御とは、生真面目な国譲りの結果を物語っているようである。
後に活躍されて勤(伊蘇志)臣の氏姓を賜ったと記載される。既出の文字列である伊蘇志=谷間で区切られた山稜(伊)が魚の形と稲穂の形を並べたようになっている(蘇)麓を蛇行して流れる川(志)があるところと読み解ける。これも別名表記として立派なものであるが、やはり「楢」には叶わないのでは?・・・「楢」では少々広過ぎたかも。
尚、この地は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、神八井耳命が祖となったと伝えられるが(科野國造)、彼らの系譜は定かではなかったのであろう。いずれにせよ、忘れ去られてしまったような地が、歴史の表舞台に顔を覗かせた記述と思われる。
● 石川女王 無位から従四位下に叙爵され、間違いなく皇孫だと思われるが、系譜不詳のようである。長皇子の子に石川王がいたが、その近隣が出自だったのではなかろうか。兄弟に智努王と智努女王があり、同様の関係のように思われる(こちら参照)。
● 氷上女王 「氷上」は書紀の崇神天皇紀に「丹波氷上」の地名が初見と思われる。また天武天皇が娶った藤原鎌足大臣の氷上娘もあった。勿論、古事記の旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命に由来する地名と解釈した。直近では陽胡女王の臣籍降下後の「氷上眞人陽侯」にも出現した文字列である。
この地には書紀の舒明天皇が足繁く通われた有間温湯があったと推定した場所である。系譜不詳で従五位下の叙爵であり、皇曽孫(多分?)の女王の出自は、おそらく温湯に建てられた行宮だったのではなかろうか。
<巨勢女王> |
● 巨勢女王
引続き系譜不詳で従五位下を叙爵されている女王であるが、頻出の「巨勢」の名称が用いられている。この文字列は、極めて特徴的な地形を表しているのである。
勿論多数の人材を輩出した「巨勢朝臣」の地を女王が出自とするわけではなく、その特徴的な地形を有する別の場所であったと推測される。
少し遡って文字が示す意味を振り返ってみると、「巨」=「空間的に距離が隔たって大きい」を表している。ところが書紀編者は、文字形そのものを地形に当て嵌めたように思われる。巨=谷間に大きな山稜が延び出ている様と解釈した。
余談になるが、一方で古事記は対応する表記を許勢としている。巨(呉音:ゴ、漢音:キョ)↔許(呉音:コ、漢音:キョ)として置き換えられている。地形象形としても、「巨」の中央の四角い部分を杵と見做せば、許=言+午=耕地が杵で臼を突くような様となり、見事に一致しているのである。ただ、見逃してはならないのは、言=耕地であって、山稜ではない。全てではないにしても耕地にされている山稜であることを述べている。
さて、そんな地形が見出せるか?…飛鳥周辺で一際目立つ「勢」があり、その背後に「巨」の地形を図に示した場所に見出せる。舒明天皇の父、忍坂之日子人太子(古事記表記)の出自の場所と推定した。なかなかに興味深い結果になったが、この後に續紀での登場は見られないようである。
中臣一族、その複姓も含めると実に多くの人材が登場する。流石皇統に深く関わった一族だったからであろう。そして伊勢神宮祭祀を統率していたことが如何に強大な権力を有していたかを示しているようである。
眞敷=広がり延びた山稜が寄り集まったところと読むと、意美麻呂一家の西側の谷間が出自と思われる。この地には、先人が居たようで、書紀の天武天皇紀に中臣酒人連に宿禰姓を授けている。系譜不詳なのだが、変遷があって中臣朝臣姓を名乗ったのかもしれない。
重なるわけではないが、文武天皇紀に中臣朝臣石木が登場した。この人物も系譜は定かではないようだが、「眞敷」を含む系列だったのかもしれない。それにしても、中臣の谷間一つ一つが登場人物の出自だった、と錯覚するような有様である。
中臣小殿連眞庭の小殿=三っつの山稜が寄り集まりどっしり台地になったところ、眞庭=山麓で平らに広がった地が寄り集まったところと解釈すると、図に示した場所と思われる。現在は些か地形が変形しているが、国土地理院1961~9年航空写真を参照すると、それらしき様相であることが解る。
● 槻本連若子
「槻本」の氏名は、書紀の天武天皇紀に槻本村主勝麻呂が登場し、多くの褒賞を賜った記事が記載されている。多分天皇の病気に対して医師として治癒に努めた人物だったのであろう。
渡来系の出自と思われるが、その場所を現在の行橋市にある矢留山の西麓辺りと推定した。攝津國の難波河口である(和名抄によると攝津國西成郡の郷名とある)。
更に後に連姓を賜り、槻本連と名乗ったとも記載されている。と言う背景で、若子が示す地形を求めると、図に示した場所が、この人物の出自と思われる。頻出の若子=多くの山稜が延びている地から生え出たところと読み解ける。
通説では、攝津國西成郡ではなく、近江國志賀郡辺りとする解説が多くある。これは、書紀が難波河口付近に天智天皇の近江大津宮があったと記載することから生じた混乱であろう。”近江大津”の意味が曖昧なまま、なのである。古事記では近淡海大江である。
● 熊野直廣濱 「熊野」は、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)が紀國から向かった熊野村を示すと思われる・・・と錯覚するが、後の称徳天皇紀に紀伊國牟婁郡を出自とする人物だったと記載されている。天皇の行幸に際して内位の従四位下を叙爵されている(出自場所はこちら参照)。
● 粟凡直若子
調べると粟凡直の「粟=阿波」であることが分った。即ち古事記の伊豫之二名嶋の粟國に由来する名称だったのである。書紀・續紀におけるこの地からの人物の登場は極めて少ない。
直近の話題としては、文武天皇紀に木連理献上ぐらいであろう。その時にも具体的な人物名は記載されていない。まるで取り残したような扱いなのである。
粟國は、古事記の品陀和氣命(応神天皇)紀に「高木」と表記され、多くの御子が誕生している(こちら、こちら、こちら参照)。そもそも「品陀」は、崖のような斜面に取り囲まれたこの國の地形を表す名前なのである。がしかし、内海の洞海湾がもたらす豊かさを享受していた國でもある。
言い換えると、先進の文化・技術を身に付けた、登用すべき渡来人が少なかったのではなかろうか。古からの住人が住まい、他者を受け入れる地ではなかったように思われる。天皇家に歯向かいはしないが、従順に従う人々ではなかったのである(高志前之角鹿での禊祓を参照)。
横道に逸れ過ぎたので元に戻して、粟凡直の凡=谷間が凡の形をしている様と解釈する。既出の凡川(河)内などと全く同様である。若子は上記に類似して若子=多くの山稜が延びている地から生え出たところとすると、現在の藤木小学校辺りが出自の場所と思われる。この人物は、後宮の命婦であり、後に阿波國造に任じられたそうである。
● 氣太十千代
「氣多」を名乗るのは、大國主命の後裔と言われている。全くの間違いであろう。兄弟の八十神に随って通過した場所に過ぎない。勝手な創作神話にしてはならないのである。
いずれにしても、古事記の記述内容を読み取れず、”神話風”に書かれたものを、神話としてしまったわけである。「氣多=桁」に繋げた解釈は全く見られない。この類まれな地形に気付かず1,300年余りが過ぎたようである。
またまた横道に逸れているので・・・「三千代」=「三つの谷間を束ねる杙のような山稜が延びているところ」と解釈した。ならば十千代は、見事に十ヶの谷間を束ねた杙となろう。図に示したように、前出の佐須岐君夜麻等久久賣の南側の地となる。後に「公」姓を賜っている。
● 大石村主廣嶋
「大石村主」を調べると、渡来系の子孫の氏姓に含まれていることが伝えられているようである。と言っても出自の場所などは不明であり、各地に散らばったと推測されているに過ぎない。
今回の叙位を眺めると、特に”外従五位下”となった者の傾向を見ると、古くに開かれた地(古事記の”祖”の記述のような)でありながら、その地を出自とする人物の登場が極めて少ないところが目立つように思われる。そんな背景で図に示した場所を提案することにした。
現地名は田川郡川崎町池尻にある山稜の端が幾つにも岐れた地形を示すところ、古事記では「菟田」と表記された場所である。白髮大倭根子命(清寧天皇)紀に登場した菟田首等・大魚が記載されている。書紀では「ウダ」と読ませて、所謂「宇陀」との重なりが見られる厄介な地名なのである(書紀の解読には若干曖昧さが残る)。
廣嶋=山稜が広がった鳥のような形をしているところと読めば、図に示した場所がこの人物の出自と推定される。その西側に”大石神社”がある。その由緒はそれなりに古いと伝えられているようであり、残存名称かもしれない。
後(孝謙天皇紀)に大石村主眞人が外従五位下を叙爵されて登場する。眞人=窪んだ地に谷間が寄り集まっているところと解釈すると、「廣嶋」の西隣の場所が出自と推定される。
● 古仁染思・古仁虫名
上記の人物よりも更に情報欠落の有様である。ただ稀有な名称であることから、現在に伝わる姓名について調べると、現在の茨城県土浦市辺りが出自の場所であることが分った。
古仁の「古」=「丸く小高い様」、「仁」=「人+二」=「谷間が二つくっ付いている様」と解釈した。纏めると古仁=丸く小高いところが二つくっ付いた谷間の先にあるところと読み解ける。下野國の「下」の文字形を表していることが解る。これだけでも「古仁」の本貫の地であるように思われる。
染思の「染」=「氵+九+木」=「山稜が水辺で[く]の字形に曲がっている様」、何度か登場の「思」=「囟+心」=「囲まれて窪んだ様」と解釈した。纏めると染思=水辺で[く]の字に曲がった山稜に窪んだ地があるところと読み解ける。真に忠実に地形を表していることが解る。「古」の東麓に当たる。
頻出と言える虫名=山稜の端が細かく三つに岐れているところであり、「古」の南麓を表していると思われる。両名が示す地形は、より一層「古仁」の地であることを明らかにしていると思われる。希少な氏名が日本の古代の姿を伝えているように思われる。
● 上部眞善
「上部」は、全く情報がなく、困り果てるところだが、少し後に「右京人上部乙麻呂」の妻が三つ子を産んだ、と記載される。これで「上部」が示す場所を読み解くことができたようである。
眞善に含まれる既出の「眞」=「匕+鼎」=「窪んだところに寄せ集められたような様」、「善」=「羊+言+言」=谷間に二つの耕地が並んでいる様」と解釈した。纏めると眞善=窪んだ谷間に寄せ集められたように耕地が並んで連なっているところと読み解ける。
上部乙麻呂の乙=[乙]の文字形に曲がった様として、頻出の「乙麻呂」の地形が「眞善」の上流部に見出せる。妻の大辛刀自=平らな切り分けられた刀のような山稜の端のところと読み解ける。その「乙麻呂」の山稜の端辺りと推定される。
元正天皇紀に「右京職言。素性仁斯一産三女」と記載された素性仁斯の東隣の地となる。偶々なのか、何か意味があるのか、全くの不詳としておこう。尚、「上部」はこの後も幾度か登場しているようであるが、その時点で読み解くことにする。
● 忍海連伊賀虫
「忍海連」は、古くは「忍海造」であって、書紀の天武天皇紀の『八色之姓』で連姓を賜っている。出自の場所は、現地名で田川郡福智町上野と彦山川の対岸となる同町市場と推定した(例えばこちら参照)。
余談ぽくなるが、通説の場所は奈良県葛城市で、「忍海」の由来については全く説明不可で、海に関係すると思われる忍海氏の渡来に始まるとのことである(葛城市HP参照)。
奈良盆地の内陸で海に絡めることは端から難しいであろう。日本の古代史は、このレベルである。記紀(紀:卓越した改竄力を評価)、續紀など、正に宝の持ち腐れの有様であろう。
さて、伊賀虫の文字列を読むと、伊賀虫=谷間を押し広げる区切られた山稜の端が三つに岐れているところとなる。図に示した谷間の山稜の形を表していると思われる。この地は、天武天皇紀に「龍麻呂」が獻瑞稻五莖し、軽い恩赦が行われたと記載されていた谷間の西隣である。尚、現在はダム(池)に沈んだ地と思われる。
後(孝謙天皇紀)に踏歌の音頭取りとして外従五位下に叙爵された忍海伊太須が登場する。「伊賀虫」の東側にその出自の場所を求めることができる。伊太須=谷間に区切られた山稜が大きく広がり延びて州になっているところと読み解ける。書紀の天武天皇紀に「忍海造能摩呂」が瑞稻五莖を献上した、そのうちの一つに当たる場所と思われる。
<栗栖史多祢女> |
● 栗栖史多祢女
この女性に関しても全く情報がなく、「来栖史」の氏姓も續紀に登場するのは、今回のみである。名前の表記が示す地形を頼りに出自の場所を纏めてみよう。
「来栖」の文字列も書紀では用いられることはなく、續紀では長皇子の子、来栖王のみである。朧気ながら、この皇子の出自を探索する時に、実は、極めて類似した地形が近隣にあり、選択する必要があった。結局、父親に近い方が合理的か、とした。
ならば、残った場所が本人物に関わるかとしたみたが、現在は広大な宅地に造成されていて、一見では無理な感じを持ったが、国土地理院1961~9年航空写真で、一挙に解決した次第である。上図の右側に示したように、栗の雄花がきちんと延びた地形であり、尚且つ真ん中の山稜が長く延びて広がった様となっていることが解った。
頻出の史=中+又=山稜が真ん中を突き通す様、多禰=山稜の端が広がっている様と解釈した。傍証の無い推定であるが、地形的には十二分に満足できる場所であろう。女性が多く叙爵されているが、後宮の命婦として、多分、写経に貢献があったのではなかろうか。
● 茨田宿祢弓束
「茨田」の氏名は、直近では元正天皇紀に茨田連刀自女が唱歌師として褒賞された記事があった。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の子、日子八井命が祖となった「茨田連」を受け継ぐ場所が出自と推定した。
この人物も、その一族かと思われたが、調べると、宿祢姓を賜ったのは後であって、この時には無姓であったことが分った。更に「連」ではなく「宿祢」としていることも別の氏族であることを示している。
後に孝謙天皇が「智識寺」に行幸された時に「弓束女」の家を行宮とした、と記載されている(その後に正五位上を授かっている)。そして、更にこのは、河内國大縣郡にあった、と記載されている。となれば、「弓束」の出自の場所は「大縣郡」にあったと推測される。
「弓束」は、そのまま素直に読み解ける。弓束=弓なりの山稜を束ねたところとなるが、意外に地形で再現している場所は見つけ辛いようであるが、図に示した谷間が弓なりの山稜で囲まれている様子を表しているのではなかろうか。現在の地図でも確認されるように、見事な棚田が並んでいる谷間の地である。茨田=棚田、である。
後に登場の智識寺は、勿論地形象形表記であろう。頻出の智=矢+口+(日)炎=[炎]のような地の傍らに[鏃]の形の地がある様と解釈した。識=言+戠=耕地が区分けされている様と解釈され、「鏃」の形の山稜が耕地がある谷間に延びているところを表していることが解る。おそらく、本寺は延び出た[鏃]の山稜の付け根辺りに建立されていたのであろう。
四月の記事で茨田宿祢枚麻呂が外従五位下に叙爵されている。枚=木+攴=山稜が細かく岐れている様であり、図に示した場所が出自と推定される。「弓束」との関係は不詳のようである。
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正月の一月だけで、実に長文になってしまった。登場人物の数もさることながら、何とも古めかしい地を出自に持つ人物が多く含まれていた。なかでも古事記の「氣多」がそのまま記載されていたのには、驚きであった。”神話”に登場する地名として、真面に取り上げられていないようである。ブログ本文で述べたが、「氣多」が解読されていない現在の古代史は、全く頼りにならない代物であろう。
記紀・万葉集などに少しでも興味があるなら、知らない人がいないほどに著名な大伴家持の出自の場所を求めることができた。父親の旅人の登場時に家持は何処か?…と思いながら今日に至ったが、地図というものは、飽きるくらいに眺めるものとあらためて知らされた思いである。
「熊野直」、「楢原造」、「粟凡直」は、その地を出自を持つ具体的な人物名が登場して、あらためてその地の比定の確からしさを感じることができた。また「古仁」、「上部」など、全く登場していなかった氏名の出自を関連する情報から求めたが、再確認の要があるとは言え、実に見事に当て嵌っているようである。
ともあれ、久々に多くの時間を費やす羽目になった。が、得られた情報は極めて多く、貴重である、と信じられる。
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