2019年2月26日火曜日

大碓命の系譜(再) 〔321〕

大碓命の系譜(再) 


大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の御子の一人、小碓命(倭建命)の兄に当たる大碓命の”事件”が記載される。初見でも・・・極めて難しい解釈が必要となる段である。読み解くことではなくてこの説話の意味である。何を伝えようとしたのか、そんなことを考えながら見てみよう・・・と述べたが、今もってすっきりとした解釈は得られていない。

確かに三野の地の詳細を告げようとしているのであろうが、これがまた難解な表記なのである。大まかには紐解けていたが、再度試みた結果を纏めてみようかと思う。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

於是天皇、聞看定三野國造之祖大根王之女・名兄比賣・弟比賣二孃子其容姿麗美而、遣其御子大碓命以喚上。故其所遣大碓命、勿召上而、卽己自婚其二孃子、更求他女人、詐名其孃女而貢上。於是天皇、知其他女、恒令經長眼、亦勿婚而惚也。故其大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖。
[ここに天皇は、三野の國の造の祖先のオホネの王の女の兄姫弟姫の二人の孃子が美しいということをお聞きになって、その御子のオホウスの命を遣わして、お召しになりました。しかるにその遣わされたオホウスの命が召しあげないで、自分がその二人の孃子と結婚して、更に別の女を求めて、その孃子だと僞って獻りました。そこで天皇は、それが別の女であることをお知りになって、いつも見守らせるだけで、結婚をしないで苦しめられました。それでそのオホウスの命が兄姫と結婚して生んだ子がオシクロのエ彦の王で、これは三野の宇泥須の別の祖先です。また弟姫と結婚して生んだ子は、オシクロのオト彦の王で、これは牟宜都の君等の祖先です]

大碓命はこんな事件を引き起こして、天皇と疎遠になり、挙句に小碓命、即ち倭建命によってあっさり抹殺されてしまうという筋書きなのである。天皇が娶ろうとした比賣をこっそり横取り、挙句に代わりの比賣を宛がうなど、血迷ったか!…のような話なのだが、ただでは済まされない事件を起こしたことは誰にでもわかる、敢えて行った理由は?…この二人の比賣が迷わせたか?…難しい。

小碓命の挙動はかなり正当化されるわけだが、それだけのことでもなさそうである。いずれにしろ大碓命はそれまでにしっかり祖となる地を持ち、流石三野国造の祖である大根王の力であろうか、容姿麗美な比賣の子供は三野の地に根を張ることなったと言う。

大碓命が祖となった「守君、大田君、嶋田君之祖」と併せて紐解いてみよう。
 
守・大田・嶋田
 
<大碓命(祖)>
いつものことながら簡単明瞭…いや明瞭でなく簡単なだけ。こんな時は安萬侶くん達にとって説明不要の場所と思うべしである。

「守」=「杜」、「嶋田」=「中州(川中島)の田」として、読んでみると・・・。

大国主神の子、大山咋神が坐した地に近淡海國之日枝山が登場した。

その解釈で「稗(田)」=「日枝(田)」を見つけたところに「宮の杜」がある。

そこは難波津の真中、近淡海国の中央に当たるところ、現在の福岡県行橋市上・下稗田辺りと推定される。

さて、名称の通りの地形が見出せるのか?…州の中に州が入り組む、真に州だらけの地であることが判る。人々が水田を作り住まうには実に適したところ、がしかし氾濫する川の防御が不可欠なところでもあったと思われる。

「嶋田」はその文字通りに中洲にある田を示すのであろうが、「守」、「大田」は何と紐解くか?…「守」は仁徳天皇紀に登場する大山守命と同様に紐解くと…、
 
山麓に蛇行する川があるところ

…となる。標高からして深い谷ではないが、現在の宮の杜の南端の谷の地形を示していると思われる。また「大田」も真にありふれた表記ではあるが…、
 
大(平らな頂きの山陵)|田

…と紐解ける。山稜の端にあってなだらかな頂を示すところの麓を表しているように思われる。三つの君は、現在の行橋市上稗田の場所に坐していたことを伝えているのであろう。

未開の地、近淡海国の「鎮守の森」である。「大碓命」について古事記の扱いは小碓命の影に隠れてしまうが、地元では開拓者としてそれなりに評価されたのではなかろうか。

「稗田」は「日枝神社」の発祥の地である。この地より「国譲り」で現在比叡山を本山として全国に散らばる神社となっている。侮れない重要な地である。愛知県豊田市(国譲り前は「三川之衣」)にある猿投神社が「大碓命」を祭祀する。近世以降に祭祀されたとしても何らかの「国譲り」の捻りがあるのかもしれない…これも大碓命の謎の一つである。
 
押黑・三野之宇泥須・牟宜都

三野で生まれた御子が「押黑之兄日子王・弟日子王」である。そしてそれぞれが「三野之宇泥須和氣、牟宜都君」と記述される。押黒、三野之宇泥須、牟宜都を紐解いてみよう。
 
「押黒」は何と紐解けるか?…「押」=「手を加えて田にする」、「黑」は、黑田廬戸宮の解釈と同じとして「山稜の端が細かく分かれた傍らにある稲作地」と解釈する。「押黑」は…、
 
手を加えて田にした山稜の端が細かく分かれた傍らにある稲作地

…と読み解ける。現地名は京都郡苅田町提(ヒサゲ)辺りと思われる。この地名が古くからあったものであろうが、由来は不詳。

先に「牟宜都」を紐解くことにする。頻出の「牟」は、やはり[牟]の字形を象った地形を意味するのであろうが、果たして見出せるのか?…「宜」=「山麓の段差がある高台」であろう。伊豫の粟国の謂れ、大宜都比賣と同様に解釈する。「牟宜都」は…、
 
牟([牟]の形)|宜(山麓の段差がある高台)|都(集まる)
 
…「[牟]の形に山麓の段差がある高台が集まっているところ」と紐解ける。現在の京都郡苅田町松山辺りと思われる。
 
<大碓命の御子>
何とも期待を裏切らない配置である。頻出の[牟]の形は、山麓に現れる自然の造形美なのであろうか・・・。

稜線が端が長く伸びて天然の「湾」の地形をしていたものと推察される。洞海湾ほどではないにしても漁獲が豊かだったであろう。

粟国と同様に「魚(宜)が集まる」ところでもあったと思われる。両意に重ねられた表記のように思われるのだが、如何であろう。

さて残った「三野之宇泥須和氣」は何と解釈するか?…ありふれた文字列のようにも感じられるが、「泥」の解釈に一工夫を要すると思われる。

「水田、~ではない(呉音:ナイ)」とすると「宇」「須」が一般的な表記であることから場所が特定されない。何かを告げようとしているのだが・・・。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解されて、それそれが左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったものと解説される。水が媒介してところでくっ付き合っている状態を表す文字と読み取れる。当に「泥(ドロ)」なのであるが、これを地形象形に用いると…、
 
宇(山麓)|泥(くっ付いている)|須(州)


<大根王>
…「山麓でくっ付いているの州」と紐解ける。上図に示した通りに山稜の端がくっ付いたように海に突き出ている場所である。「尼」仏教で使われる意味では、勿論、ない。

北九州市小倉南区朽網東(三野国と比定)に「宇土」という地名(実際には交差点名)が残っている。残存地名として見做せるものではなかろうか。

「三野國造之祖大根王」は何処にいたかを推定するのだが、「大根」=「大きな山稜の端」と解釈すると現地名北九州市小倉南区朽網西に広がる地が見出だせる。

残念ながら大規模な団地に開発されており、当時の地形を伺うことは叶わないようであるが、山稜の端が大きく迫り出していたところと伺える。
 
――――✯――――✯――――✯――――

残存地名、地形象形の確かさから、上記の比定作業の確度はかなり高いものと思われる。いずれにしても三野の地は極めて重要な地点であったことが伺える。これらの御子のお陰で三野の地の詳細が見えてくる。まさかそのために説話を載せた…そんな訳はないであろうが…神武天皇が大倭豊秋津嶋に上陸した「熊野村」はひょっとするとこの「押黒」だったのかも、である。

小碓命は、兄を亡き者にはしなかったのではなかろうか。天皇への報告は兄を庇ったもの、そうとも言わなければ事の決着は見られず、ってところであろう。他の史書などでは生き長らえたとのことであるが、それが真相であろう。それにしても、この大碓命を主祭神にする神社があるとは…謎である。三野から尾張、更には三川まで逃げたのか?・・・直線ルートで10km弱、ではあるが。
 

2019年2月22日金曜日

古事記の『恵賀』 〔320〕

古事記の『恵賀』

古事記に「恵賀」が登場するのは、仲哀天皇紀に「御陵在河內惠賀之長江也」と記載されたところである。その後も必ず「河(川)内」と冠されている。とういうわけでこの「恵賀」は河内にあった場所であることは自明なのであるが、広い河内の何処であるかは詳らかではない。

「長江」など更なる文字が付加されていることを頼りに何とかそれらしき場所は突止められる。陵墓の通説は、全く当てにならず、ほぼ日本書紀の記述に拠っているようである。繰返し登場する「恵賀」は歴としてある特定の場所を示していると思われるが、お構いなしである。

そんな背景で、やはり「恵賀」の文字解釈をきちんと行ってみようかと思う・・・と講釈が長くなっているが、何を隠そう「恵」の文字について、漸く納得いく解が得られたことに依存する。前記の崇神天皇紀の和風諡号「御眞木入日子印惠命」に含まれているからである。

1.河內惠賀之長江

<河内惠賀之長江>
仲哀天皇「河內惠賀之長江」、神功皇后は「狹城楯列陵」に夫々埋葬されたとある。「河內惠賀之長江」は何処であろうか?・・・。

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)に含まれる「惠」の解釈と同じであろう。「惠」=「叀(糸巻き)+心(心臓)」の象形した文字とされる。

「糸」=「細い山稜」とすると…「恵」は…、
 
山稜に囲まれた中心にある小高いところ

…を表していると紐解ける。

「賀」は、既出の速須佐之男命の須賀宮、内色許賣命の比賣・伊賀迦色許賣命の解釈と同じく、「賀」=「挟まれた(囲まれた)地が押し拡げられた様」とすると・・・「惠賀」は…、
 
山稜に囲まれた中心の小高い地が谷間を押し拡げたようなところ

…と読み解ける。当時の海岸線(推定:図中水色の破線)は大きく内陸部に入り込んでいて谷間に沿って細く長い入江が形成されていたと推測される。海岸線の全体図はこちら
 
<狹城楯列陵>
その中でも最も奥にまで及んでいたいたところ、現在の行橋市長木辺りを示していると思われる。

御陵の場所を特定するのは難しいようで、入江の中央にある小高いところではなかろうか(図中黄色の破線円)。
 
后の御陵が記載されるのは数少ないが、その内の一つである。ついでと言っては語弊があるが・・・。

「城」=「土+成」=「整地された高台」と読む。戦国時代の城のイメージではないが、外れているわけではない、城は高台にあったようである。


既出の大国主命が娶った神屋楯比賣命の「楯」=「斧で切り取られたような隙間がある地(山稜)」と紐解いた。「列」=「連なり並ぶ」とすると…「狹城楯列」は…、
 
狹(狭い)|城(整地された高台)
楯(切り取られたような隙間がある地)|列(連なり並ぶ)

…「狭いが整地された高台が切り取られたような隙間が連なり並ぶところ」にある稜と紐解ける。御陵の位置は定かではないが、現在も広い墓所になっている様子である。

2.川內惠賀之裳伏岡

品陀和氣命(応神天皇)の御陵である。「凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也」と記載される。
 
<川內惠賀之裳伏岡陵>
百三十歳(六十五歳?)でお亡くなりになった。川內惠賀は「河内国にあった恵賀」で、上記の仲哀天皇(河内惠賀之長江陵)と近隣と解釈する。

「裳」=「ゆったりとした衣」の意味とあるが、「衣」=「山麓の三角州」と紐解いた(「許呂母」とも表記される)。すると…、
 
裳(ゆったりとした山麓の三角州)|伏(平たく延びる)
 
…「ゆったりとした山麓の三角州が平たく延びる」ところと読み解ける。


<八雷古墳・八雷神社>
「岡」は山稜に挟まれた中央にある小高いところを示す。実に丁寧に約束事を守っているようである。地形象形的にも全く申し分なしの場所と思われる。倭建命の白鳥御陵は、その北側に接するところとなる。

いつものことながら御陵の場所を特定することは難しいが、この岡に八雷古墳が現存している。詳細は行橋市のサイトを参照願う。現地名は、長江陵と同じく行橋市長木とある。古墳の画像を拝借。

少し変形の前方後円墳だとか、埋葬された人物は不明だが「ヤマト政権と強いつながりを持っていたことがわかります」と結ばれている。

3.河內之惠賀長枝

男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)、仁徳天皇の四男である。墓所がある兄弟は全て父親の「毛受」に絡んだところであるが、些か離れた、と言って近隣の地に葬られたのであろう。何だかこの兄弟は仲の良い感じである。


<河內之惠賀長枝陵>
長枝の「枝」=「木+支」で「山稜が分かれる」と読むと、「長枝」=「長い山稜が分かれたところ」と紐解ける。

河內惠賀之長江陵の更に下流域(北方)に山稜が延びて、その先が分かれているところが見出せる。

現地名は行橋市吉国だが、二塚との境辺りである。陵の場所は、現在の八社大明神社辺りかと思われる。

全体の位置関係は、図<長田大郎女・河内之惠賀長枝陵>参照。

少し北側、「恵」を取巻く北側の山稜の一部は毛受である。上図<河内惠賀之長江>を参照願う。この近隣に…凄まじいくらいに…陵墓が多く集まっていたと伝えている。


<長田大郎女・河内之惠賀長枝陵>
陵墓の名称は、最も難しい紐解きになる。既に述べてように記憶するが、それは盗掘のリスク回避のようにも思われる。

本ブログも何とかそれを解き明かそうと試みて現在に至る。かなりの墓所を求められた思うが、まだ道半ばのようにも感じられる。

いつの日か、宮の一覧を作成したように御陵の一覧も作成してみようかと思う。

最後に墓所ではないが建小廣國押楯命(宣化天皇)紀に恵波王が登場する。

之若子比賣を生んだ御子の一人である。この王の在処は…、


恵波=[恵]の端

…と読める。現在の二塚辺りと推定される。白鳥御陵の白鳥の尾、である。この時代になってようやく河内(川内)は墓所から脱却できた、のであろう。近淡海国の宗賀一族の勃興と時を同じくしている。
































2019年2月19日火曜日

沙本毘賣命(佐波遲比賣命):品牟都和氣命(本牟智和氣命) 〔319〕

沙本毘賣命(佐波遲比賣命):品牟都和氣命(本牟智和氣命)


開化天皇の御子、日子坐王が春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣を娶って誕生したのが、「沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘賣命・亦名佐波遲比賣(爲伊久米天皇之后)」と記述される。そして伊久米天皇に対する沙本毘古王の謀反を沙本毘賣命が告知して、この兄妹は命を落とすことになる。

不幸なことにその時点で沙本毘賣は天皇御子を身籠っており、結局その御子のみが生き永らえたという、真に悲哀な物語が記載されている。悲しい運命を背負った御子なのであるが、彼が主人公となる説話もそれなりの長さで語られるのである。詳細はこちらを参照願うとして、御子の名前について、詳細に紐解いてみようかと思う

古事記原文…、

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。此天皇、娶沙本毘古命之妹・佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命。一柱。

記述の様式に従って、その名前「品牟都和氣命(ホムツワケノミコト)」が最初に登場する。その後、謀反の件の記述の後に沙本毘賣が御子を天皇に預けるところで「凡子名必母名」なのであるが、まだ名付けられておらず、天皇に任せるという流れになる。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

亦天皇、命詔其后言「凡子名必母名、何稱是子之御名。」爾答白「今當火燒稻城之時而火中所生、故其御名宜稱本牟智和氣御子。」又命詔「何爲日足奉。」答白「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」故、隨其后白以日足奉也。又問其后曰「汝所堅之美豆能小佩者、誰解。」美豆能三字以音也。答白「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比賣、弟比賣、茲二女王、淨公民、故宜使也。」然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦從也。
[また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子の名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫えひめ・弟姫おとひめという二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました]

「汝所堅之美豆能小佩者、誰解。」なかなかの言い回し。流石に天皇、着替えも従者がする。もっと意味深く、后は心得て対応する。しかし、シナリオを后に喋らさせるという小賢しい設定でもある。

御子は「本牟智和氣(ホムチワケ)」と名付けられたと伝える。上記の品牟都和氣命(ホムツワケノミコト)」とは微妙に異なるが「ホム」の語幹があっていることで先に話を進めよう。さて、その由来は何と解する?…「火中所生」の「火=ホムラ」と掛けられていることは判るが…、
 
本(沙本)|牟(奪う)|智(火の傍らで得る)

…「沙本を奪って火の傍らで得た」和気のような感じであろうか・・・些かゴリ押しの感がある。「智」=「知(得る)+日(火)」と解釈する。通うじないわけでもないようであるが、やはり真面目に地形象形しているのではなかろうか・・・。


<本牟智和氣>
「本」=「沙本」で「沙の麓」を表すことに変わりはなく、「牟」=「[牟]の地形」を象ったものであろう。

「智」=「知+日」と分解され、更に「知」=「矢+口」と粉々にする。

これも既に幾度か行った分解である。和知都美命などに含まれていた。

すると「日(炎)」と「矢口(鏃)」の地形があるところを示すと紐解ける。

後にこの地に智奴王が坐した場所と比定することになる。本牟智和氣が古事記に登場するのは垂仁天皇紀以降には見当たらないようである。

必要なところを繋ぐと…、
 
沙本の[牟]の形の地にある[炎]と[鏃]の地形

…の和氣(嫋やかに曲がった様子の地)と紐解ける。母親の沙本毘賣命の許にあって、真に御子の出自の場所を丁寧に表す名前であることが解る。

では「品牟都和氣命」は?…、
 
品(段差)|牟([牟]の地形)|都(集まる)

<師木登美豐朝倉曙立王>
…「段差の地と[牟]の形の地が集まるところ」と紐解ける。全く矛盾のない地形象形であろう。

御子の出雲行幸に随行した曙立王は師木登美豐朝倉曙立王報償される。これに含まれる「豐」=「段差の高台」を示す。実に丁寧に重ねた表現と思われる。

「沙本」一族は霧散することになった。それは天皇に反旗を翻したのだから当然の結果であろう。

ただ一族は場所を変えるなり、何らかの変遷を経て生き延びたようである。

この御子は名前を変え、そして信頼できる臣下である曙立王の庇護の下で暮らすことになったのであろう。大物主大神の祟りから解き放たれて安穏に暮らせたのか、どうかは知る由もないのだが・・・。

2019年2月17日日曜日

大中津日子命 〔318〕

大中津日子命


伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命を娶って誕生した五人の御子の一人、前記の印色之入日子命及び大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)の弟に当たる。

既に本ブログで<「大中津日子命が祖となった地 〔217〕>で紐解いたが、再度の加筆・訂正を加えてみた。重複するところもあるが、その段、全体を示すことにする。

古事記原文…、

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。此天皇、娶沙本毘古命之妹・佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命。一柱。又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音、次大帶日子淤斯呂和氣命自淤至氣五字以音、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。又娶其氷羽州比賣命之弟・沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命、次伊賀帶日子命。二柱。

次期景行天皇の直ぐの弟、大中津日子命の活躍は目を見張るものがある。建国草創期に「言向」だけで領地の拡大をすることができたケースではなかろうか。祖となる記述…「山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也」

「中津」が示す地名は何処であろうか? 九州東北部に限っても多くある地名、だが、旦波国の中にある、正確には地名ではなく、それとなく残っている場所であろう。現在の福岡県行橋市稲童にある石堂池近隣、母親の氷羽州比賣命の在所(氷羽州)としたところに仲津小学校、中学校がある。この場所こそ「旦波国」の中心、宮のあったところであろう。

氷羽州」の解釈(地形)、御子の名前に刻まれた中津、現在の地名(学校名)との合致は比定を確信させるものと思われる。間違いなく大中津日子命は現在の行橋市稲童(もしくは道場寺)の石堂池辺りに居た。余談だが小中学校名に旧地名に基づくものが多多見受けられる。真に好ましい限りである。

そこに生を受けた彼は兄の天皇の庇護のもと思い切り羽ばたいたのであろう。既述された順番に別()の場所を当て嵌めてみよう。
 
山邊之別
 
<許呂母・飛鳥・山邊>
何の修飾もなくいきなり地名となる一般的な文字、読む者にとって判り切ってるから記さない、常套手段である。

「師木」から見ての「山辺」であろう。近接するところは一である。

大坂山山塊の西麓、御祓川の北岸の場所と推定される。現地名は田川郡香春町中津原である。

「中津」が残っている。現在の地名が示す領域とは異っていると思われるが…。

近隣と思われる「許呂母」「飛鳥」も併せて示した。
 
三枝之別
 
<三枝之別>
天津日子根命が祖となった「三枝部造」と同じところを示していると思われる。

現地名、京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝である。生立八幡神社辺りで犀川に合流する喜多良川の川上にある。

当時は大字の喜多良、もう少し川下の大熊も含めての領域だったかもしれない

現地名との類似性からの判断だけでは何とも心もとない、図に示したように三本の稜線が集まったところを意味しているのではなかろうかと推測した。

安萬侶コード「木(山稜)」を用いて「枝」=「木(山稜)+支」と分解すると…、
 
枝=山稜が分かれた
 
…ところとなる。集まる感じではない。更に詳細に地図を眺めると、稜線の端が三つに分かれていることが見出だせ、この特徴的な地形を象形した表現と思われる。

<三枝>
師木から山代国、旦波国へ向かうバイパスルート、少々距離は長くなるが、比較的なだらかな山道と見受けられる。

大坂山南麓のルートは急坂の連続であり、馬による移動でなければかなりの労力を必要としたのではなかろうか。

修験道については古事記は語らないが、英彦山登山道への追分(分岐点)でもあったと推測される。当時は重要な交通要所であったのではなかろうか。

尚、師木へのルートとして要所であったかと思われる「阿太」の場所を示した。詳細は下記に述べる。

以前にも書いたが、天津日子根命と大中津日子命との名前の類似性が興味深い。何らかの繋がりが…と思いつつも、不詳である。
 
稻木之別

<稻木>
そのままの意味は刈取った稲を掛ける木組みの名称である。

一般名称で名付ける筈はないので、地形象形していると推測される。

関連する記述では同じ垂仁紀の説話に沙本毘古王が立て籠もった「稻城」がある。

「城(キ)」=「木(キ)」とすれば、この城を指し示すか、などと思い巡らすことになるが・・・やはり安萬侶コード木(山稜)」であろう。
 

稻木=稲のような山稜
 
…「稲穂が実った形の山稜」と紐解ける。果たしてそんな地形があるのか?…どうやらそれらしきところが図に示したところと推定される。住まったのは穂先に当たる現地名田川郡赤村赤の道目木・常光辺りと思われる。
 
阿太之別
 
<阿太>
阿太の「阿」=「阿()」=「赤」村と解釈し、「太」を探す。現地名は田川郡赤村赤(大原)、近隣は大伊良、岡本、「オ」が付く地名が並んでいる。

彦山川支流の十津川…どこかで聞いたような川の名前…の傍にある。山間の開けたところでもある。
 
阿太=阿(台地)|太(周りが大きい)

…「周囲が大きい台地」と紐解ける。黄色破線で囲ったところが台地形状を示していることが判る。山間にあって極めて特徴的な地形である。

現在は広々とした水田になっているようであるが、古くから開けたところであったろう。

山麓に近づくと棚田になり、それも含めると圧倒される広さを誇っていることが伺える。

当然ながら現在の様相とは大きく異なっていたとは思われるが、原形を留めているのではなかろうか。三枝への行き来をする上において山口となる地点であったと推測される。人々の交流と共に豊かな土地であっただろう。
 
尾張國之三野別
 
<尾張国之三野別>
「三野国」と区別して記述していると考え、尾張国の近辺にある現地名の北九州市小倉南区隠蓑が該当するのでは?…と初見で紐解いた。

「三野」=「蓑」としたわけだが、この地名の由来は戦いに敗れた平家の安徳天皇が蓑に隠れたところとのことである。

それはそれとして地形象形の「三野(箕)」はないのであろうか?…あらためて地図を詳細に調べて見ることにした。

すると通常の地図では判別しかねるが、国土地理院起伏陰影図で見ると明瞭な「箕」が見出だせる。

当時はより鮮明な凹凸を示していたかと推測されるが、山稜の端の端にあるところ、現地名は北九州市小倉南区横代南町である。この地は幾度か古事記に登場する。関連するところを修正する。
 
吉備之石无別
 
<吉備之石无別>
「石」=「石(岩)」として「无」は何と解釈するのか?…「无」=「大+一」と分解される。地形象形的には平らな頂を持つ山稜を横切るところであろう。
 
岩の山稜を横切るところ

…と紐解ける。「吉備」は既に幾度も登場しているが、現地名は山口県下関市吉見、その近隣の大字永田郷石王田辺りを示していると推定される。

「无」=「豊かな」という意味を持つとある。岩が豊富な場所の意味も重ねられているようでもある。現地名石王田、その近隣の石原などに繋げられる表記と推測される。

「吉備」の場所は仁徳天皇紀の説話から求められる。神倭伊波禮毘古命もその地に何年か滞在するところでもある。仁徳天皇が后の嫉妬をものともせず黒比賣を追って向かう説話は真に貴重である。結果的に伊邪那岐・伊邪那美の国生み「吉備兒嶋」の場所もかなりの確度で導き出せるようになる。

どんな処?…近くの遺跡から縄文時代のガラスが出土したとか…。

余談だが・・・吉見、永田郷の考古学的探査、必至かな?…歴史学、考古学分野に携わる若者達へ、これらの場所は「宝」の山ですよ、吉備?…吉見?…君が立ち上がらねば!・・・日の本学び舎の米足部が露呈する現在の日本の忖度社会構造に屈してはならない!!
 
許呂母之別

「許呂母」=「衣」あろう。と、すると「三川之衣」か?…足立山の「襟巻」ではない。「衣」の語源は「襟」の象形である。切立つ山の麓にあって、裾野を流れる川が作るV字の地を「襟」に象形した、見事な表現である。それはそれとして、三川のではないとなると、やはり師木の近く、である。

香春一ノ岳の南西側から見た「襟」、金辺川と五徳川に挟まれた三角州を指す。現地名は田川郡香春町香春長畑・中組である。いやぁ、それにしても多彩な統治領域、獅子奮迅のお働きである。彼の後裔が?…その記述は見当たらない。上図<許呂母・飛鳥・山邊>を参照願う

「許呂母」を紐解いてみよう…、
 
許(下:麓)|呂(積み重なった大地)|母(両腕で抱える姿)

…「積み重なった大地の麓を両腕(二本の川)で抱える地形」と読み解ける。「衣=襟」の地形象形と思われる。凄まじいくらいの当て字の活用であろうか・・・。孝霊天皇の御子、夜麻登登母母曾毘賣命に含まれる「母」の解釈に類似する。

高巢鹿之別

<高巢鹿・牟禮>
一見、難しそうな文字列であるが、なんともトンデモない場所であった。「鷹()巣山」高住神社、鷹巣高原そして英彦山に連なる。

「鹿」=「麓」である。もうこれは国境、現在は県境、である。現在の鷹巣山の北方に山口がある。その辺りが「別」と見做されていたのではなかろうか。

後の世になるが、「お菊」の伝説があると言う。この地は「毛の国」に向かう重要な交通拠点としての役割を果たしていたのであろう。

図<高巢鹿>に鷹ノ巣山及び英彦山の位置を載せた。今に残る修験道の聖地である。「高巣鹿」は盛んに人々が往来したところであったと思われる。

「高巣」=「高いところの住処」と解釈することができる。修験者が住んでいたことに繋がる表現である。高住神社の「高住」はそのまま残存した地名と推察される。

飛鳥

これのみ「君」である。飛鳥は香春一ノ岳周辺で、その領域の確定は難しいが、上述の「許呂母」からすると、現在の香春神社辺りを示すと推測されるが(現地名田川郡香春町の前村・山下町辺り)、その根拠は求められるのであろうか?…古事記の中で「飛鳥」の文字はこれが初出である。逆に言うと、後の「遠飛鳥・近飛鳥」で登場する前に「飛鳥」と名付けられた地名があったことになる。

これを解くヒントは邇藝速日命の「鳥見之白庭山」にあった。「登美」は以音であって本名は「鳥見」と気付いたことに端を発する。ただ、「鳥見」の記述は古事記になく、なおざりな取扱いになっていたのである。あらためて「鳥見」は何と解釈できるのであろうか?…、
 
<戸城山と香春一ノ岳>
鳥見=鳥が見える

…と単純に読み解くと、見晴らしの良い高台のイメージである。確かに大坂山からの枝稜線の端にある戸城山は背後に聳える大坂山の方向を除き見事に視界が開けたところと思われる。

だが、それだけのことで命名したとは思えない。何かを意味していると思われる。

図に示した通り、戸城山の頂上付近以外では香春一ノ岳、その麓までは目視できない地形であることが判る。大坂山山稜が延びて遮っているのである。

とすると、「鳥」=「香春一ノ岳」を意味することになる。何故、鳥?…思い付くのが一ノ岳の山腹の模様を示しているのではなかろうか。残念ながらこの山は図に示した有様であって確認不能であるが、サイトでは元の姿を留める写真などが見出だせる。


<在りし日の香春岳>
驚くべきことにこの山は円錐形とは程遠いかなり歪な形で、岩山に見られるゴツゴツとした山容をしていたことが伺える。更に左の写真は南に伸びる主稜線(香春二ノ岳、三ノ岳を結ぶ)に対して枝稜線が、正に鳥の翼にように広がっている、しかもそれが少し折れ曲がったような形をしているように受け取れる。

主稜線を「鳥」の胴体とし、折れ曲がった枝稜線を二つの翼と見做した「飛ぶ鳥=飛鳥」と名付けていたと気付かされる。更にこれが見える方角は「鳥見之白庭山(戸城山)」からの眺望に一致するのである。上記の写真の視点からは、ほんの少し右(東)よりの方角に当たる。

あらためて見てみると、現在も異様な山容ではあるが、元の姿は自然造形でできたもっと異様な姿をしていたと思われる。即ち「飛鳥」は一に特定できる、間違うことなく辿り着ける場所、香春一ノ岳であったと結論できる。最も古くに正一位を授かったと知られる。何故?…この香春神社が、と誰もが思うところであろう。邇藝速日命が見た山に鎮座する神社である。倭の歴史を目の当たりしてきた神が宿る場所である。飛鳥君の坐した場所は図<許母呂・飛鳥・山邊>を参照願う。

仁徳天皇紀の「遠飛鳥・近飛鳥」の説話と全く矛盾のない記述であり、この「飛鳥」と「隼(人)」を登場させ、更に幾重にも掛け合わせた表現をしていたのである。恐るべし、安萬侶くん、である。「万葉」の意味をあらためて思い知らされた気分である。
 
牟禮之別

最後の「牟禮」はなんとも牧歌的な雰囲気、「牛の鳴き声が時を知らせる」ちょっと飛躍があるかも…。田川郡赤村にある「犢牛岳(コットイタケ)」の近くであろう…初見での解釈であるが、牛との繋がりは到底見出すことはできないようである。また古代朝鮮語では「山」の意味とか、山を「別」にすることはできそうにない、であろう。

やはり「伊波禮」「比布禮」などと類似すると見做すのが適切と思われる。「禮」=「山(神)裾の高台」と解釈すると…、
 
牟([牛]の字の地形)|禮(山裾の高台)

<牟禮>
…「[牛]の字をした山(=神)を祭祀する山裾の高台」と紐解くと、祭祀の山(=神)は現在の英彦山として田川郡添田町英彦山の場所と推定する。

英彦山神宮など祭祀の場所として現在も山裾に広がる集落が見られるところである。

「牟」=「ム+牛」として、三つの頂上(北、中、南岳)を持つ英彦山を地形象形していると思われる。

英彦山はかつては「日子山」と名付けられていたとのことである。「日子」は多く古事記に登場するが、大中津日子命に由来するかも・・・。

主祭神である天忍穂命に「日子(稲)」はまだ付かず、その子邇邇藝命になってからである。邇藝速日命も邇邇藝命も天忍穂命の御子、神として祭祀するのは父親か?…不詳である。「牟禮」の場所は上図<高巢鹿・牟禮>も参照。

<大中津日子命:祖の地>
図を参照すると、出来上がった図が示すものは香春一ノ岳、畝火山を中心として、北限の吉備(更にその北限)と南限の高巣鹿・牟禮に跨る南北ラインを統治したことを表している。

師木に都を敷いた崇神天皇の次期天皇である垂仁天皇は、旦波国出身の大中津日子命に都近隣の土地を抑えさせると共に南限北限を見極めさせたのであろう。

これから拡大膨張する国の将来に向けて、その地の情報、衣食住及び戦闘に不可欠な人材と資源の確保に動いた、と思われる。草創期に打つ手として重要なことに最善を尽くした、というべきであろう。

先に進めば、倭建命の登場となるが、彼が行ったのは「言向」だけで統治へと進められなかった場所の「和平」であった。

大中津日子命などの先達の「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。大中津日子命が祖となった地は当時の交通の要所であったことが、この推察を示唆するものと思われる。

当然と言えばそうだが、紐解くと実感として受け入れられる記述である。いずれにしても垂仁天皇は賢帝としての雰囲気を十二分に醸し出している様子である。




2019年2月14日木曜日

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇):印色之入日子命 〔317〕

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇):印色之入日子命

伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命を娶って誕生したのが印色之入日子命、大帶日子淤斯呂和氣命(次期の景行天皇)、大中津日子命、倭比賣命、若木入日子命の五人で、それぞれの活躍の記述がなされる。中でも印色之入日子命の働きは極めて特色のあるもののように伺える。

名前に含まれる「印」は、前代の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)にも見受けられ、それ自身が特異な地形を象ったものであろう。なかなかこの地形象形が読み解けず、今に至ったのであるが、崇神天皇の居場所が解けて、この命の居場所も確定したようである。初見の場所と異なることはなく…現存地名「錦」は重要であろう…読み解くことができたようである。説話の部分も併せて再掲する。

古事記原文…

伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也。此天皇、娶沙本毘古命之妹・佐波遲比賣命、生御子、品牟都和氣命。一柱。又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命印色二字以音、次大帶日子淤斯呂和氣命自淤至氣五字以音、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。又娶其氷羽州比賣命之弟・沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命、次伊賀帶日子命。二柱。


<印色之入日子命①>
「印色」で、「以音」とある。旦波国の中に「印色(イニシキ)」に類似する地名を探すと「錦」という町名が残っていることがわかった。今の町名ではなく、かつての、というべきであろう。

現在の福岡県京都郡みやこ町豊津に含まれている。またもう少し南に下って「錦ヶ丘」という地名もある。犀川の東側河口付近となる。

母親の旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命の居場所からすると、旦波の西の果てに位置するところである。

文字解釈をしてみよう…御眞木入日子印惠命(崇神天皇)に含まれる「印」=「[印]の地形」と紐解いた。また、内色許男命の「色」=「人+巴(渦巻く地形)」とした。すると…「印色」は…、
 
[印]の地形がある渦巻くところ

…と紐解ける。図から文字が表す通りの地形が見出だせる。それを取り囲むように「錦」の現地名が示されている。字形をそのまま地形に当て嵌める手法の紐解きは、解けてみれば高い確度で納得されるが、その地に行き着くには、些か時間を要するようである。渦巻くところは、現地名「彦徳(ケンドク)」、その由来は全く定かでない。

彼の活躍が記載される…「印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、卽坐其宮、定河上部也」 …なかなかの働き者、「鳥取之河上宮」に坐することを許された御子である。池作りの名人、大刀も…筒木作りには鉈が要る、両方揃えて池作りってところであろうか。鋸はあったのであろうか…。

鳥取之河上宮

<鳥取>
鳥取県の由来?…なんて思いたくなるような…稲羽国にあるのか?…何とも唐突な出現である。

「鳥」の文字は、速須佐之男命が降臨した「鳥髪」、また、高嶋宮の「嶋」も「鳥」を含んでいて、古事記で多用される文字の一つでもある。

いずれにしても山の形、山稜が作る山腹の模様を象ったものと読み解いた。おそらくはこの場合もそのどちらかであろうかと思われる。

「取」=「耳+手」から成る文字と解説される。そもそもの解釈は、おどろおどろしいもので、敵の耳を切り取ることに由来するとのことである。

それはそれとして地形象形的には既に登場した宇陀水取のように「山稜の端にある手の地形」と紐解いた。その他にも後に出現する宗賀の足取王などが典型的な例示となる。


<足取王>

これに極めて類似した地形を見出すことができる。図に示した場所、現地名の田川郡赤村赤見取、犀川(現今川)の畔にある。

「見取」と「鳥取」が似ている・・・それは結果として残存地名になるかも?…であるが、決して拘ることではない。
 
鳥([鳥]形の地)|取(縁にある手の地形)

…「[鳥]形の地の縁にある手の形をしたところ」と紐解ける。

上図に示したように鳥が大きく羽を広げたような地形の端(縁)にある手の形をしたところを表していると思われる。犀川(現在の今川)が極端に蛇行し極めて特徴的な地形を示している。「鳥取之河上宮」は、現地名の田川郡赤村赤田峰にある山浦大祖神社辺りにあったのではなかろうか。


天皇の兄が働くと国が発展する。師木から旦波国、そして高志道に繋がる要所の地を開いた御子であった。また「作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池」のように池を造ったと記載される。



<血沼池・狭山池・日下之高津池>
作った三つの池の場所は求められるであろうか?…「血沼池」は宇陀の血原の近傍と思われる(現地名は北九州市小倉南区呼野近隣)。

「血沼」は既出で相武国(現在の北九州市小倉南区)に比定したが、沼ではなく池と記していることから別の地、宇陀にあったと思われる。

「日下之高津池」は日下、後の雄略天皇が坐した場所の近隣と思われる。現在の田川郡香春町採銅所の宮原辺りと推定される。少々山麓を登ったところにある川の合流点を求めることになる。

「狭山池」は何と紐解くか?…一般的な名称になるなら、間違いなく地形象形表現と思われる。
 
狭山=狭(幅が狭い)|山
 
…多くの山がある中で目立つ狭さ、というところであろうか。地図から同採銅所の黒中辺りにそんな山稜が見出だせる。これらを上図に示した。それらの場所に現在も池らしきものが示されている。当時のものかどうかは不明だが、池が必要とされる地であることに変わりはないようである。

印色入日子命は、子孫を各地に作らず、弟の大中津日子命が「言向和」で支配領域を広げる役割を担ったと告げている。師木に侵出して僅か二代で、ほぼ全体掌握の目途を立てることができたようである。





2019年2月12日火曜日

古事記の『遠津』 〔316〕

古事記の『遠津』


古事記の中で「津」を表わすのに、邊津ー(中津)ー奥津シリーズの「奥津」と表題の「遠津」が見られる。前者は海辺から近い方を邊津、内陸部に入った、所謂奥にある津を「奥津」と表記していると読み解いた。胸形の三女神の例がある。また伊邪那岐・伊邪那美の神生みの中でも用いられる表記である。

これに対して「遠津」はシリーズでは用いられることはなく、即ち「邊」、「近」などが対になって登場することはなく、単独で「遠」と記されるようである。「津」を表す場合以外でも同様であり、対比されることはなく単独である。このことから「遠」そのものが地形を象った文字として使用していると思われる。

そんな背景で「遠津」が登場する場面を纏めてみることにした。古事記中では三回出現する。年代の早いものから順に・・・。

1. 天狹霧神之女・遠津待根神

大国主命の子孫が「天」及び「比比羅木」を彷徨う記述に登場する。「比比羅木」の地から「天」に舞い戻った段である(詳細はこちらを参照)。日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…古事記中初出の津である。多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」は勝本浦もしくはタンス浦であろう。
 
<天狭霧・神遠津待根神・遠津山岬多良斯神>
このどちらかは御子の居場所も含めて紐解くことにする。

天狹霧神」(「天」の狭い切通があるところの神)の居場所は現在の国道382号線が通り勝本港に降りる「切通」の近隣と推定できる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ三十五神の一人、実体のある「天」に住まう神であった。現地名は勝本町西戸触である。

遠津の「遠」を「辶+袁」と分解すると、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」と紐解ける。

「衣」は幾度となく登場する文字で、襟元の三角形を模したものと思われる。「辶」=「進む、延びる」とすると…、
 
遠(ゆったりとした山麓の三角州が延びる)|津(入江)

…と解釈できる。上図のタンス浦に注ぐところで三角州が交差・合流するところを示していると思われる。「待根」=「根本をもてなす(神に仕える)」のように読み取れるが、古事記はそんな悠長なことを告げてはいないであろう。

「待」の文字解釈を如何にするか?・・・。「待」=「彳(交わる)+寺」と分解すると「寺」が現れて来る。「寺(時)」=「蛇行する川」と紐解いた。

伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神で解釈した。「時」=「之」=「蛇行する川」と同様と思われる。「遠津待根神」は…「遠津」を簡略に表して…、
 
遠津(ゆったりと延びた三角州がある津)|待(交わり蛇行する川)|根(根元)

…「ゆったりと延びた三角州がある津で交わりながら蛇行する川の根元」と紐解ける。勝本浦には見出せないが、タンス浦に注ぐ幾本かの合流しながら蛇行する川が見られる。その根元(源流)を示していると思われる。父親天狭霧神に隣接する地である。

上記したように「遠津」は神岳を中心とした距離並びに表の津(芦辺)に対して奥にあるという意味も重ねているように思われる。勝本浦は後代には朝鮮通信使の接待所などがあったとか、よく知られているように対馬と渡海の要所であったところである。大国主命の後裔とは直接関連するところではなかったのかもしれない。

御子の「遠津山岬多良斯神」については、<須佐之男命・大国主命>を参照願う。「山岬」が付加されていることから、坐していたのは小高いところ、現在の平神社辺りではなかろうか。

2. 丹波之遠津臣之女・名高材比賣

開化天皇の御子、日子坐王が日子国の袁祁都比賣命を娶って誕生した山代之大筒木眞若王の後裔に登場する。その中に高材比賣の親の名前が「丹波之遠津臣」と記述される。丹波にある「遠津」を求めることになる。山代之大筒木眞若王までの系譜の詳細はこちらを参照願う。

古事記原文…、

山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。

山代之大筒木眞若王の御子、迦邇米雷王が娶った相手が「丹波之遠津臣之女・名高材比賣」と記される。御子の息長宿禰王が誕生して、「息長」の名前が本格的に現れ始めるのである。丹波の遠津に居た比賣は間違いなく息長の血統を有していた、と告げている。
 
<丹波之遠津>
そこに含まれる「丹波之遠津」は何処であろうか?…「中津」を中心とする旦波国における「遠津」とは?…考えてみれば「中津」が単独であったと考える方が誤りであろう。

例によって「上・中・下」の三つを揃えていた筈であろう。あるいは「遠・中・近」か・・・。

現在の稲童に、上記の氷羽州比賣命の時にも見受けられたが「稲童上・稲童中・稲童下」という地名が記載されている。

「遠津」は、大国主命の段で登場した遠津待根神に含まれていた。「遠」=「辶+袁」と分解して…、
 
ゆったりと延びた三角州がある入江

…であった。下記の「息長」(端が長い)の表記と重なる。「端」=「三角州」である。丹波比古多多須美知能宇斯王の「多多須」のことを示していることが解る。


<山代之大筒木眞若王系譜>
「丹波之遠津臣」の居場所は美知能宇斯王の近隣、現在の奥津神社辺りと推定される。

古事記の表記に従えば、「奥」は海辺から内陸に入り込んだところを示す。海進の後退に伴った言い換え、かもしれない。

難波津があり、仲津がありって後に名付けられた地名からの類推で考えがちであるが、地形象形そのものの表現であった。

この国の西境等々これまでに随分とわかって来ていたような錯覚に陥っていたが、中心の「中津」周辺が漸くにして見えてきた、と思える。読み解いてみるものである。

高材比賣の「高材」は何を意味しているのであろうか?…当初は後ろにある覗山の木材を示し、海辺にありながら「木」の匂いを表す命名、山が接近する地形であってこその場所であろう…と、纏めた。

が、古事記はそんな叙情的な記述はしない、というかそれもありだが、地形を示すことも忘れない、であろう。

「材」=「木+才」と分解すると…、
 
高(高い)|材(山稜を僅かに)

…「山稜を僅かに高くなったところ」と紐解ける。

「才」は名詞としては「才能」などに使われるが副詞として「僅かに、やっと」という意味を持つとある。日常は余り使用されないようでもある。木を細かく切り分けたのが「材」である。

字源として「川の堰の材料の象形」いずれにしても日常的に使われている意味とは些か離れているように感じるが、調べて真に適した場所が見つかり、一安心、というところであろうか・・・。

上図<山代之大筒木眞若王系譜>に系譜を示した。「息長」一族が広がって行く様を伺うことができる。息長帶比賣命(後の神功皇后)の名前も見える。応神天皇~仁徳天皇と天皇家の隆盛に関わる繋がりの始りとなる。

3. 木國造荒河刀辨之女:遠津年魚目目微比賣

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の娶りに登場する。木国にも「遠津」があったことを知らされる。

古事記原文…、

御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。此天皇、娶木國造・名荒河刀辨之女遠津年魚目目微比賣、生御子、豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱。

何だか「沈魚落雁閉月羞花」の類かも?…上記に従って…、
 
遠津(ゆったりと延びた三角州がある津)|年魚(鮎)
目目(両目)|微(何とも言えないほど美しい)

…「ゆったりと延びた三角州がある津(川の合流するところ)の鮎のように目が何とも言えないほど美しい比賣」となる。中国四大美人に勝るとも劣らない、とでも言えるかな?・・・。

<遠津年魚目目微比賣>
木国に流れる現在の山国川(福岡県と大分県の県境)に耶馬渓・青の洞門という秘境がある。

その少し下流で屋形川(図の右下)との合流点があり、更に少し下流に「鮎帰」という地名がある。

回遊する鮎の住処であろうか。この比賣の美しさは尋常ではなかったようである。

おっと、美人に見とれて肝心の「荒河」…説明するまでもなく…「荒河」=「山国川」である。

木國造荒河刀辨の「刀辨」は何と紐解くか?…、
 
刀([刀]の形)|辨(別:地)

…「刀の形の地」と読み解ける。「辨」=「別」と同義と解釈する。

図中の上部、荒河に接するところを指し示していると思われる。沖積の進行が未熟な時代、大河に突き出た崖のような場所、後に登場する「淵」と表記される場所であろう。

因みに類似の「戸辨」=「[戸]の形の地」(山稜に囲まれた凹の地形)と解釈するのであるが、Wikipediaによると・・・、

<遠津>
「ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある」

・・・十把一絡げでは勿体無い、地形を示しているのに・・・。

現在の河口、大分県豊津市辺りの氾濫は絶え間なく、河流も大きく変化した経緯があるという。この大河の畔を豊かな地にするには多くの時間が必要であったと推測される。

遠賀川、紫川、長峡川、犀川、小波瀬川等の古事記に登場すると比定した大河と全く変わりがない、いや荒河と名付けるならもっと人々に驚異を示す状態であったと思われる。

比賣の在処も大河荒川沿いではなく、少し西側の英彦山山系が作る多くの谷間の一つに位置していたのであろう。図に示されているように有田川と東友枝川とが作る「津」これを「遠津」と表現したと推定される。

御子は「豐木入日子命、次豐鉏入日賣命。二柱」と記述される。豐鉏比賣命は「拜祭伊勢大神之宮也」と書かれているが、現在の斎宮との関係は不詳のようである。詳細はこちらを参照願う。

上記の三つの「遠津」の地形的特徴は明らかであろう。三角州が作るゆったりと延びる様を「遠」と表記したと解釈される。因みにその長さは、0.7~1.5kmであることが解った。古事記編者の地形的掌握は、実に素晴らしいものであることをあらためて知ることになった。

また「津」以外の用いられている場合も同様の地形を象形していると思われる。「邊」「近」と無関係に使用されることと全く矛盾しないことも再確認できたようである。