須佐之男命・大國主命

天照大神・須佐之男命                  大國主命・大年神

 須佐之男命・大國主命



1. 負帒の大英雄物語

古事記が最も輝く説話に入る。お伽噺としてそのままで良いのでは、と思うところもあるが、それが如何せん主要な地名が続出する説話でもある。勿論、出雲の昔話として、挿入されたものと見做され切り離された解釈、あるいは「出雲王朝」なる言葉も出て来る、その真偽はともかく古事記が記述するところではない。

須佐之男命の後裔、天之冬衣神と刺國若比賣との間に生まれた大国主神は、八十神兄弟の中ですくすくと…というかしっかり兄弟に鍛えられて育っていくのであるが、徹底的に優しさを滲ませて、須佐之男命との対比が際立つ記述である。マカロニウエスタン風なストーリ展開である。人気が出るのはこの筋立て、である。
 
稻羽之八上比賣・素菟と氣多之前

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故、此大國主神之兄弟、八十神坐。然皆國者、避於大國主神。所以避者、其八十神、各有欲婚稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神負帒、爲從者率往。於是、到氣多之前時、裸菟伏也、爾八十神謂其菟云「汝將爲者、浴此海鹽、當風吹而、伏高山尾上。」故其菟、從八十神之教而伏、爾其鹽隨乾、其身皮悉風見吹拆、故痛苦泣伏者、最後之來大穴牟遲神、見其菟言「何由、汝泣伏。」菟答言「僕在淤岐嶋、雖欲度此地、無度因。故、欺海和邇此二字以音、下效此言『吾與汝競、欲計族之多小。故汝者、隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上、走乍讀度。於是知與吾族孰多。』如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云『汝者、我見欺。』言竟、卽伏最端和邇、捕我悉剥我衣服。因此泣患者、先行八十神之命以、誨告『浴海鹽、當風伏。』故、爲如教者、我身悉傷。」於是大穴牟遲神、教告其菟「今急往此水門、以水洗汝身、卽取其水門之蒲黃、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差。」故、爲如教、其身如本也。此稻羽之素菟者也、於今者謂菟神也。故、其菟白大穴牟遲神「此八十神者、必不得八上比賣。雖負帒、汝命獲之。」
[この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が因幡皆のヤガミ姫ひめと結婚しようという心があって、一緒に因幡に行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になった兎が伏しておりました。大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當って高山の尾上に寢ているとよい」と言いました。それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。ところがその海水の乾くままに身の皮が悉く風に吹き拆さかれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何なんだつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐を欺いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族が多いか競べて見ましよう。あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼まで皆竝んで伏していらつしやい。わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺されたと言うか言わない時に、一番端に伏していた鰐がわたくしを捕えてすつかり着物を剥いでしまいました。それで困つて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體をこわしました」と申しました。そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲の花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾がりつたなら、お前の身はもとの膚のようにきつと治るだろう」とお教えになりました。依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。これが因幡の白兎というものです。今では兎神といつております。そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、「あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう」と申しました]

超が付く有名な説話、その段を纏めて引用した。背景説明も含まれている。大國主命の別名「大穴牟遲神」も見える、というか未だ「大國主神(命)」にはなってないのであるが・・・。
 
大穴牟遲神

大穴牟遲神」大國主命に最初に付けられた名前である。これが本来の名前ということであろう。いや、本来は刺國(佐度嶋:現在の福岡市西区小呂島)で誕生したのだから、その出自の場所の地形を表しているのではなかろうか。それとも出雲に送り込まれた時の名前?…と迷うところではあるが、先ずは、この文字列が示すところを求めてみよう。

頻度は高くないが、重要な場面で用いられるのが「穴」=「宀+ハ」であり、その文字が示す「洞穴」のような地形であろう。頻出の「大」=「平らな頂の様」、「牟」=「牛の頭部の形に区切られた様」、「遲」=「犀の角のような様」である。「牛」、「犀」が並ぶ文字列である。勇猛果敢な神を表す、のかもしれない。 纏めると…、
 
平らな頂の山稜に囲まれた穴のような谷間で
[牛]の形に区切られた[犀]の角の形をしたところ

<大穴牟遲神>
…と紐解ける。図に示した彼の出自の場所、佐度嶋であり、刺國と記載された場所にある地形を表していることが解る。現地名は福岡市西区小呂島である。

この島の唯一の谷間であり、そこにあるたった一つの角のような山稜を捉えた表記である。「刺國」そのものも、その場所が何処であったかは、全く解明されていない。「大穴牟遲」の文字列は、刺國=佐度嶋=小呂島を支持する結果となったようである。

「刺國大上神之女・名刺國若比賣、生子、大國主神・亦名謂大穴牟遲神・亦名謂葦原色許男神・亦名謂八千矛神・亦名謂宇都志國玉神、幷有五名」と記載されていた。

後に詳述することになるが、初名である大穴牟遲神が本貫の名前であり、残りは速須佐之男命に叱咤激励されて名付けられた呼び名である。即ち、各々の名前が示す場所に行け!…と命じられたのである。多くの別名がある…それは重要な暗示と受け取れる。

付記すると「牟」=「ム+牛」と分解される。「ム」=「区切られた様」と解説される。「牟」は「山稜が牛の頭部、二つの角で区切られている様」を表現していると解釈される。便利な文字であり、古事記中で頻繁に用いられている。類似の文字に「造」があり、同様の地形を表す文字と解釈される。

八嶋士奴美神系列であって大年神系列ではない。その系譜は、「天」に逆戻り、更に、新羅まで彷徨う。この二つの系列間の確執が出雲の将来を左右することになるが、詳しくは後述することにする。<大國主命・大年神>を参照。
 
稻羽・氣多之前

早々に登場する地名が「稻羽」「氣多之前」、この説話の舞台となる場所である。国名を省略して記述するのだから出雲国の近隣か、もしくは極めて特徴のある「良く知られた」場所と思われる。「多」を含む文字列…波多、末多、多賀、多氣…「氣」の指し示すところは見当たらず・・・。

「氣多(ケタ)」=「桁」と置換えると、なんと「算盤の珠を縦に貫く串のような棒」…これで解けた…後に邇邇藝命が降臨する「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」で特定することになる孔大寺山系、これに含まれる山々を算盤の「珠」として表現したものである。

<氣多>
この棒の先、それが「氣多之前」と記述したと紐解ける。後に「笠沙之御前」(現在鐘ノ岬)と表されるところでもある。

なんとも特異な地形を繰り返し異なる言葉で表し、翻弄されているようでもあるが、解ければ確証に繋がる。

「久士布流」=「串触」=「串(の形で)で触れ合う」と紐解ける。「櫛」ではない。

余談だが、珠算は2世紀頃には中国で使われていたようであるが、串刺しの構造になっていたかは不明とのこと。

逆に、古事記の記述(~7世紀)が「串刺しの地形」のところに「桁」を使用することから、遅くともこの時期には「串刺しの形」をしていたのではなかろうか。珍しいから、援用したとも思われる。

そもそも「桁」=「木+行」であり、「行」=「十字路の象形」と言われる。掛け渡した横木が原義である。これが算盤の桁を表す文字に採用されたのであろう。地形象形的には、「木(山稜)」とすると、上図の山稜の塊を十字路に見立て、正に串刺しにした形である。即ち「久士布流多氣」=「氣多」であることを述べているのである。

図に示した通り、現在の宗像市鐘崎はとんがり帽子の形に区切られている。まさにこの地が「氣多之前」であろう。

<稻羽・氣多之前・淤岐嶋>
「稻羽」は何処であろうか?…その文字列が表す地形は、後に「稻羽國」と表記される多遅麻國と針間國との間にあった國である。

また、日向国の「大羽江・小羽江」や「氷羽州比賣」ように大河の河口付近の大きく羽を広げたような「州=川中島」を象形したものと思われる。それと類似する地形を求めることになる。
 
孔大寺山系の湯川山から伸びた山陵が大きく広がっているところを示していると思われる。当時の海面水位を考慮しても十分な標高を示す丘陵地の様相である。

「稻」=「嫋やかに曲がる」様を象形した文字である。その曲がった稻が羽根のように広がっているところを「稻羽」と表現していると思われる。


嫋やかに曲がって羽のように広がったところ

上記した他の例と同じく谷に挟まれた州の状態でもあり、「羽」に共通する地形と解読される。

「氣多之前」を回ればすぐにある海岸、現在地名は福岡県宗像市鐘崎である。「稻羽」の現地名は同市上八(コウジョウ)と推定される(下記参照)。「稻羽国」という国の名前ではなく、地形を表す表現である。
 
<八上比賣>
八十神は素菟に「伏高山尾上」と告げた。高い山の麓に延びた尾根の上に居れ、と言ったのである。


稻羽の海岸はそんな地形を有しているところである。「稻羽國」と「稻羽」は、後に登場する「針間國」と「針間」に類似する表記と思われる。

説話は八十神が行った仕打ちに優しく大國主命が対応すると、菟は「淤岐嶋」…、
 
水辺で旗がたなびいて岐れたような島

…から渡って来たのだと言う。淤能碁呂嶋の「淤」=「氵+於」=「水辺で旗がたなびいたような」様と紐解いた。間違いなく現在の宗像市地島と思われるが、隱伎之三子嶋の「隱岐」は見事にその地形を表しているが、「淤岐」の別表記では現在の島の形状を表しているとは到底思えない。

実は、「三子嶋」の部分を示しているのである。下記の<海図>を参照しながら述べることにする。
伊邪那岐・伊邪那美によって国生みされた「天之忍許呂別(目立たないが傍らに連なったところがある地)」の島である。ここで登場である。

まるで「隱伎之三子嶋」と「邇邇芸命の降臨地」の位置関係を示すがのような説話と読める。勿論複数の意味合いを掛けているが・・・何を隠そう由緒ある「天」が付く島の「菟神(トノカミ)」という神様であった。そんなわけで、ちょっと癖のある神様であるが、八上比賣の心を掴むのは大穴牟遲神だと言い切って説話は終わる。ガマ()の穂は効く?…蒲黄(ホオウ)という生薬なんだとか。
 
八上=八(二つに岐れる)|上(盛り上がった地)
 
…湯川山頂に繋がる谷筋に坐していたのではなかろうか。
 
<海和邇>
現在の地名宗像市「上八(コウジョウ)」という難読地名がある。湯川山の頂上までを含み、古くからある地域名ではなかろうか。引っ繰り返したのかも・・・。伝えられる由来は多分に漏れず決定的ではない。
 
海和邇

さて「海和邇」とは何を意味しているのであろうか?…「和邇(ワニ)」の解釈は、川に棲息する動物か?・・・「和」=「しなやかに曲がる」?…「邇」は?・・・「「海」は?…何と紐解くのか・・・正に神話の世界に突入であろう。

「海」=「氵+每」と分解される。伊邪那岐命が建速須佐之男命に海原を治めよと命じた場所であり、また、後に稻氷命が入座した土地でもある。「海」=「水辺で母が両腕で抱えるように山稜が延びている様」と解釈した。その地形を図に示した場所に見出せる。現在の鐘崎漁港の背後の地形を表していると思われる。

「和邇」の文字列を従来の解釈に拘りなく、地形象形表記として解釈してみよう。「和」=「しなやかに曲がっている様」、「邇」=「辶+爾」=「延びて広がっている様」と解釈する。纏めると「和邇」=「しなやかに曲がって延び広がっているところ」と紐解ける。

<海図:素菟・海和邇>
本文に従うと、複数の「和邇」が並び、最後の「和邇」に身包み剥がされた、と記載されている。即ち、”曲がって延び広がる地が並んでいる場所”であると述べているのである。

隱伎之三子嶋に関して、現在の宗像市地島海域の海図を示した(みんなの海図閲覧するには登録要)。実に興味深いことに現在の水深で1~5mの浅瀬が並んでいることが判る。

海底にある細長い台地が途切れながら並んでいる地形、勿論当時は更に深く沈んでいたのだが、それを「淤岐」(旗がたなびいて岐れたようなところ)と表記したと解釈される。

それらの一つ一つを詳細に見ると、「和邇」の地形を有していることが解る。この地形を纏めて「海和邇」と表現したのではなかろうか。纏めると海和邇は…、

水辺で母が両腕で抱えるように延びている山稜の先にしなやかに曲がって延び広がる地があるところ

…と紐解ける。現在の鐘崎海岸と地島との海峡を記述しているのである。神話風に記載しながら、見事に地形を表現している。正に”万葉”の世界である。

「鐘ノ岬」の南、自然の地形を利用した大きな漁港と思われる。調べると、この鐘崎は海女(あま)で有名な漁港で、フグ延縄(はえなわ)などの漁業も盛んである・・・と解説されている。「海」=「海女」を意味しているのかもしれない。
 
「海和邇」=「しなやかに曲がって延び広がる地の前に海女がいるところ」と解釈することもできそうである。海女の発祥地と言われるこの地、何と古事記が記述していたのである。

孔大寺山系の主稜線が延びた地形は豊かな漁場を形成し、山系から流れる川が運ぶ恵みに満たされた「都」であったろう。上記と「和邇」で繋がる古代人達の生業である。「隱伎之三子嶋」、「淤岐嶋」の表記と併せて、驚嘆の記述と思われる。
 
<素菟>
稻羽之素菟

それでは「菟」は何を意味しているのであろうか?…「和邇」が解けると気に掛かる。図を参照。

地島に、小ぶりだが、見事な「」の地形が見つかる。「斗」↔「菟」既に幾度か登場した表記である。「菟」=「艸+免」は…、
 
山稜に囲まれた窪んだところ

…と紐解ける。「免」は「娩」の原字であり、女性がお産をする様を表していると解説されている。その様を地形象形としたのであろう。人体を象る漢字から人体を地形に見立てた表現である。確かに「菟」と「斗」は類似する地形を示す文字と思われる。

天菩比命の御子、建比良鳥命が祖となった上菟上國造・下菟上國造は、大斗の山向こうにあって後に高志国と呼ばれたところである。既に述べたように出雲国「大斗」=「三日月の形(多)」から、月に住む菟を連想させる記述である。正に「菟」=「月に住まう人」を表している。
 
淤岐嶋の「素菟」とは「菟」の住人を意味していると紐解ける。古事記原文に記述される「稻羽之素菟」は…「稻羽に居る」…、
 
本来は[菟]の住人

…と紐解ける。「素」=「白」の意味に掛けた実に多様な表現で書かれているのである。

「素」の地形象形的解釈は如何であろうか?…「素」=「垂+糸」と分解される。古文字の「垂」から「垂」=「山稜が谷間に挟まれて長く延びる」様を表すと紐解ける。

隱伎之三子嶋の「隱」=「隔てて見えなくする」の「隔てている山稜」が「垂」だと気付かされる。ここまで重ねた表記となれば、ややお手上げ状態であろう。がしかし、全てが繋がっているのである。

当然八十神が怒らないわけがなく策を弄して大穴牟遲神を死に至らしめる・・・。
 
伯伎國之手間山

於是八上比賣、答八十神言「吾者、不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。」故爾八十神怒、欲殺大穴牟遲神、共議而、至伯伎國之手間山本云「赤猪在此山。故、和禮此二字以音共追下者、汝待取。若不待取者、必將殺汝。」云而、以火燒似猪大石而轉落、爾追下取時、卽於其石所燒著而死。爾其御祖命、哭患而參上于天、請神巢日之命時、乃遣𧏛貝比賣與蛤貝比賣、令作活。爾𧏛貝比賣、岐佐宜此三字以音集而、蛤貝比賣、待承而、塗母乳汁者、成麗壯夫訓壯夫云袁等古而出遊行。
[兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯耆の國のテマの山本に行つて言いますには、「この山には赤い猪がいる。わたしたちが追い下すからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう」と言つて、猪に似ている大きな石を火で燒いて轉がし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。そこで母の神が泣き悲しんで、天に上つて行つてカムムスビの神のもとに參りましたので、 赤貝姫と蛤貝姫とを遣つて生き還らしめなさいました。それで赤貝姫が汁を搾り集め、蛤貝姫がこれを受けて母の乳汁として塗りましたから、りつぱな男になつて出歩くようになりました

どうも殺すことよりも、その方法を楽しんでるところがある。手間暇かけ過ぎ…その「手間」が今回のテーマである。「伯伎國之手間山」の伯伎國(くっ付いた谷間が岐れる國)は、筑紫嶋の筑紫國、更には黄泉國の地形を表すと紐解いたが、「手間山」は初出である。

手間暇の「手間」としては、意味不明になる。「手」=「その方面の場所」である。「山の手」などで使われる「手」である。この置換えが見つかると「手間山」=「こちらとあちらの場所との間にある山」と解釈される。特定の場所が見えて来る。
 
<伯伎國之手間山>
「出雲國」と「伯伎國」の間にある山、現在の「手向山」になろう。「手向」=「手向
(タム)ける」別れの際のはなむけを意味する。

同じく境界にある山の命名であろう。現地名は北九州市小倉北区赤坂(四)である。垂仁天皇紀に落別王が祖となる地に小月之山(小が尽きる山)という表現もある。

筑紫と出雲の境にある同一の場所を繰返し、いや、時と共に呼び方が異なった(変化した)ことに従っているだけかもしれないが・・・。

慌てた母親の刺國若比賣が巢日之命に助けを求め、𧏛()貝比賣と蛤貝比賣とが遣わされたら、生き返るどころかすっかり大きく立派になったとか…まぁ、聞き置きましょう。

まだまだ八十神の手は緩まず、「木國」でも殺されかかったがなんとか逃げ帰り、母親…何度も登場で大活躍…に須佐之男命の黄泉國に行けと言われた、と説話は続く。神産巣日之命は穀物だけではなく食料全般の神と言っているようである。

於是八十神見、且欺率入山而、切伏大樹、茹矢打立其木、令入其中、卽打離其氷目矢而、拷殺也。爾亦其御祖命、哭乍求者、得見、卽折其木而取出活、告其子言「汝有此間者、遂爲八十神所滅。」乃違遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神、覓追臻而、矢刺乞時、自木俣漏逃而云「可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。」
[これをまた大勢の神が見て欺いて山に連れて行つて、大きな樹を切り伏せて楔子を打つておいて、その中に大國主の命をはいらせて、楔子を打つて放つて打ち殺してしまいました。そこでまた母の神が泣きながら搜したので、見つけ出してその木を拆いて取り出して生かして、その子に仰せられるには、「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺されるだろう」と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣からぬけて逃げて行きました。そこで母の神が「これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀りごとをして下さるでしよう」と仰せられました]

なかなか虐めはおさまらないのであるが、出雲から稲羽へ、今度は木國へと…偶然であろうが同じような距離の遠征である。
 
<木國之大屋毘古神>
木國之大屋毘古神

大屋」=「平らな頂の山稜の尾根が尽きるところ」と読める。「毘古神」の「毘」=「囟+比」と分解される。「囟」=「泉門」を象った文字であり、地形象形的には「窪んだ様」と解釈すると「大屋毘古神」は…、
 
平らな頂の尾根の端に窪んだ地で小高い山が並んでいるところ

…の神と紐解ける。

木國の場所は大國主命の時代では想像すら叶わない状況であるが、後の孝元天皇紀の建内宿禰の子、木角宿禰が祖となった地として登場する。現地名は豊前市大村辺りである。図に示したように英彦山山系から長く延びた山稜の端であり、天地山(公園)の麓と推定される。

図から解るように山稜の端の小高いところの麓は幾つかの山稜に囲まれて窪んだようになっている。この地形を「毘古」で表現したと思われる。
 
須佐之男命・須勢理毘賣

故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲目合而、相婚、還入、白其父言「甚麗神來。」爾其大神出見而、告「此者、謂之葦原色許男。」卽喚入而、令寢其蛇室。於是其妻須勢理毘賣命、以蛇比禮二字以音授其夫云「其蛇將咋、以此比禮三擧打撥。」故、如教者、蛇自靜、故平寢出之。
亦來日夜者、入公與蜂室、且授公蜂之比禮、教如先、故平出之。亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢、故入其野時、卽以火廻燒其野、於是不知所出之間、鼠來云「者富良富良此四字以音、外者須夫須夫此四字以音」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。
於是、其妻須世理毘賣者、持喪具而哭來、其父大神者、思已死訖、出立其野。爾持其矢以奉之時、率入家而、喚入八田間大室而、令取其頭之虱、故爾見其頭者、公多在。於是其妻、取牟久木實與赤土、授其夫、故咋破其木實、含赤土唾出者、其大神、以爲咋破公唾出而、於心思愛而寢。
爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、負其妻須世理毘賣、卽取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。故、其所寢大神、聞驚而、引仆其室、然解結椽髮之間、遠逃。
[そこでお言葉のままに、スサノヲの命の御所に參りましたから、その御女のスセリ姫が出て見ておあいになつて、それから還つて父君に申しますには、「大變りつぱな神樣がおいでになりました」と申されました。そこでその大神が出て見て、「これはアシハラシコヲの命だ」とおつしやつて、呼び入れて蛇のいる室に寢させました。そこでスセリ姫の命が蛇の領巾をその夫に與えて言われたことは、「その蛇が食おうとしたなら、この領巾を三度振つて打ち撥いなさい」と言いました。それで大國主の命は、教えられた通りにしましたから、蛇が自然に靜まつたので安らかに寢てお出になりました。
また次の日の夜は呉公と蜂との室にお入れになりましたのを、また呉公と蜂の領巾を與えて前のようにお教えになりましたから安らかに寢てお出になりました。次には鏑矢を大野原の中に射て入れて、その矢を採らしめ、その野におはいりになつた時に火をもつてその野を燒き圍みました。そこで出る所を知らないで困つている時に、鼠が來て言いますには、「内はほらほら、 外はすぶすぶ」と言いました。こう言いましたからそこを踏んで落ちて隱れておりました間に、火は燒けて過ぎました。そこでその鼠がその鏑矢を食わえ出して來て奉りました。その矢の羽は鼠の子どもが皆食べてしまいました。
かくてお妃のスセリ姫は葬式の道具を持つて泣きながらおいでになり、その父の大神はもう死んだとお思いになつてその野においでになると、大國主の命はその矢を持つて奉りましたので、家に連れて行つて大きな室に呼び入れて、頭の虱を取らせました。そこでその頭を見ると呉公がいつぱいおります。この時にお妃が椋の木の實と赤土とを夫君に與えましたから、その木の實を咋い破り赤土を口に含んで吐き出されると、その大神は呉公を咋い破つて吐き出すとお思いになつて、御心に感心にお思いになつて寢ておしまいになりました。
そこでその大神の髮を握つてその室の屋根のたる木ごとに結いつけて、大きな巖をその室の戸口に塞いで、お妃のスセリ姫を背負つて、その大神の寶物の大刀弓矢、また美しい琴を持つて逃げておいでになる時に、その琴が樹にさわつて音を立てました。そこで寢ておいでになつた大神が聞いてお驚きになつてその室を引き仆してしまいました。しかしたる木に結びつけてある髮を解いておいでになる間に遠く逃げてしまいました]

須勢理毘賣

須佐能男命が坐す根之堅州国は黄泉国である。武田氏訳もそうなっている。前記で紐解いて黄泉国の地形を表す名称とした。物語の流れとして大国主命の何代も前の祖先、黄泉の国に居ることになろう。その比賣が「須勢理毘賣」と言う。
 
<須勢理毘賣①>
「勢」=「埶+丸+力」と分解される。「埶」=「土+ハ+土」で「積み重なって高く広がる」意味を示すと解説される。

「力」=「力強い腕」の様を象ったとされる。前記の豫母都志許賣の「母」=「両腕で子を抱える様」の象形に相当する。

これらを地形象形的に纏めると…「勢」は…、
 
二つの稜線に挟まれた丸く高くなったところ

…と紐解ける。須勢理毘賣」は…、
 
須(州)|勢(丸く高くなったところ)|理(区切られた)
 
<須勢理毘賣②>
…「二つの稜線に挟まれた丸く高くなった州が区切られているところ」の毘賣と紐解ける。


「須勢」は「堅洲」の別表記と言えるものであろう。重ねて表記でその場所を表していると思われる。

上記で「須世理毘賣」とも記される。「世」は常世国に含まれる。同様の解釈とすると「挟まれて縊れている様」、あるいは「途切れることなく引き継がれている様」と解釈される。すると「須世」は…、
 
州(須)が途切れずに引き継がれている(世)ところ
 
…と紐解ける。「州」だけをみれば「勢」だが実際には比婆之山に挟まれて縊れたところでもある。毘賣の出自の場所をより正確に言い表していると思われる。

「豫母都志許賣」も併せて重々の表記を行っていることが解る。黄泉国の詳細を伝えるための記述かと思われるが、従来では全く理解不能、所詮は黄泉の世界は現実ではない、と勝手な解釈を行ってきたのである。
 
葦原色許男

須佐之男命が登場して、その比賣の須勢理毘賣を娶ることになる。最後の試練のような記述が続く。黄泉の国出来事として…いや、主役は既に死にかかっていたのかもしれない。がしかし、何とかそこから逃げ出し息を吹き返すのである。
 
<葦原色許男>
賜った名前が「葦原色許男」と言う。何とも色男風の名前で、従来よりそのように解釈されて来ているようである。

強い男も加わって、正に英雄に恥じない名前。一方、これは日本書紀の記述に準じて「醜男」とするが、古代は現在の解釈とは異なり、やはり英雄風の解釈である。
 
こんな有様だから「色許男」の紐解きになかなか至らなかった…少し言い訳も込めて…。

時代が過ぎて邇藝速日命の後裔、穂積臣之祖:内色許男命及びその比賣内色許賣命などが登場するまでは手付かずの状態であった。

「葦原」は、伊邪那岐が黄泉国から逃げ帰った時に登場する場所、葦原中国に含まれる「葦原」であろう。同様にして「葦原」=「艹+韋(囲む)」=「丘陵で囲まれた平らなところ」である。「葦原」は「意富(大)斗」の平地を示している。

「色許」(孝元天皇紀を参照)の概略は…「色」=「人+巴」=「渦巻く(蛇の象形)」、「許」=「下、麓」と紐解ける。すると「葦原色許男」は…、
 
葦原(丘陵で囲まれた野原)|色(渦巻く地形)|許(麓)|男(田を耕す人)

…「丘陵で囲まれた野原にある渦巻く地形の麓の男(田を耕す人)」と紐解ける。その背後ある渦巻く地形の山(桃山)が控える。地形を示すには十分な名付けと思われる・・・更に説話は続く。

宇迦能山

故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。
[そこで黄泉比良坂まで追っておいでになって、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになったには、「そのお前の持っている大刀や弓矢を以って、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬に追い撥って、自分で大國主の命となってそのわたしの女のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住めよ、この奴」と仰せられました。そこでその大刀弓を持ってかの大勢の神を追い撥う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥って國を作り始めなさいました]

どうやら合格したようで、須佐之男命から「大国主神()」の名前を授けられる…先にも出ていたようだが、オフィシャルに、ということで…。そうなると八十神も如何ともし難く、全て追払われたと記述される。「宇迦能山」の麓に威風堂々の立派な宮を作り、正に大国の主としての国造りを始めたのである。
 
(山麓)|(出会う)|能(熊:隅)|山

…「山の稜線が複数寄集る隅にある」山と解釈される。出雲国「大斗」の中で稜線が混み合っている場所を求めると、現在の門司区上藤松辺りであろう。東にある須佐之男命の「須賀宮」に対して西にある場所「宇迦能山」山麓である。宮の名前は記載されない。
 
大國主神・宇都志國玉神

「大國主神(命)」実に見慣れた文字列であって、大国(出雲)全体を代表する神(命)と解釈されて来た。「国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神」と記述されている(Wikipedia)。上記でも述べたように、この神は場面毎に様々な呼び名が付けられている。
 
<大國主神(命)>
この段でも二名が併記される有様である。ならば「大國主」も何かに基いた命名、恐らく地形象形としての表記であろう。

「大」=「平らな頂の山稜」、「國」=「大地」となるが、これでは場所の特定には至らない。

「主」は何を意味しているのであろうか?…「天之御中主神」では「主」=「火の山」と紐解いた。

「主」の古文字が示す「灯がともる台」の象形を地形に転用したと考える。

残念ながら出雲の地には「火の山」は見当たらない。とすると「主」の字形を山稜が描く模様としたのではなかろうか。「平らな頂の山稜」を戸ノ上山に見立てると、図に示したところが見出せる。

「主」に地形の麓に坐す神を表していると思われる。いや、実際に坐したかどうかは不明である。速須佐之男命に叱咤激励された場面である。

「宇都志國玉神」は何と解釈すれば良いのであろうか?…武田氏はスルーしている。従来は「現し(ウツシ)」とされるようである。黄泉国から現実へ…何となく判ったような気になる解釈であろう。実際編者はそう読めるように書いていると思われる。がしかし、別の意味を潜めていると勘ぐる。「宇都志」は…、
 
宇(山麓)|都(集まる)|志(之:蛇行する川)
 
<葦原色許男・宇都志國玉神・大國主神>
…「宇迦」と同意であろう。麓が集まれば谷川も集まって国となった、という訳である。

これに続く「玉神」は玉のような…であろうか?…上図緑ヶ丘の右手の山(通称:桃山)、これを「玉」と称しているのである。

現実(ウツシ)の…と匂わせながら宮の位置を示す。これが古事記であろう。

速須佐之男命と神大市比賣の御子「宇迦之御魂神」と同一の場所を示しているのである。この古事記の記述は極めて重要なことを述べているが、後に述べることにする。

「葦原色許男」は黄泉国から逃げ出して「大国主神」即ち「宇都志國玉神」となれ、と励まされているのである。

いや、これは指示・命令であろう。多くの名前、それは多くの役目を仰せつかったからであろう。速須佐之男命を蘇らせて再登場させ、大国主命を使って天神達の思いを実現すべく葦原色許男を駆り立てたと解釈される。

葦原中国(出雲)が入手できなかったのは、速須佐之男命、あんたがちゃんと後裔達を指導しなかったから、と告げているようでもある。これは多くの悲劇を生むことになったと推測される。上図に示したようにこの地は大物主大神の在処である。御諸山に住まう彼の登場の必然性はここに記述されていると思われる。
 
八上比賣

故、其八上比賣者、如先期、美刀阿多波志都。此七字以音。故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺挾木俣而返、故名其子云木俣神、亦名謂御井神也。
[かのヤガミ姫は前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連れておいでになりましたけれども、お妃のスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣にさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御井の神とも申します]
 
<木俣神(御井神)>
菟神の予言通りに射止めた八上比賣は正妻須世理毘賣に恐れをなして逃げ帰ってしまう。

素菟の説話は、やはり隠岐島と天孫降臨場所の明示が目的か、と勘繰ってしまうのである。

それはそれで重要なのだが、それだけでは何とも…また後日に考えてみよう・・・。

何とも残酷風な表現なのであるが、子供を木の俣に挟んで置いてきぼりにしたとか…一応次のような解釈としておこう。「木俣」…、
 
山稜がわかれたところ
  =谷の川が合流するところ

…その近辺にある「池」=「井」であり、「御井神」=「水源を御する神」と紐解ける。宇迦能山の谷間に座していたと思われる。神として生き永らえられたのであろうか・・・。

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八十神

此大國主神之兄弟、八十神坐」と記述される。「八十神」だけであれば、武田氏訳のように「多くの神」としても違和感はないが、大国主命に多くの兄弟の神がいた、と古事記は記載しない。速須佐之男命の後裔、天之冬衣神が刺國大神之女・刺國若比賣を娶って誕生するという経緯のみである。

異母兄弟がいたのかもしれないが、憶測の域になるので、ここで用いられた「兄弟」=「仲間」と解釈しておこう。さて、本題の「八十」については、古事記中にそれなりの頻度で出現する。多くは、数として記載されているが、人物の表現に用いられた場合には、やはり、意味を持つ表記となっている。
 
<八十神>
例示すると、伊邪那岐が竺紫日向で禊祓をして誕生させた
八十禍津日神、神倭伊波禮毘古命が忍坂大室で遭遇する八十建、男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)紀に登場する味白檮之言八十禍津日前などがある。

全て「八十」は…、
 
大きく開けた地で谷間が十字になっているところ

…と紐解ける。ならば、「八十神」もその居場所を示しているのではなかろうか・・・。図に示したように宇迦能山の谷間が十字になっているところが見出せる。

大年神の御子、曾富理神がいた場所と推定した谷間の先である。出雲の地で谷が十字形になるところは極めて特徴的である。即ち「八十神」は大年神の一族であることを示していると読み解ける。

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2. 蚕が築く大国の繁栄?

速須佐之男命が肥河の川上の鳥髪に降臨して、出雲国の基礎を築いた。それを引継いだのが心優しき大穴牟遲神、様々な試練を乗り越えて、その度に名前を変え、立派に成人して大国主神、更に八千矛神となって子孫繁栄を招く。そんな話題がしばらく続く。
 
此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比爾 阿理多多斯 用婆比邇 阿理加用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能 加多理其登母 許遠婆
爾其沼河比賣、未開戸、自歌曰、
夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆
阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆
故、其夜者、不合而、明日夜、爲御合也。
又其神之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲神、和備弖三字以音自出雲將上坐倭國而、束裝立時、片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、
奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇奴岐宇弖 蘇邇杼理 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美 曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇 斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登 許登能 加多理碁登母 許遠婆
爾其后、取大御酒坏、立依指擧而歌曰、
夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

如此歌、卽爲宇伎由比四字以音而、宇那賀氣理弖六字以音、至今鎭坐也。此謂之神語也。
[このヤチホコの神(大國主の命)が、越の國のヌナカハ姫と結婚しようとしておいでになりました時に、そのヌナカハ姫の家に行つてお詠みになりました歌は、
ヤチホコの神樣は、方々の國で妻を求めかねて、遠い遠い越の國に賢い女がいると聞き美しい女がいると聞いて結婚にお出ましになり結婚にお通いになり、大刀の緒もまだ解かず羽織をもまだ脱がずに、娘さんの眠つておられる板戸を押しゆすぶり立つていると引き試みて立つていると、青い山ではヌエが鳴いている。野の鳥の雉は叫んでいる。庭先でニワトリも鳴いている。腹が立つさまに鳴く鳥だなこんな鳥はやつつけてしまえ。
下におります走り使をする者の事の語り傳えはかようでございます。
そこで、そのヌナカハ姫が、まだ戸を開けないで、家の内で歌いました歌は、
ヤチホコの神樣、萎れた草のような女のことですからわたくしの心は漂う水鳥、今こそわたくし鳥でも後にはあなたの鳥になりましよう。命長くお生き遊ばしませ。
下におります走り使をする者の事の語り傳えはかようでございます。
青い山に日が隱れたら眞暗な夜になりましよう。朝のお日樣のようににこやかに來てコウゾの綱のような白い腕、泡雪のような若々しい胸をそつと叩いて手をとりかわし玉のような手をまわして足を伸ばしてお休みなさいましようもの。そんなにわびしい思いをなさいますな。ヤチホコの神樣。
事の語り傳えは、かようでございます。
それで、その夜はお會いにならないで、翌晩お會いなさいました。
またその神のお妃スセリ姫の命は、大變嫉妬深い方でございました。それを夫の君は心憂く思つて、出雲から大和の國にお上りになろうとして、お支度遊ばされました時に、片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙に蹈み入れて、お歌い遊ばされた歌は、
カラスオウギ色の黒い御衣服を十分に身につけて、水鳥のように胸を見る時、羽敲きも似合わしくない、波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、翡翠色の青い御衣服を十分に身につけて水鳥のように胸を見る時、羽敲きもこれも似合わしくない、波うち寄せるそこに脱ぎ棄て、山畑に蒔いた茜草を舂ついて染料の木の汁で染めた衣服を十分に身につけて、水鳥のように胸を見る時、羽敲きもこれはよろしい。睦しのわが妻よ、鳥の群のようにわたしが群れて行つたら、引いて行く鳥のようにわたしが引いて行つたら、泣かないとあなたは云つても、山地に立つ一本薄のように、うなだれてあなたはお泣きになつて、朝の雨の霧に立つようだろう。若草のようなわが妻よ。
事の語り傳えは、かようでございます。
そこで、そのお妃が、酒盃をお取りになり、立ち寄り捧げて、お歌いになつた歌、
ヤチホコの神樣、わたくしの大國主樣。あなたこそ男ですからつている岬々につている埼ごとに若草のような方をお持ちになりましよう。わたくしは女のことですからあなた以外に男は無くあなた以外に夫はございません。ふわりと垂れた織物の下で、暖い衾の柔い下で、白い衾のさやさやと鳴なる下で、泡雪のような若々しい胸をコウゾの綱のような白い腕で、そつと叩いて手をさしかわし玉のような手をして足をのばしてお休み遊ばせ。おいしいお酒をお上り遊ばせ。
そこで盃を取り交して、手を懸け合つて、今日までも鎭まつておいでになります。これらの歌は神 語と申す歌曲です]

神様の行動は天皇様の行動に類似する、逆か?…ともかくも正妻なんて何のその、しっかり美しい比賣を求めて徘徊するのである。

しかも真夜中に…「高志國之沼河比賣」の登場。「高志国」の名称は、ここで初登場する。「高志」=「盛んに蛇行する川」は、高志之八俣遠呂智で既に登場しているのだが、国が付いて、盛んに蛇行する川がある国ということになろう。

<高志國之沼河比賣>
即ち「高志」からだけでは場所の特定には至らず、結果として後の記述に依存する。

例えば仲哀天皇紀に記述される高志前之角鹿などから、図に示したところと推定される。

「沼河」は現在の大坪川であろう。現在も数個の貯水池から福岡県門司区伊川を流れて海に届く川である。

現在の川の様子からの推測であるが、この川は当時はかなりの大河であったと推測される。

更に、その蛇行が激しく、沼(三日月湖)のようになったところが見られたのではなかろうか。この厳しい環境が知恵と工夫を生み出したとも言える。

大毘古命の御子、建沼河別命の名前にも使われている。東方十二道を陸路で通う命であり、後に阿倍臣の祖となったとも記述される。

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詠われた内容の解釈は、上記の武田氏に準じるとして、些か気に掛かる部分を述べてみよう。

❶夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇:「ヤチホコの神樣は、方々の國で妻を求めかねて、遠い遠い越の國に」

夜斯麻久爾」=「八嶋国」とすると、武田氏の「方々の国」のような訳になるかもしれない。だが「八嶋」=「山に[鳥]の地形がある谷」と紐解いた。八嶋士奴美神八嶋牟遲能神に登場する。彼らは方々に居たわけではなかろう。事実、大国主命は八嶋牟遲能神の比賣を娶ったのである。夜斯麻久爾八嶋という区域と読み解ける。

一説には通説に従って「八嶋」=「日本」としてる解釈もある。日本より遠い遠いところが「越」になる?…ベトナムか?・・・。

登富登富斯」は、いずこも「遠い遠い」と訳される。その意味も含んでいるであろうが、「登富」=「山麓の境の坂を登る」の意味を示しているのではなかろうか。山麓の境の坂を登り、山麓の境の坂にある斯(切り分けられたところ)を登ると読み取れる。「遠い」の基準がない、と言うか出雲と越は遠いと決め込んでいるだけの解釈に過ぎないのである。

故志能久邇」=「高志之国」(盛んに蛇行して流れる川の国)と訳せるであろう。「志」を表音(シ)としながら、「之:蛇行する川」の表記を行っているとすれば、「高」→「故」に置換えた理由は何であろうか?…「故」は死者を意味するように「変化しようもない状態」を表す文字と解説される。ならば「故志」は、三日月湖のある蛇行する川と紐解けるのではなかろうか。蛇行が激しくなって取り残された部分が作る状態を三日月湖と呼ぶそうである(参考)。

このことが「沼河」の意味を知らしめていると気付かされ、三日月湖のところを「沼」と表記したと読み解ける。

❷自出雲將上坐倭國:「出雲から大和の國にお上りになろうとして」

「倭國」はここで初めて登場する。唐突であろう。そもそも「倭國」という表記は古事記中に4回しか出現しない。「倭」が69回に比べると段違いに少ないと思われる。後に詳細を述べることになるが「倭」=「嫋やかに曲がる」という地形象形の表記と読み解いた。

それもあってか「倭國」の場所・範囲等を求めることは、他の3回の表記を見ても極めて難しいようである。熊曾建が発した「大倭國」、雄略天皇が詠った「倭國」、それは「大和」のような限られた地域を示すために用いられたものではなかろう。

上記の大国主命が行こうとした「倭國」も、やはり漠然とした地域と解釈すべきではなかろうか。おそらく大倭豐秋津嶋を漠然と示すように思われる。勿論、天神達の目的である大倭豐秋津嶋への侵出、それが大国主命の使命であることを表しているのであろう。后の嫉妬、ではなく快適な日常へ埋没した命であったと告げている。

大国主命が「倭國」に向かう記述は、本来のミッションであったことを示すと思われる。真の理由をあからさまにせずに記述する時は、后の嫉妬が原因と述べる。出雲(葦原中国)を全て手中に収めるには至らず、また「倭國」への侵出も果たせなかった。それが出雲の国譲りと言われる事件、また大物主大神の出現の布石であろうと思われる。
 
八千矛神

大国主()の別名として挙げられる「八千矛神」、この段での登場のみである。また前段で速須佐之男命から「宇都志國玉神」となれ、と言われたのも唯一の出現である。図を再掲する。
 
<葦原色許男・宇都志國玉神・大國主神>
「八千矛神」としては高志國で沼河比賣との遣り取りが記述され、なんだかんだの結果、倭國へは赴かず、鎮まったと伝えている。

「葦原色許男」、「宇都志國玉神」が主役となる説話は無く、言い換えれば、速須佐之男命が名付けた者には成り切れず、「八千矛神」で終わったと読み取れる。

「大国主神(命)」、「葦原色許男」及び「宇都志國玉神」が意味するところは、正に出雲の中心の地である。その地には入れなかったと述べている。

では「八千矛神」とは?…彼が坐した場所は何処であろうか?…出雲の地であることには間違いないであろう。

「八」=「八つの」、「千」=「人+一」と分解して「人(谷間)を束ねる(一)様」、「矛」=「矛の形」と読んでみると…、
 
<八千矛神>
八つの谷間を束ねる山稜が[矛]の形をしているところ

…と紐解ける。

そこは、八十神が居た谷間と八上比賣が我が子、御井神を置いてきぼりにして帰ってしまった谷間に挟まれた山稜を示している。

威勢の良い命名なのだが、山稜に住まうわけにはいかず、例え住んだとしても手狭な、永住することはあり得ない場所である。

「八千の矛を持つ」とは実に戯れた命名で、戦い疲れて「高志」に逃げたのが実情ではなかろうか。更なる「倭國」への逃避は、何とか思い止まった、のであろう。

結局は「葦原色許男・宇都志國玉神」には届かなかったのである。既に幾度か述べた大国主命のミッション、その終焉を告げる名前が「八千矛神」であったことが解った。後に登場する英雄倭建命も悲運を漂わせるが、共にその生涯、ドラマチックである

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色彩豊かな表現がなされ、当時すでに染色技術がそれなりに進歩していたことが伺える。その中に「蘇邇杼理」=「カワセミ」が登場する。なかなかお会いできないが・・・。

余談だが・・・「蘇」=「古代の乳製品」とされる。カワセミの特徴に「ペリット」を吐き出す行為がある。丸呑みした魚などの不消化の骨などが円柱状のペレットになったものであるが、「乳を煮詰めた塊」=「蘇邇」(邇=土)のように見えたのであろう。

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2-1. 娶りと御子

故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。亦娶八嶋牟遲能神自牟下三字以音之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神。訓鳴云那留。此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神田下毘、又自伊下至邇、皆以音生子、國忍富神。此神、娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名・八河江比賣、生子、速甕之多氣佐波夜遲奴美神。自多下八字以音。此神、娶天之甕主神之女・前玉比賣、生子、甕主日子神。此神、娶淤加美神之女・比那良志毘賣此神名以音生子、多比理岐志麻流美神。此神名以音。此神、娶比比羅木其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音。此神、娶敷山主神之女・青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。

①胸形奧津宮神・多紀理毘賣命

天照大御神と須佐之男命の宇氣比で誕生した比賣に胸形之奥津宮に坐す多紀理毘賣命が登場した。最初に生まれた比賣であり、まさに天照大御神直系の後裔であろう。代々世襲されて「多紀理」に居た由緒ある毘賣が大國主命の后となったと思われる。
 
<胸形三柱神>
現在の奥津宮、中津宮は沖ノ島、大島となっているが、再掲した図に示すように古事記のそれらは釣川沿いに並んだ「三前大神」であったと紐解いた。

奥津宮(西)があったと推定した場所はJR赤間駅(東)と直線距離2km弱、現在まで宗像の中心地である。宗像は赤間の山間を開拓し栄えて来た場所である。

宗像は日本の歴史上唯一の不動点と見做したが、真のそれは「邊津宮」辺りのみと言うことになろう。

異なる表現をすれば宗像(胸形)を信仰の地として海辺の狭い土地に閉じ込めた策略であったとも言える。

安萬侶くんもさることながら日本書紀の編纂に携わった連中も並々ならぬ頭脳の持主だった思われる。

JR赤間駅から東に4km強のところに八所宮がある。神倭伊波禮毘古命が幾年か坐した阿岐國之多祁理宮があったとした宮である。宗像の主要な地に、周到に配置された場所を伝えていると思われる。

さて、御子に阿遲鉏高日子根神、妹高比賣命(下光比賣命)の兄妹が誕生する。
 
阿遲鉏高日子根神(迦毛大御神)

「日子根」は天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命、活津日子根命に登場し、「日子根」=「[炎]の地から延びた[根]の形のところ」と紐解いた。「鉏」=「鉏で隙間を作る」と解釈して…、
 
阿(台地)|遲(治水された)|鉏(隙間がある)
高(高い)|日([火])|子(生え出た)|根([根]の形)|神

…「治水されて隙間がある台地で高いところから[火]の地から生え出た[根]の形ところ」に坐す神と紐解ける。
 

<阿遲鉏高日子根神>
解けたとは言え、具体的には如何なる地形を表しているのであろうか?…図を参照すると、現在の宇生神社がある場所は当時の釣川に含まれた中州の状態であったと推測される。

この台地状の中州にある小高いところは、二つに分かれていて、それを「鉏」(鉏で隙間を作る)と表現している。

「高」は通常の解釈「高い」ではなく、「高天原」などで読み解いた「広げた布が乾いて皺が寄ってできる筋目がある様」であろう。

「天」=「阿麻(擦り潰された台地)」の皺が寄ったような地面を表すのに「高」の文字を用いたのである。

「高」は「日子根」に掛かる文字と読む。「高日子根」は…、
 
皺のような筋目がある[炎]の地から生え出た山稜の端

…と読み解ける。

また別の段では「阿遲志貴高日子根神」とも記される。「鉏」→「志貴」と変えている。「志」=「蛇行する川」に変わりはないであろう。「貴」=「臾+貝」に分解される。共に「二つのもので挟む」イメージと考えられる。
 
志貴=二つの台地に挟まれた蛇行する川

…と読み解ける。「貴」と「高」は見事に繋がっていることが解る。例によって同一場所に異なる表記を用いたのであろう。
 
<多紀理毘賣命の御子>
迦毛大御神」とも言われたと記される。今に繋がる神でもある。「大御神」が付くのは天照大御神と二人だけのようであるが・・・。

鋤いて離れた島(当時)にある宇生神社辺りから見ると「鱗」が出会ったような位置になる。
 
迦(出会う)|毛(鱗)

…と紐解ける。今に繋がる「カモ」であるが、その名称の謂れを告げている。

元来「胸形君等之以伊都久三前大神」と記されたところであり、奥・中・邊津宮の三つ揃えの一つに坐す多紀理毘賣命の御子として納得される場所であろう。

そして天照大御神の奔流であることを示す「大御神」の命名?・・・。

確かにそんな解釈もあり得そうだが、既に述べたように天照大御神の「大御神」=「平らな頂の山で御する(束ねる)神」とした。迦毛大御神」も正に「束ねる」場所に坐していたのである。
 
高比賣命(下光比賣命)

「鉏高」の近隣と思われるが「下光比賣命」は何を意味しているのであろうか?…「光」=「火+ー」と分解してみると…、
 
下(麓)に[ー]がある火

…の比賣命と読める。[ー]は山稜を横切る谷間を模したのであろう。「火」(秋津)の下側に括れた場所に座していたと思われる(図を参照)。宗像市田島の「宿の谷」と呼ばれるところである。
 
<神屋楯比賣命・事代主神>
高比賣命に含まれる「高」も現在の高宮・上高宮と盛り上がったところが続く、皺の地形と見做したのであろう。


胸形の地に大国主命が深く関わっていたことを伝えているのである。

②神屋楯比賣命

「神」は神様ではなかろう。既出の「屋」=「山陵が尽きるところ」とする。「楯」=「木+盾」であり、「盾」=「⺁+十+目」は「目を覆う様」象形した文字と解説されている。

地形象形的には如何に紐解くか?…「目」=「谷間」とすると、「山稜が谷間を覆うように延びている様」と解読される。谷間の出口を塞ぐように山稜が曲がって延びている地形を表す文字と解釈される。

「神屋楯比賣命」は…、
 
神(稻妻の形)|屋(山陵が尽きる)|楯(山稜が谷間を塞ぐように延びる)

…「稻妻の形をした山陵が尽きるところで谷間を塞ぐようなところ」の比賣命と紐解ける。「淡海」が間近なところに位置する。「神・楯」など神宿る山を祭祀する場所の麓のイメージを醸しているようでもある。またそう読めるような文字を使っているのである。

すると須佐之男命が娶った大山津見神之女、神大市比賣が坐していた場所の近隣ではなかろうか。山稜が寄集ったところの先にある場所となる。現地名は北九州市門司区大里戸の上である。現在の萩ヶ丘小学校・公園辺りと思われる(上図参照)。
 
事代主神

御子に「事代主神」が誕生する。後に説話に登場するが、古事記の扱いは簡略である。「事」=「真っ直ぐに立つ、立てる様」を表す文字と解説されている。地形象形的に解釈すると「真っ直ぐに立ったような山稜」と紐解ける。「事代主神」は…、
 
事(真っ直ぐに立ったような山稜)|代(背にある)|主([主]の地形)

…「真っ直ぐに立ったような山稜が背にある[主]の形の地」に坐す神と読み解ける。「主」の中心が真っ直ぐに延びた「灯」の形を表している。「事」を「祭事」の意味として、背後が神の宿る場所(戸ノ上山)とすれば、重ねた表現のようにも受け取れる。

後に述べるが「八重事代主神」とも記される。「八重」=「端が二つに岐れた山稜が谷間を突き通すようにのびているところ」と解釈すると、更に補足された詳細な場所を示している。また八重言代主神」とも記述される。「言」=「大地を耕地にする」は既出の月讀命で紐解いた。後の「一言主神」も同じ解釈である。

「谷間を切り開いた耕地の背にある[主]の形の地に坐す神」と読み解ける。谷の奥深くにまで耕地を拡げて行った、と伝えているのである。図に示したように山腹まで開かれた特徴のある場所である。

③八嶋牟遲能神之女・鳥耳神
 
<八嶋牟遲能神>
前記の八嶋士奴美神の「八嶋」=「大きく広がった[鳥]の模様がある山」であろう。牟遲能神の「牟」は「牛」の甲骨文字の象形、「能」=「熊=隅」としてみると…、
 
牟([牛]の字の形)|遲(治水した田)|能(隅)|神

…「[牛]の字の形をした治水された田が[鳥]の模様がある山麓の隅」の神と紐解ける。現地名は門司区永黒である。

速須佐之男命の御子八嶋士奴美神が坐した場所は南側に位置する。「八嶋牟遲能神」は矢筈山南麓の谷川を活用したのであろう。何れにせよ狭い土地を如何にして耕地とするのか、大変な苦労があったのではなかろうか。

「鳥耳」とは一体何を意味しているのであろうか?…鳥髮などの関連する地名から…、
 
鳥(鳥髪:戸(斗)の山稜)|耳(麓の縁にある耳の形)|神

…「戸ノ上山の麓にある耳の形の地」神と解釈される。現地名は門司区松崎町、大山祇神社辺りと推定される。御子に「鳥鳴海神」が誕生する。
 
鳥鳴海神

「鳴」=「那留」と読めと註記される。海を留めるところと解釈すれば…、
 
鳥(鳥髪:斗の)|鳴海(海辺の波止場)|神

…「大斗の海辺にある波止場」神となる。現地名は門司区大里戸の上・黄金町辺りであろう。当時は海岸線であったと推定したところである。この神から立板に水の如くに系譜が述べられる。

2-1-1. 鳥鳴海神以降の系譜

娶った比賣は男か?…なんてことはないのであろうが・・・。
 
日名照額田毘道男伊許知邇神

「名」、「照」、「額」及び「知」などが解けると、決して難解な文字列ではない。取り敢えず長いのでブロック毎に分けて紐解くことにする。「日名」は…、
 
<日名照額田毘道男伊許知邇神・國忍富神>
日([炎]形)|名(三角州)

…「[炎]の形をした山稜の端」と紐解ける。

「照額田」は…、
 
照([炎]のような山稜で取巻かれている)|額田(山腹に突き出た地の下にある田)

…「[炎]のような山稜で取巻かれた突き出た地の下にある田」と解釈できる。天照大御神の「照」と同様に稜線が山(額)を取巻くように並んでいる様を表している。
 
<日名照額田毘道男伊許知邇神>
「額」は
、例えば、後に出現する葛城高額比賣に含まれる。福智山西稜にある鷹取山を「高額」と見做したのと同じ地形と思われる。

「毘道男」は…「道」=「首(凹んだところ)」と解釈して…、
 

毘(山稜が並んでいる窪んだ地)|道(首の付け根のような)|男(山稜が突き出ている)

…「山稜が並んでいる窪んだ地の下にあって山稜が突き出ている首の付け根のように凹んだところ」と紐解ける。

「道」=「辶+首」と分解され、「首の付け根のように凹んでいる様」を表すと解釈する。伊邪那岐の禊祓で誕生した道之長乳齒神、道俣神の「道」と同様である。最後の「伊許知邇」は…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|許(耕地が連なり延びている)|知(鏃の地)|邇(延び広がる)

…「谷間で区切られた山稜の麓で連なり延びている耕地が鏃のような山稜が延び広がっているところ」と紐解けるであろう。「伊」=「人(谷間)+尹[|(区切る)+又(山稜)]」、「知」=「矢+口」と分解し、「矢の口」=「鏃(ヤジリ)」と解釈する。

矢筈山を鏃と見做し、その麓に近いところに座していた神と読み解ける。確かに微妙な場所ではあるが、それにしても・・・であろう。纏めてみると…この長たらしい神の意味は…、
 
[炎]の形をした山稜の端で
[炎]のような山稜で取巻かれた
突き出た地の下に田が広がり
山稜が並んでいる窪んだ地の下で
山稜が突き出ている首の付け根
のように凹んでいて
谷間で区切られた山稜の麓で
連なり延びている耕地が
鏃のような山稜の近くにあるところ

…の神となる。肥河の傍で居場所を求めると、現地名門司区奥田、矢筈山の東南麓が浮かび上がって来る。この地は「大斗」の中では、南に面した珍しく日当たりの良いところである。「照」にはその意味も込められているかと思われる。

近接地に「櫛名田比賣」の居場所がある。曲りくねった肥河に発生する山麓の三角州「名」を使った地名シリーズということかもしれない。もう少し簡略に…とすると特定できないか?…山の名前が付いてない時代、山名を少し多くすると良かったかな?…同じかな?…安萬侶くん。
 
2-1-2. 國忍富神

御子の名前だが簡単なようでこういうのが最も難しい。「国」=「大地、地面」であるが、「忍富」の解釈に窮する。「富を忍ばせる」となるのだろうが、これでは曖昧な表現そのものとなる。

「富」は既出で意富(大)斗に含まれていた。紐解いた結果は「富」=「宀(山麓)+酒(境の坂)」であった。これを適用すると…「國忍富神」は…、
 
国(区切られた大地)|忍(目立たない)|富(山麓にある境の坂)|神

…「区切られた大地が山麓にある目立たない境の坂になっているところ」の神と解釈される。すると現地名は門司区奥田(三)辺りではなかろうか(上図参照)

近辺で最も勾配の少ない坂と思われるが、当時との相違は不詳である。出雲の国境に繋がる坂でもある(七ツ石峠)。この神が「葦那陀迦神(八河江比賣)」を娶り、「速甕之多氣佐波夜遲奴美神」が誕生する。
 
<葦那陀迦神(八河江比賣)>

葦那陀迦神(八河江比賣)

「八河江」は…、
 
八河(谷河)|江(入江)

…「谷から流れ出た川が海に注ぐ入江」の比賣と読める。

当時の海岸線(図中白破線)から数百mのところと推定される。現地名は門司区上二十町・寺内辺りと思われる。

「葦那陀迦神」は…「葦」=「艹(丘陵)+韋(囲む)」と分解して…、
 
葦(丘陵で囲まれた)|那(なだらか)|陀(崖)|迦(出会う)|神

…「丘陵で囲まれたなだらかな地が崖と出合うところ」の神と読み解ける。異なる名前で同じ場所を示していると思われる。


2-1-3. 速甕之多氣佐波夜遲奴美神

一気に紐解いてみよう…、
 
速甕之(束ねた瓶の)|多氣(山の頂)|佐(谷間にある左手のような山稜)|波(端)|夜(谷)
遲(角のような)|奴(嫋やかに曲がる手のような山稜)|美(広がった谷間)
 
<大国主命の娶りと御子①>
…の神となろう。「束ねた瓶のような山頂がある左手のような山稜の端の谷間に角のように嫋やかに曲がって延びた山稜がある谷間が広がったところ」の神と解釈される。


「美」=「羊+大」羊の甲骨文字を使い、羊の上部の三角を山、下部を谷間に見た象形である。

頻出であるが、例えば上記の八嶋士奴美神に含まれる。

矢筈山の山頂が複数あり、水瓶を束ねたようになった山容と見做し、その端の谷間から山稜が延び出ている地形を表現していると思われる。図に示した場所の山麓と推定した。

現地名大里東(四)辺りの地形を示しているが、それにしても長い・・・。出雲國で誕生の神々を纏めて図に示す。この神(❻)が「天之甕主神之女・前玉比賣」を娶り「甕主日子神」が誕生すると伝える。何と、「天」に逆戻りの様相なのである。居処が無くなったからであろう。
 
<前玉比賣>
天之甕主神之女・前玉比賣

「天」に飛ぶ。「甕」が繋がるのであるが、「天」には矢筈山のような山は存在しない。どうなることやら…垂直方向の甕」ではなく水平方向で甕」と見るのであろうか?・・・下記に詳細を述べる。


「甕主神」の比賣の名前が「前玉比賣」とある。下図を参照願うが、この池の周辺に丘陵が丸くなって連なっているところがある。

それの先にある方の「玉」を示していると思われる。その元の玉は?…天石屋の件で登場した「玉祖命」を示す。図を再掲すると見事に布石されていたことが判る。

「天」の玉は五百津の近隣にあったと確定できるようである。では「天之甕主神」の居場所は何処であろうか?…「玉」の近隣で探すと、意外なところに坐していたことが解った。
 
<天之甕主神・前玉比賣・甕主日子神>
「玉祖命」の南から山稜が緩やかに曲がりながら甕の形を示している。後の白髮大倭根子命(清寧天皇)が坐した伊波禮之甕栗宮に含まれる「甕」と同様の用い方である。

「主」は、その中心を示すのであろうが、御子の「甕主日子神」の名前と関わってもう少し踏み込んだ解釈が必要と思われる。

御子の「日子」=「[日(炎)]の地形から生え出たところ」と解釈するのであるが、[日(炎)]の地形は見当たらない。

「主」=「台上にある灯の様」を象った文字と解説される。「柱」=「燃え上がる火がある山」天之御柱、天比登都柱で紐解いた場合に類する。

その[日(炎)]に当たる場所から生え出たところに坐していた「甕主日子神」と伝えているのである。現地名は芦辺町国分本村触とある。この神が「淤加美神之女・比那良志毘賣」を娶って「多比理岐志麻流美神」が生まれる、と続けられる。

2-1-4. 甕主日子神


淤加美神之女・比那良志毘賣

正体不明「淤加美神」=「龗神」と紐解いた。伊邪那岐の十拳劒から誕生した「闇淤加美神」であろう。依然不詳なので比賣の名前から先に紐解くと…「比那良志毘賣」は…、
 
比(並んで)|那良(平らな)|志(之:蛇行した川)|毘(田が並ぶ)|賣(女)

…と紐解ける。「並んでいる平らな丘陵の傍に蛇行する川があって田が作られている」ような地形を求めると…「天」で「志=之」ができるところは限られ、谷江川の河口付近であろう。すると現地名の壱岐市芦辺町中野郷仲触にある突き出た二つの丘陵が見出せる。

すんなりと收まる地形なのであるが、これで「淤加美神」の意味が読み取れた。
 
淤加美=龗=雨+龍(天安河:谷江川)

…を示していることが判った。長く蛇行して流れる川、それは「龍」と伝えているのである。この多彩な文字使いにあらためて感動するところである。

「淤加美神」この文字列で何故表記したのか?…、
 
淤(泥が溜まった洲)|加(増やす)|美(谷間が広がる)

…「
泥が溜まった洲が谷間の広がりを増やす」神と紐解ける。上記と同様に「美」の甲骨文字を使って象形したものと解釈した。安萬侶コード「美(谷間が広がる地)」を登録する。


文字列の意味は全く見事な表現と思われる。激しく蛇行する川が変曲するところで流速を落として洲を増やすのである。ちょっと出来過ぎの話しになるのだが、これらの表現が全てその謂れとすると頷けることとなる。検証するすべがないが、そんな気になる件である。


2-1-5. 多比理岐志麻流美神

御子の名前がまたまた文字の羅列である。一文字一文字…、
 
多(山稜の端の三角州)|比(並ぶ)|理(区切る)|岐(分かれる)|
志(蛇行する川)|麻(狭い)|流(流れる)|美(谷間が広がる)

…となる。「山稜の端の三角州が並んでいる地が区切られて蛇行する川が狭い谷間を流れるところ」の神と紐解ける。「美」は上記と同じ解釈である。
 
<大国主命の娶りと御子②>
現地名は芦辺町諸吉大石触・仲触辺りであろう。この神は「比比羅木」に飛ぶ。どうやら出雲を出た時も「港」の近くに座した神は遠くへと飛ぶ。

言い換えると彼の居場所が交流の拠点であったことを伝えているのではなかろうか。

出雲の肥河、天安河の河口が当時の、後者は現在も、重要な交通の地点であったことが判る。

大国主命までの記述は複雑怪奇と読まれ、通説は何処かの伝説の挿入のような解釈である。全くの誤りであろう。彼の時代までは「天」を拠点とした時代から抜け切れていないのである。当然その地の表現は後代とは異なるのである。

そして「比比羅木」の登場。現在は「他国」である。その地の詳細を知ることはできるのであろうか?…古事記の表現の「ルール」は守られているのであろうか?…些かの不安も併せて紐解いてみよう。その前に「天」の地図を上に示した。

<比比羅木の神々>

「比比羅木」とは?…「比比」=「至るところ、どこでも」(白水社中国語辞典)とある。幾度も現れる「羅」=「网+糸+隹」=「鳥を捕まえる網」が原義とされるが、派生して「網の目のように並べる」、「薄衣」の意味を示すとされる。地形象形として簡略に「連なる」と紐解くと…「比比羅木」は…、
 
比比(至るところ)|羅(連なる)|木(山稜)

…「至るところで連なる(網の目のように並べられた)山稜」の国を示すと解釈する。

調べると「新羅国」「比比羅木の八尋矛根底附かぬ国」(播磨国風土記逸文)と表記することがわかった。「八尋矛根底附かぬ国」=「八尋矛が台につかない国」=「戦闘ばかりしている国」と解釈される。となると「比比羅木」と修飾される国が「新羅国」となる。

比比羅木之八尋矛」は、後の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が倭健命に東方十二道を制圧しろと命じた際に登場する(倭健命参照)「比比羅木」=「柊」では決してない。いくら硬い木といっても荒ぶる神を退治するのに木刀はない。霊験あらたかな木刀・・・この解釈のままで放置されていることに首を傾げるのである。
 
<比比羅木>
文献によると・・・、

この国の場所は朝鮮半島東南部、文献によると半島の75は山岳地帯だが平均標高は482m2,000m以上の山はなく1,915mが最高とある。

分水嶺が東部海岸近くにあり、東高西低の地形、西に向かって緩やかに傾斜する。

・・・地図で確認するとその通りの「比比羅木」であることがわかる。

朝鮮半島といえども古事記にある地名は同じ「ルール」(安萬侶コード)で記述されているであろう。少々不安なのが詳細な地図の入手が可能かどうか…Google Mapが読み取れるか?…まぁ、一歩進むことであろう。

娶りの記述の該当部分を再掲すると…、

此神、娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音。此神、娶敷山主神之女・青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。
[この神がヒヒラギのソノハナマヅミの神の女のイクタマサキタマ姫の神と結婚して生んだ子は、ミロナミの神です。この神がシキヤマヌシの神の女のアヲヌマヌオシ姫と結婚して生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミの神です。この神がワカヒルメの神と結婚して生んだ子は、アメノヒバラオホシナドミの神です]

「此神」は多比理岐志麻流美神である。以後「比比羅木」での娶りが続くのである。

比比羅木之其花麻豆美神

同様にして地形を象形した命名と考え、一文字一文字を紐解いてみる。「其」=「箕」の略字と思われる。後の反正天皇紀の「丸邇之許碁登」の表現と繋がる。「碁(其+石)」=「箕(竹+其)」農作業用の「ミノ」の形を模したものと解釈する。

「其」=「箕(竹+其)」、「花」=「端」、「麻」=「摩:削る」、「豆」=「高台」、「美」=「谷間が広がる地」とすると…「其花麻豆美」は…、
 
其(箕)|花(端)|麻(削る)|豆(高台)|美(谷間が広がる)

<比比羅木之其花麻豆美神>
…「箕の地形の端
削られた高台の谷間が広がるところ」と紐解ける。

「箕」の形は極めて特徴的である。下図を参照願うが、一に特定できる場所が浮かび上がって来る。

その中心地の現地名は慶尚南道金海市安洞辺りと思われ、現在の金海市庁がある近隣である。

大河の洛東江の河口付近に位置し、対馬に最近接する場所でもある。

朝鮮半島から渡来する人々が出発する最も重要な地点の一つが古事記に記述されていることが判った。「此神」は壱岐から対馬を経てこの地に通った。古代の文化圏を垣間見せているのであろう。

活玉前玉比賣神

その比賣の名前は何処を指し示しているのであろうか?…「活」=「氵+舌」として「舌」の地形象形と思われる。上記の「箕」の西側にそれらしき山稜が見出だせる。「舌」の先が丸い形を示している。この山稜の西麓が「伽耶」の中心地であったと推測される。数少ない聞き慣れた地名である。現在に残る古代の名前ではなかろうか。

この山稜の南端が現在の金海市の中心のようである。古代より大河の河口に開けた地域と推測される。人々が定着し始めたところは、勿論倭国と同様であろう。そんな地で生きる知恵と知識がこの河口から伝えられたと思われる。

2-1-6. 美呂浪神

誕生したの御子の名前である。これは直接紐解いてみよう…「美呂浪神」は…、
 
美(谷間が広がる)|呂(背骨)|浪(なだらかな水辺)

…「背骨のような山稜がある谷間が広がった地が水辺でなだらかになっているところ」神となろう。下図を参照されれば一目であろう。現地名は、やや読取り難いが、金海市長有路ではなかろうか。

敷山主神之女・青沼馬沼押比賣

美呂浪神が娶ったのが「青沼馬沼押比賣」と記される。其の父親が「敷山主神」とある…、
 
敷山(山を敷いた)|主神(主の神)

…正に比比羅木=新羅の主神の意味であろう。この神の居場所は現在の慶尚南道庁の所在地にあったと推測される。現地名は昌原市義昌区とある。鎮海に接するところ、新羅国の中心地と思われる。その主神の比賣の名前が、何とも解読不能なような命名なのである。

実際の土地勘と同じく見慣れぬ地図の読み取りには少々時間が…見つかりました。そのものズバリの形の沼があった。これこそ地図を参照願うと一目なので、説明は控えるが、現地名は昌原市義昌区東邑である。東坂貯水池の名称になっている。

見た目の「馬」は理解できるが「青沼」とは何を…隣の沼のことを意味するのか?…と考えが巡るが、地名を調べて解けたのである。東邑の「東」=「青」これは仏教の五色に基づく。安萬侶くんの時代にはあったものであろうが、敷山主神の時代に使われていたとは考え難い。おそらく古事記を読む連中に分かり易く「青沼」と書き、時代が合わないので「馬沼」と追記したのではなかろうか。

また、航空写真からではこの沼は湿原地帯のように見受けられる。「青」=「忍」=「目立たない、成りかけ」意味を示しているかもしれない。古事記そのものに加えて現在の情報も少なく決め手に欠けるようである。また「青」=「生+井(丼)」と分解され、「生」=「本来の、自然に、元からある」の意味とすると、「青」=「本来は四角く囲まれたところ」と解釈される。「青沼馬沼押」比賣は…、
 
元々は四角く囲まれた沼が馬の形に押し拡がったところ

…の比賣としておこう。「押」=「押し拡がる」と読む。後の大倭帶日子國押人命(孝安天皇)天押帶日子命などと同様の解釈であろう。現在もこの近隣は広大な水田地帯のようである。洛東江の豊かな水源で開拓された地域と思われる。

2-1-7. 布忍富鳥鳴海神

比比羅木の最後の神の登場である。「鳴海」は少し前に「鳥鳴海神」の記述があり「鳴=那留」と読むと註記される。「鳴海」=「ゆったりとした海(水)辺」と紐解ける。また「國忍富神」で解釈したように「忍富」=「目立たない山麓の坂」として、以下のように読むと…「布忍富鳥鳴海神」は…、
 
布(布を広げたような)|忍富(目立たない山麓にある境の坂)|鳥|鳴海(水辺)|神

…「布を広げたような山麓の目立たない境の坂に鳥がいる水辺」神と紐解ける。何のことはない、馬沼の近隣である。現地名は注南貯水池という名前のようである。おそらく洛東江間近で国境近隣にあった坂と述べているようである。全て纏めて下図に示した。

<大国主命の娶りと御子③:比比羅木>



<「沼」の拡大図>

布忍富鳥鳴海神は若盡女神を娶って天日腹大科度美神が誕生する。系譜は、また「天」に戻ったと伝えている。

どう見ても鳥と馬である。こうなると応神天皇紀に登場する「阿具奴摩」の探索を行ってみたくなるのだが・・・。


<比比羅木↔笠紗之御前>
「新羅」それなりに見えてきたので…邇邇芸命が降臨した時に…

「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」

…と伝えられる。

地図上に線を引いて云々するのは趣味ではないが、面白いので、ご参考に…。

向韓國眞來通」は当然としても、沖ノ島との三点が乗っかるのは、美しい・・・。

――――✯――――✯――――✯――――

「天」に戻って…「此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神」と記述は続く。
 
<天日腹大科度美神>
 若盡女神

この女神の名前「盡(尽)」の解釈は一般的過ぎて特定するには困難であろう。続く御子達の紐解きを優先して考えてみることにする。

御子の名前は「天日腹大科度美神」とある。この名前も決して簡単ではない。

「天」の何処に舞い戻ったのであろうか・・・「日」=「火」を頼りに探すと、壱岐島の北西部辺りにそれらしきところが見出せる。

2-1-8. 天日腹大科度美神

なんだか寄せ集めて名付けたような感じであるが、何と読み解くか?・・・。

「日」=「火」、「腹」=「山腹」、「科」=「段差」、「度」=「渡:広がり届く・及ぶ」、「美」=「谷間に広がる地」とすると…、
 
天(阿麻の)|日(火)|腹(山腹)|大(大きい)
科(段差)|度(及ぶ)|美(谷間に広がる地)
 
<壱岐勝本町本宮山>
…「阿麻にある[火]形の山の山腹に大きな段差が麓にまで及び谷間が広がっている地」の神と紐解ける。

「火」とすると現地名「火箭の辻」に関連するところと思われる。
 
現地名の由来はともかくとして下図に示したようにこの地が「火」の形をしていると思われるからである。

更にその山腹に多くの棚田が作られている。おそらくは後代に発展したものであろう。

その元になった「段差」それが作られるために必要な水源などが揃っていたのではなかろうか。
 
ならば「若盡女神」は上図の本宮八幡神社近隣と推定できる。その先にある本宮山の西麓は海に落ちる断崖である。「地が尽きかけるところ」の表現と思われる。
 
天狹霧神之女・遠津待根神

日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…古事記中初出の津である。多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」は勝本浦もしくはタンス浦であろう。
 
<天狭霧・神遠津待根神・遠津山岬多良斯神>
このどちらかは御子の居場所も含めて紐解くことにする。

天狹霧神」(「天」の狭い切通があるところの神)の居場所は現在の国道382号線が通り勝本港に降りる「切通」の近隣と推定できる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ三十五神の一人、実体のある「天」に住まう神であった。現地名は勝本町西戸触である。

遠津の「遠」を「辶+袁」と分解すると、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」と紐解ける。

「衣」は幾度となく登場する文字で、襟元の三角形を模したものと思われる。「辶」=「延びる、広がる」として、高志之八俣遠呂智に含まれる「遠」と同様に解釈すると…、
 
遠(ゆったりとした山麓の三角州が延びる)|津(入江)

…と解釈できる。上図のタンス浦に注ぐところで三角州が交差・合流するところを示していると思われる。「待根」=「根本をもてなす(神に仕える)」のように読み取れるが、古事記はそんな悠長なことを告げてはいないであろう。

「待」の文字解釈を如何にするか?・・・。「待」=「彳(交わる)+寺」と分解すると「寺」が現れて来る。「寺(時)」=「蛇行する川」と紐解いた。

伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神で解釈した。「時」=「之」=「蛇行する川」と同様と思われる。「遠津待根神」は…「遠津」を簡略に表して…、
 
遠津(ゆったりと延びた三角州がある津)|待(交わり蛇行する川)|根(根元)
 
<遠津山岬多良斯神>
…「ゆったりと延びた三角州がある津で交わりながら蛇行する川の根元」と紐解ける。

勝本浦には見出せないが、タンス浦に注ぐ幾本かの合流しながら蛇行する川が見られる。その根元(源流)を示していると思われる。父親天狭霧神に隣接する地である。

上記したように「遠津」は神岳を中心とした距離並びに表の津(芦辺)に対して奥にあるという意味も重ねているように思われる。

勝本浦は後代には朝鮮通信使の接待所などがあったとか、よく知られているように対馬と渡海の要所であったところである。

大国主命の後裔とは直接関連するところではなかったのかもしれない。誕生した御子の遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」は…、
 
山岬(山がある岬)|多(山稜の端の三角州)|良(なだらかに)|斯(切り分ける)
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
…「山がある岬が山稜の端の三角州となだらかに切り分けられてい
るところ」の神となる。

頻出の「多」、「良」は上記の通りとして、「斯」=「其(箕)+斤(斧)」と分解すると、「切り分ける」と読み解ける。

「山岬」と強調されていることを思い合せると、坐していたのは、現在の平神社辺りかもしれない。

母親の近隣、現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。上記「天」の神を纏めて図に示した。

これで間違いなく「遠津」はタンス浦…当時はより内陸に広がっていた?…であることが解る。

この段の最後は「右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神」と締め括られる。

「多良斯」=「帶」に置換えられている。序文(良→羅が使われる)にも記された通り、この後、頻出する「帶」が付いた人名に深く関連する表記である。
 
帶=多良斯

上記で紐解いたように地形象形の「帶」=「山稜の端の三角州がなだらかに切り分けられたところ」と解釈しろと述べているのである。帯が長く垂れている様と解釈すれば「山稜がなだらかに(羅の場合:連なって)長く延びたところ」と簡略に訳することもできるようである。「帶」の登場のところで用いることにする。

「帶」の意味を伝える「多良斯神」で長い末裔の記述は終わる。大国主命の段は出雲(葦原中國)、「天」と比比羅木の深い繋がり、交流の経緯を述べたものである。

彼らは何代にも亘り娶りを交差させて来たようである。記述されたことはほんの一例に過ぎないであろう。

そう考えると、これら三つの拠点を中心とする海洋文化圏が間違いなく存在していたことが伺える。古事記はその「事実」を書き記した書物だと結論付けられる。下記に系譜を示す。


Wikipedia 参照>






天照大神・須佐之男命                  大国主命・大年神
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