2019年8月28日水曜日

高御産巣日神之子・思金神と神産巣日神之子・少名毘古那神 〔366〕

高御產巢日神之子・思金神と神產巢日神之子・少名毘古那神


造化三神と言われる内の二神にはそれぞれ息子が居たと告げられている。「此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也」と謎めいた記述をしている割には、しっかりと現に活躍されるのである。と言うことで、それぞれの居場所を前記<天之御中主神・高御產巢日神・神產巢日神 〔365〕>で突止めた。


<高御產巢日神・神產巢日神>

今回はその二神の息子の居場所を、訂正も含めて、求めてみようかと思う。

それぞれの父親の高御產巢日神と高御產巢日神の坐していた場所を再掲すると図のようになる。

「產巢日神」に冠される「高」(皺の筋目)・「神」(雷)の解釈がキーポイントであった。

「高」は「高い」の意味ではなく、「皺」の意味を示す。これで初めて紐解けたわけである。

更に、この二つの文字解釈によって常世國の地形がまざまざと浮かび上がって来ることが解った。決して常世は天上の世界ではないことが解る。

高精度の国土地理院地図、仰角計算に何故使用しなかった?…トウモロコシが国内不足?…怪しげな言い訳が横行する昨今である。
 
高御產巢日神之子・思金神

この神が登場するのは、天石屋の事件の中である…古事記原文…、

故於是、天照大御神見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音坐也。爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而常夜往。於是萬神之聲者、狹蠅那須此二字以音滿、萬妖悉發。是以八百萬神、於天安之河原、神集集而訓集云都度比、高御巢日神之子・思金神令思訓金云加尼而、集常世長鳴鳥、令鳴而(以下略)・・・

天照大御神が速須佐之男命とのいざこざで天石屋に引き籠った事件の解決策を考える役目を担う。「多くの思慮を兼ね備えている神」を暗示する?…そうとも読めるであろう。
 
<思金神>
それと重ねて、やはり地形象形されている筈であろう。少し手の込んだ命名かと思われる。

「思」=「囟+心」と分解される。「囟」=「頭蓋骨の泉門(未縫合部分)」を象った文字と言われる。

頭の凹んだところである。二つある泉門は十字の溝が交差するような形を示している。そんな地形が見事に見出せる。勝本町東触にある。

「金」はその文字の形から「[ハ]の形の谷間にある高台」と紐解く。

伊邪那岐の禊祓で誕生する神々の一人である阿曇連の祖となる宇都志日金拆命に含まれていた。また後には幾度か登場する文字である(例えば廣國押建金日命(安閑天皇)など)。するとこの十字の谷間にある高台を示していると推定される。

また「金」=「加尼」と訓される。「尼」=「背中合わせに近付く様」を象った文字である。とすると「加尼」は…、
 
近付くところを更に近付ける

…と読み解ける。図に示した通り、近付く二つの山稜の間にある高台と解釈できる。高御產巢日神(後に高木神と呼ばれる)が坐した場所は後に求めたところ、狭い常世国とは言え、その近隣に思金神は坐していたことが解る。

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少々余談になるが・・・『先代旧事本紀』では「八意思金神」とも記される。「八意(ヤゴコロ)」と訓するようであるが、古事記風に紐解くと…、
 
八(谷)|意(閉じ込められたところ)

…と読み解ける。谷で囲われ閉じ込められた地形を表していることが解る。「思」の地形象形の別表記となる。

おそらくは漢字で地形象形すること自体は、その当時にはごく自然に行われていたのであろう。古事記はそれを体系的に纏め、齟齬のないように記述したと思われる。古事記風には「八意」→「八十」もしくは「八衢」であろうか・・・。

いずれにしても、そんな重要な手法をぐちゃぐちゃにしてしまったのが日本書紀ということになろう。勿論目的があってのことで、致し方なしの感があるが、漢字という特異稀な文字を使う民族にしか為し得なかった「地形象形」を埋没させてしまったことが悔やまれる。

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少名毘古那神

少名毘古那神の登場は、大国主命が出雲の国造りを始めた時に、その助っ人の役割を担う場面である。最新鋭の船に乗ってダウンジャケットを羽織っての登場である。勿論最新の稲作技術を携えて…古事記原文…、

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」(以下略)・・・


<少名毘古那神>
「少名毘古那神」とは?・・・。

「名」=「山稜の端の三角州」、「毘古」=「田を並べ定める」、「那」=「揃える」と解釈できそうだが・・・。

残る「少」は何とするか?…「少」=「小+ノ」と分解される。「削ぎ取って減らす」と解説される。

これをそのまま地形象形に用いたのではなかろうか。

即ち「少」=「山稜の端を削ぎ取ったような様」を表していると読み解ける。

すると「少名毘古那神」は…、
 
少(山稜の端が削ぎ取られた)|名(三角州)
毘古(田を並べ定める)|那(揃える)|神

…「山稜の端が削ぎ取られたような三角州の傍らで田を並べ定めて揃えた」神と紐解ける。

図に示した場所は、常世国では数少ない広く長い谷間の地形である。勿論父親の「神產巢日神」が坐した場所に含まれるところである。先進の稲作技術の指導者であったと伝えているのである。稲穂を守るだけではなく、物知りの案山子を残して、サッサとご帰還、納得である。

この神は、仲哀天皇紀に再度話題に上る(勿論同一人物ではない)。御子の品陀和氣命(後の応神天皇)が高志前之角鹿で禊祓する際に「其地伊奢沙和氣大神之命」と名前を交換してご帰還なされ、それを迎える酒盛りの話題の中に登場する。息長帶比賣(神功皇后)がはしゃいでいる様を軽妙なタッチで記述しているところである。


<伊波多多須 須久那美迦微>
その歌中で少名毘古那神のことを「登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微」と表記されている。

登許余邇伊麻須」=「常世に坐す」として、以下の直訳は?・・・。

①伊波多多須

武田氏は「岩の上に立つ」の訳であるが、何を意味しているのか、唐突な感じであろう。
 
伊(僅かに)|波(端)
多多(真っすぐな)|須(州)

…「僅かに端が真っ直ぐな州」と紐解ける。「多多須」の解釈は丹波比古多多須美知能宇斯王に含まれる「多多須」と同じ解釈である。大きさが違う?…ちゃんと「伊波」を付けている。

②須久那美迦微

この文字列は…、
 
須(州)|久([く]の形)|那(ゆったりとした)|美(谷間に広がる地)
迦(出合う)|微(微かに)


…「[く]の形の州がゆったりと広がる谷間が微かに出合うところ」と紐解ける。少名毘古那神が坐していた場所の詳細地形を表していることが解る。

「少名」が読み解けない読者に、ここで教えておこう・・・の感じかもしれない。微妙に呼び名が異なるのも同一人物ではないことを示しているのであろう。


2019年8月20日火曜日

天之御中主神・高御產巢日神・神產巢日神 〔365〕

天之御中主神・高御產巢日神・神產巢日神


古事記本文の冒頭の記述…、



天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

…に登場する三柱神である。「独神・隠身」と記されて、すっかり追い求めるのは失礼なほど高貴な神々として来たが、後者の二人は物語に登場してご活躍なさるわけだから、居場所を詮索しても許されるのではなかろうか?…と勝手に解釈して、実行してみた。

一部読み解いた気分に陥っていたが、見直しも含めて再掲する。

①天之御中主神

御(御する)|中(内)|主(中心)

…「天の中(内)を御し中心」に坐す神と読める。


<天之御中主神>
従来より解釈されてきたところと異なることはなく、三柱神の中でも最も高位な位置付けであろう。この神が登場するのはこの記述のみである。

しかしながら使われている文字をよく見れば、地形象形する場合に頻出する文字であることが判る。

解釈は「主」を何と読み解くか、であろう。「主」=「灯をともす皿の中の灯心」を象ったものと言われる。

それから「じっと立って動かない」様を表す文字として使われていると解説される。古文字を図中に示したが、これを「火を噴く山」の象形として用いたのではなかろうか。

古事記の登場する「柱」=「木+主」は「火山」を示すと紐解ける。ここでの「主」は「柱」を略した文字として使用されていると解釈すると…、
 
天之(阿麻の)|御(束ねる)|中(中にある)|主(火の山)|神

…「阿麻の中にある火の山を束ねる神」と紐解ける。天安河の上流部にある谷間、現地名勝本町本宮東触辺りと推定される。「神通の辻」を中心とする火山群、それが「天(阿麻)」の中心であることを伝えている。

「御中主」は、後に伊都之尾羽張神の「伊都」として記述される。「伊都」=「燚(イツ)」と紐解いた。正に「火」が束になった地形を示している。ご本人は登場しないがその存在感は十分に伺えるのである。

②高御產巢日神

上記と異なり、文字通りに読み下してもスッキリとは受け取れない文字列である。通説でも読み下した例は少なく、「本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である」と言う説ぐらいであろう。

次の伊邪那岐・伊邪那美のように「神產巢日神」と対をなして「産む」神としての解釈であろう。伊邪那岐・伊邪那美と違って性別不明なことが引っ掛かるようでもあり、曖昧な状態である。
 
高(高所から)|御(御する)|產(生み出す)|巣(住処)|日(日々)|神

<高御產巢日神・神產巢日神>
…「人々が寄り集まり住まう住処を生み出すために高所から(高い位置から)統御するのが日常の神」と読める。

とは言うものの些かスッキリとはしないのは通説同様である。

と言うことで、「創造」の神のイメージを示しながら、やはり地形象形的表記と思われる。

ならば一文字一文字を紐解いてみよう。

「高」は、高天原と同じく「広げた布に皺が寄ってできる筋目がある地形」と解釈する。

「御」=「束ねる」地形に用いた場合には「御する」よりも適切と思われる。「產(産)」=「生え出る」、「巢(巣)」=「寄り集る」、頻出の「日」=「[炎]の地形」と解釈する。

すると「高御產巢日神」は…、
 
高(皺の筋目がある地)|御(束ねる)|產(生え出る)
巣(寄り集まる)|日([炎]の地形)

…「皺の筋目がある地が生え出て寄り集まる[炎]の地形を束ねるところ」に坐す神と紐解ける。図に示したように山腹に皺の筋が見える地に囲まれた地形を表していると思われる。この神は、後に高木神と別名を持っていたと告げられる。簡単な表記であり、坐していたのは最も南側の山稜(麓)と推定した。

③神產巢日神

神([雷]の形)|產(生え出る)|巣(寄り集まる)|日([炎]の地形)

…「[雷:稲妻]の山稜から生え出て寄り集まった[炎]の地形」に坐す神と紐解ける。この神の名前に二つの「神」の文字がある。間違いなく前者は「雷」であろう。上図に示した通り「稲妻」山稜が見出せ、高御產巢日神と全く同様の[炎]の地形が谷間を形成していることが分かる。

また「雷=雨+田」に分解できるとすれば、恵みの雨を誘起するという穀物を育てるには不可欠な存在、それを活用していた神であることを伝えていると推察される。

後述される須佐之男命の段に「天」を追い払われ、出雲に降臨する際、大氣津比賣神から食物を調達しようとする。その比賣神の身体から種々の食物が生えてくるのをせっせと巢日神が取り集めて種にするという記述がある。

また大国主命の段に常世国から神產巢日神之御子・少名毘古那神が登場する。大国主命に稲作技術を伝えに来たと紐解いた。その役割は、巢日神の名前に刻まれていたのである

2019年8月17日土曜日

竺紫日向の『日向』 〔364〕

竺紫日向の『日向』


「日向(ヒムカ)」の文字の意味は何と解釈できるのであろうか?…辞書に拠れば…、

日本神話における地名。九州南東部の地名であるが,記紀の伝承では必ずしも実際の場所を指すものではない。伊弉諾尊が黄泉国のけがれを祓うためにみそぎをし,瓊瓊杵尊が降臨した所が〈筑紫の日向〉とされている。そこは〈朝日の直刺す国,夕日の日照る国〉であり,現実の出雲ではなく神話的空間としての〈出雲〉(出雲神話)や〈黄泉国〉といった日の没する闇の国と表裏一対をなす神話的世界でもあった。(世界大百科事典 第2版)

…と記されている。要するに「神話」の世界の地名としつつ、九州南東部の地名とされている。「日向(ヒナタ)」=「日の当たっている所」と読まれるが、それでは漠然としてて、九州南東部とするのは、現在の地名(日向:ヒュウガ)に依存した解釈であろう。

本ブログで引用している武田祐吉氏は「東方」と訳され、「竺紫日向」=「筑紫の東方」となっている。通説では「筑紫」=「現九州」だから九州の東部、もしくはより本州辺りまでを示すように受け取られる。いずれにせよ文字そのものが示す意味を解釈したわけではなく、辻褄が合うように訳した、のであろう。

既に幾度か述べたように古事記では「竺紫日向」であって「筑紫日向」ではない。「竺紫」と「筑紫」が混同されて使用されてはいないのである。日本書紀は、敢えて「筑紫」と記したと思われる。理由は「竺紫」では、その場所が一に特定されてしまう、そんな懸念があったからであろう。

では、「日向」とは一体何を表わそうとしているのか?…今一度文字解釈を行ってみよう。「日」=「炎」として問題なく読める。この地で誕生する御子達は「火」がキーワードである。木花之佐久夜毘賣が家に「火」を放って火照命・火須勢理命・火遠理命産んだと記述されている。

勿論「火」=「山稜が[火]の形」を示すと読み解いた。燃え盛る火の中でお産をしたと”神話風”に表現しているだけである。文字そのものをそのまま読んで、そこに含意された事柄を読取っていない、解釈不能に陥ることが前提で、神話だから意味不明と逃れる。撞着した解釈でもお構いなし、と言った有様である。

「向」=「宀+口」と言う極めて簡略な構成である。これについては、ほぼ定説化しているようであるが、「家の北側についている窓」を象った文字と言われる。北向きの窓の象形を使って「向き(かう)」と言う意味を表す文字となったようである。OK辞典、また常用漢字論―白川漢字学説の検証を参照願う。白川漢字学の「囗(サイ)」は全く使い物にならないようである。


<竺紫日向>
伊邪那岐の禊祓で誕生した神々の配置は、「竺紫日向」の詳細地形を表すと読み解いた。

北の湯川山から始まる孔大寺山系は、南へぐるりと回って戸田山を経て東へ向かい、馬頭岳から北上する。

「竺紫日向」の地は、この山塊と響灘・古遠賀湾に囲まれた地域であることを示している。即ち西~南~東を山稜に囲まれた地なのである。

伊邪那岐が生んだ神々、邇邇芸命と木花之佐久夜毘賣の御子の名前に潜められた総ての記述が収束することが解る。

そして、「日向」の意味、全くの地形象形の表記であることが紐解けたのである。

「日向」は…、
 
「日(炎)」の山稜が「向(北側の窓)」へ延びているところ

…と告げている。釈然としないながらも結局は神話の世界へと逃げ道を作って来た解釈、古事記を神話物語に閉じ込めて来た日本の古代史、それを主導して来た輩の責は重い。

加えて、古事記の漢字そのもの解釈も極めて真っ当である。現在の漢字学が白川漢字学の類に惑わされているとしたら、真に悲しいものがある。いや、真っ当な漢字学に正道を歩かせないように仕向けられて来た感がある。

追記になるが、「竺紫」の「紫」は「紫」=「此+糸」=「連なる山稜が並ぶ」様を象ったと解釈した。「筑紫」は「比婆之山」そのものが「紫」を表していた。「竺紫」も、やはり「連なる山稜が並ぶ」地形を示していることが解った。並んで北方に延びる、いくつかに区切られた山稜だったのである。









2019年8月9日金曜日

豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 〔363〕

豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 


天孫降臨に先立って交わされる文言の中に登場する「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」は日本の古き美称として読まれて来たようである。一例を挙げれば「葦原の長く長く幾千年も水田に稲穂のなる国」と言ったところであろうか。

既に述べたように日本の国土は、その七割が山岳地帯である。日本を語るにおいては、何とも似つかわしくない表記なのである。更に縄文海進の状態を重ねると、現在の扇状地の水田地帯のイメージは殆ど消失してしまうであろう。日本の古代史学者は全くの地理音痴と片付けられるところである。古事記は所詮神話の物語であって現実との相違は否めない、と逃げるのであろうか・・・。

この文字列には重要な文字が多数含まれている。「葦」(葦原中国など)、「千」(高千穂など)、「秋」(秋津など)、「五百」(五百木など)、主要な地名に用いられている文字である。言い換えるとこれが読み解けないと言うことは、主要な場所が見出せないでいることを意味する。幾多の古事記解釈本は致命的欠陥を有していることを示している。

さてさて、前置きはそれくらいにして早速紐解いてみよう・・・。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

天照大御神之命以「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。」言因賜而天降也。於是、天忍穗耳命、於天浮橋多多志而詔之「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、伊多久佐夜藝弖有那理此。」告而、更還上、請于天照大神。
[天照らす大神のお言葉で、「葦原の水穗の國は我が御子のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命のお治め遊ばすべき國である」と仰せられて、天からお降しになりました。そこでオシホミミの命が天からの階段にお立ちになって御覽になり、「葦原の水穗の國はひどくさわいでいる」と仰せられて、またお還りになって天照らす大神に申されました]

豐葦原

<意富斗・大斗>
結論を先に述べれば、既に紐解いた「意富()斗」にある葦原中国を丁寧に表記したものと思われる。

「意富」の「意」(内にある閉じ込められたようなところ)の部分を示す。「葦」(囲まれた地)と同じ地形を表している。丁寧に表記すると「山稜に囲まれて閉じ込められたようなところ」と解釈される。

「葦原」に「豐」が冠される。豐國の「豐」=「多くの段差がある高台」と紐解いた。「葦」の山稜が「豐」となっていることを示している。

通常の解釈、「豊かに葦が茂る野原」勿論そう読めるように文字を使っているのであるが、正に”罠”に嵌った状態になろう。

解釈として、間違ってはいないのである。ただ、相手が万葉の世界に居ることを失念してはならないだけである。

「千秋長五百秋之水穗國」を従来の解釈に従って読むと、それなりに意味の通った解釈となる。図中の「意」のところが如何に豊かな地であるかを述べているのであろう。

「豐葦原」を地形象形として解釈したが、更にそれに続く文字列も地形を表しているとすると、如何に読み解けるであろうか?…「千秋長」、「五百秋」と区切ってそれぞれを紐解く。
 
千秋長

「千」=「人+一」と分解される。「人」=「山稜」として「一」=「山稜を横切る谷間」と解釈すると上図の「大」(平らな頂の山稜)がところどころに谷間で区切られている様を表すと紐解ける。後に登場する「高千穂」などに含まれる「千」の解釈に類似する。「秋」=「禾+火」=「しなやかに曲がる[炎]の地形」と読み解ける。すると「千秋長」は…、
 
横切る谷間がある山稜から長く延びる
しなやかに曲がる[炎]の形をした地
 
<飯野眞黑比賣命・大中日子王>
…を表していることが解る。例示をすれば倭建命の子孫に登場する「飯野眞黑比賣命」がその地形を表している。戸ノ上山の北西麓辺りの地形である。
 
五百秋

「五百」は何を意味するのか?…天照大御神・速須佐之男命の宇氣比で誕生した正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれる「吾」に関連する。

更に「吾」=「五+口」と分解すると、「五」の解釈に類似すると気付かされる。

「五」=「交差する様」を象った文字と見做される。「百」=「一+白」=「連なる小高いところ」と読み解ける。

「五百秋」は…、
 
交差するように連なった小高いところが
しなやかに曲がる[炎]の形をした地


<八千矛神>
…を表している。「交差するような」は、宇迦能山の麓であろう。

「宇都志國」とも表記される場所である。山麓が寄り集まった地にあるしなやかに曲がる[炎]の地形を示していると思われる。

肥河(現大川)の流域を除く、出雲国の大半の地域を丁寧に表記した文字列と解読される。

最後の「水穂國」とは「水(川)が穂(無数に)のように流れる国」と読める。

「水」=「川」を意味すると解説されている。後の穴穂と同じ解釈であろう。

その地は大年神が治めるところであり、その争奪戦が勃発していたのである。

「葦原の長く長く幾千年も水田に稲穂のなる国」と読めるような文字使いだが、その国の詳細な地形を表していたのである。

古事記記述の随所に見られる表記、それは場所の特定を敢えてはぐらかす表記である。あからさまに記述できなかった”事情”によるものであろうか・・・。

本稿では余談となるが、「八千矛神」大国主命の数ある名前の一つだが、その由来を紐解いた図である。活躍の最後の段で登場する名前は、重要な意味を示していた。また機会を設けて述べてみよう。

2019年8月6日火曜日

古事記の『高千穂』 〔362〕

古事記の『高千穂』

古事記に「高千穂」の文字列が登場するのは、「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」が最初である。そして邇邇芸命が坐した「高千穂宮」と山佐知毘古(日子穗穗手見命)が葬られた場所「高千穂山之西」である。

この文字列も様々に解釈されて来たようである。世界大百科事典では「高く秀でた山,あるいは豊かな稲穂の山の意の普通名詞」と記されている。勿論現在の地名、伝承がある場所とされている。また、天孫降臨の地を博多湾岸に求める方々も「普通名詞」と扱って特に違和感なし、と言った有様であろう。


『高』


<難波之高津宮>

既に紐解いたように「高」は高いの意味を示す記述ではない。古事記冒頭に登場する高天原の解釈も「天空高くにある野原」ではない。

勿論そう受け取るように仕向けた表記である。それに惑わされては古事記は読めない、と言える。詳細はこちらを参照。

また仁徳天皇の難波之高津宮の「高」も「高いところ」を示してはいない。

御所ヶ岳山系の無数にある枝稜線が麓で寄り集まっている様を表したものと解釈される。

実に判り易い表記であろう。民の竈の煙を見渡す高台にあった宮と片付けてしまっては、その宮の場所を求めることは叶わない。

「高」の文字を巧みに活用して、山(丘)稜が描く模様を表しているのである。「高」=「皺の筋(目)のようなところ」と解った。


<高御產巢日神・神產巢日神>
造化三神の一人、「高御産巣日神」のことを「高木神」と別名で表記される。「隠身」であって所在不詳なのだが、別名を示している。

常世國と比定した現在の壱岐市勝本町仲触にある、珍しく標高100mを越える山稜に縦皺が寄った山腹を持つところが見出せる。

高木神の比賣、高天原に坐していた萬幡豐秋津師比賣命が邇邇芸命の母親と伝えられる。

天孫降臨地「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と言われる出来事に「高」で繋がって行くのである。

いずれにしても「高」の文字は古事記で多用されているが、直近に述べた「遠・近」のように、通常使われる「高・低」の意味を表しているのではない。


『千』

では「千」は何と紐解くか?…これも日常で使われる文字であり、かつ極めて簡略な文字形である。「千」=「人+一」と分解される。「千」=「山稜(人)を横切る谷間(一)がある」と紐解ける。もう少し補足すると、「人」の集団を表し、それを区切って「千」という”単位”を表すと解釈される。数直線上の区切りを示すと考えると分かり易い。

すると実に地形象形的に用いたイメージが浮かび上がって来る。「高千穂」を纏めて…、
 
皺の筋のような山稜を横切る谷間がある稲穂の形の地

…と読み解ける。上記の「竺紫」、「久士布流多氣」の文字が表す意味を補う文字列である。「竺紫日向」であって古事記に「筑紫日向」の文字列は存在しない、と述べた。「高千穂」の示すところが解れば、「筑紫日向」は全くあり得ないことなのである。


<高千穂>

古事記は「大」(平らな頂の山稜)、「小」([小]の字形の様)、「遠」(山稜の端のゆったりとした三角州)など、「大・小」、「遠・近」そして「高・低」は比較対象が存在する場合を除き、総て地形象形の表記をしているのである。


<葛城之高千那毘賣・味師内宿禰>
最後に関連するところを・・・、

葛城之高千那毘賣

大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が娶った「尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣」に「高千」が含まれている。上記と同様に紐解けると思われる。

福智山山系にある鷹取山の山稜を示している。やはり上記の孔大寺山稜と同じく皺に切れ目が入ったところである。

その麓に坐していた毘賣を表している。古事記の全くブレない表記にあらためて感動させられる記述であろう。

「宿禰」の文字が初めて登場する場面である。前記参照。






2019年8月2日金曜日

間人穴太部王・三枝部穴太部王 〔361〕

間人穴太部王・三枝部穴太部王


天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生する御子達の中に、なかなか難読な名前が見受けられる。小兄比賣そのものも、従来ではスッキリとした解釈は行われて来なかったようである。詳細はこちらを参照願って、御子の解読に入ることにする。

古事記原文…、

娶岐多志比賣命之姨・小兄比賣、生御子、馬木王、次葛城王、次間人穴太部王、次三枝部穴太部王、亦名須賣伊呂杼、次長谷部若雀命。五柱。

「間人」=「ハシヒト」と訓読するようである。別書では「穴穂部間人皇女」とも記され、石上穴穂宮のあった場所に関連するところのように伺える。やはり「間人」が何を意味するのか?…いずれにしても地形象形している筈である。

<間人穴太部王>
「間」の原字(旧字体)は「閒」とある。「間」=「門+月」と分解され、「門の間から月の光が差し込んで[間]という意味を表したもの」と解説される。

「人」は「谷」の地形を示すが、山稜が長く二股に分かれて麓に届く様を表していると思われる。日子人之大兄王などの例があった。

これらを組合せると、「間人」=「二つの山稜の端が門のように並び[月]のような地形が挟まっている」様を表しているのではなかろうか。

[月]の地形を求めると、石上広高宮のあった谷間(田川市夏吉岩屋)が見出せる。

大きな谷間の挟まった[月]の形を「間」の文字で表記したと推測される。いつものことながら古事記編者の空間認識の正確さに驚かされるところである。

「穴太部」は「穴」=「宀(山麓)+ハ(谷)」、「太」=「広がる」、「部」=「小高いところ」と解釈すると…「山麓の谷に小高く広がったところ」と読み解ける。決して「穴」に関係・・・いや、掛けてあるのかもしれない・・・垂仁天皇紀に登場した伊許婆夜和氣王が祖となった沙本穴太部之別で既に読み解いた

<三枝部穴太部王>
後にこの王は聖徳太子を誕生させることになるが・・・古事記にはこの太子の名前は登場しないのであるが・・・「上宮之厩戸豐聰耳命」それは「間」に含まれる「月」の麓で誕生したと伝えている(図はその段にて掲載)。
 
「三枝部」は京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝辺りと推定される。現在もこの地に大規模な棚田を見ることができる。

天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった三枝部國造また垂仁天皇紀に登場する大中津日子命が祖となった三枝之別の近隣と思われる。

古事記が語らないが、複数に記述される「三枝」の地は師木あるいは英彦山と周防灘を結ぶ主要なバイパス通路であったと推測される。日本の古代史におけるランドマークの一つであろう。

図に示した通りに谷間の山麓が小高く盛り上がって広がった地形が見出せる。現在山稜の中腹まで棚田が延びているところである。王が坐した場所は、別名が教えてくれる。

<須賣伊呂杼>
地形図では少々判り辛いが、現在の航空写真が貴重な情報を提供してくれるようである。

別名「須賣伊呂杼」は…、
 
須(州)|賣(孕む)|伊(僅かな)|呂(段々に積重なる)|杼([杼]の形)

…「州が孕んでいる僅かに段々に積重なって[杼]の形になったところ」と紐解ける。図に示したように州の中に小高く盛り上がった地形が確認できる。

勿論当時の地形そのものが残っているとは考え難いが、偶然にしては真に合致した地形を表していると思われる。いずれにせよ、「穴太部王」から推測される谷の出口辺りにあって申し分のない場所であることが解る。

倭建命の系譜の中で「息長」の系列から飯野眞黑比賣・須賣伊呂大中日子王が誕生する。これに含まれる「須賣伊呂」の解釈と全く同じとなる。天皇の同腹兄弟と訳しては勿体ない、のである。

「小兄比賣」の御子達は各地に散らばった。それは当然のことであったろう。彼女の地に御子を養う地はなかったのである。天皇の「力」で行われた御子の拡散、それが有為の人材を生み、一族として勢力範囲を広げることにも繋がったのであろう。

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既に述べたところではあるが、若干の修正を含めて橘豐日命(用明天皇)が「間人穴太部王」を娶って誕生する御子の段を再掲しておく。

欽明天皇が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生したのが間人穴太部王である。「石上」の長く深い谷間に坐していたと推定した。誕生する御子達もその地の近隣なのか、それとも各地に飛ぶのか、憶測を排して名前を紐解くことにする。「上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王」と記される。古代史上最も著名な人物の一人が登場する。
 
上宮之厩戸豐聰耳命

聖徳太子とされて来たが、最近では厩戸皇子と表記されるそうで、ならば神倭伊波禮毘古とすべきかな?…余談はそれくらいにしてこの人物について紐解いてみよう。何せ超有名な為にこの名前の解釈には様々な説が見受けられる。全く捉われることなく安萬侶コードを適用する。

「上宮」は何処を示すのであろうか?…古事記の中で「上」が使われるのは決して多くは無い。それは「神」を表現する場合に用いるために混乱を避けているようである。そう考えると、この「上」は「石上」を表し「宮」は、穴穂宮もしくは廣高宮を示していると思われる。母親「間人穴太部王」の出自と重なる場所と判る。


<上宮之厩戸豐聰耳命>
厩」=「厂+既(概略)」と分解すると「屋根の下に食物と手に木の枝を持った人」が居る様を象形して「馬小屋」を意味すると解説される。これを地形象形に使うとすると…、
 
厩=厂(崖下)+既(稲と耕す人)

…とできる。「戸」=「家」、「豐」=「段差のある高台」と解釈する。
 
聰=総(集まる)

…に通じるとある。「耳がよく聞こえる」とは神経を集中することに通じることから派生した意味である。全体を纏めて「厩戸豐聰」は…、
 
崖下で稲を耕し家が段差のある高台に集まっているところ
 
<間人穴太部王と御子>
…と紐解ける。そして「耳=(耳の形をした)縁」にあると述べている。

「耳一族」と言うわけではなく、天之忍穂耳命から始まる「耳」が付いた名前に共通する解釈が適用できる(毛受之耳原)。

さて、そんな場所が見つかるのか?…現在の田川市夏吉、ロマンスヶ丘の麓にある。

仁賢天皇の石上広高宮があった場所に「耳」の形をした縁がある。

ここまで解釈してくると、「上宮」は石上穴穂宮よりむしろ石上廣高宮を示しているようにも受け取れる。

当にこの廣高宮の崖下に位置するところである。穴穂宮の上の高いところにある宮として「廣高宮」を表現していたとも読取れる。辻褄があった話ではあるが、事の真相は定かではないようである(図を参照)。
 
久米王・植栗王・茨田王

「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米との関連を思い付かせるようであるが、やはり「久米」は幾度となく登場の川の合流点の地形象形であろう。図に示したところは大きな津を作っている。
 
久米=くの字に曲がる川の合流点

…と解釈される。黒米と繋がって来るのは耕作に都合の良い場所であり、耕地が大きく広がっていたところなのであろう。現地名では田川市夏吉との境にある。

「植栗王」は「栗」の象形とそれを植える「鋤」の象形が組み合わさった地形が見つかる。穴穂宮の近隣(田川市夏吉)である。「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の棚田、おそらく立派なものを示しているのであろう。現地名福智町伊方の長浦が該当するのではなかろうか。上記を纏めて図に示した。

厩戸豐聰耳命が歴史上如何なる事績を残したかを古事記は語らない。が、何かを伝えたいから、そして決して単刀直入には記述できないから、凄まじく凝った名前を付けたものと推察される。素性を曖昧にするのは彼の母親から始まっている。突止めるのもかなりの労力を要さなければならなかった。事情を忖度するのみである。