古事記の『宿禰』
「宿禰」を調べると(Wikipedia)…、
宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。
…と記されている。
称号であって、勿論その由来は知る術が無いようである。古事記は「比(毘)古」、「日子」、「比(毘)賣」、「日賣」もそれぞれ意味を持たせて記述されていることが解った。ならば「宿禰」も然るべき意味を有しているのではなかろうか。
「宿禰」の文字が出現するところから紐解いてみよう…第八代天皇、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)の段で初出となる。
古事記原文…、
大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。
此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。
そして最後に登場するのが「宗賀之稻目宿禰大臣」である。延べ39回出現する。最初は孝元天皇の御子、「比古布都押之信命」が娶った比賣「尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣」と「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」が誕生させた御子からである。初見の記載との相違もある故に重複を恐れずに述べることにする。
意富那毘、葛城之高千那毘賣の「那毘」は何と解く?…「那毘」=「奇麗な臍」針間之伊那毘で山の稜線の裾が一旦凹んで再び小高くなる地形を象った表記と解釈した。
「意富」は「山麓の中心に田が地に境の坂があるところ」と紐解いた。意富(大)斗、意富美の例がある。勿論固有地名ではなく、類似の地形を表す。
尾張の地で「那毘」の地形を求めた結果を図に示した。現地名は北九州市小倉南区横代辺りである。貫山山系の剣立山と三笠山の間にある狭い谷間を「毘(臍)」と見做したと思われる。
「富」(境の坂)を越えると奥津余曾(現地名同区堀越)の地に入る。この「毘」は間違いなく「境」を表しているのである。
尾張の意富那毘の妹が葛城に居た。兄が移ったのか、それとも妹か、後者の可能性が高いように思われるが定かではない。貫山山系から福智山山系を越えて、その西麓への移動は当時としてはかなりの労を要したのではなかろうか。
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奥津余曾
初見は意富那毘の場所と比定したが、修正である。奥津余曾の詳細はこちらを参照。
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「毘(臍)」が特徴である二つの地の間に何らかの繋がりがあったのかもしれない。彼らのもう一世代前の者達が「毘」の開拓に長けていたように推測される。古事記が語る類似地形間の交流の一つかと思われる。さて、それが引き継がれて行ったのか、今は知る由もないのだが・・・。
意富那毘の素性などは明かされないままであり、古事記に登場するのはこれのみで追跡は叶わないようである。
…「山稜を横切る路の入口の凹凸のある地」に坐していたと解釈される。「毘」を通る道、母親の近隣であろう。
ここで初めて「(内)宿禰」の表記が登場する。Wikipediaによると…、
宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。
大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。
主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。
真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。
…当然のことながら古事記には「八色の姓」など存在しない。称号と解釈するも良しなのだが、やはり地形象形の表記であろう。
「宿」=「宀+𠈇」と分解できる。頻出の「宀」=「山麓」である。「𠈇」=「人が筵の敷物で縮こまって寝る様」を象った文字と解説され、地形象形的には「こじんまりと横たわる」とする。「禰」=「示(高台)+爾(近い)」と読み解けるであろう。「宿禰」は…、
…と紐解ける。これが「宿禰」の”正体”である。図に示した「味」の場所に小高いところが並んでいるのが見出せる。そしてより山麓に近い方を「内」と表現したのであろう。これが「内」の”正体”である。
もう一人の「内宿禰」が誕生する。
❷木國造之祖宇豆比古・山下影日賣
次の相手が「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」で、御子に「建内宿禰」が登場する。「木国」の詳細は未詳なのであるが、これを読み解いてみよう。
「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…、
宇(山麓)|豆(高台)
…「山麓にある高台で田畑を並べ定める」と解釈される。居場所は現在の上毛中学校辺りではなかろうか。
現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。
「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。
「山下影日賣」は何と紐解くか?…「影」は姿・形を映したものであろうが、一体何の姿・形なのであろうか?…山裾となる元の「山」の山容かもしれない。
「日」は例のごとく「日(炎)」の地形を示すと思われる。山稜の端が[炎]の地形を持ち、かつ山頂の形がそれに相似していることに着目すると・・・現在名「瓦岳」がその要件を満たすことが見出せる。図に示した通り、山頂と裾野の形が[炎]で繋がっていることが解る。
「山下影日賣」は…、
…「山裾が山頂の形を映したような形のところで[炎]の山稜が[貝]のように隙間ができたところ」と紐解ける。
山裾の地名は、築上郡上毛町東下に当たる。「日賣」を「日(炎)」=「[炎]の地形」、「賣」=「[貝]のように隙間があるところ」と解釈すると[炎]の山稜の分岐した端が作る谷間を表しているのではなかろうか。
「建内宿禰」の「宿禰」の解釈は上記の通りで[炎]の先に突出た小高いところが見出せる。「内」は二つある内の山側にある方を示していると思われる。「建」=「廴+聿」=「[筆]の形が延びた様」を表している。
そして天皇家初期における傑物「建内宿禰」が誕生する。臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。「下」は一字残しの地名かも?…である。
さて、「建内宿禰」の御子が羅列される。地域的にも広範囲に渡り、一気に天皇家の支配領域の拡大が行われたと推測される。詳細はこちらを参照願うとして、宿禰達の居場所を求めた結果を引用する。
総ての場合において、それぞれの地の中心であったところが浮かんで来る。「宿禰」は中心の小高いところに住まっていたことを教えてくれているのである。
「比(毘)古」ではなく、統治者としての居場所が定まって来つつあった、それには谷間の川沿いではなく、小高いところで居を構えるには使用人などが増えても養えるだけの財力が伴って来たことが伺える。「葛城長江曾都毘古」となっているのは、葛城の地が他とは異なる状況であったのであろう。憶測の域に入るが、なかなか興味深いところである。
多くの「宿禰」が登場するが、最後に「宗賀稲目宿禰大臣」について記しておこう。
天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が娶る岐多斯(志)比賣の父親に当たる。
蘇賀石河宿禰が祖となった「蘇我臣」の場所と推定される。
特徴的な山稜から突き出た小高いところ、現在の白川小学校の地に住まっていたと思われる。
近淡海國の奥に広がる地、そこを開拓した蘇賀(宗賀)一族が隆盛を迎えるところである。
この地から多くの天皇が誕生し、古事記の最後は「豐御食炊屋比賣命(推古天皇)」で終わる。「蘇我」で生まれた比賣である(欽明天皇~推古天皇紀はこちら、こちら、こちらを参照)。
建・内宿禰であって、建内・宿禰では、決してあり得ない。日本書紀では武内宿禰(宿禰は尊称)とされる。意味不明なら枕詞と称号で片付ける日本の古代史である。
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。
此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。
此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。
そして最後に登場するのが「宗賀之稻目宿禰大臣」である。延べ39回出現する。最初は孝元天皇の御子、「比古布都押之信命」が娶った比賣「尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣」と「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」が誕生させた御子からである。初見の記載との相違もある故に重複を恐れずに述べることにする。
尾張連等之祖意富那毘・葛城之高千那毘賣
<尾張連之祖:意富那毘> |
尾張の地で「那毘」の地形を求めた結果を図に示した。現地名は北九州市小倉南区横代辺りである。貫山山系の剣立山と三笠山の間にある狭い谷間を「毘(臍)」と見做したと思われる。
「富」(境の坂)を越えると奥津余曾(現地名同区堀越)の地に入る。この「毘」は間違いなく「境」を表しているのである。
尾張の意富那毘の妹が葛城に居た。兄が移ったのか、それとも妹か、後者の可能性が高いように思われるが定かではない。貫山山系から福智山山系を越えて、その西麓への移動は当時としてはかなりの労を要したのではなかろうか。
――――✯――――✯――――✯――――
奥津余曾
初見は意富那毘の場所と比定したが、修正である。奥津余曾の詳細はこちらを参照。
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「毘(臍)」が特徴である二つの地の間に何らかの繋がりがあったのかもしれない。彼らのもう一世代前の者達が「毘」の開拓に長けていたように推測される。古事記が語る類似地形間の交流の一つかと思われる。さて、それが引き継がれて行ったのか、今は知る由もないのだが・・・。
<葛城之高千那毘賣・味師内宿禰> |
妹の葛城之高千那毘賣の「葛城之高千」は、標高630mを越える鷹取山(その奥にある福智山)の山麓にあることから「高千」(高千穂に通じる)を付けたのであろう。
御子の「味師內宿禰」は山代內臣之祖となったと記される。これ以外の記述はなく、下記の建内宿禰とは全く対照的である。
名前の解釈は…「味」=「口+未」とし、更に「未」=「木(山稜)+一」とする。味御路と同様に解釈できるであろう。
「味」=「山稜を横切る路の入口」と紐解いた。「味師」は…、
名前の解釈は…「味」=「口+未」とし、更に「未」=「木(山稜)+一」とする。味御路と同様に解釈できるであろう。
「味」=「山稜を横切る路の入口」と紐解いた。「味師」は…、
味(山稜を横切る路の入口)|師(凹凸のある地)
(内)宿禰
<味師內宿禰> |
宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。
大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。
主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。
真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。
…当然のことながら古事記には「八色の姓」など存在しない。称号と解釈するも良しなのだが、やはり地形象形の表記であろう。
「宿」=「宀+𠈇」と分解できる。頻出の「宀」=「山麓」である。「𠈇」=「人が筵の敷物で縮こまって寝る様」を象った文字と解説され、地形象形的には「こじんまりと横たわる」とする。「禰」=「示(高台)+爾(近い)」と読み解けるであろう。「宿禰」は…、
山麓近くにあるこじんまりとした高台
…と紐解ける。これが「宿禰」の”正体”である。図に示した「味」の場所に小高いところが並んでいるのが見出せる。そしてより山麓に近い方を「内」と表現したのであろう。これが「内」の”正体”である。
もう一人の「内宿禰」が誕生する。
❷木國造之祖宇豆比古・山下影日賣
<宇豆比古・山下影日賣・建内宿禰> |
…「山麓にある高台で田畑を並べ定める」と解釈される。居場所は現在の上毛中学校辺りではなかろうか。
現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。
「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。
「山下影日賣」は何と紐解くか?…「影」は姿・形を映したものであろうが、一体何の姿・形なのであろうか?…山裾となる元の「山」の山容かもしれない。
「日」は例のごとく「日(炎)」の地形を示すと思われる。山稜の端が[炎]の地形を持ち、かつ山頂の形がそれに相似していることに着目すると・・・現在名「瓦岳」がその要件を満たすことが見出せる。図に示した通り、山頂と裾野の形が[炎]で繋がっていることが解る。
<山下影日賣・建内宿禰> |
山下(山裾)|影(山頂の影)|日([炎]の形)賣([貝]の形)
山裾の地名は、築上郡上毛町東下に当たる。「日賣」を「日(炎)」=「[炎]の地形」、「賣」=「[貝]のように隙間があるところ」と解釈すると[炎]の山稜の分岐した端が作る谷間を表しているのではなかろうか。
「建内宿禰」の「宿禰」の解釈は上記の通りで[炎]の先に突出た小高いところが見出せる。「内」は二つある内の山側にある方を示していると思われる。「建」=「廴+聿」=「[筆]の形が延びた様」を表している。
そして天皇家初期における傑物「建内宿禰」が誕生する。臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。「下」は一字残しの地名かも?…である。
さて、「建内宿禰」の御子が羅列される。地域的にも広範囲に渡り、一気に天皇家の支配領域の拡大が行われたと推測される。詳細はこちらを参照願うとして、宿禰達の居場所を求めた結果を引用する。
総ての場合において、それぞれの地の中心であったところが浮かんで来る。「宿禰」は中心の小高いところに住まっていたことを教えてくれているのである。
「比(毘)古」ではなく、統治者としての居場所が定まって来つつあった、それには谷間の川沿いではなく、小高いところで居を構えるには使用人などが増えても養えるだけの財力が伴って来たことが伺える。「葛城長江曾都毘古」となっているのは、葛城の地が他とは異なる状況であったのであろう。憶測の域に入るが、なかなか興味深いところである。
<宗賀之稲目・岐多斯(志)比賣> |
天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が娶る岐多斯(志)比賣の父親に当たる。
蘇賀石河宿禰が祖となった「蘇我臣」の場所と推定される。
特徴的な山稜から突き出た小高いところ、現在の白川小学校の地に住まっていたと思われる。
近淡海國の奥に広がる地、そこを開拓した蘇賀(宗賀)一族が隆盛を迎えるところである。
この地から多くの天皇が誕生し、古事記の最後は「豐御食炊屋比賣命(推古天皇)」で終わる。「蘇我」で生まれた比賣である(欽明天皇~推古天皇紀はこちら、こちら、こちらを参照)。
建・内宿禰であって、建内・宿禰では、決してあり得ない。日本書紀では武内宿禰(宿禰は尊称)とされる。意味不明なら枕詞と称号で片付ける日本の古代史である。