欽明天皇

宣化天皇                             敏達天皇

欽明天皇


御子の誕生はあるものの夭逝してはやはり兄弟での日嗣となってしまう。続いて異母の弟が登場することになる。そんな事情がなければ「若狭」からの天皇が実現することはなかったであろう。

古事記原文…、

弟、天國押波流岐廣庭天皇、坐師木嶋大宮、治天下也。天皇、娶檜坰天皇之御子・石比賣命、生御子、八田王、次沼名倉太玉敷命、次笠縫王。三柱。又娶其弟小石比賣命、生御子、上王。一柱。又娶春日之日爪臣之女・糠子郎女、生御子、春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王。三柱。又娶宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣、生御子、橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王。十三柱。
又娶岐多志比賣命之姨・小兄比賣、生御子、馬木王、次葛城王、次間人穴太部王、次三枝部穴太部王、亦名須賣伊呂杼、次長谷部若雀命。五柱。凡此天皇之御子等、幷廿五王。此之中、沼名倉太玉敷命者、治天下。次橘之豐日命、治天下。次豐御氣炊屋比賣命、治天下。次長谷部之若雀命、治天下也。幷四王治天下也。
 
<師木嶋大宮>
1. 師木嶋大宮

天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が坐したのは師木嶋大宮と記される。

師木の中で離島のようになってるところ、現在の同県田川市糒にある日吉神社近隣(図中央の島の左上)と推定される。

古事記では簡略な宮の名称となっているが、対応すると思われる日本書紀の記述では「磯城嶋宮」あるいは「磯城嶋金刺宮」となっている。

「師木」とは記載されず「磯城」と置換えられている。穴穗命(安康天皇)の宮、石上之穴穂宮のところで述べたように、「石上」=「磯の上」、即ち「石」は「磯」を簡略に表記したものと解釈した。当時、この地は金辺川、五徳川、御祓川が合流した大河、むしろ大きな湖もしくは入江を形成していたと推測した。
 
<磯城嶋金刺宮>
こうしてみると喩え地理上の相違はあったとしても文字表現としては、古事記が伝える地形をそれなりに忠実に移し替えていることが解る。また「師木」と「石上」が隣接するところ(川の対岸)であったことが伺える。

書紀では、宮の名前が些か詳細になっている。同一場所とすると何と読み解けるであろうか?…地形象形表記として紐解いてみよう。

「金刺宮」の「金」は幾度か登場した。例えば大長谷若建命(雄略天皇)紀の説話にあった丸邇之佐都紀臣之女・袁杼比賣に出会って詠われる場面で金鉏岡が記される。「金」=「ハの字形の高台」、「鉏」=「鋤の形の山稜」として読み解いた。

上図を拡大して表示すると、平坦な台地の東側が「ハ」の字形をしていることが解る。上記の「大宮」は強いて解釈すれば「大」=「平らな頂の地」であろう。この台地に「刺(棘)」があると述べている。西側がギザギザしてところ、その内最も大きな「棘」があるところに宮があったと伝えている。既に推定した場所、現在の日吉神社がある辺りと求められる。

「師木嶋」の表記からでもおおよその見当が付くが、「金刺宮」と表現されてより確度の高い場所を推定することができたようである。

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少々余談になるが・・・この「金刺宮」の東方に廣國押建金日命(安閑天皇)が坐した勾之金箸宮があったと推定した。これらを結ぶ川が「金辺川」となるのではなかろうか。現在の金川小・中学校名、間違いなく残存名称であろう。あながち香春町採銅所の傍を流れるから名付けられた、ではないのかもしれない。

また「金辺川」は「清瀬川」とも呼ばれていた経緯があるとのこと。古事記の範疇から逸脱するが、大海人皇子(後の天武天皇)が坐した飛鳥淸原大宮に関連するのかもしれない。いずれにしても田川市・田川郡香春町に残存名称が多く見られるようである。

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2. 后と御子

久々に子だくさんとなる。逐次に后と御子の在処を紐解いてみよう。

2-1. 檜坰天皇之御子・石比賣命

危く迷路に入るところであったが「財」に在住の比賣と気付いた。母親の紹介、せめて「次財郎女、亦名橘之中比賣命」ぐらいの記述があっても宜しかろうと思うのだが・・・。愚痴を言っても仕方なし、先に進もう。
 
<石比賣命>
御子に「
八田王、次沼名倉太玉敷命、次笠縫王」の三人が誕生したと告げる。「財」の詳細を示していると思われる。
 
八田王

頻出の「八=谷」であろう。「八田」=「谷田」と変換できる。文字通りに谷に田が作られた場所であろう。

「橘」という川が複数あるところ、その川の一つに沿って田が開拓されたのであろう。

その地が与えられた王であったと記述されている。当時は大半が水面下にあったと推定される。人々が住まうことができたのは谷間とその出口辺りに限られていたのであろう。

後代から見れば、決して豊かな土地ではない。そんな狭い谷間の恵みに依存する生業であったと推察される。
 
<沼名倉太玉敷命>
沼名倉太玉敷命

長い説明が付いた命である。様々な地形の特徴が寄集ったところを意味するのであろう。

「沼名」は「名」=「月(三角州)+口(限定符号)」として、「山稜の端が沼に延び出た三角州」と解釈する。既出の沼名木に類似する。

「倉」=「谷」、「敷」=「平らに広がった様」、「太玉」=「[太]の地形にある丸く小高いところ」とする。

山稜の形が「太」の古文字の形をそのまま表していると読む。すると「太玉敷」=「[太]の形の山稜の丸く小高いところが平らに広がったところ」と紐解ける。

これらを纏めると…、
 
沼に延び出た三角州がある谷間で丸く小高くなった山稜の端が平らに広がったようなところ

…の命と読み解ける。既に登場した「名」は、天之眞名井眞名子谷に類似する表記と思われる。坐したところの地形に対して、実に的確な命名であろうかと思われる。
 
笠縫王
 
<笠縫王俯瞰図>
「笠縫」の表現は初めてである。何を模したと考えるか…「笠」は笠の形状に似た山(稜)等に用いらている。

「縫」=「離れているものを閉じ合せる」である。上記も含めて図を参照願う。

張り出した二つの稜線を繋ぎ合わせるように湾が形成されている。下の図に拡大したものを示した。

1,300年前に記述された内容が現在に残るとは、驚きと感動が生じる。

間違いなく天皇家の比賣やその御子達が育ち旅立っていったところであろう。

この地は幾度となく登場している。孝霊天皇紀の日子刺肩別命が祖となった角鹿海直(南に隣接する高志之刀波臣)、孝元天皇紀の建内宿禰の子、若子宿禰が祖となった江野財臣がある。

また品陀和氣命(応神天皇)が禊祓で訪れた高志前之角鹿(別名:都奴賀)でもある。「高志(之刀波)の前」を「角鹿」と呼ぶ、と記述されている。陸から海に向かって「前」にあることを示している。通説「高志前」⇒「越前」となるが、「越中・越後」は古事記に記載されているであろうか?・・・。
 
2-2. 其弟小石比賣命
 
妹の小石比賣命も娶り「上王」が誕生したしたと言う。入江の背後に並ぶ山の上を「上」というのであろう。


<小石比賣命・上王>
「菟上」=「斗の上」(戸ノ上)と表現されている。喜多久の地に「上」があるのか?…大積トンネルの上方にある地域を示しているかと思われる。

現地名は北九州市門司区大積である。この地のその後については語られない。

姉と妹が誕生させた御子達で「財」の地は埋まってしまったようである。

前記したように現在のような水田を豊かに有する地ではなく幾筋かの谷間及びその出口の入江が生きる糧を得る場所であったと推測される。

また「栲(タク)」から作られる布製品が特徴であっても多くの人が住まうには絶対的な平地が少なかったであろう。

どうしても天皇家の閉塞感を拭いきれない状況と受け取れる事態に入って行ったと思われる。皇統の断絶騒ぎが収まれば、直ぐに新たな課題を突き付けられている有り様と思われる。

2-3. 春日之日爪臣之女・糠子郎女

 
<春日之日爪>
仁賢天皇が娶った「丸邇日爪臣之女・糠若子郎女」と隣り合わせの場所、正に鬩ぎ合うような位置関係である。

丸邇と春日がそれぞれ我が地としようと伺っていたのかもしれない。古事記編纂時には両者併記でバランスを取ったと憶測される。


糠子郎女の「糠」が示す地形は丸邇之日爪で「崖が引っ付くような地形」と紐解いた。御禊川を挟んで鬩ぎ合う…いや、大切な川を共有していたのであろう。

丸邇日爪之糠若子郎女の文字列、それだけでは気付かなかったが、丸邇は「糠若子郎女」で春日は「糠子郎女」で少々異なる。

「若」が付くか付かないかの異同がある。若い、若くない・・・ではないであろう。

「子」は一体何を意味しているのであろうか?…拡大した図を示す。
 
<糠若子郎女・糠子郎女>
「日爪」を拡大すると丸邇と春日では爪の形が異なることに気付く。

春日之日爪は山陵の端ではあるがくっきりと分かれた地形である。一方丸邇日爪は山稜が繋がったままの地形であることが判る。

「子」=「生まれ出る」と解釈できるから、山陵の端から生まれ出たところが「若」=「成り切れていない」状態を示していると読み解ける。

恐れ入った、と言うしか言葉がない有様である。ものの見事に日爪の地形を表している。逆にこの地形が今日まで変わらずに保たれていることに驚かされるのである。

誕生するのは「春日山田郎女、次麻呂古王、次宗賀之倉王」の三人と記される。「春日山田郎女」は全く被る。また「麻呂古王」は…、
 
麻(擦り潰された)|呂(積重なる)|古(丸く小高いところ)

…「擦り潰されたような積重なって丸く小高くなったところ」の王と解釈される。「古」=「頭蓋骨のような丸く小高いところ」と解釈した。沼名倉太玉敷命(敏達天皇)の御子、忍坂日子人太子・亦名麻呂古王の解釈に類似する。

誕生する御子に与える地は春日には極限られた土地になって来たのであろう。加えて、春日と丸邇、何だか豪族間の諍いを匂わすような記述であるが、真相は闇の中である(図<春日之日爪>参照)。次に誕生する御子の名前の布石かもしれない。
 
さて、唐突に「宗賀之倉王」が出現する。既に登場しているからであろう…「宗賀」=「蘇賀」と読み替える。蘇賀石河宿禰が開いた地、現在の京都郡苅田町にある白川流域の地である。春日で生まれた御子がこの地に移る。「八瓜」「安」など東側の地域については些かの記述はあったが、石河(白川)上流域については寡黙な古事記であった。

その中流域が現在のように開拓され広大な耕地となるには時間を要したのであろう。漸くにして登場である。がしかし、この地の開拓は見事である。後代に依存することが多くあるかと思われるが、その素地は既に古代にあったのではなかろうか。蘇賀(我)一族のなせる業と理解する。

「蘇」⇒「宗」の表記に変更している。これも単なる文字遊びではなかろう。「蘇賀」=「魚の形をした山稜と延びる稲穂のような山稜が並んで谷間を押し拡げているところ」と紐解いた(こちら参照)。一方「宗賀」は、「宗」=「宀+示」=「山麓の高台」がある入江と紐解けるが、些か漠然としているようで、「宗」=「中心となる重要なもの」の意味を色濃く滲ませていると思われる。最終章に向けて、古事記の自然を模写する表記に変化が出て来たのかもしれない。

宗賀之倉王」は宗賀の谷に居たと思われる。多くの谷があるが、現在も残るところ「谷」現地名京都郡苅田町谷を指し示していると思われる。上部に白山多賀神社であり、本谷の地名も残る。下図<岐多斯比賣と御子>を参照。

大河の中流域の激変、開発の進展という自然環境の変化に基づいた記述が古事記の最終章である。そしてこの中流~下流域を支配した豪族、宗賀之稻目(通説:蘇我稲目)宿禰大臣などが天皇家を支えることになる。それをほぼ変わらぬ調子で淡々と述べているのである。

2-4. 宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣

「稲目」はサラッと読み飛ばしそうな名前であるが、何を象形しているのであろうか?…「稲(稲の田)|目([目]の形に並ぶ)」とか、現在の地図を見ているとそんな解釈もすんなりと受け入れられそうであるが、やはり地形象形をしているのであろう。建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰が切り開いた地、中でも彼が祖となった「蘇我臣」の場所を表そうとしているのであろう。幾代かの時を経て発展し、いよいよご登場の時を迎えたようである。

「稻」=「禾+舀」と分解される。更に「舀」=「爪+臼」の文字要素から成る文字と知られている。「臼」に籾殻を摘まんで入れる様を象形している。地形象形的には「禾」=「山稜がしなやかに曲がる様」を表すとして、「稻」は…、
 
三つのしなやかに曲がる山稜が臼のように窪んだ地に覆い被さっているところ

…と紐解ける。図に示した現在の白川小学校の南側の地形を示していることが解る。

すると、文字通りの「目」のような地が見出せる。「宿禰」=「山麓の小高いところ」と解釈され、「目」の場所を示していることが解る。ここが「稻目宿禰」の出自の場所と推定される。文字列を通常の意味で解釈できることは都合良し、なのであるが、返って場所の特定には至らない。万葉の重ねた表記を行う古事記記述を丁寧に紐解くことが肝要であろう。
 
<宗賀之稲目・岐多斯(志)比賣>
「岐多斯比賣」は、正に古事記らしい文字列であろう。一文字一文字が地形象形しているとして読み解くことにする。「岐」=「山+支」と分解され、「岐」=「山稜が二つに岐れる様」と解釈される。

頻出の「多」=「山稜の端の三角(三日月)の地形」と解釈した。「斯」=「其+斤」と分解される。「其」=「箕」、「斤」=「斧」であり、合わせると「斯」=「切り分ける様」と解釈される。古事記でそれなりに多用される文字の一つである。

別の場所では「岐多志比賣」と表記され、「斯」が「志」に置換えらている。読みが同じで漢字を替えることによって、その地形の違った特徴を表している。別名表記の所以である。

「志」=「之(蛇行する川)」と解釈される。「志」で「切り分けられ」ていることを表していると思われる。ともあれ「岐多斯」は…、
 
二つに岐れた山稜の端が切り分けられたところ

…と紐解ける。図に示した場所、おそらく比賣の出自の場所は現在の専光寺辺りだったと思われる。蘇賀石河宿禰が祖となった「蘇我臣」の場所である。「我」=「刃先がギザギザした矛」の地形象形と読み解いたところである。異なる表現で示された蘇我一族中心の地である。

建内宿禰から出自する由緒正しき血統であり、「蘇賀」を「宗賀」へと導いた一族であることが明らかとなったと思われる。「蘇賀」=「様々な山稜が寄り集まって谷間を押し拡げたようなところ」と読み解いた。ここで改めて「宗」が示す地形を読み解いてみよう。「宗」=「宀+示」と分解すると、「宗賀」は…、
 
山稜に囲まれた地の麓にある高台が谷間を押し拡げたようなところ

…と読み解ける。即ち「我」の高台に絞られた表記となっていることが解る。古事記らしい、きめ細かな記述であろう。

御子が十三人「橘之豐日命、次妹石坰王、次足取王、次豐御氣炊屋比賣命、次亦麻呂古王、次大宅王、次伊美賀古王、次山代王、次妹大伴王、次櫻井之玄王、次麻奴王、次橘本之若子王、次泥杼王」と記述される。これらの御子が居た場所を突止めてみよう。
 
橘之豐日命
 
<橘之豐日命・泥杼王>
「橘」が決め手であろう。現在の京都郡苅田町谷辺りの川の様子が当て嵌まると思われる。

正に谷が寄り集まった地形の場所、それを「橘」と古事記は表記する。

また、久々に「豐日」の表現である。が、「豐日別」ではない。

勿論方向的には外れていない場所であるが・・・。

この地は山麓に多くの稜線を持ち、段差があるところであることが判る。

「豐日」は…、
 
豐(多くの段差がある高台)|日(炎の地形)

…と紐解ける。そもそもの豐國の「豐(多くの段差がある高台)」と、頻出の「日(炎)」を用いた表現と解釈される。

「橘」=「多くの支流が寄り集まる谷川」(登岐士玖能迦玖能木實)であり、古事記の漢字による地形象形の粋が注ぎ込まれている。ここまで書けば、間違いなく解るでしょ!…と言っているようである。泥杼王については下記参照。
 
石坰王

「石坰」=「石河の境」即ち石河(現白川)が入江に注ぐところと推定される。仁徳天皇紀の墨江之中津王が坐していた近隣と思われる。当時は大きく入江が内陸側に入り込んでいた地形である。現地名は苅田町稲光と鋤崎との境となっている。
 
足取王
 
<足取王>
単純ではないと思われる。「足」は既に登場した山稜が延びたところであろうが「取」の紐解きに工夫を要した。
 
取=耳+手

…と分解できる。

古代の戦闘で倒した敵の耳を取って戦果としたことから「取」の字ができたと言われる。

何とも物騒な文字なのであるが、現実なのであろう。漢字の字源なるものを紐解くと、この手の解説の多さに驚かされるのだが・・・。

実は「取」の文字は既出である。「鳥取」鳥取県の…ではなく垂仁天皇の御子、印色入日子命が坐した鳥取之河上宮で登場していた。上記の紐解きで瓦解したのである。「取(山稜の端にある耳の地形)」とすることができた。

何にしても迷わず、これを適用すると、苅田町山口、現在の貯水池の西側に手の形をした山稜が見つかるのである。敢えて無印の地図を・・・明らかであろう。
 
豐御氣炊屋比賣命

後に「豐御食炊屋比賣命」とも記され「食⇔氣」が置き換えられている。何だか食欲旺盛、恰幅の良さそうな比賣の名前なのであるが、間違いなく坐していたところを表しているのであろう。「豐」は上記と同様、既出の「食」=「人(山麓)+良(なだらか)」及び「屋」=「尸(山稜)+至(尽きる)」として紐解くと…「豐御食炊屋」比賣命は…、
 
豐(段差のある高台)|御(束ねる)|食(なだらかな山麓)
炊([火]の地形)|屋(山稜が尽きる)

<豐御食(氣)炊屋比賣命>
…「なだらかな山麓と[火]の形の地がある山稜が尽きるところを束ねる段差のある高台」の比賣命と読み解ける。段差のある高台の許に束ねられていることを示している。

「氣」(様子)であれば「山稜が尽きるところにある[火]のような地形を臨む(目の当たりにする)高台にある段差」の比賣命となる。「御」=「臨む、目の当たりにする」を使う。

地形を文字で表現する限界に近付いている感じだが、図を参照。地形を表す多くの要素を盛り込んだ表記であることが解る。

後に推古天皇として、少し南の小治田宮に坐すことになる。古事記に登場する最後の天皇である。

尚、「炊」=「火+欠(大きく口を開ける)」とすると、「火」の地形が山稜の途切れたところにある様を表していると解釈した。

「氣」=「穏やかに畝る様」(米を炊く時に立ち昇る雲の様な水蒸気)を示していると思われる。いずれにしても「炊」の文字に関連させて使用したのではなかろうか。実に凝った命名である。お蔭で、紐解きに手間取る羽目に陥らされることになったわけである。
 
<亦麻呂古王・大宅王・伊美賀古王>
亦麻呂古王


「亦」の文字通りの地形を意味するのであろう。雄略天皇紀に登場した赤猪子などと同様の地形象形と思われる。

山頂からの複数の稜線が作る山腹を表したものであろう。「赤」の文字を使用しないのは、その山頂が周辺の中で最も高いところを示していると思われる。

微妙な地形を文字で表す、古事記らしさが伺える。「麻呂古」は上記の春日の麻呂古王と類似し、丸く小高くなったところを示していると思われる。

関連する文字に「夜」=「亦+夕」がある。「三角州のある谷」と紐解いた。これから導くと「亦」に「麻呂古」があるところと読み解ける。全く矛盾のない表記であろう。現地名は行橋市徳永辺りである。
  
大宅王

これも既出の「宅」=「宀(山麓)+乇(山稜の端が根にように延びるところ)」と紐解いた。孝昭天皇紀の天押帶日子命が祖なった大宅臣と同様に読み解ける。
 
大(平らな頂の山陵)|宅(山稜の端が根のように延びたところ)

…と紐解ける。現地名、苅田町法正寺辺り、上記の「亦」と共有する山頂の平尾台の端、桶ヶ辻がある高い山稜が連なる麓である。今もある姓名「大宅」さんの由来か?・・・。
 
伊美賀古王

「伊美賀古」を安萬侶コードで紐解いてみると…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|美(谷間に広がる)|賀(谷間を押し広げる)|古(高台)

…「谷間で区切られた山稜が広がって谷間を押し広げた地に高台があるところ」の王となる。谷間は豊富にあるが、谷間を押し広げる山稜があるのは、現在の行橋市福丸辺りと推定される(上図<亦麻呂古王・伊美賀古王>参照)。
 
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こんなところで、と言いつつ・・・伊(326)美(343)賀(184)古(166)王(386):古事記中の出現回数である。伊、美は王に並ぶくらいの登場である。

「谷間で区切られた山稜の麓、あるいは、山稜に区切られた谷間」に棲息していたかを示しているような・・・複数の意味をもたせるので一概には言えないが・・・この地形が最も安全で当時には最適な衣食住を提供していたのであろう。
 
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山代王
 
<宗賀の北部>
幾度も登場した「山代」=「山が背にある」と解釈する。水晶山の南麓に当たる場所であろう。

スケールこそ違え、御所ヶ岳山稜を背に持つ「山代国」との類似は明らかである。現在の苅田町山口等覚寺・北谷辺りと思われる。犬上一族が居した場所と重なるのではなかろうか。
 
大伴王

これは難問である。固有名詞にも使われる文字は判断が難しい。と言うか、これが「大伴一族」の由来かもしれない。出自の場所は異なるのであろうが・・・。

「大」の地形象形は「大」=「平らな頂の山陵」とした。古事記に頻出の文字である。「伴」=「イ+半」とすると「半」=「牛のような大きなものを二つにする」ことからできた文字と解説される。
 
大(平らな頂の山陵)|伴(深い谷間)

…「平らな頂の山陵を区切る深い谷間」と紐解ける。現地名、苅田町山口の北谷に向かう谷筋と思われる。上記「足取王」の北側、「山代」向かう深い谷筋に当たるところである。解読できると地形象形の見事さに感心させられる。やはり、彼らは楽しんでいたのであろう。
 
<櫻井之玄王>
櫻井之玄王

桜が咲く井戸の周りを意味するのでは決してない。蘇賀石河宿禰が祖となった記述に登場した櫻井臣の場所であろう。「櫻井」=「二つの谷間が寄り集まった先に四角く区切られたところ」と解釈した。

既に述べたように現在は広大なダムとなっていて、当時の地形を見ることは叶わないが、国土地理院航空写真1961~9を参照すると、それらしき場所を確認することができる。

「玄」=「亠+幺」と分解すると、「細い糸を垂らす、張った様」を表すと解釈される。弓を対象とすると「弦」となる。古くは、「玄は縣なり」と言われたそうである。地形象形としては、「山稜にぶら下ったように繋がっている様」を表していると解釈される。

出自の場所の詳細を求めることは不可だが、図に示した辺りではなかろうか。「玄」=「黒」の意味もある。細くて見えないことから暗いと言う意味に派生し、そこから「黑」に展開した意味を持つ。「玄人」にまで発展するのだから、言葉と文字(漢字)の世界は奥深いようである・・・ところで、やはりここは「八咫烏」の住処であったことを示しているのではなかろうか。
 
麻奴王

この名称も普通過ぎて判断に苦しむところではあるが…「奴」=「女+又(手)」として…、
 
麻(擦り潰された)|奴(嫋やかに曲がる[手]の地形)

…と読み解ける。「又(手)」の形は、上記の「足取王」とは些か異なる形状ではあるが、見る角度によるものであろう。手を拡げた形で凹凸がない状態を示しているようである。現地名、苅田町稲光稲光上辺りにある丸く小高い丘が該当するのではなかろうか。上図<宗賀の北部>を参照。
 
橘本之若子王

上記「橘之豐日命」に関連して、その山の上に「本谷」という地名が残っている。ここが求めるところと思われる。
 
<岐多斯比賣の御子>
泥杼王

「杼」は織機の横糸を通すための道具とある。山麓の三角州を横切る山稜を表していると思われる。

「泥」=「氵+尼」と分解される。既に登場した文字である。「尼」=「背中合わせ、近接した様」を示すと紐解いた。

上図<橘之豐日命・泥杼王>に示したように、二つの「杼」が近接した状態にあるところが見出せる。

現地名は、橘之豐日命と同じく京都郡苅田町谷である。

纏めて図<岐多斯比賣と御子>に御子達の在処を示した。

眺めると宗賀全体に散らばった配置となった。この地域が豊かになったことをあからさまにしている。

それにしても凄いものである。後に騒動を引き起こす?…敵にされる?…古事記は語らないが、争乱の要因の一端を図が示しているのではなかろうか・・・。

2-5. 岐多志比賣命之姨・小兄比賣

岐多志比賣の「姨=叔母」で母親の姉妹とあるが、不詳である。御子に「馬木王、次葛城王、次間人穴太部王、次三枝部穴太部王、亦名須賣伊呂杼、次長谷部若雀命」と記載される。上記のような特定の地域の詳細な地名由来の名前ではなく、かなり各地に散らばった御子が誕生した様子である。後に長谷部若雀命(崇峻天皇)が即位する。
 
<小兄比賣>
「小兄」は景行天皇の御子、吉備之兄日子王で紐解いた「兄」の地形象形とおもわれる。「兄」=「谷の奥が広がる」と解釈される。

図に示したように細長い谷の奥が広がっているように見える場所がある。

大きく広がってはいないから「小兄」と表記した?…「小」(三角形の地)を表したのか?…両意を重ねた表記なのかもしれない。

出自不詳…記録になかったか?…が、居場所は明記、である。
 
馬木王・葛城王

「馬木王」は既出の天照大神と須佐之男命の誓約で誕生した天津日子根命が祖となった…、
 
馬木=馬來田

…を指し示しているかと思われる。御所ヶ岳山系を馬の形として、裾野に延びる山稜を馬の脚に比喩した表現と紐解いた(現地名行橋市大谷)。「木=山稜」として「來」と異なる表現にしたものと思われる。「来」の旧字「來」をよく見ると、尾根から更に「人」(枝稜線)が多数延びている象形とも受け取れる。「天津日子根命」の段、加筆しておこう。続いて二人の穴太部王が登場する。


「葛城王」は葛城に居た王を示しているようであり、葛城の中心地「玉手」辺り(田川郡福智町上野常福)ではなかろうか。次の敏達天皇紀にも「葛城王」が登場する。これは宗賀の地(京都郡苅田町葛川、上図参照)に当て嵌まるが、異同は不詳である。
 
間人穴太部王・三枝部穴太部王

「間人」=「ハシヒト」と訓読するようである。別書では「穴穂部間人皇女」とも記され、石上穴穂宮のあった場所に関連するところのように伺える。やはり「間人」が何を意味するのか?…いずれにしても地形象形している筈である。
 
<間人穴太部王>
「間」の原字(旧字体)は「閒」とある。「間」=「門+月」と分解され、「門の間から月の光が差し込んで[間]という意味を表したもの」と解説される。


「人」は「谷」の地形を示すが、日子人之大兄王などの例があった。図に示した三つの山稜が作る谷間の出口を表していると思われる。

これらを組合せると、「間人」=「二つの山稜の端が門のように並び[月]のような地形が挟まっている谷間」を表していると読み解ける。

その地形を求めると図の第二鍾乳洞と記載された近隣の地形が当て嵌まることが解る。決して大きくはない谷間にある山稜が作る地形を捉えた表記であろう。

[三日月]の形を「間」の文字で表している。いつものことながら古事記編者の空間認識の正確さに驚かされるところである。

「穴太部」は「穴」=「宀(山稜に囲まれた)+ハ(谷)」、「太」=「大きく広がる」、「部」=「近傍」と解釈すると…「山稜に囲まれた谷間が大きく広がった地の近傍にあるところ」と読み解ける。「穴」に関係・・・いや、掛けてあるのかもしれない・・・垂仁天皇紀に登場した伊許婆夜和氣王が祖となった沙本穴太部之別で既に読み解いた。
 
<三枝部穴太部王>
後にこの王は聖徳太子を誕生させることになるが・・・古事記にはこの太子の名前は登場しないのであるが・・・「上宮之厩戸豐聰耳命」それは「間」に含まれる「月」の麓で誕生したと伝えている(図はその段にて掲載)。

 
「三枝部」は京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝辺りと推定される。現在もこの地に大規模な棚田を見ることができる。

天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった三枝部國造また垂仁天皇紀に登場する大中津日子命が祖となった三枝之別の近隣と思われる。

古事記が語らないが、複数に記述される「三枝」の地は師木あるいは英彦山と周防灘を結ぶ主要なバイパス通路であったと推測される。日本の古代史におけるランドマークの一つであろう。

図に示した通りに谷間の山麓が小高く盛り上がって広がった地形が見出せる。現在山稜の中腹まで棚田が延びているところである。

王が坐した場所は、別名が教えてくれる。地形図では少々判り辛いが、現在の航空写真が貴重な情報を提供してくれるようである。

別名「須賣伊呂杼」は…、
 
須(州)|賣(窪んだ)|伊(谷間で区切られた山稜)|呂(段々に積重なる)|杼(交差する)

<須賣伊呂杼>
…「州が窪んだところにあって谷間で区切られた山稜が段々に積み重なり交差しているところ」と紐解ける。
図に示したように山稜の端の特異な形状を表してるいることが解る。

この地では当時の地形そのものが残っているのではなかろうか。実に的確な表記と思われる。いずれにせよ、南側からの「穴太部王」、北側からの「須賣伊呂杼」となる。実に巧みな名称と言える。そして、この人物の出自場所が確かにされているのである。

倭建命の系譜の中で「息長」の系列から飯野眞黑比賣・須賣伊呂大中日子王が誕生する。これに含まれる「須賣伊呂」の解釈と全く同じとなる。「天皇の同腹兄弟」と訳しては勿体ない、のである。

長谷部若雀命

末子の長谷部若雀命が皇位を受け継ぎ、後に天皇となったと伝えている(三船淡海による漢風諡号:崇峻天皇)。「長谷」は、大長谷若建命(雄略天皇)や小長谷若雀命(武烈天皇)にも用いられている。既に述べたように「長谷(ハセ)」と訓されるが、それは後代に慣用とされたものであって、「長谷(ナガタニ)」の地形を示す表記と思われる。
 
<長谷部若雀命>
調べると、この命については「長谷(ハツセベ)」と訓されている。書紀の表現では「泊瀬(部)」である。勿論、雄略天皇、武烈天皇も「長谷」ではなく「泊瀬」である。いずれにせよ書紀の表記に基づく訓読となっているようである。ずっと後のことになるが、『續日本紀』は「長谷」と表記する。

では、「長谷(ハツセベ)」は「長谷(ハセ)」とは異なる場所を示しているのであろうか?…この天皇が坐した宮の場所が貴重な情報を提供してくれているのである。後に詳細を述べるが、倉椅柴垣宮の場所は、現地名の田川市夏吉の山間部にあったと推定した。

図に示したように意祁命(仁賢天皇)が坐した石上廣高宮の東側の谷間を表していると思われる。その近傍(部)を「長谷部」の名称としたのであろう。既出の「若」=「叒+囗」=「細かく枝分かれした多くの山稜が延び出ている様」、「雀」=「少+隹」=「頭の小さな鳥の形をしている様」と解釈した。纏めると…、
 
細かく枝分かれした多くの延び出ている山稜が頭の小さな鳥の形をしているところ

…と紐解ける。その地形を図に示した場所に見出せる。坐した宮は、その東側の山稜にあったことになる。

「小兄比賣」の御子達は各地に散らばった。それは当然のことであったろう。彼女の地に御子を養う地はなかったのである。天皇の「力」で行われた御子の拡散、それが有為の人材を生み、一族として勢力範囲を広げることにも繋がったのであろう。
 
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何と言ってもこの欽明天皇紀における宗賀稲目の出現を特筆すべきであろう。それは宗賀(蘇賀)の開発の成果に基づいた華々しいものであり、皇位断絶の危機から一気に回復した天皇家の変曲点でもある。大河中~下流域を手中に治めた豪族の台頭、それが古事記の最終章であることに相違ない。



宣化天皇                             敏達天皇

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