2018年12月30日日曜日

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命とその御子 〔300〕

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命とその御子


本年も最後の投稿になりそうである。思えば昨年の最後は「聖徳太子:上宮之厩戸豐聰耳命 〔146〕」のタイトルであった。厩戸(ウマヤド)で生まれたからの命名…そんな訳がある筈もないのだが、それが罷り通っているのが現実である。

と言うことで、今年も、生まれた時に「鵜の羽で葺いたが間に合わず」の命と読まれる命について述べてみようかと思う。何でこんな名前に?…初代神武天皇の父親なのに?…全く意味不明となろう。

このブログの読者なら、これは間違いなく何処かの場所を示していると思われるであろう。その通り、ある。誕生する御子も含めて竺紫日向および豐国の地に求めてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨・玉依毘賣命、生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。四柱。故、御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也。
[アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました]

天津日高日子番能邇邇藝命、天津日高日子穗穗手見命、そして天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と三代の「天津日高日子」と冠された名前が続く。日々高くなる稲、その次は稔った稲穂を見張り、そして最後は稲が波のように広がって行く様を表現していると思われる。

「波限」=「那藝佐」と註記される。「日高日子波限」は…、
 
日高(日々高くなる)|日子(稲穂)|波限(波打ち際)

…「日々高くなる稲穂の波が打寄せる際」と紐解ける。「天」から波が打寄せるように一族が遣って来たことの終着を告げる命名であろう。「鵜葺草葺不合」=「鵜の羽を萱の代わりに使って屋根を葺いたが間に合わず」その通りの意味であり、その地が未開で、物語はこれから始まるという宣言とも受け取れる。
 
<建鵜葺草葺不合命>
だがそれだけのことを伝えているのではなかろう。「鵜」の登場という唐突さは、紛うことなく地形を表わしていると思われる。

原文に「鵜羽爲葺草」と記される。「鵜羽」は如何なる地形であろうか?・・・。

「鵜」=「弟+鳥」であり、「弟」=「矛に鞣し革を巻き付けた様」を示すと解説される。

「鵜羽」は…「弟+鳥+羽」と読める。
 
弟(凹凸の形)|鳥羽(鳥の羽)

…「凹凸のある鳥の羽のような平らな地形」と紐解ける。

甲骨文字は「矛になめし皮を巻き付けた時の凹凸」を示している。羽状の台地があってその縁に凹凸があるところ・・・鹽椎神で登場した場所であろう。かつ、縁に凹凸のある平らな台地が並んでいる地形であり、鹽椎神を挟んで寄り集まることはない。葺不合」は…、
 
葺(寄せ集める)|不合(合わず)

…と解釈される。産殿は「其海邊波限」と記されるなら、現在の標高から見積もった上図の羽の中央部付近と推測される(高千穂宮に近い方で西岸とした)。

――――✯――――✯――――✯――――

余談だが・・・鵜は大きく羽を開いて水気を乾燥させる習性がある。羽の先までが開き、凹凸の様相を示すようである。この象形から「弟」を使ったのではなかろうか。日本では「ウ」であるが、漢字そのものの音は「テイ」である。日本にはいないペリカン鳥を表すが、生態が類似することから当てられた文字であろう。

――――✯――――✯――――✯――――

名前が紐解けると一層その複雑な立場の御子であることが判る。過渡期に誕生した御子は「天津日高」の地から遠く離れて行くことを示すように命名されたのではなかろうか。豐葦原水穂国へと移り住んでいく彼らの思いを伝えている。当然のことながら次代の名前に「天津」は付かないのである。

図に古遠賀湾に抜けるルートを示した。小高い(標高20数m)山陵を跨ぐと間もなく到着する。火遠理命が抜けた道、そして豐玉毘賣命が実家へと向かったのも同じ道であったろう。「塞海坂」と記述されるところは決め難いが、この山陵を横切るところか、もしくは味御路か、であろう。
 
玉依毘賣命と御子

叔母の玉依毘賣命を娶って四人の御子が誕生する。「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」と記述される。後に登場する二人の英雄「五瀬命、若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)」についてもその出自の場所を求めてみよう。

御毛沼命」は常世国に、「稻氷命」は母親のところに向かったと伝えられる。常世国は既に登場、壱岐島の勝本町仲触辺りとしたところである。「天」ではなく?…勿論、あの世ではない…何故かは不詳である。母親のところに向かった「稻氷命」の名前を紐解く…実はこの名前が母親・豊玉毘賣命の上記の居場所を突き止める重要なヒントを含んでいた。
 
稻氷命

「氷」=「冫+水」川に沿って二つに割れた(分かれた)地形象形と紐解く。後に「三川之穂」という地名が登場するが、三本の川によって穂が二つ生じる地形である。後の氷羽州比賣も同様の地形の州を象形したものと解釈した。
 
稲(稲穂の形)|氷(二つに割れた)

<稲氷命>
…「稲穂が二つに割れたところ」は「三川之穂」の異なる表現であろう。

この場所は現在の足立山の南麓、北九州市小倉北区湯川新町・蜷田若園辺りと推定した(参照:現在の川)。

現在の地形は内陸の山麓の地形であるが当時は川と海の入り交じる「綿津見」の地と推測される。

また筑紫嶋の南西端、白日別、豊日別の分岐点である。

古事記が最も重要な地点と述べるところの一つである。残存する「蜷田」の地名に干潟が形成されていたことを伺わせる。


御毛沼命

神倭伊波禮毘古命の本名、若毛沼命である。二人続いての命名となっている。安萬侶コードに従えば…「御毛沼」は…、
 
<五瀬命・(若)御毛沼命>
御(束ねる)|毛(鱗状の)|沼
 
…「鱗状の沼を束ねるところ」と紐解ける。

形状変化が想定される沼、池の特定は難しいが、現地名岡垣町手野辺りにそれらしきところが見出せる。

更に鱗片状の沼が二ヶ所にあることが解る。「若」=「小ぶり」、「豐」=「段差がある高台」とすると、一方の「毛沼」は現在の三段池を示していると思われる。

この地が若御毛沼命(神倭伊波禮毘古命)、即ち初代神武天皇の出自のところと推定される。伊邪那岐命が生んだ道之長乳齒神・道俣神が坐した場所でもある。早期に天神達が開いた土地であったと推測される。
 
五瀬命

となると、共に東に向かいながら不運にも命を落とすことになる五瀬命が坐した場所も突止めておこう。簡単な表記ではあるが、「五瀬」は…、
 
五(多くの)|瀬(急流)

…「多くの急流があるところ」と読める。現地名の岡垣町高倉の百合野辺りと思われる。

御毛沼命者、跳波穗渡坐于常世國、稻氷命者、爲妣國而入坐海原也」と記述される。結果的にはこの地には誰も残らなかったことになる。本来なら末っ子の若御毛沼命が引継ぐのであろうが「東に向かう」のである。

出雲の二の舞のようにその地に埋没することなく「天」から離れ東へ東へと進む。それが天神達のミッションなのである。「日向国造の祖」が登場するのは次代の英雄「倭建命」が現れるまで待たされることになる。



2018年12月27日木曜日

火照命・火須勢理命・火遠理命 〔299〕

火照命・火須勢理命・火遠理命


天津日高日子番能邇邇藝能命が笠紗之御前で見染めた阿多都比賣亦名木花之佐久夜毘賣が三人の御子を誕生させる。火照命・火須勢理命・火遠理命で、共に名前の由来であろうか、火中での誕生と記述される。なるほど、解り易い、と頷いてしまっては古事記の伝えるところは読めない。

この誕生物語の背景も含めて纏め直してみよう。舞台は神阿多都比賣(木花之佐久夜毘賣)が坐していた場所ではなく、竺紫日向である。


竺紫日向之橘小門之阿波岐原

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…、

是以、伊邪那伎大神詔「吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理。故、吾者爲御身之禊」而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。
[イザナギの命は黄泉の國からお還りになって「わたしは隨分厭な穢ない國に行ったことだった。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになって禊をなさいました]

伊邪那岐命(ここでは伊邪那伎大神と記される)が黄泉国を脱出して竺紫日向之橘小門之阿波岐原で禊祓を行う。そして多くの神を誕生させる。その場所は、現在広大な水田となっているところであるが、当時は汽水湖として海に繋がっていたと推定された。
 
<竺紫日向之橘小門之阿波岐原>
図に示したように実に特徴的な小高いところが並び、それを橘小門と呼んだのであろう。

その近隣に阿波岐原があったと思われる。まさに汽水湖の水辺に当たる場所である。

竺紫日向之橘小門之阿波岐原が比定されることによりこの地の詳細が見えるようになって来る。

逆に言えばこの地が定まらなければ、竺紫日向の全貌は、いつまで経っても伺い知ることは叶わないであろう。

この地点と後に述べる高千穂宮の場所を起点として、上記の伊邪那岐が生んだ多くの神々の名前が何を示そうとしているのかを解き明かすことへと進んだのである。

誕生した神々の全てを図に纏めた。現在の遠賀郡岡垣町のほぼ全域に渡る地名を表していることが読み解けた。

<禊祓で誕生した神(全)>


安萬侶くんが伝えたかったのは、やはり竺紫日向の地の詳細であったと判る。

実に興味深いことに現在の行政区分と重なるのである。遠賀郡岡垣町の東は遠賀郡遠賀郡であり、南は宗像市となっている。

北の湯川山から始まる孔大寺山系は、南へぐるりと回って東へ向かい、そこから北上する。

竺紫日向の地はこの山塊と響灘・古遠賀湾に囲まれた地域であることを示している。

海面水位に相違はあっても古事記の時代と今も変わらぬ地形なのである。

古事記は、それをあからさまに表現することなく、固有の表記で記述した。

地形に従った耕作のやり方、それぞれに堪能な神を周到するとは筋の通ったことである。ものの捉え方に「上中下」を持って来ることに通じるであろう。

文字解釈の中で「時」=「蛇行する川」、「奥(於伎)」=「離れたところ」などはその後の解釈にとっても極めて重要な位置付けにある。

<竺紫日向>
あらためて「竺紫日向」の由来を図に示す。「竺」の文字があてられているのは、その山稜の形を示しているからである。

古事記の中で「竺紫日向」と記載される。決して「筑紫日向」とは書かれていない。

「筑紫日向」はなかった!…のである。「壹」と「臺」の論争をするなら、同様になされるべきでは?・・・。

これ以上は、別途のところで述べるとして、もう一つ挙げておかなければならない重要なランドマークは「高千穂宮」であろう。

何となくそれらしきところに比定できるのであるが…現在の高倉神社…これも実に手の込んだ方法でその場所のヒントが隠されていたのである。

邇邇藝能命が笠紗之御前で見染めた木花之佐久夜毘賣には石長比賣という姉がいて、この姉を邇邇藝命は娶らなかったと言う件である。比賣達の父親、大山津見神を登場させて、理屈を語らせるのであるが、サラリと読み飛ばすと、肝心なことを見逃してしまうことになる。

爾大山津見神、因返石長比賣而、大恥、白送言「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。
[しかるにオホヤマツミの神は石長姫をお返し遊ばされたのによつて、非常に恥じて申し送られたことは、「わたくしが二人を竝べて奉つたわけは、石長姫をお使いになると、天の神の御子みこの御壽命は雪が降り風が吹いても永久に石のように堅實においでになるであろう。また木の花の咲くや姫をお使いになれば、木の花の榮えるように榮えるであろうと誓言をたてて奉りました。しかるに今石長姫を返して木の花の咲くや姫を一人お留めなすつたから、天の神の御子の御壽命は、木の花のようにもろくおいでなさることでしよう」と申しました。こういう次第で、今日に至るまで天皇の御壽命が長くないのです]

天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」が教えるところを何と読み解くか?…上記の武田氏訳は、文字解釈ではなく、全体の意を汲んで訳されたものであろう。
 
<高千穂宮>

木花之阿摩比能」は…、

山稜の端にある近接して並ぶ台地の隅

…と解釈した。高倉神社の場所に相当する。初代神武天皇に繋がる天皇家の最初の宮である。

加えて「木」「花」「阿」「摩」「比」「能」が表す意味を安萬侶コードとして紐解いて来た方法の確からしさも得られたようである。

こんな背景の中で木花之佐久夜毘賣が三人の御子を誕生させる…、

故、其火盛燒時、所生之子名、火照命此者隼人阿多君之祖、次生子名、火須勢理命須勢理三字以音、次生子御名、火遠理命、亦名、天津日高日子穗穗手見命。三柱

…と記される。冒頭に述べたように、そのまま読んでしまえば、あ~そうか!…であろう。
 
<火照命・火須勢理命・火遠理命>
「火」の中で産んだ…「火」の地であろう。山稜の端が燃え上がる火ののような場所である。「橘小門」の近隣がそれを示しているように思われる。

火照命は、天照大御神に含まれる「照」の「灬(火)」が「昭」=「日(火)が曲がる」と紐解ける。
 
[灬]が曲がる

…と解釈される。

火須勢理命は「須勢」、須勢理毘売命で登場の「須勢」…、
 
州が丸く高くなったところ

…に区分けされた田があるところと解る。

火遠理命は「遠」=「辶+袁」、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」とすると「遠」…遠津待根神の「遠」と同じ解釈として…、
 
山稜の端でゆったりと延びた三角州

…に区分けされた田があるところと紐解ける。「火」の内陸側の山稜の端に座していたと紐解ける。火照命に「理」が付かない。伊邪那岐が生んだ衝立船戸神の場所では田にするところがない地形である。驚きの結果ではなかろうか。

後に火照命は「海佐知毘古」、火遠理命は「山佐知毘古」と名付けられる。火照命が坐していた場所は「橘小門」に重なるところでもある。当時の海面、汽水湖となっていた海辺と推定される。

いや、「海佐知」、「山佐知」の命名は彼等の居場所を告げた表記でもあったと気付かされる。彼らの説話を経て「山佐知(火遠理命)」が後継ぎになったと記載されている。








2018年12月25日火曜日

少名毘古那神・坐御諸山神 〔298〕

少名毘古那神・坐御諸山神


大国主命がいよいよ国造りを始めた時に二人の助っ人が登場する。一人は神産巣日神の子、少名毘古那神であり、もう一人は少々得たいが知れない御諸山に坐す神と記される。それぞれに意味があっての登場なのであろうが、一体それは何であろうか?・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…、


故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」
故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
[そこで大國主の命が出雲の御大(みほ)の御埼においでになった時に、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾の皮をそっくり剥いで著物にして寄って來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者の神たちにお尋ねになったけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。依ってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となってこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。
それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子のことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です]

少名毘古那神*の登場。一寸法師かと思えるほどの記述である。しかも誰も名前を知らない、という特異な設定である。すぐに帰ってしまうところもあって何だか狐につままれたような気分になるところである。が、重要なことを幾つか告げている。その一つが出雲国への接岸場所である。

出雲之御大之御前

出雲之御大之御前の「御大之御前」は何と解釈するのか?…頻出する「御」=「御する(統べる、操る)、臨む(面する)」、「大」=「たいらな頂の山」とすると…「御大之御前」は…、
 
御(臨む)|大(平らな頂の山)|之|御(面する)|前
 
<出雲之御大之御前>
…「平らな頂の山(戸ノ上山)を臨むところの前に面する地」と紐解ける。

図に示したように推定した当時の海岸線は御所神社近隣で大きな入江を作っていたと思われる。

また、入江を囲むように突き出た岬があり、それを「御前」と表記したのであろう(出雲全体は下図参照)。

後の安徳天皇が坐した場所は、この地近隣の御所神宮と言われる。大国の中心の地である。「御大」はそれを掛けた表記と推測される。

通説は、全く意に介せず出雲の中心地から遠く離れた「美保」の地に比定する。これでは伝わらない、大切なことが・・・。

また、「御大(みお)」=「澪(みお)」=「水脈(船の水路)」と重ねられているようでもある。入江の中で川の流れが作った水路であり、それを伝って接岸するのである。「澪標」=「澪つ串」であり、水路表示と言われるものである。ブログの方でも幾度か取り上げた万葉歌で詠われた「身を尽くし」である。
 
天之羅摩船

<出雲俯瞰図>
蔓芋で作った船?…更には蛾の皮の服?…いくら神話と雖も少々短絡的な解釈であろう。

これが実しやかに語られているのが現状である。「羅摩」とは?…、


羅(連なる)|摩(接する)

…「連なり接した」船と読める。丸木舟ではなく板を張り合わせた、所謂構造船と言われる船のことを意味していると解る。

――――✯――――✯――――✯――――
和船
和船(わせん)とは、日本において発達し、幕末以後の洋式船舶の導入の前まで、移動や漁業に用いられた構造船及び準構造船の総称である。

和船はその構造において海外の船と大きく異なる形で発展した。応力を、海外の船では、竜骨や肋材といった梁部材で受けるという構造であり、これは大型化を容易にした。一方和船は、有史以前の丸木舟からの発達である所までは同様であったが、その後に、そのような部材は持たず厚板を必要な強度で継ぎ合わせた構造で発展を遂げた。

船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、諸手船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は基本的には全てそのような基本構造のもとにあった。和船はこのような基本構造のもとに日本各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称である。Wikipedia
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「內剥鵝皮剥爲衣服」は「鵝」=「鵞鳥」であろう。何のことはない、ダウンジャケットを身に纏っていたと告げているのである。

常世国の少名毘古那神が如何に先進のものを伝えたかを語っている。一寸法師がやって来た!…ではなく、大国主命が必要とするものを携えて、出雲の御大之御前に出向いて来た。少名毘古那神の所在は下記に述べる。

更には多邇具久(ヒキガエル)、久延毘古(案山子の神名)、山田之曾富騰(案山子の古名)、神產巢日御祖命まで登場するという豪華さ、案山子は古老の比喩なんでしょうか・・・。害虫駆除、稲穂を鳥から守る技術に長けた連中であろう。

少名毘古那神は最新の稲作技術を伝えに来たのである。神産巣日命は食料の神と紐解いた。専門は穀物でその種子を集めるのが得意、かどうかは不詳であるが、やはり大国主命支配下の出雲の食糧難を伺わせるものと思われる。

説話の内容から類推すると耕地の開拓はさることながら、収穫時の歩留まり向上であろう。何らかの手を打たねばならない時期に差し掛かっていたと推測される。大国主命の最大の悩み、と言える。案山子の効能を伝えたらサッサと「常世国」に引き上げたとのこと。「常世國」これが初出である。
 
常世國

常世」は既出で、既に紐解いた。神の国、あの世…様々だが現実には存在しないところとして認識されて来た国ではなく、「天」にある地域を示す。
 
常(大地)|世(挟まれて縊れたところ)

…現地名壱岐市勝本町仲触にある地とした。島と島が繋がったようなところと見られる。その地に複数の古代の遺跡が現存している。古事記が描く時代よりずっと以前からの地と理解できる。思金神など優秀な人材が集まっているところと位置付けられているようである。


後の垂仁天皇紀の求人高倍率の時期に常世国の「橘」を求める説話が出て来る。上記の背景を知るとその説話の解釈もすんなりと理解できるものとなるのではなかろうか・・・。
 
少名毘古那神*

少名毘古那神
「少名毘古那神」とは?…「名」=「三角州」として解釈すると…、
 
少(数少ない)|名(三角州)|毘古(田を並べ定める)|那(ゆったり)|神

…「数少ない三角州の傍らで田を並べ定めてゆったりとしているところ」の神と紐解ける。

図に示した場所は、常世国では数少ない広く長い谷間の地形である。後の常世国の「橘の君」の候補の一つであろう。先進の稲作技術の指導者であったと伝えているのである。稲穂を守るだけではなく、物知りの案山子を残して、サッサとご帰還、納得である。
 
御諸山神

と言ってる間に「御諸山神」が海上を照らしながらやって来て、自分を祀れ、宣ったとか。

於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山神也。
[そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸の山においでになる神樣です]

御諸山に坐す神とは?…ここではその名前を明らかにしないが、この後も引き続き登場する「大物主大神」であろう。そして常に祭祀しろと告げるのである。古事記は、一体何を語ろうしているのであろうか?…後に詳細を述べるとして、「大物主大神」の役割は極めて重要なことを表わそうとしていることには間違いない。

通説はこの大神の実体はなく大国主命の「言霊」のような解釈を行って来た。この大神から皇統に関わる比賣が誕生するのであるが、日本書紀に至っては、その比賣の父親に事代主神を当てる。神話の時代、皇統の乱れなど意に介せず、の感である。これら含めて後の記述に譲る。


<御諸山>
さて、「御諸山」の場所を特定するにはこの段階では不可である。後の崇神天皇紀に大変な国難にぶつかる。

疫病が蔓延してしまい、その時に現れるのがこの「御諸山」の神で同じく祭祀しろと言いつける

ここでは結論だけを記す。伊邪那岐【神生み・黄泉国】で登場した黄泉比良坂の先の尾根にある三つの頂上を持つ山(現在名谷山)である。

後に登場する美和山(現在名足立山)と併せて紐解いた結果である。

上記に「倭之青垣東山上」と記される。これに従って「倭」に御諸山があったとされて来たようであるが、「倭」は倭国ではない。「青垣」=「取り囲む山稜」黄泉国を取巻く山稜である。
 
しなやかに曲がる山稜の東にある山の上

…と解釈する。美和山の「和」も同じ山稜を模した表記と思われる。この御諸山の場所、それが極めて重要な意味を含んでいることが後に明らかになる。


2018年12月21日金曜日

若盡女神・天日腹大科度美神・天狹霧神・遠津待根神・遠津山岬多良斯神 〔297〕

若盡女神・天日腹大科度美神
天狹霧神・遠津待根神・遠津山岬多良斯神


比比羅木(新羅)を彷徨った大国主命の後裔は、また「天」へと舞い戻ることになる。単なる人の交流ではなく婚姻が絡んだ関わりをあからさまに記述しているのである。娶り娶られる繋がり、それを古事記が伝えていた。

「天」に戻って…「此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神」と記述は続く。
 
若盡女神

<天日腹大科度美神>
大国主命の後裔が比比羅木(新羅)を巡ったと記される。その一人が新羅王敷山主神の比賣の青沼馬沼押比賣を娶って布忍富鳥鳴海神が誕生する。

この神が娶ったのが若盡女神であったと記述される。御子に「天」が付くことから、大国主命の系譜が比比羅木から「天」に舞い戻ったことを示しているのである。

比賣の名前に含まれる「盡(尽)」の解釈は、何が尽きるのか…特定するには困難であろう。続く御子達の紐解きを優先して考えてみることにする。

御子の名前は「天日腹大科度美神」とある。この名前も決して簡単ではない。

「天」の何処に舞い戻ったのであろうか・・・「日」=「火」を頼りに探すと、壱岐島の北西部辺りにそれらしきところが見出せる。


天日腹大科度美神

「日」=「火」、「腹」=「山腹」、「科」=「段差」、「度」=「渡:広がり届く、及ぶ」、「美」=「谷間に広がる地」とすると…、


天(阿麻の)|日(火)|腹(山腹)|大(大きい)
科(段差)|度(渡:及ぶ)|美(谷間に広がる地)

…「阿麻にある[火]形の山の山腹に大きな段差が麓にまで及び谷間が広がっている地」の神と紐解ける。「火」とすると現地名「火箭の辻」に関連するところと思われる。

<壱岐勝本町本宮山>
現地名の由来は、元寇の時に火矢が放たれたところと言われるようである。

それはともかくとして図に示したようにこの地が「火」の形をしていることが解る。

勿論この山が火を噴く山であったことを古事記編者は承知していたと思われる。

今は、山腹(北側斜面)に多くの棚田が作られていることが伺える。

当時との相違はあるもののその元になった「段差」があったのであろう。

またそれが作られるために必要な水源などが揃っていたのではなかろうか。余談だが、現在中国語「火箭=ロケット」のようである。
 
ならば「若盡女神」が坐した場所は、図に示した本宮八幡神社近隣と推定できる。

本宮南触から続く丘陵の先端にある本宮山の西麓は海に落ちる断崖である。地が尽きかけるところという表現と思われる。
 
天狹霧神之女・遠津待根神

日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」は勝本浦もしくはタンス浦であろう。
 
<天狭霧・神遠津待根神・遠津山岬多良斯神>
このどちらかは御子の居場所も含めて紐解くことにする。

天狹霧神」(「天」の狭い切通があるところの神)の居場所は現在のR382が通り勝本港に降りる「切通」の近隣と推定できる。

伊邪那岐・伊邪那美が生んだ三十五神の一人、実体のある「天」に住まう神であった。現地名は勝本町西戸触である。

遠津の「遠」を「辶+袁」と分解すると、「袁」=「ゆったりとした衣(山麓の三角州)」と紐解ける。

「衣」は幾度となく登場する文字で、襟元の三角形を模したものと思われる。「辶」=「進む、延びる」とすると…、
 
遠(ゆったりと延びる山麓の三角州がある津)|津(川が集まる)

…と解釈できる。上図のタンス浦に注ぐところで三角州が交差・合流するところを示していると思われる。「待根」=「根本をもてなす(神に仕える)」のように読み取れるが、古事記はそんな悠長なことを告げてはいないであろう。

「待」の文字解釈を如何にするか?・・・。「待」=「彳(交わる)+寺」と分解すると「寺」が現れて来る。「寺(時)」=「蛇行する川」と紐解いた。

伊邪那岐の禊祓で誕生した時量師神で解釈した。「時」=「之」=「蛇行する川」と同様と思われる。

「遠津待根神」は…「遠津」を簡略に表して…、
 
遠津(ゆったりと延びる三角州がある津)|待(交わり蛇行する川)|根(根元)

…「ゆったりと延びた三角州がある津で交わりながら蛇行する川の根元」と紐解ける。勝本浦には見出せないが、タンス浦に注ぐ幾本かの合流しながら蛇行する川が見られる。その根元(源流)を示していると思われる。父親天狭霧神に隣接する地である。

上記したように「遠津」は神岳を中心とした距離並びに表の津(芦辺)に対して奥にあるという意味も重ねているように思われる。勝本浦は後代には朝鮮通信使の接待所などがあったとか、よく知られているように対馬と渡海の要所であったところである。大国主命の後裔とは直接関連するところではなかったのかもしれない。

誕生した御子の遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」は…、
 
山岬(山がある岬)|多(田)|良(なだらかに)|斯(之:蛇行した川)
 
<大国主命の娶りと御子④:天>
…「山がある岬の傍らに田があってなだらかに蛇行した川が流れる」神となる。

母親の近隣、現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。上記「天」の神を纏めて右図に示した。

これで間違いなく「遠津」はタンス浦であることが解る。

「多良斯神」で長い末裔の記述は終わる。大国主命の段は出雲(葦原中國)、「天」と比比羅木の深い繋がり、交流の経緯を述べたものである。

彼らは何代にも亘り娶りを交差させて来たようである。記述されたことはほんの一例に過ぎないであろう。

そう考えると、これら三つの拠点を中心とする海洋文化圏が間違いなく存在していたことが伺える。

古事記はその「事実」を書き記した書物だと結論付けられる。

2018年12月18日火曜日

日名照額田毘道男伊許知邇神(國忍富神)・葦那陀迦神(速甕之多氣佐波夜遲奴美神) 〔296〕

日名照額田毘道男伊許知邇(國忍富)・
葦那陀迦(速甕之多氣佐波夜遲奴美神)


さて、鳥鳴海神以降は直系の系譜が延々と記述される。ローカルな出雲の出来事としてか、まともに解釈され来なかったところである。勿論登場する御子の名前が難読なため、と言うか、とても現存する地名には当て嵌まらないために放置されて来たと思われる。

現存する地名を探してそこに解を求める本居宣長以来の手法から一歩も抜け出せていないのが現状であろう。そこから生じる矛盾を誤写に求める解決法で事なきを得た来た。怠慢である。

古事記原文…、

鳥鳴海神。訓鳴云那留。此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神田下毘、又自伊下至邇、皆以音生子、國忍富神。此神、娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名・八河江比賣、生子、速甕之多氣佐波夜遲奴美神。自多下八字以音。

初見で紐解いて来たが、あらためて一から見直してみよう。一文字一文字の安萬侶コードが蓄積された結果を示す時が来た・・・と勢い込んで・・・。

娶った比賣は男か?…なんてことはないのであろうが・・・「男」=「田を作る、耕す」であることが明確に示された例である。
 
日名照額田毘道男伊許知邇神

「名」、「照」、「額」及び「知」などが解けると、決して難解な文字列ではない。取り敢えず長いのでブロック毎に分けて紐解くことにする。「日名」は…、
 
<日名照額田毘道男伊許知邇神・國忍富神>
日([炎]形)|名(三角州)

…「[炎]の形の傍らにある三角州」と紐解ける。「日=肥」とすれば「肥河の三角州」と解釈することもできる。肥河に掛けている表現と思われる。

「照額田」は…、
 
照([炎]の稜線)|額田(突き出た山稜の下の田)

…「[炎]のような稜線がある突き出た山稜の下にある田」と解釈できる。天照大御神の「照」と同様に稜線が山(額)を取巻くように並んでいる様を表している。


<日名照額田毘道男伊許知邇神>
「額」は、例えば、後に出現する葛城之高額比賣に含まれる。福智山西稜にある鷹取山を「高額」と見做したのと同じ地形と思われる。

「毘道男」は…「道」=「首(凹んだところ)」と解釈して…、
 
毘(田を並べる)|道(凹んだところ)|男(田を耕す)

…「凹んだところに田を並べて耕す」と紐解ける。

「道」は伊邪那岐の禊祓で誕生した道之長乳齒神、道俣神の「道」と同様に解釈する。谷間の出口が大きく広がった地形である。

最後の「伊許知邇」は…、
 
伊(僅かに)|許(麓)|知(鏃の地)|邇(近い)

…「僅かに鏃のような麓の地に近いところ」と紐解けるであろう。「知」=「矢+口」と分解し、「矢の口」=「鏃(ヤジリ)」と解釈する。

矢筈山の麓を鏃と見做し、その麓に近いところに座していた神と読み解ける。矢筈と鏃が揃った、実に言い得ている地形なのである。確かに位置的に微妙な場所ではあるが、それにしても・・・であろう。纏めてみると…この長たらしい神の意味は…、
 
[炎]の形の傍らにある三角州のところで
[炎]のように多くの稜線がある突き出た山稜の下にある
凹んだところに田を並べて耕す
鏃のような麓に近接するところ

…の神となる。肥河の傍で居場所を求めると、現地名門司区奥田、矢筈山の東南麓が浮かび上がって来る。この地は「大斗」の中では、南に面した珍しく日当たりの良いところである。「照」にはその意味も込められているかと思われる。

近接地に「櫛名田比賣」の居場所がある。曲りくねった肥河に発生する山麓の三角州「名」を使った地名シリーズということかもしれない。もう少し簡略に…とすると特定できないか?…山の名前が付いてない時代、山名を少し多くすると良かったかな?…同じかな?…安萬侶くん。
 
2-1-2. 國忍富神

御子の名前だが簡単なようでこういうのが最も難しい。「国」=「大地、地面」であるが、「忍富」の解釈に窮する。「富を忍ばせる」となるのだろうが、これでは曖昧な表現そのものとなる。

「富」は既出で意富(大)斗に含まれていた。紐解いた結果は「富」=「宀(山麓)+酒(境の坂)」であった。これを適用すると…「國忍富神」は…、
 
国(区切られた大地)|忍(目立たない)|富(山麓にある境の坂)|神

…「区切られた大地が山麓にある目立たない境の坂になっているところ」の神と解釈される。すると現地名は門司区奥田(三)辺りではなかろうか(上図参照)


<葦那陀迦神(八河江比賣)>
近辺で最も勾配の少ない坂と思われるが、当時との相違は不詳である。出雲の国境に繋がる坂でもある(七ツ石峠)。

この神が「葦那陀迦神(八河江比賣)」を娶り、「速甕之多氣佐波夜遲奴美神」が誕生する。

葦那陀迦神(八河江比賣)

「八河江」は…、
 
八河江=八河(谷河)|江(入江)

…「谷から流れ出た川が海に注ぐ入江」の比賣と読める。当時の海岸線(図中白破線)から数百mのところと推定される。現地名は門司区上二十町・寺内辺りと思われる。

「葦那陀迦神」は…「葦」=「艹(丘陵)+韋(囲む)」と分解して…、
 
葦(丘陵で囲まれた)|那(なだらか)|陀(崖)|迦(出会う)|神

…「なだらかな崖が出会って丘陵で囲まれたところ」の神と読み解ける。異なる名前で同じ場所を示していると思われる。


2-1-3. 速甕之多氣佐波夜遲奴美神

一気に紐解いてみよう…、
 
速甕之(束ねた瓶の)|多氣(山の頂)|佐(支える)|波(端)|夜(谷)
遲(治水された)|奴(野)|美(谷間が広がる)
 
<大国主命の娶りと御子①>
…の神となろう。「束ねた瓶のような山頂が谷の端にある治水された谷間に広がる野を支える」神と解釈される。

「美」=「羊+大」羊の甲骨文字を使い、羊の上部の三角を山、下部を谷間に見た象形である。

矢筈山の山頂が複数あり、水瓶を束ねたようになって、谷の出口にある田の治水の水源となる、と述べているのである。

現地名大里東(四)辺りの地形を示しているようである。それにしても長い・・・。出雲国で誕生の神々を纏めて図に示す。

肥河(大川)沿いを隙間なく埋め尽くしている状況が伺える。また事代主神はやや離れた南側に位置するのであるが、その後の系譜は語られない。この出雲北部の狭い土地に何代もの系譜が示され、そしてその続きは「至天」となる。大国主命の後裔は「天」に舞い戻るのである。

それが偶然に起きたことではなく、大国主命の系列は出雲で孤立無援の状況にあったことが判る。後に語られる大年神系の子孫によって周囲を固められていたのである。




2018年12月16日日曜日

神屋楯比賣命(事代主神)・鳥耳神(鳥鳴海神) 〔295〕

神屋楯比賣命(事代主神)・鳥耳神(鳥鳴海神)


大国主命が次に娶ったのが神屋楯比賣命で誕生するのが「事代主神」である。建御名方神と共に次代を担う役割だったが、果たせずに終わったようである。因みにこの段の物語は、他の史書とは大きく異なる。古事記の記述に従って素直に読み解いてみよう。

古事記原文…、

大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。亦娶八嶋牟遲能神自牟下三字以音之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神。

神屋楯比賣命

「神」は神様ではなかろう。既出の「屋」=「山陵が尽きるところ」とする。「楯」=「木+盾」であり、「盾」=「斤+目」は「目を覆う」象形とされる。地形象形的には「目」=「区画された田畑」とすると、「なだらかな斜面の地にある区画された田畑」を示していると思われる。

「神屋楯」は…、
 
神(稻妻の形)|屋(山陵が尽きる)|楯(なだらかな地にある田畑)
 
<神屋楯比賣命・事代主神>
…「稻妻の形をした山陵が尽きるなだらかな地に田畑があるところ」の比賣命と紐解ける。

戸ノ上山からの折れ曲がるように延びた山稜の端であり、淡海が間近なところに位置する。

「神・楯」など神宿る山を祭祀する場所の麓のイメージを醸しているようでもある。またそう読めるような文字を使っているのであろう。

すると須佐之男命が娶った大山津見神之女、神大市比賣が坐していた場所の近隣ではなかろうか。山稜が寄集ったところの先にある場所となる。

現地名は北九州市門司区大里戸の上、現在の萩ヶ丘小学校・公園辺りと思われる(図参照)。
 
事代主神

御子に「事代主神」が誕生する。後に説話に登場するが、古事記の扱いは簡略である。
 
事(祭事)|代(田地)|主神

…「神の祭事に関わる田地を司る神」という意味であろうか。母親の名前も併せると「神田」を守る人のようでもある。後に「八重事代主神」と記される。「八重」=「谷が重なるところ」と解釈すると、後に谷間の地を「事代」にしたのであろう。この時点では母親の許で坐していたのではなかろうか(上図参照)。

また八重言代主神」とも記述される。「言」=「大地を耕地にする」は既出の月讀命で紐解いた。後の「一言主神」も同じ解釈である。「重なる谷を切り開いて耕地にした田を司る神」と読み解ける。谷の奥深くにまで田を拡げて行った、と伝えているのである。図に示したように山腹まで開かれた特徴のある場所である。詳細はこちらを参照。

八嶋牟遲能神之女・鳥耳神

 
<八嶋牟遲能神>
前記の八嶋士奴美神の「八嶋」=「谷にある[鳥]の模様がある山」であろう。牟遲能神の「牟」は「牛」の甲骨文字の象形、「能」=「熊=隅」としてみると…、
 
牟([牛]の字の形)|遲(治水した田)|能(隅)|神

…「[牛]の字の形をした治水された田が[鳥]の模様がある山麓の隅」の神と紐解ける。現地名は門司区永黒である。

速須佐之男命の御子「八嶋士奴美神」が坐した場所は南側に位置する。「八嶋牟遲能神」は矢筈山南麓の谷川を活用したのであろう。何れにせよ狭い土地を如何にして耕地とするのか、大変な苦労があったのではなかろうか。

「鳥耳」とは一体何を意味しているのであろうか?…関連する地名から…、
 
鳥(鳥髪:戸(斗)の山稜)|耳(麓の縁にある耳の形)|神

…「戸ノ上山の麓にある耳の形の地」神と解釈される。現地名は門司区松崎町、大山祇神社辺りと推定される。御子に「鳥鳴海神」が誕生する。
 
鳥鳴海神

「鳴」=「那留」と読めと註記される。海を留めるところと解釈すれば…、
 
鳥(鳥髪:斗の)|鳴海(海辺の波止場)|神

…「大斗の海辺にある波止場」神となる。現地名は門司区大里戸の上・黄金町辺りであろう。当時は海岸線であったと推定したところである。

この神から以降は、立板に水の如くに系譜が述べられる。そして「天」へ、更に「比比羅木」(新羅)へ飛び、最後はまた「天」(西側)に舞い戻る系譜となり、消え去ってしまう。それは出雲に降臨した速須佐之男命の系譜が…少なくとも古事記が語る歴史の中で…途絶えたことを意味する。天神達に新たな手立てが求められた、と告げているのである。



2018年12月14日金曜日

胸形奧津宮神:多紀理毘賣命(阿遲鉏高日子根神・高比賣命) 〔294〕

胸形奧津宮神:多紀理毘賣命(阿遲鉏高日子根神・高比賣命)


ともあれ、一息ついた大国主命の娶りの記述が始まる。この一連の系譜については、従来より全く解読されて来なかったところである。手も足も出ない有様であろう。所詮は出雲のローカルな伝承を埋め込んだ、と言う解釈に止まっているのである。



多数の神々が登場することもあって一度に述べずに幾度かに分けることにして、先ずは胸形の比賣から・・・それは胸形の地の詳細を語っていることを気付かされるのである。

古事記原文…、

故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。

天照大御神と須佐之男命の宇気比で誕生した比賣に胸形之奥津宮に坐す多紀理毘賣命が登場した。最初に生まれた比賣であり、まさに天照大御神直系の後裔であろう。代々世襲されて「多紀理」に居た由緒ある毘賣が大国主命の后となったと思われる。


<胸形三柱神>
現在の奥津宮、中津宮は沖ノ島、大島となっているが、上図に示すように古事記のそれらは釣川沿いに並んだ「三前大神」であったと紐解いた。

奥津宮(西)があったと推定した場所はJR赤間駅(東)と直線距離2km弱、現在まで宗像の中心地である。宗像は赤間の山間を開拓し栄えて来た場所である。

宗像は日本の歴史上唯一の不動点と見做したが、真のそれは「邊津宮」辺りのみと言うことになろう。

異なる表現をすれば宗像(胸形)を信仰の地として海辺の狭い土地に閉じ込めた策略であったとも言える。

安萬侶くんもさることながら日本書紀の編纂に携わった連中も並々ならぬ頭脳の持主だった思われる。

JR赤間駅から東に4km強のところに八所宮がある。神倭伊波禮毘古命が幾年か坐した「阿岐国之多祁理宮」があったとした宮である。宗像の主要な地に、周到に配置された場所を伝えていると思われる。

さて、御子に阿遲鉏高日子根神、妹高比賣命(下光比賣命)の兄妹が誕生する。
 
阿遲鉏高日子根神(迦毛大御神)
 
阿(台地)|遲(治水された)|鉏(鉏の形)|高(高い)|日子(稲穂)|根(根付く)|神

<多紀理毘賣命の御子>
…「高い山稜を持つ鉏の形をした台地を治水し稲穂を根付かす」神と紐解ける。坐したところは現在の天満宮辺りではなかろうか。

釣川の下流域であり、その川面は山麓の際にまで達していたと推測される。この神の居場所は想定以上に狭い場所であっただろう。

迦毛大御神」とも言われたと記される。今に繋がる神でもある。「大御神」が付くのは天照大御神と二人だけのようである。

鋤いて離れた島(当時)にある天満宮から見ると「鱗」が出会ったような位置になる。
 
迦(出会う)|毛(鱗)

…と紐解ける。今に繋がる「カモ」であるが、その名称の謂れを告げている。

元来「胸形君等之以伊都久三前大神」と記されたところであり、奥・中・邊津宮の三つ揃えの一つに坐す多紀理毘賣命の御子として納得される場所であろう。そして天照大御神の奔流であることを示す「大御神」の命名、かもしれない。
 

高比賣命(下光比賣命)

「鉏高」の近隣と思われるが「下光比賣命」は何を意味しているのであろうか?…「光」=「火+ー」と分解してみると…、
 
下(麓)に[ー]がある火


…の比賣命と読める。[ー]は山稜を横切る谷間を模したのであろう。「火」(秋津)の下側に括れた場所に座していたと思われる(図を参照)。宗像市田島の「宿の谷」と呼ばれるところである。高比賣命に含まれる「高」から坐していたのは、現在の上高宮がある小高いところではなかろうか。

この兄妹は後の説話に登場する。天神が葦原中国に送り込んだ天菩比神が音信不通となり、更に送り込んだ天菩比神も同じく連絡がない。これに怒った高木神が放った矢が天若日子に当たって亡くなってしまうという話である。

その天若日子の妻となっていたのが高比賣命で、葬儀に出席した阿遲鉏高日子根神が些細なことながら一悶着起こしたと言う。葦原中国(出雲)の統治が難航している状況を伝えている段である。邇邇藝命の降臨前夜である。