2018年12月25日火曜日

少名毘古那神・坐御諸山神 〔298〕

少名毘古那神・坐御諸山神


大国主命がいよいよ国造りを始めた時に二人の助っ人が登場する。一人は神産巣日神の子、少名毘古那神であり、もう一人は少々得たいが知れない御諸山に坐す神と記される。それぞれに意味があっての登場なのであろうが、一体それは何であろうか?・・・。

古事記原文[武田祐吉訳]…、


故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」
故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
[そこで大國主の命が出雲の御大(みほ)の御埼においでになった時に、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾の皮をそっくり剥いで著物にして寄って來る神樣があります。その名を聞きましたけれども答えません。また御從者の神たちにお尋ねになったけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしよう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでお尋ねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。依ってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でもわたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなたアシハラシコヲの命と兄弟となってこの國を作り堅めなさい」と仰せられました。
それでそれから大國主とスクナビコナとお二人が竝んでこの國を作り堅めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡つて行つてしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田の案山子のことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすつかり知つている神樣です]

少名毘古那神*の登場。一寸法師かと思えるほどの記述である。しかも誰も名前を知らない、という特異な設定である。すぐに帰ってしまうところもあって何だか狐につままれたような気分になるところである。が、重要なことを幾つか告げている。その一つが出雲国への接岸場所である。

出雲之御大之御前

出雲之御大之御前の「御大之御前」は何と解釈するのか?…頻出する「御」=「御する(統べる、操る)、臨む(面する)」、「大」=「たいらな頂の山」とすると…「御大之御前」は…、
 
御(臨む)|大(平らな頂の山)|之|御(面する)|前
 
<出雲之御大之御前>
…「平らな頂の山(戸ノ上山)を臨むところの前に面する地」と紐解ける。

図に示したように推定した当時の海岸線は御所神社近隣で大きな入江を作っていたと思われる。

また、入江を囲むように突き出た岬があり、それを「御前」と表記したのであろう(出雲全体は下図参照)。

後の安徳天皇が坐した場所は、この地近隣の御所神宮と言われる。大国の中心の地である。「御大」はそれを掛けた表記と推測される。

通説は、全く意に介せず出雲の中心地から遠く離れた「美保」の地に比定する。これでは伝わらない、大切なことが・・・。

また、「御大(みお)」=「澪(みお)」=「水脈(船の水路)」と重ねられているようでもある。入江の中で川の流れが作った水路であり、それを伝って接岸するのである。「澪標」=「澪つ串」であり、水路表示と言われるものである。ブログの方でも幾度か取り上げた万葉歌で詠われた「身を尽くし」である。
 
天之羅摩船

<出雲俯瞰図>
蔓芋で作った船?…更には蛾の皮の服?…いくら神話と雖も少々短絡的な解釈であろう。

これが実しやかに語られているのが現状である。「羅摩」とは?…、


羅(連なる)|摩(接する)

…「連なり接した」船と読める。丸木舟ではなく板を張り合わせた、所謂構造船と言われる船のことを意味していると解る。

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和船
和船(わせん)とは、日本において発達し、幕末以後の洋式船舶の導入の前まで、移動や漁業に用いられた構造船及び準構造船の総称である。

和船はその構造において海外の船と大きく異なる形で発展した。応力を、海外の船では、竜骨や肋材といった梁部材で受けるという構造であり、これは大型化を容易にした。一方和船は、有史以前の丸木舟からの発達である所までは同様であったが、その後に、そのような部材は持たず厚板を必要な強度で継ぎ合わせた構造で発展を遂げた。

船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、諸手船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は基本的には全てそのような基本構造のもとにあった。和船はこのような基本構造のもとに日本各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称である。Wikipedia
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「內剥鵝皮剥爲衣服」は「鵝」=「鵞鳥」であろう。何のことはない、ダウンジャケットを身に纏っていたと告げているのである。

常世国の少名毘古那神が如何に先進のものを伝えたかを語っている。一寸法師がやって来た!…ではなく、大国主命が必要とするものを携えて、出雲の御大之御前に出向いて来た。少名毘古那神の所在は下記に述べる。

更には多邇具久(ヒキガエル)、久延毘古(案山子の神名)、山田之曾富騰(案山子の古名)、神產巢日御祖命まで登場するという豪華さ、案山子は古老の比喩なんでしょうか・・・。害虫駆除、稲穂を鳥から守る技術に長けた連中であろう。

少名毘古那神は最新の稲作技術を伝えに来たのである。神産巣日命は食料の神と紐解いた。専門は穀物でその種子を集めるのが得意、かどうかは不詳であるが、やはり大国主命支配下の出雲の食糧難を伺わせるものと思われる。

説話の内容から類推すると耕地の開拓はさることながら、収穫時の歩留まり向上であろう。何らかの手を打たねばならない時期に差し掛かっていたと推測される。大国主命の最大の悩み、と言える。案山子の効能を伝えたらサッサと「常世国」に引き上げたとのこと。「常世國」これが初出である。
 
常世國

常世」は既出で、既に紐解いた。神の国、あの世…様々だが現実には存在しないところとして認識されて来た国ではなく、「天」にある地域を示す。
 
常(大地)|世(挟まれて縊れたところ)

…現地名壱岐市勝本町仲触にある地とした。島と島が繋がったようなところと見られる。その地に複数の古代の遺跡が現存している。古事記が描く時代よりずっと以前からの地と理解できる。思金神など優秀な人材が集まっているところと位置付けられているようである。


後の垂仁天皇紀の求人高倍率の時期に常世国の「橘」を求める説話が出て来る。上記の背景を知るとその説話の解釈もすんなりと理解できるものとなるのではなかろうか・・・。
 
少名毘古那神*

少名毘古那神
「少名毘古那神」とは?…「名」=「三角州」として解釈すると…、
 
少(数少ない)|名(三角州)|毘古(田を並べ定める)|那(ゆったり)|神

…「数少ない三角州の傍らで田を並べ定めてゆったりとしているところ」の神と紐解ける。

図に示した場所は、常世国では数少ない広く長い谷間の地形である。後の常世国の「橘の君」の候補の一つであろう。先進の稲作技術の指導者であったと伝えているのである。稲穂を守るだけではなく、物知りの案山子を残して、サッサとご帰還、納得である。
 
御諸山神

と言ってる間に「御諸山神」が海上を照らしながらやって来て、自分を祀れ、宣ったとか。

於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山神也。
[そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。そうしなければ國はできにくいでしよう」と仰せられました。そこで大國主の命が申されたことには、「それならどのようにしてお祭を致しましよう」と申されましたら、「わたしを大和の國の青々と取り圍んでいる東の山の上にお祭りなさい」と仰せられました。これは御諸の山においでになる神樣です]

御諸山に坐す神とは?…ここではその名前を明らかにしないが、この後も引き続き登場する「大物主大神」であろう。そして常に祭祀しろと告げるのである。古事記は、一体何を語ろうしているのであろうか?…後に詳細を述べるとして、「大物主大神」の役割は極めて重要なことを表わそうとしていることには間違いない。

通説はこの大神の実体はなく大国主命の「言霊」のような解釈を行って来た。この大神から皇統に関わる比賣が誕生するのであるが、日本書紀に至っては、その比賣の父親に事代主神を当てる。神話の時代、皇統の乱れなど意に介せず、の感である。これら含めて後の記述に譲る。


<御諸山>
さて、「御諸山」の場所を特定するにはこの段階では不可である。後の崇神天皇紀に大変な国難にぶつかる。

疫病が蔓延してしまい、その時に現れるのがこの「御諸山」の神で同じく祭祀しろと言いつける

ここでは結論だけを記す。伊邪那岐【神生み・黄泉国】で登場した黄泉比良坂の先の尾根にある三つの頂上を持つ山(現在名谷山)である。

後に登場する美和山(現在名足立山)と併せて紐解いた結果である。

上記に「倭之青垣東山上」と記される。これに従って「倭」に御諸山があったとされて来たようであるが、「倭」は倭国ではない。「青垣」=「取り囲む山稜」黄泉国を取巻く山稜である。
 
しなやかに曲がる山稜の東にある山の上

…と解釈する。美和山の「和」も同じ山稜を模した表記と思われる。この御諸山の場所、それが極めて重要な意味を含んでいることが後に明らかになる。


少名毘古那神*

修正あり。こちらを参照願う。

<少名毘古那神>

伊波多多須 須久那美迦微