2021年12月29日水曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(28) 〔565〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(28) 


天平十二年(西暦740年)八月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

秋八月甲戌。和泉監并河内國焉。癸未。大宰少貳從五位下藤原朝臣廣嗣上表。指時政之得失。陳天地之災異。因以除僧正玄昉法師。右衛士督從五位上下道朝臣眞備爲言。

八月二十日に和泉監を河内國に併合している。靈龜二(716)年に河内國の三郡を分置したが、旧に戻している(こちら参照)。二十九日に大宰少貮の藤原朝臣廣嗣が上表し、時の政治の得失を指摘して天地の災害や異変について陳べている。それによると災害や異変の原因である僧正の玄昉法師と右衛士督の下道朝臣眞備を追放するように、と言上している。

藤原式家の嫡男である「廣嗣」は、天平十(738)年四月に”式部少輔・大養徳守”に任じられていたが、”大宰少貮”と記載されている。下記に天皇自らが、その理由を述べられているが、素行の悪さが原因で左遷されていたことが分る。そうすれば、益々反逆することになったのであろう。本人は、天下のために進言しているつもりなのだから。

九月丁亥。廣嗣遂起兵反。勅以從四位上大野朝臣東人爲大將軍。從五位上紀朝臣飯麻呂爲副將軍。軍監軍曹各四人。徴發東海。東山。山陰。山陽。南海五道軍一萬七千人。委東人等持節討之。戊子。召隼人廿四人於御在所。右大臣橘宿祢諸兄宣勅授位各有差。并賜當色服發遣。己丑。勅從五位上佐伯宿祢常人。從五位下阿倍朝臣虫麻呂等。亦發遣任用軍事。」從五位下神前王賜姓甘南備眞人。補攝津亮。乙未。遣治部卿從四位上三原王等奉幣帛于伊勢大神宮。己亥。勅四畿内七道諸國曰。比來縁筑紫境有不軌之臣。命軍討伐。願依聖祐欲安百姓。故今國別造觀世音菩薩像壹躯高七尺。并寫觀世音經一十卷。乙巳。勅大將軍大野朝臣東人等曰。得奏状知遣新羅使船來泊長門國。其船上物者便藏當國。使中有人可採用者。將軍宜任用之。戊申。大將軍東人等言。殺獲賊徒豊前國京都郡鎭長大宰史生從八位上小長谷常人。企救郡板櫃鎭小長凡河内田道。但大長三田塩篭者。着箭二隻逃竄野裏。生虜登美板櫃。京都三處營兵一千七百六十七人。器仗十七事。仍差長門國豊浦郡少領外正八位上額田部廣麻呂。將精兵卌人。以今月廿一日發渡。又差勅使從五位上佐伯宿祢常人。從五位下安倍朝臣虫麻呂等。將隼人廿四人并軍士四千人。以今月廿二日發渡。令鎭板櫃營。東人等將後到兵。尋應發渡。又間諜申云。廣嗣於遠珂郡家。造軍營儲兵弩。而擧烽火徴發。國内兵矣。己酉。大將軍東人等言。豊前國京都郡大領外從七位上楉田勢麻呂。將兵五百騎。仲津郡擬少領无位膳東人。兵八十人。下毛郡擬少領无位勇山伎美麻呂。築城郡擬少領外大初位上佐伯豊石。兵七十人。來歸官軍。又豊前國百姓豊國秋山等殺逆賊三田塩篭。又上毛郡擬大領紀宇麻呂等三人。共謀斬賊徒首四級。癸丑。勅筑紫府管内諸國官人百姓等曰。逆人廣嗣小來凶惡。長益詐姦。其父故式部卿常欲除弃。朕不能許。掩藏至今。比在京中讒乱親族。故令遷遠。冀其改心。今聞。擅爲狂逆。擾乱人民。不孝不忠。違天背地。神明所弃。滅在朝夕。前已遣勅符。報知彼國。又聞。或有逆人。捉害送人。不令遍見。故更遣勅符數十條。散擲諸國。百姓見者。早宜承知。如有人雖本与廣嗣同心起謀。今能改心悔過。斬殺廣嗣而息百姓者。白丁賜五位已上。官人隨等加給。若身被殺者賜其子孫。忠臣義士。宜速施行。大軍續須發入。宜知此状。

九月三日に「廣嗣」が遂に兵を動かして反乱している。天皇は勅を下し、大野朝臣東人を大将軍に、紀朝臣飯麻呂を副将軍に、軍監・軍曹は四人づつ任じて、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道から一万七千人を徴発し、「東人」等に節刀を授けて「廣嗣」等を討たせている。四日に二十四人の隼人を天皇の御在所に召し出し、右大臣の橘宿祢諸兄(葛木王)が勅を宣べ、それぞれに位階を授けると共に、それに応じた色の服を賜り、討伐に出発させている。

五日に佐伯宿祢常人(豐人に併記)阿倍朝臣虫麻呂(豐繼に併記)等もまた軍事を担当させるために出発させている。この日、神前王に「甘南備眞人」姓を賜い、攝津亮に任じている。十一日に治部卿の三原王(御原王)等を遣わして伊勢大神宮に幣帛を奉納させている。

十五日に四畿内・七道諸國に次のように勅されている・・・此の頃、筑紫周辺に無法の臣下が現れたので軍に命じて討伐させている。仏のありがたい助けにより人民を安泰にさせようと願っている。そのために國ごとに高さ七尺の観世音菩薩像を一体造るとともに観世音経十巻を写経するようにせよ・・・。

二十一日に大将軍の「東人」等に以下ように勅されている・・・奏状によって遣新羅使の船が長門國に停泊している。その船に積んである物は便宜に従って長門國に収蔵せよ。また使節の中で討伐のために採用すべき人があれば、将軍はその者を任用するがよい・・・。

二十四日に大将軍の「東人」等が次のように言上している・・・賊徒である豊前國「京都郡」の鎮長(律令制にはない。中国関連はこちら)でもある大宰史生の「小長谷常人」と「企救郡」の「板櫃鎮」の小長(鎮の次官)の「凡河内田道」を打ち殺した。但し「板櫃鎮」の大長の「三田塩篭」を箭を二本身に受けたまま原野に逃げ隠れた。また「登美・板櫃・京都」の三ヶ所の兵営の兵、千七百六十七人を捕虜とした。捕獲した武器は十七種類であった。そこで「長門國豊浦郡」の少領の「額田部廣麻呂」に命じて精兵四十人を率いて、今月二十一日に出発して海を渡り増援させた。また勅使の「常人」と「虫麻呂」等に命じて隼人二十四人と軍士四千人とを率いて、今月二十二日に出発し、海を渡り、「板櫃営」(板櫃の軍営)に陣取らせた。「東人」等は後からやって来る兵達を率いて、その次に出発し、海を渡ろうと考えている。また間諜の報告によると、「廣嗣」は「遠珂郡」の郡家に軍営を造って、弩などの武器を準備し、烽火を挙げて国内の兵を調達している・・・。

二十五日に大将軍の「東人」等が次のように言上している・・・豊前國京都郡大領の「楉田勢麻呂」が兵を五百騎、「仲津郡」擬少領の「膳東人」が兵を八十人、「下毛郡」擬少領の「勇山伎美麻呂」と「築城郡」擬少領の「佐伯豐石」が兵を七十人を、それぞれ率いて官軍に帰順した。また豊前國の百姓の「豊國秋山」等が逆賊の「三田塩篭」を殺した。また「上毛郡」大領の「紀宇麻呂」等三人が共に謀って賊の仲間の首を四つ斬った・・・。

二十九日に筑紫府管内の諸國の官人・百姓達に以下のように勅されている・・・逆人の「廣嗣」は小さい時より凶悪で、成長するに及んでよく人をいつわり陥れるようになった。そのため、父の故式部卿(宇合)は常に「廣嗣」を朝廷から排除しようと願っていた。朕は、その願いを聞き入れることができずに今までかばい保護して来た。ところが京内でしきりに親族をそしり仲が悪いので、遠くに遷して彼が心を改めるようにと願っていた。しかし今、恣に凶悪な反逆をなして、人民の生活を騒がし乱していると聞いた。これは不孝・不忠で、天地の理に違背し、神々も受け入れないことである。「廣嗣」の滅亡は目前に迫っている。これは以前既に勅符を送ってかの國に報知した。しかしまた、「廣嗣」の仲間の謀反人が勅符を送る人を捉えて殺害し、広く行き渡らせないようにしていると聞く。そのためあらたに勅符数十通を諸國にまきちらせた。これを見た人民はその趣旨を早く承知せよ。もし、もとから「廣嗣」と心を同じくして謀反を起こした人であっても、今、心を改めて過ちを悔い、「廣嗣」を斬殺して人民の生活をやすらかにさせたいならば、無位・無官の庶民の場合は五位以上を賜り、官人の場合には、等級に応じてさらに高い位を加給しよう。もし、自身が殺されたなら、その子孫に下賜しよう。忠臣・義士は速やかにこの趣旨を実行せよ。大軍が引き続き出発して波乱の地に進入するであろう。汝等はこの状態をよくわきまえるべきである・・・。

さて、いよいよ「廣嗣」が武装蜂起したと伝えている。その地が豊前國であり、その地に住まう連中を一挙に登場させている。この國の所在は、現地名の京都郡みやこ町上・下高屋辺りと推定した。蔵持山の山稜を「豐」の地形と見做し、その前後の地を豊前國豊後國と呼称していたのである(こちら参照)。

<豊前國各郡>
上記で記載された順に各郡の名称を列記すると、京都郡企救郡仲津郡登美郡下毛郡上毛郡築城郡遠珂郡である。求められた各郡の配置は、右図に示す通りであるが、順次地形に基づく名称であることを述べる。

尚、後に宇佐郡が登場する。元正天皇紀に沙門法蓮が宇佐君の氏姓を賜ったと記載され、その周辺の地を郡建てされていたと思われる。併せて図に示した。

京都郡に含まれ、既出の文字列である京都=大きな高台が寄り集まっているところと解釈される。書紀の景行天皇紀に「豊前國長峽縣」が登場し、その地を「京」と号した、と記載されている。「豊國」を分割して前・後の國としたのでは、決してない。

各郡の由来は、その地から登場される人物名と共に読み解くこととし、「廣嗣」が武装した郡家があったとされている遠珂郡について述べてみよう。頻出の遠=辶+袁=山稜がゆったりと長く延びている様、既に用いられた珂=玉+可=谷間の出口に丸く小高い地がある様と解釈した。現地名の犀川大熊にその地形を見出すことができる。

それにしても福岡県東部において、現在用いられている地名に類似する名称が目白押しに並んでいるようである。北部の企救(半島)、中部の京都(郡)・仲津(小中学校名)、南部の築上(郡)・上毛(町)、そして西部の遠賀(郡)となる。これだけ一致すれば、「豊前國」は、この地のことである・・・これは論理ではない。

<京都郡:小長谷常人・楉田勢麻呂>
● 小長谷常人・楉田勢麻呂

京都郡の鎮長兼大宰史生である小長谷常人が早々に征伐されている。勿論、出自はこの郡と見做すと、既出の小長谷=[小]の字形(三角)に開いた長く延びる谷間と解釈した。

上図<豐前國各郡>に記したように、大きく別けて三つある蔵持山の谷間で、”小”に開いた谷間、即ち谷奥の山稜が三角に尖った谷間は、唯一である。

こちらの拡大した地図を見ると、他の谷間の奥の山稜は平らになっていて、”小”の尖った地形ではないことが解る。その谷間に常人=谷間で北向きに延びる山稜が並んでいるところが見出せる。これも幾度か登場した名前であり、「常」は頻出である。

郡の大領である楉田勢麻呂は、抵抗することなく帰順したと記されている。「楉」=「木+若」と分解される。更に「若」=「叒+囗」=多くの山稜が延び出ている様と解釈される。纏めると楉田=大きな山稜から細かく幾つもの延び出た山稜の傍らに田があるところと読み解ける。

頻出の勢=埶+力=押し上げられたような丸く小高い様であり、これらの地形を示すところが図に示した場所と推定される。「宇佐君」氏姓を元正天皇から賜った法蓮法師の出自は、その西側に当たる。宇佐は、豐前國京都郡の中心地を示す表記なのである。既に述べたが、「法蓮」は医術に優れ、民を救ったことから文武天皇紀に多くの田を与えられている。また英彦山修験の中興の祖であったとも伝えられている。

「玄昉」を排除しようとする「廣嗣」と、「宇佐君法蓮」を信望する「常人」が大宰府で職場を共にすることによって肝胆相照らすようになったのではなかろうか。豐前國の民にとって、重用される「玄昉」に対する不信の大きさを示唆している事件でもあろう。これが豐前國での蜂起の要因と思われる。

<企救郡・板櫃鎮>
<凡河内田道・三田塩篭-兄人
● 凡河内田道・三田塩篭

これらの人物は企救郡にあった板櫃鎮の小長と大長と記載されている。今に残る企救半島の「企救」であるが、文字列が示す地形を求めてみよう。

調べると、「企」の文字は、記紀・續紀を通じて、ほぼ全てが”企(キ)”の音として用いられ、地形象形表記としては、極めて稀であることが分る。多分、これが初登場であろう。

「企」=「人+止」と分解される。「人が爪先立っている様」を表し、「先を見て何かを計画する」という意味に展開する文字と知られている。現在では、この展開した意味で用いられていることになる。

地形象形的には、もっと直接的に解釈できるであろう。即ち「企」=「谷間で山稜が区切られている様」となろう。「救」の出現も少なく、あらためて解釈すると「救」=「求+攴」=「山稜が四方から寄り集まっている様」となる。

「球」=「玉+求」であり、丸く寄り集まった様となるが、「救」では、「寄せ集められて混在している様」を示していると解釈される。纏めると企救=谷間で区切られた地に山稜が寄せ集められているところと読み解ける。この地形を京都郡の東北に見出すことができる。

そして、この地に板櫃鎮があったと告げている。先ずは「板櫃」が示す地形を求めてみよう。既出の「板」=「木+反」=「山稜が麓で延びている様」と解釈した。初登場の文字である「櫃」=「木+匱」と分解される。「匱」は、書紀の天智天皇紀に蒲生郡匱迮野が記載されている。要するに「米櫃のような地に蓋をするように山稜が延びている様」を表わしていると解釈した。

纏めると板櫃=米櫃のような地に蓋をするように山麓の山稜が延びているところと読み解ける。そのものずばりの地形を図に示した祓川の川辺に見出すことができる。この地は、元正天皇紀の靈龜二(716)年五月の記事に「大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置不許往還。」と記載されていた場所と推定した(こちら参照)。「戍(ジュ)」=「武器を持って国境をまもる駐屯地」と解説されている。これを「鎮」と表記していると思われる。

板櫃鎮は、豐前・後國への部外者の侵入を阻止するための重要な拠点であり、本事件が発生する以前から武装されていたことが分る。更に憶測すれば、律令制施行に依らずこの地の自衛手段として不可欠な国防(防疫を含めて)だったのであろう。聖地英彦山を守る人々の地域だったと思われる。当然、官軍は、その「鎮」を壊滅することになる。

凡河内田道の「凡河内」は、既に登場した文字列である(こちら参照)。固有の地名と読んでは、全く意味不明となろう。凡河内=[凡]の文字形の谷間がある川に囲われたところと解釈した。国道が通って些か変形してはいるが、その地形を板櫃鎮の北側で確認することができる。田道=田が首の付け根のような窪んでいるところが出自の場所と推定される。

三田塩篭の幾度か登場の三田=田が三段に積み重なっているところと解釈した。既出の文字列である塩篭(鹽籠)=平らな地が取り囲まれているところと読むと、板櫃鎮の南側の山麓に見出せる。矢を打たれて遁走したが、結局は捕まって殺害されたと記載されている。後に関連するところを述べる。また、三田兄人が登場する。図に示した場所が出自と思われるが、「塩篭」との繋がりは不詳のようである。

<仲津郡:膳東人>
膳東人

仲津郡の擬少領だった人物で、戦わずに帰順したと記載されている。既出の文字列である仲津=谷間を突き通すように延びた川が合流する(水辺で筆のような形の)ところと解釈した。

すると、京都郡の北側、その谷間の出口辺りの高屋川沿いの地を示していると思われる。地図上では、上記の企救郡との境となる谷間に川を確認することはできないが、航空写真を見ると、間違いなく谷川が存在していることが伺える。

膳東人の頻出の膳=月+羊+言+言=山稜に囲まれた地に二つの谷間に耕地が延びている先で山稜の端に三角州があるところと解釈した。図に示した地形を表している。これも固有の地名でも、また膳(宮中で食膳の調理を司る職)を生業とする人の名称でも、決してない。

やたら登場の東人=谷間を突き通すようなところであり、この人物の出自の場所を特定することができる。山稜の起伏が明瞭であり、地形象形表記として、読み解く上で曖昧さが少ないようである。現地名は京都郡みやこ町下高屋であり、上高屋との境である。

<下毛郡:勇山伎美麻呂>
<上毛郡:紀宇麻呂>
<登美郡
● 勇山伎美麻呂・紀宇麻呂

勇山伎美麻呂下毛郡の擬少領で、部下を引き連れて帰順し、紀宇麻呂上毛郡の大領で、反逆人の首を四つ取ったと記載されている。その首は下毛郡の大領、上毛郡の擬少領なのかもしれない。

それはともかくとして、下毛=下流にある鱗のようなところ上毛=上流にある鱗のようなところと解釈すると、蔵持山の北麓で長く延びた山稜が丘陵のようになっている場所を示していることが解る。

「上(下)毛」とくれば、「上(下)毛野」の”野”を省くことはできないであろう。固有地名ならば省略はあり得ない。ましてや、”毛”を省いて「上(下)野」と繋げては、混乱が増すばかりである。

人物は登場しないが、登美郡があったと記載されている。古事記の登美能那賀須泥毘古、路眞人登美で用いられた表記である(こちら参照)。上・下毛郡の東側の長い谷間と思われる。極めて類似した地形を示している。尚、「登美」は現地名には残されていない。豐前國にあっては都合が悪いからである。残存地名が一部合致していることに注目する論旨の不確かさであろう。

勇山伎美麻呂の既出の勇(甬+力)山=突き通すように真っ直ぐに山稜が延びているところと読み解ける。伎美=谷間が二つに岐れて広がったところであり、図に示した場所が出自と思われる。紀宇麻呂の紀=糸+己=[己]の形に山稜が曲がっている様宇=宀+于=谷間に山稜が延びている様と解釈した。その地形が図に示した場所に見出せる。若干地形に変化が見受けられるが、基本的な様相に違いはないように思われる。

<築城郡:佐伯豐石>
● 佐伯豐石

築城郡の擬少領であった佐伯豐石も帰順したと伝えている。反逆に加わった連中は、早期に総崩れの状態になったようである。

築城の「築」=「筑+木」と分解される。頻出の「筑」を含んでいる。あらためて「筑」=「竹+巩」と分解され、更に「巩」=「工+丮」から成る文字と知られている。

「丮」=「両手を差し出す様」を表す文字要素である(こちら参照)。「工」=「T+一」の図形から「突き通す様」を模した文字である。頻出の筑紫では、「筑」=山稜が[筑]の文字形に延びている様と解釈し、多くの類似する地形の場所を表すと読み解いて来た。

そして、全ての該当場所が谷間がくっきりとした地形であり、文字形に合せることが容易であったが、築城が示す地形は、城=突き固められた台地を表している。どうやら、「筑」を用いずに「築」とした理由が潜んでいるようである。

「築」を文字形に頼らずに解釈すると、築=山稜の前にある両手を差し出して突き通すように山稜が延びている様と読み解ける。すると蔵持山北麓で上記の上・下毛郡の西側に延びている山稜の端の地形を表していると思われる。即ち、「築」は「山稜の端にある[筑]の地形」を示すために用いられていたことが解る。そして、丘陵地形になって、明確な文字象形ではなく、その文字要素に基づく解釈となったと思われる。

佐伯豐石の「佐伯」は「佐伯宿禰」一族と同名であるが、勿論、この人物は豐前國築城郡の出自であろう。佐伯=谷間にある左手のような山稜の傍で谷間がくっ付いているところと解釈した。「築」の左手に当たる山稜の傍で谷間がくっ付いている地形を表してる。何とも、本家の「佐伯」よりも地形的には明確であろう。豐石=段々になった高台が山麓にあるところと読めば、出自の場所は図に示した辺りと推定される。

<豊國秋山>
● 豊國秋山

板櫃鎮の大長であった手負いの三田塩篭を追い詰めて殺害したと記載されている。この人物は豐前國内ではあるが郡名がない地に居処があったのであろう。

豊國をそのまま読んでは、とんでもないことになる。”豊前國の豊國”となって、意味不明なのである。何故こんな名前が出現るのか?…これも固有の名称とすることから生じる齟齬であろう。歴史学は黙して語らず、である。

手負いの「塩篭」は、間違いなく祓川上流域へと遁走したと思われる。図に示したところに、正に名前通りの豊(豐)國=段差のある高台があるところ秋山=炎のように山稜が延び出た山が見出せる。

首謀者と思われる人物は皆殺害された。九月初めからその月内での出来事と記されている。巷間で伝えられている各地の配置からして、東海・東山道から徴発した大軍団(一万七千人)の移動(多分船?)を考えると時空を超えたようにも思われるが、仔細が不明でもあり、考察は控えることにする。勿論、上記で述べた現在の福岡県東部の出来事ならば、素直に受け取れる出来事であるが・・・。

<長門國豊浦郡:額田部(直)廣麻呂-塞守>
<長門國厚狹郡>
額田部廣麻呂

遣新羅使を乗せる船が停泊していた場所が長門國の豊浦郡にあったと伝えている。当然、精鋭の兵士達及び武器が積載される予定だったと推測される。

長門國は幾度も登場した國であり、現地名の北九州市小倉南区守恒・山手辺りにあり、その西側は、伊勢國の領域に接していると推定した。

するとここで登場した豊浦郡は、東側の谷間、尾張國との境にあったのではなかろうか。図に一部示したが、現在の標高10mを目安にして(青色の部分)、当時は石田川と稗田川の合流地点辺りまで海であったと推測される。

これで一気に豊浦郡の所在が浮かび上がって来た。何度も用いられる豊(豐)=段差のある高台であり、現在は広大な団地になってはいるが、その東側は崖の様相であることが確認される。また「額田部」の額=額のように張り出た様であり、段差の一つを表現していると思われる。以前に登場と同じく、額田部=[額]の麓にある田の近隣にあるところと解釈される。

浦=氵+甫=水辺で平らに広がった様とすると、図に示した領域がその地形を示していることが解る。額田部廣麻呂の出自の場所は、図に示した辺りと思われる。船の着岸地点を求めることも可能なようであるが、定かではない。ただ、興味深いのは、渡来の船は、大宰府近辺であり、出発待機は長門國豐浦であったことが伺える。勿論、足立山の西南麓をすり抜けて、”古小倉湾”に向かったのであろう。

後(称徳天皇紀)に額田部直塞守が銭・稲を献上して外従五位下の爵位と豊浦郡大領を任じられたと記載される。ひょっとすると直姓もその時に授けられたのかもしれない。塞守=両肘を張り出したように山稜が延びている地の前が塞がれているところと読み解ける。些か標高差が少なく判別に難があるが、図に示した場所が出自と推定される。

更に後に長門國厚狹郡が登場する。「豊浦郡」と共に蚕を養わせ、調の銅を止めて、代わりに真綿を出させることにしたと記載される。厚狹=分厚く広がった麓の平らな山稜に挟まれたところと解釈すると、豊浦郡の西側に当たる地域と推定される。

・・・と言うことで、まだまだ事件は続くようだが、一休み・・・。



 

2021年12月23日木曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(27) 〔564〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(27)


天平十二年(西暦740年)正月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

春正月戊子朔。天皇御大極殿受朝賀。渤海郡使新羅學語等同亦在列。但奉翳美人更着袍袴。」飛騨國獻白狐白雉。甲午。渤海郡副使雲麾將軍己珎蒙等。授位各有差。即賜宴於朝堂。賜渤海郡王美濃絁卅疋。絹卅疋。絲一百五十絇。調綿三百屯。己珎蒙美濃絁廿疋。絹十疋。絲五十絇。調綿二百屯。自餘各有差。庚子。天皇御中宮。授從四位下塩燒王從四位上。无位奈良王。守部王並從四位下。正五位下多治比眞人廣足正五位上。從五位上紀朝臣麻路。石川朝臣加美。藤原朝臣仲麻呂並正五位下。從五位下石川朝臣年足。佐伯宿祢淨麻呂並從五位上。正六位上藤原朝臣巨勢麻呂。藤原朝臣八束。安倍朝臣嶋麻呂。多治比眞人土作並從五位下。正六位上大伴宿祢三中。宗形朝臣赤麻呂。紀朝臣可比佐。大伴宿祢犬養。車持朝臣國人並外從五位下。」又以外從五位下大伴宿祢犬養爲遣渤海大使。癸夘。天皇御南苑宴侍臣。饗百官及渤海客於朝堂。五位已上賜摺衣。甲辰。天皇御大極殿南門觀大射。五位已上射了。乃命渤海使己珎蒙等射焉。丙辰。遣使就客館。贈渤海大使忠武將軍胥要徳從二位。首領无位己閼棄蒙從五位下。并賻調布一百十五端。庸布六十段。丁巳。天皇御中宮閤門。己珎蒙等奏本國樂。賜帛綿各有差。

正月一日に天皇は大極殿に出御して朝賀を受けている。渤海郡副使と新羅の学語(日本語を学ぶ者)も同じく列席していた。但し翳(舞うときに持つ羽飾り)をささげ持つ美人(高級女官)は、さらに袍(朝服の上衣)・袴を着て男装していた。飛騨國が「白狐」と「白雉」を献上している。

何故男装?・・・疫病による宮中の男性が不足していたのであろう。一般人の死者については、勿論記述されることはなかろうが、夥しい人数が亡くなっていたと推測される。当然、宮中参内の人々の数も激減していたのである。

七日に渤海郡副使等にそれぞれ地位に応じて位を授け、直ぐに朝堂で宴を催している。また渤海郡王に美濃特産の絁や絹糸、調として貢上された真綿を賜り、副使及び他の人々にもそれぞれ賜っている。

十三日、中宮で以下の叙位を行っている。鹽燒王を從四位上、奈良王(丹生女王に併記)・「守部王」を從四位下、多治比眞人廣足(廣成に併記)を正五位上、紀朝臣麻路(古麻呂に併記)石川朝臣加美(枚夫に併記)藤原朝臣仲麻呂を正五位下、石川朝臣年足(石河朝臣)・佐伯宿祢淨麻呂(人足に併記)を從五位上、藤原朝臣巨勢麻呂(仲麻呂に併記)・藤原朝臣八束(眞楯、北家の三男)・安倍朝臣嶋麻呂(廣庭の子。粳虫に併記)・多治比眞人土作(家主に併記)を從五位下、大伴宿祢三中宗形朝臣赤麻呂(胸形朝臣。養老五年、解工[用水工事]の匠として褒賞)・紀朝臣可比佐(古麻呂の子、飯麻呂に併記)・大伴宿祢犬養(三中に併記)・車持朝臣國人(益に併記)を外從五位下としている。また「大伴宿祢犬養」を遣渤海大使に任じている。

十六日に天皇は南苑に出御して侍臣と宴を行い、また朝堂において百官及び渤海からの客と宴を催している。五位以上の者に摺衣(染め草の汁で、草木・花鳥など種々の模様を染め出した衣)を賜っている。十七日に大極殿の南門に出御されて大射を観覧している。五位以上の者が射終わった後に渤海副使にも射させている。

二十九日に使者を客館に遣わして、遭難して亡くなった渤海大使・忠武将軍の胥要徳に従二位を、首領の己閼棄蒙に従五位下を贈位し、調布と庸布を与えている。三十日に中宮閤門に出御され、渤海の使者等が本国の楽を奏でている。また、それぞれに絹布などを賜っている。

<飛騨國:白狐・白雉>
飛騨國:白狐・白雉

飛騨國は、現在の北九州市門司区黒川西辺りにあったと推定した。しかしながら、この地の変形は凄まじく、住宅開発に加えて九州自動車が通り、また都市高速道路との門司ICもあって周辺が大きく変化していることが分る(こちら参照)。

と言うことで国土地理院航空写真を参照しながら、白狐白雉の地形を求めることにする。「狐」と「雉」が寄り添っているのであるが、既出の狐=犬+瓜=平らな頂の山稜が瓜のような形をしている様雉=矢+隹=矢のような鳥の形をしている様と解釈した。

すると、それらしき場所が見出せることが解った。少々見辛いのはご愛嬌として、それぞれ間に挟まれて場所を開拓して献上したものと思われる。山間の地ではあるが、現在広い住宅地になっているのは、早くから耕地とされていたからではなかろうか。

<守部王・大炊王>
● 守部王

舎人親王には多くの子が誕生し、御原王・三嶋王・池田王・船王が既に登場している(こちら参照)。「守部王」も、その一人と知られている。左図に伝えられている名前から求めた各々の出自の場所を示した。

地形が大きく変化した場所でもあり、例によって国土地理院航空写真(1961~9年)を参考に付加した。すると全員の出自場所を明確に求めることができたと思われる。

ここでは、地形図から推定可能な「守部王」と「大炊王」(後の淳仁天皇)の場所について述べることにする。

守部王守=宀+寸(肘)=肘を張ったように曲がる山稜に囲まれている様であり、その近辺()が出自の場所と推定される。後に即位して淳仁天皇となる大炊王炊=火+欠=火を吹くように谷間が延びている様大=平らな頂の山稜とすると、図に示した場所が出自と推定される。

若干、地形の変化の影響を受けているが、何とか判別できるように思われる。60年代の航空写真を参照すると、より確実である。残りの厚見王御浦王室女王飛鳥田女王は、ご登場の際に詳細を述べる。

二月己未。己珎蒙等還國。甲子。行幸難波宮。以知太政官事正三位鈴鹿王。正四位下兵部卿藤原朝臣豊成爲留守。庚午。給攝津國百姓稻籾各有差。丙子。百濟王等奏風俗樂。授從五位下百濟王慈敬從五位上。正六位上百濟王全福從五位下。是日。車駕還宮。辛巳。賜陪從右大臣已下五位已上祿各有差。
三月辛丑。以外從五位下紀朝臣必登爲遣新羅大使。

二月二日に渤海の使者等が帰国している。七日に難波宮(難波長柄豐碕宮跡地)に行幸されている。知太政官事の鈴鹿王と兵部卿の藤原朝臣豊成とを留守官に任じている。十三日に攝津國の人民に稲籾を与えている。量は人によって差があったと記している。

十九日に百濟王等が風俗(百濟の習俗)の音楽を演奏し、百濟王慈敬()に従五位上、百濟王全福()に従五位下を授けている。この日、天皇は平城宮に帰還されている。二十四日に行幸に随った右大臣(橘宿祢諸兄)以下、五位以上の官人に等級に応じて禄を賜っている。

三月十五日に紀朝臣必登を遣新羅大使に任じている。

夏四月戊午。遣新羅使等拜辞。丙子。遣渤海使等辞見。
五月乙未。天皇幸右大臣相樂別業。宴飲酣暢。授大臣男无位奈良麻呂從五位下。丁酉。車駕還宮。

四月二日に遣新羅使等が出発の暇乞いをしている。遣渤海使等が出発の暇乞いをしている。

五月十日に天皇は右大臣(橘宿祢諸兄)の「相樂」(古事記の山代國之相樂)の別荘に行幸し、酒宴を行って、酒がまわり気分がほぐれてよくなった時に、大臣の子、奈良麻呂(無漏女王に併記)に従五位下を授けている。十二日に宮に帰られている。

六月庚午。勅曰。朕君臨八荒。奄有萬姓。履薄馭朽。情深覆育。求衣忘寢。思切納隍。恒念何荅上玄。人民有休平之樂。能稱明命。國家致寧泰之榮者。信是被於寛仁。挂網之徒。保身命而得壽。布於鴻恩。窮乏之類。脱乞微而有息。宜大赦天下。自天平十二年六月十五日戌時以前大辟以下。咸赦除之。兼天平十一年以前公私所負之稻。悉皆原免。其監臨主守自盜。盜所監臨。故殺人謀殺人殺訖。私鑄錢作具既備。強盜竊盜。姦他妻。及中衛舍人。左右兵衛。左右衛士。衛門府衛士。門部。主帥。使部等不在赦限。其流人穗積朝臣老。多治比眞人祖人。名負。東人。久米連若女等五人。召令入京。大原采女勝部鳥女還本郷。小野王。日奉弟日女。石上乙麻呂。牟礼大野。中臣宅守。飽海古良比。不在赦限。甲戌。令天下諸國毎國寫法華經十部。并建七重塔焉。

六月十五日に以下のように勅されている・・・朕は八方の遠い果てまでに君臨し、万姓の人々の主となっている。薄氷を履み、朽ちた手綱で ようであるが、心では人々をおおい育もうと深く思い、早朝より衣を求め、寝ることを忘れて政治を行っているが、城の濠に落ちたように苦しんではいないかと痛切に思っている。また恒にどうして天の命に答えて、人民が休息と平安を楽しむようになるか、天命にかなって国家に安泰の栄をもたらすかを考えている。実際、寛仁の政治をゆきわたらせたならば、法の網にかかって処罰される人々も身命を保って、長生きできるであろう。また大きな恵みを施せば、窮乏の人々も租税などの厳しい徴発を逃れて安らかに暮らせるであろう。そこで天下に大赦を行うことにする。天平十二年六月十五日の戌の時(午後八時)以前の死刑以下の全ての罪を赦免せよ。また天平十一年以前の公私の負債の稲は悉くみな免除せよ。管理・監督下にある品物を管理している首長自身が盗み、また管理の任にある者が盗み、或いは故意に人を殺し、あらかじめ計画して人を殺し終わり、贋金造りの道具を既に用意した者、強盗・窃盗、他人の妻を犯した者、及び中衛舎人、左右兵衛・左右衛士・衛門府に所属する衛士・門部・主帥・使部等は赦の対象とはならない。また流人の穂積朝臣老(養老六年佐渡嶋へ配流)・「多治比眞人祖人・名負・東人」・久米連若女(天平十一年に下総國へ配流)等の五人は召して京に入らせている。「出雲國大原郡」の采女の「勝部鳥女」は故郷に帰らせている。ただし、小野王(宇遲女王に併記)・「日奉弟日賣」・石上乙麻呂(天平十一年に土左國へ配流)・「牟礼大野」・「中臣宅守」・「飽海古良比」は赦の対象としない。

十九日に天下の諸國に、國ごとに法華経を十部写し、併せて七重塔を建てるように命じている。

<多治比眞人祖人・名負・東人>
多治比眞人祖人・名負・東人

「多治比眞人」一族ではあるが、系譜は知られていない。上記の記述からすると、兄弟であろう。その直前に佐渡嶋に流された穂積朝臣老が記載されている。

同じ時、養老六(722)年正月に多治比眞人三宅麻呂が伊豆嶋に配流されている。「三宅麻呂」が續紀に登場するのは、この事件が最後であり、その後の消息、また、彼の子孫についても知られていないようである。

これだけの背景が整えば、祖人名負東人は、共に配流された「三宅麻呂」の家族であったと推測される。十八年の歳月は、子供達を立派に成長させていたのであろう。大臣「嶋」の子供等がわんさと登場する一方で、「三宅麻呂」に関連する人物は皆無であって、その周辺は、すっぽりと空いているのだが、果たして、三兄弟の名前が示す地形は?・・・。

祖人=谷間に段々に積み重なっているところであり、図に示した場所が出自と思われる。山稜の端が一段と高くなっている地形である。名負の「名」=「夕+囗」=「山稜の端」、「負」=「人+貝」=「谷間が二つに岐れている様」と解釈した。将軍吹負などの例がある。纏めると名負=山稜の端にある谷間が二つに岐れているところと読み解ける。図に示した場所と推定される。

頻出の東人=谷間を突き通すようなところであり、図に示した場所と思われる。現在はゴルフ場となっているが、基本の地形が残されて、三兄弟の出自の場所を突き止めることができたように思われる。「名負」は、後に能登守に任じられるなど幾度か續紀に登場する。

<勝部鳥女>
大原采女:勝部鳥女

「大原采女」を調べると、”出雲國の大原郡”を出自とする采女であったことが分った。書紀の斉明天皇紀に出雲國於友郡、文武天皇紀に意宇郡が記載されていたが、大原郡は、初出となろう。

大原=平らに広がった野原と読めることから、おそらく古事記の大年神一族が蔓延った地、前出の禰仁傑の背後の地と思われる。

頻出の文字列である勝部=盛り上がった地の周辺のところと解釈すると、図に示した山稜の端の高台が広がった場所の近隣と推定される。その背後の山腹に「鳥」の地形が見出せる。それらを合わせると勝部鳥女の出自の場所を求めることができたようである。

唐突に登場される采女なのだが、「乙麻呂」と「若賣」との事件に関わった人物と推測される。もしかすると「若賣」と同じく下総國に配流されていたのかもしれない。式家の物語を綴られているサイトがあるが、なかなかに面白い、ご参考まで。

<日奉弟日賣>
日奉弟日賣

書紀の天武天皇紀に財日奉造に「連」姓を授けたと記載されていた。齋宮の名代と言われた一族と知られているようである。

その近隣で弟日賣の地形を求めると、図に示した場所が見出せる。幾度か登場の弟=谷間でギザギザと山稜が延び出ている様と解釈した。

「財」が付かないのは、「財日奉造」の居処の特徴である、谷間を遮るような山稜がある地形ではないからであろう。

同じ流人でありながら、今回の大赦には含まれず、重罪であったのであろうが、詳細は不明である。引き続いて赦免されなかった人物が神祇に関わっていたと推測されるが、神稻(神代)に関する不正を行ったのかもしれない。

<牟礼大野>
● 牟礼大野

「牟禮」は、古事記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)の子、大中津日子命が祖となった牟禮之別に用いられていた。

「牟禮」は、辞書によると古代朝鮮語で「山」を意味して、地名となった例も多いとか?…当て字で解釈しては、日本の古代は支離滅裂、である。

「牟禮」は、修験道の本家、英彦山麓にある高台の地をしめすと解釈した(こちら参照)。現在は英彦山神宮の門前に広がる地となっている。現地名は田川郡添田町英彦山である。

大野=平らに広がった野は、些か漠然とした名前であり、特定するのが難しいが、おそらく牟禮の地の西端辺りではなかろうか。この人物についても、付加的な情報は全く得ることは叶わないが、上記と同様に神祇に関わっていたのではなかろうか。

<中臣宅守・中臣朝臣常>
● 中臣宅守

中納言の「中臣朝臣意美麻呂」の孫、刑部卿の「東人」の子と知られている(こちら参照)。十人以上の男子がいたようだが、その一人である。

罪の詳細は不詳だが、越前國に流されて間もない時期であり、この後の大赦で復活したとのことである。家系からして、この人物も神祇に関わっていた、と知られている。

頻出の宅=宀+乇=谷間に曲がって延びる山稜がある様守=宀+寸=肘を張ったような山稜に囲まれた様であり、図に示した場所が出自と推定される。

残りの息子達も多分この谷間に棲息していたのであろうが、また、ご登場の時に出自の場所を読み解くことにする。藤原朝臣不比等の一族と同様に、狭い谷間を抜け出て行った様子が伺える(吉日は「不比等」の娘)。

後(淳仁天皇紀)に中臣朝臣常が従五位下を叙爵されて登場する。「廣見」の子と知らている。既出の常=向+八+巾=北に向かって山稜が延びている様であり、図に示した場所の地形を表していると思われる。別名の都禰=広がって高台が寄り集まっているところであり、その地形の別表現であることが解る。

<飽海古良比>
飽海古良比

調べると阿曇一族に関わる人物だったようである。既出では和德史のように阿曇宿禰の近隣を本貫とする一族だったのであろう。それを背景に出自の場所を求めることにする。

飽海の「飽」=「食+包」=「なだらかな山稜が取り巻いている様」と解釈した。書紀の斉明天皇紀に記載された飽田郡などの例がある。

纏めると飽海=なだらかな山稜に取り巻かれた海と読み解ける。「和德史」の北側に当たる場所と推定される。現在の標高(約2m)からすると当時は汽水湖の状態だったと推測される。

頻出の文字列である古良比=小高い地がなだらかに広がって並んでいるところと読み解ける。出自の場所は、多分、図に示した辺りと思われる。さて、どんな悪さを行ったのか、不詳のようであるが、この後に登場されることもなく、闇の中である。












 

2021年12月17日金曜日

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(26) 〔563〕

天璽國押開豐櫻彦天皇:聖武天皇(26)


天平十一年(西暦739年)二月の記事からである。原文(青字)はこちらのサイトから入手、訓読続日本紀(今泉忠義著)、続日本紀2(直木考次郎他著)を参照。

二月戊子。詔曰。皇后寢膳不安。弥益疲勞。朕見此苦情甚惻隱。宜大赦天下救濟病患。自天平十一年二月廿六日戌時以前。大辟罪以下及八虐。常赦所不免者。咸赦除之。其癈疾之徒不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問量給湯藥。僧尼亦同。壬辰。勅。二月廿六日赦書云。敢以赦前事告言者以其罪罪之。宜暫可停。若百姓心懷私愁欲披陳者恣聽之。巡察使宜随事問知。具状録奏。勿依赦書罪告人。

二月二十六日に以下のように詔されている・・・皇后の寝食が不調で、疲労がいよいよ深まっている。朕はこの苦しみを見て、心中深く憐れみ悲しんでいる。そのために天下に大赦を行い、病の苦しみを救おうと思う。天平十一年二月二十六日の戌の時以前に発生した犯罪は、死罪以下の罪と八虐など普通の赦では免じられない者も、全て赦免せよ。また、廃疾の人々で、自活できない者には、その程度を量って物を施し救済する。そのため、その対象者を訪問し、程度に応じて煎じ薬を与えよ。僧尼に対しても同様とする・・・。

三十日に次のような勅を下している・・・二月二十六日の赦免の詔書には、「赦が発せられる以前の犯罪を告発する者は、その犯罪に相当する罰に処す」とあるが、暫くはそれを停止せよ。もし人民のうちで心に私的な愁いを懐いて、巡察使に心の中を打ち明けようとする者があったら、希望に任せてその訴えを聞け。巡察使はその事柄に従ってよく聞きただして、その内容を具に記録して、天皇に奏上せよ。赦免の詔書に定めたことだからと言って、申し出た者を処罰しないようにせよ・・・。

三月甲午。天皇行幸甕原離宮。丁酉。車駕還宮。癸丑。詔曰。朕恭膺寳命。君臨區宇。未明求衣。日昃忘膳。即得從四位上治部卿茅野王等奏稱。得大宰少貳從五位下多治比眞人伯等解稱。對馬嶋目正八位上養徳馬飼連乙麻呂所獲神馬。青身白髦尾。謹検符瑞圖曰。青馬白髦尾者神馬也。聖人爲政。資服有制。則神馬出。又曰。王者事百姓徳至丘陵。則澤出神馬。實合大瑞者。斯乃宗廟所祐。社稷所貺。朕以不徳。何堪獨受。天下共悦。理允恒典。宜賑給孝子順孫高年鰥寡惸獨。及不能自存者。其進馬人賜爵五級并物。免出馬郡今年庸調。自餘郡之庸。國司史生以上。亦各賜物。宜體此懷聿遵朕志焉。乙夘。天皇及太上天皇行幸甕原離宮。授外從五位上坂上伊美吉犬養從五位下。戊午。車駕還宮。庚申。石上朝臣乙麻呂坐姦久米連若賣。配流土左國。若賣配下総國焉。

三月二日に甕原離宮に行幸され、五日に戻られている。二十一日、以下のように詔されている・・・朕は天の貴い命を受けて天下に君臨している。それ故日の出前から衣服を着、日が暮れるまで食事のことを忘れるほどである。今、治部卿の茅野王(智努王)等の奏上を得たが、それによると[太宰少弐の多治比眞人伯(多夫勢に併記)等の上申を受けたが、<對馬島の目の「養德馬飼連乙麻呂」が捕獲した神馬は、身体が青色で、尾とたてがみが白色である>と言上している。謹んで『符瑞図』を検べると、〈青色の馬で、白い尾とたてがみを持つのは神馬である。聖人が政治をとり、財貨や服装に節度がある時には、神馬が出現する〉とある。また、<王者が人民を大切にして德が丘陵にまで及ぶと神馬が沢の中から出現する>とある。これは正に大瑞に相当するものである。]と奏上して来た。これはおたまやに祭られた祖先の助けであり、土地の神と五穀の神の贈物である。朕は不徳であって、朕一人で受けるのではなく、天下の人々共に悦ぶことが道理として常に変わらぬ掟に叶うのである。よって孝行な子と祖父母によく従う孫と高年齢の鰥・寡・惸・獨の人々、及び自活できない者には物を与えて救済せよ。また馬を進上した当人には位階を五階上げると共に物を与えよ。馬が出現した郡の今年の庸と調は免除せよ。對馬のその他郡は庸のみを免除せよ。國司の史生以上にそれぞれ物を与えよ。この思いをよく理解して身に付け、朕の志に進んで従うようにせよ・・・。

二十三日に天皇及太上天皇は甕原離宮に行幸され、坂上伊美吉犬養(伊美伎)に從五位下の内位を授けている。二十六日、帰還されている。二十八日に石上朝臣乙麻呂は「久米連若賣」(久米連奈保麻呂の娘)を犯した罪に坐して土左國に配流され、「若賣」は下総國に配流されている。

<對馬嶋:神馬(青身白髦尾)>
對馬嶋:神馬(靑身白髦尾)

類似の神馬が既に二頭記載されていた。一頭は甲斐國で”黒身白髦尾”、もう一頭は信濃國で同じく”黒身白髦尾”であった。「胴体が黒色、白色の鬣(たてがみ)と尾がある馬」と通常は解釈されているようだが、全くの誤りと断定した。

「髦」と「鬣」とは、全く異なる文字である。誤写で片付けるのであろうか・・・二度も?…いや、今回を含める
と三度になる。「髦」の意味するところが不明だから「鬣」に書換えたのなら、それらしいのだが、逆である。

今回は”靑身白髦尾”と記載されている。”青い馬”となっては、現実離れし、だから大瑞だ!と記載している。そのまま読んでは、史書ではなくなってしまうのである。

余談だが、多くの動物画を残したドイツのフランツ・マルクの作品に”青い馬”がある。ヒットラーが”青い馬などいるはずがない!”として、その政権下では不遇な立場にあったとか…更に徴兵されて戦死したのだから、短い生涯の間に残された作品は異彩を放っているようである。

その千年以上も前に現れた”青い馬”、聖武天皇は、発見者の五階の昇位とその喜びを民と共に分かち合っている。ところで、マルクは、何を”青”で表現しようとしたのか?…何故”青”で描いたのか?…また機会があれば、述べてみたい。

話を元に戻して・・・既出の靑=生+井(丼)=四角く取り囲まれた地から山稜が生え出ている様と解釈した。図に示した山稜に囲まれた地形を表していると思われる。現地名は対馬市厳原町久田である。そこに横たわっている神馬を見出すことができる。白髦尾=[鱗]のように生え出た尾のような山稜がくっ付いている(白)ところと解釈した。その地形も併せて確認することができる。

●養德馬飼連乙麻呂 前出の養德=谷間がなだらかに延びた地が四角く区切られているところであり、馬飼=馬の形の傍らでなだらかな谷間が狭まっているところと解釈した。これらを併せ持つ地が一族の居処と思われる。

大倭國を「大養德國」に改名したが、類似の地形を表す表記であることが確認される。図に示した谷間の出口辺りを表した表記と思われる。頻出の乙=乙の文字形のように曲がっている様であり、現在の久田小学校辺りが出自の場所と推定される。

「津嶋」と記載されて来た場所を「對馬嶋」に換えている。現在の表記である。「津嶋」は、対馬の上・下島の間にある「津」に着目した表記であるが、「対馬」は、その上・下島を表していると思われる。前記で述べたように、續紀が次第に元の地を拡大解釈しつつあるように感じられる。

<久米連若賣・藤原朝臣雄田麻呂>
● 久米連若賣

何ともスキャンダラスな記述であるが、少し背景を調べてみると、この女性は式家藤原朝臣宇合との間に「百川」(雄田麻呂。贈正一位・太政大臣)を産んでいる。「宇合」が亡くなった後の出来事だったようである。

未亡人を姦して罪に問われるとは、些か腑に落ちない話のようで、石上朝臣乙麻呂を陥れる謀略(橘宿祢諸兄)だったと推測されてもいる。まぁ、発覚したのが「宇合」の死後で、生前の密通とされたのかもしれない。

後に赦されて、最終従四位下まで昇進されたようである。その子、幼少から才能に溢れ度量があった「雄田麻呂」(母親の許で育てられたと推定)の尽力があったと言われているようである。「乙麻呂」も少し時期が遅れるが、赦されて最終従三位・中納言となっている。

さて、「久米連」は、神龜元(724)年に多くの「連」姓を賜った中に久米奈保麻呂が含まれていた。その娘が久米連若賣と知られている。若=叒+囗=多くの山稜が延びている様であり、「奈保麻呂」の西側の山稜の端の地形を示していると思われる。北側は菅生朝臣一族の居処だったと思われる。

夏四月甲子。詔曰。省從四位上高安王等去年十月廿九日表。具知意趣。王等謙沖之情。深懷辞族。忠誠之至。厚在慇懃。顧思所執。志不可奪。今依所請賜大原眞人之姓。子子相承。歴萬代而無絶。孫孫永繼冠千秋以不窮。戊辰。中納言從三位多治比眞人廣成薨。左大臣正二位嶋之第五子也。乙亥。令天下諸國改駄馬一疋所負之重大二百斤。以百五十斤爲限。戊寅。正六位上百濟王敬福授從五位下。正六位上田邊史難波外從五位下。壬午。陸奧國按察使兼鎭守府將軍大養徳守從四位上勳四等大野朝臣東人。民部卿兼春宮大夫從四位下巨勢朝臣奈氐麻呂。攝津大夫從四位下大伴宿祢牛養。式部大輔從四位下縣犬養宿祢石次爲參議。

四月三日に以下のように詔されている・・・高安王が去年の十月二十九日に奉った表を見て、具にその意図していることを知った。王等はへりくだった情により、皇族の地位を辞退しようと深く思っている。これは忠誠の極まりであり、ねんごろな心情は甚だ厚い。王等の思い詰めているところを顧みて考えると、その志すところを止めさせることはできない。今、請のままに「大原眞人」の氏姓を授ける。子が代々継承して、万代を経ても絶えず、孫も次々と永く受け継いで、千年を過ぎても終わりがないように、と願っている・・・。

七日に中納言の「多治比眞人廣成」が亡くなっている。左大臣の「嶋」の第五子であった(こちら参照)。十四日に天下の諸國に命令して、駄馬が背に負う荷物の重さを、大二百斤であったのを改めて百五十斤を限りとしている。十七日に百濟王敬福()に從五位下、田邊史難波(史部虫麻呂に併記)に外從五位下を授けている。

二十一日に陸奧國按察使兼鎭守府將軍で大養徳守の大野朝臣東人、民部卿兼春宮大夫の巨勢朝臣奈氐麻呂(少麻呂に併記)、攝津大夫の大伴宿祢牛養、式部大輔の縣犬養宿祢石次(橘三千代に併記)を參議に任じている。

五月甲寅。詔曰。諸國郡司。徒多員數。無益任用。侵損百姓爲蠧實深。仍省舊員改定。大郡大領少領主政各一人。主帳二人。上郡大領少領主政主帳各一人。中郡大領少領主帳各一人。下郡亦同。小郡領主帳各一人。辛酉。詔曰。天下諸國。今年出擧正税之利皆免之。諸家封戸之租。依令二分。一分入官。一分給主者。自今以後全賜其主。運送傭食割取其租。

五月二十三日に以下のように詔されている・・・諸國の郡司は必要以上に員数が多いので、任命しても益がなく、逆に人民の生活を侵し損ない、害をなうことが実に多い、そこで、旧来の人数を減じ、次のような定員に改める。大郡は大領・少領・主政が各一人と、主帳が二人。上郡は大領・少領・主政・主帳が各一人。中郡には大領・少領・主帳が各一人。下郡も中郡と同じ。小郡は郡領と主帳が各一人とする・・・。

三十日に以下のように詔されている・・・天下の諸國で、今年の正税出挙の利(稲)は、みな免除せよ。また諸家の封戸の租は令の規定によると、二等分し、一つは官に入り、一つは封戸の主に給していたが、これから以後は、全て封戸の主に与えるようにする。京までの運送の人夫の日当と食糧は、その租から割き取るようにせよ・・・。

六月戊寅。令諸國驛起稻咸悉混合正税。癸未。縁停兵士。國府兵庫點白丁。作番令守之。甲申。賜出雲守從五位下石川朝臣年足。絁卅疋。布六十端。正税三萬束。賞善政也。

六月十七日に諸國の駅起稲を正税の稲と混合して出挙させることにしている。二十二日に軍団の兵士を停止したために國府の兵庫は白丁(位のない一般の人民)から徴発して、当番を作り交替で守らせるようにしている。二十三日に出雲守の石川朝臣年足(石河朝臣)に絁・麻布・正税を賜っている。善政を褒めてのことである。

秋七月乙未。授外從五位下背奈公福信從五位下。正六位上新城連吉足外從五位下。癸夘。渤海使副使雲麾將軍己珎蒙等來朝。甲辰。詔曰。方今孟秋。苗子盛秀。欲令風雨調和年穀成熟。宜令天下諸寺轉讀五穀成熟經。并悔過七日七夜焉。

七月五日に背奈公福信に從五位下、新城連吉足(王吉勝に併記)に外從五位下を授けている。十三日に渤海使副使の雲麾將軍の己珎蒙等が来朝している。十四日に以下のように詔されている・・・今は正に秋の初めの七月で、稲は盛んに茂っている。この後も風や雨が順調で、穀物が成熟するようにありたいと願っている。そこで天下の諸寺に命じ、五穀成就経の転読と悔過(仏前で己の罪を懺悔して許しを乞う儀式)を七日七夜行わせよ・・・。

八月丙子。太政官處分。式部省蔭子孫并位子等不限年之高下。皆下大學一向學問焉。
九月庚寅朔。日有蝕之。
冬十月甲子。從四位下小野朝臣牛養卒。丙子。少僧都行達爲大僧都。丙戌。入唐使判官外從五位下平郡朝臣廣成。并渤海客等入京。

八月十六日に太政官が次のような処分を下している・・・諸司に就任せず、式部省に出仕して任官の機会を待っている蔭子・蔭孫や位子は年齢の上下に関わらず、全て大学に入学させて、ひたすら学問させよ・・・。

九月一日に日蝕があった、と記している。

十月五日に小野朝臣牛養(毛野に併記)が亡くなっている。十七日に少僧都の行達を大僧都としている。二十七日に入唐使判官の平郡朝臣廣成(平羣朝臣)及び渤海客等が入京している。

十一月辛夘。平郡朝臣廣成拜朝。初廣成。天平五年隨大使多治比眞人廣成入唐。六年十月事畢却歸。四船同發從蘇州入海。悪風忽起彼此相失。廣成之船一百一十五人漂着崑崙國。有賊兵來圍遂被拘執。船人或被殺或迸散。自餘九十余人着瘴死亡。廣成等四人。僅免死得見崑崙王。仍給升糧安置悪處。至七年。有唐國欽州熟崑崙到彼。便被偸載。出來既歸唐國。逢本朝學生阿倍仲滿。便奏得入朝。請取渤海路歸朝。天子許之。給船粮發遣。十年三月。從登州入海。五月到渤海界。適遇其王大欽茂差使。欲聘我朝。即時同發。及渡沸海。渤海一船遇浪傾覆。大使胥要徳等卌人沒死。廣成等率遣衆。到著出羽國。

十一月三日に平郡朝臣廣成が朝廷を拝している。詳細な経緯が記載されている・・・「廣成」は天平五年に、大使の多治比眞人廣成に随って入唐し、六年十月に使命を終えて帰国する時に、四つの船が同時に蘇州(蘇州市)を出発し、海に乗り入れたが、悪風が突然起こり、四隻の船は漂流してそれぞれを見失ってしまった。「廣成」の船の百十五人は崑崙國(ベトナム中部沿海地方)に漂着し、そこに賊兵が来て包囲され、ついに虜になった。船員は殺される者もあり、逃亡する者もあり、残った者のうち、九十人余りは南方の土地の悪い病(マラリアか?)に罹り死亡した。「廣成」等四人だけが漸く死を免れ、崑崙王に謁見することができ、わずかな食糧を与えられ、よくない場所に置かれた。天平七年になり、唐國欽州(広西壮族自治区)の唐に帰順した崑崙人がその地にやって来て、そこでこっそり助け出されて船に載せられて脱出し、ようやく唐國に帰ることができた。そうして日本の留学生の阿倍仲満(阿倍朝臣仲麻呂、船守の子。こちら参照)に逢い、そのとりなしで上奏して唐の朝廷に参入することができた。渤海経由の路を取って日本に帰ることを請願したところ、天子(玄宗皇帝)はこれを許可し、船と食糧を支給して、出発させた。十一年三月に登州(山東半島北部)より海に出て、五月に渤海の境域に到着し、たまたま渤海王大欽茂が使を派遣し、我が朝廷を訪れようとしていたので、直ぐにその使節に同行して出発した。「沸海」を渡る途中で、渤海の船の一隻が波にのまれて転覆し、大使の胥要徳等四十人が溺れて死んだが、「廣成」は残りの衆を率いて出羽國に到着した・・・。

およそ十二年前の神龜四(727)年九月の記事に渤海郡王の使者が”出羽國”に来着したのだが、”蝦夷”との境界にある地に上陸したために迎え撃ちされて三分の一ほどの人数となり、身包み剥がれた有様だったと記載されていた。この時に、渤海の船団は、出雲國(現北九州市門司区大里)に上陸し、現在の鹿喰峠を越えて”出羽國”に入ったと推察した(こちら参照)。おそらく今回も同様のルートで上陸を試みたのであろう。

更に今回は不幸な事件が発生し、”沸海”で遭難し、大使が亡くなっている。沸海=淡海と読むことができる。今度は、「廣成」が率いている故に”蝦夷”に襲撃されることはなかった。渤海使の侵入ルートは、即ち、新羅と肅愼國との往来のルートは天皇家が最も神経を尖らせるところであろう。

十二月戊辰。渤海使己珎蒙等拜朝。上其王啓并方物。其詞曰。欽茂啓。山河杳絶。國土夐遥。佇望風猷。唯増傾仰。伏惟。天皇聖叡。至徳遐暢。奕葉重光。澤流萬姓。欽茂忝繼祖業。濫惣如始。義洽情深。毎脩隣好。今彼國使朝臣廣業等。風潮失便。漂落投此。毎加優賞。欲待來春放廻。使等貪前。苦請乃年歸去。訴詞至重。隣義非輕。因備行資。即爲發遣。仍差若忽州都督胥要徳等充使。領廣業等令送彼國。并附大虫皮羆皮各七張。豹皮六張。人參三十斤。密三斛進上。至彼請検領。己夘。外從五位下平郡朝臣廣成授正五位上。自餘水手已上。亦各有級。正六位上祢仁傑外從五位下。

十二月十日に渤海使の己珍蒙等が朝廷を拝し、その王の手紙とその国の産物とを献上している。その手紙の文は以下のようであった・・・欽茂が申し上げる。山河が遥かに隔絶し、国土は遠く離れている。佇んで天皇の気高い人柄や民を導くはかりごとを望むと、仰ぎ見て尊敬の念が増すばかりである。慎んで思うに、天皇の尊い考えやこの上ない德は遠くまで広がり、代々立派な君王が現れて、その恩沢は全ての国民に及んでいる。欽茂はありがたいことに、先祖以来の業についで国を治めていることは、初めと変わっていない。義は国内に行き渡り、なさけは深く、常に隣国と友好の関係を保っている。いま日本の使者の「広業」(廣成)等が風や潮の状態が悪く、漂流没落して、渤海国に来た。常に丁寧にもてなし、来春を待って帰国させようと思ったが、使は前に進むことだけを欲し、今年中に帰国したいと強く望み請うた。彼等の訴えの言葉は重く、隣国との義理は軽くはない。よって旅行に必要の品を準備し、すぐさま出発させることとし、そこで若忽州都督の胥要徳等を指名して使とし、「広業」等を引き連れて日本に送らせた。併せて虎の皮と羆の皮をそれぞれ七張、豹の皮を六張、人参を三十斤、蜂蜜三石を付けて進上する。日本の国に到着したならば、調べて納めて頂きたい。

二十一日に平郡朝臣廣成に正五位上、その他の水手以上にもそれぞれ位を授けている。また「禰仁傑」には外従五位下を授けている。

<禰仁傑>
● 禰仁傑

この人物の素性は全く不詳のようであり、廣成の随員でもない。憶測を逞しくすると、渤海船及び乗員の救助に協力した出雲國の人だったのではなかろうか。

「禰氏」についても情報は少ないが、出雲國風土記に記載されている「神門古禰」一族に関わる人物だった、のかもしれない。勿論、史書であからさまにされることはない國別配置であろう。

そんな背景で敢えて名前が示す地形を求めてみよう。禰=示+爾=高台が大きく広がっている様と解釈した。この地形が見られるのは、出雲國、現在の北九州市門司区大里、門司駅周辺の地域と思われる。

速須佐之男命の孫であり、大年神の子の大山咋神の出自の場所と推定したところである。その地形を、残念ながら現在は住宅地となって地形が判り辛くなってはいるが、陰影地形図を援用すると、何とか山稜の端の起伏を確認することができる。

幾度か登場した仁=人+二=谷間が並んでいる様であり、図に示した場所がその地形を示していることが解る。初登場の「傑」=「人+舛+木」と分解される。「舛」=「人が両足を拡げて立っている様」を象った文字と知られている。纏めると傑=谷間で小高くなって人が足を拡げたような様と読み解ける。

これらの地形要素を満たす場所が図に示した山稜の端に見出せる。現在の標高からして、この山稜の先は、淡海であったと思われる。即ち、この人物の居処からすると、淡海のことを熟知し、多くの手勢を抱える棟梁であり、一隻を除き渤海船団の窮地を救ったのではなかろうか。既に正六位上の爵位を持ち、出雲國の住人として認知されていた、と告げている。

出雲國と出羽國は、現在の鹿喰峠を挟んで背中合わせの配置である(こちら参照)。これは、決してあからさまに記述するわけにはいかなかった。書紀は、さることながら、續紀も、その捻じれを解くことは回避しているのであろう。